はてなキーワード: システマチックとは
少女漫画について衰退しただの色々言われているけど、個人的には単に工業化しただけだと思う。少女漫画より以前に女性向け小説はもっと以前、70年以上前から工業化を迎えていた。主な要因は、ロマンス小説界隈ににおける寡占企業とも目されるハーレクイン社の方針である。この企業は自らを「ロマンス工場」と銘打って、システマチックな小説生産体制を作り上げた。システマチックというのは比喩ではなく、作家に細かいガイドラインを渡し「これに沿って描いてくれ」と指示し出来上がりにも具体的にNG要素を指摘する等して「規格外品」が出荷されないように気を配っている。作家募集や素人の原稿募集の際にも同じくガイドラインを示し「これに沿って描ける人」を基準にし、選考することによって沢山の作家を抱え次々に新作を発表しながらも「ハーレクインらしさ」を喪うことなく読者の期待を裏切らず作品の質を一定に保つことに成功している。これは発足当時の(大衆文学やコミックも含めた)文学には盲点の発想で、作家独自の個性とか奇抜な展開とか新しい視点の開発とか「売れる物語にはオリジナリティが必要」という固定観念を打ち崩したのである。そして、そういった固定観念と共に打ち壊されたのが読書のハードルであり、複雑な設定や作家による当たりはずれをたのしめないタイプの読者を大量に増やすことに成功した。即ち、激しい「喜び」はいらない… そのかわり深い「絶望」もない…平穏な読書生活とを求める顧客を開拓したのだ。これは所謂オタク(物語に精神力や頭を使いたい人々)以外の層にとって非常に効率的であり、今の日本における少女漫画はこれに近づいてきたのだと思う。文化の衰退ではなく、少年漫画とは進む方向性を変えた発展といえるのではないだろうか。
社会は馬鹿ばかりで虚しいし、不幸はこの世からなくなりません。
みんなその場限りのことしか考えていないので、いつまで経っても全体の幸福度は上がらないから、くだらない娯楽で馬鹿を支配するシステムが発達して、オーウェルの小説のようなディストピアまでまっしぐらでしょうね。それがある意味で本当に平等な世界なので。
『水が上から下に落ちるのが当たり前』という表現がありましたが、その通りでこの世界はエントロピーに支配されています。
壊すのは簡単ですが作るのは大変ですし、継続するのはめちゃくちゃ困難でも諦めてだらけるのは秒でできます。
何かを始めるにはエネルギーが必要ですが、そのエネルギーも積み重ねによる貯金や、将来への希望という不確定な報酬を担保にしているので、負の連鎖に陥ればもう手に入りません。
やってもどうせ意味ねえし、どうせ報酬だってたかが知れてるし、昔同じものを手に入れた時は確かに嬉しかったけど、終わってみたら大したことねえなと思えるし、そんなもののためにまた頑張るのなんてアホくせえし…
ちなみにエントロピーは割れたグラスを元に戻すことはしませんが、時折好循環が起きて何もないところからエネルギーを起こすということもあるらしいですよ。まあ負の循環の方が大きいのですぐに掻き消えてしまいますが。
この世って頑張ることを前提としてるくせに、頑張って手に入るものたかが知れてて、しかも頑張んなくても存在することはできるとかいうよくわかんねえバランスなんすよ。
でもそんなの当たり前じゃないですか?
そんな当然のことに虚無を感じてるんですか?
私があなたの文章を読んで思ったのは、フェアな視点が圧倒的に欠けているということです。
建設的な議論を歓迎したいのなら、まず自分の思想の反対意見を全肯定してみてください。
その上で両者の思想を比較検討し、デメリット、メリットを把握した上で最終判断を下してみたらいかがでしょう。それが知性ある人間の行為だと私は思います。
社会は虚しい
→テレビやツイッターの議論を見て、世間のくだらなさを実感しているのなら、そのくだらなさを大前提とした上で、それでも人間はゴミなのか?できることや考えられることはないのか?と思考している人たちにも目を向けるべきです。
一歩引いて世間を見ることができるのなら、世間と自分という構図からも一歩引いてメタ化することもできるはずです。
そういった思考をしている人々は、漫画、絵画、プログラマー、音楽、科学や数学など様々な分野にいますが、一番わかりやすいのは文学だと思います。
あなたは人間をシステマチックに見ているくせに、小さい命にも、弱い立場の人間にも情を寄せていますね。
全ての人間が救われるべきだとか、
命は平等に扱われるべきだとか考えているのでしょうか?
でも周りを見れば人間は愚かで救いようがないし、現実的に真の平等を目指すと全人類思考せずにバーチャル世界で家畜化するしかないのではとか考えて、虚無になっているのでしょうか?
それ単純に考え方がクソ真面目なだけじゃないですか?
もし人間の平等を考えるのだとしたら、人間の不真面目な欲望も尊重するべきです。
戦争は楽しいし、いじめや差別は気持ちがいい。浮気はダメだと分かっているけど魔がさしてやってしまうし、結婚したら幸せが保証されるかもと思いながら三人に一人は離婚している。
でも全部欲望でそういうのも人間に必要です。背反理論であり、片方を全て取っ払うとか無理な話で、それも含めて人間として扱うべきでは?
それでも自分の理想を追うのだとしたら、それは理屈ではなく感情的な判断です。あなたの理屈を否定しきれないように、反対の理屈も否定しきれないので結局は感情に頼るしかありません。感情的な判断を下しているという意味では、あなたから見える世間の人たちと同レベルですね。
私もあなたも結局感情のレベルでしか判断できない豚で糞虫です。
脱線しますが、20世紀にウィリアム・フォークナーというアメリカの作家がいました。
彼は南部アメリカの架空の土地を舞台に、将来に絶望するしかない生まれも育ちも最悪な人間や、恵まれた人間も贔屓目なしに平等に描いてます。
いいことも悪いこともフェアに、淡々と現実を綴った彼は、ノーベル文学賞受賞講演でこう語ったと言います。
「人間は単に生き永らえるのではなく、勝利すると信じます。人間が不滅なのは、人間が生きとし生けるものの中で唯一疲れを知らぬ声を持っているからではなく、人間には魂が、憐れみを感じ、犠牲的精神を発揮し、忍耐することのできる精神があるからなのです。詩人に、作家に課せられた義務は、こうしたことについて書くことなのです。人の心を高めることによって、人間の過去の栄光であった勇気と名誉と希望と誇りと思いやりと憐れみと犠牲的精神を人に思い出させることによって、人が耐えることの手伝いをすることが、作家に与えられた特権なのです。詩人の声は、単に人間を記録したものである必要はありません。それは人間が耐え、勝利を得るための支えの一つ、柱の一つになることができるのです。」
こんな偉大な人物が人間を信じているのですから、大して考えてない行動していない我々が諦めてしまうのは早すぎると思いませんか?
