はてなキーワード: ギンズバーグとは
トランプ氏、後任の最高裁判事に48歳女性指名へ 人工中絶反対の保守派
https://www.bbc.com/japanese/54306061
リベラル派から批判され続けるトランプ氏も、今回ばかりはルース・ベイダー・ギンズバーグ判事の遺志を引き継ぐことにしたようだ。
女性の地位向上に努めたギンズバーグ判事の後任に、まさに母親としてのみならず法曹としても活躍する女性を選ぶことにした。
さらに
夫はインディアナ州の元連邦検事で、7人の子供がいる。そのうち2人はハイチ出身の養子。夫妻の間に生まれた一番下の子供は、ダウン症候群を患う。
出身地の面でもステップファミリーという面でもダイバーシティを体現する家族を持つ。
女性以外のマイノリティに対してもフェアな姿勢を示してくれるだろう。
自身の子の疾患のこともあり、アメリカをはじめとする先進国に蔓延する新優生思想と正面から戦い、人工妊娠中絶に反対する姿勢にも共感できる。
行を使い切ってしまった。
その他有望そうな作品
『シカゴ』でアカデミー賞作品賞をさらったミュージカルの名手ロブ・マーシャルがディズニーの伝説的名作の続編を制作。
エミリー・ブラント、ベン・ウィショー、こりん・ファース、ジュリー・ウォルターズといった英国の名優たちでがっちり固めつつ、リン=マニュエル・ミランダやメリル・ストリープといったミュージカルで定評のある俳優陣をフィーチャーし、万全の体制を敷いた。
あらすじ的には『プーさんと大人になった僕』みたいな「少年時代から数十年後……」なやつで正直芸がないなという感想だが、やはり布陣の豪華さで眼を惹いているのか、各種オスカー予想サイトでも好位置につけている。
リベラル派の英雄ルース・ベイダー・ギンズバーグ最高裁判事の伝記映画。
正直、作品としての評価はそこそこ止まりなのだが、題材のタイムリーさで群を抜いている。
ここ一二年の受賞傾向から読み取られるように、オスカーは政治の場でもあるので、政権へのメッセージとして名誉枠的にどこかしらの部門でノミネートを受ける可能性はある。
アカデミー賞の常連コーエン兄弟の最新作。元はネトフリのドラマ用に書いた6つの短篇をむりやり一本の映画にまとめたオムニバス的西部劇。
ヴェネツィアでは好評を得て脚本賞を受賞したものの、ネトフリ映画はオスカーでは弱い。ROMAとは違って長編でないことも致命的。
ちなみに日本のネトフリではもう見られるようになっとるぞい。観よう。
オールアジア系キャストでボックスオフィス第一位におどりでてハリウッドに衝撃を与えた金持ちラブコメ。
多様性という観点でいけば黒人映画やLGBTより恵まれていないアジア系英語映画も推されてしかるべきだと思うが、「内容的にはありきたりのロマコメなんで」と言い訳されて回避されそう。
去年の『ビック・シック』のクオリティでさえ作品賞からは外れたしな。
The Hate U Give(ジョージ・ティルマン Jr. 監督)
ヤングアダルト向け小説が原作ながら人種差別に関しての深い洞察が話題を読んだ伏兵的作品。
裕福な白人の子弟が通う高校で自分も「白人的な振る舞い」をしながら友達付き合いをしている黒人の少女が主人公。彼女は幼馴染の少年が警官から理不尽に射殺される場面に出くわしたことがきっかけで、自分の置かれた状況と社会に対して疑問をいだき始める。
批評集計サイト RotttenTomatoes.com で195名の批評家が軒並みポジティブなスコアを与えて支持率100パーセントを記録した作品。去年の『レディ・バード』を彷彿とさせますね。
PTSDを抱えるイラク帰還兵の男が幼い娘と森の奥で世捨て人のような生活をしていたら案の定福祉局に見つかり、真人間として暮らすように強制されるとかなんとかで始まるヒューマンドラマ。
こういう「ロトゥン・トマト・パーフェクト」なインディー映画は『レディ・バード』みたいに配給によほどに力がないかぎりは作品賞ノミネートまでこぎつけられないが、一方で最近のオスカーがインディー作品に対して温かいのも事実。
監督は『ウィンターズ・ボーン』でそれこそインディー低予算映画を作品賞にねじこんだ経験があるだけに、ありえない線ではない。
自分のブログにでも書こうかなと思ったけど、だいたい https://www.metacritic.com/pictures/oscar-best-picture-contenders-for-2019?ref=hp からのパクリだしそんなに力いれて調べてないので増田に放流します。
本命は『スター誕生』、『BlacKkKlansman』、『グリーンブック』あたりか。ノミネーションだけなら『ファースト・マン』や『女王陛下のお気に入り』も。
今年のカンヌで『万引き家族』の次点でグランプリを獲得した、黒人映画永遠のトップランナーの最新作。
