はてなキーワード: グラフィックデザイナーとは
グラフィックデザイナー。クライアントの横暴に耐えかねています。
スケジュールを提示してもクライアント側が守らない。納期は当然変わらず。
入稿日前日でも素材が届かない。一度や二度でなく毎回こう。
このような状況では事故が起こりかねないと、何度も改善要求のクレームを入れても、
その場で平謝りはするものの、口だけで変化なし。
お忙しいのは重々承知で、この案件だけに注力できないことは想像はできるが、
それは社会人なら当たり前のこと。
わたしもあなたも20代の小娘なので、できないことだらけで、権限もありません。そこは大いに共感します。
ですが、己のキャパがわからずあれもこれも遅れるぐらいなら、いい加減他人に頼ることを覚えてください。
誰かに頼るのは屈辱的で恥ずかしいし迷惑をかけたくないと思っているのかもしれないけれど、
それはたいへん傲慢な考え方です。
遅れるのなら、最低限、何時までになら送付できるかを決めてそれを遵守してください。
強いて言うならグラフィックデザイナーだ。
世間一般にはデザイナーもアーティストも似たようなもんだと思われているかもしれない(私自身もまあ近い存在だとは思っている)が、私は自分の立場としてアーティストは名乗らない。
私は仕事で様々なものを作る傍ら、時々SNSに自主制作として作品を投稿したりしている。
この作品というのも普段の案件でデザインするものと同等の物を目指して作っている。つまりは、その作品が仕事の成果物としても通用するレベルの物だということだ。
あくまで自主制作なのでクライアントは自分(笑)だが私はネット上の不特定多数をクライアントとして見ることにしている。
ではそれらの人々が満足してくれるには何が必要だろうか。
私は、「理解し納得できること」だと思っている。
例えば「牛乳」をテーマにあるロゴマークを作ったとする。そのロゴには商品名に加え牛乳を感じさせる要素(牛、牧場、牛乳瓶、みずみずしさなど)を含めたい。
それらをすべて網羅してまぜこぜにして図案化すれば確かにいろんな要素を含んでいてリッチそうではある。この段階においては入れたい要素を盛り込んだただのアートである。
まず何を一番伝えたいのか。商品名か、おいしさか、それとも牛か?それを決定する。次に付随する要素を厳選し、先の要素を打ち消さないように追加する。
といった感じで取捨選択しながら図案に落とし込んでいく作業が必要だ。
これが難しい。要素を入れすぎれば複雑怪奇になるし、逆に減らしすぎれば伝えたい事が伝わらない。なおかつそれを一つの図案に集約し、見た目が破綻しないように形を整える必要がある。ただ形を整えるだけではダメで、インパクトを与えるためにある種特徴的な意匠が必要だし、何より不特定多数が見て説明を受けたときに理解できるものでなければならない。
こういった「人に理解してもらえる意匠を設計する」プロセスがデザインである(と私は考えている)。
まあ簡単に言えばデザインは制約付きのアートといったところだろうか。
ここまで作業の流れをざっと説明してきたが、私のデザイン自主制作はまだ終わりではない。
作品をネット上に投稿し反響を見る。(←これ大事、テストに出る)
おもにTwitter, Tumblr, Behanceなどに載せるが、いいねやRTやその他のアクティビティを数字として見る事ができる。時には見た人から感想(賛否両論)をもらえることもある。「数字なんて関係ない」と反論されるかもしれないが、数字は正直である。そもそも最終目的に「見た人の満足」を挙げているので私にとってここまで含めてデザインである。
私のやたら細かいデザイン観についてご理解いただけたところで先日起こったある事件のお話をしよう。
先日Twitterにてこんなメッセージをもらった。送り主をA氏とでも呼んでおこう。(ちなみにFF外から失礼された)
「あなたの作品をよく拝見しております。いろんな作品を作っていらっしゃいますが、結構〇〇(とある技法、素材やジャンルではない)を使ったものを投稿しておられますよね。△△△(私の作品名)や▲▲▲(私の作品名)は良かったのですが、最近のXX(私の作品名)はちょっと〇〇としては面白くないというか正直〇〇の作品には相応しくないのでこういった使い方は遠慮してほしい」といった次第である。
はぁ〜そうきたか
少し想定外であった。私は〇〇をデザインの一部(前述した特徴的な意匠の一つ)として利用していただけなのであるが、どうやらA氏は〇〇のそういった使い方が気に入らないようであった。A氏とは面識も交流もなかったので、いろいろ調べてみたのだが、どうやら〇〇界隈では有名というか第一人者で積極的に〇〇の研究や界隈のつながりに寄与されているらしい。
