はてなキーワード: ジョン・タイターとは
こういう人がジョン・タイターだったんだおるな
今更感あるけど、最近知り合いが未来人の予言の類を真に受けて、勝手に終末思想にハマり出したので書いておく。
断っておくが俺はSFが好きだ。ジョン・タイターも2062も、読み物としてめちゃワクワクした。
まず、未来人にはいくつかお約束があるので、おさらいしてみる。
これらの基礎になっているのが、パラレルワールドやバタフライ効果といった概念だ。
パラレルワールドは、大雑把にいうと「〇〇が、起こった世界/起こらなかった世界」が分離して並行するようなイメージだ。
この場合はパラレル時間軸という方が正しいかもしれない。カッコよく「世界線」と表現されたりもする。
そして、バタフライ効果とは予測の困難性を表す表現で、初期値のわずかな差が、結果に大きな違いを生むことを指す。
「ブラジルの1匹の蝶の羽ばたきはテキサスで竜巻を引き起こすか?」という問いに対して、その羽ばたきが他の何かに影響を及ぼし、それらが要因として積もりながら伝搬していく可能性を考えると、「起こり得るとしか言えない」という考えだ。
ベルリンの壁は、たった一人の伝達ミスを発端に崩壊に至ったと言われている。
その彼が伝達ミスを犯した要因は、疲れていたのかもしれないし、食あたりだったのかもしれない。
さらにその疲れや食あたりの要因は、隣人による前日深夜のどんちゃん騒ぎだったかもしれないし、食材の遅配だったかもしれない。
さらにさらにもっと手前の要因に遡ると、降雨の一滴や、小隕石の衝突に辿り着くかもしれない。
逆もまた然りで、今日あなたが蹴飛ばした小石がきっかけで、人類が滅亡することだって無いとは言い切れない。
バタフライ効果を否定できない以上、未来から過去へのタイムトラベルにはパラレルワールドの概念が必須になる。
大小はあれど、バタフライ効果によって引き起こされる「タイムパラドックス」を「新たな時間軸への分岐」という形で吸収できるようになるからだ。
そして、パラレルワールドを基礎にしたタイムトラベルには致命的な欠陥がある。
とても都合よく時間を分岐させない限り、パラレルワールドは無限に存在することになる。
係数が0でない限り、「1掛ける無限」も、「3掛ける無限」も、無限以外の解を生まない。
するとどうなるか。どこかの時間軸の一人のジョン・タイターが現代を目指した段階で、
文字通り無限のジョン・タイターたちが、同時に現代にタイムトラベルしてくることになる。
無限のジョン・タイターが物理的に出現すると、質量も無限になり、すぐさまブラックホールと化してしまう。
これが、今までに噂された未来人の出現が全て作り話だという理由だ。
仮に、無限の可能性やタイムパラドックスの壁も超えて、本当にタイムトラベルしてきたというなら、
その技はもう神の所業としか言いようが無く、解釈の揺れ幅を持った暗号伝達のようなケチくさい真似をせず、
堂々と神として降臨して、現代の迷える子羊たちを救ってくれることを期待する。
無限のジョン・タイターのくだりがイマイチ伝わりにくかったかもしれないので追記する。
このようなコメントがあったので、
便宜上、ジョン・タイターの言う第三次大戦で大雑把な分岐をイメージしてみる。
この場合、一見Aタイターだけがタイムトラベルを行い、それを俺たちが観測したものとして自然に見える。
3つの時間軸のうち、1つの時間軸からジョン・タイターがやって来たのだ。
無限のパラレルワールド分岐を認めた時点で、これは成り立たなくなる。
現在と未来は、1:1の関係性では無く、無限:無限の関係性になる。
上記の例では「全タイターのうち33%がタイムトラベルを行う」計算だが、
仮に、もっと色んな時間軸に分岐させて、ものすごく確率の低そうな「全タイターのうち0.0000000001%がタイムトラベルを行う」と仮定しても、
無限に試行すれば結果も無限にしかならない。0%でない限り、無限に何を掛けても無限にしかならないのだ。
1億とか1兆とか1京ではない。無限だ。
