はてなキーワード: スペースオペラとは
フジテレビが鬼滅の刃(一期)の製作に関わることを断っていたという記事が投稿されて
はてブでも「だからフジテレビは駄目なんだ」と例の如くパプリックエネミーFNNを叩いて勢に浸る遊びが開催されていた。
でも2019年の春クールにフジテレビで放送されていたアニメってワンピ、DB以外だと「ゲゲゲの鬼太郎」と「さらざんまい」なんだよ、覚えてるか?
無期限の長期放送に入ってるワンピDBと定期的にリブートすることが伝統と化しているゲゲゲを除けばフジに空いている枠はノイタミナしかない。
そのひと枠に天下のジャンプ連載の勧善懲悪ヒーローアクションものを蹴って幾原邦彦のオリジナル企画を選ぶというこの選択かなりぶっ飛んでるし、
プロデューサーより上にある程度理念みたいなものがないとやっぱできない気がする。
ウテナもうっすらそういうテイストあるけど、ピンドラから始まる21世紀の幾原邦彦作品って「規範に潰される若者」の物語なんだわさ。
「長男だから」とか「強くならなきゃ」とか「先輩だから」とか「欲しがるばかりの奴は」って言葉ですり潰されそうな奴らが物語の中心にいる。
マクロ視点での善悪を否定し登場人物個人のミクロな感情を肯定していく。そして最終的にそういう奴らが互いを理解し融和していくことで救済される。
例えるならサイコロ先輩のジレンマとか獪岳の苦悩に目一杯フォーカスを当てて、
彼らを「そうだよね君らにだって少しも慈愛がないわけじゃないし、不真面目なわけでもなかったんだ」って抱擁するのが幾原作品の世界観だと僕は思う。
ネットにおけるフジテレビは雑に言って「体育会系のノリでコミュニケーション弱者を嘲笑う文化を持っている」「軽薄で流行りに乗っかるしか能がない」というイメージで取り扱われている。
が、しかしノイタミナは「連ドラのようにカジュアルに楽しめるアニメを」というマイルドヤンキーに向けた方向性を打ち出しながらも、
出版社等業界の力学やオタクカルチャー(ゲームマンガラノベ等)のトレンドに左右されず、独自の指針に沿って型にはまらない企画を発表し続けてきた。
だからこそオリジナルの企画も多く、ただの深夜のアニメ枠でしかない「ノイタミナ」がブランドとしての意味合いを帯びてきたのだ。
視聴者と変わらない普通な現代社会で生きる、エリートでなければ超人的な能力も持たない平凡な人間の叙情を主題にした「あの花」は、
「とらドラ」でその萌芽を見せていた超平和バスターズのスタイルを完成させたとともに、アニメで純粋なヒューマンドラマを展開するエポックメイキングになった。
「PSYCHO-PASS」は倫理観が倒錯する未来をハードボイルド調に描いたディストピアサイバーパンクの秀作として10年代を象徴する一作となった。
四畳半神話体系、ピンポン、つり球といったメディアミックス作品ではなかなかお目にかかれない斬新な映像表現を打ち出した(それでいてストーリー構成にもそつがない)作品もなかなか実現は難しかっただろうしノイタミナでなければあそこまで好意的に受け取られただろうか?と思う。
「冴えカノ」や「DIVE!」のような「ラブコメ」や「スポ根」モノでさえ少年誌やライトノベルのテンションから一歩引いたような独特なオフビート感がある。
これもノイタミナというフレームの影響にあると思うのは考えすぎだろうか?
個人的に次期の「2.43」がハイキューとどう差別化を図ってくるかにすごく興味が湧いているし、実のところ「ノイタミナで放送されているアニメ」然とした物が見られることを僕は既に期待してしまっている。
ノイタミナはなんとなくだが、社会から弾かれた者や、秀でた物がなくうだうだする若者に優しい作品が多い気がする。無邪気なラブコメやヒーロー物を避け続けた結果なのだろうけど、そこが僕にとっては安心材料になりつつあるのだ。
話を戻すとして、
まずフジが鬼滅の刃を断った背景として、近い時期にジャンプアニメの放送が集中していたことが大きかったのではないだろうか?