ワンピース一枚、スカート一枚、欲を言えばカットソーかブラウス一枚とカーディガン二枚か、カーディガンとニットを各一。
後半飛ばしてワンピースとスカートとカーディガン一枚でもいいかな。
ワンピースをセットアップっての?ああいうのにしたらいいと思う。そんでカーディガン着ておく。
お見合いとか最初のデートは写真と同じ服か、カーディガンだけでも同じにする。
写真と服変えるにしても、最初のデートはとにかく毎回同じ服で行ったらいい。考える時間を省くんだ。どうせ相手にとっては初めて見る服だ。
頑張って着ていく服考えて行ったのにうまくいかないのめちゃくちゃメンタル削れる。
特に私別にフェミニンな服普段着ないから。だからシステマチックにする。
欲を言えば二回目のデートまで服固定にしたい。固定は同じ服を着ていくという意味ではなく「AさんとBさん、それぞれ最初のデートの服は同じ」って意味ね。
あと服の感じ変えたら「イメージ違った」って振られる話を複数見聞きしたので、二回目のデートくらいまでは写真の印象と揃えた方がいい。
写真と同じワンピースに違うカーディガンとか、カーディガンを残すとか。
写真と同じ格好で行くの抵抗有るなら約束取り付けるときに「分かりやすいように写真と同じ服で行きます☆」とか先に言ったらいい。親切でやってやってる感を先に押し付けるんだ。
あと最初の一二回くらいはプロにメイクしてもらおう。3000円くらいでフルメイクやってくれる。こういうとこね。
でもこれは良く見せるためじゃなくて、己を鼓舞して更に良く見せる投資です。
だいたいプロのお姉さん「これから婚活なんです」とか言ったらめっちゃノリノリでやってくれるし、メイクのコツとか教えてくれる。透明感とか乗せてくれる。
ゆりやんレトリィバァ似の私のことも石原さとみ村の一番のゆりやん似にしてくれた。
普段あんまりメイクしない人はそれも伝えたら「盛り過ぎないけど透明感があって可愛らしい顔」にしてくれる。これはほんとにやってもらった。
普段そんなの着ない人も一度その局地を目指そう。そんで自分と女子アナ、CanCam系を繋ぐ線上にある「自分に似合う可愛い綺麗系」を見付けよう。
遠いとこから近い方に手繰り寄せた方が楽です。地引き網だよ。
一歩一歩最果てを目指すのは辛いから、まず最果てまで行こう。
ただいつも服買う店でそれっぽい服探したらダメだ。
「そういう店」で「自分でも着れる服」を探そう。
「服なんてどうでもいいじゃない」って言う人多いけど、どうでもいいなら一度「大多数から好印象を持たれる服」を着たらいいじゃないか。
「服しか見てない人が来たら嫌」って言うけど、そんなの手早く切ればいい。あといい人はちゃんと「良く見せようとする努力」を汲み取ってくれる。
何においてもパッケージが綺麗なことに悪いことはない。
あと服の可愛さの難易度下げたいならデザインの難易度下げた分、襟ぐりにビジューがあるやつにしとけ。顔の回りキラキラさせておけ。
それだけで男は「女子アナみたいな服」って思うよ。たぶん。
あとどうせなら自分に似合うピンク探して着たらいい。出来れば上半身!
「スカートならまだ…」とか言う人いるけど、どうせ向かい合ってご飯とか食べてたら下半身見えないから。
ピンクが無理なら若草色とか柔らかい黄色とか。なんかとにかく上半身に自分に似合う優しい色とキラキラするやつ。
あと顔色よく見えるやつ。
服はレフ板だよ。
ワードローブを全部変えなくていい。写真とデート二回分だけ持ちこたえろ。
着回したら三回いけんだろ。
あとさっさと「普段もっと違う服着てる」とか告白しておけばいいよ。
とにかく最初期の間だけチャラチャラして世の中に迎合しよう。制服でシステマチックにな。
逆にここまで来て服が女子アナ系じゃなくなったら嫌だって男なら要らないから切ろう。スッパリと。
写真とか初対面の服は本で言うなら表紙です。
表紙が今風で手に取りやすかったら案外中身が難解でも手に取る。手に取って中を見てもらったら表紙と印象違ったけど中の方が好みに合うとかあるから。
中身ドグラマグラでも表紙が人気萌絵師だったら手に取る人いる。
読んでみたらクセになって新しい扉開いちゃう人いる!
僕だけのドグラマグラを手に取らせよう!
みんな婚活服で悩むのはやめよう。
まずは世の中に迎合して、お手本通りだけど自分に似合う服を探そう。
入り口だけキラキラして中見てもらえたらうまくいく確率上がる。まずは手に取らせるのが大事。
でもいつもと違うのストレスだからシステマチックに行こう。服よりもリソースを割いて拘るべき所がある。
服にアイデンティティを置いてる人は拘っていいよ。
※追記
反応してくれた人いた、ありがとー。
お察しの通りアラフォーの殴り書きです。
デブスのアラフォーだけど数年前に一年の婚活ののち結婚してるよ。
アドバイスのつもりはなかった。
増田より若くて可愛いい子が苦戦してるの見ると歯痒いとは思う。
上から目線に見えたらごめんね。
普段しない格好で気に入られても…って意見あったけど、見た目を良くするのはただのきっかけだよ。
あと具体的なブランドがないってのはデブスだから普通サイズの増田のブランド知らないんだ、ごめんね。
デブスの増田は組曲とか着たよ。新宿伊勢丹と池袋東武はデブの聖地だよ。
※再追記
何度も出てきてすまない。
重ねて言うけどこれは「選ばれるため」でも「好きでい続けてもらうため」の話でもないよ。
もっと手前の選択肢にするかしないかの足切りをされる確率を下げる話。相手の視界に入りやすい格好しようってだけ。
女の人も婚活アプリでトゲトゲのついた服の世紀末覇者みたいな人と、ちゃんとしたスーツ着た飯尾くんなら、飯尾くんとペッコリ45度する人の方が多いでしょうっていうだけ。
「男性受けのいい服」って考え方がキツかったら「お母さん受けのいい服」って考えたらいいよ。
世の中の中産階級お母さんが「今日の服可愛いじゃない」って言ってくれそうなヤツ。
多分男性受けとお母さん受けは近似値だと思う。
あとアプリとかの複数枚写真が登録できるところなら、普段のスナップも登録したらいい。
男性もちゃんとした写真の他にスナップ入れるのアリじゃないかな。友達と楽しく撮った写真は確かにおすまし写真より素の良さが出るよね。
メイクに関しては女性は分かってくれると思うけど「ナチュラルメイクが一番難しい」と思うの。
だからプロに頼むのは「ナチュラルで盛り盛りじゃないやつ」だよ。
いや、お前着物が私服だった時代の事を洋服が普及した今でも言うか?