つまり、Aタイターがタイムトラベルに成功した(確率が0より大きくなった)時点で、∞タイターが押し寄せて来てしまうのだ。
確かに「現代の時間軸に、無限のジョン・タイターがやって来る」のは都合が良すぎたかもしれない。
バタフライ効果で無限にブレた結果、「全ての過去、未来が、無限のジョン・タイターで溢れる」の方が正しい。
やっぱり神じゃないか。
そもそもは暇だったのでwikiでジョン・タイターの記事を見ていた時
彼は”未来が変わる可能性がある”から漠然としたことしか予言できなかった。
彼が掲示板に書き込んだ情報を見ることで未来が変わる可能性がある。現在の私たちには予言が正しいのか間違っているのかはわからない
なので”未来人が存在する”ことを前提に彼らが予言したことが正しいのか、間違っていたのかを確認できる掲示板とかあればいいなぁ
具体的には
・スレが立つときに自動的にパスワードを設定する。これは可能な限り強固で簡単にわからないようなやつ
・一定時間後(一日後でも一ヶ月後でもいつでもいい)、パスワードを永久に公開する。公開後はスレに書き込めない
何がしたいかというと もしタヌキ型ロボットでもなんでもいいけど未来人がいるとしたら未来でパスワードを確認しない限りスレに書き込むことができない。
まぁシステムのクラックとかでパスワードが流出する可能性はあるけどそれはセキュリティーの専門家さん達に丸投げ
・未来人からみれば書き込みを現在の人たちがみるのは予言の後であり未来が変わる可能性は低い
・現在の私達から見ればスレッド立ち上げ時はパスワードはわからないのでそもそも不正手段でない限り書き込み不可
・でももし書き込みがあり、その内容が真実だった場合未来人が書き込んだ可能性がある。(もちろん不正アクセスで書き込んだ可能性でもある)
以上酒飲みながら5分で考えて書きました
私自身はヌルオタでありオタクに特別な嫌悪感を覚えている人種ではないが、また一人称が「私」だからって女だというわけではないのだが(笑)、
前々から1つオタク共に問い詰めたいほどの疑問を感じる所があった。異様にMが多いのである。日本男児情けないぞと言われてはやウン十年であるが、ちょっとそれとこれとは事情が違う。
一般人におけるドM男児の占める割合など比べものにならぬくらい、オタク男性の中でM属性を持つと判断される言動をとる人間が多いのである。
あまりにも顕著な社会現象であるためこの主張に異を唱える人も居ないだろう。それくらい多い。これは何故なのか。本当に何故なのか。
ところで、俺自身の性的嗜好(性癖という言葉は間違った日本語なので注意されたい)はどちらかというとサディストであり、古き良きSM文化にシンパシーを感じる人間でもあり、
努力家をドM扱いしたり安直な攻撃性をドS扱いしたりして茶化すやうな昨今の軽々しいSM文化には金太郎飴のように苦り切った顔をすることの連続である。
また、人間誰しも両面性を持つのだという人間観の持ち主でもあるから、特定の人間がSかMかの判断は簡単には行えないことも弁えているつもりだ。
しかしながら、基本的には男性は公衆の場ではSのほうがジェンダーとして自然であって、M男性を全否定までしないけど、
あまりそんな性的嗜好を前面に出すのはダサいし気持ち悪いから、プライベートなプレイとしてこっそりやっててくれないかなと思っているような偏った思想の持ち主でもあるので、
このドMオタクの問題をまこともって由々しき問題と捉えているわけだ。
それはそうと、このようにS嗜好をカミングアウトすると、即座に次のような典型的なツッコミが入れられるのが我が国のネット社会では通例となっている。
すなわち、「女性に対する苦手意識、ならびに男性としてのコンプレックスがあって、また現実に女性からまともに相手にされなかったり、酷い仕打ちを受けたトラウマ体験があったり
するから、なんとか優位に立ちたくてS妄想を繰り広げているのではないか?また、世の男性どもにSを期待するのも、女性へのいわば報復の一環ではないのか?」。
