はてなキーワード: ゲイ雑誌とは
もう海外のNPOみたいに、重い発達障害と軽度知能障害はTPOが理解出来ないし、
だからこそ、子どもを性的な見ることを許さない社会的合意なんだよな
TPOとフィクションと現実の区別が付く人しか世界にいないのならレーティングもゾーニングも一切不要なのですわ
だけどTPOが理解出来ずフィクションと現実の区別が付かないポリコレで保護を必要としている人ほどその自覚は薄く、
ポリコレがどうたらと騒いだり、実在の人物や企業に実際に攻撃を仕掛ける、
一応日本にもいるけどな、実名で言い切ってる当事者(発達障害の性犯罪者)と性依存症の対応してるクリニック
<当事者 (発達障害の性犯罪者)>
「小児性愛障害以外にも、発達障害や双極性障害、アルコール依存症もある。身体的な疲れ、人間関係のストレス、いじめといったものをうまく解決できずに感じていた“生きづらさ”から解放されたい時の手段の一つだった。そして、やってしまった。こういう言い方は誤解を招くかもしれないが、どうしていいか分からずに、警察に助けを求めたのだと思う。自分の中に残っていた“良心のカケラ”というか、依存症治療で求められる正直さが必要だ、と思えたのだと思う。」。
「僕自身も心理的虐待を受けていたので、子ども心に“大人になったら子どもをいじめるような大人にだけはならない”と誓っていた。それでも、なってしまった。僕が立ち直るきっかけとなったのが、サバイバーの方たちの手記だった。それを読んで、自分がどれだけ深く子どもたちを傷つけてきたかと思った。例えば思春期前に、そういうことについて学んでいたら違ったと思う。また、ゲイ雑誌の中にある男児小児性愛のポルノの広告を見て、自分の居場所というか、“自分は少年愛者だ”という考えが強化されてしまった。一般化することはできないが、やはり自分はすごく刺激を受けたし、妄想を強化して自己正当化してきたことは間違いない。今の法律、規制は、不十分だと思う。たとえフィクションであっても、子どもに性被害を与える表現への規制は必要だと思う」と語っていた。
小児性犯罪の元加害者&専門家と語る【小児性愛障害のリアルと課題】
<性依存症の対応してるクリニックのご意見>
「現実とファンタジーの区別はついている。児童ポルノを見ても、実際の子どもに手をかけるなんてことはない」というのは、典型的な認知の歪みの1つです。自身が子どもに加害行為をしていなくても、それに加担している事実にふたをしています。
また、当院のデータでは加害経験がある者のほぼ100%がなんらかの児童ポルノを見ているという事実があります。
小児性愛障害と診断された者たちは、生まれながらにして子どもへの性嗜好を持っていたわけではなく、社会の中でそれを学習し、身に付け、強化していきます。児童ポルノはその「パンドラの箱」を開けるきっかけとなっている可能性がとても高いといえます。
もしこの社会に児童ポルノがなかったら――そんな“たられば”を言ってもしょうがないですが、子どもへの性嗜好に気づいたきっかけが児童ポルノとの出合いだったというのは、小児性犯罪の治療グループで聞かれる定番中の定番のエピソードです。
そして児童ポルノを通して彼らは「子どもは性的な存在である」というメッセージを受け取り、認知を歪めていきます。見れば見るほど、それを利用してマスターベーションを繰り返せば繰り返すほど、問題行動は強化されていきます。
「児童ポルノがあるから現実の子どもにいかなくて済んでいる。なければ、子どもへの性犯罪はもっと増えると思うよ」というのは、まったく逆です。児童ポルノに触発されて実際の子どもに加害行為をする者もいる、と考えるほうが現実的ですし、そのように語る加害者に私は何人も会ってきました。
加害行為をする前には、トリガー(引き金)があります。クリニックに通院する者たちに「加害行為の前に何をしていたか、どんな状態かだったか」を振り返ってもらうと、子どもとのセックスを想起し過剰なまでにマスターベーションをしたというエピソードがよく出てきます。1日に8回もしていたという者もいました。言うまでもなく、そのときには児童ポルノがセットになっています。児童ポルノは確実にトリガーとなりうるものなのです。
児童ポルノに出合わなくとも、なんらかのきっかけで彼らが子どもへの性的関心を抱くようになった可能性はあります。けれど児童ポルノに出合わなければ、それが強化され認知が歪むプロセスをどこかで食い止められた可能性は無視できません。
児童ポルノと表現の自由について議論するときは、常にその背景に被害を受けている子どもがいることを忘れてはなりません。これを加害者臨床では「ダブルクライエント構造」と呼んでいます。
児童ポルノを愛好するほとんどの人が現実とファンタジーの区別がついていても、その中から1人でも現実に加害をする者が出てくれば、それは対策が必要だということです。小児性犯罪は特にその傾向が強いということが、世界でも明らかにされつつあります。
「長年の加害者臨床の経験から、性犯罪は学習された行動という要素が非常に大きい。普段、暮らしている日本社会の中で学習してきたという結論です。痴漢に関しても同じことが言えます。生まれながらの痴漢はいないし、将来痴漢になりたいという人もいません。社会の中で痴漢になっていくわけです。したがって、小児性愛障害者特有の認知の歪みというものも、日本社会の中にある前提となっている価値観(子どもを性の対象として消費する社会)との相互作用の中で強化されていったものだと考えています」(斉藤章佳さん)
https://withnews.jp/article/f0210824001qq000000000000000W0fp10101qq000023477A
<海外のNPO>
一部の人々は、セックスがどのようなものかを理解するためにポルノに目を向けます。
ただし、ポルノで描写されているセックスは自然でも本物でもないため、混乱や欲求不満を引き起こす可能性があることを理解することが非常に重要です。
例:
24歳の自閉症スペクトラムのゲイリー
ある日ゲイリーが年上のいとこのリックと遊んでいた時、リックはどんな仕事がしたいのかと聞いてきました。ゲイリーはネットで見た動画を思い出します。
その中には、ピザの配達人が女性の家に食べ物を届け、女性と性行為をするという内容のものがありました。
ゲイリーは「ピザの配達人になりたい」と答え、その理由をポルノビデオの描写を交えて説明しました。
リックは最初は笑っていましたが、ゲイリーが本気で言っていることに気づくと、気まずそうにゲイリーを見つめました。
ゲイリーは、彼のいとこがポルノビデオが偽物であったことを明示的に彼に説明するまで、何が間違っているかを何が悪いのかを理解していませんでした。
それ以来、ゲイリーはポルノビデオで発生するシナリオは偽物であることが多いと想定し、他のリソースからセックスについてもっと学ぶべきだと判断しました。
[OCR]SEX ED. FOR SELF-ADVOCATES:
いや長々と悪いんだけど「別の問題」って書いたことにかみついてくんなよ。
801板の雰囲気がどうとか住人どうとかしらねーよ。凸って書いたからVipperとか言い始めたんだろうけど、言葉尻を取って批判すんな。
あと、なんかまた内容が発散してきてるけどさ、801板の住人が同性愛板に来て、なりすまししたり、興味本位でスレ立てしたりして荒らしてたのは記録に残ってる事実なわけ。
んで、801板内でそれを諫める動きとか、あれは男の成りすまし荒らしだ!って話もなかっただろ。(多分「「わたしら801板住人」という意識は基本的にない。」って意識なんだろうけど)
加えて、2ch外でもゲイ成りすまし腐女子はいたし、なんなら作品のためとか堂々と自サイトに日記に書くバカもいたわけよ。
ネット上にかかわらず、ゲイ雑誌とかでも腐女子が男に成りすましてゲイとコンタクトを取ってた事案がちょこちょこあって、Web外を見てもいろいろ証拠はあったわけ。
そういうバックグラウンドが「あった」ってことはわかってほしいんよ。最初に書いたけど「女性器呼びが正しいとは絶対に思わない」からさ。
なんでそれを全力で話題そらしに来るわけ?