周知の通りワンピDBを放送しつつ、更に19年冬にはネバラン(一期)を放送していたので、19年春に鬼滅ということになると流石にジャンプのコンテンツに偏りすぎるのではと危惧されたということがあり得なくもない。
「日和見主義ゆえ、鬼滅の奇抜な作風やグロテスクな描写に拒否反応を示した」というような粗雑なコメントがニュース記事では散見されたが、ノイタミナでは過去に鬼滅の刃と同系統の「甲鉄城のカバネリ」の製作に積極的に関わっていた。故にジャンプに掲載される程度にはマイルドなこの作品を渋る理由としては考え辛いのではないだろうか。
キャロル&チューズデイの存在をすっかり忘れていたことに気がついた。キャロル&チューズデイは19年4月から9月までの2クール放送されていて、鬼滅と丸被りしているので、邪推するならばこの代わりに鬼滅の刃が放送されていたかもしれない。
まあとどのつまりそんなことどうでもいいんだけどね。
ああいう未熟者が成長して真っ当に何者かになろうとする話は気持ちいいよね。
キャロル&チューズデイはアニメの中でも一際丁寧な作品だったと思う。音楽のこだわりもそうだし、渡辺信一郎さんといえばといった感じのスペースオペラ調のロマンに溢れた雰囲気も流石だなあといった感じだった。
まあこれは観るの中断してそのままになってるからあんまりわかったようなこといいたくないけどね。
実のところ+Ultraの存在自体すっぽり忘れてたんだけど(Great PretenderとかBeastarsみてたのに)、ケモノ物やわりかしハードなSF物とかそういうのが多くて、ノイタミナとはまた違った形で硬派の作品を増やしていく感じがして面白いと思う。
スペースオペラの大半は、宇宙で西部劇をやるだけのどうしようもないもの。
クトゥルーなんて、御大はともかくウィアード・テールズのファン作品が文章からしてひどい。揶揄されている「窓に、窓に」なんてものじゃなない。
自分の中では子供の頃に藤子・F・不二雄先生が言っていた「すこし・ふしぎ」がSFなんだとある年代まで思っていたけど
本来は空想科学(Science Fiction)でSFって聞いて「SF」という言葉に感じていた神秘的な雰囲気が薄れて残念に感じた事がある
それなら幻想宇宙(Space Fantasy)の方がドラえもんを見ていた頃の「SF」という響きに近い物があって好きだ
ところで所謂SFにもハードSFとソフトSFの二種類があって、スターウォーズなどの所謂「スペースオペラ」と呼ばれる作品はソフトSFに分類されるそうだけど
そのソフトSFはハードSFファンからはそもそも「SF」と思われていないと聞いて、じゃあ本当の意味での「SF」とはどういう物を指すのか、そんな事ばかりが今でも気になっている
【追記】
今日になって数日前の日記にトラバやブコメが沢山付いている事に気付いた
なんかあるじゃないですか
たとえばドラえもんなんかは基本的に宇宙モノじゃないけど、映画で宇宙が舞台になったりすると俄然あの空気を帯びはじめる
なんつうんですかね 宇宙のあの絶望的な広さ、圧倒的な空虚、人類の天文学的孤立?
プラネテスみたいな人類しか出てこない作品でも、スターウォーズみたいないろんな星系のやつらがワチャワチャ出てくる作品でも、なんというかあの孤独感は絶対ある気がする
重力なんかもエモいよなあ 星々は引かれ合うわけだ、このアホみたいに広いのにものは少ない宇宙のなかで!
