はてなキーワード: シン・ゴジラとは
私は当映画を見ていないし、その周りもあまり知らないから、どうこう言える立場じゃないだろうけど、藤島じゅんさんの場合は、映画そのものではなく、よかったと思える人(と言うか自分とは違う感想を持っている人)をバカにしたのもあるから、言われたんじゃないかなと思う。
逆に映画そのものの批判だけや、人が絡んでも「周りは絶賛しているけど、私にとってはおもしろいとは思えなかった。」など言い方が違えば変わっていたかと。
あと「シン・ゴジラ」の件以外でも、この人は個人誌である「今日のふじしま」(ブログの日常4コマをまとめたもの)の巻末コメントで、自身の商業誌の某ネットショップレビューに対して、ボロクソに書いていたことがあるからね。
しかもどこの誰のことなのかわかる内容だし、レビュー側も決して誹謗中傷ではなく、その商業誌の題材の界隈に詳しい人からのしっかり読んだ上の書き込み(ダメ出しだけではなく改善点も書かれた、建設的な意見)だったんだよね。
その個人誌の件は「シン・ゴジラ」の前の話だから、そう言うのがつい出してしまう人なんかなと思う。
そりゃあ建設的な意見でも不快に思う気持ちはわからなくはないけど、せめて読者などの外部の目にも触れるところではなく、身内や漫画家仲間内で愚痴るなりで留めて置いて欲しかった。
「東京2020オリンピック SIDE:A」を観に行きました。個人的には良い体験だったと思うのでシェアをしたいと思います。皆さんも観に行くと良いのではないかと思います。ただ、すごく良いかというと、少しモヤっとするところもあったので、それについてもここに書きたいと思います。
わたし自身について書きますが、映画を劇場に観に行くのは年間5本か6本ぐらいで、平均と比べるとやや多いのかもしれませんが、映画が趣味とかそういう人間ではありません。河瀬直美については、代表作の名前や作風や人となりと噂については知っていますが、実際に作品を見たことはありませんでした。ドキュメンタリーを劇場で観るのは多分初めてです。こんな私がわざわざ好き好んでこの映画を見ようと思ったのは、いろいろなところで書かれている、この映画の評判について興味深いと感じたからです。私は基本的に暇なので、ネタ探しのためにゲテモノ喰いくらいの気持ちでした。
「シン・ゴジラ」の中で、ヘリからの俯瞰の視点でゴジラと白煙を吹く街を、ニュース映像のように描いた場面を観た時、この映画は震災を経た2015年の我々日本人にしか感じることのできない気持ちを「いま」与える映画だと思い、震えるような感動を覚えました。「東京2020オリンピック SIDE:A」はそのような映画だと思います。
オリンピックが始まる1年ほど前から、オリンピックに対する気持ちは冷めきり、オリンピックなんてどうでもいいだろ、とわたしは思っていました。世の中にはオリンピックや競技の勝ち負けよりも大事なことがある。この映画では、そのことが選手自身の口から何度も発せられます。藤井風の唄うエンディングのテーマ曲の歌詞にもそのような意味が込められているように思います。世の中にはオリンピックより大事なことがあり、選手個人にも競技より大事なことがあります。その中でもあえてオリンピックに挑み、それぞれの立場で高みを目指す美しさや厳しさがそれぞれのエピソードによく描かれていると思います。そして、オリンピックをそのような、やや冷ややかな目で見ている、2022年現在の私たちの気持ちに寄り添った映画として私には感じられました。
Yahooのオリンピック期間中のアンケートでは「日本にいくつ金メダルを期待しますか」という質問に対して、もっとも多かった回答は「メダルの数は気にしない」だったと記憶しています。そして、この映画はオリンピックをそのような目で眺める私たちの気持ちをよく代弁しているように思うのは先に書いた通りです。しかし、そう考えた時に、私たちはなぜオリンピックというものを見てしまうのか、なぜそこに感動をなお感じるのか、というところに対する疑問に、作者(河瀬直美)はあまり答えてないように私には思えました。この映画のいくつかのエピソードの中では、目標に向かって努力をし、力を出し切って勝利する瞬間のカタルシスを描いているのですが、そのようなある種古臭いスポーツの良さを正面から肯定はしない姿勢を繰り返し見せられてきたので、わたし自身、「なぜスポーツを私は見るのか。スポーツ観戦で得られる感動とはなんなのか」ということを、映画の後半ずっと考え込んでしまいました。