〇〇界隈について調べてみた。〇〇を使った作品を制作している方々が多数いたが皆一様にこの作品は〇〇です、と言っているのである。
〇〇と明記することで界隈のつながりは広がるかもしれないが、ただの技法に固執するのにはすこし疑問をいだいた。
(念のために書いておくが、〇〇は技法であって、素材やジャンルではない)
絵に置き換えてみればわかるが、要は遠近法使ったよ。遠近法すごいでしょ。俺らの遠近法を見てくれ。と言っているようなものである。ちょっと違和感を感じた。
試しに〇〇界隈の作品を眺めるとどうも洗練度がたりない。なぜだろうか。デザイナー目線になってしまうのだが手法に固執するあまり他の要素がなおざりになっているようである。
これは面白くない。〇〇は表現上の単なるテクニックに過ぎない。界隈の人には悪いが、手段を目的化してはいないだろうか。
大事なのは何を作るかである。アートだろうとデザインだろうと、どこに出しても通用する作品としてきちんと完結していることが大切だし、未熟だとしても目指すべきところである。別に最初のうちは技法にこだわっても良いかもしれない、そうしているに作品自体の質が大事だと気付けることだってある。しかしどうも〇〇界隈を注視して見た限りではそういう発展が見られない。むしろ私にメッセを送ってくるあたりからしてだんだん閉鎖的になっているのではないかと心配になってきた。
私は別に〇〇が嫌いなわけではない。むしろ好きだ。だから積極的にデザインの中に取り込んだり応用して独自の表現方法を考えたりしている。
そしてそういった技法を適材適所に使ってもっと広めていきたいと思っている。そのためには前述したような「誰もが理解し納得できる」形のものをデザインする必要がある。
美を追求する点においてアーティストもデザイナーも違いはない。だがデザイナーには確実に人に理解させ納得してもらえるものを作るという使命がある。
1990年生まれ現在27歳のグラフィックデザイナーです。
絵を描くのを一度諦め、何年間か描いていなかったものの、
せっかく戻ってきたのであれば、今までのことを記録してみようと思い立ち記事を書いてみます。
ネット上で絵を描いていた人にはとても懐かしいかもしれません。
物心ついたころから既に絵を描いていて、幼稚園児のころには既に
「学年一絵が上手いキャラ」として周囲から認知されていました。
それは高校に上がる直前までの11年間、自らのアイデンティティとして確立し、
自分=絵を描く人間だという自己イメージは自身の中で確実なものとして定着していました。
幼稚園児のころから漫画が大好きで、地獄先生ぬ〜ベ〜やドラゴンボール、
赤ずきんチャチャ、折原みと先生の漫画、くりた陸先生の漫画をこよなく愛し、
よく真似て絵を描いていた小学校低学年。
高学年になるとテニスの王子様にめちゃくちゃにハマり、
その頃に同人という言葉を知るなど、順調にオタクとして育ちました。
ちょうど6年生になったあたりのころから、
自分でイラストサイトを作ったり、CGで絵を描き始めたのもこの頃です。
あの頃入り浸っていたのは、「ふみコミュニティ」というポータルサイトの絵板。
そこにはたくさんの同世代のイラストを趣味とする子たちが集まっていて、
同い年の子たちもたくさんいました。(「マウス書き。ペンタブほしい〜!」はもはや合言葉みたいだった…)
ふみコミュの中にも絵がすごく上手い子、そうでもない子がいて、
本当に小学校6年生なの!?てくらい当時上手い人もたくさんいました。
私もそこに混じって絵を投稿したり、交流が楽しくてずっと描いてました。
そのころはまだ上手い人に対する、明確な劣等感は感じませんでした。
ドラゴンボールのファンサイトの管理人同士(年齢層高め)で意気投合し、
毎晩のように絵チャットに明け暮れていました。
そこに設置された絵チャットに、暇な人が入っていてそこにどんどんあとから人が集まっていく。
絵チャットは描いている過程が丸見えなので、下手だと思われたくなくて大人に混じって必死で絵を練習し、
一方で「9091P」という1990年生まれの絵描きを集めた同盟が立ち上がり、
同い年同士で交流したりお互いのサイトを見あったりと、創作活動も活発な時期でした。
その頃あたりから、ふつふつと、「世の中には自分より何倍も絵が上手い人がいる」と
中学校三年生あたりで、絵を描いて交流するような友達はいなくなりました。
いるのは、ネット上でも話したことのない、上手い絵描きさんだけ。
同い年なのに、どうしてこんなに差が出てしまったんだろう?