(20億光年の孤独、すげえいい詩だ ありがとう小説増田 谷川俊太郎のイメージが久しぶりに「なんでもおまんこの人」じゃなくなったよ そういえばすごい人なんだった いやなんでもおまんこも大概すごいけどな)
ああ宇宙 俺の最高到達高度はせいぜい飛行機のそれだけど、想像の中ではけっこう宇宙行ってるぜ 宇宙、広いぜ…
スペースオペラはあの孤独感があってこそだよなあ いくら登場人物が多くても、宇宙空間が舞台になった時点で寂しさがどこかに現れてしまう そんな気がする
地上にへばりついて、地表程度の狭さの世界に70億人おる!と思って生きるべきか 宇宙のバカでかい空間の中に数えられる程度の生命しかおらん…と思って生きるべきか
現在NHKでリメイク版も放送されている名作スペースオペラ「銀河英雄伝説」
この作品の中でも特に輝かしい英雄である銀河帝国元帥ラインハルト・フォン・ローエングラム候と自由惑星同盟軍元帥ヤン・ウェンリー提督
この二人が初めて顔を合わせるのは原作小説では5巻の風雲編、OVA版では4クール目のラストにあたる第54話目の事だった
つまり作品の主役でありそれまで幾度か戦場で矛を交えながら面識は無かった二人の主人公がようやく直接言葉を交わすという、ファンなら誰もが待ち望んだ展開だと思うんですが
そこで民主共和制を否定するローエングラム候に対しヤン提督が反論し、逆に専制政治を否定しローエングラム候を唖然とさせた時弁明するようにタイトルの理屈を持ち出したんだけど
僕はこの考え方を初めて聞いた時とんでもなく感銘を受けた
それまで「正義の逆はまた別の正義」「どちらが正義でどちらが悪という訳でも無い」という言葉を聞いてもどうもしっくり来なかったけど、ヤン提督のこの言葉は何故かストンと腑に落ちた
言い換えると「何か一つの考え方が生まれた時それと真逆の考え方もまた同時に生まれる」というちょっとロマンティックな考え方に思えて、そういう所が好みに合ったのかな
余談ではあるけど、銀河英雄伝説には主人公ヤン・ウェンリーに嫌悪されファンに寄生虫とも呼ばれる保身の天才、ヨブ・トリューニヒトという悪役政治家が登場する
彼は読者に非常に高い人気を誇るヤン提督に敵視され、自らの利益のみを追い求め事実上自由惑星同盟が斃れる切っ掛けになった人物だけど、銀河英雄伝説ファンからはそれなりに高い人気があるそうな
悪役であった彼の目的が、主人公ヤン・ウェンリーの養子であり愛弟子であった少年ユリアン・ミンツと全く同じ構想、つまり銀河帝国に立憲体制をしく事だったと終盤明かされたのは、
民主主義のために命を懸けて戦った主役であるヤン艦隊の面々とただただ保身のみを考えた悪役であるヨブ・トリューニヒトの一体どこが違うのか?と少し考えさせられるような気分になった、やっぱり銀英伝って今見ても面白いね
大学生時代に「涼宮ハルヒの憂鬱」ブームを経験した三十代。当時はひねくれた人間だったので、ハルヒが流行っている真っただ中に、原作ではなくその元ネタとなった「ハイペリオン」に手を伸ばした。当時の自分はきらきらとした学生生活にあこがれていたくせに、そういう青春をテーマにしたラノベを避けていた。みんなと同じものを読むのが嫌だったのと、そういうきらきらしたものを読むと、自分の灰色の生活と引き比べてしまうからだ。そういうわけで、「涼宮ハルヒの憂鬱」の知識は、書店で一気読みした第一巻と、ウィキペディアの情報、断片的に見たアニメの数エピソードに頼っている。おそらく粗があるので、話半分に聞いてもらいたい。
「ハイペリオン」とはダン・シモンズが1989年に発表したSF小説である。邦訳は1994年に出版された。ヒューゴー賞・ローカス賞・星雲賞を受賞している超大作で、登場人物である長門有希が読んでいる。
ジャンルは一応スペースオペラなのだが、あえて言うならばSF全ジャンルと英米文学のごった煮である。というのも、七人の登場人物がそれぞれの身の上を語るのだが、それぞれがホラーだったりサイバーパンクだったり時間SFだったりで、しかもそれぞれの出来がいい。
続編として「ハイペリオンの没落」「エンディミオン」「エンディミオンの覚醒」がある。作者の思想がややうるさいところもあるが、絵になる場面が多くて楽しい。また、人類の各文化の多様性を高らかに褒めたたたえているのが、やや西洋・アメリカ中心主義ではあるが、気持ちがいい。
長門は「情報統合思念体によって造られた対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース」であり、言い換えるならば「宇宙人が作った人間の形をした存在」ということになる。「情報統合思念体」には「主流派」「急進派」「穏健派」「革新派」「折衷派」といった派閥が存在し、それぞれの思惑ごとに動いている。
