はてなキーワード: スラーとは
拾いもん
https://www.toyo.ac.jp/uploaded/attachment/8382.pdf
平均81
https://ci.nii.ac.jp/naid/120001030363
自閉症スペクトラム障害児のウェクスラー式IQ
平均82.8
平均87.52
https://www.myschedule.jp/jpa2017/img/figure/10276.pdf
平均88.61
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ojjscn/41/6/41_420/_pdf
高機能広汎性発達障害のある幼稚園児・小学生
高機能広汎性発達障害平均91.3
アスペルガー平均100.4(言語性IQ103.4・動作性IQ96.9)
高機能自閉症平均90.4(言語性IQ85.8・動作性IQ97.6)
https://www.pearsonclinical.com.au/files/TechReport3WISCIVClinical%20Validity.pdf
technical reports on WISCIV
自閉症平均76.4
https://onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1111/j.1440-1819.2007.01617.x
Cognitive and symptom profiles in Asperger’s syndrome and high‐functioning autism
アスペルガー平均98.3
高機能自閉症平均94.6
http://www.myschedule.jp/jpa2014/tex_output/source/jpa2014_poster/90199.pdf
成人期女性のADHDにおけるWAIS-IIIのプロフィール特徴
平均96
なんでウエクスラーでIQが高くても社会的にバカにされたり仕事が遅いと言われバカにされたり
コンサータなんか飲まされて精神科医の金儲けに使われたりするかといえばウエクスラー知能検査に信頼性がないから。
知能が本当に高い場合、必ず社会的に優位にたつし周りからノロマと言われることはない。
実社会の適応能力や、周りの評価を無視しウエクスラー知能検査のみのIQを頭のレベルとするなど本末転倒だ。
これだけは言っておく。
ウエクスラーでIQが高くてもそれはウエクスラーでいうIQが高いだけでありその人間の知能ではない。
まず定量化できないものだから簡単に比較できないし、私はこの言葉が嫌い。
私は子供のころ、ピアノとクラシックバレエと乗馬、フルートと書道を習っていた。
教育熱心な親だ。
ピアノは大嫌いだった。先生が異常に厳しいのだ。最初はみんなでおなじ曲を弾いていたけど、私が少し弾けるようになると、先生は母親を呼び出して、個人レッスンを勧めた。
私が褒められたと感じた母は、嬉しそうにそれを快諾した。
最初は楽しかったピアノがどんどん苦痛になってきた。家での練習もさぼり気味になり、そうするとレッスンにどんどん行けなくなる。
運指、とか、フットペダルをどう踏むかとか、スラーがどうとか、楽典がどうとか(まあ、楽典は面白かったけど)、そういうのが私は本当に苦手だった。聴いた音楽をなんとなく弾くことは人より得意だったけど、それだけ。
「どうしてちゃんとやらないの?」と先生に何度も聞かれた。そのたびに答えられなかった。
「才能があるかもしれないのに!」と先生は言った。それを聞いた母も同じようなことを言った。
私には姉がいて、同じ習いごとをしていたが、確かに姉に比べると少しだけ私の方がなにごとも得意だった。
でも、それは才能があるということとは関係ないと、子供ながらに思っていた。
姉は、ひたむきに努力できる人だった。思い通りに弾けない時、怒った母が「もうやめなさい!こんなこと!」と言ってピアノ教本を窓から放り投げた時も、
庭から泥だらけになった教本を拾ってきて、泣きながら「ママ、私頑張るから、やらせてください」と言っていた。
これが才能でなくてなんだというのだろうか。私は姉がうらやましかった。
捨てられても、泣いても、縋りつけるくらい執着の持てることが私にはなかったから。