そんなことばかり考えるようになったと、今振り返ると思います。
絵を描かなくなる人生なんて想像もつかない私は、高校は美術を専門とした学校へ進学。
デッサンや油絵、水彩、彫刻、プロダクト、デザインといろいろなことを学べ、最高の環境で学び始めました。
課題で描く絵は本当に得意で、いつも良い点を取れるし、先生からの評価も高いのだけど、
その一方で「自分のために描く絵」というのを、この頃にはもう全くと言っていいほど描かなくなってしまいました。
それはおそらく…わざわざ点にもならない、要は目に見えた利益にならない絵を描くことに意味を見出せなくなり…
わざわざ描くのに、上手い人たちよりも下手な自分を目の当たりにするだけで、
なんのメリットも感じられなかったから。下手な自分を見るのが怖かったから。
課題ではいい点をとらないのに、コンクールでは金賞を取り続ける人。
同人活動で売れ始めた人。
絵画部で大きくて素敵な絵をたくさん描き続ける人。
成績や点数には現れない、素晴らしい魅力を持った人がたくさん身の周りにいました。
でもなぜだろう、仲良くなれなかった。劣等感で一緒にいられなかった。
絵の話だけするのはつまらなかった。
恋愛もしていたしバンドもしていた、いわゆるリア充タイプに属していた自分だからか?
そのために、どこかで「自分は彼らとは違う」と思っていやしなかったか。
一線を画すことでどうにか自分を保っていたのではないかろうか。
仲良くなりたかったんだろうか?それも甚だ疑問で、確かに話は合わなかった、
でも、絵を描いててなおかつ絵以外のことも話が合うひとなんて、この世に存在するのだろうか?
気張ることなく絵や萌えに没頭できた側面もあったのかもしれない。
相変わらず絵を描く親しい友達はできないまま、大学に進学する時期になり、
「せっかく高いお金を同じくらい払うなら、地方じゃなくて上京して東京の美大でデザインを学ぼう。」と思い、
絵を描く情熱が割と無くなっていたにも関わらず、真面目な性分ではあることと
点数を取る絵は得意ということもあったといえども今思い返すと本当によく入れたな…と思います。
絵ではなくデザインを選んだ理由は、少なくとも物を作りながら生きていきたいと思ったからです。
デザインであれば、就職率もよく、絵を生業にするよりはお金になると判断してのことでした。
ただ進学しても業種を変えても問題は変わらなかった。
デザインだって自主制作がとても大事なのに、大学生になっても自主制作ができない病が治らない。
でも課題はいい点を取れる…………と思いきや、さすがに大学はそうはいかなかったのです。
付け焼き刃では、太刀打ちできないほど周りが上手すぎるし、
そもそも大学は研究のために来る場所なので、自分で物が作れない人間は評価すらされない。当たり前のことですが。
そして最終的には就活で完全につまづき、希望の企業には就職できず、
かといって物作りも諦めきれずに、作家性のないグラフィックデザイナーとして現在働いています。
書きたい絵なんてのはもともとなかった。
誰かと描きあって、見あって、評価しあってというコミュニケーションの一つとして私はずっと絵を描いていた。
誰も居なくなって、誰とも話せないのに、一人で描き続ける意味はもはやなく、
コミュニケーションはできないのに上手い人を指をくわえて見ているだけで、
私にとっての絵は、物作りは、もう役目を終えたのではないか。
新しい、今までとは違う方法で、コミュニケーションを取る方法を探すのが賢明かもしれない。
なんのために絵を描くのだろう?なぜこんなにも絵を、作ることを、諦めることができないのだろう?