黒人なのにKKKにもぐりこんでしまった潜入捜査官の実話を描く。
スパイク・リー監督作のなかでは『ドゥ・ザ・ライトシング』や『マルコムX』をも凌ぐ評価を獲得している(そして興行的にもここ十年で自己最高)。
公開時期が夏季であることと、ややコメディよりのタッチがノミネーションに不利に働くかもしれないが、トランプ政権下において「ブラック・リブス・マター」運動はまだまだ意気軒昂。「黒人映画」枠競争を勝ち抜くポテンシャルは十分だ。
ブラックパンサー(ライアン・クーグラー監督)
解説は不要だろう。今年米国内で最高興収をあげた作品にして、マーベル映画史上でも最も支持された傑作ヒーロー映画。
アメリカ国内外の黒人問題や歴史的視点にめくばせしてオスカー好みの社会性もばっちり備えているものの、やはり「アメコミ映画」のレッテルがネック。
まだまだ白人・男性・おじいちゃんが大勢を占めるオスカー会員にあっては弱い。ギリギリノミネーションがあるかどうか、といったポジションだろう。
余談だが一時期新設されそうだった「ポピュラー映画賞」部門はブラックパンサーを受賞させるために作られるのだという噂だった。裏返せば、作品賞本選に選ばれる格ではない、と会員からみなされているのだろう。
Can You Ever Forgive Me?(マリエル・ヘラー監督)
落ち目のライターが有名人の手紙や文章を捏造して高値で売る詐欺に手を出し、それが嵩じて博物館から実物を盗みだそうと企む実録犯罪コメディ。
日本ではあまり知られていないけれど主演のメリッサ・マッカーシーはアメリカで今いちばんアツいコメディアンのひとり。
夫のポール・フェイグと組んで『ブライズメイズ』、『SPY』、『ゴースト・バスターズ(リメイク版)』などの陽性の笑いでヒット作を飛ばしてきた。
そんなマッカーシーが一転してシリアスでブラックなコメディに挑戦し、見事大成功。本年度の主演女優賞ノミネートが確実されている。
演出したヘラー監督の手腕も高く評価されており、初の監督賞ノミネート、さらには作品賞も夢ではない。
とある気難しい現代っ子少女の中学生活最後の一週間を描いた青春コメディ。
中学生版『レディ・バード』にもたとえられる(中二病的な意味で)痛々しくも切ない、みずみずしくもどんよりとしたフレッシュなローティーンライフの描写が広範な支持を集めている。
監督は若干28歳のコメディアンで、なんとユーチューバー出身。アメリカ映画界における新世代の台頭を予感させる一本。すでに数多くの映画祭や映画賞にピックアップされている
オスカーはコメディを敬遠する一方で、サプライズ的なインディー作品を好む傾向にあるが、はたしてこの作品の出目は吉とでるか凶と出るか。最悪でも脚本賞ノミネートは固いか。
『ロブスター』、『聖なる鹿殺し』と強烈かつキテレツな作風で知られるランティモス監督最新作にして初の時代劇。
アン女王を演じるオリヴィア・コールマンを巡る二人の家臣(レイチェル・ワイツとエマ・ストーン)のバトルを描く百合時代劇……たぶん百合だとおもう。
すでに巨匠の地位を確立したランティモス監督の過去作のなかでも群を抜いて評価が高く、今年のベネツィア国際映画祭でも第二位にあたる審査員賞を勝ち取った。オスカー前哨戦となる各種賞レースにももちろん名前を連ねている。
今年の本命作のひとつとも目されるが、ランティモス特有の変態さ加減が(今回は脚本までは書いてないとはいえ)どこまでお上品なオスカー会員たちに受け入れられるか……。
『ラ・ラ・ランド』で幻の作品賞受賞というなんともかわいそうな結果に終わった(それでも本人は史上最年少で監督賞を獲っているが)デイミアン・チャゼルとライアン・ゴズリング。
そんな彼らのリベンジマッチが実録宇宙開発物語『ファースト・マン』だ。人類で初めて月面に降り立ったニール・アームストロング船長にスポットライトを当て、彼の視点からドラマを描く。
企画段階から作品賞ノミネートは当然、という空気のなかでプレッシャーを跳ねのけて見事高評価を集めた。ノミネーションはほぼ確実といっていいのではないだろうか。反面、今度こそ受賞なるかというと、今ひとつパンチがきいてないようで不安が残る。
オスカー前哨戦の最も重要とされるトロント国際映画祭で観客賞に輝いた作品。ここ十年で同賞を得た作品でオスカー本選にノミネートされなかった例はたった一回しかないのだ。
黒人差別が法的に是認されていた時代のアメリカで、自分もちょっとレイシスト入っている用心棒の白人男が南部へコンサートを開きに来た黒人ピアニストを送迎する仕事を命じられる。最初は「黒人のくせに上等なスーツを着てお上品にピアノなんぞひきやがって……」と反感を抱く用心棒だったが、行く先々で差別待遇を受けるピアニストに対してだんだんシンパシーが湧いてきて……という内容。