『「わたしら801板住人」という意識は基本的にない。』って言うけどさ、批判されるときは「男が~」「ゲイが~」とか降ってくるわけ、こっちは。だから、こっちも「腐女子」って括ってるわけ。
お前だって
「同性愛板」だから当然レズビアンも居て良い板のはずなのにレズビアンスレがゲイに荒らされまくって機能してなかったしね
って属性で括って叩いてるだろ。じゃあ同性愛板の住人が「同性愛板住人としての意識なんてないんで、女性がいたから排斥された話なんて知らないよ。一部の人間の行動だろ」って言ったら話にならねーって思うだろ。
「これ超面白くて考察サイトめっちゃ読むの楽しいよ」「発狂シーンの言葉選び最高じゃない!?」とかは全然大丈夫だった。
けど「一瞬だけど○○の本棚にゲイ雑誌あったの見た?あれ最初見た時違和感で超調べたら考察サイトに載ってて」とか「××と++はそういう事するような仲だったって匂わせてる描写気がついた?」とか「**と・・って結局どうなったかサイト読んだんだけど」とか色々言って来るようになった。
うるせー!!!!!
1日足らずで読める量!!!!
別に読まないことは良いけどなんでそれでマウント取れると思ってんだよ!!
「あのマンションに入った時から××が夢に入るように設定してて」とか言ってるけど原作読んだら全然違ったからな!
とあるブログがブクマ数を集めていて、さらに文章力が褒められていてうれしい。
著者の方は、ネットで出会った中で一番文章がうまい人ではないかと前々から思っていたのだ。
話は急に飛ぶが、この文章力の秘訣はプロレスではないかと思っている。
自分は全くプロレスを知らないのであくまで想像だが、でも間違いないと確信している。
他のブロガーやライターの文章でも躍動的な比喩、リズム感、笑いのテンポ感覚に感動するものは作者が皆、プロレス好きなのだ。
逆に、目の付け所はいいんだけども文章自体はなあ・・・という人はたいていプロレスファンじゃないのだ。
どうやらプロレスには、雑誌や書籍上で熱く語られる「文字のプロレス」という文化があるらしい。
熱心なプロレスファンはそれらを読み込み、咀嚼し、そしてあの卓越した文章力を身に着けたのではないかと考えている。
嘘だと思ったら、好きな文章を書くブロガーなりライターなりがプロレスファンかどうかを調べてほしい。
「あぁ^~心がぴょんぴょんするんじゃぁ^~」のコピペも有名だが、それ以外にもゲイの書く名文はネットでもたまに話題に上がる。
タモリ倶楽部でもゲイ雑誌の惹句が特集されたりと、やはり高い文章力を誇る界隈なのである。
こうした「学校文化」とは離れた場所で、単なる美文麗文とは違う「生きた名文」が教育される土壌があったことに、なんだかわくわくする。
とても豊かで憧れすら感じる。
他にも文章力の高い界隈はあるのだろうか。あるなら教えてほしい。なんとなくでもその片鱗を感じてみたい。
釣りは一時期はまっていたが、そこまで文化は発展していなかったように思う。むしろ鼻につく文章が多かったイメージがある。
「紙上での釣り」では(漫画だけど)釣りキチ三平があまりにも偉大過ぎたのだろうか。
しかし、今のネット時代ではそういった文化自体が廃れていくようで、当事者ではないくせに妙に残念な気持ちである。
ネットはスラングが流行ることはあっても、文章の構成力を育ててくれる場には結局ならなかったようだ。
趣味嗜好の垣根自体も薄くなり、趣味への帰属意識もなくなっていくのだろう。
それはもちろん良い部分もあるのだが、やはり寂しい。
ゲイかなと思ったけどゲイ、それも同性愛板の住人だったにしてはゲイによる腐女子叩きに対してずいぶん他人事だなと思って判断保留にしてた。まあ元増田からして完全スルーな態度だから私が書き込んだんだけどさ。
元増田ぐらい読んどるわ
そっちが読み飛ばして無駄な質問してきたから提示しただけ。読んでるならなぜあんな疑問が出るのか分からない。
そうだね、アホの腐女子がいてもその他の腐女子はそんなアホなことはしなかった。お気持ち長文増田を書いてる腐女子はいても増田がすべてそれで埋まるわけでもないし、なによりゲイは書き込むな出て行けなんて腐女子は一切言ってない。
なのにゲイからはこうして腐女子が目につくと俺が傷つく、腐女子は目障りだからどっか行けと簡単にひとまとめに言われる。迷惑なアホ腐女子とそれ以外を混同してるのはどっち?とこっちからも返しとくわ。
あの人はゲイのマイノリティ性を示す具体例として「BL雑誌は商業で出せるがゲイ雑誌は出せない」ことを挙げている。ゲイが単純に人数としてパイが小さいために商業での表現がやりにくくなりつつあるなら、当事者の需要を盛り込んだ作品をBL業界が出版すべき、それがポリコレだ、という「仮定」になるんじゃないの、あの人の論法ならば。ゲイの作家を積極的に起用したり、ゲイ人気のある腐女子作家にゲイ向け作品を描かせたり。私個人としてはそうなっても特に異論はないが、増田が言うようにゲイ側がBLなんかと一緒にするなと反発するなら、ゲイ向けは非商業だけで細々とやってればいいと思うよ。
で、私のこの理解はどのへんが「解像度が低すぎ」なんですかね。なんか全体的に乱暴な短文ばっかで増田個人の意見が見えない。意見がなくて感情的な反発だけなら以後はレスしないことにする。
↑思い込みと憶測で腐女子をはっきり攻撃してるよね。それに反撃したら「憎悪でぶつかっていくヤバい人」になるんだなあ。
そりゃ憎悪はあるよ、隠してもないし誰でも読み取れるでしょう。人をポリコレ気狂いか何かと勘違いしてんの?
