はてなキーワード: ゼミとは
大きな胸と細い腰とほどよく丸みを帯びた尻。いわゆる、ボンキュッボンな体型にずっと憧れてきた。子どもの頃、かつてはそうだったという母の話を聞いていつかは私も女性らしい体型になれるものだと信じていた。
しかし、なかなか難しくどれだけ頑張っても私の胸は成長しなかった。いや、成長はしたのだが微乳なのだ。どれだけ肉をかき集めて寄せても、下着の中で一時的に留まるその肉たちは悲しいことにみかんくらいしかない。丸みを帯びたみかんは、下着を外すと一気に平べったくなる。留まってくれないのだ。筋トレなど頑張っているが、なかなかみかんたちはそのまま留まってくれない。
努力しないと留まらないみかんの持ち主故に、ずっと私はグラビアアイドルの体型に憧れてきた。性的消費とかではなく、ほんとにああいう体型になりたかったのだ。大きすぎる胸だと服や下着のサイズがないと聞くし大変だと思うが、持たざる者には憧れでしかない。大変申し訳ないが大変羨ましい。
そんな感じの私だが、大学の時に「そう私はこんな女の子になりたかったのだ」という同期がいた。まず入学式の時から「都会すごいこんな美女が普通にいる…というか絶対モデルさんとかやってるでしょ…」とびっくりした。目は大きく少し垂れ目でぽってり唇。長い髪はまっすぐで綺麗で、体型は私の憧れのボンキュッボン。……理想が、いる。大人っぽくでも顔は可愛くほどよく色気がある。す…すてき…と私は彼女に一目惚れ状態だった。
だが、話しかける勇気は皆無だった。スクールカースト下位で生きてきたため、まず学年でも、下手したら学部の中でも1番美しいかもしれない彼女を私は遠くからそっと見るだけだった。美しすぎて、尊い…となっていた。
そんな彼女と、なぜか同じゼミになった。うそだろ…と思いながら時々隣の席になりひたすら緊張していた。彼女がつけているシャネルのココマークのピアスや、Diorのロゴのリボンチョーカーが、ブランドロゴが全面に出ているはずなのにあまりにも上品で素晴らしい…と尊敬していた。高いヒールのブーツやパンプスを履きこなす彼女がとてもとても好きだった。優しく笑うおっとりした彼女もとても大好きだった。
憧れすぎて、言えなかった。気持ち悪いと思われたらどうしよう、と思うと言えなかった。
……たった一度だけ、彼女に褒められたことがある。お手洗いを利用した後に手を洗っていたらたまたま彼女が横に来たのだ。
「……いつも思うけどどうやったらそんな脚細くなるん?めっちゃ羨ましい。私すぐ太なってまうねん」
突然話しかけられて驚いた。いやあなたの脚めっちゃ細いがな、と。ちなみに私は普通の脚である。いや、脚はたぶん父が鬼のように長い故に若干人よりは長いが、細くはない。
そんなことない!○○ちゃんの方が細くて綺麗!!とか返したような気はする。なんせ覚えていないのだ、突然褒められたことにびっくりして。ただ、答えた後の彼女の笑顔が眩しかったことは覚えている。
さて、大学を卒業して数年。彼女が先日グラビアデビューした。いや卒業してからもInstagramもTikTokも実はフォローしていたしめちゃくちゃ綺麗…と思いながらいいねもしてきた。露出がどんどん激しくなっていくゆえあぁぁなんか見てしまってごめん…と思いながら持たざる者故に本当に綺麗なあなた…と思いながらいいねしてきた。
そんな中、突然のグラビアデビュー。個人的には、ようやく芸能界からお招きがきたのか…と納得している。だって、入学式の時本当に輝いていた。今まで小中高と会った同級生の中でも1番綺麗だった。たまたますれ違った女子アイドルよりも綺麗だった。なんでこの子が芸能界に行ってないんだ…?と本当に疑問だったしこの子が興味ないだけなのかなとも思っていた。
でもやっぱ光るものがある子は呼ばれるんだな…と思いながら今日も私はその子のインスタを見ている。ただ見てて寒そうなのでもう少しもこもこをこの季節は着てほしい。そしていつか彼女をテレビで見られる日が来ますように。
ただ、ただ魑魅魍魎であろう芸能界で彼女が変なことに巻き込まれませんように、幸せに活躍できますようにと田舎の片隅で毎日祈っている。
タイトル通りです。以下は惚気です。
ッッッッハア〜〜〜〜〜最高の15日間だった!!!!!!!!!!!!!!!!