一方、「ハイペリオン」には、英国の詩人ジョン・キーツの人格を再現したサイブリッド(人造人間みたいなもの)が登場する。これは、人類に様々な助言をするAI群「テクノコア」によって、ある目的のために作られたものである。彼は長門ほど万能ではないが、この背後にいるテクノコアには「穏健派」「急進派」「究極派」が存在していることが共通している。ちなみに、それぞれの立場としては、当面は人類とは共存する、さっさと人類を滅ぼして自分たちが覇権を握る、人類も自分たちも滅んでもかまわないので究極の知性を創造する、である。このAIたちはとっくの昔に人類を超えており、人類を裏切ろうとしている。というか、作中ではすでにある方法で人類をひどく搾取しているのだが、これは読んでみてのお楽しみだ。
設定の上ではよく似ているけれども決定的に異なるところがたくさんあり、よくできたオマージュだと思う。
結論から述べると登場する。そもそも、舞台となるハイペリオンという惑星には「時間の墓標」なるものがあり、そこの封印が開くと未来から様々な事物や情報が送られてくる。同時に「シュライク」という殺戮マシーンが封じられているが、シュライクは時折人間の願いを叶える、とされているのだ。七人の登場人物がハイペリオンまで巡礼に向かうのもそれが理由だ。
ここで未来と述べたのだが、実は未来は確定していない。「テクノコア」が作り出す究極知性が宇宙を支配するか、人類の集合意識が生んだ究極知性が覇権を握るか、この二つの間で揺れ動いている。ここでいう究極知性とは神と言い換えてもいい。つまり、遠い未来で行われる人類とテクノコアの戦いが、現代にも影響を及ぼしているのだ。なんといったって彼らは神なのだから、なんでもありなのである。
この状態は、まさに朝比奈みくる(大)の周囲の事情とよく似ている。現代に干渉し、自分たちの望む形の未来を確定させようと活動している点が近い。
「涼宮ハルヒの憂鬱」の全てを読破したわけではない自分が、本文から有効な証拠をあげることはできない。というか、いくつかのブログでそれを示唆する記述が十分に述べられており、自分が付け加えることは何もない。
よって本記事では、「ハイペリオン」で行われたテクニックを間接的な証拠として用いたい。以下、「ハイペリオン」のネタバレに触れる。読みたくない方は引用部分を読み飛ばしてください。
「ハイペリオン」の七人の登場人物は、旅の無聊を慰めるため、それぞれの出自を語る。一人はフィドマーン・カッサードという兵士である。仮想訓練の度に謎の美女モニータと遭遇し、そこでむさぼるように体を重ねるが、彼女とは仮想空間とでしか会うことができなかった。やがてアウスター(人類連邦に所属しない宇宙の蛮族)の襲撃を受けるが、そこで彼女と再会し、殺されかける。カッサードは彼女との再会を目指している。
もう一人の人物はソル・ワイントラウブという学者である。彼は娘である赤ん坊を抱えて巡礼に来た。彼の願いは、娘であるレイチェルの病を治すことである。レイチェルはかつて学者としてハイペリオンを訪れた際、シュライクによって年齢を逆行する呪いをかけられてしまった。父と同じ聡明な学者であったレイチェルは日に日に幼くなり、とうとう赤ん坊にまで戻ってしまった。レイチェルが「誕生」の日付を迎えるまで、あと数日しかない。
さて、結論を簡潔に述べよう。レイチェルの病は癒される。そして彼女は未来世界へと連れていかれ、そこで再び大人へと成長する。やがてレイチェルはモニータと名乗り、カッサードと出会うのである。
つまり、「涼宮ハルヒの憂鬱」のオマージュ元である「ハイペリオン」では、意外な二人の人物が同一人物であった、そしてその片方は未来人であった、というギミックが存在するのである。
もちろん、年齢遡行までオマージュしているのかどうかはわからない。記憶に蓋をしているだけかもしれない。ただ、妖艶な美女と無邪気な赤ん坊が同一人物であった、という驚きを、朝比奈みくる(大)とキョンの妹が同一人物であった、というかたちで本歌取りしている可能性は、検討される余地はある。
どうなのだろう。キョンの妹は小五だが低学年にしか見えないという記述もあるので、実は成長がストップし、年齢が逆転し始めているのかもしれない……。
鶴屋さんは「宇宙人と未来人だったら、どっちがいい? そろそろ決めといたほうがいいかもにょろよっ!」と発言したそうだが、これは今後の展開を予測する大きな鍵となる可能性がある。というのも、「涼宮ハルヒの憂鬱」が「ハイペリオン」をどこまでなぞるかははっきりしないが、もしも設定を強く意識しているのなら、「ハイペリオン」で「テクノコア」が人類を裏切ったように、「情報統合思念体」が最後には人類に敵対する可能性があるからだ。そして、みくるは人類と「情報統合思念体」との争いの中で、少しでも人類に有利な未来へと導こうとしているのではないか。となると、長門とみくるの決別は避けらないことになる。みくるが長門を幾分苦手としている描写を考えると、興味深い。
少しだけ触れておく。「ハイペリオン」「ハイペリオンの没落」のなかには、超能力は出てこない。出てくるのは「エディミオンの覚醒」以降であり、主人公たちがある能力に目覚めることで、クライマックスに人類の命運を大きく変えるのだが、これも読んでみてのお楽しみだ。