実際問題お参りの服装とかどうだって良い。ただ地元の神社とかだと写真館と提携してたりして神職のくせに良い顔しなかったり差をつけたり平気でやるのでいっそメジャーどころの方がシステマチックなのでストレスも少ない
そもそも三歳の子供が着慣れてない着物を着て境内への移動、祈祷、写真撮影を良い子にするわけがない。こだわりが無ければ写真撮影だけ着物で、それ以外は私服が一番ラクである
神社は一生に一度とか言うけど、ぶっちゃけ七歳の時にやればいい。だいたいそういうのに必死な神社は七五三のお納めを1万~とかにしてる。でかいとこだと何も言わないし、5000円からとかだし
鬼滅の良さは「マニアック感」を出しつつ設定はマニアックではない(覚えなきゃいけないことは少ない)&一見ショッキングだけど救済措置を用意してフォローしてる」のがヒットした理由じゃないかと思う。キャラは大胆に殺して「これは今までの普通のマンガと違う!」と特別に思わせつつも天国描写とかでファンを傷つけすぎない(進撃は傷つけすぎた感じ)。学園パロディつけて死亡済キャラ萌えしてたファンも逃がさないし、殺しまくって話題にした後、二次創作で人気のキャラをくっつけての最終回発情期と転生のコンボでファンサービスも欠かさない。意外と多い「これは他のマンガとは違うの!と言いたいがきつかったりマニアックすぎる展開は嫌」という層をがっちりつかんだ、凄くよく考えられてたシステマチックな頭のいいマンガだと思う。
つまり、アニメ化前は「話は面白いけど伏線とかミスリードとか考察要素とかそこまでないし設定は大味なので、アンケート出すような設定に矛盾があったら萎えちゃうような層」にはそこまで受けなかった。しかし、そういうジャンプアンケート層には多いが世間一般では少ない層には打ち切りにならない程度に受け、BLEACHとかNARUTOみたいな専門用語とか技の仕組みとか出されてもなあって層には「これはマニアックで私位しか好きじゃないかもという特別感と、求めてるマニアックすぎない王道な面白さ」が両方満たされる漫画としてヒットしたんじゃないかな。
今夜、私が頂くのは、
トゥーゴーパーソナルリストレットベンティツーパーセントアドエクストラソイエクストラチョコレートエクストラホワイトモカエクストラバニラエクストラキャラメルエクストラヘーゼルナッツエクストラクラシックエクストラチャイエクストラチョコレートソースエクストラキャラメルソースエクストラパウダーエクストラチョコレートチップエクストラローストエクストラアイスエクストラホイップエクストラトッピングダークモカチップクリームフラペチーノ!
今夜、私が頂くのは、
リヴァイヴァスライバベル水撃スープジャイアントロコ金剛カイザーブラスター陽子ロケット鬼バルカン破壊鉄下駄電束火炎プラズマ跳弾神速熱線放射ソニックディフレクト電撃濁流清流アル・三スカイ燕曲射短勁フラッシュライジングロザリオアル・十字塔無月真アル・羅刹掌!
あと一つ面白いのが思い付きませんでした。
今日さもう午前中忙しくなると思って、
ぱぱぱっと書いていて出掛けようかと思ったら
案外思いのほか早く出掛けることになっちゃったので、
出掛けて一仕事終わって返ってきたところなのよ。
9月というとさ、
新しい手帳の発売がぞくぞくと開始されて魅力的な手帳が街に溢れるんだけど、
これ絶対手帳を使わないでまた1年終わっちゃうの予想しなくても結果としてはそうなるから、
見なかったことにしたいところだけど、
あの手帳と言う
まあ来年のはなしをすると鬼に金棒って言うし、
そう言えば
いつもお弁当を買っているお店でお味噌汁プレゼントキャンペーンを太っ腹にやっていたので、
泣きっ面に味噌汁だわよ!
本当に!
泣いてる顔にお味噌汁かけるなんてどんな酷いやつだよ!って思うけど、
なんのお味噌汁かは選ばせてくれなかったけど、
それはさすがに贅沢かしら。
てかさー
今思ったんだけど、
お味噌汁タワーとか
意外と無くない?
色々な種類のお味噌汁が楽しめるお味噌汁パーティーはあってもいいとおもうし、
なみなみとお味噌汁のお椀からあふれるお味噌汁は迫力ものじゃない?
私も言ってみたいの!
タケヤミソ開けて~!って
シャンパン開けて~!みたいな感じで!
あれタケヤミソの1キログラムのパック開けたら相当お味噌汁が作れちゃうし
もうこれ私のおごりだからじゃんじゃん飲んじゃってよ!って
景気よくない?
ぱぁーっといきたいわ!ぱーっと!