みなさんは好きな人、いますか?シャープペンシルを握る右手の人差し指に触れてみたいとか、ふとした拍子にチラリと見えた控えめなピアスに目が釘付けになったとか、委員会も部活もゼミもサークルも部署も会社も違うけれど、これまでの人生で一度だけ交差したことがあって、ただその交差はわたしにとっては交差だけれども向こうにとってはただのすれ違いで、それでもいい、それでもいいから好きなんだ…………。と片思いし続けて早7年の爆美女と、ついに、お泊まりしました(??????????????)
いや急転直下すぎるな、ソシャゲの公式がおかしくなって投下した期間限定イベントじゃねえんだから。もうちょい流れ、しっかりしてんだろ。
えー、筆者は25歳北の限界労働系女子。朝から晩まで働けません。普通に無理です。限界です。気が狂ってたまに業務用コンドームとかむちむちバキバキ本格ディルドとか買ってます。最近は居住地区のラブホテル全館全室制覇を目指して深夜残業に勤しんでます!
そんな限界労働者ことわたくしにも心優しい友がおり。大学で出会った友人のうち数人とはいまだにやり取りをする仲なのですが、その中に、筆者が7年間恋焦がれた美女が、おるの、で、ございます。あ、あーーーーーーーーーーー、好き。
ほいでね、ある日美女とLINEをしていたところ、彼女は資格取得のために勉学に励んでおり、アルバイトやらなんやらに追われないところでじっくり勉強したいと。そいで、わたしはなんの気無しに「そしたらうちおいでよ!」と送ってしまったわけですよ。来るはずねえよ、だれが津軽海峡渡ってまで勉強しにくんだっつー話よ。したらば返信これ。
「お邪魔じゃなければ25歳労働者ちゃんのお家で、作業してもいいかな?2週間くらい……迷惑だよね……?」
はよ来い!いま来い!すぐに来い!!!
と叫びたくなる衝動を抑えて、いいよ^^と返信し、日程などを調整し、お客様用布団を揃え、お部屋を掃除し、車も洗い、いざ迎えにゆかん空港へ!
危うくひれ伏して神に祈りを捧げるところだった。危なかった。アッラーだかヤハウェだか天照大神だかカムイだかわかりゃせんがとりあえず半径1000キロ以内に存在するそこかしこの神と名の付くものすべて引っ張り出してきて松明に火を灯し三日三晩寝ずに踊り狂うところだった。
空港から帰宅後に始まった彼女との半・擬似同棲生活はもう、幸せでした。と言いたいところだがここで一つ。
わたしは、彼女への想いを伝えたことがなく、彼女もまた、わたしについてどのような感情を抱いているのか、確認すらしたことがなかった。
ジーザス。神は試練をお与えになる。
でも乗り越えられない壁はないってイチローも言ってたし!いざゆかん!斬り込み隊長!
社畜女「えーと、彼女ちゃんって、あれだよね大学のとき彼氏がいたとかなんとか。恋愛しなさそうだったから、なんか意外だったんだけど」
美彼女「ああ、懐かしい話だ。別れたよ、うん。なんか恋愛っていうか枠組みっていうか、微妙かもしれないなって気付いたんだよね」
社畜女「そうかー。ちなみにだけど、その枠組みには男子も女子も入る感じ?」
美彼女「入るね。入るけど、入ったらもう、しんどくなる気がする。だから入らなくてもいいなって思ってる、今は」
おかわりいただけただろうか………🍚
ごはんいただけただろうか………🍚
ンマア、そんなこんなで幕を開けてさっさと閉じかけた半擬似同棲生活。こちらとしてはかなりかなりめちゃくちゃ本当にどタイプで顔も見た目も内面も知性も趣味も彼女を構成するものすべてを吸収して逞しく生きているさまを見るだけでわたしはもう、なにか触れてはいけない神々しさの間近にいるような感覚になってしまうのですが。
神は恋愛については下界へ降りてこられることはなさそうで、25歳北の労働者はあっけなく振られました。結構ストレートに告白したつもりだったんだけどね?!だめでした。
でも告白した次の日も普通に2人でスーパー行って洋梨買って肉買って塩買ってラップ買ってトイレットペーパー買ってアイス買って帰ったよ。たまにドライブもしたよ。わたしの運転で神が酔ってしまわないか若干の心配をしつつ、ハンドルを初心者ばりに握りしめながら北の大地を東奔西走したわよ。楽しかったな。本当に。
夜眠るとき、彼女はお客様用のお布団で寝るのよ。わたしはベッドで。ただの友達だったら女の子同士だし小柄だしってことでベッドで一緒に寝ますけれども今回は事情が事情っていうかわたしがガチすぎたので布団は分けました。正しい判断だったと思います。
彼女がいる間、隙を奪えば手や唇のひとつやふたつ、なんならそれ以上だって踏み込めたはず。優しさのふりをして抱きしめることだって。でもそれをしなかったのは、彼女と構築していきたいのは刹那的かもしれない恋愛としてではなく限りなく永続的な人間関係を続けていきたかったから。