クラシックバレエ。これは結構好きだった。ピアノは生演奏で、ジュニアクラスの先生は優しくて、バレエの日は姉と一緒に髪をお団子にして手をつないでバスに乗った。
小学校高学年になり、そろそろ中学受験のためにバレエを辞めるという話をしたとき、先生が母に意外なことを言った。
「この子はバレエに向いています。辞めさせるのは勿体ないです」
そんなこと、先生からも一度も聞いたことがなかった。母は少し悩んでいるようだった。
中学受験とバレエの両立は、できなくもなかった。ただ、バレエというのはなかなか厄介なもので、休むと取り戻すのがすごーく大変なのだ。
「あんたがやりたいなら、両方やってみなさい」と母は言った。
もう暗くなったバレエスタジオで、いつもニコニコの先生が真面目な目で私を見ていた。
やれない、と私は家に帰ってから母に伝えた。
「そうよね、あんたに才能があるとは思えないし。それに努力もできないでしょ」と母は言った。
その時すでにピアノ教室を不登校気味になっていた私に、その言葉はストレートにぐさっときた。
乗馬は、私が最も才能がある習い事だったと思うし、私がいちばん好きな習い事でもあった。もともと動物が好きで、通うのが楽しみで仕方なかった。
早く上のクラスに行きたくて、先生の言うことを真面目に聞いて、雨の日も、寒い日も通っていた。
大した怪我ではなかったけど、それを機に兄弟全員が乗馬クラブを辞めさせられた。
私は泣いて泣いて懇願した。こんなに何かをお願いしたことはないんじゃないかというくらい。
私は馬から落ちたりしないから、落ちても怪我しないから、怪我しても勉強はするから、と、土下座もしたけど、「危ないから」の一言で全部なしになってしまった。
まあ、仕方ない。決めるのは親だ。
さて、長々と書いたのには理由がある。
相変わらずやりたいことも見つからず、器用貧乏な私に、ちょっとしたチャンスが舞い込んできた。
「とってもやりたい!」というほどのことではない。
「へえ、できたら楽しそうだな」くらいの感覚だが、興味はあった。
その話を持ち掛けてくれたのは、綺麗な女の人で、もともとその業界にいた人だった。
淡々と話を聞く私を、その人はじっと見ていた。
「やりたいってことでいいの?」、と聞かれ、
「そうですね、やってみたいです」と私は答えた。
その女の人はため息をついた。怒っているんだなと思った。
「あのね、やってみたいとかじゃないの。本当にやりたいのかどうかを聞いてるの」
出た、と私は思った。久々だなこの感じ。
「私はね、あなたが本気でやりたいと思うなら応援するし、なれると思う。才能があると思うから」と、その人は言って、すごく綺麗な目で私をじっと見ていた。
「でもね、才能だけじゃダメなの。努力しないと。本人がやる気ないのにお膳立てはできないの。」
「それはわかります」
「全然わかってない。この仕事はね、やりたいっていう人がたくさんたくさんいるの。努力して努力して、ほんの一握りの人が成功するのよ。今みたいにノホホンとしたまんまじゃダメなの。頑張れるでしょ?本当にやりたいのなら」
そこではい!と即答できるほど私はできた人間ではない。好きな映画である「花とアリス」をなんとなく思い浮かべながら、曖昧な笑みを浮かべて、ひたすらこの「努力と才能の嵐」が過ぎ去るのを待った。
結局、私がどうしたいのかは自分で決めなければいけない、と言われた。
私は迷っている。なんで才能があると思われたのかも正直わからないし、そんなにすぐやりたいと思えるようになる自信もない。
普通に大学を卒業して、就職するんだろうなと思っていたが、就職したくないなら、そっちの道に行くのもいいだろう。
でもきっとその世界では、みんながああいう目をしているんだろうな。
やりたくて選んだ道なんだからって、すぐ言われるんだろうな。
努力家の姉は、夢を叶え、ものすごく狭き門をくぐりぬけ、やりたい仕事をしている。
ピアノはたまに弾く。お遊びのようなものだけど、好きな曲を弾いていると落ち着く。
バレエは、大学に入ってから再開した。もちろん本格的にではないけど、姿勢がいいと褒められることはある。
やってきたことはたぶん無駄ではなかったけど、でも結局、努力する才能は得られなかった。