で今日もお味噌汁キャンペーンやってっかと思ったら昨日までで、
私すっかりお味噌汁のオマケを思いっ切り欲しがってる人の体になってるじゃない!ってちょっと恥ずかしかったわ。
まったく、
うふふ。
って冒頭にかなり引っ張られてる感あるけど、
私ハムタマゴサンド大使になれる自信あんだからね!って意気込みで今日も美味しくいただいたわよ。
昨日たくさん作ったシンプルレモンオンリーウォーラーが半分残ってんので
それ飲みきりよ。
暑いから朝の水分補給と日中の水分補給と夜寝る前とかの水分補給とかも、
もう思い付いたら飲む感じで
今日もガブっと飲んじゃって!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
2日間スタジオに籠もってました、と言うと聞こえはカッコいいですが。大量に借りてきた商品のブツ撮りを社内フロアの隅っこでやってただけです。
ここだけの話カメラは好きなのですが写真を撮るのが好きと言うわけではないので、ただたんにカメラに詳しいから撮影担当というポジションです。
でも結構機材をいろいろ揃えてもらったので、モデル撮影から何でもある程度はできるようになりました。
撮影メインで食ってけるかというとそうではないのですが、まあなんとか頼られてます。
最近はシステマチックな撮影システムとかアパレル系では便利に素早く撮影できて魅力的ですが、めちゃくちゃ高いです。それこそもうカメラマン必要なくなるかもしれませんね。
今日もいくつか増田を書きましたが、トラバやブクマがつきませんでした。
4年前のことを考えてみると、今とは違う場所にいて、今よりも考えなしに過ごしていたと思う。でも今読み返しても「そうだそうだ」と思えることが書いてあって、同じ人間ではあるんだな、と妙に安心した。
なぜ久々に投稿しようと思っているかというと、忙しすぎるのと、そこまでして生きる意味が分からなくなったからだ。
4年前は結婚していなかったが、今も結婚していない。4年前の時点で「自分のために生きるのに飽きた」と言っていたのに、今でもまだ自分のために生きている。昔よりは考えて生きるようになったが、そのぶん面倒くさい人間になった。
一応、世間一般で多くが良い印象を持ってくれる職場に務めていて、自分のやりたいことがそれなりに出来ていて、人間関係も過ごしやすい。自分自身、他人にあまり興味がなくて、できれば全てを機械のようにシステマチックに意思決定していきたいと思ってる。それは世の中では多数派でないようだけど、今の職場は良い意味で機械のような人が多い (別に人間らしくないというわけではなく、意思決定において理屈が理屈のまま通る部分が多いということ。機会は100%理屈だから) 。
とはいえ忙しすぎる。このご時世仕事があるだけでもありがたい話だけど、割と文字通り朝から晩まで働いてもタスクが減らない。
小さい部署なのでひとりひとりがワンオペのような感じで仕事を持っているので、シェアすることが難しい。僕の上司にあたる人はいて、僕の業務はその上司がフォローしてくれるんだけど、コロナによって増えた仕事への対応で手一杯で、本来フォローしてくるところが「承認 or 非承認」を判断するだけになり、一緒に考えるような感じではない。
そういう状況で僕の仕事が回らなくなっているので、「できてません」が増えてきて、別に怒鳴られるわけではないけど指摘を受けることが増えてきた。多くは自分の不手際や不備によるものなので、自分への苛立ちも同時に募る。上司は全般的に良い人で僕よりも仕事ができるので、結局のところ改善すべきは僕のところにあるのだ。それがまたイライラする。
そんなことを考えながら深夜に仕事してると世の中の全てに苛立って、全てを壊してしまいたくなる。んで時々マウスやキーボードを壊す。めんどくさい。めんどくさい。人生がめんどくさい。これは実は5-6年前に増田に書いていた。まるで成長していない。
加えて社外とのコミュニケーションで生身の人間と話すのが疲れる。特に「人間らしい人間」と話すのが疲れる。社内は「理屈が通る割合が多く、予測がつきやすい」機械のようなコミュニケーションができるんだけど、社外はそうもいかない。それが通常だとわかっていても、やっぱり面倒くさい。湿っぽい。気持ち悪い。そういう「湿っぽさ」にも良さがあるとは思うけど、率直に言うと自分には合わないと思う。人間がめんどくさい。
そんな状況で、生きる理由が今のところない。実家の家族は大事にしたいので死ぬわけにはいかないし、まぁ楽しいこともあるので生きているけど、「明日で人生が終わります」って言われたら、「あっ、そう。まぁいいんじゃない」くらいに思ってしまう気がする。自分でも厭世的だと思う。
最近テレビで良く見かける方が自殺したりして、世間があれこれ言ったりしてるけど、結局のところ「ただ生きる」というのが一番大変なんだと思う。「生きてるだけで丸儲け」は名言だけど、「生きてるだけ」が最大のハードルなのだ。僕自身も、「生きてること」が出来れば後は何とでもなると思う。死なないんだから。
まぁ自分の感覚でいえば「死ぬこと」も結構大変だし、あれこれ考えると周りの迷惑にもなるので中々できない。「生きる理由」も特にないけど、「死ぬ理由」も特にないので、とりあえず無為に目の前のことをこなしている、という感じ。動物としてはさほど間違ってないのかも知れない。
あれやらこれやら言ってるけど自分ではとても恵まれてると思うし、めちゃくちゃ運が良いと思ってるから、こんなんで文句言ったらバチが当たるとは思ってる。だから今まで書いたことは「言うべきでないこと」なんだけど、ストレスが溜まると誰かに迷惑をかけるかも知れないので、ここで「言うべきでない何か」を吐き出させてもらいました。
黙り込むことに関しては「増田とは何があっても争いを避けたい、そもそも白黒はっきりつける対象じゃない、っていうか増田が黒とかありえない」と思ってるから、口論ぽいものを避けてるんじゃないかと思うんだけども。
増田が「白黒の話じゃないんだ」って思っててもなかなかその概念を理解するって難しいよね。
「話し合い=白黒つける」って考えがちだし。
突如音信不通になることに関しては増田の気持ちもわかる話が半分、「いやでもなー」って話が半分。
毎日連絡取り合ってても、コミュニケーションには気を張る必要がある人間ているワケで、「え?私といる時はリラックスしてるんじゃないの?っていうか大好きな人といて心底リラックスできない人なんていないでしょ、つまり私は一番の存在じゃない」って言うのが増田の世界なら、「いやそうじゃない人もいる。一番の人でもなんでも他者と接するだけで一定の緊張感があってエネルギーを使う人はいて、真のリラックスは少しの孤独も挟まないとダメ」って人はいる。
それでじゃあ音信不通になる前に「連絡くらいはください」は本当に気遣いあればそうした方がいいなって思うので、「増田の気持ちもわかる」。
そうした方がいいよ。
でも、コミュニケーションの緊張感って、ある日突然ブレーカーが落ちるように「バチン」と切れるんだよな。
そこで「この日からコミュニケーションをお休みします」って、それ「え?会社の有給申請ですか?」って思う。
いや、思いやりの話もそうだし、社会人としてなら正なんだけどさ、極めて個人的なおつきあいをそこまでシステマチックにできるなら、彼氏は見上げた男だな、って思うし、「それはちょっと人に求めるのは俺はなー」って思っちゃうわ。
自己肯定感が高い/低いと言いますが、そもそも自己肯定感ってなんでしょうか。