過去の話をする中で、お互い同性同士の恋愛に躊躇いがないことは確認できた。にゃるほどね。そしたらもう、あとは、わたしのことを好きになってもらうしかなくて、でも好きになってもらうために何かするとかは愚かな行為で、きっとわたしがわたし然としていればいつか彼女の目に留まるはずなのだ。そしてそれは彼女の目でなくとも、わたしとのすれ違いを交差だと感じてくれた誰かの目にも、映るはずなのだ。だからわたしは今日も明日も明後日も、美しく軽やかに、確固たる意志を持って、あるべき場所へと戻る人々を空港から見送る。
十年ぶりくらいに大学ゼミの同窓会があって、私は参加していなかったので後から友人伝えに聞いた話なんだけど。
自慢と受け取る人はそれで全然構わないから、ちょっと聞いてほしい。
5年くらい前まで、4-5年付き合っていた元彼がその中にいて、私のことを孤高の天才だ、天才すぎて何を考えているかわからなかった、きっと凡人のことなんて全然分からないんだろう、でもそう言うところが好きだったし今でも好きだみたいなことを同窓会でベロベロに酔っ払いながらずっとぼやき続けていたらしい。
それを聞いて、私も二十代前半はずいぶん小賢しい言動をしていたもんなとだいぶ恥ずかしい気持ちになったんだけど、同時に、私程度の人間を理解のできない天才と思って交際していたのかということにかなり衝撃を受けた。もっと言うと、その元彼は私と付き合いながら、昔流行った「孤高の天才女と凡人(実は凡人ではない)男のラノベ」のロールプレイをずっとしているつもりだったらしく、それに対してはかなり気持ち悪いなと思ってしまった。というかそのロールプレイをするなら、その男が天才女の生活面やコミュニケーション面を全て補うみたいな設定が必要な気はするけど、実際は全然そんなことはなかった(私の方が生活力も高かった)。
これで私が実際天才研究者とかだったりしたら多少は同情できる話なのかもしれないが、全然そんなことはなく、育休挟んでマミートラックに引っかかる程度の普通の会社員なんだよなあ……。とはいえ、確かにその元彼に比べたら人生をよくできるよう努力していたのは間違いなくて。別れたのもその辺が理由なんだけど。
言ってしまえば同じ大学、学部に入るくらいの共通の学力や環境があったはずなのに、特に自助も努力もしない男が、そこら辺にいる少しうまく人生を回そうと考えた程度の女を持ち上げて自分の想像世界のロールプレイに嵌め込んで満足していたのかと思うと本当に結婚しなくて良かったなと思った。
女は下方婚をしないってゾンビみたいに湧いてくるコメントをよく見るけど、相手持ち上げて低きに満足する男と一緒に暮らすのは普通に無理だ。特にその持ち上げられている側がそんな大した実力でないならなおさらキツすぎる。
逆に男はさ「実際のところ大したことない俺」を天才天才と口では持ち上げるけど、自分は特に家事も仕事も進んでしない女、みたいなの、なんだかんだやっぱり好きですか?どう?顔が可愛ければヨシ?
今回の話、男女逆の話だったら美談だったのでは?それどころか満足して結婚していた可能性すらあるのでは?と思ったので書いてみました。どうですか?
追記:そもそも「何故もっと批判されるべきなのか」については、【最後に】の後に追記した(2023/11/15)。
東京大学と東京芸術大学では、鮎川ぱて氏(以後、ぱて講師)による「ボーカロイド音楽論」という講義が開講されている。東京大学の方の講義はぱて講師による著書『東京大学「ボーカロイド音楽論」講義』においてその過去の内容が公開されている。このダイアリーの筆者(以後、「筆者」)は「ボーカロイド音楽論」の元受講生であり、書籍を購入し一読した。同講義はTwitter(現X)での実況が推奨されておりTwitter上で一つの活発な動きを毎年見せているが、「ぱてゼミ 批判」「ボーカロイド音楽論 批判」などと検索しても同講義に対する明確な批判のツイートはヒットしない(Twitterの検索システムが悪いという可能性は保留する)。書籍についても、これに批判的な書評はAmazonのレビューやブックメーターにわずかに存在するのみである。講義内容全体のレビューはそれらに譲るとして、本ダイアリーは、この「批判の少なさ」の原因について仮説を立てることを目的とする。
本ダイアリーは直接の筆者の特定を避けるため匿名の形式をとっている。内容について「そんなの当たり前じゃん」「その仮説は的外れだ」と思う読者もいるかもしれないが、このように書き残さなければ何も始まらないということでご容赦願いたい。また、筆者は全ての年度や東京芸術大学の講義を聴講したわけではないこと、このダイアリーの内容は主に『東京大学「ボーカロイド音楽論」講義』の初版第一刷(以下、書籍)に基づいていることを断っておく。
