はてなキーワード: コモンセンスとは
「広末と俺のこと、知りたくない?」「言いたいことはヤマほどある」とか言ってしまうのは、80年代後半に生まれた連中に特有のヤンキー文化と、インターネットのない頃までの言ってはいけないことを言ってしまえていた頃のボーダーで、テクノロジーの発展によるシンギュラリティが生まれてしまい、この時期を境にして全ての日本人は発言に責任が生じてしまう時代になってしまい、発言が言質になると言う認識が持てないラストな時期だたと思う。テープレコーダーやら家庭でも使えるようになったわけで。そして、ちょうど脳が老化してコモンセンスを受け入れられなくなったのが、この年代と。
眼鏡に髪を一つ結びにしていて、40~50ぐらい?の見た目。
真隣の席だったけど、カプが違ったので、本交換はせず。
私はジャンル内結構雑食だったので、オバちゃんのBL小説本を複数冊買った。
で、その場で読むのも気まずかろうと思い、帰宅してから小説を読んだところ。
「あのおばちゃん処女なんだろうな」という感想が真っ先に来てしまった。
R18指定が付いている本の描写があまりにもアッサリしていて拍子抜けした。
愛を囁きながら挿入して、幸福感を感じながら絶頂して。R18って書いておいて2ページぐらいでエロシーンが終わってしまった。
複数買ったので他にもR18の本があったが、キス!挿入!朝チュン!と凄まじいリズム感でエロシーンが終わっていく。
二人の愛が行きつくところまで行ったのだと示すためだけに、セックスの事実が語られているみたいに感じた。
私は男の人の身体が好きだから、体位を変える時のあの不意に強く押してくる力を同人誌の中に書きたい。
休日に放置して伸びた髭が当たる感触も、腰を動かすときにできる尻のくぼみも全部書きたい。
それは私の趣味だから、 BLでメジャーな表現だとは思わないけれど。
(小説というのもあって)高校生に売りつけても問題ないレベルのライトなエロ描写を読みながら、
化粧っ気の無いおばちゃんの顔を思い出すと、『処女』という二文字が頭をよぎって仕方ない。
エロ同人誌の作者の顔はわからない方が良いとは言うけれど、多分こういう意味ではないよね。
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でも見下されうる属性だというコモンセンスがあるから、指摘した時点で失礼なのはそう。
どれだけ笑顔で「ハゲてらっしゃるんですね!」って言ってもダメなわけで。
オバちゃんとベッドを共にして、処女じゃない状態に確定させる以外に確認しようがないけど、それでも処女なんじゃないかという確信めいた憶測がチラついて辛い。
母が昔「この年になると相手がどんな人かすぐわかるようになるのよ」と言っていて、当時の私は(年取るとステレオタイプへの当てはめと思い込みが強くなるんだな)と思ったものだけど、いざ自分が年を取ると憶測が確固たる信念じみてくるんだなと恐怖を覚えている。
実物見ていないから倫理的にいられるだけで、オバちゃん本人と作品の諸々の表現を実際に見れば「処女かも…」という印象で上書きされてしまう人が絶対いると思う。この罪悪感を共有したい…
ライトな描写するならもう少しカットしてR指定抜いてくれたら嬉しいのになとも思ってしまう。
良い小説だったから、お小遣い使ってイベント来てくれてる中高生にも届けばいいのに。私が干渉しうることではないけどね。
女性向けだとあまりエロがエグくない方が嬉しいという人がいるのもわかるし、表現を真似すれば書けるから作者の性経験が必ずしも反映されないのも理解するけど。
中出しした後に受が腹痛になる描写って令和5年も現役なんだね。びっくり。
経験で書いてるわけじゃないし、腐女子が他の人のを真似して書いて受け継がれているミーム…?