自己肯定感が低い(とされている)人は生きるのがつらい。自分が失敗してしまったとき、壁にぶつかったとき、不運に見舞われてしまったときに、必要以上に落ち込んでしまう。自分がなにか行動を起こすとき、自己肯定感の低さが足かせになり、なかなか行動に移すことができない。そんな自分が嫌になり、どんどん消極的になってしまう。ひょっとすると、予想だにしない幸福が訪れた時でさえ、自己肯定感の低さがあだになり、それを素直に受け取ることができない。あるいは、実際にはそこまで不幸でもない現実と自己肯定感の低さとのギャップを埋め合わせるために、ついつい自傷行為や自分を傷つける媒体や人に走ってしまう。周りには自己肯定感の低い人が集まり、相互に作用しあってどんどん不幸になっていく(書いていて嫌になってきました)。結果、生きるのがつらい。
逆に自己肯定感のある(とされている)人は、不幸や失敗にいちいち落ち込まずに、どんどん新しいチャレンジをすることができ、成功体験を積み上げやすい。経済的にも文化的にも幸福な友人や恋人に恵まれ、幸せな人生を送ることができる。つまり、自己肯定感を高めることができれば、今は不幸な人も幸せになれる。あらゆる問題(仕事面、恋愛、家族関係がうまくいかないなど)が、自己肯定感の問題に還元され、幸福に必要なソリューションです的な扱われ方をされるケースさえあるかもしれません。
果たして本当にそうでしょうか。例えば、自己肯定感の高い(とされている人)が、日々の暮らしで自分の自己肯定感の高さを認識することは少ないはず。呼吸をするときに空気の存在を意識することが無いように、ごく自然に存在しているものだと思います。逆に自己肯定感が低い(とされている人)にとっては、四六時中自分を縛り付けている呪縛のようなものかもしれません。そのせいで、個別になんら関連性のない事柄を自分の不幸な想像を駆使して結び付けてしまう。文字通り概念に縛られている状態といえるかもしれません。
実際には、自己に対する否定感情は、(人によりその頻度や強度は様々でしょうが)その時の環境や本人の体調に大きく作用され、瞬間的・個別的に発生するものです。単なる推測にすぎないのですが、おそらく瞬間的な自己否定の感情が習慣化してしまい、負のスパイラルに陥ってしまっている状態の人=自己肯定感の低いと認識してしまっているのだと思います。自己肯定感が低いことを内面化してしまうと、個別の事実を冷静に観察できなくなり、本来解決可能な問題に対しても自己肯定感の低さを理由に、適切な解決策を考えることができなくなってしまいます。
(私は精神科でもなんでもないのでいち素人の考えたことに過ぎないという前提のもと)もし、あなたが上記のような状態になってしまっているとしたら、取り組むべき課題は「自己肯定感を高める」という抽象的な何かではなく、自己否定の感情を覚える個別の事柄に対し、以下の順序で対処を試みることなのかもしれません。
2.その時の外的要因(人間関係とか仕事とか)と内的要因(体調とか心理状態とか)を把握する
6.日常的なセルフコントロール(体調管理や精神管理、瞑運菜眠など)を実践してみる
詳しくは知りませんが、上記は一般的に精神診療などで用いられる認知行動療法と同じようなもので、特に目新しさはありません。長々書いてきて、結局xevraさんと同じ結論かよ
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xevra 2020/07/27
運動、瞑想、睡眠、野菜を徹底してる人は自己肯定感と言う言葉そのものの意味が分からない。自分は自分、肯定も否定もない。ダメな所も良い所もあるただの人間だ。下らない概念に振り回される意味が分からない
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と言われるのも少し不満なので、一つ私の話をしようと思います。
私はもともと自分を自己肯定感の高い人だと思っていたのですが、最近自信がなくなってきました。というのも、そもそも自分と他人の人生に興味・関心が薄く、そのためか、強く共感したり、感動するとか、ましてや人を好き/嫌いになるとか、(物心ついて四半世紀が経ちますが)これまであんまりピンときていなかったんですね。それって自己肯定感が高いのではなく、単に自己/他己に対する関心を失っているだけではないかと思ったのです。
その意味では自分を好き/嫌いになれる人というのは(一切の皮肉抜きで)向上心のある人なんだなと思いますし、他人の人生に深く共感できるというのは羨ましくもあります。もしかしたら、三人兄弟の末っ子でまあまあ放置されて育ったこともあるかもしれません。自分を嫌いになることだって、裏を返せば自己愛が豊かな証拠だと思うのです。例えば、人が問題に直面した時に自己否定の感情を覚える現象は、私から見れば、(自己愛が豊か/理想が高いが故に)自分が劣った人間だということを直視できず、現実と理想のギャップを埋めるために、自己評価を下げることで帳尻を合わせるという、一種の防衛反応のように感じます。
壁にぶち当たった時に、自己に理由を求めるのは自分を大切にする心が備わっているからです。私のような自分や他人にいまいち興味の持てない人間は、環境や他者、自分の行動をシステマチックに整理して対策を考えます。ふわふわと物事が自己の問題を離れ、幽体離脱し、神の視点から考えている感じ。故にあまり落ち込んだりしないので、切り替えが早いとか仕事が早いといわれることもありますが、(反面無自覚に人を傷つける言葉を使ってしまうこともしばしば)本当に良い仕事、人の心を動かす言葉を紡ぐことはできないのではないか、と最近思います。
なのでもし、あなたが自己肯定感の低い人間だと自分を認識してしまっているとしたら、自分を嫌いになれることは素晴らしい才能で、自己愛と共感力の豊かな人間であること。自己肯定感の低いという概念を内面化せずに、目先の現象を都度観察し、一つ一つ対処を考え潰していくことができれば、とても感情豊で理想の高い人生をおくれるはず。そんなふうに私は考えています。
もったいない考え方だなぁ。
クソな所があればタダで間違いを訂正してくれるんだぞ。
改善点を指摘してくれて聞くべきとこをがあれば受け入れれば良いし、クソって言いたいだけの人は「日本語がクソなお前の指摘よりマシだぞ」って言い返せばOK。
重要なのはネガティブなだけの指摘は迷惑メールだと思って相手にしないこと。ルールとして決めておくとシステマチックに対応するだけで良いから、心に棚が作れた感じで良いと思う。
ダルビッシュがクソ相手は「おめでとうございます」「それは良かったです」「あなたが幸せそうで私も幸せです」をランダムに返している。
って言ってたけど、これも同じことだね。
昨日さ
寄ったお店に入ろうとしたときに、
体温測りますねってピッってされたんだけど
36℃ジャスト
おおむね平熱高めの私でも許容範囲で瞬時に測定出来る、
常に持っておく常備を心がけないとなって思ったの。
そんでもってそのお店、
これ買って付けたらお店に入れますけど、
それが何か?って言わんばかりの商魂たくましい商法で、
うーん、
さすがにちょっとマスクそこで1000円出して買うのは高すぎなので
ちょっち躊躇してしまったわ。
そんでそこのお店はいれないから別のお店に行ったってことなのよ。
ここでも門番がいて、
ここもか!って思ったらそこはそう最初に言った検温検問だったの。
そこのお店、
笑うに笑えない話しね。
とりあえず、
昨日はマスク持ち歩いておかなくちゃって思った次第よ。
もうマスクいらない!って
窓から投げ捨てちゃったけど、
また拾ってくるわ!