ほろ苦くもユーモアとメッセージ性に満ちた内容はまさしくオスカー好み。「分断されたアメリカ」というテーマのタイムリーさもある。ちなみに監督は『メリーに首ったけ』などのロマコメで知られるファレリー兄弟の兄。このところは過去のヒットコメディのリメイクなどで仕事に恵まれなかったが、もともと潜在的に持っていた社会派なセンスが一挙に花開いた。
If Beale Street Could Talk(バリー・ジェンキンス監督)
『ムーンライト』で一昨年の作品賞を獲得したジェンキンスの最新長編。今度こそはチャゼルにかっさらわれた監督賞もいただいて完全制覇を目論む。
原作は今年日本でもドキュメンタリー映画『私はあなたのニグロではない』が公開された、黒人小説家ジェームズ・ボールドウィンによる短篇。濡れ衣をきせられて収監された夫を助け出すために奮闘する若き妊婦のお話。
テーマの重厚さも話題性も十分だが、公開が当初予定していた11月から12月にのびたことが若干きがかり。クリスマス狙いのブロックバスター大作のなかで埋もれてしまう恐れがある。
Mary Queen of Scots(ジョージィ・ルーク監督)
互いにイングランド王位をかけてあらそったスコットランド女王メアリーとイングランド女王エリザベス一世を、それぞれシアーシャ・ローナンとマーゴット・ロビーという旬な女優が演じる。
脚本を担当したのは『ハウス・オブ・カード』や『スーパー・チューズデー 〜正義を売った日〜』などの現代政治劇の名手、ボー・ウィリモン。
いずれもオスカーノミネーション歴を有した名前ぞろいでクオリティも保証されている。同じくイギリスを舞台にした時代劇である『女王陛下のお気に入り』がライバルか。
ROMA(アルフォンソ・キュアロン監督)
世界的に見れば今年最も評価の高い映画といっても過言ではない。ベネツィア国際映画祭の最高賞。
1970年のメキシコ・シティで家政婦として働く女性とその一家のドラマをモノクロで撮る。
評価の高さと『ゼロ・グラビティ』でオスカーを獲ったキュアロンの知名度があれば当然作品賞も……となりそうなものだが、障害は多い。
まずスペイン語映画であること。長いオスカーの歴史のなかでこれまで十作品の外国語映画が作品賞にノミネートされてきたが、受賞にいたったものは一つとしてない。
次に Netflix 映画であること。カンヌみたいに公に締め出すことはしないにしても、アカデミー会員のなかでも動画配信サービス勢に対する反感は根強い。一昨年の『最後の追跡』やドキュメンタリー作品を例外として、『ビースト・オブ・ノー・ネーション』『マッドバウンド』といった作品たちもその年最高クラスの称賛を受けながらもオスカーノミネートには至らなかった。
いちおうネトフリも『ROMA』については配信に先駆けて劇場公開を行うなどの「オスカー対策」をやっているが、はたしてどうなることやら。
ちなみに Netflix でも来月に配信される。驚くべき時代になったものだ。
アリ― スター誕生(ブラッドリー・クーパー監督)
ショービズ映画の古典のリメイク。この八十年で三回目の映画化です。
本年度大本命に数えられる一本。批評家・観客からの圧倒的な支持率もさることながら、商業面でも大ヒット(現時点で世界興収三億ドルを突破)を飛ばした。主演のブラッドリー・クーパーとレディ・ガガの演技もさることながら、これがイーストウッド降板を受けての初監督となったブラッドリー・クーパーの演出にも嬉しい驚きが満ちているとかなんとか。
だが、一昨年の『ラ・ラ・ランド』、昨年の『スリー・ビルボード』と「早すぎる大本命」はかならずバックラッシュに晒されるのがオスカーという場。12月以降に猛然と差してくるであろう後続期待作たちを振り切れるかどうか。
Widows(スティーブ・マックイーン監督)
2013年にアカデミー作品賞を獲得した『それでも夜はあける』のスティーブ・マックイーン最新作。オスカー獲得後の第一作でもある。
シカゴでヘマをやらかして死んでしまった強盗たちの四人の未亡人(ヴィオラ・デイヴィス、エリザベス・デビッキ、ミシェル・ロドリゲス、シンシア・エリヴォ)が亡夫の後を継ぎ女だけの強盗団を結成するちょっと変わった犯罪映画。
マックイーンとヴィオラ・デイヴィスというアカデミー賞受賞コンビで鉄板の出来。
そのパワーでジャンルムービーを嫌うオスカーでノミネーションを勝ち取れるかが見どころだ。
Boy Erased(ジョエル・エドガートン監督)
厳格なキリスト教である両親のもとで育ったゲイの少年(ルーカス・ヘッジス)が教会の同性愛矯正プログラム(いわゆるコンバージョン・セラピー)に放り込まれ、セラピストとバトルする青春ドラマ。