ちょっと生々しくて忌避される(ウ●コじゃん…)と思ってたけど、攻の愛ゆえに受が苦痛を受け入れてる描写としてまだあるんだなって…
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経産婦さん、たぶん貴方とパートナーにも肛門が付いていると思うので一回試してほしい。
伝聞ではなくわかることが確実にあると思う。マジで。本当に。
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「経験はあるけど、性的なことを書きたくはないんでしょ」という意見が多いのが私としては結構不思議だった。
もしかして、おばちゃん擁護派の意見と、女性向け性描写は根っこが一緒なのでは?と思い始めた。
‘求められるのは至上の喜びではあるが、そこから先の具体的なことは別に楽しくない’という前提があれば、他人を処女ーー求められない人間だと表現することへの反発は理解しうる。
性的にアクティブな事に価値を見出さないなら、経験が無いことも別に恥ではないだろうに、それにしては怒られるなあと思ってたが、求められるプロセスのところがものすごく気持ちの良いところで否定されたくないのかなという理解になった。
その後必ず発生する諸々が苦手、というのは難儀だなと思うけど。
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アカギの同人誌で手牌12枚しか無かったり、ヒカ碁の同人誌でオセロみたいな位置に石置いてたり、着手禁止点埋まってたり、そういう描写が一コマなら流せるけど、2ページ続くと気にならない…?
自由や平等という近代的リベラリズムの規範に立脚するリベラル・フェミニズムは、既に現代人のコモンセンスに溶けて輪郭がなくなった。
元々前近代的な伝統的規範へのアンチテーゼとして出てきたものだから、何せもう幕府も大日本帝国もないんで、ハッピーエンドを迎えた話。もちろん女性差別そのものはまだ撤廃されてないが、活動家の役割はもうない。
ポストモダン・フェミニズムのほうは、既存の規範そのものに女性差別はインストールされているからどんどんぶっ壊せという一種のアナーキズムなので、同時代の生活者にとっては浮世離れした迷惑な話でしかない。
要するにまともなフェミニズムはその啓蒙的使命を既に終えており、それ以外のフェミニズムはそもそも社会の敵。つまりフェミニズムは社会に必要ない。
女の裸体が表現全般で規制されるなんてモロ女性差別だし、男性差別でもあるし、そもそも表現の自由なんて持ち出さなくても理詰めで考えれば規制されてる定量的理由なんて何もないのに
責めるつもりは一切ないのだが、このようなものが主流意見なのだとすれば、規制の専門家の戦略的意見ではなく素人的な特に知識のない人が場当たり的になんとなく反対してるということが読み取れる
エリートのフェミニストたちが言っていることともズレてるし専門家の反論が元にあると言うのは無理がある
長年にわたる統一教会の性嫌悪と警察検察の蜜月が強固な権力を持ちすぎて、この国ではすっかり性嫌悪がコモンセンスになってしまった
素人がこのような見解を集団的に持っているのは、やっぱりそういう差別的なフォーラムやインターネットヘイトに煽動された結果だと見るのが1番可能性として高いかなと思うよ。嫌韓、ネトウヨ、女叩き、まとめサイト、情弱ビジネス、インターネット差別ビジネスはこの国に存在する
国民のマジョリティは「政治は誰が正しいことを言っているのかわからない」「よく分からないから投票したくてもできない」と言ってるような国だからね
個々の国民の政治把握なんてそもそもその程度、個人の意見を主張したらうるさいと疎まれる国だよ
そんな日本人がハッキリと政治主張するときはどんな時なのか?それは「彼らは敵だからいくらでも攻撃していいものだ」という差別的フォーラムに感化されて集団性を錯覚した時なんだよね。
倫理的にどうこうって水掛け論にしかならんだろ。倫理的というのならその倫理に基づいて何が悪くて何が悪くないを「客観的に」示してくれ。
じゃないと「みんなわかる」が妥当かどうか誰も判定できないよ。フェミの言う倫理的って、自分のお気持ちだけでしょ?そのお気持ちを言語化して示した上でコモンセンスであるエビデンスを出してくれ。