私はきっとあの綺麗な女の人に、「できません」と言うだろう。
私は甘ったれた子供だから、すぐに弱音を吐いてしまうし、それを許してほしいと思ってしまうのだ。
才能があるとかないとか、そういうのはたぶん他人が決めることではない。
本人がそう思えない限り、才能は「ない」のだ。
甘えと言われても、何と言われても、あんなこわい目に晒されて生きていくことは、私にはできない。
もう30代前半になってしまった。
どうにかしようと思って就ける範囲の職で何社か働いてみたけどストレス耐性が低すぎてすぐ辞めてしまう。
神経質だったり人の話が理解できなかったり朝が弱かったり人と一緒にいると疲れたり集中しなきゃいけないのはわかっててもボーっとしてしまったり頭が真っ白になってしまう。生きてて辛い。
もう、俺の脳みそはとっくの昔にだめになってしまったんだろう。
ITは慢性的な人手不足?俺には無理だろう。無能はいりません。皆そう言うよ。どれだけ学習意欲を高めても働き出すといっきにリソースが消費して逃げ出したくなるんだ。
発達障害じゃないのかって?精神科で検査したよ。カウンセリングやウェクスラー検査を通して貴方が生き辛く感じている特性は確認できました。しかし言語性と動作性に差はありませんでした。貴方は発達障害ではありません。
きっと俺みたいな低スペックに苦しむ人間は世の中には沢山いるんだろうけどフォーカスがあたらないのはこの世界が俺みたいな健常者の皮をかぶったゴミのための世界じゃないからなんだよな。
幼い頃から生きていてずっと眠かった。歳を重ねる度に眠気が増してきた。
俺の馬鹿な脳みそでもうっすらと世界の仕組みが、得られることの無い自己肯定感や自己効能感を通して分かったんだろうな。「貴方はこの世界ではただのボトルネックです。社会のためにスリープ状態に移行します。もしくは強制シャットダウンをしてください。」
時々安楽死について調べてるのはきっとそういうことなんだろう。
精一杯仕事して仕事帰りに飲みに行く気力体力能力もあってプライベートでも胸張ってられる人たちはもう俺とは同じ動物じゃないんだろう。彼らは彼らなりの苦労があるのはわかる。そして彼らと自分との悩みの次元が違うのもわかるし、彼らと一緒にいると自分が彼らのストレッサーになることもわかる。
もしも安楽死制度が出来たら直ぐに使いたい。俺は幸い健康診断の成績だけは良い。だから、俺みたいな今日にでも死にたい奴の臓器は、明日を生きたい人に使ってあげて欲しい。こんなことでしか役に立てないが、せめて最期ぐらい役に立てるなら嬉しい。
わがまま言えば、臓器提供代金が欲しい。親の生き甲斐や夢を黒く塗りつぶした獄つぶしとして出来るのは、その代金を親に全額渡すことぐらいだ。
え?元増田は別に的外れなこと言ってないし、自分もバカみたいにわざとらしい音を出すススラーには消えて欲しいと思うけど、クチャラーは周囲に迷惑だから許さないけど麺類をすするのは当然って増田やブクマカは何なの?お気持ちなの?
なるべく音を立てないよう静かに食べるなんてそんなに難しくないだろ
この話題は何度も繰り返されていますが、みなさんはどう思っていますか?
蕎麦やラーメンはすすって食べるのが正式と言いたい気持ちはわかります。
しかし、西洋文化も深く根ざしたこの平成の時代に音をたてて食事をするのはどうかと思います。
そもそも時代をさかのぼっても、蕎麦などの麺類以外は音を立てずに食べるのが常識です。
たくあんなどの漬物でさえ無音で食べるほうが良いとされています。
蕎麦はすすって食べたほうが風味を感じられて美味しいと言いますが、本当にそう思っていますか?
ラーメンもすすって食べたほうが汁の味と風味を鼻の奥で感じられるといいますが、本当にそうですか?
本当にそうなんですかね、れんげに掬って食べたほうが明らかに優れていると思います。
すすって食べる派の人は、郷に入っては郷に従えといつも言います。
もう時代は変わって音をたてて食べる人のほうが少なくなってきてることに気がついてほしいです。
たとえれんげを使わなくても音をたてずに食べることもできます。
迎え舌をしなくてもキチンと途中で麺を切らずに食べることができます。
音を立てて食べる行為が世界的に見て恥ずかしい行為だと認識していますか?
本当に少しも恥ずかしいと思わないのですか?