まず結論として、 「ボーカロイド音楽論」に対する批判の少なさの原因として、筆者は次の4点を提唱する。
1. 媒体:現地で行う音声形式の講義では記録に基づく批判が困難であるという点。
2. 受け手の資質:講義の対象となる学生や読者のほとんどはその議題についての非専門家であり、しかも批判に割くだけのリソースを持っていないという点。
3. 内容:この講義の内容が批判を先んじて封じてしまうように作られている点。
4. コミュニティ:この講義はボーカロイド音楽が好きな東大生のうち一部を迎え入れるコミュニティを形成する役割を同時に担っており、コミュニティと批判との相性が悪いという点。
以下、これらの点を順に見ていく。
書籍が発売される前、「ボーカロイド音楽論」(以下、この講義)は大学の構内の教室で開講されているのみであった(初回の何回かこそニコニコ動画で配信されたが)。そこではぱて講師の口頭でのみ内容が話され、レジュメは一枚も配られることなく、板書も最低限であった。言われたこと全てを紙に書きとるのはほとんど誰にもできないだろう。従って口頭の講義に基づく批判は、言った言わないの水掛け論になってしまいやすい。現に筆者がこのようなダイアリーを書くことができるのも書籍が発売され、何を書いてあり何を書いていないかを把握し見直すことが可能になったからである。
この講義は主として東京大学の教養学部の学生に対して開講されたものである。その多くはこの講義で取り扱った多くの思想や概念の(多くとも)全てについて専門家であるというわけではない。またぱて講師自身もそれら全ての専門家でないことは講義中に明言している(85ページ脚注5など)。従ってぱて講師によるそれらの援用が妥当でない可能性は常にあるが、そのような観点からの検討をすることは学生にとって難しいだろう(勿論専門家のみがそれらを扱うべきだという立場をとることは避けなければならないが)。さらに言えば、進振りのための勉強で忙しい学生にはわざわざこの講義を批判するためだけに捧げる時間も体力も残っていないということ(そしてこの講義そのものが大学が門を閉める時間まで延長していることもそれらのリソースを奪う一端となっていること)を指摘しなければならない。これは書籍の読者の多くについても同じである。
ここでは書籍でぱて講師が用いた概念の内容が批判を先んじて封じる性質を持つことと、ぱて講師が「論じるべき内容を論じなかった」ことが批判すべき点を覆い隠す機能を持っていることを指摘する。
まず、ぱて講師はテマティスム(テーマ批評)に則ってボカロ曲を評論するとしている。ぱて講師の言うテマティスムとは、以下に抜粋する通りである。
「テマティスムは、作家のメッセージをその意図の通りに読み取るということではありません。そうではなくて、むしろ、作家と作品の細部から、作家自身も気づいていなかったかもしれないテーマを抽出し、作品の価値を読み替えていく。それがテーマ批評という手法です。」(40ページ14行目-41ページ1行目)
さらに、この講義の鍵となる概念の一つとして「アンチ・セクシュアル」をぱて講師は提唱している。以下に書籍の抜粋を示す。
「本講義の当面のキーワードは『アンチ・セクシュアル』です。性や愛をめぐる通念を自明のものとせずに扱う感性が、ボカロシーンには多く見られ、そして支持されました。なにに比してかというと、いわゆるふつうのJポップに比してです。Jポップのチャートを見れば瞭然でしょう。ラブソングばかりです。」(42ページ8-12行目)
「『アンチ』といっても、それは必ずしも単純な否定のことだけを指しません。性愛を疑ってみたり、気持ち悪いもののように言ってみたり、ときにそれは、米津玄師において見られたように、アンビヴァレントな愛憎を差し向けるというかたちをとることもあるでしょう。」(43ページ2-4行目)
つまるところ、「テマティスムを用いれば、性や愛をめぐる通念を自明とせずに扱う感性(単なる否定に限らない)をボーカロイド音楽から読み取ることができ、そのような音楽がシーンの人気を博した。一方で「いわゆるふつうのJポップ」からはそのような読み取り方のできない曲が人気を博している。」という主張をぱて講師はしているということになる。この主張に当たって用いた「テマティスム」と「アンチ・セクシュアル」の二つの概念は、この主張に対する批判として想定される「作者はそこまで考えていないと思う」型の主張や「この曲は性や愛めぐる通念を否定しているとまでは言い切れない」型の主張を先んじて封じる機能を持つ。このため、読者がすぐに思いつく形での批判ができず、ぱて講師の主張に対する批判が少ないことに寄与していると考えられる。