うふふ。
オレンジジュースのみだったので、
早くランチにしたいところね。
いつも2リットルごとに作っておいてたんだけど、
よく飲むなぁって相変わらず思うわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
結局若い人同士では症状が収まってからも継続的に感染拡大の危険性があるということがわかり、20年前に高齢者のみを避難させる高齢者コロニーが作られるようになったのだ。
その代わりに若い人たちは医療崩壊をさせないように行動を制限しつつも、普通の経済活動が再開できるようになった。
高齢者コロニーには季節を通して比較的温暖の差が少なく、本州からも程よく隔離されているからという理由で四国に白羽の矢が立った。
免疫を持たないままに重篤化をすると危険だと言われる60歳の誕生日を迎えると、4週間の隔離期間を経て四国に入る。
外部からの物資にウィルスが付着することによる感染経路が発覚してからは、食料は基本的に自給自足になった。
それ以外、保存が効くものは食品に限らず、丸一日の紫外線照射の後、4日間保管されてから初めて四国に入ることが許される。
そこで他の地域から志願者を募って、若者をコロニーに送り込むことが決まった。
コロニーで働くための資格は新型ウィルスの免疫を持っている人に限られ、2週間の隔離を兼ねたオンラインによる座学を経てコロニーに入ることが許される。
ただし、全て公務員扱いで、主に農業や生産業、役所仕事に携わることになる。
(もちろん、飲食、レジャー産業、宅配などもあるが、コロニー内においてベンチャーが生まれることはない。)
しかし、その実情はほぼ介護と看取り人としての役割が占めているといっても過言ではない。
コロニーに入ると、若者一人あたり5人の高齢者と生活をともにすることになる。
高齢者同士だけでも生活が成り立つように支援がデザインされているが、精神的なケアや、少しでも早い段階で死を発見できるように若い人が配置されるのが本音のようだ。
日本中の高齢者が集まるのだ。死は常に日常と隣り合わせにあり、それが耐えきれないからと脱落してしまう人も少なくない。
高齢者の命を守る施設といえば聞こえがいいが、ここはまさに戦場以上に人の命が消えていく世界なのだ。
そうして仕事を覚えつつ、こちらにいる高齢者たちとの絆を深めるという意味合いも含めて、コロニーでの仕事は5年が基本とされている。
それより早くでてくることもできなければ、それ以上いることもできない。再度コロニーに入るためには5年のクーリング期間が必要だ。
なぜなら、経済が崩壊した今の世の中において、コロニーでの報酬は有り余るほどだからだ。(コロニー内では生活費は必要ない)
5年間のコロニー生活で十分に貯蓄を蓄えて、戻ってきてから商売を始める人も少なくない。
そのため応募が途切れることはなく、クーリング期間は事実上年齢制限の足切りと考えられている。
一度でも脱落してしまえば、二度とコロニーで働くことはできない。
田中さんの娘は、両親をコロナでなくして孤児となった母が、第一期コロニー従事者として立候補し、コロニー生活の中で産み落とされた。
当初コロニー内ではそうした新しい命に対する教育が想定されておらず、また、一期生の頃にはまだ5年という縛りがなかったために、彼女は10年間の間無教育のまま育つことになった。
その後普通の生活に戻るも、学習レベルの違いから学校に通うことはできず、18歳の成人を迎える直前にも関わらず読み書きが満足に行えないままに親のお金で生活するしかなかった。
そうした中、そういう人たちが成人を迎える段階になり国は初めて支援策を講じるようになった。
コロニー内ではその時その時必要な業務を、先輩たちがシステマチックに1から丁寧に教えてくれる。
もしその労働に適正がなくても、無理やり働かせるようなことはなく、適正が見つかるまで様々な仕事に挑戦することができる。
なぜなら、ここの生活において後任を育てないという選択肢はなく、例え一切の労働をしていなくとも、高齢者の世話だけをしてくれるだけで十分にありがたい存在だからだ。
いまではコロニー内においても幼稚園や学校はしっかりと整備されている。
彼女のような人間を再び生み出さぬよう、何をするべきかを皆で考え皆で乗り越えてきたのだ。
新型ウィルスの前では誰かを責めても何も解決しないことを、日本の未来のためには皆で力を合わせなくては何も守れないことを国民全員が理解しているのだ。
この世界において、田中さんの娘を貧しいと思う人は一人もいない。可愛そうとか、面白いと思う人だって一人もいない。
田中さんの娘が幸せかどうかなんてわからない。でも、前に向かってあるき始めた彼女の、背中を押せる世の中であってほしいと願う。
流行語大賞の選考委員の人たちが一番気になっているということは、
いつもこんな流行語聞いたことないじゃん!ってなるわけじゃない。
生姜みたいな名前の人って言われてなるほどねーって思うところよね。
なんかそういう話が出てくると、
もうさ、
お店とかでもクリスマスソング流れてちゃってて、
さすがにそれは早くない?って思うし、
みかんの花咲く丘公園前の商店街のレコード屋さんもお正月に向け角松敏生フェアのコーナーが充実するのは
先取ってまだ年も明けてないのに、
でさ、
そのカレーのアラジンのランプみたいにルーが盛られてくる器あるじゃない!