もとは「( ´_ゝ`)フーン」と腐をかけたのが「腐~ん」だ
女性器呼びが発生したとすればそれより後のことだろう
「ま〜ん」の話はしてない。そっちは女性器呼びが広まったあとに作られたやつ(2000年代末期〜2010年代前半)。2000年代中期の同性愛板のログ見ればすでに「腐+女性器」で溢れてるから分かる。根拠も出さず「ことだろう」とか言ってないで調べるか、調べないなら絡んでこないでほしい。
もしかして「腐れ○○○」のことだろうか
(追記をうけて)それもあるが、元の想定は違う。「腐○○○」で伝わるかな。こういう話題でその単語を書きたくないので分かりにくいのはこちらも悪かった。
IPアドレスでの追跡やら何やら色々あったんだよ当時は
IPアドレスと「追跡やら何やら色々」で腐女子かどうか分かる世界楽しそうですね。
ああポリコレ気狂いはそっちだったか。AV見る時とか大変そう。
↓
まさに数日前にゲイ雑誌が全滅してBLしか読むもんなくなったというゲイ側の一方的な都合でBLにリアルなゲイを出せと要求されてるんだわ。わざわざ同性愛板のBLスレまで出してるんだから都合の悪いことは見たくないなら議論に適さないから別の人と会話してて。
じゃあ腐女子よりもっと人目を引いて面白い投稿すれば?そっちと違って腐女子は男は増田から出て行けだのpixivから腐女子を排除する運動だの一切やってきてないんだから。ってこういうやり取りも何度目かな。マイノリティは常に説明や訂正を強いられるってやつだ。
女性器呼びで殺害計画してても何も言われず、それに反撃したら「頭おかしい」「自己主張激しすぎ」という社会ならなくなってくれて構わないので今後も自己主張していく。
つかなんでこんな込み入った話に意気揚々とペラッペラな俺理論だけを手に絡んでくるのかマジで謎。知識や知見があるならまだしもネット検索すらできないみたいだし。
元の投稿で私が書いたことそのまんまだよね。本質はゲイというよりヘテロ含めたミソジニー男性による女叩きで、女を見つけたら真っ先に涎垂らしながら近づいてきて構ってもらおうとするその性根なんだよ。ゲイが歴史的に被ってきた被差別属性という苦しみすら持ち合わせず、女を叩ける機会だからと無節操に乗り込んでくる、その性根。有害なゲイもムカつくが、一番の害悪は隙あらばゲイも腐女子も両方叩いて自分たちの特権性に酔いしれてるヘテロ男性だよ。なにが人気ランキングだよ人権の話してんだよ舐めんじゃねえよ。
15年前ということは狩野英孝がリバイバルさせなければ今頃イケメンは死語になってたってことか。合ってるような気もしなくもない。
関西ではかっこいい男のことをこう呼ぶんだよと紹介されたような。
思い出せない。ググってみようか。
Wikipediaによると1990年代中頃のゲイ雑誌に起源があるのだとか。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B1%E3%83%A1%E3%83%B3
Pixiv百科事典によると平成仮面ライダーの放送開始から広まったのだとか。 https://dic.pixiv.net/a/%E3%82%A4%E3%82%B1%E3%83%A1%E3%83%B3 2000年からということか。これはちょっと遅すぎる気がして信じがたい。
ニコニコ大百科だと『egg』1999年1月号が起源だという。 https://dic.nicovideo.jp/a/%E3%82%A4%E3%82%B1%E3%83%A1%E3%83%B3
間抜けな感じの語感なのにかっこいいものを指しているというのが違和感があって面白いなと思った記憶はあるが、いつ思ったのか全然思い出せない。
国立国会図書館 2002年のワールドカップ頃までしか遡ることができない
2000年7月と10月に鹿児島県内の2つの大学と1つの短大で18歳から24歳までの学生を対象に行われた若者言葉調査ではイケメンは84.4%の人が知っていたにもかかわらず8.9%の人しか使わないという言葉だったらしい。 「言語意識から見た若者ことば使用の要因」 太田一郎, 牧瀬那生 - 人文科学論集, 2001
媒体によって意味にばらつきがあり当初は女性に対しても使われていたが、次第に男性に対してだけ使われるようになっていったのだとか。 「若者ことばの発生と定着について」桑本裕二 - 秋田工業高等専門学校研究紀要, 2003
殿山徹二著 「監禁肉刑人妻、堕とす!」 1999年9月25日発行に「嶋村って、あのイケメンですな? わが社の女性社員の間でも人気の。その女房がストリッパーとは味ですなあ」という記述あり。
柳美里著 「女学生の友」 1999/09/20発行に「イケメンだと思ってて、日に日にナル化してんだよ。花音里的にはむかしのケンブーに戻ってほしい」という記述あり。
鹿児島大学の調査から2000年の秋までにはほとんどの若者が知っている言葉になっていたのは確かだろう。ネットでは1998年以前の確実な使用例は見当たらない。ニコニコ百科事典が主張するegg1999年1月号が起源だとしたらたった1年半で鹿児島の若者が誰でも知っている言葉になっているのだろうか?。最近の流行語はそこまで早く浸透しないからegg起源説には疑問をいだいてしまう。
死語かどうかに関しては20世紀の末のポッと出の言葉だから通常のサイクルなら15年前にはもう使わない言葉扱いされてておかしくないところなのかな。
漫画に限ってるからなのか知らんけど、途中がすっ飛ばされてるのが気になるなあ
ゲイ雑誌のコーナーからいきなり「百合」って言葉が普及するはずもなくて、
その間にはポルノ映画「セーラー服百合族」(1983年)のヒットが有る
アダルトアニメの元祖とも言うべき「くりいむレモン」(1984年)では
1作目は妹モノだったが、2作目に女子校を舞台にしたレズ作品が出ていることからも
まあ、80年台のOVA等で展開された女の子中心の作品で、本格的なレズ描写があるものはほとんどないのだけれど
そのへんの流れで見たら、美少女戦士セーラームーンは、80年台OVAのテイストに
少女漫画の皮をかぶせて地上波ゴールデンに乗せたものとも言える
とかなんとか
本稿では、BL/やおいと比べ論じられることの少なかった「GL/百合」ジャンルの確立・歴史と、その現状について考察する。
はじめに、「百合」というマンガ・アニメにおけるジャンルを示す言葉の概要を説明する。「百合」とは主に、女性同士の恋愛と、それに満たない関係性も含めて描いた作品のジャンルを指す。川崎によれば、定説として語源はゲイ雑誌「薔薇族」に由来する。男性同性愛を指す「薔薇族」と対になるよう、女性同性愛者を「百合族」と呼称した「百合族の部屋」というコーナーが1976年から不定期連載されるようになったのが始まりであるとされる(川崎2014:44)。当時はレズビアンを指す用語だったが、徐々にサブカルチャーに輸入され女性同性愛を扱った作品群を呼称する言葉に変化していった。
まず、日本での「百合」のマンガジャンルとしての成立について述べる。そもそも、大正ごろの日本においてマンガとしての形態以外で女性同性愛をテーマにした創作物としては、性描写の過激な男性向けポルノか、少女向けの小説に二分されていた。特に女学生同士の姉妹関係「エス」をテーマにした少女小説の金字塔として、「花物語」(1925)などが代表される。しかし、大正時代に少女文化として流行した「エス」の概念は現代の「百合」概念とは違い、上田は「自覚的に女性を愛することを選択したというよりは、良妻賢母になるための安全なる予行演習という側面もあった」と述べている。(上田 2014:192)
マンガが発展し、女性同士の関係性を主題とした最も初期の連載作品は1970年代ごろから、山岸涼子「白い部屋のふたり」(1971)、池田理代子「おにいさまへ…」(1974)、「ベルサイユのばら」(1972-73)のオスカルとロザリーなどにみられはじめる。これらは、「24年組」に代表される少年愛をテーマとしたマンガと同時発生的に少女マンガ誌に掲載されたものだ。藤本は、このころの百合マンガの大きな特徴として
①対照的な二人の容姿(中性的・くっきりとした美人と可憐な少女のイメージ)
③悲劇的なストーリー(少年愛を扱う作品と対照的な同性愛による葛藤の描写)
を挙げている(藤本 2014:101)。これらの特徴は、1970年代の女性の抱えていた抑圧感を反映していたものなのではないかと考えられる。女性作家による「少年愛」が現実の抑圧からの解放として、性的に未分化な存在(少女)の何物にも縛られない感情の動きを描写したものなら、このころの「少女愛」はそれと対照的に、抑圧からの逃避としての悲劇的な結末が設定されることが多かったのではないだろうか。表現手法や舞台設定は耽美で幻想的でありながらも、当時の日本での女性のおかれる立場に忠実な閉塞感が描写されたものだと考えられる。また、この時代の百合マンガは少年愛ほどの大きなムーブメントには発展せず、作品数も多くはなかったため、自然消滅的に衰退していった。
しかし、1990年代、同人誌文化の発達に伴い、百合ジャンルも急速にその勢いを復活させる。
