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2015-02-17

宮崎駿インタビュー:「シャルリー・エブド」の風刺画へのコメント

宮崎駿さんが、ラジオ番組で、仏週刊誌シャルリー・エブド」の風刺画問題についてコメントしていた。読売記事が出ている。

政治週刊紙「シャルリー・エブド」の本社銃撃事件をめぐる風刺画問題について、アニメーション映画監督宮崎駿さん(74)は、16日放送されたTBSラジオ番組荒川強啓デイ・キャッチ!」で、「異質の文明に対して、崇拝しているものカリカチュア風刺画)の対象にするのは、僕は間違いだと思う。やめた方がいい」と述べた。

 番組内で紹介されたインタビューでの発言で、風刺画は「まずもって自国政治家に対してやるべきだ」とも指摘した。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150217-00050003-yom-ent

俺はこの放送iPodで聞いたのだけど、この記事微妙力点が違ったと思う。(ずれているとは言わないですけど。)

まず、宮崎さんは、最初に、

風刺画は、まずもって、自国政治家に対してやるべきものであって、他国政治家に対してやるのは胡散臭くなるだけですよ。第一次大戦の時から漫画によって国民教育するということがずっと行われてきた訳ですから・・」

と、社会における風刺画役割から批判をして、その後、「異質の文明を云々」と倫理面の話をしていたと思う。

2015-01-18

フランス人言論の自由なんて

シャルリーエブドの事件によって言論の自由がどうのこうの、

あんなの言論の自由なんかじゃない、ただのレイシストだどうのこうの。

ここでフランスに住むワタクシより、フランス人言論の自由(個人編)ヘイトスピーチをお送りします。

ヘイト愚痴)が苦手な方はここでさようなら


ひと昔前の話から始めます

夫と結婚挨拶に夫の実家へ。

保守的な夫の母から送られてくる視線は痛かった。

当時、夫の母は日本中国の一部と思っていた。(それ、香港じゃね?でもこれ、私の周りでよく聞く話)

始終不機嫌の夫の母にもスマイルな私は「先進国に嫁いで喜ぶ後進国の女」のレッテルを貼られる。

ついでに言葉は覚束ないしあまり喋らないしで、バカレッテルも追加。

後進国バカ相手に散々喚いて優越感に浸るフランスのおばさん。

この頃は早口フランス語殆ど理解できなかったのが良かった。

フランスで挙げる結婚式役場通訳をつけろとの指示が出た。

嫁いですぐ、しかフランス過疎地

紆余曲折あって夫の母が通訳探しの担当になった。

夫の母「やっと見つかったわよ!中国語通訳者!」

夫・私「ふはっ?!」 

妻の国は中国じゃねー!って何度も説明してた夫がついにブチ切れた。

夫の母おろおろ、「どこがダメなのかサッパリからない」と、ついには涙をこぼす。

夫・私「何が分からないのかサッパリからない!」

後に判明したのは、このおばさんにとってアジア中国連邦という認識であったこと。共通言語中国語。60年間維持してた認識を変えるのは厳しかった。

田舎に住む夫の実家近くのショッピングモールにレッツゴー!

ショボイ…めっちゃまらん…でも笑顔の新婚さん♪

夫の母、どや顔。「どう、これがフランスよ!すごいでしょう!」ムフーーーッ!(鼻息

先進国ショッピングモールに喜ぶ後進国の女」…えっ、あっ、それ、私のことか!!!

夫の母に美容師に連れて行かれ、斬新な頭にされる。

夫の母、どや顔。「どう、これがフランス技術よ!」

後に在仏日本人の間でフランス美容師技術力がどう言われているのかを知る。どうりで。

フランスではめずらしい、晴れの日が多い地方に住んでいた。

雨が続くと、

夫の母「太陽の祝福を受けたこの地方でこんなに雨が降るなんて!あなたの国では普通のことでしょうけど!」

彼女は晴天が多い地方に住んでることを大変誇りに思っていた。

ここはフランスから!を理由に色々矯正しようとしてくる。

白米ばかりを食べ過ぎだとか、子ども母乳を与えるな・フランス語のみで育てろetc.