「ハイペリオン」であらゆる願いを叶えるとされるのは殺戮者シュライクである。実に気まぐれな神なのだ。そういうと、ハルヒが悪役シュライクだということになってしまうのだが、自分は違うと思う。明るい青春ラノベにこの設定は似合わない。願いが叶う、ということだけを拝借したのだろう。とはいえ、物語全体を通しての謎の一つ、ということは決定している。
それと、実はシュライクの正体は作中でも若干ぼやかされている。テクノコアが作った殺戮マシーンを人類側がのっとったことが示唆されているが、時間を行き来できるのだから時系列がはっきりせず、筆者の記憶も確かではない。
「エンディミオン」「エンディミオンの覚醒」の語り手はいたって普通の青年ロールであり、彼は破天荒な少女アイネイアーの守護者に任命される。とはいえ、物語の大半は奔放な彼女の振り回されながら進む。それこそ「涼宮ハルヒの憂鬱」の本編のように。
しかし、ロールとアイネイアーは最後にはひどくつらく悲しい別れ方をしなければならない。この設定が本編のキョンとハルヒの関係に輸入されていないことを願う。
それと、ジョン・キーツ(ジョン・スミスではないが)のサイブリッドは二つ存在し、片方が殺される運命にある、とだけ述べておこう。
彼は「ハイペリオン」四部作ののちに「イリアム」「オリュンポス」を発表している。トロイア戦争の世界、遠未来の没落した人類、機械知性たちの話が入り組んでいて、文学とSFのマッシュアップ具合が楽しいのだが、残念ながら「ハイペリオン」四部作で述べた人類の多様性を寿ぐ姿勢から後退し、明確なイスラム嫌悪が出ているのはいただけない。さらに、邦訳されていない最近のシリーズは、ヒラリー・クリントンが大統領になったパラレルワールドで、国民皆保険で怠け者になったアメリカ人が薬物におぼれているというすごく政治的に偏向した作品なので、翻訳されないんじゃないかな……。
【追記】最新作ではないのだが、2011年の「Flashback」という作品。シリーズではなかった。失礼。
【もう一つ追記】その薬物は、いつでも自分の人生の最高の瞬間を追体験できるというしろものだ。そして、世界のほとんどがイスラム過激派に支配されている。経済は日本に牛耳られ、南西部の州はメキシコのギャングに支配され、作中では地球温暖化が否定されている。アメリカの保守的な世界観を煮詰めたような感がある。
ヒラリー・クリントンについての記述は記憶違いかもしれない。ただ、イスラム嫌悪が強いのは間違いない。
https://sosbrigade.miraheze.org/wiki/ハイペリオン
おそらく、ハルヒ全盛期の頃に、こうした議論は出尽くしていると思う。だが、検索をしても類似した意見が見つからなかったため、ここに記録した。
それから、ろくに原作を読んでいないのに、そして記憶もいい加減なのに、好き勝手言ってどうもすみませんでした。
多数のコメント、感謝しております。また、「全部読んでいないのに書くなんてずうずうしい」との指摘、まったくもってその通りです。ファンの気持ちを逆なでするような行い、お詫び申し上げます。また、立ち読みも迷惑でしたね。未成年の頃とはいえ、今にして思えば赤面ものです。
自分としては、「ハイペリオン」を読んだ人間からは、「涼宮ハルヒの憂鬱」の設定はこう見える、と伝えたかったのです。笑ってやってください。また、類似した意見がネットになかったので、記録しておこうという思いもありました。
ただ、ブクマカにもあるように、ジオシティーズやインフォシーク、ヤフーブログなどの一斉削除が原因の可能性のほうが強いですね。はからずもアーカイブの問題にも思いをはせることになりました。
それでは、失礼します。
「スカイウォーカーの夜明け」については、ほぼこの記事に同意。
【ネタバレレビュー・批評】『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』は何を終わらせたのか
では、続3部作は、何をしようとしていたのか。
今回、「スカイウォーカーの物語が完結」と、さかんに宣伝しているけど。
それはフェイク。
そもそもスターウォーズは、1983年にエピソード6の「ジェダイの帰還」で完結している。
だから、新三部作(プリクエル・トリロジー)は、前日譚を描いているわけで。
今回の続三部作は、「ジェダイの帰還」で終わっていなかったことにして始まっている。
ちょっと意匠を変えて悪の帝国を復活させて、レジスタンスは、まだレジスタンスのまま。
旧三部作と新三部作は、よくも悪くもスカイウォーカー家の物語でありすぎたからね。
スターウォーズ・ユニバースを拡張・発展させるためには、それを脱構築(?)する必要があった。
続三部作が作品として成功しようが失敗しようが、メッセージは明確だよね。
三部作ずつ描くというスタイルからも抜け出して、もともとの構想にあった連続活劇 - Wikipediaになったんだ。
続三部作の行き当たりばったり具合は、結局そこを目指していたんだ!
