はてなキーワード: コミュニケーション障害とは
コミュニケーション障害から来てるんじゃなかろうか
これな。
tama___si こういう理由で苦手なんですって丁寧に説明してるのに、それはおかしい、できるようになれって意見ばかりで辟易する。こういう人もいるんだな、聞き方を変えてあげようかなっていうのが学びと理解だと思うんだけど。
2021/01/10
学生時代に弱視の同級生がいた。いつも拡大ルーペを持ち歩いていて、レポートなんかはPCモニタで文字をかなり拡大して書いてた。
周囲はみんな彼女の障害を知ってたから、授業でもプライベートでも彼女に情報を伝える時は、できるだけ言葉で説明してあげたり、ルーペでゆっくり文字を追うのを待ってあげたり、メールで送って「後で見てくれればいいよ」という対応をしてあげてた。
増田のコミュ障も、こういう風に他人から見て分かりやすくて配慮してもらえたら良かったのにね。
医者に何か診断名を付けてもらって『ジョーカー』の主人公みたいに「私にはこういうコミュニケーション障害があります。ご配慮に感謝します」というカードを初対面の人には見せるとかすればいいのかな?
ただ弱視の彼女も真面目に勉強して卒業はしたけど、普通の就職はできなかった(専攻に合った卒業生の標準的な就職先の内定はもらえなかったという意味ね)。
増田のコミュ障ももし周囲が理解して配慮してくれるようになっても、「この人はコミュニケーションが苦手だから、コミュニケーションが関わることをさせないようにしよう」ということになって、顧客対応がある仕事には就けなかったり、結婚して子供を一緒に育てるパートナーには向かない人として選ばれなかったり、という結果になりそう。
陰湿なの嫌い。
例えばモテない高校生女子を主人公にした「わたモテ」は初期はきつい自虐ギャグと陰湿多めの作風だったが、
途中から陰湿さは消えて陰キャとなった。この変化の違いが判る人にはこの話は分かると思う。
明るい=パリピ=自分に攻撃してきたり疎外してくる悪、という構図がオタク作品には一部見られる。オタクくんに優しい黒ギャルは存在する。
これはオタク作者が実生活で受けてきた体験をもとに創作しているせいだと思われる。
要するにクラスの陽キャにいじめられた体験から明るく活動的なやつは無能で、寡黙な自分のような陰キャは隠れた実力者である、という構図を描きたがる。
実際はコミュニケーションを拒否する作者のほうがクラスの中では圧倒的に無能である。
単にコミュニケーション障害を抱えていることからくる疎外を、自身が問題である状況を他人に擦り付けているだけである。
作中キャラは基本的なホウレンソウはおろか、お互いが和解するような着地点もなく、相手を言い負かしたりマウントを取る関係性しか書けていない。
これは作者にとっての人間関係が自分に服従するお母さんか、言い負かされたり疎外されてマウントを取られた(と感じた)自分のような人間関係しか持っていないことが原因だ。
お互い対等な立場でお互いが納得のいく妥協案に着地した経験がないので、話し合いで円満に解決する方法も経験も知らないわけだ。
陽キャからされてきた力による支配を嫌っておきながら、理想のフィクションの世界では自分が他者にやりたがってる。
いじめっこを集めたクラスでもまたいじめが起きるというのは人間関係をマウントを取る取られるでしか築けなかったのが原因だというのも頷ける。
「いじめそのものが嫌い」な僕にとってはいじめから逃げたいのに、フィクションで主人公がいじめっこになっているのを楽しめるはずがない。
いじめられた経験のある作者がいじめられた経験のある読者に向けて成り上がり系作品でざまぁw展開をかいてそれにオタクたちが感涙する。
いじめ自体が嫌いな自分はこのムーブに全然乗れないわけである。
オタクがオタク向け作品を描こうとするたびに似たような作品ばかりになり、乗り切れない僕はサブカル離れが進んでいく。
アニメを追いきれなくなったのも二番煎じやコピー作品のせいというより、オタクが考えたオタク向け作品に「ウッ」と来たから。
自分はオタクだと思っていたけどどうやら世間のオタクたちはいじめられたら、いじめをし返したいと思ってるらしい。
いじめのない世界に行きたいのではなくていじめる側に回りたいって願う点において、相いれない趣向の違いが僕との間にできてしまった。
特に落ちもなく書き出したせいでこれ以上かくことがないが、ごちうさはとてもやさしい世界だからおすすめできます。最後の文を最初に読む人はごちうさをよろしく。
たとえば 日本人のむらに
外国人がひとり
受け入れて
子供を作って
このこどもがコミュ障
100人の村だとしてよめ1人 99人がコミュニケーション障害の村に 子供を作ってしまったのではなく
1人のほうが障害者?