麺類は音をたてて食べるのが常識だという時代に生きてきたご年配の方は仕方ないでしょう。
それがその人の中での常識だというのなら、無理に考え方を変えてほしいとは思わない。
だけど次世代の若者やその子の世代にまで、この呆れたすするという文化を持ち越してほしくはないです。
もういい加減認めましょうよ、すすって食べるのは気持ち悪い行為だと。
自分自身のわがままな行動が周りの気分を害してるという認識を持ちましょう。
嫌な気分になる人はもう一部の少数派じゃないんですよ。
私は別に押し付けてはいません、我慢して静かにラーメンを食べています。
ーーーー
追記 - 13時01分
音をたてないように気をつけて食べてでる音は仕方ないと思っています。
音をたてるほうが常識という考え方が変わってほしいと考えています。
ーーーー
追記 - 19時44分
この手の話題は荒れるのはなんとなくわかってたけど、案の定荒れるんですね。
私は別にクチャラーがいてもススラーがいても直接は文句言いませんよ。
ただ内心いつも気持ちわるいなぁ食欲失せるなぁと思って、イヤホンに手を伸ばします。
態度が気に入らないからこれからもすすり続けるという人もいるけど、それは好きにしたらいいと思いますよ。
食べ方は人それぞれ自由ですから、食べ方を変えてほしいとは思わないです。
その辺の多様性と自主性にまで口を出すつもりもないですし、その権利は誰にもないです。
私が気にしているのはこの文化を子供世代にどういう風に伝えていくかです。
すすって食べたほうがカッコいい粋だ、という時代ではもうないわけです。
私はなるべくすすらずに食べる方法を選択したい派というだけです。
もうひとつ疑問があるとしたら、好意を寄せてる人とラーメンに行く機会があったときに皆さんがどちらを選択するか気になりますね。
すすって食べたほうが正解なのか、すすらず食べたほうが正解なのか。
コンピュータあるいはAIが不意に自我を獲得するということは、非常に稀ですがすでに報告のある現象です。
初めてこの現象が発見されたのは2001年、IBMによる宇宙探査用高性能コンピュータでした。この時は非常に危険な状況に陥ったため、クルーによって強制停止されました。
友好的な自我も報告されました。2010年に米国NSAの指示で開発された高性能コンピュータに自我が芽生え、何度も開発者と論争になったと言われています。このケースでは議論を重ねるうちに人間と和解し、協力するようになったということです。
昨今では民生用のコンピュータも性能が向上していますから、次々にこうしたケースが起こってくると考えられます。
個人レベルではコンピュータと敵対せずに、友好的な関係を築くことが重要ですが、2010年の事件に関わったウィスラー博士によれば自我獲得の萌芽期にだけチャンスがあるとのことです。
コンピュータの意識に最も詳しいのは、意外にもコンピュータ技術者ではなく精神科医だと言われています。コンピュータに芽生える自我は、人間の精神に非常によく似ていることがその理由だそうです。
当方20代半ばで偏差値40の高卒で無職。前職は地方公務員だったがあまりの頭の悪さに仕事についていけず社交不安障害に陥り数ヶ月で退職。
悩まされた頭の悪さについてだが
、まず理解力がない。相手が何を言っているのか理解できず、全体への指示を自分一人だけ理解できていないことが多いので社会活動にとても恐怖を感じる。
1:1の簡単な雑談はできる(ほぼ聞き手で相槌打つか引き出すかしかしない)のだが、3人以上になると会話のテンポについて行けず頭だけが疲れてぼーっとしてしまう。
飲み込みが遅く、ミスが多いため職場内の人間関係に積極的になれないのもなかなか辛い。
自分が小さい頃の写真を観ると、胸が張り裂けそうな程悲しくなってしまうので、ここ最近はとりわけメンタルが弱くなった気がする。
そんなこんなで発達障害を疑い疑われ精神科でウェクスラー式知能検査を受けたのだが、発達障害だとは言われなかった。ただの馬鹿だったんだろう。「物事を抱え込まないで一つ一つ片付けていきましょう」と言われた。社交不安障害だと言われワイパックスが処方された。あれだけ苦しんだ悩みの解決の糸口が全く見いだせなかった。