まず、「美少女戦士セーラームーン」(1992-97)によって、女児向けマンガにおける戦う美少女という概念がジェンダー論的な観点においての大きな転換点となる。異性愛的な要素が物語の中心に関与していたにもかかわらず、同人イベントではセーラー戦士同士のカップリングを描いた作品が爆発的なブームとなった。その理由として考えられるのは、消費される客体としてではなく主体としての戦う美少女像が確立されたことではないだろうか。これにより、百合的な描写も70年代における悲劇的な結末に向かう物語ではなく、少女が二人で主体的に幸せを獲得していく過程が重視されるようになっていったと推測できる。
そして、物語の中の関係性から百合の文脈を汲み取っていた時代から、前提として百合そのものを主題においた作品も増加していく。代表的なものとして、「少女革命ウテナ」(1996-98)がある。この作品は、古典的な少女マンガのシンデレラストーリーを基盤に「王子様」と「お姫様」を少女同士に置き換えてなぞりつつ、70年代の百合作品に見られた演劇的なモチーフや学園モノ、男装の美少女といった設定を取り入れ、また絵柄としても耽美で繊細なものであったが、これらは意図して行われたパロディ化された演出だった。ストーリーの結末も、最終的には二人が離れ離れになる点は悲劇的にも取れるが、その後ヒロインたちの再会が示唆されている。アライによると、「王子様」と「お姫様」が結ばれてハッピーエンド、という構造を少女同士で反復するだけではなく、最終的にヒロインたちは「王子様」と「お姫様」構造を破壊し、自身を覚醒させ歩き出すことで、社会的な女性規範を打ち砕くことができるのだ。(アライ 2015:57)それこそが「世界を革命する力」であり、この結末によって投げかけられたのは、異性愛規範や家父長制へのアンチテーゼと、黒人女性の解放運動や日本女性のウーマンリブ運動などの背景を踏まえた社会的なメッセージだった。
これらの2作品によって、社会的な動きと呼応した百合マンガの潮流が形作られはじめる。「セーラームーン」も「ウテナ」も少女マンガ誌に掲載されており、本来のターゲット層は10代の少女を対象にしていたと考えられるが、ここでのプラトニックな少女たちの絆がオタク層にも受け入れられ、恋愛的な文脈に解釈した成年層による二次創作が爆発的に流行する。これと同時に一次創作のオリジナル同人誌においても、「百合」という概念が定着しはじめ、少女同士の恋愛を主題にした作品がみられるようになる。
そして2000年代に入ると、マンガジャンルとしての百合を専門に掲載した「百合姉妹」(2003-2005)が発刊される。その後、「コミック百合姫」(2005-)に統合され、現在も刊行中。専門誌の発刊は大きなジャンルの発達の手掛かりとなり、この雑誌に連載されていた作品のアニメ化や二次創作の流行によって、「百合」というジャンルがはっきりと定義されはじめ、広く認知されるようになっていく。しかし、その定義に関して「男性が主要人物として登場し、恋愛関係に介入する」「性的関係が生じた場合、百合ではなくポルノ」などといったさまざまな議論が巻き起こったのもこの時期である。
また同時期に、「神無月の巫女」(2004-05)や「舞-HIME-」(2004-05)などの少年誌で連載される百合作品が登場する。これらの作品は、少女マンガ作品よりも直接的な同性間の恋愛としての描写や性的な表現が強く押し出されていた。ここから、現代の男性向けと女性向けの要素を同時に内包した現代の百合マンガの形態が確立しはじめたといえる。2007年には、前述した「コミック百合姫」の姉妹紙として一迅社から「コミック百合姫S」と「コミック百合姫Wildrose」が発刊。「S」は本誌よりソフトで繊細な関係性の百合を扱い、なもり「ゆるゆり」(2008-)が代表するような「日常系百合」の流れを作った。一方「Wildrose」は、それまで成人向けポルノとしての過度な性描写は忌避されがちだった(厳密な定義での「百合」ではないとされる議論があった)当時の風潮の中、直接的な性描写を掲載した作品を扱う専門誌として独立した挑戦的な試みだった。
ここで、2008年に行われた「コミック百合姫」の読者アンケートを参照してみる。2008年7月号時点の『コミック百合姫』読者の男女比は男性27%、女性73%であるのに対し、『コミック百合姫S』の方は男性62%、女性38%となっている。つまり、現在統合された「コミック百合姫」の購買層は、この男女比を単純に平均すると男女差はほぼ半々で、やや女性読者のほうが多いということになる。ここでは百合マンガの購読層を性別と消費の形態に4つに分類して考察した。
女性購読層において基本的には、社会的な比率を前提にすると異性愛女性のほうが多いと考えられる。彼女たちは少女同士の関係性に、「現実における異性愛、ジェンダーロールによる苦痛」から隔絶された「非現実的な同性間による越境の快楽」を心の拠り所として愛好するのではないだろうか。なおこれについては、やおい/BL ジャンルを愛好する女性においてもほぼ同じ理論が適用できる層が存在すると思われる。
百合というジャンルの性質上、他の恋愛形態をメインとしたジャンルよりもレズビアンやバイセクシャルを自認する女性が購読層に多い傾向にあることは考慮するべきである。彼女たちは、異性愛女性が「少女マンガにおけるロマンティックラブ」を夢見るのと同じように、自身の性的指向に一致した自己投影先として「百合マンガにおけるロマンティックラブ」を享受していると考えられる。
百合を自分の投影先の存在しないストーリーを消費するものとして受け取っている購買層。①「傍観」型女性とほぼ同じ論拠が適用できると考えられる。
百合マンガの登場人物に自己投影する男性は、ジェンダーロールからの解放と、女性との恋愛の疑似体験を同時に達成できる。この購読層の性的指向に関しては、社会的比率として異性愛男性が多いと思われるが、異性愛コンテンツ(NL)ではなく百合(GL)を愛好する彼らに関しては、③「傍観」型男性よりさらに複雑な感情にルーツを持っていると考えられる。また、TS願望を持つ男性(MtFとは区別する)や、同性愛男性が共感を持って少女同士の関係性を愛好する例も、この枠にひとまず収めることとする。
特に男性向けの性的描写の含まれる百合マンガ等においては、その世界の中に没入し登場人物の中に「混ざりたい」という観点で消費する層も存在する。これは上記の4つの例と異なり、少女同士の関係性ではなく「(男を知らない、穢れのない存在として描写される)レズビアンである少女を自らの男性性によって屈服させたい」というマウンティングによる性的な欲望や、男性主人公やその代わりとなる女性キャラクターの存在しない「ハーレムもの」といった受け止め方に由来するものと思われる。ただし、これらの男性は百合ジャンルのファンからは忌避される傾向にあり、特に近年の百合を主題とした作品においては減少している。
これらのファンがそれぞれ百合というジャンルの定義について議論を重ね、各需要を満たすような創作物を制作していったことにより、百合ジャンルが発展していった時期だった。
次に、2010年代の百合文化を振り返る。このころに代表的な作品として挙げられるのはテレビアニメ「魔法少女まどか☆マギカ」(2011)だろう。この作品は、「セーラームーン」にルーツをもつ戦闘美少女の系譜を受け継ぎながら、現代調に前提として百合を意識して構成された作品のひとつで、魔法少女同士のカップリングを扱う二次創作が爆発的に流行した。
また、少女マンガ誌において百合を扱った作品が満を持して再び登場する。70年代以降、異性間のラブストーリー(NL)に偏っていた少女誌において約30年ぶりに百合が復活した形で、「野ばらの森の乙女たち」(2011)や「ブルーフレンド」(2010―2011)が連載された。これらの作品は、少女漫画特有の筆致でありながらも明確な少女同士の恋愛関係としての描写があり、また両作品とも70年代のような悲劇的なラストを迎えることはない。少女向けの要素として、学園設定や疑似姉妹などの設定は残されているものの、これらは批判的なパロディというよりも前時代の少女誌における百合作品に対する敬意からくるオマージュと解釈するほうがふさわしいだろう。これは近年において少年誌よりもジェンダーロールの強固だった少女誌界隈に百合ジャンルブームの波及がみられた、極めて注目すべき例である。
https://anond.hatelabo.jp/20160109160946
↑に今更触発されて。
大昔、まだ二十世紀頃の話だけど、ゲイビデオに出ようとしたことがあるんです。
理由は金欠。世間一般的に言えばそんなに給料の安い仕事では無かったはずなんだけど、支出が多くて金欠だった。
スポーツ新聞の三行広告を見て電話をかけた記憶がある。インターネットはもうあったが、Googleはない時代、Yahooに登録してるわけもなく、そういう情報は妖しげなスポーツ新聞の三行広告で見つけるしか無かった。今から考えればゲイ雑誌ってのもアリだったかもしれない。
ちなみに、自分はヘテロよりのバイ。入れる入れられるは無かったけど、初めてのフェラは中学生のときで、されるほうじゃなくするほうだった。
さて、電話でアポを取って、その時間に指定された場所へ行った。マンションの一室。