障害者か?
ではとれないと障害者か?
療法ではなく なぜ 数が少ないほうがコミュニケーション障害の元凶なのですか?
99人が英語で 1人が日本語だと コミュニケーション障害だとおもいますが 日本語は悪ですか?
こういう状況のとき ぼくは まず 自分が精神病院にいきました。
そして 若干おかしいところがあるかもしれないが うたがいであり 原則 コミュニケーションに問題はない かるく
という方向でした
あなたはどうすか? 短い通院で 完膚なきまでに完璧に徹底的に 問題なしでしたか?3回ぐらいの通院で 完璧にですか?
大事なこと 長期経過観察
Aってだめ?Bってだめ? どちらもお医者の先生の 問題なし つまり 両方大丈夫という問題がまちがっているパターン
ただしくは 問題があるもの AまたはB ABとかき問題がない場合はなし とかくこと
という設問がただしいので
あえていうなら出題者がコミュニケーション障害 だが よくある 引っ掛け問題なのでむしろあるほう なので 結果論 問題なし → 自分自身も 検査に入れて 問題なしという必要性クリア > よりベターな回答はこうだが、出題のためにあえてこうかいたと 一言書いておきました
それらの書き込みにはたしかに中身がない。自分が正しいと思っている相手に向かって、ただおかしいとか阿呆とか寝言などと言っても、ナルホドそうなのかとはならない。なぜそう思うのか根拠を示す必要がある。そうして初めて説得力が生まれる。
二値論理でモデル化できる範囲の世界観なら、「真でないものはすべて偽」とはいえるだろうね。
「逆は真」で言いたいことは解りやすい。その種の論理の誤りに陥る人はたしかによくいる。でも論理学を最初に習うのは理系の大学一年だぜ。自閉症の症状とはいえないでしょう。抽象より日常的なものに例えられた方が理解がはやいって説もある。必要に応じて噛み砕いて説明するべきだ。
常識人にはモラルって形で言動を強制する機能がインストールされているから、お願いは実質的に命令として働く場合がある。それはそのとおり。しかし増田よ、そこまでわかってるなら「焼き殺せば済んだんだろうが…」がただの空想以上に酷い意味を持つことは当然理解してるよな? 焼き殺したいがその責任は取りたくない・世間様の圧力を使って脅したい・コミュニケーション障害は殺すに値する… その短い文章に、アンタの意気地が無いが意地の悪い小心が、残酷な支配欲が、命を軽く見る価値観が、多様性と連帯への無知が、同調圧力への屈服が、表れてしまっている…
インターネットに文章を書くことのリスクは、自分自身の人格の証拠が残ってしまうこと。それが筆者自身にフィードバックすることだ。俺はこういう奴なんだって認識したまさにそのとき、人は「そういう奴」になる。Be careful.