もう一つ批判封じに寄与しているのは、「論じるべきところを論じていない」ということである。「いわゆるふつうのJポップ」についての記述に注目すると、ここでぱて講師が行わなければならないのは、
①「いわゆるふつうのJポップ」を「『アンチ・セクシュアル』な感性を持たないJポップ」以外の形で定義すること
②個別の楽曲評論を通じて「いわゆるふつうのJポップ」に該当する曲に「アンチ・セクシュアル」な感性が備わっていないことを論じること
③それが「Jポップのチャート」に非常に多く見られることを指摘すること
である。しかし書籍の中で「いわゆるふつうのJポップ」についての言及があるのはここのみで、上記3つ全てを行っていない(ぱて講師の言葉を借りれば、「瞭然」という「感覚を思考の俎上に載せ」ていない)。それもそのはず、「テマティスム」と「アンチ・セクシュアルな感性」を用いた読解だけではこのようなことは到底不可能だからである。「テマティスム」は確かに「作者の意図」に縛られない自由な評論の基礎であるが、それは同時に評論者次第でどうとでも言えてしまうことを意味する。同じ曲が違う評論家によって「アンチ・セクシュアル」であったりそうでなかったりする。もし「そうは言ってもこじつけってものがあるでしょ」と思うのであればそれは「良い評論」の基準として「テマティスム」以外の何かを想定していることになる。さらに言えば、「アンチ・セクシュアル」という概念の幅も広い。同じ言葉が賞賛にも皮肉にもなる世界で、「性や愛をめぐる通念を自明のものとせずに扱」っているかどうかを「テマティスム」のみで確定させるのは不可能だ。つまるところ、ぱて講師が「いわゆるふつうのJポップ」を論じないことは「テマティスム」の持つ脆弱性、あるいは、「何でも言えてしまうが故に何も言うことができない」性を(本人の意図とは無関係に)覆い隠し、批判を予防することに寄与していると言える。
現地での講義に付随する活動として、コンピレーションアルバムの作成やちょっとした食事会など、ボーカロイド文化が好きな東大生のためのコミュニティを積極的に提供する姿勢をぱて講師は見せている。それ自体はマイノリティたる若者を鼓舞するという目的からすれば妥当であるが、評論の面ではこれが裏目に出ている。余程肝が据わっていない限り人間は、自分を匿ってくれるコミュニティの発起人の言うことに盾突いたその先を恐れる。発起人自身が何とも思っていなくても、同じコミュニティの仲間から邪険に扱われるかもしれない。仲間が何とも思っていなくても、内なる自分が責め立てる...。こうなれば講義を批判するのは難しい(批判したとて有耶無耶に言いくるめられるだけだ、という疑念もあろうが)。「肝を据わらせろ」という主張はマッチョイズムなのでしないが、しかしコミュニティを形成するとはそういうことなのである。
「ボーカロイド音楽論」の講義が書籍化されたことは、この講義自身にとって、そしてボカロシーンにとっての大きな一歩であると筆者は考える。内容の巧拙や政治的立場はともかく、書籍化されたことによってこの講義は「亡くなったボカロPを悼み、内輪でボカロ曲をべた褒めする会」になってしまう未来を脱して、元受講者やボカロ関係者を含む全ての人の衆目に晒され、批判され、検討され、洗練され、時に新たな論を生み出していくことができるようになった。後は実際にそうしていくだけである。筆者よりもっと優れた批判をできる人は多くいるはずなので、後は彼らに託してこのダイアリーの締めとする。
強い言葉で言えば、
「『ボーカロイド音楽論』などと大層な看板を出しながら、その実著名な学者の業績を形だけ借り"正しい"思想を添えた類推だらけの持論を『教養』と称し、[『教養』]と[『教養』を並べ立てた個別の楽曲評論]を弱い脈絡の下で繋げただけの、部分を詳細に語っただけで全体を語った気になっている、評論と呼ぶべきなのかもわからないものが、まともに批判されずに学生の間や世の中に広まることが許せないから」
である(「まともに批判されずに学生の間や世の中に広まる」という心配は杞憂であってほしいが)。
筆者がこの講義や書籍の内容が批判されるべきであると考えている理由は3つあり、これらを以下に簡潔に説明することで追記とする(注あり)。
1. タイトル詐欺:「ボーカロイド音楽論」を名乗りながら、その大部分は個別の作品の読解に費やされている上、それらを踏まえて「ボーカロイド音楽とはなにか」をまとめて論じている内容が存在しないこと。
2. 「思考の俎上」に載せる「感覚」の選び方の恣意性:本論で述べたように、思考が必要なぱて講師の感覚があるにも拘わらずそれを思考した形跡が存在しない箇所が見られること。