あくまアドバイスだと前置きして言いたい放題言うので、話は一応全部聞いて、でも全部言う通りにはしなかった。

ところがアドバイスだった割りに自分の思う通りにしないと延々としつこく絡んでくる(未だに)。

何年か経って夫の実家近辺の住まいから離れた土地引っ越した(ヤッター!)

引越し先は夫の実家より降水確率が多いと思っていたら、意外にも変わらない程度だった。

私「雨続きだったんですか?うちは昨日も今日も晴れでしたよ~」

これが夫の母の琴線に触れた。

「あんたの家の方角から雨雲が来たに違いない!雨雲はうちのじゃない!あんたのものだ!」と喚く。

「ふぇっ?!」

雨雲事件きっかけに夫に愚痴るようになった。

本当は義理家族愚痴絶対うまいと決めていたんだけど。

私(イスラム教)「お母さん、ちょっと私にキツいわ~…」

夫(フランス代表)「誰にでもああなんだから気にすんな。」…確かにいつも夫(政治家)や他の家族芸能人)とも口論ギリギリの路線。

ある時、夫一家が集まってる時に私の親の話になった。

シャルリー「あんたの親ってさぁ…×侮?€↑辱」

イスラム「はあぁあああーーー?!今何て言った?!!」

フランスメディア国民(夫一家)「?」←理解できてない。

イスラム「もう誰にでも同じ態度かどうかなど関係ない。自分が嫌なものは嫌だ」

フランス(夫)「そうか…ちょっと注意しておこう」

フランス裁判所(夫)「もうちょっと言葉表現)を控えるよう」

シャルリー「なんですってーー?!言論の自由よ!自分の思ったことを喋って(表現して)何が悪い?!私は表現する権利を持つ!!表現することの何が悪い!!お喋りは何の罪にもならない、何も変えられない!!お喋りぐらいさせろ!!勝手に悪く受け止めるイスラムが悪い!!」

フランスメディア国民「シャルリーに賛同!」

フランス裁判所「確かにここはフランスだ。国民平等言論の自由権利を持つのだ。シャルリーの表現には人種差別も悪意もないと解釈できる。シャルリーはただ思いついたことを喋ってるだけ。おしゃべりは無害である。よって、シャルリー、無罪!号に入れば郷に従うよう」

イスラム「ふぇっ?!」

そういう経緯で合法と見做されたシャルリーの表現は留まること知らず。

それどころか「見よ!これが言論の自由というものだ」とばかりに挑発的にさえなった。

言論には言論で返せ」とフランスが言うので、イスラムも時にはシャルリーに口答えするようになった。そして時に沈黙無視)。

シャルリーは沈黙が大っ嫌い。自分蔑ろにされている最大級侮辱と感じるようだ。(一家全員こういう考え)

シャルリー「自分の言いたいことぐらい好きに言わせろ!!(言論の自由)」←もう耳にタコができるほど聞いたぜよ!

イスラムの言い分「ならば私も言論表現の自由権利行使する!!」

フランス(夫一家)「有り!」



結論:

表現の自由権利があろうと相手を尊重する考えに基づいて権利行使すべき。しかしそもそも尊重がなんたるや分からないor温度差がある相手だと、結局何を言ったって心に届かない。

権利平等性を主張して相手の自由度と同じレベル自分自由でいれる。つまり、相手の自由を受け入れる真意自分自由のため。

③上記二つのこととフランス人性質などが絡んでモヤモヤ←これがシャルリー・エブドに対してのモヤモヤに似てる。

後日談:

一時帰国の際に夫の母を初めて日本に連れて行った。

夫の母、滞在中にキョドリ加速。「?!※€!」

私、内心どや顔。「これが日本じゃ!」ムフーーーッ!(鼻息

夫、露骨どや顔。「どや、これがワシの妻の故郷や!」(鼻息

フランスに戻って来てシャルリーXXXL(心も体も)→XL(心のみ)へ萎む。

イスラムはこんな田舎じゃ退屈でしょう…(イジイジ)」

イスラムをあの(例の)ショッピングモールに連れて行ったってつまらないに決まってる…(イジイジ)」

と、分かりやすく鼻っ柱が折れておりましたがそれも一時的で、また元に戻りつつあります(シャルリーは形状記憶合金仕上げ)。

それでは、オ・ボワー!