高校中退してからずっと実家にいて働いていない、今年38歳。(私は今年33歳)
親が放任主義というか、時代も古いし、田舎だからなのか、そういう診断は受けてないけどたぶん発達障害だったりなんからのコミュニケーション障害だと思う。
小中学でずっといじめを受けていたらしいがそれを知っているのは父母ではなく祖父母で、私は成人してから祖母からその話を聞いた。
父親は幼稚園の私と小学生の兄にエロゲをやらせていたし(といっても旧時代のなので脱がしピンボールとかすごろくみたいなやつのえろコマでお姉さんのえっちな粗い画像が出るくらいのやつ)、性欲が強く、ポルノ小説読み、テレビを見ながら「やっぱり裸に白シャツっていいよな」と言い、幼少期から不眠だった私の横で母親と週2くらいでセックスしていた。普段から怒鳴るか不機嫌に黙っているかの人で(ただし職場ではにこにこして昇進もかなり早く受けがよかった)、そのストレスはだいたい全て「出来損ないの兄」に向かっていた。
兄とは私が小学四年生の頃くらいから会話が通じなくなっていた(おそらく私以外の人間とも)。三年生くらいまではよく一緒に遊んだし、遊びに見せかけて、一方的に私が殴る蹴る、エアガンで撃たれるなどの暴行を受けることも多かった。(私はただ謝りながら耐えていたが、そういう場面を父親がたまたま見ると「どうして自分は悪くないのに謝ってんの?」と言って笑われていた。)
母はあまり強いひとではないので、というか、父も母も育児にはあまり興味がなかったので、全くネグレクトとは関係がないが(きちんと育ててもらった)、躾的なことはされたことがあまりないし、父の爆発や兄の暴力については感知しないようにしていたと思う。
17歳の時に、私には好きな人ができたが、兄が完全にニートだったし、男性恐怖症のようなパニックのようなものがあったので、みんなみたいに付き合ったりはできないなとその時に強く感じて、私は人と付き合ったことがない。(ちなみにこの前「32歳腐女子のヒャッハーな毎日」に自分の性的な遍歴については詳しく書いた)
正確には、好きな人が出来ても結婚はできない(私は兄や親を養うべきだし、そこに好きな人を巻き込んではいけない)と思ったので、相手の時間を奪いたくなくてそもそも人を好きになるという機能を捨てようと努力してきた。
私の話が混ざってしまったが、兄は本当に実家から出ずに生活している。そのことによって生じる実害としては、少しの食費が親にかかること(だが親にとってはこれは全くたいしたことではない)、私が恋愛および結婚をできなくなったこと、くらいで、とくに兄が悪いわけではないし(私は結構親が悪いと思っている)、むしろ兄の分の学費がスライドされて私は大学に行けたし、持ちつ持たれつだなと思う。
親2人は、兄と私の人生を(私の場合は家庭のストレスで病気になり15〜25までほぼ正常な意識がなかったのと、寿命が60まで減ったくらい)潰して、普通の生活というのをなんとか維持し、いまや65歳で悠々と暮らしている。私達を育ててくれたのは親だし、こういうこともあるんだな、と思う。
少し前までは、職場で家族の話題が出たり、家族構成について聞かれたりする度に泣いていたけど、さすがに歳もとって処し方もわかってきた。
ニートや引きこもりの人、状況が許すなら無理に就職しようとか自分を追い詰めなくてもいいと思う。一生引きこもっていてもいい。許される場合だけだけど。
みんなあんまりカリカリ考えなくていい、のんびり迷惑をかけたりかけられたりして生きればいい。私は家族が好きだ、私が家族を好きなほど、家族は私を好きになってはくれなかったけど、それでもお兄ちゃんが生きていていいと思う。昔は家族全員殺して家に火をつけようと度々思っていた。
たくさんの時間や一部の選択肢を家族から奪いはするが、引きこもりたいならそれでもいいよ。だけど、自分のように苦しむ子供が少しでも減るといいなとは思う。
引きこもるよりは社会と関わった方が幸せも大きいんじゃないかな?と私は思ったりもするが、人それぞれだろう。
徒然なるままに書いてしまったので何が言いたいんだこの増田という感じになってしまったが、まあ、たしかにニートや引きこもりは減った方がいいのかもしれない。でも家族にくらいしか迷惑をかけないなら、引きこもりのままでも別にいいと私の場合は思える。
新成人「うっそだろお前」
じゃねーんだわ。いっぺん決めたことはひっくり返すなや。アホなんか。衣装のキャンセルした人とかどうすんねん。ただでさえ人生狂わされてるんだからこれ以上ごちゃごちゃするなや。
そこまで成人式行きたいわけではなかったけどリモートでやるってなったら結構気分落ちたんだよなぁ。やるとしても横アリでやるとしてもわりと人がいるし、どうするんだろうなぁ...区ごとに分けるにしても18もあるわけで、人口も違うから単純に区でセクションを切るわけにはいかなそう...。おそらく行かないだろうから考えても無駄っぽいけど。