あなたも器の小さい男ねって一度は言われんばかりの、
ぜんぜん男前にならないんだけど。
まさに金魚すくいのすくうやつの名前を知りえた初めての人類のようよ。
行き当たりばったりに
久しぶりに会うからって手土産で瓶に入ったクリオネちゃん渡されても世話できないわよ!って話よ。
まあそんな、
クリスマスの曲はこの時期に流してもよしとする風潮はあるのに、
年明けない内でのお琴のお正月の曲を流すのは反則!って風潮はいかがなものかと思うわ。
何書かれてるんですか?ライターさんですか?って余計なお世話よ。
とりあえず、
もう自分でも全然文字が読めない感覚で打ち込んでる感じがテクニカルよね。
降り損ねて仙台に行かないようにだけは気をつけるわ。
うふふ。
システマチックに焼かれた、
堅焼き!ってオーダーも聞いてくれなさそうな、
朝一番で暇そうかと思いきや、
ピチカートファイヴの19時をも遥かに凌ぐ以前あったレストランはもうないわねって。
とりあえず、
新幹線速くて嬉しいんだけど、
それが一番困るところね。
常温ウォーラーと麦茶ウォーラーは買ってカバンの中に忍ばせておいてるわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
この前、「すぐ打ち切る出版社はクソ。作品を想うならもっと続けてから判断しろ」というような意見をツイッターで見かけた。
流行りのWEB小説→書籍化という流れで、1巻の売上が芳しくなく続刊が打ち切られたパターンだったと記憶している。
別に打ち切り作家の八つ当たりはよくある話なのだが、俺が暇なので分析する。ブログでやってもいいんだけど、割とテキトーだからここでいいや。あとなげーし。
なお、打ち切りにも数種類の理由があるが……作家が女子高生に手を出したとか、レ〇プ描写で連載が続けられなくなったとか、そういうのは排除。
「売れなかったから打ち切り」という場合についてだけピックアップする。
あと、ジャンプみたいに「人気がないと打ち切り」ってのも除外。アンケ至上主義は実は特殊で、ほとんどの出版社は売上で打ち切るか判断している。
人気があるから売れるというナイーブな考えは捨てろ。最近はジャンプですら懐疑的になってきたのがアンケ至上主義ってやつだ。
さてさて、「すぐに打ち切る」というものは悪なのか、という問題だ。ここからは真面目に書く。
仮に悪だったとして、打ち切りは、「誰に対する悪なのか」という部分を考える。
「会社員は作品を打ち切っても給料が出る、直接的に生活に響くわけではない。不公平だ」という論法をよく聞く。
これはかなり偏った見方だ。まるで出版社は冷血な売上主義者で、作家を駒のようにしか考えていなくて、創作者を鵜飼いの鵜に過ぎないと小馬鹿にしているようにすら聞こえる。
だが仮にそうだとしても、だ。打ち切りは出版社にとっても手痛い。
ある程度売れる見込みがあったからわざわざ編集が作家とコミュニケーションを取り、内容を読み、校正部によって校正がなされ、デザイナーがパッケージを作り、印刷所が刷り、取次が配本し、書店が売るのだ。
そんな初期投資が「売れなかった」という理由で全部おじゃんになるのだから、当然「打ち切り」とは即ち「損」となる。
よって、冷血なる出版社様にとって打ち切りは悪だ。「損」は「企業」にとっての絶対悪だからだ。
だが悪ではない面もある。
初期投資が回収できなかったとしても、売れない作品を続けて赤字を垂れ流すよりはずっとマシだからだ。
「作品を打ち切れる自由」は出版社側に担保されているべきものだ。
多用なジャンルの本を作るのも、出版物を多くだすのも、返本制度を利用するのも、立派なリスクヘッジだ。
「打ち切りが可能」というのも、そのリスクヘッジの重要な一角である。
あらゆる点で、出版社というのは「作品が売れない」ことでダメージが受けないように工夫をしているのである。そうじゃなかったら怖くて誰も本なんか出せない。
「多くの作品が売れないのは問題だが、1本の作品が売れなかった程度で揺らぐ」ということはない。それを支えているのは「打ち切り」だ。
「売れない作品を、作家がNOと言えばコストを支払ってでも続けなければならない」という慣習が基本的にないことは、実はものすごく健全なことなのだ。
付記:上の文章、作品を完全に商品としてとらえていて、作品に対しての情や尊敬が全くないように見えるが、
そもそも「情」や「尊敬」なんてのはあるのが前提のもので、「特定作品が特別好き」でなければ仕事をしない編集など出版人失格だということは抑えておいてほしい。
面白いと思ったから出版するのだ。売れると思ったから出版するのだ。社会人として可能な限りの努力をした上で売れなかったから、打ち切るのだ。
次に「打ち切り」が「読者に対する悪」かというとNOだ。
何故なら売れていない作品というのは、それを商品として欲しがる人間が少ないということ。
だったらその作品を続ける労力を売れる作品=読者が欲しい作品に回した方が多くの人を幸せにできる。
正直、続きが見たかった作品が打ち切られたら出版社を恨む。キャラクター達の行く末をずっと見ていたかったのに!と怒り狂う。
だが、そこはその分の労力を作家も編集も「よりレベルの高い好みの作品」を提供するための準備であると割り切るのが互いにとって一番いいと思う。
とはいえ権利だけ抑えてWEBから作品削除させて続き打ち切るようなのはマジ許せんがな!うおお!