2015-01-13

エクスキュースとしてのリベラル

http://anond.hatelabo.jp/20150111070135

少し話が違うけれど、年末ネタのような話題があって

を書いたものです。

その記事はてなブックマークに、

mahomi4 全く的はずれすぎ。

というコメントがありまして、この人の見る当を得た見解ってのはどういうものなんだろうとブックマークをたどったところ、

http://blog.goo.ne.jp/iida-miki/e/0d68f604177d2bdeb387e20a5dc9afb0

フランス新聞社 シャルリー・エブド襲撃事件について

という記事にたどり着きました。扱っている事実が同じなのに見解正反対というのもなかなか面白いのですが、少々以上に気持ち悪いと感じたのも事実です。

その気持ち悪さを説明するのも手間がかかるのですが、やってみますと、

さて、そのアンテグラシオンやら政教分離があるので、

親がどの国出身でどんな宗教を持っていようがフランス国民として

平等に生きていけることになっている。とはいえ本当に違いがないか、

住む場所や肌の色、名前判断されていないかといえば

実際には「平等」なんて言えないだろう。アンテグラシオン

うまくいけば(理念上は)素晴らしいけど、そんなに簡単に

適応できないこともある。フランスは今でも階級社会の名残が

あり、地区ごとに生活環境もかなり違うので、移民の子として生まれ

様々な葛藤感情を抱いて育つ人がいるのは想像できる。

(今朝のLe Mondeにはシャルリーの絵に対して今でも怒っている

イスラム教徒中学生の話が載っていた。)

アンテグラシオンやライシテの実態について、その限界認識しながらもルソーまでひもといて、全体的にはフランス万歳!とまとめている点です。ベルばらオスカルでしょうか。

私がすごく気持ち悪いと言うのは、こういうことをフランス人が言うならまだわかるのです。マジョリティの側にはどうしても見えてこないものというものがあります。それは善悪問題ではなくて立場問題です。

有働出人みたいな人がそうでしょう。まあ、あの人の活動はそれなりに有意義な部分がありますが、あの人に代表されるような白人マイノリティは、有色人種の国、それも支配階級にはならない日本韓国に来て、初めてマイノリティ性というものを味わうことになります。そうすると見るものさわるものすべてが刺々しく感じられる。

アメリカにいる時は警察官黒人を狙い撃ちにしてもあまり気にもしていなかったような人が、職務質問日本警察官にされると激怒する。年間何十人と言うレベルで何とかバッシングで死者が出ているオーストラリアから来た人が、じろじろ見られるくらいで韓国レイシストと騒ぎ立てる。

こういうことは日本では私たちマジョリティから言われて初めて気づくという面もあります。言われてもただ反発するだけということもあります。自らがマイノリティとなった時に、マジョリティである時の視線・態度をかえりみるにまでなれればいいのですが、残念ながら、女性暴力を振るう黒人男性同性愛者を差別する女性は珍しくありません。

そしてそれを更にマジョリティの側が、見ろ見ろ、連中はこんなに野蛮だぞとはやしたてる。

あるドイツ人と話していた時、我が国民主的リベラルで、世界に冠たる我がドイツ、みたいな話になって笑ってしまったのですが、まあそれはその人個人の話なので、ドイツ人って全然変わっていないよねとは言わないでおきましょう。ただその人には人種差別はどこにでもあるけれど、東洋人がしつこくチンチョンチャンとまとわりつかれる国はドイツ以外ではそんなにはない、年間百人以上ヘイトクライムで殺されている国はそんなにはないということは「見えていない」のですね。