当日は居酒屋で一人飲みかな。空いてる居酒屋で潰れるまで飲みたい、単純に友達作っておけばよかった。小中高の同級生と同窓会したいとはミジンコ思わん。ADHD特有のコミュニケーション障害とADHD言動でその頃の人と会うより羞恥心の方が勝って厳しい。どうして普通に生まれなかったのか。一般的な常識ある言動ができなかったのか、それを当たり前のようにこなしてある程度の交友関係を持っている人を見ると羨ましい。同窓会で普通に何気ない会話ができる自信がない。厳しい。
人とコミュニケーションを取るときに、からかいだとか、イジるという名目で悪口を言うことは一歩譲ってあるだろう。問題は、コミュニケーションが目的であるならば、相手を不快にさせたら失敗で悪口を言った奴の責任のはずなのだが、そういうやつは大抵「冗談なのに怒るほうが悪い」みたいな態度を取り始める。ウィットに富んだイジりならいくらでも話を広げて楽しめるんだが、純粋な悪口で何一つ面白みのないただの罵倒を言う奴に限ってそういう態度をとる。そもそも、イジりだのからかいだのはそこそこ強い信頼関係の裏付けがないなら99%失敗するのだ。距離感もつかめてない。
そういう奴にはかならず「その罵倒は何一つ面白くない」「コミュニケーションにしても失敗してる」「全く面白くない事を言って「笑わせたいんだから笑えよ」って言ってるレベル」「クラスのウェイ系に同じテンションで絡もうとして引かれるコミュ障と同じ」みたいな「ツッコミ」をするんだが、それに対してマトモな返しがあった試しがない。「怒んなって」とか、「冗談じゃん」みたいな、まさか自分がコミュニケーションに失敗したと思っていないダサい返しをしてくる。ゴミみたいなボケにちゃんとツッコんであげてるのに、助け舟に気づかずに「怒ったお前が悪い」「冗談を解せないお前が悪い」に固執する。ツッコミに対応できないってことはコミュニケーションを取りたいのではなく、「ただ悪口を言いたいだけ」なのだ。その言い訳に「コミュニケーションとしての悪口」を使ってるだけで。完全なるコミュ障。バズワードのコミュ障じゃなく、コミュニケーション障害。
ダサすぎる。自分がコミュ障だと気づいてないどころか、「悪口言える俺ってコミュニケーション取れてる」と思ってそうなのがマジでダサい。同情はしない。
ADHD診断されてるならコミュニケーション障害みたいなカジュアルな言葉を避けるべきではと思う。
そうね。
見た目がいい人は生涯年収が4760万増えるっていうしな。
https://president.jp/articles/-/22211
金額は東洋経済の記事は2700万だって言うしなんかまあわかんないけど。
https://toyokeizai.net/articles/-/71033
実際のところこれはもう動かしようのない事実なんだと思う。
あんま男女関係なさそうなので元増田の言う「女性の方が厳しくジャッジされる」は当てはまらないようだけど。
ただ顔の作りに関しては仕方ないけど、記事を見てると髪型とか服装も入るようなので、本人の努力次第でマシにすることはできそうだけどね。
コミュニケーション障害があるのはもうそれで立派にマイナスだからなあ…
> これは現代の言葉で言うと自閉症スペクトラム(ASD)にあたります。
「現代の言葉」というより「現在の診断基準」で言うと、だと思う。
> 発達障害というのは「自閉症スペクトラム・ADHD・学習障害」と3つに分類こそされていますが
自閉症スペクトラムじゃなくて「自閉スペクトラム症」もしくは「自閉症スペクトラム障害」。ASDの “D” はDisorder(症/障害)だから。一般的には学習障害と言われているけどこれも正確には「限局性学習症」。
発達障害は一般的には3つに分類されているけど、アメリカ精神医学会の診断基準DSM-5では、神経発達症群/神経発達障害群は大きく7つに分類されている。
② コミュニケーション症群/コミュニケーション障害群(言語症、語音症、小児期発症流暢症など)
⑥ 運動症/運動障害群(発達性協調運動症、常同運動症、チック症など)
⑦ 他の神経発達症群/他の神経発達障害群
私は幼い頃に発達障害と診断されました。当時は広汎性発達障害と診断されましたが、これは現代の言葉で言うと自閉症スペクトラム(ASD)にあたります。
発達障害というのは「自閉症スペクトラム・ADHD・学習障害」と3つに分類こそされていますが、それぞれの症状を併発していることが珍しくなく患者を3つに区分するのは難しいそうです。たとえば私が持つ障害は自閉症スペクトラム的なモノが主ではありますが、ADHDの区分に入るモノもございます。この境界はとても曖昧なのです。