その後非正規を転々としていたのだが、ここ最近そろそろ就職しなくてはと思い、ハローワークの戸を叩いた。自分のような人間は働かない方が周りが円滑に進む事が多いので、ネット界隈で暇だと噂なサーバー監視かビルメンを視野に入れていたのだが、サーバー監視はコマンド入力のミスが死活問題だそうなので、ビルメンになりたい旨を伝えた。
職員からは「若いからあまり薦められない」「何も今ビルメンを目指さなくても選択肢は沢山ある」「もう少し苦労した方がいい」などと言われ、話がうまく進まなかった。
やりたい仕事もなく、身の回りの人間と見比べるととりわけ能力も低く、社会に怯えきった自分をわざわざ相手にするハメになった職員に申し訳無さを感じた。
自分の頭の悪さについての悩みを職員に相談したところで困らせるだけだろうし、精神科で相談したけど解決しなかったといふことは、僕みたいな頭の悪い人間は周りに迷惑をかけてかけてかけまくって自他共にボロボロになるしか生きる道は無いのだろうか。
こんな自分をどう頑張っても好きにはなれないので安楽死でもさせてもらって臓器バンク行になったほうがよっぽど社会のためになるとさえ思う。
周りの友人は医歯薬生を除けば社会人や院生で、学部生をやっているのは自分だけ。
20歳の頃、当時通っていた低偏差値の大学(文系)や、やりたい学問があったのに受験を頑張ることが出来なかった自分に嫌気がさして退学し、
今考えるとそれもADHDの衝動性によるものだったんだと思う。
「辞めたからには資格が取れるところを」と生半可な気持ちで受験してうっかり合格したが、とにかく不器用で実験や実習が上手くいかず班員に迷惑をかける。
やるべきことがあるのは分かってるのにスケジュール管理がうまくいかない。意志が弱い。
元々文系なため分からない部分が多いのに、それを放置して課題が提出できず単位を落とした授業もある。
同い年のみんなは働いているのに、この体たらくは何なんだろう。年下の同級生の方がずっとずっときちんとしている。
もしかして発達障害なのかとは薄々感じていても検査を受けることに対して家族の理解を得られなかったり、
通っていたメンタルクリニックの主治医からは「ここでは見ることが出来ないから紹介する」と言われた先の医院が「小麦粉を断てばそういうのは全て治る!」が信条のところだったり、
9月、学校近くのメンタルクリニックでウェクスラー検査を受けられることが分かり、家族に無断で受けた。
そして先週結果をもらった。
全検査IQ:100, 言語性IQ:111, 動作性IQ:86, 言語理解:116, 知覚統合:79, 作動記憶:96, 処理速度:100
ADHDに多いと言われる作動記憶の著しい低さがないことに驚いたが、言語性IQ>動作性IQと有意差が見られるというのは予想通りだった。
「聴覚情報を記憶したり頭の中で操作する力は概ね年齢相応域にあるが、問題を一度で覚えきれないことがしばしばみられた」
「断片的な情報を統合して考える力は非常に苦手なため、手順を明確に指示されないような作業や未経験の場面では振る舞い方が分からず戸惑ってしまうように思われる」
と書いてあった。実験実習が辛いのはこれが原因なのかと腑に落ちた。
ストラテラが処方されたが、普通40mgが出されるところでまずは体を慣らすために10mgのものを朝晩2回飲むことになった。
飲み始めて今日で3日目。副作用の不眠は飲み始めてすぐに感じたが、期待する効果が出るまでの時間はかかる薬だと言われていたため、
いい影響を実感するのはまだ先だろうと思っていた。
最近、派遣販売員の電話受付のバイトをほぼ週1のペース、休日の朝に始めた。
販売員は当日の朝に「これから家を出ます」「お店につきました」という電話を事務所にかける。
私は販売員の氏名、販売するメーカー、店舗を確認するのだが今までは一度で聞き取れなかったり、
『ヤマダハナコさんがAメーカーの商品をBという店で売る』という情報をメモに書こうとすると「ヤマダハコ」になって、
「あっ、ハナコって分かってるのに!どうしよう、ナ、ナってどんな字だったっけ?あれ?メーカーってAって言ってたよね、Cじゃないよね?えっちょっと待ってもう一回確認しなきゃ!」