リベラルであると言うことが、他者を見下すこと、見ろ見ろ連中はこんなに野蛮だぞってなることが、リベラルがそのためのエクスキュースになることがあるのです。

リンク先の記事の何が気持ち悪いかと言えば、日本人で、パリに住んでいて、未だにシャルリー・エブドに怒っている中学生新聞記事しか見たことがなくて、見えないゲットーに守られていてマジョリティのような顔をしている、それがすごく気持ち悪いのです。

国民戦線ルペンだって、アンテグラシオン同化政策と言う意味で、ライシテはイスラム強制的に同化せしめると言う意味で大賛成なのですからね。

歴史をひも解いて言うならば、フランス革命以後、フランスは確かにリベラル原則を打ち立て、それを徹底してきた歴史があります。公平を期して言うならば、第一次世界大戦後、日本列強要求した人種平等原則英国アメリカは反対しましたがフランスは賛成したと言うことも付け加えておきましょう。

しかし同時に、そのリベラルでライシテな共和国下においても、フランスもまた数々の非道をなしてきたことは忘れてはなりません。

フランスでは支配層の横の流動性が高く、文化人メディア関係者政界に横滑りすることも珍しくはありません。新聞人であったクレマンソーが第一次大戦期のフランス首相であったように、エリート層は全体として支配階級形成していますポールデュシャン二十世紀半ばのジャーナリストで、第四共和政期にアルジェリア行政官に就任して、監獄を視察しています。その時、アルジェ独立派囚人たちの身体に、拷問の後があるのを見て首都に報告しています。その拷問の傷跡は、デュシャン自身の身体にもありました。ナチスに捕らわれていた時に拷問された跡です。

パリ解放の日の記録をサルトルが書き残していますルクレール将軍に率いられた自由フランス軍の入城をもってしてナチスパリ占領は終わりを告げて、自由だ!自由だ!というはじけるような喜びを書いています。そうして成立した自由フランス、ライシテなフランスの下でアルジェリアでは拷問が行われていたのです。

インドシナでのフランスの動きも決してほめられるようなものではありませんでした。フランス当局もいちまいかんで行われた人身売買ナチスから解放された人たちの手によってなされたものですし、フランスインドシナ独立を抑えるため、アメリカに対して原爆の使用を執拗に求めています。これも、自由なるフランス言論の自由フランス体制下でなされたことです。

はいちいちフランス過去の悪行をあげつらって、批判したいのではありません。フランスリベラル諸制度国家制度の補完部分であるにすぎず、国家制度のものを、相対化して批判するようにはなっていないということを言っているのです。フランスの内部にいるシャルリー・エブドは水の中にいるため水の重さを知りません。自分がネジであるに過ぎないことを理解できていないのです。それは結局、彼の中にマイノリティ性がないからであってマジョリティ側の暴力について無自覚であったからです。能力問題ではありません。性格問題です。

批判と言うもの嘲笑侮辱にならぬよう、あるいはそうなっても構わないのは権力の側に対してのみ、その注意深さが必要です。風刺画というメディアは明らかに全方位になす批判方法にはむいていません。

2015-01-12

シャルリー・エブド自称中立ネトウヨ

今の皇太子即位したころには天皇在日批判するから俺はレイシストじゃないとか言う中立を気取る排外主義者が激増しそうな予感

2015-01-11

"Je suis charlie”を掲げることは卑怯行為だろうか

question:http://anond.hatelabo.jp/20150110214339

googlecharlie hebdo believer non believerと検索してほしい。

https://www.google.co.jp/search?q=charlie+hebdo+believer+non+believer&biw=1052&bih=737&espv=2&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ei=m_qxVJzSKYS48gXb_IDoBw&ved=0CAYQ_AUoAQ&dpr=1.2

最初に出てくる風刺画

宗教を信じる人(イスラム教徒ぽい)が信じない人(non-believer) によって書かれたものを見て、傷つきショックを受けている様子。その横には宗教を信じない人が信じる人によって短剣で殺されている図。