振り返ると、時代の雰囲気として、国別対抗戦としてのオリンピックで無邪気に騒ぐことができたのはシドニーやアテネぐらいまでで、東京オリンピック前のコロナ禍が仮になかったとしても、私たちのオリンピックの向き合い方は以前と同じではなかったと思います。とはいえ、我々は(或いは少なくともわたしは)オリンピックが好きで、それを見て分かりやすく「感動」するのであり、作者自身にもその目線はあるように思うのですが、その「感動」ってなんなのか、が置いてきぼりなのです。すみません、あまり上手く書けていないのですが、モヤモヤするところ、というのはこういうところです。このモヤモヤ感自体が時代の雰囲気で実は河瀬直美はそこも含めて描きたかったのか、とかそんなこともボンヤリ考えたりもします。
他のところでも書かれていますが、この映画が、IOCの公式として製作され、公開がされているということが驚きではあります。とはいえ、私個人の鑑賞後の感想として、いろいろな価値観を内包しつつも前に進むオリンピックという存在は、以前のようなシンプルに善な存在ではないが、全体として好ましいものだと感じたので、あからさまな問題作とかそういうものでもないと思います。オープニングとエンディングには木下グループのクレジットがかなり大きくでていて、この、やや微妙な位置付けの映画のスポンサーとして彼らの力が大きかったんだろうなあ、と思ったんですが、そうしたサポートを引き出すのに、一部で言われるような河瀬直美のステージ外での政治力みたいなものがあったのかななどという思いを馳せたりしました。
繰り返しになりますが、オリンピックとそれを取り巻く時代の雰囲気をよく反映している興味深い映画なので、もし誰かに行くべきかと聞かれたら観ることをお勧めすると思います。この映画を仮に50年後の人たちが見ても、いま私たちが見るときの独特の想いは得られないと思うので、そういう意味において旬の映画なのではと思います。
映画の意味や位置付けのようなものではなく、映画自体についてあまり書いてないと思いましたので追記をします。
全体を通じて、映画の中での音のあり方が印象的でした。例えば私たちはリアルタイムでは、開会式の聖火点灯をテレビ中継の中での厳かな興奮として見ていたと思うのですが、映画の中では静寂の中で大坂なおみが階段をトコトコと駆け上がる音が強調されていたように思います。このシーンは、無観客開催という非常事態性やメディアを通じたイベントとその向こうにある現実とのギャップの象徴として感じられました。また、緊迫した試合のシーンでは、選手のフッと吐く息の音を際立たせていたり(どうやって録音したんだろうって思いました)、試合中の映像の背後に練習中の音声を重ね合わせたりといった、細かい工夫をしているのも場面を盛り上げるために効果的な役割を果たしていたと思います。
映像としての美しさという点では、冒頭の雪を被った桜の花の光景は、シンプルに美しいと思いました。また、競技会としての東京オリンピックの思い出の映像、という意味でカタルシスに欠けるかというとそういうわけでもなく、たとえばソフトボール決勝に関しては、試合展開がほぼわかる形で比較的素直に描かれていたりもします。上映時間はやや長く感じたのも事実ですが、退屈というわけではありませんでした(鑑賞前は実はかなり退屈なのではないかと覚悟をしていました)。普通に映画やドキュメンタリーを普段から見ている人なら、相応の楽しみ方ができる映画だと思います。しかし、繰り返しになりますが、スポーツをいわゆる感動ポルノ的に消費するような映画ではなく、観終わった後に、ちょうど今の私のように、意味を考え込むようなそういう映画でした。