今回、スカイウォーカーの物語は区切りがついたので、「ハンソロ」みたいな中途半端なキャラの復活は必要ない。
いっそ、フォースも忘れ去られた、さらに数百年後とか描いて欲しい。
あれだけの科学技術があるんだから、もともとの素質と厳しい修行の必要なフォースは、機械仕掛けで置き換えて。
科学に裏打ちされた風の、超大作スペースオペラ連続活劇になるのだ。
ファンは、必ず観に行くよ!
ただ増田は翻訳ものにあまり慣れてない気がする。おまけにSFだと専門用語が出てくるしそこからストーリーが発展してくんだから、想像するのが余計に大変なんだと思う。
だからいきなり長編を読むよりも、短編を読んだほうがいいと思うよ。いろいろな作品を味わえるし。
アシモフの「われはロボット」とか超有名な古典にして基本だけど、やっぱりすごく面白いよ。ロボット開発の歴史で幾度も訪れた難問をロジカルに解決していくミステリ的な展開、そこに人間の思惑や感情がささやかに絡んでいくのが飽きさせない。
ディックの短編集は、特有の暗さと自己の認識が揺らぐ不安がすごくてどんよりした気分になれる。映画原作も多いので、映画との違いを楽しむのもいい。
技術寄りのSFとは違うけど、ブラッドベリの「火星年代記」とか「ウは宇宙船のウ」は抒情的で詩的な文体がすごく読みやすい。科学が発達した世界で描かれる感傷的なストーリーが甘く胸に刺さる。ファンタジーやホラー系の短編も多い。
あと、有名作を扱ったアンソロジーを読むと、いろんな作家の作品やアイディアを読めてお得。有名なのだと「冷たい方程式」とか。
タイムトラベルやスペースオペラ、ホラーなど特定のテーマごとに選んだ本も多いので、好みにあった作品を探すこともできる。
夏への扉がぴんとこなくても、それこそ「時の娘 ロマンティック時間SF傑作選」なんてアンソロジーまであるし、古典的な恋愛SFのよさはこっちの方が堪能できるかも。
こういう現実にあるものを直接的にモチーフに落としたようなものは、原型となる作品を1個に定めるのって無理じゃね?
現代ファンタジーの原型なら指輪物語だとか、異世界転生の原型がゼロ魔で一度まとまったとか、スペースオペラの類型がスターウォーズとか、そういうことはある程度は言える。
あるいは60年代SFが冷戦と切っては切れないとか、ゼロ年代中期の
世界の(特にハリウッド映画)作品は9.11の影響を受けてるとか、ゼロ年代後期の日本の作品が3.11の影響を受けてるとか、そういう話はやはり出来る。
けれど、集団の小競り合い的なのは人類史のごく初期からあるようなことなんだから、原型を作品に求めるのは無理あるんでは?