「ここで、レイプされたらどうしよう」
とかちょっと思ってた。
そこにいたのは普通のおじさん、一人だった。
どんなプレイならできるかとかを聞かれた記憶がある。後、服を脱いで裸を見せるように言われて、自分で考えたちょっとエッチなポーズで陰茎とか肛門をアピールした。
「では、決まったら後日連絡します」
リアルタイムで見て笑ってたけどね、 保毛尾田保毛男。
同性愛者ってのは、「美輪明宏とかカルーセル麻紀」みたいな人か、「おすぎとピーコ」みたいな人か、「保毛尾田保毛男」みたいな人くらいしか身近に知ってるロールモデルがなかったから、自分が広い意味でその仲間だとは思わんかったわ。
男の子に凄く興味があるってわけじゃないけれど、あんまりスカートめくりとか、女の子にちょっかいだしたりすることには興味がない子供だったかな。
で、思春期で体が成熟し始めると、エッチなことに興味はあって、一人エッチも覚えたけど、その欲望を同性に向けるって方向にはなかなかいかなかった。
多分、「男を好きになるということは、ロールモデルの人たちみたくなるってことだ」という意識がどこかにあって、それに違和感があったからじゃないかと思う。
で、いつごろから自覚ができてきたかというと、一つにはいろいろAV見てるうちに、男優がちょっとイケてる男で、しかもお姉さんに襲われるような感じの作品だと、妙に興奮して、しかもどちらかというと「女優を見たい」というより、男優のほうに感情移入してる自分に気づいたことと、(もし、ここで止まっていたら、単なるM男で止まっていたかもれんな)、もう一つは、当時、新興だったゲイ雑誌をたまたま見かけて、積極的に多様で新しいゲイの在り方をしったから、というのが大きい。
それ以前のゲイ雑誌って「薔薇族」なわけで、それはそれでちょっと自分の感覚とは違った。
なお、この「新興だったゲイ雑誌」で編集者をしていたのが、今をときめくマツコ・デラックスだったりするのだけれど。
で、その雑誌で何を学んだかというと、普通に「ノンケのおしゃれな男」や「イケてるサラリーマン」みたいな同性愛者も世の中には存在するし、一口に同性愛者といっても色々なあり方があるっていうことが一番大きいかな。
女装したり、女っぽい仕草でお姉言葉をつかうのだけがゲイじゃない。
保毛尾田保毛男が四半世紀前のテレビにおける同性愛者のステレオタイプとすれば、女装やオネエばっかりだして笑いとるのも充分ステレオタイプだ。
まあ、それでも、四半世紀前に比べれば、ずいぶん世の中の認識は良い方向に変わったもんだ、と思うけど。
もし、今のとんねるずが「あの伝説の保毛尾田保毛男を今夜ふたたび!」とかやったら、さすがに怒るが、かつてのギャグとしてVTR流しただけだしな。
なんというか、あまり向きになって抗議するのって、江戸時代の文書から差別用語を削除しろっていってるような感じがしなくもない。
あ、そうか。「このキャラクターには差別的な側面が含まれますが、30周年記念番組という趣旨にかんがみ、当時のまま放映します」とかテロップいれときゃよかったんかな?
まあ、積極的に差別と偏見を打破するために活動している人たちには敬意を表するけれど、なんだかうっとおしいなあ、とか思ってしまったのは確か。
なんか「巨人の星」に「父ちゃんは、日本一の日雇い人夫です!」ってセリフがあるからテレビでそのまま再放送できない、と聞いた時の一抹のうっとおしさと、どこかで通じ合っているのかもしれない。
あ、あと、このネタで「差別糾弾」に熱くなるような女性の中に、結局、ゲイをなんというか興味本位で見ている人がいるってのは、書いておきたい。
いるんですよ。ゲイに理解があるテイで近づいてきて、妙に男どうしセックスのこととか具体的に聞いてきたりして興奮したりする女。
ほっといてくれ、といいたい。
結論:場合による
https://togetter.com/li/1113766
https://matome.naver.jp/odai/2149564479015738601
この辺見てると、「そうだよね」というものと「いやいやおかしいでしょ」というものがどちらもある。批判している人の中には文系の慣行に詳しくない人もいるようなので、しがない文系出身者が「文系だとだいたいこんな感じ」というのを提示してみる(「お前の感覚おかしいよ」という指摘があれば教えてください)
「分析に用いている時点でこれは引用ではない」みたいなやつがおかしな意見の代表。いやいや、分析対象として使うのも立派な引用ですから。
たとえば、「私が好きな○○さんの二次創作小説はマジ文学なので文学作品として研究対象にします」だったら、それがマイピク限定とかでなく全体公開されている限り無断で引用して差し支えない(他人の机の中にしまわれている黒歴史ノートを無断で引用するのは当然のことながら違法です)。10年前に20部だけ頒布された同人誌に載っている内容でも引用してよいし、「バナナ」とか「前立腺」とかいう単語も容赦なく引っ張ってきてこの表現の含意はとかここで使われている暗喩法はとか分析していい。
文学研究ってそういうものなんで。たとえばナボコフの研究では、英語版とロシア語版を照らし合わせて登場人物の名前がどんなふうに変更されていてそれにはどういう意味が込められているかとかそういう細かな点を論ずる研究というのも実際あるし、そういう研究対象としての引用というのはまったく問題がない。作者に許可を取る必要もない。
それが本当に研究する価値のある文学作品であり、文学研究としての作法を踏まえているのなら、ラノベだろうが官能小説だろうが二次創作だろうが分析対象にしていい。異世界転生で俺TUEEEEEEであってもそこに文学として研究されるに値する何かがあるならガンガン引用することが許される。文学研究であるなら著者名と出典を明記することは研究倫理上むしろ必要不可欠だし、仮にそれで元の投稿者がマイピク限定にしちゃったりしても、このケースならそこまで研究倫理的に問題はない(と、私は判断する)。
現状、それをやっている人がほぼ絶無なのは、
という理由であって、やっちゃいけないなんてことはない。二次創作書きから直木賞作家とかに登り詰めて死後に全集が作られるような身分になったら生前に書いたピコ手の二次創作小説が掘り起こされて「若き日の習作」として分析対象になってしまうのも甘んじて受けよう。
しかし、問題は、これ文学研究じゃないですよね、という話で、テキストにあらわれる語の頻度を分析してフィルタリング機能に活かそうとかそういう研究だとまた違う話になる。たとえば「夏目漱石の作品中における接続詞の使用頻度」みたいな研究なら著者を明かすことに意味はあるけれど、この場合はそうじゃない。まあ一般的な語の用法の分析じゃないからコーパス使えないことはわかるけど、「有害な表現のフィルタリングのため」という目的で用法を研究するなら研究対象の具体的なURLと作者名は伏せた方がいいだろうし(これがまだせめて「“尊い”という語の用法」みたいに価値判断を加えていなければよかったかもしれないけど)、そもそも個々の作品のURLを列挙できる段階でちゃんとした研究とはいえないんじゃないんですかね。ふつうそういう研究なら、「○○新聞のデータベースで××年分の記事を検索して調べました」とか「pixivのデイリーランキング上位20作品を平成××年△月から△月まで○ヶ月にわたって調査しました」みたいなデータになるはずで、分析対象が10作品だけって段階でサンプル少なすぎるでしょ。いやもちろんサンプルが少ないから悪いというわけではないけど(談話分析とかならたった30分程度のTV番組を分析するだけで論文1本書けるだろうし)、フィルタリングを情報工学的に考えるならまずサンプルたくさん集めないと話にならないというか……
「pixivの規約に引用禁止と書かれている!」という主張はなんとも微妙だ。「は? それpixivの内輪ルールだろ? 著作権法上は自由なんだよ!」というカウンターも見られるが、そう簡単な話でもないと思う。
一般論として、引用は著作権法で保護されているので、それが適正な引用である限り(主従関係とか出典の明示とかそういうことね)自由に引用してよい。なので「無断引用禁止」と書かれている痛いサイトも自由に引用して叩いてよい、ことになっている。そういう意味では、「支部の規約より著作権法の方が偉いに決まってんだろボケ」派の言うことは正しい(実際、著作権的にはこれ問題ないとみなされる可能性が高いのではと思うが、法学クラスタの皆さんその辺どうなんでしょうか)。
しかし、ここで問題になってくるのは
ということだ。
それを読んでいるということは、検索で行き当たった作品を引用しているのではなくpixivのアカウントを取得してログインしそれらを読んでいるということだ。ということは、利用者としてpixiv規約を守る必要があるのではないか。少なくとも、利用しているサービスの規約に反して収集した情報を引用するのは、研究倫理に反するのではないか。
※追記:pixivの規約見たら「本サイト及び関連サイトにアップロードされている投稿作品の情報を、当該著作者(創作者)の同意なくして転載する行為」が禁止なのね。じゃあ、別に引用はしてもいいんじゃん。少なくともこの点で研究倫理がどうこう言うのは不当な非難だと思うので謝罪の上撤回します。