シン・ウルトラマンを見た。
面白かったし、ゼットンが使徒のようになっていことにはNTRの喜びを隠すこともできなかった。それでも、どこかリアリティの欠如のような物足りなさも感じられた。
考えた。
おそらく、それは会社員の不在による物足りなさだ。会社に勤め、お給料をもらい、家族を養う人たちの雰囲気が見えない。ただ、会社員の不在は、実際のところシン・ゴジラでもシン・エヴァンゲリオンにも共通している。ただ、その二作とも会社がどうこうどころではない社会情勢で、政府かそれ同等組織の庇護力が何よりも重要なシチュエーションだ。会社員だった人たちは等しく被災地からの避難民で、日本で仕事をしながら暮らす自分にとってはフィクションの存在だ。
シン・ウルトラマンでは、現代日本と禍威獣が共存していた。禍威獣による被害は甚大そうだったし、それによって生活基盤を失った人たちがたくさんいるようにも見えるが、シン・エヴァンゲリオンのような極限的なコロニーが描かれるわけでもないし、シン・ゴジラのように廃墟に近づいた都市が描かれるわけでもない。禍威獣との共存関係で、会社員の生きる様が見えると、だいぶ違った満足感があったように思った。
ネタバレは、控えめに頑張るが。
嫌な人は、ご容赦下さい。
3
2
1
まず、
という前提を飲み込んで欲しい。
根拠としては、
・光の国からやって来ている。
・デザインの一部に アルカイック・スマイルが参照されている。
んで、
シン・ウルトラマン は、何を描いているのか?
現代でこそ、仏教は日本に需要されているが、仏教が伝来した飛鳥時代では〈蕃神〉、つまり異物だった訳だ。
作中では、
原理的には超科学によって地球人もウルトラマンと同等の存在になれると示唆されているが
これって、原理的には万人が悟れる(≒阿羅漢)とする仏教よね。
脅威でもある海外(外星人)の仏教(ウルトラマン)を含めた当時の最新知識を
んで、
自国と外交情勢が落ち着いて、自国のアイデンティティーを確認したくなったので
シン・ウルトラマンは、仏教が伝来し、日本神話が成立した飛鳥時代を引用しつつ
現代日本の外交情勢をモチーフにしているから物語構造が強い。≒面白い。
だが、
『シン・ウルトラマン』の問いかけ そのもの が不愉快な層が居ると。
オリジナル ウルトラマンが表現したかったモノまで分解再構成し、
ここまで長文を読んでくれて thx 。
※ネタバレあり
先日シン・ウルトラマンを観てきた。
賛否両論あるという話だったので楽しめるか不安ではあったが、自分は楽しめた。
予告動画でも出ていたメフィラスは最高にいいキャラしていたし、米津玄師のエンディング曲もよかった。
それなのにネットでは「開始20分で席を立った」みたいな批判もあるようなので、そういう人が何に対して憤っているかを言語化してあげたいと思う。
確かに自分も開始20分で「これつまらないかもな・・・」と不安になった。
なぜなら、シン・ウルトラマンはシン・ゴジラをウルトラマンでやった映画だと思っていたからだ。
シン・ウルトラマンをつまらないと思った人達も、同じような観方でこの映画を観たんじゃないかな。
とにかく人が死なない。
死んでいるのかもしれないが、その描写はない。
ウルトラマンが大気圏外から飛来して着地する初登場シーン、本当に死んだの神永だけなの?
ウルトラマンは神永の死にだけに責任を感じていたようだから、他には死人はいないのだろうが、都合良すぎるだろ。
ザラブ星人との格闘が始まる前、浅見を足元に置いてから格闘するけど、常識的に考えて浅見死ぬだろ。
ウルトラマンが一歩踏み出しただけで起きる地揺れでコケて頭うっただけで死ぬ。
ザラブ星人を投げ飛ばした先の明かりのついたオフィスビル、何百人という人が残業中だったんだろう。
百人単位で人死んでる。
でも、その描写はない。
シン・ゴジラではあったのに。
巨大化した浅見が倒れ込むシーン、野次馬何人下敷きになるよ?