物作りから離れることは、自分の人生を否定すること、アイデンティティが崩壊することという思い込みが、
未だに私に絵を描かせる。物を作らせる。本当はもう、とっくの昔にうんざりしているのに。
やっぱり諦められなかったけど、30歳を目前にして、
これからの人生において「物を作るか」「作らないか」に一旦決着をつけたいと思ったのです。
どちらに転んでも、もうこれ以上このことで悩まないように。
褒められたい。
ひたすらに褒められたい。
絵を描き続けて早20年ちょい。
小学〜中学校は所謂「クラスの中に一人はいる絵が上手い奴」枠だった。
なんちゃら啓発ポスター、みたいなのにも何度か選ばれた。
「クラスの中に一人はいる絵が上手い奴」枠が40人くらい集結したということで
個人でめちゃくちゃ注目されることはなくなったが、
在学中に参加したコンクールやコンテストではいくつか入賞することもできた。
社会人になった今では、絵からは若干ズレるがグラフィックデザイナーとして仕事をしつつ
絵はもっぱら二次創作だが趣味で続け、その方面でお小遣い稼ぎ程度の絵仕事をもらったりもしてる。
ふと「なんでこんなに絵を描くのが好きになったんだろうか」と考えて、
「毎回誰かしらが褒めてくれる=自分を認めてくれている(気がする)」からだと気づいた。
小学〜中学では絵を描くと「上手だね〜!」「すごいね〜!」と親や先生や友達が、
高校〜大学ではコンクールやコンテストに入賞して認められた気になり
今はSNSやpixivでのRT・いいね・コメントがそれに当たる。
自慢じゃないが、私は技術を除いた人間としての自分自身に自信を持てるところがかなり少ない。
まぁこれについて語ってもしょうがないので語らないが、とにかく自信がない。
そんな自分が唯一『第三者から自分という存在を好意的な目で認めてもらえて、かつ、それによって自分で自分を認めてあげられる」のが、絵が多少描ける、ということなのだ。
絵が描けるから、自分でもいっちょまえに、少しいい気分にも浸れる
うーん、我ながら寂しい奴だと思う。
たまに、絵が描けなかったとしたら自分には何もないんだろうな、とか
孤独を感じる今よりもっと孤独を感じてるんだろうと寂しくもなる。
でも「多少なりとも絵が描ける」のは間違いなく自分を構成するひとつで
結局何が言いたいかというと、
絵をちょっとでも気に入った絵師がいたなら、そのRTやいいねボタンを一発ポチッとしてくれ、ブックマークしてくれ。
あわよくば「好き」とコメントを送ってほしい。
「これ好き>RT」なんでツイートがあったらその一瞬であなたへの好感度はMAXだ。
そして、私に「自分はちゃんと存在を認められてるんだ。」と思わせてくれ。
束の間の「承認されてる感」をくれ。
「二重国籍って海外だと当たり前だし、二重国籍の議員を許さないのって差別じゃないの」みたいな話をツイッターで見かけるのだけど、
二重国籍を認めているオーストラリアでさえ、議員が二重国籍であることが発覚して今週辞職したんだけど。
オーストラリアの野党・緑の党に所属するスコット・ラドラム上院議員(47)は14日、
二重国籍と知らずに過去9年間、議員活動をしていたとして、議員を辞職した。
移民国家の豪州では二重国籍は珍しくないが、議員の二重国籍は憲法で禁じられている。
ラドラム氏はニュージーランド生まれで、幼少時に家族と共に渡豪。
グラフィックデザイナーを経て、政界入りした。ラドラム氏は14日、西部パースで記者会見し
「無料公開」によって市場が崩壊する理由を解説したイラストが話題に ソシャゲー、ユニクロ、web漫画、いらすとや、ダンピングによって壊れる日本
https://togetter.com/li/1072368
■記事をまとめると
そんなことをする企業は悪だ。
この記事内での「低価格でサービスを提供している企業が」という風潮に違和感を感じました。
「政治は国民を映す鏡」という言葉があるが、「企業は消費者を写す鏡」であると私は思います。
大きな企業が消費者のニーズを満たすのではなく、消費者のニーズを満たした企業が大きく成長します。決して逆ではありません。
「低価格サービスを提供する企業はけしからん」と言いながら、ユニクロやしまむらで服を着て、IKEYAの家具を使い、ディスカウントストアで買い物をし、メルカリで古着を探し、LCCで旅行をする。
矛盾しているのではないでしょうか。いつだって選択権は消費者にあり、選択を行っているのは私たち自身なのですから。
ピークを迎えた産業が次に待ち受けるのは、激しい生存競争です。
様々な差別化や価格競争で生き残ろうと、企業や店舗・個人がしのぎを削り合います。
「行き過ぎた競争が産業の寿命を縮める」というのも事実かもしれないません。
しかしながら、遅かれ早かれ寿命はいつか尽きます。結局のところ「〇〇が業界を壊す」と言うのは淘汰される側の言い分でしかない様に感じます。
最近、アニメ業界やデザイン業界のいわゆる中の人の「悲鳴」が取り上げられています。
これらの業界は、少し調べたら分かるほど「悲惨」としか言いようがありません。
しかし「不当な評価」「搾取」という言い分は、はたして本当にそうなのでしょうか?