たとえそれが個人的な談話であっても、社会学や文化人類学では引用してよい。「○○村の女性Aさん(45)が私に語って聞かせた結婚生活の愚痴」なんてのも、これらの分野では立派な研究対象だろう。ただしその場合、事前に「私はこの村に社会学や文化人類学の調査で来ているので、皆さんの発言を研究に使います」と断る必要がある(増田にはフィールドワークの経験はないので、実際にどんなふうに許可を取るのかは知らない)。たとえそのような許可を取って滞在している村の住人の発言であっても、「これは絶対に論文に載せないでね」と言われたのに論文で引用したら、そらアウトだろうと思う。
だいいち仮に許可を取ってのことだとしても、社会学や文化人類学の研究なら普通は発言者をボカす。社会運動の指導者とかでもない限り、現代社会に生きる無名人の名前をそのまま載せるなんてありえない。ふつうは、AさんBさんとか、長門さん(仮名)と陸奥さん(仮名)みたいに処理した上で引用するの。
仮にそれが著名人であったとしても、使っちゃいけない、使うべきでない類の資料というのもある。たとえばちょっと前に、毎年ノーベル賞獲れなかったと騒ぎになる某作家さんの高校時代の図書館での貸し出し記録を調べてドヤ顔で記事にしてた新聞があったけど、と、図書館の自由に関する宣言~~~~~ってなりますよね(実際日本図書館協会は激おこだった)。
これが歴史学だとまた話が違ってくるというか、たとえば、百年前の新聞の投書欄を分析して当時の世情を研究するみたいな研究は割とある。その投書欄に書いているのは農民だとか小役人だとか、まあ市井の人々なわけだけど、投書欄に実名を載せているなら実名ごと引用され分析される(ていうかふつう実名をそのまま引用することはないけど、「○○という人物は次のように言っている」と地の文で書かれるとか、注釈で書誌情報の一部として実名が記されるとかはよくあること)。
ただし、これは「百年前の」「新聞への投書」だから許される話だ。書いた本人はたいてい死んでるし、遺族がいたとしてもたいして不利益はない。これがたとえば、公開を意図せずに書かれたお役所の文書だったらどうだろう(近代史でメインに使う史料というのはたいていこれだ)。もちろん、単に「○○という市民が食糧配給が少なすぎると文句を言ってきた」程度の内容なら実名を出してもいいだろうと思う。でも、それが故人の名誉を傷つける内容だったら? 徴兵された普通の人々がどのようにして戦争犯罪に加担していくか、という研究で、某中二病患者に人気の国の国防軍関係の史料が引用された時には、登場人物の多くがイニシャルだった。
インターネットにおけるレイシズム、みたいな研究で、twitterの膨大な投稿を分析し発言者を特定しない形で差別発言の例を挙げることは許されているけど、それが実際のアカウントと紐付けられる形で提示されたら、やっぱまずいんじゃないの。研究対象が著名人であるとかなら別だけど(twitterで右寄りの発言ばっかりしてるラノベ作家がいたとしたら、その人の思想を研究する上でそういうツイートを参考資料として引っ張ってくるのはまあアリだとは思う)、研究というのは告発のためのルポルタージュでも責任追及のための裁判でもないのだから(レイシズムに無批判であるべきだ、という意味ではないので念のため)。
それを考えると、やっぱりあそこで個々の作者さんの名前を出す正当性は全然ない。出典の明示にしても、「○○というサイトで××年~××年にかけて上位20位に入った計△△作品を分析しました」でじゅうぶん。その上で個々の発言者が特定されない形で「バナナ」という語の使われ方を存分に研究すればよかった。
=何が言いたいかというと、確かにあの論文は研究倫理に反するけど、それは同人小説を研究対象として引用することがいけないからではないので、批判する側も適切な論拠を選んだ方がいいですよ、というお話でした。
何でこんなもんを載せたんだ、査読してないのか、という意見もあるけど、してないか名前だけのザル査読なんじゃないかなあ。これ、フルペーパーではなくて学会発表のプロシーディングでしょ? 情報系は知らんけど、人文系だと学会発表で査読しないところもまだまだ多いですよ(内容が酷ければ質疑応答でボコボコにするか論文投稿時に査読で落とせばいい話なので口頭発表時点で査読が無いことは別に悪いとは思わない)。まあ、PDFとして載せちゃった以上は責任問われるのも仕方ないと思うけどね。最低限そこは査読なかったとしても編集委員会の判断とかで弾こうぜ。
あとこれ多分M1の学生の研究に助教と准教授が名を連ねてるだけだとは思うのだが、まあ共著者として名前連ねてる以上は責任を負うってことなんだろうし、実際M1の学生が袋叩きになるよりも准教授が叩かれる方がマトモだとは思うので、うん。
社会調査するならこれ読んどけ! 的なものとしてマサキチトセさんの翻訳が拡散されてる。
http://ja.gimmeaqueereye.org/entry/1758
マサキチトセさんの訳は丁寧だし、社会調査しようと思うなら必要だと思うけど、これこの件に関係ないよね? ごっちゃにしてない?
いちおう言っておくと、
ってこれ全部別の話だからね。
正直、腐女子が研究者や研究者コミュニティに不信を持つのは当然だと思うし、それは腐女子を面白いオモチャとしか見てこなかった研究者サイドの自業自得なので、「法的に問題がないことはわかったけど、あいつらのやっていることは信用できない」と思うのは無理ないです。その感情を否定したいわけじゃない。ただその感情の根拠としてぼくのかんがえたちょさくけんほうとかわたしのかんがえたけんきゅうりんりとかを振りかざさないでほしいだけ。正しい認識の上に立ったところで研究者に対する信頼が急に生まれるなんてことあるわけないんだし。
研究で「引用」というと文献リストに載せるやつなので,今回の件では研究用語的には「引用」では無いんじゃないかなあ。法的には分からない。pdfは全発表のを出してるんだから,いちいち弾いてらんないでしょ。
文系では文献リストは必ずしも必須ではないのよね(この辺、理系からすると何それかもしれないけど)。たとえば文献情報を全部脚注で書いちゃうやつだと文献リストはなくてもいい(だって書誌情報、つまり引用元の出典は脚注で示しているんだから論文の最後にリストとして挙げる必要はないでしょう? もちろん脚注にきちんと文献情報載せない場合は文献リストが必要ですよ)。あと、参考文献リストにない文献を引用するときに注で補ってもいい。
これ日本だけのローカルルールじゃなくて英語圏でもあるからね。たとえばNationalism and Ethnic Politicsなんかはこの方式のはず。
いちいち弾いてらんない、ってのは、せやな。こんな発表が許されるなんて学会の研究倫理はおかしい! とか騒いでる人もいて頭が痛いよね。アホか。
こうして燃えてる時点で侵襲性があるということになるのでは。「衆目に晒された→恥ずかしい→公開をやめる」が「過剰反応」だとしてもそのせいで研究対象は消えてしまったわけで。
ここで言ってる「侵襲性」ってのは、研究発表以降の話じゃなくて研究をする段階の話です。つまりデータを採る段階。
お医者さんだったら、患者さんを診察室に呼びつけて、服を脱がせて、相手が医者じゃなければ屈辱的な姿勢(ケツの穴を見せるとかね)をとらせたりして病気を診察して、それで病気や怪我のデータを採るわけですよね。社会学だったら、時間を割いてアンケートに答えてもらったり、面談してもらったりする。文化人類学なら、調査地に住み込んで、同じメシを食って家族の会話に割り込みながら相手の文化を学んでいく。そういう研究手法が、侵襲性のある、侵襲性の高い研究だってことです。
こういう研究をするときには調査される側の同意が必要だし、データをどこまで公開していいか決める権限は調査される側が持っている、というのが、あちこちで訳知り顔で語られている社会調査の鉄則です。
でも、文献調査はそうじゃない。いったん公開してしまった情報であれば、それを調べる段階では調査される側=文章を書いた人にとっては基本的に関係のない話。だってそうでしょう? いったん公開された情報については、研究者は、本屋さんで本を買ったり、図書館で雑誌のバックナンバーをあさったり、パソコンの前でマウスをポチポチするだけなんですよ? これにいちいち事前の同意が要るという主張はどう考えてもおかしいわけで。
医学論文でもカルテ調査するなら患者本人には(直接的には)迷惑かからず、それを氏名つけて公表したあとに患者本人に影響出る可能性が出てくるわけで"根本的に違う"というのがよくわからん。
カルテって、出版されたり、数万人の会員がいるSNSにアップロードされたりしてるんですか? 根本的に違うってのはそういうことです。当たり前ですけど、二次創作小説でも「作者が誰にも見せずにしまっているもの」「数人の親しい友人以外には見せていないもの」を引用するには許可が必要だし、無断で引用したら大問題ですよ。
会員制で見たい人だけが見られるようにしてある物を引っ張り出してきても許される、引用や研究ってそんなに万能なんです…?