3. 「思考」の粗雑さ:「感覚」を正当化する目的でしか「思考」が用いられていないこと。「思考」に用いた「教養」の内容もそれぞれの分野を専攻した読者から見れば的外れなものになっていること(注1)。「類推」や「テーマ批評」などのいくらでもこじつけることが可能な手法を用いているのに、何故その手法を用いるべきなのか、その手法の限界はどこにあるのか、といった説明がされていないこと。
注1:少なくとも一つの例として、筆者が専攻していた生物学に関連した部分を挙げる。リチャード・ドーキンスの書籍『利己的な遺伝子』に言及した後、「しかしこれらのような個体の利他行動も、種や遺伝子を主語にすると、自らを温存するための利他行動にすぎない。」(54ページ8-9行目)と段落を結び、その後「性はこのように、種の都合のための機能主義的なプログラムであるという言い方もできるわけです。」(54ページ18-19行目)と主張している。結論から言えば、この言い方はできない。生物学を学んだことがある人物なら絶対にこのような主張はしない。進化の結果としてある個体Aが(同種とは限らない)他個体Bに利他行動をする形質を獲得する条件はあくまで「それが後に個体A自身の生存や繁殖に有利となる可能性が十分高い」あるいは「個体Aと個体Bで利他行動に関連する遺伝子を共有している」であり、そこに「種」の概念は一切関係しないからである。(遺伝子は自然選択の対象となり得るのに対して)「種」という概念は観察者が生物を分類する際の線引きのツールであって、自然選択の対象として観察可能なものではない以上、「性は種の都合のためのプログラムである」ということを(観察によって)事実として得ることもできない。つまり「種」を全体と見立て「個体」を部分と見立てるような類推は成立しない。百歩譲って「利他行動に関連する(種を問わず)同じ遺伝子を持つ全ての個体」を全体とみなす形で類推を成立させるとしても、それは「類推を成立させるためだけに拵えた全体」であることを指摘しておく。
私は自分で何も考えられない思考停止人間だ。小さいころからコミュ力運動神経ともに皆無で、将来を案じた両親がせめて勉強だけはできるようになってくれと、塾にずっと通わせたおかげで、認知能力だけは人並みになり自分の出来の悪い脳みそからしたらホームランレベルの大学に進学することができた。しかし小さいころから、ディスカッションをしたり自分で課題を設定してそれを成果として発表するような授業が苦手だった。コミュ力が低いのも苦手な原因だったのだが、何より自分の頭で何かを考えてそれを形にするということが苦手だった。塾にずっと通っていたおかげで認知能力だけは人並みにあるのだが、認知能力だけでは解決できない非認知能力が要求されるものがとにかく出来ない。何となくディスカッションの結論としてこういう結論が出ることが望ましんだろうなということが推測できる場合は、そこから逆算して自分の意見や課題を組み立てていた。でもそれは認知能力を利用したに過ぎず、非認知能力は何も培われなかった。こうした授業が苦手だったので、私は向き合って克服しようとせず逃げ続けてきた。逃げ続けた結果、大学と就活でそのツケが重くのしかかってきた。大学では卒業論文を書かなければならず、ゼミに所属したのだが、自分で課題を設定することが何もできなかった。結局自分の力では何もできずみかねた教授が付きっきりで全部助言してくれて、自分の頭で何か考えて課題を設定することはほとんどせず、教授が引いてくれたレールをなぞって卒業した。就活でもとにかく自分の頭では何も思考しなかった。嘘を並べ立て、ネットに転がっている例文に自分の多少の経験を織り交ぜてそれっぽい志望動機などを生成して履歴書を埋めた。そんな履歴書では大手に受かるわけはないと最初から分かっていたため、日本語として成立してるような履歴書さえかけて面接の場だけでもまともに話すことさえできれば受かるような企業しか受けなかった。結果誰でも入れるような企業に就職することになった。そこで安い給料で誰でもできる何も身につかないような仕事をしている。でもそれでいいんだ。私は自分で何も考えられない思考停止人間だから。自分の頭では何も考えず誰でもできる仕事をして安い給料でダラダラ生きていければ幸せだ。
資格取得を目指す系の学部だとまずはここから始まることが多い。
理系の大学でも、1,2年などの基礎的な科目は何があってもこれかなあ。
これは修士(大学院の博士前期課程)以上ならこれ。ただしたくさんなんて書けないので、「ちゃんと書く」の方じゃないかな。
ただ、修士課程ではない普通の大学生も、卒論のために研究活動の真似事をやるので、それを自分で調べて、どうやって「答えが無い」事を調べてまとめていくかと言うやり方を学ぶ事になる。
ならないですね。こう言う勘違いしてるアホいるけど。