ここを書きだすと原稿用紙100枚くらいになるからやめることにする。
実はこれ、明確にNOと言いたい。
「売れないものしか作れないのに人生を浪費するな」という言葉だ。
実は本が売れないと、作家は生活できないのだ。「知っとるわ」と言われるかもしれない。
だが、原稿料は、安い。本当に安い。原稿料だけでは食っていけない。
なろうのようなWEB小説をまとめて単行本化するものに関しては、そもそも原稿料というものすらない。
だからこそ印税がある。印税があるから作家は食っていける。いや、大体の作家が食っていけない。だから兼業だったりバイトをしていたりする。
根本的に、
なのだ。実は、金額という意味だと作家と出版社の最低目標は釣り合っていない。
初版2万部の本を1000円で刷るとする。これ、今の大抵の出版社にとっては悪くない話である。全然採算がとれる。(初歩の話をすると、出版は「刷った段階で」、その分の「刷った部数だけ」売上と印税が出版社と作家に発生する)
だが、作家はそうも言えない。印税は10%だとして、200万円しか収入がないことになる。(かなり単純な計算だが論点がズレるのでカットする。そもそもみんな10%印税もらえてるんですかね……)
だからこそ作家業というのは割に合わない。ものすごく残酷なことを言うと、打ち切りレベル作家、そして打ち切りラインとまではいかないまでも、
なんとか食らいついていけるレベルの作家は、早めに諦めた方が人生を有益にする可能性が高い。価値観は人それぞれだが……
暖かい言葉は、「次の執筆のために早めに損切ができたね」という言葉だ。
実はダラダラ続けた場合の方が、作家にとってダメージはデカいのだ。
大きな前提がある。
『ありとあらゆる作品は、同じタイトルである限り1巻が一番売れる』
これは絶対だ。例外はない。あったとしても、マジで例外中の例外でサンプルにするべきではない。
作品の売上は、どんなに売れる作品でも絶対に1巻を先に逓減していく。
だから「1巻2巻が全然売れなくても、打ち切らないでくれ。続ければ売れるかもしれないだろ」という話は、まず破綻している。
もちろん、例えば続けているうちに時事ネタと噛み合ったとか、SNSでバズったとか、そういう意味で続けている途中で「1巻から」売れることはある。
だが、そんな「続けているうちに売れた」とか言える程度の時間が確保できている時点で、速攻打ち切られる作品よりずっと多くの売上は叩きだしていたということは覚えておいてほしい。
要するに、「続けたら売れる可能性がある」なんてのは初めから全ての作品の前提に入っていて、その上で見込みなしだという最低ラインを割ったと判断されたから打ち切るのだ。
加える。
「初版を決める上で重要なのは出版社ではなく数字しか判断材料にしない取次」
「取次と出版社はほぼ全ての出版社の出す本の売上を共有している」
これは、まあ最近は知れ渡っている話なので別に細かく説明することはないだろう。
だが、もう一つの事実がある。それは「取次は最新刊のデータを元に交渉をする」ということである。
上の二つを組み合わせて、「最初の方売れなかったけど打ち切らず続けた場合」どうなるか、ということを考えてみる。
『2万部の本を刷った。だが20%しか売れなかった。よって取次と出版社の会議の結果、2巻は刷り部数を減らし6000部で出すことにした。
2巻、6000部のうち10%しか売れなかった。しかし、打ち切らずに3巻は3000部で出すことにした。
3000部のうち、8%しか売れなかった。しかし、打ち切らずに4巻を出すことにした。部数は1000部……3%しか売れなかった』
上の流れを経た後、例えば別の出版社で企画をやろうとするとしよう。すると、取次的に見るデータはこうなる。
『1000部刷って、売上率は3%』
散々な数字だ。ちなみに上の数字はかなり極端に書いている。1000部の本とか紙代や印刷代すらペイできないから、まず刷ることはないし、%もかなり適当だ。
さて、話は戻るが売上率というのは、刷り部数が少ないと減るのだ。
上の事例を経た作家が次の作品を出す、となった時起こる事態はこうだ。
『出版社的にも、次の作品を出すとき、企画を立案する時、「でも1000部刷って3%の売上しか出てないけど今度は売れるの?」という追求を躱さなければならない』
『そして、取次はもっとシビアに、最新の数字だけを見て、そもそも初版を刷ることを許してくれない』
長くなったが、要するに「残念な数字を残すくらいなら傷が浅いうちに撤退した方が次に繋がる」構造なのだ。
おっと、賢明な人なら気づくだろう。「でもそれって電子書籍版の売上が入らないよね?」と。
「8割方、電子版の売上は打ち切り判断のプラス材料にならない。何故ならほとんどの出版社には、各ストアの電子売上を合算しデータとして参照できる能力がないから」
これは怠慢というよりも、現状の電子書籍ストアと出版社の、さらに言うなら業界全体のシステマチックな問題で、解決するには多大なコストがかかる。言いたいことはあるだろうが、すぐには是正できなさそうだ。
長文になってしまったが、「打ち切り」には多くの事情が絡んでいることが分かったと思う。
「打ち切り」そのものは、残念なものだ。できれば、そうならないでほしい。
出版社の努力不足、作家の努力不足、書店の努力不足。言い始めたらキリがない。
でも、過去に打ち切られた作品のケアよりも、未来を見据えて新しい作品を創る方が、現環境には見合っているように思える。
作品にとっては悲しいことだが、逆に言うと売れない作品のキャラクターと話に縋らないといけないのなら、それは商業作家ではない。残酷ながら。
書きたいものだけ書いていたいなら、同人誌でやるなり、それこそなろうにでも再び投稿して、自分を満たしていけばいいと考えている。
(本当、権利だけ持っていくのやめてほしいんだけどね)
本当にありがとうございます。
はてブチェックしてたら4ヶ月前の自分の投稿がホットエントリーに入ってて驚いたし、その後 https://anond.hatelabo.jp/20191005075440 さんの投稿まであって…。
恥ずかしい状態だったけど正直に投稿してよかったってなりました。
皆さんの優しい言葉に泣いて、そして励まされました。
私がダメ親なのはわかってるんです。でも、色々なヒントを貰えてとてもありがたかったです。
(ブコメにあった携帯を箱に入れるのもよさそうなので試してみます)
現状としてはたまに家事できることも増えてきました。
(去年も6月頃に動けなくなったので季節・気候も関係してるのかも…。)
暑いのが苦手=夏が苦手なんだけど、最近は涼しくなってきたから帰宅してすぐ料理に取り掛かることもできるようになってます。
でもきっと気候が変わったら同じような状況になりそうなので、この秋に少しでも状態を変えていきたい。
あとは先日行政(こそだて支援)に相談して、近々ヘルパーさんが来てもらえることになりました。
実は以前からこそだて支援の方には気にしてもらってて、こどもの検診のときに私のことを心配をしてくれたり、その時にヘルパー制度のことも軽く教えてくれたりしてました。(その時は断った)
でもこの増田を書いたあとに「私のレベルでヘルパーさん呼ぶとか…」とおもっていたものの、子供のことを考えるとどうにかしていかないといけないと勇気を出して相談しました。
どういう風に生活が変わっていくかはわかりませんが、少しずつでも生活を変えていきたいと思っています。
(ヘルパーさん、体験してみたらまた増田に投稿したいなと思います)
あと投薬もスタートしてみた。
でもストラテラは頭痛で動けなくなり、コンサータは切れたあとがきつかった。
ので調整が必要な感じ。
前にアミノ酸サプリ飲んだら体が軽くなった気がするのでそっちを帰宅前に飲むのがあってるのかも…。
https://anond.hatelabo.jp/20191005075440 さんへ
本当にいいまとめをありがとうございました。
発達障害系ブログもちょこちょこと読んでましたが知らない方も多かったので読んでみます。
本当にありがとうございます!
がんばります。