少なくとも引用は万能です。数人の仲間だけにパスワード教えて見せてたならともかく、捨てアドがあれば誰でも会員になれて、数万人規模の会員がいるところに、会員なら誰でも見られる状態で置いてあるものは、著作権法上公開されたものと考えていいと思います。なのでそれが適正な引用方式に従っていれば引用はオッケー、お国の法律が認めてくれてます。やったね!
(ていうかその理屈だと、お金払わないと読めない学術雑誌に掲載された論文は無断で引用しちゃいけないことになりますけど、それでいいんですかね……? NatureとかCellもウカツに引用できない世の中、やばくね?)
研究はこれから議論されていくところなんじゃないかな。少なくとも昔は、書かれたものというのは「書店や図書館に流通し誰でも読める状態に置かれる」か「私家版としてごく少数の人のあいだで流通するか机の引き出しで死蔵される」の二択だったわけですよ。「数万人の会員がいるサイトで公開されてるけど一般公開はしてません」なんて状況、想像もしてなかったでしょ。この辺は今後頭を悩ますしかない。そういうめんどくさいのが嫌な人は歴史学とか古典文学とか考古学とか関係者が軒並み死んでる学問をやりましょう。
二次創作が研究対象になるなんて前例がなく誰もそんな想定をして書いてない。これは前例がないことだということを頭に入れていきなり研究の場に引き釣り出されて心の準備が追い付かない人の気持ちも憂慮してほしい。
前例はあります。
今手元にないんで間違ってたら申し訳ないんですが、2004年に男性向け作品での美少女表象を研究した本が二見書房から出ていて、バッチリ同人誌も引用されてたような。手元に確実にあるやつで確認すると、2009年に創刊されたコンテンツ研究系の学術誌に載ってる尾道の聖地巡礼史を論じた研究では、聖地巡礼同人誌が引用されてます。探せば同人誌を引用した研究はもっと出てくるんじゃないかな。コンテンツ研究だと痛絵馬の分析とかもやってるし、そこまでおかしな事態じゃないです。この辺の学術動向知ってれば「前例がない」なんて発想こそ出てこないですよ。何を今更。
まあ、素人さんがそういう学術動向知っとけ、って無茶ですよね。でも、これでわかったと思うけど、学術って開かれているけれど閉じられた世界なんです。興味のないことには誰も目を向けない。同人誌も同じです。女性向けの島中に置かれてるマイナーCPの薄い本なんて、理屈の上ではコミケ来場者全員に買う機会があるけど実際に買うのはごくごく一握りでしょ? はっきり言って今回の論文だって似たような位置づけなわけですよ。知らない場に引きずり出されて不愉快に思うのはよくわかるし、同情もしますけど。
あとこれ言うと揚げ足取りになっちゃうんであまり言いたくないんですけど、『アララギ』とか『白樺』だって同人誌だし(ていうかあっちが元祖)、そういう意味での同人誌ってたくさん研究で参照されてるし、CiNiiで「同人誌」で検索かけたら戦時中の誰も読んでないようなマイナー文芸同人誌を詳しく紹介するみたいな論文がヒットするわけですよ。同人作品だから引用しちゃいけないとか研究の場に引きずり出してはいけないって言われても、それどこの星のルール? っていう感じがします。明治文学研究とかルール違反の百貨店や~。
これ発表してから2ヶ月近く経って、いろいろ考えましたが、やっぱり私は研究倫理には反してないと思いますね。人に不愉快な思いをさせることがすべての局面において研究倫理に反するわけではないし、やっぱり引用の権利は厳然としてあるので、そこを突っぱねるのは筋悪かな、と。
碧志摩メグについて、公認として認定した志摩市の行政の方たちや、何が悪いんだあんなの秋葉にあふれてる絵だろうと言ってる人達に、どうやればこの違和感が伝わるのか考えてみた。
君に届け!
例えば『裸祭り』。
全国的にいろんな地域で行われていてニュースでも流れるので志摩市行政の方もご存じだと思います。
男性(氏子)がふんどし一枚の裸で行う勇壮な祭りで、神事でもあります。
「うちの町おこしをしたいなあ…」とある日その町の行政担当者が考えます。売りとしては『裸祭』だろうと、そこらへんは課内でも一致。
「結構観光客も来るし盛り上がるイベントなんで、これをうまく使ってPRしよう!」と決定するわけです。
課内ミーティングでいろんな意見がでます。近郊からだけじゃなく全国から。さらにいうと、今はやっぱりグローバル。世界中から観光客を呼びたいね。とか。
このあたり、どこの行政も同じようなことを考えてるんじゃないでしょうか。 多分碧志摩メグを募集したり公認した志摩市行政担当の方も同じような考えがあったように勝手ながら推測しています。で、志摩市の行政担当者の方は、キャラクターを決めてポスターなどに掲載しPRしよう、という方向に落ち着いたんではないでしょうか。で、そのキャラクターを選ぶ際の選び方に、私は違和感を感じるわけです。
その違和感について、裸祭のある町の行政担当者の場合で説明させていただきます。
碧志摩メグに関して私が主に感じる違和感というのは、この裸祭の例で言いますと、その町の行政担当者が町おこしのために裸祭のアピールをすることにして、世界的に有名なゲイ専門誌にPR広告を打った、というようなものと同じではないかと思うのです。
効果は、どうなんでしょう?まあ仮説なので、効果はあるとしてこの件についての裸祭町行政担当者の言い分を聞きますと。
「男性(ノンケ)の裸を性的な目で見る方々にとっては、裸祭はそりゃー生でみたいでしょう。だって男がふんどし一枚でたくさん目の前にいる祭りですよ!? 自分も男だから、女の人が裸で押し合いへし合いする祭りがあると言われればかなり興味を持つので、ゲイの人達の気持ちもわかります。しかも全世界のそういった嗜好の方を対象にすればかなりの数がこの町に呼べます。当然観光客としてお金を落としてくれるわけです」
「ただちょっと裸祭を性的な目で見たり、ふんどしお尻ばかりを写真をとったり、氏子(ふんどし一枚の男性)にたいしてナンパをしたりにやにやとからかいの言葉をかけたりするようなことがあっても、町おこしのためですから!氏子の方も我慢してくれると思うんですよね」
「まあからかいの言葉といっても、『いいからだ!』『写真とらせてクダサイ』『いいヒップだねえ』とかそんなもんですよ、多分……まあ海外のゲイのかたですので、当然体格もよくガチムチ系も数多くいると思います。嫌がらせの暴言を吐く人もいる……かもしれませんが、まあそこは町おこしのためなんで氏子には我慢と自衛してもらうってことで。これ、どうですか!?いいアイディアでしょう?」
……って裸祭町の行政担当が言ったとして、志摩市行政担当の方は違和感を感じないでしょうか?たとえば……
(1)「いやいや……いくら全世界にPRできて観光客がお金おとしてくれるっていってもね、あれは祭りであって性的に誰かを楽しませるために裸でいるわけじゃないでしょう?」
(海女さんも同じですよね)
(2)「しかもあれは、神事ですよ。真面目に皆やってるんです。そんな本質を知ろうともしない裸目当ての冷やかしをされると、祭り自体の価値がさがります」 (おっしゃるとおりです。海女さんも楽な仕事ではなく伝統としての価値もあります。PRに使いたいのなら行政がまずその価値を理解して大事にしてください)
(3)「それに祭りに参加してる裸の男性(氏子)だって嫌でしょう。自分は男好きでもなんでもないのに、勝手に知らない男からそう言う目で見られて、不愉快だし失礼ですよ」
(まさにそれです。海女さんに対してとても失礼ですね)
(4)「あとね、別にそんな裸祭を性的な目で楽しむ人だけにターゲットを絞ってPRする必要がどこにあるんですか?あの勇壮な祭りは、ノンケの男性だってお年寄りだって楽しめますし、子どもも女性も、性的な視点からではなく楽しめる祭りですよ。なのに、性的な目で楽しむ人だけにPRしていると、他の層は面白くないでしょう。裸祭を見に行こうかと思ったとしても、でもゲイの人向けの祭りだしやめておこうかってなりませんかね」
(海女さんの碧志摩メグもそうですね。私は女ですが、なぜ私に対して海女という仕事をPRする価値がないと志摩市行政が思ったのか、さみしいし不愉快です)
どうでしょうか。性別を反対にしてみたら、男性諸氏にも少し感覚がわかりませんか?