ですから、自閉症患者ではなく発達障害者と名乗らせていただきます。
早い段階で自覚できたということが幸いし、人にも恵まれたためこの障害と上手く付き合っていくことができました。それらについて思ってきたことをつらつらと書き連ねていきます。
まず私の主だった症状を紹介しましょう。
上2つが自閉症的なモノ、多動性はADHD的なモノとなります。以下にそれぞれ項を分けて書いていきます。
”コミュニケーション障害”という言葉は”コミュ障”というネットスラング・若者言葉として広まっていますが、”コミュ障”の意味するものとコミュニケーション障害が指す症状はやや違いがあったりします。
何が医学的な”コミュニケーション障害”に該当するかと言えばたとえば吃音などがそうですし、言語習得が困難な状態も分類されるそうです。有名な症状は冗談や婉曲表現などが理解できないことでしょうか。適切な言葉遣いや声色が出来ないということもコミュニケーション障害になります。
喋ることが機能的に困難だったり、相手の言っていることが理解できなかったり、言葉の使い分けが出来ないことなどが”コミュニケーション障害”です。
”コミュ障”っていうのは単純に会話が下手な人のことを指すのでしょう。医学的な”コミュニケーション障害”とは違った意味合いでしょう。でも相手のことも考えず自分の言いたいことだけベラベラ喋るタイプのコミュ障は『適切な言葉遣い』ができていないということで医学的な方に該当するかも…。
で、私の場合は『適切な言葉遣いができない』という症状があるそうです(ベラベラは喋りません)。
だいたい思ったことをそのまま言ってしまっている、というのが友人らの指摘です。ようは空気が読めません。
人のコンプレックスを平然と口に出したり、みんなが思っていても心に秘めていることを言い出したりとにかくドストレート。分かりやすいところで言うと、先生のつける香水に対して「臭いですね」と言ったことがあります。
しかしまぁ困ったことに、やはりこれもどこら辺が変と思われるのか分からないんですよね。上述の例だって「お前そういうことを口に出すんじゃないよ」とか言われたからダメなことだったらしいと理解しているだけです。自分の知らぬうちに変な発言は多分しているし、モロに変な顔をされるときもあって最近は「俺また何かやっちゃいました?」という文言が頭に思い浮かびます。
「そういう特徴があるらしい」とは理解できても、いつ発揮されるのかなぜ悪いのかということは理解しにくいことは自閉症的、ADHD的な症状の共通点かもしれません(私は学習障害ではないので、それについては何とも言えませんが)。
とにかく自覚がない。「発達障害なんだよね」とカミングアウトするも「例えばどんな症状があるの」と返されると、何が悪いのかはイマイチ分かってないせいでうまい実例が思い浮かびにくい。それが発達障害者です。まぁ実例を挙げられなくても、そのうち向こうが実例に立ち会うので心配ございません(心配ございますけど?)。
”他人に無関心”というのはそのままでございます。他人からどう思われてもいいし、世間体に無頓着なのです。社会性がないと言い換えてもいいでしょう。
自分が変と思われても、物心ついた時から「変である」とずっと言われているので今更どうとも思いません。尖った性格ですから万人受けしようはずもないのですし、誰かが私を嫌って近寄らなくなるならこちらも諍いがなくて済みます。
オタクの方に分かりやすく言えば、現実でもツイッターみたいな付き合い方をしていると考えてください。
特に気兼ねなく自分の思ってることを言うし、その結果フォローされれば嬉しいしブロックされるならまぁそれも良し。自分も好いている人はフォローするし、嫌いならブロックする。まさしくああいう感じです。
この症状こそ自閉症が自閉症たる所以でしょう。こんな風に思っているから障害を抑えようともせずに、結果世間から浮くということになるのです。
上述しましたスラングの”コミュ障”は『社交辞令のような世間話が苦手』なんて特徴を指したりもしますが、他人への無関心さから自閉症患者も同様に世間話が苦手だったりします。
というのも自閉症患者は”他人に無関心”ゆえに友達でもない人と世間話をする意味が分からないのです。だって楽しくないでしょう。緊張してできないというより、やる意味が分からずできないのです。無言になろうが無関心だからどうでもいいのです。
この世間話に関する感覚のズレに気付いたのはつい最近だったりします。発達障害でない人の感覚が分からず比較ができないため、障害を自覚していてもどこが変なのか気づきにくいものなのです。
今書いていて気付きましたが、自分は平気だからって無言でいたら相手に気まずい思いをさせることになるのですね。なるほどそれで変な目で見られたのか!