http://j-net21.smrj.go.jp/establish/columninterview/column/gyokai/20130108.html
この資料によるとデザイン市場は四半期で140億 その内約半数がグラフィックデザイン市場。
つまり70億*4=280億が年間グラフィックデザインの市場規模だと考えられます。
グラフィックデザイナーの人口ってどれくらい?
https://www.d3d.jp/info/archives/531
正確なグラフィックデザイナー人口は算出されておらず、推測の域を出ないのですが、
今回は記事内の書かれていた
・予想人数10万人
つまり1人当たりの年間の売上は
就業人数が32,000なら、84万円
100,000人なら、たった27万円です。
気付かれたと思いますが、市場規模に対して就業人数が多すぎます。
イラストレーターを苦しめるのは、イラストレーター自身ではないでしょうか。
私はグラフィックデザイナーなんだけど、一緒に働いているマーケティングチームがひどすぎる。
おまけにデザイナーがチェックして納品した後で勝手に文言を変えたり、色やフォントを変えられて品質を担保できなくなっている。
ブランドの価値を高めるために品質を維持したいのに、それができなくて腹が立つ。
マーケティングってそういうことって1番大事にすると思うんだけど、どうなのかな。
もともと認知されているブランドだからなんでも露出すれば売れるとは思うけど、毎回期待を裏切り続けるとブランドに対するお客様のイメージも下がって長期的には良くないとは思うのよ。いつか資源が尽きてしまうんじゃないのか。
これをちゃんと証明してチームに浸透させるいい方法はないものか。
グラフィックデザインに進む男性は少ないんだろう。
好きなこと、興味があるところに正直に突き進む女性と、
一応一生稼ぐことを考えないといけない男性の差があるのだと思う。
そうじゃないと説明できないくらい、若い人に男性がいないから。
さて、そういうわけで、
あなたは貴重な男性グラフィックデザイナーだ。
大仰な看板を求めなければ、働き口はそんなに苦労せずとも見つかると思う。
だから、「体力がある」というそれだけで、女性より本当はアドバンテージがある。
二日の徹夜があれば、体力の差は歴然。
それをどうにかしようとしている人は多いけど、
事実としてそれは日常茶飯事で、それでないと飯は食えないので、
やはりそれに付いて来れる体力のある人は必要だ。
そこで是非、ひとまず安売りでもなんでもして、
積める経験を積んでほしい。積み重ねてほしい。
ライバルは、美大に通わせてもらえるようなお嬢様たちばかりだ。
そりゃ中にはそういう浮き世を知らないことが生む才能もあるけど、
そんな一握りの人たちは放っておけばいい。
学歴で言えば適わないような底からそれでもやるんだとやってきた人たちで、
技術を積み重ねた人間の信頼感がある。肥やしてきた引き出しが違う。
そういう人を目指してほしい。
それを信じて、それに応えるべく積めるものを積んで、
是非「グラフィックデザイナー」として歩んでほしい。
上司の命令でグラフィック制作チームからプログラマーのチームに配属された
グラフィックデザイナーとして就職したのに何でプログラミングしないといけないの?