近年では『ダラス・バイヤーズ・クラブ』のジャレド・レトがそうだったように、LGBTものは俳優にとってオスカー像への近道だ(スカーレット・ヨハンソンみたいに非LGBTの俳優がLGBTの役を演じることに倫理的な非難が高まりつつあるにしても)。
批評家筋からの評価的には作品賞には届かないかもしれないが、演技賞ではノミネートが有望視されている。
トランプ政権下でLGBTに対する抑圧が増しつつあるだけに、時事性も捉えているかもしれない。
GWブッシュ政権下で「史上最悪の副大統領」とも呼ばれたディック・チェイニー元副大統領をクリスチャン・ベールが激太り(何度目だ)+ハゲという負の肉体改造で演じたブラックコメディ政治劇。
他にも妻リン・チェイニー役にエイミー・アダムス、ラムズフェルド国防長官役にスティーヴ・カレル、GWブッシュ役にサム・ロックウェルなどアカデミー賞級の芸達者がずらりと並んでいる。
題材としてはなかなかトリッキーだがマッケイ監督の前作『マネー・ショート』がそうだったように、ツボにはまれば一挙にアカデミー賞ノミネートまで行ける。
同じく政治ネタでライバルだった『フロント・ランナー』(ジェイソン・ライトマン監督)の評判がいまひとつ芳しくないのも本作にとっては好材料。
The Old Man and the Gun Now(デイヴィッド・ロウリー監督)
名優にして名監督ロバート・レッドフォードの引退作。15才で逮捕されたときから人生を通じて強盗を繰り返してきた70才の犯罪者(レッドフォード)と彼を追う刑事(ケイシー・アフレック)、そして彼に惹かれていく女性(シシー・スペイセク)を描く実話犯罪コメディ。
作品賞ノミネートは微妙なところだが、レッドフォードはまず間違いなく主演男優賞候補入りするだろう。
ちなみにデイヴィッド・ロウリーの前作であるゴースト・ラブストーリー『A GHOST STORY』は今日から封切り。観に行け。
一方で、実話犯罪・老人・名監督にして名俳優と共通する要素の多い作品としてクリント・イーストウッド監督の『The Mule』にも注目しておきたい。こちらは80才の麻薬の運び屋をイーストウッドが演じる。映画祭などでもまだ未公開なため、どう転ぶかはまだわからないが、近年のイーストウッド作品に対するアメリカ人の冷め方からすると賞レース的な意味での期待はあまりできなさそう。
その他有望そうな作品
『シカゴ』でアカデミー賞作品賞をさらったミュージカルの名手ロブ・マーシャルがディズニーの伝説的名作の続編を制作。
エミリー・ブラント、ベン・ウィショー、こりん・ファース、ジュリー・ウォルターズといった英国の名優たちでがっちり固めつつ、リン=マニュエル・ミランダやメリル・ストリープといったミュージカルで定評のある俳優陣をフィーチャーし、万全の Permalink | 記事への反応(3) | 16:07
This Is Not A Feminist Song - SNL 2016 - YouTube
この世を糺すために戦っている女性たちのための歌が
頑張ろうとしたけど無理だった
間違えてしまうのが怖かった
でも書き終えずに家に還ってしまった
女性は誰でも悩みを抱えていて どの悩みも本物
だから代わりに リリックに乗せて走りだす女性たちのMVを撮った
おばあちゃんだからって どうこう言いたいわけじゃない
手だけ映すのも 正しくないと分かっている
まんまと罠にはまってしまったわ
ポリコレも考えなくていい
ずいぶん長く歌ってる気がするけれど
でもこの曲は違うから よそをあたってね
マララにマヤ・アンジェロウ それにマデレーン・オルブライト
「男は出てきちゃいけないの?」
そういうことよ どっか行って
この曲を聞いてるみんなも歌ってね
そして、私達が間違ってるなら教えてね
どうも。こないだまで就職王って名乗ってましたが、今は無職王です。
で、前回書いたコレhttp://anond.hatelabo.jp/20110429004257に
なんかすごい真面目なトラックバックが来てたので、なんか書かなきゃなーと思いました。
二代目ロストジェネレーションが失ったもの。望み。そして、僕らは何からはじめるべきか
http://d.hatena.ne.jp/thinking-terra/20110529/1306640590
で、これ読んで思ったんだけれども。
ぼくが思うに、現代日本の若者における問題ってのは最早「価値観」の問題ではないと思うのね。
いうなら、それは生存の問題だし、もっと明確に言えばいかにクサレ年寄りから椅子をムシリ獲るかってことなんだと思うんだ。
「既存の価値観に乗ることは出来ない」とテラケイさんは仰る。でも、ぼくはそれは違うと思う。
むしろ、現時点に於いても生存戦略としては「既存の価値観にドップリ漬かる」は限りなくベストに近い。