とまあこのような反応はごく自然である。というのも、トラウマと報復、苦手意識と正当化といった心理構造自体は、S男性という枠組みに限定されることなく、社会の至る所で見られ猛威を振るっており、
その暴力装置にびくびくと震えながら、疑心暗鬼に過ごしているのが現代人の諸相だからだ。したがって、安直にそのような認定をする気持ちはよく分かっているつもりだ。
しかしまあ、結局のところ性的嗜好は公に理解されるべきものではないし、理解を求めるものでもないと思うので、拙者は正当化することなくただS嗜好であると事実を述べるのみでござる。
とまあ今の話は余談であるが、本論と関係した部分もあって、基本的に性的嗜好はプライベートな性格を持つべきものであるが、
その性的嗜好とある程度関わりのあるジェンダーというシロモノは、これは公的な性質を持っておる。ここに矛盾が生じるわけである。
つまり、安易にお前はSだのMだの認定したり、くだらないSM談義でもりあがったりし、挙句の果てには俺はSまたはMなんだぜとばかりに公共の場で言動をとる。
そのようなことがジェンダー文化という名のもとに正当化されている気持ち悪い現代社会だなあ、とニヒルな顔で斜に構えながら厨二的に思うわけである。
でだ。オタクは空気が読めないと言われてきたが、それは一般人と価値観の異なる部分があるため、どうしてもわかり合えない部分があるのだ、という類いの擁護を繰り出すことはできた。
しかしながら、公共の場でドM自慢と言えるほどのアピールをしてしまうことには、ちょっと擁護をしかねる。
これと関連してバカ自慢、無知自慢という現象も昨今急速に広がりを見せている。バカや無知のフリをすれば批判されにくく、一定のある種の社交性を獲得することができる。
厳しいアスファルトジャングルにおけるその生存戦略は分からないでもない。しかしそこまでするかという話である。
元来女性社会においてはそのような文化があった。周知のとおり、女が女に言う可愛いは建前である。水面下では激戦が繰り広げられているのだが、表面上は謙遜して譲り合う。それが日常だった。
男性社会ではそのような文化は考えにくかった。男性は見栄と強がりの文化と言える。面と向かって相手を論難し、俺のほうが強いぜと威張る。結局大人になっても50歳になっても、形を変えるだけでその本質は変わらない。
孔子も60歳を耳順とした。これはどう考えても学問どうこうの話ではなく男性特有の一般的性質である。
それがどうよ。今では男性でもオタクに限定すればありえないくらい卑屈なのが多い。そう、卑屈なのである。
近年誤解が右肩上がりに蔓延しているが、本来的にはマゾヒズムと卑屈さはさほど関係がない。卑屈さというのは性格の問題であって、本人がどう足掻こうと常に卑屈なわけである。一朝一夕には変わらないし誤魔化せない。
しかしマゾヒズムやサディズムというのはあくまでプライベートな嗜好であって、外面的な性質(社会的性格や容姿)からそのような嗜好が形成されるケースはあるにせよ、さほど直接的な関係がないのである。
偉そうな社長で秘書にもブイブイ当たってるからってSであるとか、痩せていてクリクリした目をした男だから気弱そうに見えるだけなのにそれだけでMであるとか、
そういう安直な扱い加減は、もはや本来のサディズムやマゾヒズムとは全くの別物だということを理解してほしい。
そこで俺は本来のSMのことはサディズム、マゾヒズムと専門的に言い回し、現代の国際社会に蔓延る本来のSMとは似て非なるSMのことは世間と同じようにS、Mと呼んでいる。
この用法に従うと、極度に卑屈だからってマゾヒスト認定するのは抱腹絶倒のナンセンスなことであるが、ドM認定するのは全然オッケーということになる。
これでもう分かったと思う、オタク男性にドMが気持ち悪いくらい多い理由が。これはもう文化大革命と言えるほどの逆らいがたいIT社会のビッグウェーブなのである。
ジョン・タイターも2000年問題に挙げ、クレイ研究所も事態の深刻さを鑑みてミレニアム問題として提起した。それほど、事態は深刻なのである。