Rubyとか知らねえよ
Windowsあんまり使ったことないし・・・まあ仕事なら覚えますけど・・・
「このチームではエディタはVimとEmacsしか使えないから。どっちか選んで。」
出来れば長年愛用してきたmiが使いたいんですけど・・・やっぱりMacがいいな・・・
「ここ、午後までに修正してプルリクしてね」
「ここ壊れてるらしいから午後までに潰して」
はあ?????????????????????????????????????????????
マジクソだろこの会社
CとかVC++とかRubyとかPHPとかJAVAScriptとか採用情報にいろいろ書いてあるけどそんなの1つも出来ねえよカス
プログラマーを雇えばいいだろ
そもそもプログラマーにも同じ事させてみろや
何でグラフィックデザイナーの俺にプログラミングの即戦力を期待してるの?
俺はグラフィックがやりたいの!
阿倍野ハローワーク・インターネットサービスで閲覧出来る職業は以下の通り。
詳細は伏せていますが、ハロワに行けば、これよりももう少しマシな案件が見られる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
NO 職種
1 指導員
2 (障)事務職
18 (障)SE/プログラマー
32 (障)機能訓練指導員(デイサービススタッフ)住込可平野区
35 (障)庶務
40 (障)インテリアデザイナー職(大阪市北区)
46 (障)言語聴覚士
52 (障)訪問マッサージ師
55 (障)人事アシスタント及び一般事務【人事・総務】大阪市内
56 (障)一般事務(セールスアシスト事業部 行政事務G)大阪
57 (障)営業・事務・キャリアアドバイザー/スタッフ採用担当
58 (障)営業・事務・キャリアアドバイザー/スタッフ採用担当
60 (障)薬剤師
61 (障)医療事務
62 (障)理学療法士
63 (障)作業療法士
68 (障)販売職【セールスアシスト事業部大阪支店】契約社員
70 (障)サービスステーションスタッフ
72 (障)グラフィックデザイナー
73 (障)プログラマー
80 (障)事務職、他
85 (障)あん摩マッサージ指圧師/大阪
86 (障)庶務
91 (障)訪問看護
94 (障)組込エンジニア
96 (障)作業療法士
109 (障)アドミニストレーター(一般事務)天満課
115 (障)データセンターにおけるオープンシステム系の運用SE
118 (障)あん摩マッサージ指圧師
134 (障)アドミニストレーター(一般事務)難波オフィス
144 (障)パソコンを使って受注確定や配送手配・売掛金消込など
145 (障)パソコン設定や操作などについてのコールセンター業務
152 (障)看護助手
ブログ読んだ感想として、詳細な記録を残していることから、平野敬子がかなり強硬に佐野修正案に抵抗している様子が分った
日本グラフィックデザイナー協会(JAGDA)、東京アートディレクターズクラブ(ADC)、日本デザインコミッティー、AGIなどの団体に所属しているらしいが、腐敗に嫌気がさしているようだ
ここで不思議なことがある
平野敬子が、そういう人物だと言うことは、業界人なら分ってそうなものなのに、高崎卓馬と槙英俊は、なぜ審査委員に選んだのだろう?