確かに、イスラム教キリスト教を煽るような鋭い風刺画が数多く書かれたかもしれない。それが嘘ではなく本当のことだからこそ、多くの人が反応し、論争を巻き起こし、それがメディアとしての立場であったのだと思う。それに対して暴力で抵抗するという行為が短絡的で幼く、卑怯で、どんな理由があったにせよ許さざる行為であることは誰の目にも明らかであるはずだ。だからこそ、多くの人が"Je suis charlie”を掲げているわけで、私もここにいる、意見をもったその一人だ、という意味だと思う。をれを卑怯行為として責めるという人がいることに驚いた。

追記:言いたいことはこの方 http://blogos.com/article/103027/ が的確に言い表しておられますので追記しました。

この種の事件が起きると、被害者の落ち度を指摘する声が上がる。テロは許されないが、被害者も悪い、というわけであるテロ現実に行われているこのタイミングで、被害者側のアラを指摘するということの意味は、どんなにテロはゆるされないとの前提を置いたとしても、結局テロにも一分の理があるといっていることになるのだ。そう、ちょうど性犯罪被害にあった女性に、挑発的な服装だと非難するようなもので、その指摘が真実にかなっていたとしても、その効果犯罪行為の許容をもたらす。表現行為の当否をめぐる議論は、また別のタイミングで、暴力さらされていないところでのんびりやってもらいたいものである

Charlie Hebdoを

非常に極端な新聞社

とよび、フランスに住んでいるイスラム教徒の状況を

そんな中で自らの居場所であるイスラム教バカにするような、それもヘイトスピーチ同然な言論を行うことが、どれほど彼・彼女たちにとっては辛いことか

いじめられっ子に仕立て上げる、ここが論点の間違いです。だから"Je suis charlie”は適切でない、という理論は結局成り立たないばかりか、テロにも一分の理があるといっていることになると思います

追記:http://blog.goo.ne.jp/iida-miki/e/0d68f604177d2bdeb387e20a5dc9afb0 フランス新聞社 シャルリー・エブド襲撃事件について

に詳しく書いてあるように、Charlie Hebdoは

シャルリー・エブドの風刺については、何もイスラム教だけに限ったことではなく、イスラム教、というよりもイスラム原理主義など、行き過ぎてしまったものに対する風刺を中心としていたようだ。「表現の自由」というフランスプレスフランス文学哲学の根幹とも言えるようなもの代表し、具現しつづけていた新聞社だった。彼の風刺画あくまでもユーモアであり、誰かを傷つけようという意図ではなく、「ちょっとこういうのって行き過ぎ難じゃないの?」という状況を風刺画で描いていた、ということだ。

わけで決してイスラムに対するヘイトスピーチではなかったということは非常に大切な事実であると思う。

追記:根本的にテロ容認論ではないと言っていながら"Je suis Charlie”を掲げることは卑怯行為というのがどうも矛盾しているとしか思えない、いま、この時期に多くの人が"Je suis charlie”を掲げること=”テロ容認できない”からである。”Je suis Charlie"は、私はイスラム教徒ヘイトします、というような意味ではないと思います

追記:id:angmar ジャイアンCharlie Hebdo のび太イスラム教徒とする理由がわからない。どちらかというと逆だと思う過激で暴力的で人の意見に耳を貸さなジャイアン過激派イスラム教徒に対して、コツコツとジャイアンを風刺(非難嘲笑含む)してきたのび太Charlie Hebdoがジャイアンに殴り殺されたという風にも言えると思う。クラスのみんな=フランスはいろんな意見があって、ジャイアンが悪いという人もいれば、でもジャイアンジャイアンなりの生き方があるだろうと寛容しているひともいる、ジャイアンが怖いし敢えて面と向かって非難することはなかったし、のび太ちょっとやりすぎじゃないって思う人もいたんだけど、この機会に誰もがジャイアン、いくらなんでも人を殺すのはよくない、となっているんではないんですか。

追記:id:kantei3 私はこの時点で"Je suis charlie”を掲げること=”テロ容認できない”ということだと思うので、"Je suis charlie”は卑怯ではないと思いますイスラムなんとかが主要メディアを買い取って、それ方向の出版ばかりやったらそれは非難されるべきことだと思います。Je suis charlieは、繰り返しますが、私はレイシストです、私はイスラム教徒ヘイトします、というような意味ではないと思います

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