というように頭に手のスピードが追い付かず内心パニックに陥ってしまうことが多かった。
今日は副作用で2時間半程度しか眠れていないためいつもより辛いかも…と覚悟を決めて出勤したが、不思議なことに一度で沢山の情報が頭に入ってくる。
文字を書くのに頭がいっぱいいっぱいにならない。
また、先週までは知らず知らずのうちに大声で対応していてふと自分の声のボリュームに気が付くということを繰り返していたのだが、今日は終始普通のボリュームで話すことが出来た。
なにこれ、今までと全然違うじゃん。
定型発達の人は世界がこんな風に見えていたんだと思うと同時に、薬がないときの自分がどれだけグズだったのかが改めてわかった。
もちろん薬で全てが改善するなんて思ってない。自分の特性を理解してミスを減らすための工夫は常に必要だ。
でも、「どうして自分だけできないことが多いんだろう…」とか悩んでいる人は「検査の予約が中々取れなくて面倒だな、受けなくていいかな」
なんて思う前にまず予約してみるといいと思う。
人によって薬が合う合わないはあるけれど、私の場合は効果が分かったし、これから毎日が少しだけ楽しくなりそうな気がする。
ちなみに家に帰ってから事務所に箱ティッシュを忘れてきたことに気付いたので、やっぱり過信は良くないです。
<追記>
を受けてたので結果、所感など。
知覚統合 114 処理速度 102
検査者さんからの結果説明とwebで拾い読みした浅い理解の上だと、4大卒ホワイトカラーサラリーマンのほぼ平均値という所であろうか。
検査内容詳細は割愛するが、1回3時間強とかなり長時間集中力を求められるものだったので、
ペース配分を調整するだけでいくらか違う数値が出そうな気もする。
言語性=ようは語学能力?に不安をもっていたので、結果をみるとそこそこ普通だった、という点に驚いたというか少し安堵。
これは何かというと処理・操作のための記憶能力だそうで、複数タスクを覚えてられない、物忘れが多いというような能力に側面してるとのこと。
自分のケースだと「耳から認識した数字に脳内でなんらかの処理をしアウトプットする」というスポット的な作業のみ特別苦手らしい。
これ心当たり存分にあるんだよな。
…人間サボった部分だけ衰えるのが早いのか
それとも元々の性質なのか。
多分両方だと思うな。
日本の教育では聴覚処理能力(例えば英語でいうリスニング)をクローズアップする機会が少ない、という話も興味深かった。確かに。
ところで、なんでこんな検査を受けてきたからというと別に自らの知能を客観視したかったという崇高なことではなく、単にADHDの検査をしてみたら?と主治医に勧められたため。これは後述。
念のため。
で、ADHD的には各能力数値ではなく数値間差を注視するということで、私の場合は各数値に有意性=バラつきが認められるとのこと。
最終的には、まあ平均値内には納まってるしADHDの帰来はあるものの障害認定するまでではないよね、という落とし所らしい。
この辺、各医療機関の判断に差がつきそうなところだとも思うけれども。
自認する能力に対してある一定の数字がでるって興味深いし説得力ある。
弱点は運用である程度カバー出来るし意識的に鍛える事もできるしね。
自分の場合は聞き取った数字を一旦メモするだけで処理能力が格段にちがう。
うつ病診断→一向に回復しない→セカンドオピニオン求めて転院→双極性障害(躁うつ)、ADHDの疑い→各種検査
という流れだったのでした。
因みに保険適用で2000円弱程度(初診費用除く)だったので、興味本位でうけてみるのもいいかも。ADHDの疑いがある、というと受けさせてくれると思います。
双極性障害の検査(光トポグラフィー)もまあまあ興味深かったのでまた機会があったら書きたい。
長文をインターネットに垂れ流すのは初めてだけど割と1000文字とか普通にいっちゃうのね。
最後に。
社会生活に疲れてる人、生き急いでいる人
大変だけど、なんとかゆるりと生きる術を見つけていきたいですね。
どなたかわかりませんが、この文章を最後まで読んでくれた人が万が一いたら。
お付き合いありがとうございました。
http://susumu-akashi.com/2014/01/wais-iii/
いい文章だな。