審査の公平性をアピールしたかったのかもしれないが、何となく疑問に思ってしまう
佐野がここまでアホだとは当事者含めて誰も思っていなかったと思うが、業界腐敗に嫌悪感を持つ良識派のようなものが存在して、五輪ロゴの監視役として、無理やりねじ込んだりしたのだろうかと勝手に想像してしまう
この想像が正しいと、この後の展開として、業界内で権力闘争が生まれて、団体分裂などのようなものが発生すると思うのだが、果たしてどうなるか。
前言翻すようだが、平野敬子は背後関係のないスタンドアローンのような気もする。
佐野さんの件で思い出した事があったので書くけど、あまり良い思い出ではないから書いたらすっきり忘れようと思う。
自分は美大とか専門学校に行かずにグラフィックデザイナーになった。
運良くデザイン事務所に入れて、言葉どうりの下積み時代を経て今に至る。
今でこそ美大・美術系専門卒じゃないデザイナーも増えたけど、当時は美術系の経歴が無いデザイナーはそんなに多くなかった。
一人前のデザイナーとして仕事を任されるようになってから知り合った同業の方がいた。
最初はお互いの大変さを愚痴り合ったりそれなりに仲良くしてたいたのだが、
ある時、もう何がきっかけだったのかすら覚えていないけど
「貴方のような美大も出てない人がデザイナーを名乗る資格は無い。
私達(元美大生)は血の滲むような4年間を過ごし、多くの物を見て、作ってきた。
今後二度とデザイナーと名乗らないでほしい」
と言われた。
急に手のひらを返されてびっくりしたが、バックグラウンドの違いというのはやはり感じる事があったので、そうですか…としか言いようがなかった。
極端な例え話だが「私は医師免許を持っているけど貴方は持っていない。藪医者だ」と言われているように感じた。
これがこの人だけだったらそういう人に出会ってしまった交通事故的な話で済んだのだが、その後の転職等では実績と同時に美大卒を要求される事も多く、それは実力というよりはクライアントや代理店への対外的な意味合いが大きく、
採用側(美大卒)も美大卒(と桑沢)しか認めていないという雰囲気があった。
今回佐野さんを擁護していた人達を見て、そんなことがあったのを思い出した。
その線引きされた中のさらに内側では、トートバッグの件は「ちょっとしたミス」で片付けられることにとても驚いた。
こちらとしてはやろうとも思い付かない、万が一も無いけどやらざるを得なかった場合は確実に干されるようなことが、
あの中では許されるんだということが、本当にショックだった。
藪医者はどっちだったんだろう。
もちろんそうではない、ちゃんとした美大卒の方がいる事もわかっているけど、
そんな下らない村意識に劣等感を抱いていたのかと思うと馬鹿馬鹿しくなった。
わからないやつは黙ってろ的な発言もまた例の線引きかっていう感じではあったんだけど、
もうね、地道にがんばってきた者として今回の一連の件は本当に迷惑だし悲しい。
佐野さんの騒動がここまで大きくなったのは
ザハさんのコンペの審査において、その道のプロの審査に対する不信感を植え付けたことと、なんだかんだその審査結果がぐだぐだの末、白紙に戻ってしまったことも少なからず影響してると思う。
好き嫌いみたいな話になりやすいものは、あれがいい!これがいい!みたいに大勢が言い出したら収集がつかないから(好き嫌いをなるべく排除してそのものの価値を問えるような人として)プロが審査するコンペがあるのに、その重みがなくなってしまったんだろうと。
あと前からうっすら思っていたのだけども単純にデザイナーという職業に対する憎悪みたいなものも、あるのでしょうか?
だとしたら、どうしてネガティブな感情が向けられているのかわからないのだけれど、ちゃらい感じの人が多いと思われているのでしょうか?
グラフィックデザイナーの仕事をよくわかっていないような意見もたまに見かけるので、業界の偉い人含め、地道に説明して世間に理解を足すことも必要なのかもしれないですね・・・
あ、デザインを盗用したしないの話を軽視してる訳ではないです。
盗用したんであればかなり腹立たしいですし、それなりの処遇があってしかるべきだと思います。
ただそこを判断するのは、どんな業界でも素人が判断するべきではないし、その道のプロがしっかりと精査して判断するべきだと思っているので、ここまで外野がわーわー騒いでいるのはなんでだろうかと思っているのでした。
ディレクターとしての責任を認め、その上で失態が起きた原因を説明している。
が、噴き上がってる連中は、サノケンを責めるに飽き足らず
グラフィックデザイナーや広告業界全体を罵倒し始めてるのもいる。
これに対して為す術もないのが一番どうしようもないなぁと。