「世代」のことを考える前に、「自分」のことを考えて、グダグダ言わずに東大を出るべきなんだ。
もちろん、東京大学というのはかなり極端な例だけれども。
ミクロで考えるなら、まだ現代日本は個人の力で「なんとかなる」社会だとぼくは思う。
ぼくの「就職王」コラムは個人化戦略の極地のようなものだけど、実際あの程度でなんとかなってしまう。
でも、もちろんマクロで考えるとこれは明確に間違っている。
だって、椅子の数が限られているなら誰かは必ず負けるんだから。社会には一定水準の競争が必要である、という
命題を真であるとした上でも、社会を構成する一定層はそれなりの職を得て暮らしていけなきゃまずい。
それに、ぼくのような口先だけで逃げ切るやつが評価される企業の土壌というのも、あんまりよくない気がする。
やっぱり、社会は少しずつでも変えていかなきゃならない。ぼくらの世代が楽しく生きるために。
「社会を変える」って言いにくい世代だよね、ぼくらは。上の世代が派手にコケたから。
どうせ社会なんて変わらない、馬鹿どもの轍を踏んでたまるか。そういうところがある。
デモやる?って言われても「それ頭の悪い年寄りが大分前に失敗した」としか思えない。
カウンター・アクションは必要だけれど、それはやはり時代に即したものでなければいけない、と思う。
少なくとも「就職クソッタレ」って言って変わるものがあるなんて考えられない。そうじゃないか?
ウザイ自分語りで申し訳ないけれど。ぼくが就職したのは「箔をつけるため」だった。
今、起業をするために色々じたばたしてるんだけれど、やっぱりカネを出して貰うにはそれなりのものが必要になる。
少なくとも、「真っ当に勤めていれば生涯年収4億近かったですよ」くらいのことは言えないと、
与えられたカネの代わりに差し出すものとしては、とても足りない。実はこれでも全然足りないんだけれど、
それでも何某かのバックボーンにはなる。使えるモノは、使わなきゃ損だ。就職して数年踏ん張るだけで得られる
ステータスって、実は結構お買い得な気がする。ある意味、大学の名前以上に。
この日本社会は実にクソだと思うけれど、使えるものを使わずに戦うのはいかにも勿体無い。
「価値観を変える」なんてのは、ヒッピーになるのと同じだ。ヨガをやってもマリファナやってもロックフェスをやっても、
実はどーにもならない。それは、かつてアホな連中がもうやった。ぼくらがそれをやる必要はない。
ぼくは巷で見る就職活動批判にすごく違和感を感じていて、つまるところそれはどこまで言っても
「負け犬の遠吠え」としか認識されないんじゃないか、ってこと。
かつての頭の悪い年寄りには「世界同時革命」みたいな強烈なイデオロギーがあったから、「就活のバカヤロー」よりは
スケール感もまとまりもあったけれど、ぼくらの世代にはそれもない。あるべき社会のモデルすらない状態で、
「価値観を変えろ」って言われても、それは「解脱しろ」とか言われるのと一緒だ。シャクティーパッドとかポアとか
そういう語感にしかならない。そんなことにはほとんど何の意味もない。
つまりところ、それがミクロの問題であれマクロの問題であれ、既存社会からの断絶というのは不可能なんじゃないかと思う。
テラケイさんは価値基準を語るときに「外部」と「内部」という言葉を使っているけれど、ぼくには価値観に於いて明確な
「外部」ってのがあるとは思えない。テクストに外部はない、みたいな学問を専攻してたせいもあるんだけど
それを差し引いても、既存の価値観を排除して生きていけるなんてとても思えない。そんな強くないからね。
ロストジェネレーション世代にニーチェじみたものを押し付けても、それは「レッツ自殺!」って結果しかもたらなさないのではなかろーか。
我々が目指すべきものは、この社会から乖離したものではなく地続きにものでなければいけない、と思う。
じゃあ、どうすべきかってことなんだけど。
とりあえず、まずは団結すべきだと思うんだ。勝ってる奴も負けてる奴も。
世の中はクソで、なんとかしなきゃ楽しい人生は送れそうもない、って意識を共有することだと思う。
ぼくはかつて、ものすごく貧乏で大学の学費にもメシ代にも汲々としてた時期があったんだけど、
その時、やっぱり同じような奴らと相互扶助的に生きていて、それは例えば部屋を分け合ったりとか
僅かなカネを分け合ったりとか、電気釜を共有したりとかそういう話だったんだけど、そういうところからだと思う。
例えば、イタリアの話。イタリアは、失業率がアホほど高いけど、自殺率は低い。これは何故かっていうと、一説には
一族主義が強く根付いているからだ、と言われている。縁のある誰かが食えてなければ、誰かが食わす。そーいうところがあるらしい。
じゃあ、我々悲惨な現状にいる連中も、そーしとけばいいんでないかな、と思ってる。