でも萌え絵というのは基本的に対異性の恋愛感情や性欲を刺激する目的に特化して作られたものです。
(大きな目、上目づかい、長い髪、細い腰に大きな胸。媚びるような表情)
私は女ですが、(大きな目、上目づかい、長い髪、細い腰に大きな胸。媚びるような表情)←この辺のことを女にされても特に何も感じません。なぜ意味もなくそんな恰好表情をしているのかと逆に気味悪く思います。
ストーリー性のないイラストなら特にそうです。 碧志摩メグの場合は、対男性に対して性的にアピールしているわけです。
女性子どもは無視ですか……とも思います(裸祭町の例でいうと(4)に該当します)
海女さんも不愉快だろうなと思います。(裸祭町の例でいうと(1)(3)に該当します)
そして海女という職業に対する価値を、媚びるだけの仕事であると貶める恐れがあると言う意味では(2)が一番罪深いんではないでしょうか。
裸祭の意味が、単なる男の裸が無料でたくさん見れるそういう嗜好の人にとって嬉しいイベントに成り下がることについて、何とも思いませんか?
そういう嗜好の方が、この祭りに興味を惹かれるのはわかります。
ですので、そう言った風俗やそう言った雑誌で存分にご覧になればいいんじゃないでしょうか。
わざわざそれを目的としていない裸祭でそれを実行するのではなく。
普通の話しですよね?
海女さんも同じです。
萌え絵を見て恋愛感情や性欲を刺激されるのは当然で全然いいんです。男性向けとして他の層に対して配慮された特別の場所であれば。
でも志摩市の公認というのは、そういう場所ではないですよね。にも関わらずそれを志摩市が音頭取って煽ってるのが問題なんです。
萌え絵も悪くありません。
それを見て、かわいいと思ったり恋愛感情や性欲を刺激された方も悪くありません。
なんだよ女は無視かよと不愉快に思った人も、特に悪くないでしょう。
萌え絵は私も好きです。ギャルゲーもストーリーがいいものならしますしアニメもみます。ですが、行政が、海女という職業のPRとして公式認定するにはあまりにも偏りすぎています。 子どもにも説明しづらいですね、あれでは。
秋葉原のギャルゲーの絵としてはかわいいしいいんじゃないでしょうか。特に文句は無いです。「こんな海女いねーよww」とは思うと思いますが、萌え絵が好きな男性からお金をとるという目的にはかなっているので。ただ、コンビニや学校など子どもや女性の命着く床に堂々と置くのは控えてほしいですが。
やはりTPOやPRの意味、そして自分達の立ち位置や公共性について考えずに適当に町おこしをしようと考えた安易な志摩市行政が一番ダメダメなんではないでしょうか。
今回の騒動でPRできたかもしれませんが、正直マイナス方向のPRですよね。
海女さんまでも本人の意向を気にせず組織のために利用する、男社会のずうずうしさ、女の意見を尊重する気がないのががとりわけ目立つ案件で、観光客のほとんどを占める女性の反感をかったのは言うまでもありません。
結局は男性からは仕事の内容とかそう言うのは関係なしに、ああいう風に性的に見られてるんだなあという認識がひろまっちゃったので。
やり直しは恥ずかしいことではありません。
ぜひ認識不足を謝罪の上、再考し素晴らしい志摩市海女さんのPRを検討してください。
※もちはもちや。志摩市行政担当者さんは、予算獲得の方面にがんばり、PRの目的、ターゲット、方法、マネタイズの仕方などについては、専門家をその金で雇った方が良いと思います。
※裸祭=男の裸を誰にアピールするのか、という問いについて、どう答えますか?
女の裸のアピール先は男性なので、多くの人は普通ひっくり返して、男の裸のアピール先は女性と思われるかもしれません。
ですが、私は違うと思っています。
女性は特に興味もない男の裸を見たいとは思わない人が多いです。
女から見て、興味のない男からの性的な視線に対する不快感を男性に理解してもらうには、
男(ノンケ)から見て、ガチムチのゲイ(タチ)からの性的な視線について想像した時の不快感が、近いのではないかと思います。
体力や力が自分より上回るタチの存在から、ネコとして性的な目で見られている、という構図から考えると上記が近いと思ってます。
ええ~。思い込み?
思い込みだよ。例えば男漁りたいだけならネットで検索すりゃ出てくるクルージングスペース行きゃいいだけだし、金あるなら売り専に電話すりゃいい。
Grindrがホモ以外に知られていない時期なら、Grindrに自分の情報を晒せば近所のお仲間と知り合いになれた。
そうだね、オタクならTwitterで仲良くなった後イベントのときに会ってお食事でも、というパターンも結構あるからな。
"招待"なんて過程はない。
これはぜんぜん現状に合っていない。昔と違って雑誌だって「ゲイ雑誌」で検索すりゃどんなのがあるか出てくるし、通販でも買える。
「ノンケの冷やかしではないとわかってもらえるか否か」ことについて話をしてたよね
そもそも相手にしてもらえないのに、どうやってわかってもらうのかな? しつこくメッセ出すの?
半匿名の話し相手だったらTwitterで十分なわけで、ゲイSNSの利用目的はリアル友人・恋人が欲しいかヤリ目かがほとんどだよ?
さっきから君がやってる戦法って
っていうやり方だよね。
見透かされてもまだ続けるの?
「論点とは全然違う」というのがお前の思い込みってこと。
君がさっきからやってる戦法って、ただの主観的想像や思い込みを事実かのように断言するっていうやり方だよね?
見透かされてもまだ続けるの?
「顔を晒さないと招待もしてもらえないコミュニティ」っていうのは
ゲイサイトに限らず俺は見たことが無い。
というか、顔を晒すのがいちばん手っ取り早いと言うだけで、話の中心は「リスク情報を晒す」なんだけどオーケー?
例えばKO-BOXなんかは晒すのにリスクのある携帯アドレスでしか登録できなかったりするんだけどね。
言ってて矛盾してるだろ
なにごとも一長一短だ
そうだよ、基本的に成り立たない。でも、それほどノンケに知られていないSNSであれば擬似的にその状態になるでしょ。危険0だなんて書いてないんだよ。
盛り上がれば盛り上がるほど外部の人間の目に触れて冷やかしが入る可能性が高い。だからゲイSNSの運用は難しい、というのが元増田なわけ。