とまぁこんな風に自身がなぜ悪いのかということを私は全然理解できていないのです。期せずして良い実例ができました。
では他人はどうでもいいから無作為に人を傷つけたり公共の場でなんでもできるかと言われれば、そうではありません。なぜかと言えばそれは自分で見ていて不快だと理解できるからです。自分が嫌だと思うことは嫌なのです。
他人に優しくすることもありますが、それは見過ごしたら気持ち悪いからだとか、古典的に言えばおてんとうさまが見ているからとかという理由です。自分の尊厳のためです。つまるところ、自分本位なのです。
薄情に思えるかもしれませんが、友人とは一緒にいて楽しいからいますし家族は大事にしたいから大事にしています。自分で言うのもなんですが、こう素直に生きられるのは素敵だと思うのです。
世間の人が社会で感じるストレスを感じずに済んでいる気もしますし、この症状は特にお気に入りだったりします。
まず私はジッとしていられません。私は常に体が揺れているそうです。座っていてもやや揺らいでいるとか、自転車をこいでいるとまっすぐ進んでいないとか色々言われます。これは本当に自分ではまったく意識していないことなのです。昔はとてもひどかったようで、散髪に行くと髪を切る人のほかに頭を抑える人がついていたりしたものです。
あとは突っ立っていることが苦手で、人を待つときなどは近くをウロウロと歩き回ることが多々あります。
これだけならまぁいい方ですが、多動症というモノはこれだけで終わらないから厄介なのです。
例えば、学校では整列をする機会が多くあるでしょう。多くの人はその列からなんとなく離れがたいというか、乱してはならないという集団の磁力のようなものを感じるはずです。しかし多動症の人間はそういった意識が弱いのです。
ゆえに人にかまわず突拍子もなく動き出してしまいます。私としては突拍子なく動いているつもりはないのですが…。
私は友人らと固まって歩いていても、何か気になるモノがあれば集団から抜けてそちらの方に歩いていってしまいます。旅などでは特にそうですね。「よくいなくなる」と言われます。
いやこれに関しては本当に申し訳なくは思ってはいます。ただ本当に集団意識が皆無でして、浮かれて気を抜くとこうなってしまうのです…。
これも幼い頃はもっと酷く、幼稚園からよく脱走していました。悪いことをしている意識もなく「帰りたいから帰る」というごくシンプルな理由で自主帰宅していたものです。
これに関してはまるで制御が及びません。
いや、散髪中に頭を抑える係が来なくなりましたし帰って良い時間までは帰らなくなりましたし成長はしたのです。落ち着きレベルを-1000から-100にはしただけ頑張ったのです。それでもマイナスなだけで。
なんとまぁ手前勝手な性分なのかと、自分でも呆れるくらいです。
苦労したのは私よりも担任や両親なのでしょう。
こんなにも迷惑をかけたというのにこのことでボロクソに怒られた経験もありませんので、私は先生にも親にも恵まれています。-100に出来たのはこの人たちのおかげなのです。
さて以上のような障害がございましたが、私には一つ医師からも明確に欠点と言われているがございます。
この文章から察する方もいるでしょう。自分のことながら「~~らしい」だの「~~だそうです」だのそういった言い回ししか出来ない部分が多いのです。
しかし「自分が発達障害者である」としか理解していなかった”自分が客観視できない”私がこうも自分の障害を理解できるようになったという点は、なによりも成長した部分だと思うのです。
こんな風にたとえ話だとか実例だとかを挙げて説明をできるようになるというのは、発達障害者としては快挙なのだと思います。こうやって理解が進めてこられたから、今私はこの障害を負い目と思わずアイデンティティとして大事にしていられるのです。私は、自分に正直でいられる私が大好きです。
「なんとわがままな奴か」と私を嫌悪する方もいらっしゃるでしょうが、人は所詮わがままなものです。中途半端に取り繕うよりはいいかなと思っております。というか、そういう風に受け入れてくれている方以外は離れてくれて構わないのです。
ただし我々発達障害者が人に迷惑をかけている時はぜひとも言っていただきたい。まことに恥ずかしいことではありますが、私は何歳になってもハッキリと言われないと分からないのです。