とりあえず、屋根とトモダチがいれば死ぬことはない。ぼくはそー思う。
こうすることで何が得られるかといえば、リスクを取るのが非常に容易になる。
「1人が1のリスクをとる」ことと「10人がそれぞれ1のリスクを取り、リターンを分配する」ことは大分違う。
もちろん、10人全員が敗れ去るパターンもありえるけれど、かなりのヘッジが出来ることになる。
そして、何よりだけど精神的にとても楽だ。ぼくは「起業」の道を選んだけれど、他にもロースクールに行ったりとか
そういう道を選ぶことにもやはりリスクはつきまとう。金銭的なリスクもそうだけれど、孤独化してしまうことが何よりヤバイ。
官僚から政治家目指すぜ、みたいな道にしてもやはり同じだ。そういうとき、価値観を共有出来るつながりがあることは
何より強いとぼくは思う。いや、今んとこカネを得て起業に漕ぎ出したところだから、この先なんかわかんないけどね。
仲間にも全部見捨てられて、一人ひっそり首を括るって可能性も全然あるわけだし。
それで、社会批判の話に戻るんだけれど。ぼくが「就職王」でやりたかったことは
「就職活動批判」のちょっとスマートな形を提示するってことなんだ。
確かに、マクロ的に考えると我々は既存の価値観に乗っかることは出来ないかもしれない。
しかし新しいマクロな価値観とライフスタイルを創造することも、おそらく出来ないだろうってこと。
その行き詰まりの中でクリティカルなクリティークを社会にカマすとしたら、
既存の価値観に乗っかって踊り狂いながら、同時にそれ自体を批判として成立させるしかないんじゃないかと思う。。
ダンスパーティーを台無しにしたいなら、まず誰より上手く踊らなきゃいけない。そうでなければ、誰も話を聞いてくれない。
やはり、我々はこのクソみたいな社会で戦っていくしかないし、クソみたいな社会を否定したところで
クソじゃない社会の青写真を描けるわけじゃない。それは、大分昔に失敗した。
だから、このクソだめみたいな社会の集団的蛆虫として既存の価値観と地続きの世界をサバイブしていく以外に多分道はない。
そして、九人がダメでも、一人が生き残れればそいつが他を引き上げればいい。もちろん、現実的にこんなことが上手く行くか?
ってところはあるけれど、独力で社会と隔絶された「価値観」を作り出すよりは、十人で価値観を「共有」するほうがまだ成功率は高い。
「悟りを得た」人はそんなに多くないけど、「宗教にハマって死んだ」人は腐るほどいる。
その程度の価値観共有なら多分できるんでないか、そういう風にして戦っていくしかないんじゃないか、と思ってる。
人間、上手いこと価値観を刷り込まれれば飛行機でビルに突っ込めるんだから、それくらいできるんじゃね?と。
まー、なんというか。
これはぼくの戦略っぽく見せかけた誇大妄想だから、なんのあてにもならないけれど。
とりあえず、若い人間はもーちょい戦略的に生きるべきだと思うし、また同時に団結すべきだと思う。
個人の内面のナイーヴな話に閉じてしまうのは、なんかどーなんだろーな、とぼくは思うんだよね。
これから具体的にどーするか、どのようにして生き残ってリスクを取っていくかを論じるべきじゃないだろうか。
まだまだやれることあると思うんだよね、実際。
ところで、死ぬほどどーでもいいけど、「ロストジェネレーション」って若い頃第一次世界大戦に遭遇して、何か価値観がクラッシュしちゃったよーな世代の作家達を指す言葉で、「二代目」っていうとちょっとおかしいことになるよね。ロスジェネの「二代目」世代ったら、ビートの時代でケルアックとかギンズバーグとかを指すと思う。
不況なんかにぶつかった「貧乏くじ世代」を指す意味で「ロストジェネレーション」って語を使うと、今の世代は何代目になるのか、すごくめんどくさい議論が要るね。個人的に、「ロストジェネレーション」を現代の「失われた世代」に当てはめるのは色々ムリがある気が。字面はいいけど、原義から考えるとスゲービミョーな感じ。ロスジェネ論争とか言われると、今更ヘミングウェイとか論じてんの?って思っちゃうのはぼくだけじゃないと思う。
http://anond.hatelabo.jp/20100913002509
小学生の頃、中休みや昼休みに遊びの輪に入れず図書室に逃げ込んでいた。
そこで読んだ「十五少年漂流記」や「ロビンソン・クルーソー」辺りが出発点だろう。大丈夫、俺もそうだ。
そして大方の場合、小学校~高校までははっきり言ってクソだっただろう。
グレたか孤独だったかの二択しかない。家庭科の授業と体育は大嫌いだ。大丈夫、俺もそうだ。
そんなわけで、自分の才能はどこにあるか小学生の俺は考えた。運動、論外だ。絵、話にならない。勉強、出来なくはないが一番には到底なれそうもない。そんな時、読書感想文コンテストが市の優良賞に選ばれた。そうか、俺の才能文章じゃね?