ゼミナールはあくまでも続けている研究行為の進捗会議みたいな役割である事が多いのでは。
足りません。大抵の大学の授業は、授業の3倍以上の自習をすることを前提にカリキュラムが組まれている(と言う建前)になっています。ちゃんと自習しましょうね。
これは「大学生という身分が使えるのは4年しかないが、バイトはその後でもできるだろ」と言う意味だと思います。
色々な説はあるだろうけど「教科書にない専門的な事を自分で調べ自分で学ぶ方法」がメインじゃなかろうか。
あるいはもう一歩進んで、「大学生」って看板を使って色々とやってみることまでいければよい。例えば若手の社会人がそれなりに名が通った人に話を聞きたいとか言っても門前払いだが、大学生だとスッと受け入れてくれたりすることがある。
地方国立大とかだと結構看板がバカにできなくて、いろんな事ができるから、それを最大限利用することもできたらいいんだろうと思うけど、まぁ卒業してから気付くよねそういうのw
誰が悪いかという話を敢えてするなら、成人している増田について未成年で責任能力はないと譲らない両親だけが悪い。与えてくれたものが多いとしても増田の人生における巨悪レベル。
そんな親だからこそ今後もいくら増田自身の考えや思いを合理的に説いたとしても理解、納得してくれる可能性は低いだろう。
もう立派な成人で自分がどう生きるかは自分で決める権利があるし、決めた結果が良くても悪くても自分の成果で両親の物ではない。両親に相談する、秘匿するのも増田がメリットやリスクを勘案して決めること。
コミュニティツールの有無は確かに必須だが、それさえあれば友達は何らかのコミュニティに加わればすぐ作れる。
ゼミ、会社、スポーツや音楽などの趣味のサークル、オンラインゲーム、増田自身がやってみたいと思うことに飛び込めばあとは増田の人柄とかかわり方次第。
自分は中高時代両親の教育方針のせいで友人がまったくできなかったが、一人暮らしを始めて30過ぎた今は気軽に飲みや食事に誘えたり相談できる友人的な存在が両手で収まる程度にはできた。
大学が怖かった。
小学校からエスカレーター式の私立出身。これまでずっと、仲のいい少人数イツメンの閉じたコミュニティーにいたため、大人数にとにかく圧倒された。
大人数でワイワイやるということに慣れていなかったし、本当に苦手だった。
一応クラスはあり、ゼミにも所属していたので飲み会の誘い等も無くはなかったが、すべて断るくらいもはや飲み会恐怖症だった。
大学は実はぼっちに優しいんじゃないかと思う。友達を作ろうとしなくてもクラス単位で行動することがほぼないため、
ハブられているという目で見られることがない。
授業も一人で受けようと思えば全然受けられるし、お昼を一人で食べていても一人席を使えば色眼鏡で見られることがない。
強制的に毎日不特定多数の人間に営業をかけ、足を運び、社内の飲み会にも参加せざるを得なくなった。
4年間ほぼ誰ともかかわらず過ごしていたので、私のコミュ力は地に落ちており、毎日それはもういろんな人から怒られまくった。
3年ほど罵倒されまくって今があり、最近転職活動をしていたのだが、
あれほど苦手で緊張しまくって変なことを口走っていた面接が、得意とはいかないまでも人並みに話せるようになっていた。
そして、あれほど苦手だった飲み会も普通にふるまえるようになっていた。
振り返ってみて思うのだが、やはりこういった気質を直すのは暴露療法的な方法しかないのではないかということだ。
昨日、家族旅行に行ったのですが最悪でした。この気持ちを皆さんに味わってほしくないので書き留めておきます。
家族旅行の行き先は父親が勝手に決めます。父親の趣味しか反映されず、家族の意見は通りません。ちなみにほぼ毎年関東以北です。
今回の旅行では、行き先が在住地の近郊で、特急で一本のところでした。そんな場所正直いつでも行けるし家族みんなで行くようなところでもありません。
私と姉は大学の授業期間中で到底旅行に行けるような状況ではありませんでした。しかし父親の意向で、私は授業終わりに特急に乗って現地集合、姉は就職相談の予約を取り消して旅行に行きました。
本来旅行は家族全員の予定に余裕があるときに行くべきであって、無理に予定を開けて行くようなものではありません。
今回泊まらせられたのは、俗に言う”安宿”でした。小学生の林間学校で泊まるようなところです。オフシーズンで1泊9,000円という価格です。そんな安宿ではホスピタリティの概念がなく、いい体験はできません。
今回の安宿の食事は、夜と朝はバイキングでした。バイキングは幼い子供には好評だと思いますが(偏食でも許されるため)、食事のクオリティをある程度理解した高校生以上の人にはウケが悪いです。そもそも多くの人が触ったトングとかを触りたくないし、人が集まるところに行きたくないです。バイキングは衛生的にも良いとは言えないので旅行の計画に組まないほうがいいです。