またシベタクか〜って感じだけど。
西部劇が、日本でも「誰もが知ってる人気のジャンルと世界観」だった時代―それが”消滅”するまで - Togetter
西部劇なんか
「元ネタは見たことないけどオマージュやパロディを通してどういうものかは知ってる」
の典型例じゃん。
漫画なりアニメなりゲームなり、西部劇モチーフの作品は誰しも必ず通ってきてるはずだし、
スペースオペラなんかの派生も含めれば、むしろ知らないほうがおかしいとさえ言える。
別に流行ってるとは言わないけど「消滅」は明らかに言い過ぎでしょ。
「西部劇が好きだ」「西部劇を知ってほしい」という側なんだよね。
「どうして時代劇は無くなったんだろうね」
現実にある人気をわざと無視するかのように最初から諦めてしまう。
死ぬほどありきたりで申し訳ないけど、マンガだと「ヨコハマ買い出し紀行」とか
速水螺旋人のスペースオペラもの「男爵にふさわしい宇宙旅行」や異世界戦記SFもの「大砲とスタンプ」とか
小説だとコメディものの連作短編集をあたってみるといろいろあるよ
国内だとちょっと古いけど神林長平の「親切がいっぱい」あたりかな、海外だとさらに古いけど「ホーカーシリーズ」とか、個人的には好きだった
ジョン・ヴァーリイの六世界シリーズはテクノロジーが進化しすぎて常識が今とは全く異なっている世界の青春小説でめっちゃ面白い
最近面白かったのだと「明日の狩りの詞の」とかラノベ版「山賊ダイアリー」って感じで楽しいしイヌかわいい
叙情的でスケールデカいのもアリなら「火星年代記」とかもギリギリ日常ものに入るかもしれない
パッと思いつくのはこれくらいかな
ミュータントがうろついてて性別年齢が手軽に変えられる近未来とか、ファンタジー異世界とか、宇宙で生活する移民たちとか、データ化済みですとか、SFの日常はバリエーション豊富でいいよね
「好きな音楽のジャンルは?」と聞かれたら「サントラです」と答えられるくらいにサントラが好きだし、「好きな映画は?」と聞かれたら「スターウォーズ」と答えるくらいスターウォーズも好きだ。
「スペースオペラ」と言われるだけあって、ジョン・ウィリアムズのサントラは素晴らしい。彼がいなければこれだけ長く愛される作品にならなかったと思う。
しかし、エピソード7と8のサントラには「う〜ん」と言わざるをえない。もちろん、レイやカイロレン、レジスタンス、オク=トーのモチーフは緻密に計算されているし、他の作曲家に同じものは作れないだろう。残念なのは、どちらも「耳に残る」曲がないのである。
これまでのスターウォーズには、それぞれのキャラクターのモチーフを活かしつつ、エピソードごとに神曲と言うべき曲が一つはあった。
個人的には、ファントム・メナスならDuel of the Fates, クローンの攻撃はAcross the Stars, シスの逆襲はBattle of the Heroes, 新たなる希望はエンディングのやつ, 帝国の逆襲はThe Imperial March, ジェダイの帰還もFinaleを選ぶ。どれも映画のイメージを1曲で示している、「映画のための曲」である。Duel of the Fatesをアナキンとオビワンの戦いで流してもBattle of the Heroesほどの感動はないだろう。
7と8はどうだろうか。前述の通り、モチーフとしては耳に残るものがあるが、「曲」として残らない。7はさておき、8に関してはレイとカイロレンの共闘とか、ルークとのご対面とか名シーンが生まれているにも関わらず、そのBGMの印象が薄く、他と差別化されていないように思う。「7といえばこの曲!」というのがないんだよなぁ。
間違いなく、ジョン・ウィリアムズだからこそできることもあると思う。7でも8でもレイアやルーク、ヨーダ、ファルコンのテーマは非常に効果的に使われていて、本人でなければ成し得なかったであろう。特に、8のエンディングのキャリー・フィッシャーのクレジットに合わせてレイアのテーマを流すのには本当に感動してしまった。
しかし、やはり曲としてもう一声欲しい。ジョン・ウィリアムズが年でそんな体力が残っていないのかもしれないし、監督がルーカスでないからコミュニケーションが上手くいっていないのかもしれない。分からないが、ルーカスが一線を退いたからには、サントラも次の世代が作ってもいいのかなぁ、そんなことを思ってしまった。
そんなルールあったのか?隊員間の価値観の違いから、問題に対してどういった解決策を取るかで対立するなんてよくあるネタだったと思うが。
しかし日本のネットって「スタートレックを見てる」という層が全然居ないな。ある1つのジャンル扱いではなく
海外ドラマの1作品というレベルでしかファンがいない。SF小説のファンとかでもスタートレック見てるという
人の割合はそう多くはなさそうだ。
その理由というのはスタートレックはスペースオペラであってハードSFじゃないんでしょ、という誤解。
実際、スタートレックはワープで銀河内を移動するし、宇宙に住む知的生命体は少ない例外を除いてヒューマノイドだし、