そもそも「書きたいもの」がそんなにない。ファンタジーもSFもラブロマンスも特に好みではない。
なんとなく「文学」に憧れはあるが、そもそも文学ってなんだ。これは本を読まねばなるまい。
とりあえず「金閣寺」と「人間失格」を買ってみた。どっちも意味がわからなかった。ただ、人間失格を読んだとき「要するにゴミ野郎だよね」と思った記憶はある。これのどこがいいのだろうか、と真剣に思った。金閣寺は途中で放り投げた。
仕方が無いので、遊び人のおじさん(36歳、ヒモ)に相談した。面白い文学ってない?おじさんは「これを読め」と安部公房の「壁」を貸してくれた。世界がひっくり返った気がした。あの衝撃は未だに忘れられない。「S・カルマ氏の犯罪」「バベルの塔の狸」。まさに「衝撃」と呼ぶのにふさわしかったと思う。ようするに、文学とは衝撃なのだとそのとき俺は思った。「作者は何を言いたかったでしょうか?」という国語教育の呪縛から解き放たれた瞬間だったと思う。
おじさん、面白かったよ。とおじさんに本を返すと、次におじさんが貸してくれたのは
中島らもの「バンド・オブ・ザ・ナイト」と三島の「不道徳教育講座」だった。今思うと、中一に貸していい本では決して無いのだが。これらの本は「衝撃」という点では安部と全く比較にならないが、とにかく面白かった。中島らものラリった文章と三島と毒たっぷりのユーモア。おかげで、俺は加速度的に人生を踏み外していった。その後、叔父さんは叔母さんと離婚しどこかへ消えていってしまった。どこかで野垂れ死んでいるかもしれないが、元気ならいいな、と思う。
もともと、安部公房からスタートした読書遍歴だったのでとにかく「実存主義」というやつに俺は興味があった。
言うまでも無い、カミュである。「論ずるに値する議題は一つしかない、自殺である」(ちょううろおぼえ)のシジュポスの神話、なにより「異邦人」は安部以来の衝撃を俺に与えた。また、この頃俺の心を捉えたのはもう一つ、いわゆるビート文学である。ケルアック、ギンズバーグ、そしてバロウズ(これは中島らもの影響も強い)、そしてもう一つ。読書暦の長い人は次に何が来るか容易に予想が出来るだろうが、ドストエフスキーが直撃した。「カラマーゾフの兄弟」や「罪と罰」は当然として、俺の心をえぐったのは「貧しき人々」だった。あの主人公の愛すべきクズっぷり!誰も悪人はいないのに、誰もが加速度的に人生の谷底へ落下していく感覚。学校をさぼっては喫茶店でひたすら本を読んだ十代だった。しかし、サルトルに関してはさほどピンと来ていなかった。「嘔吐」が面白いとは全然思えなかったのだ。根っこをみたらゲロが出る、それで?といった感じだった。
この年齢になると読書に対する耐性もかなり固まっていたので、バルザックやゾラも読んだ、カフカも読んだ。ラテンアメリカ文学にも手を出し始めた。ボルヘスやマルケスも悪くはなかったが、なんといっても「ペドロ・パラモ」のファン・ルルフォが心を捉えた。セリーヌ、ジット、ベケット、クノー、ロブ・グリエといったフランス文学の一連の流れも好きだった。とにかく読みまくっていたことだけは覚えている。おかげで、センター試験の数学は4/200点だった。
そして高校を卒業した。この時期には熱心に小説を書いていたような記憶がある。だが、今読み返しても全く面白くもなんともない。無駄に重苦しい下手糞な文体、意味不明なストーリー展開、自意識過剰さだけがひたすら鼻につくクソみたいな小説だった。大学入試は願書を出すのを忘れた。家にもいられなくなり、家を出た。その後はなんか二年くらい働いた気がする。ある日ふと、立ち寄った本屋でテリー・イーグルトンの「文学とは何か」を読んだ。そうか、よし、文学理論をやろう!そう思って大学を受けた。北海道の片田舎で二年も働いただけあって貯金はそこそこあった。なんとなく某私大を受けたら受かった。奨学金を借りて、三畳間に住んで暮らした。死ぬほど楽しかったことだけは覚えている。図書館の充実っぷりと来たらすさまじいものがあった。幸せだった。いつまでもこうしていたかった。