今回の旅行で、母親が、「旅行先の地元のスーパーに寄りたい」と言っていました。しかし父親はこれを、「旅行計画にないから」と一蹴。結局寄れませんでした。地元のスーパーでは地産地消の野菜や特産品が安く買えることがありますが、このメリットをわかって欲しいです。
旅行の帰り道に、父親の単身赴任先をわざと通るようにルート設定されることがあります。父親は勝手に仕事場を見られて嬉しいのでしょうが、私達には無関係です。早く帰らせてほしいです。
この話はあまりに属人的ですが、帰りの夕飯に吉野家とか大衆食堂に寄るやつ、絶対やめてください。思い出が最悪です。
【追記】
「旅行を断れない理由を知りたい」という意見が散見されたので書いていきます。
これが一番大きいと思います。父親に反抗的な態度を取ると、「誰が学費払ってると思ってるんだ!」と言われて何も言い返せなくなります。前にTwitter(現X)で、「『学費払ってるのはありがたいけど、それを使って子どもを黙らせるのは楽しいか』と言い返す」とか言うつぶやきを見つけましたが言い返すと癇癪をおこすので無理です。
旅行は父親が良かれと思ってやってると思うので、旅行に反対すれば最悪学費貰えず退学なんてこともあり得ると思います。
父親は、子どものときに家族旅行というものを経験したことがないようです(本人談)。このような思いを子どもにはさせたくないとの考えで毎年旅行に行くのだと思います。もし旅行に行きたくないといえば、父親の根幹にある昔の寂しさを思い起こさせてしまうと思って家族は皆、旅行に行きたくないと言えないのだと思います。
父親は客観的に見て過保護な部類に入ると思います。ちょっと父親の過保護エピを書いていきます。
・就職しても一人暮らしはさせないつもり(姉がもうすぐ就職ですが、一人暮らしを許可されるか全く読めません。)。
2分ぐらい考えただけでこれぐらい出てきました。外泊については、姉が昔、父親には言わずに大阪に泊まったときに、わざわざ深夜1時に迎えに行ったことがあります。
先程触れた外泊についてですが、父親が深夜バスで迎えに行って翌朝始発の新幹線で帰ってきたのですが、帰ってきてすぐに説教の時間が始まりました。午前10時頃帰ってきたのですが、午後2時頃まで説教が続きました。この間も、「姉は将来風俗嬢になる」だの、「親の苦労を全くわかっていない」だの、罵詈雑言を飛ばしていました。私や当時7歳の妹を含め、父親以外の家族全員は正座させられて聞かされました。
旅費は父親と母親が持ってくれています。子どもは自分のお土産代を出すぐらいなので、子どもは何も言い出せないというのが現状です。
今27の女なんだが、本当に無い。
言っておくがいじめられていたとか帰宅部だったとかではない。でも本当にないのだ。
中高は学校に携帯を持っていくことを本当にかなり厳しく禁止されていたので学校での写真は無い。
プリクラは何度か撮ったことがあるのだが、プリ帳なるものを引っ越しの際に紛失し、ごっそり無くなった。(これに関してはちょっとだけやってしまった感はあった)
卒アルくらいはあるのでは?と思われそうなのだが、学校が嫌いだったので(親の方針で入れられたクソみたいなお嬢様系の中高一貫難関校)届いた瞬間捨てた為それも無い。
卒業式や修学旅行などの行事はデジカメを持って行くことが許されていたのだが、めんどくさがって持っていかなかったので行事の写真も手元には無い。(友人が私を写してる可能性はある)
ここまで写真がない人ってあんまりいないかもしれない。どうだろ。
あ、大学時代の写真が何でないかって?普通に生活してたら自分の写真撮る機会ってなくない?
ゼミは入ってたけど、合宿とか食事会とかの集まり全部ボイコットしてたから(バイトとかしてたので優先度低かった)撮る機会、無かった。
友人A。前期で単位を3つ以上落とした。代返、遅刻当たり前。大体睡眠学習。
生活リズムが狂ってて深夜にメッセージ。寝てないとキレ散らかして「死ねよ」などの暴言を吐く。金が無いとたかる。基本的にこっちの話を聞かない、覚えない。ゼミが何か理解してない。気分屋。
そいつと一緒の授業が数科目。勿論、ずらすことも可能。で、こっちの履修科目を尋ねてくる。
少なからず一科目は仕方無いとして、この堕落人間を友人と認めるべきか。
そいつ曰く「ここは偏差値低い大学」「他の奴らは自分を良いように使おうとする」
選択肢が浮かんでいるがこいつのルートを選んでもロクな事は無さそうだ。(実際、たかられてるし。)破天荒な人生にしたいなら良いけどこういう時何て回答すべきか、迷う。
優しさなんて切り捨てられたら良いのにねー。