もともといろいろ言われてた業界の信頼が、これで失墜待ったなし。
なんとかする気はないのかね。
グラフィックデザインの文脈でよく語られるデザイン史は、バウハウスから始まって、グーテンベルクの活版印刷、雑誌時代のエディトリアルデザイン、広告コミュニケーション、テクノロジーとの融合というものだ。また別軸で、グラフィックデザイナーの職能として、工業化社会における機械製品の美学的側面を整えるという歴史があった。まさにテクノロジーの隆盛と歩んできたデザインである。生活を便利にする機械製品(電話や洗濯機など)は生まれ、パーソナルコンピューターは普及した。そして、グラフィックデザインをするためのツールや思想は世の中に溢れ、誰でもグラフィックデザインの勉強ができ、誰でもデザインを作れ、誰でもそういう成果物に対して口出しできるようになった。
いつからか、総合的な計画であるはずのデザイン行為の中から「美学的側面」のみが取り出されて、それに対しての褒賞制度が整えられたのだ。日本で言えば、たとえばJAGDAの褒賞制度。特にグラフィックデザイン業界におけるそれら褒賞制度は、そのほとんどが美学的側面の評価しかしていないので、それがビジネスを支えるツールとして、実際的に機能的であるかどうか定量的に計測されていないだろうし、主催者も応募者もそういう側面でしか見てなくて、内輪で楽しく賞を送り合っている構図がよく想像される。その外に居る人がどれだけ社会に対してインパクトのある仕事(例えば新しいムーブメントを起こしたり、技術や生活基盤を進歩させたりなど)をしても評価はされないのだ。格好良くないという一言で、彼らのコミュニティから排除される。いつまでもはびこる師弟制度、ごますりが必要なコミュニティ入会の現状。
デザイナーではない人はそもそも「上位の概念としてのデザイン」に対するリテラシーがないので、デザイン=格好良くてお洒落な見た目をつくること、という短絡的な思考でしかデザインを評価できない。つまり、受賞した人間はいいものを作っていると。しかし褒賞制度がそもそも歪んでいるので、受賞者がビジネスや社会のライフサイクル的な側面に目を向けられる人間かどうかという評価の視点が抜け落ちてしまっている。僕はこういったデザイナー達を「グラフィックアーティスト」と呼んでいる。決して「デザイナー」ではない。
本来的にビジネスと協調すべきデザイン活動が、それを無視した褒賞制度によって、奇抜なことをするデザイナーこそ優秀であるという歪んだ理解が社会に溢れてしまった。そういうデザイナーたちがつくり上げるものには、機能的側面が欠落してしまうことが多いと思う。デザインの機能的側面が考慮されないデザインは、はたしてデザインと呼べるのか。社会をより進歩させ得る力があるのだろうか。
また別の観点では、現在多くの美術教育の現場にも問題があると思う。教育者自体が、旧来的なグラフィックデザインの文脈で育っているので、そのような視点でしかデザインを捉えておらず、結果的に美学的側面を整えることに教育の主眼が置かれてしまっている。デザインという手法が社会のコミュニケーションを活性化させ、より良い文化システムを構築し、ビジネスにおける利潤獲得のための手法であることが教育されていない。そうして、再び無能なグラフィックアーティストが量産されてゆくのだ。若いデザイナーの元で育ったほうが、明らかに的を射た考え方を獲得できるとおもう。
ここ数年、自分の生業であるグラフィックデザインはそろそろ終わるんじゃないかなと思ってる。コミュニティの思考が高齢化しているし、かと言って新しい考え方を積極的に取り込んで体質の健全化に取り組もうとしない。デザインをもっと価値のあるものにするためのデザイン領域を俺は見つけたからいいんだけど、変化せず進歩のないコミュニティに未来はないとだけは言っておきたい。
美しくあることは大事だと思う。美しいことは心を豊かにしてくれる。しかし、それ以外のもっと大事なことにも一緒に目を向けてほしいと思うのだ。
映画とかアニメとかでいろんなメカやらロボットやら司令部やらが出てくるのを見るたびに、
「あぁーこんなシステム全部メンテしたらどれぐらいの工数なんだろう」とか、
「これ敵の攻撃方法わかってないとちゃんとテストとかできないんじゃないの?」とか、
「このユーザーインターフェイスってちゃんとグラフィックデザイナー入れてるんだよね?」
そういう観点でツッコミどころを探す楽しみ方もおもしろいんだけど、
これがオトナになるというやつなのか。
でも、すごくいいシナリオや演出だとそのへん気にならないんだけどなぁ。
みんなどんどんメディアを消費していくし、インターネッツで矛盾やらはすぐ調べたり広まったりするし、
中の人も大変だ。がんばれ。