法的な定義はアウトセーフの判断基準として社会に是認されているものなので、セクハラをその物差しで判断するのは当然で、反論するならこれにまさる客観的な判断基準示してくれ。
id:wuzukiのコメントが問題ないことはズリネタ発言がセクハラの要件をクリアせず表現の自由を妨げる理由になり得ないことから示せてる。批判派はあのブコメが問題であることを全く示せていない。自由権を妨げる必要がある客観的な理由をきちんと書いて批判しましょう
女のマンコがガバガバだとセックスしたんだろ!ってなるのは女のマンコにチンコが突っ込まれることはごく普通のことであり、女のマンコがガバガバだということは男とセックスしまくったんだなというコモンセンスが成り立っているということを表している。
それに対して男のケツマンがガバガバであるという現象に対しては、ケツマンに男にチンコを突っ込まれたという行為自体が一般的でなくまさか男にチンコ突っ込まれてケツマンガバガバになってるわけがないという偏見から「じゃあアナニーで拡張したっていうのは本当なんやろなぁ」という落としどころを見つけて安心したがっているだけにすぎない。
電車の中で息子がつり革に捕まろうと頑張っていた。
俺は座っており俺の膝によじ登り俺を踏み台にして捕まろうとしている。
だが届かない
もうすぐ4歳だというのになんと愚かな事を。とうちゃん情けない。
すっ転んで怪我したら俺が妻に叱られる。
少し持ち上げれば届くがそんな事はしてやらん。
一言だけ注意をする。
諦めて歌を歌いだした。
「外でうんこは辞めなさい」
喜んでボリュームアップ。
俺も息子もノーマスクなのでつり革の時点で近くにいた痩せ中年男と壮年女は席を離れている。
こんな時の正しい教育の答えはなんだろうか。
往復ビンタだろうか
先日似たようなシチュエーションを見かけたが
母親がヒステリー声で「バカ、辞めなさい、アホ」と叱っていた。
「人様に迷惑をかけるな」
息子はグローバル社会を生き抜かねばならない世代だから日本独特のコモンセンスを刷り込みたくない。
「社会はお互いに迷惑を掛け合う、仕方がないこと、一定ルールはあるが過度に萎縮する必要はない
生命財産にかかわることでなければギリギリまでは寛容に受け入れ、許し許されよう」派
アメリカであれば分別のつかない子供はパブリックな場所に連れてくるべきではない。
だろうが、
では日本の社会構造、都市構造に適応した子育て、人間性を身に着けさせるべきか。
ジレンマがあるのだ。
ならばアメリカでも田舎でも好きなところに引っ越して理想の子育てすりゃいいじゃないか。
だが、ガキの声、騒ぐ姿が鬱陶しい、と感じる価値観が間違っているとしたらどうだろうか。
間違ってる価値観に合わせこちらが適応してやらねばならないのか。
国家、民族、文化、自然環境や社会的制約で変わる、絶対的な正しさなどなかろう。
ふと思い出したが昔本屋でぺちゃくちゃ喋っていると睨まれたことがある
雰囲気から静かにせよの意と察したが、図書館じゃねぇんだからと突っ込みたくなった
これは正しいのだろうか、アホではなかろうか。
話を戻す、
突き詰めれば息子が幸福な人生を歩むための基礎能力を授けるのが俺の仕事であり目的だ。
ん?そうだろうか、それすら怪しいゾ
死ぬまで続くか知らんが。
クソ無能の癖に声のデカさだけで好き勝手し102歳まで逃げ切ったクソクソ男。
ただアホが威張り散らしてるだけ。
200億円の個人債務を踏み倒し、6400億円の法人債務を逆ギレ債務免除を求め
そごうは経営破綻したのに何故か彼は自己破産も免れ、最後まで俺は悪くないと言い張り
聖路加タワーで老後を過ごし100歳の誕生日会には政財界の超大物から続々と祝電。
見習いたい。
だが声の小さな俺はとてもこんな人にはなれない。憧れだ。
彼は不幸で間違えた人間だろうか、
死に際まで人生を省みることなく幸せを感じていたのではないか。
いいじゃん。それでいいじゃん。
息子がそんなつおい人間になってもらって構わない。
威張り散らしていたら全員幸福になれるわけではない。
周りにあわせてふつーにするのが比較的幸福ゲット率が高い、と世間一般では信じられている。
本当かなぁ
世界幸福度ランキングを見ると日本は低い、かつどんどん下がってるではないか
うん、やはり正解がわからん、などと考えていると
息子はうんこソングも飽きて大人しく椅子に逆座りし外を見ている
ま、いっか