こういった、リアルな災害としてのウルトラマンを期待して見に行くと、期待はずれだと思うだろうなと思った。
シン・ウルトラマンは、ウルトラマンであってシン・ゴジラをウルトラマンでやった映画ではない。
おそらく批判している人は、ここに引っかかってるんだろうと思うな。
飛ぶ〜こんな夢を見た(1999年 / 劇場未公開) ←知らん
ミニモニ。THE(じゃ)ムービー お菓子な大冒険!(2002年) ←ゴミ
隠し砦の三悪人 THE LAST PRINCESS(2008年) ←ゴミ
進撃の巨人 ATTACK ON TITAN(2015) ←ゴミ
進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンド オブ ザ ワールド(2015年) ←ゴミ
うーん、この、なに?
セクハラ関係は既に色々言われてるので、それ以外の点をメインに。
・全般的にストーリーが駆け足すぎる。オリジナル39話の要素を2時間に圧縮してるんだから仕方ないところではあるけど。
・戦闘シーンが後半になるほど淡白になるのは盛り上がり的にはどうかと。ガボラ編が一番面白かった。
・禍特対が終盤までほとんど活躍してない。自力で5体も倒してきたチームという感じがしない。
・シン・ゴジラの時もそうだったけど、仕事してる描写が「ノートパソコン開いて何か入力してる」ばかりなのはどうにかならないのか? もっとこう、なんか描き方があるだろう。
・禍特対メンバーの描写が薄い。生物学者という設定とか、どこに生かされてるんでしょうか? そういや役名を覚えられなかったなと思ったら、主人公とヒロイン以外あんまり名前を呼ばれてないよね。
・匂いで探すあれだけど、調印式で強奪するなら匂いを追う必要は無いのでは? てっきりその前に奪ってすり替えておくとかだと思ったんだけどな。
・ガボラ戦の時に神永さんがいきなりいなくなってるのに、誰も何にも言わないのはなんで?
・結構危険な現場に出ていくのに、ヘルメットもなしのスーツというのはどうなのか? オリジナル同様、内勤の時はスーツで現場に入る時は蛍光オレンジの作業着とヘルメットの方がリアルなんじゃないの?
30代前半の二人で観てきた。
私たちの世代はちょうどウルトラマンがテレビでやっていなかった世代で、今回がはじめて観るウルトラマンとなった。
私はエヴァンゲリオンが好きで、庵野さんの映画を観たくて行ったクチだが、友人はエヴァすら観ていない。
とりあえずの感想としては、シン・ゴジラの焼き直しだなぁと思ったのが第一。
「怪獣やウルトラマンが本当に現れたら日本政府(と官僚)はどう対処するのか」という描写が映画の大部分を占めているが、「それシン・ゴジラで観たよ」という気持ちになった。
初代ウルトラマンだと科学特捜隊は国際組織ということになっているから、日本の官僚組織に位置付ける必要は必ずしも無かったのではないか。
官僚組織のドラマを描く過程で物語が矮小化されてしまった気がする。
成田亨『真実と正義と美の化身』をデザインコンセプトとしたと公式サイトにあって、その経緯は胸を打つものがあったが、実際あんまり格好良くなかった。
全体的につるっとしているデザインがCG感を増幅させてしまっていて、ダメージを受けても傷つかない(体のラインの色が変わるだけ)というのが戦闘の緊迫感を減退させていたと思う。
特に後者について、カラータイマーというのはひとつの発明だったんだなと思った。
最後に思い付きを書くと、終盤にさしかかるところで、これはキリスト教っぽいお話だなということを考えていた。
神に比類するウルトラマンが、有限な人類の姿に身をやつし、人類を救うというのはかなりイエス伝ぽい。
ググってみるとその類似性を指摘する人がたくさんいて、勉強になった。(『ウルトラQ』の「Q」はQ資料から来ている、とか眉唾ものだけれども、結構おもしろい)
そんな感じで、なんやかんや書いたけれども、人の考察を読んでいたりする時間も含めると、結構楽しんでしまった。
初代ウルトラマン、セブン、帰ってきたウルトラマンぐらいは観ようと思わされた一作だった。