大学の間は一生懸命研究をやったとしか覚えていない。卒業する頃、現実的に大学院はムリだと悟り就職した。その間に小さい文学賞や論文の賞を幾つか取ったけれど、デビューには全くつながらなかった。今はとある金融機関の出納担当をしながら小説を書いている。明日も早いから寝なきゃならない。何が言いたいのかさっぱりわからなくなったけど、とにかく小説っていいものですよね。人生って辛いですよね。そういうわけで、リンク先の増田にイーグルトン読めとお勧めしたいだけなんですよ。面白いよ。
単にオイラの読解力が無いだけかもしれない、という言い訳から入るけど。
http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/20070211/p1
別に『賃金水準は、絶対的な生産性で決まるんじゃない。その社会の平均的な生産性で決まるんだ。』って部分にそんな文句はないけど、とにかく煽りすぎだろこれwwwww
前回述べたように、こうした企業が高い生産性を実現できるのは、その他の人々の支えがあればこそ、ではある。そうはいっても、やっぱり肝心なのはすさまじい労働生産性を達成している製造業なんだよ。
とりあえずこれを信じることにして(http://anond.hatelabo.jp/20070212044554って意見はあるけど)、これと
実はサービス業の多くは、あまり生産性が高くないんだよ。(中略)でも、だからこそ第三次産業/サービス産業は雇用吸収力がある。
これで、何故
になるのかさっぱり分からん。教えてエロイ人。
はてなに巣くうお気楽大学生どもが、バイトで途上国の高級官僚の何倍ものお金を稼げるのも、究極的にはシャープやソニーやスズキのおかげなんだよ。腐ったアーティストだの、エコロジストだの、勉強不足の新聞記者だの大学教師だのが高い給料をもらってのほほんとして、大企業批判にうつつをぬかしていられるのは、実はかれらが往々にして忌み嫌う大企業の大量生産システムのおかげなんだ。2ちゃんねるに巣くう(一部の)くされニートどもだって、その安楽な生活はかれらがとかく批判したがる大企業が高い生産性を実現している余剰にたかっているだけなんだよ。
んじゃもう、生産性的に(比較的)労力の無駄食いが多い部分なんてゴリゴリカットして、99%ってのは多少言いすぎにしても、これからは大企業様の恩恵を賜りながら僕ら皆でニートしてりゃいいんじゃね。マジで。出来ればその方がシアワセだと思うよ、僕は。
後どうでもいいかもしれないけれど
もっと卑賤なほうへ! メイド喫茶の女中さんがいる。日本の女中どもは、やはりメイド喫茶のあるタイの女中さんの数十倍の時給だ。どうして? 日本の女中さんはなんか手際がいいの? 目にもとまらぬはやさでオーダー取るとか? 「お帰りなさいませご主人様」というのを 100 倍の速度で言えるとか? 日本ならタイの女の子の 100 倍の媚びを売って、萌え度 100 倍、タイの女中喫茶なら平気なキモヲタくんが、アキバの女中喫茶だと店に入った瞬間に萌えオーラでいきなり射精とか? ねーよ。
ここの小見出しが『生産性の国際比較――サービス業は世界的に大差ありませんわよ』なんだが、サービス業をこんな感じで比較することに意味があるのか?よくわからん。タイでティーポット傾けられても、日本のご主人様のティーカップには一滴たりともお茶は入ってこねーべ。
あー、感覚的に世界を縮めまくってるとか?
それなんてストレイト・クーガー。
たとえば、ぼくは先日、ウィリアム・バロウズ&アレン・ギンズバーグ『麻薬書簡』という本を訳した。所要時間は一日半。しかも品質最高。一方、この本には既訳があって、某大学の先生がどっかに缶詰にされて「たった二週間で仕上げた」と自慢し、しかも「やっつけ仕事だ」と自負なさるとおり、目を覆うばかりのまちがいだらけ。この場合、ぼくの生産性と、この大学の先生の生産性のちがいは簡単に計算できる。時間だけで見ても、ぼくの翻訳の生産性はこの先生の 10 倍弱。品質を考慮すれば 20 倍以上だろう。
どれだけ数量作れたって、価値が無けりゃ意味が無いんじゃないんですか先生(いや、別に翻訳本に価値が無いって言ってるわけじゃないです)。生産性って生み出した物そのものによるのか?生み出した価値によるんじゃないのか。
上のメイド喫茶の話でもそうだけど、なんかこの辺りが(主に僕の中で)よく分からんことになっとる気がする。タイで「お帰りなさいませご主人様」って言われても、その笑顔も見えなきゃ声も届かない日本のご主人様にとってはほぼ無価値だもんなぁ。