はてなキーワード: キーセンとは
7/25(日) 13:00から行われた東京オリンピック 女子ロードレースで奇跡が起こりましたので普段、自転車ロードレースに関心の無い方でも分かるよう解説してみました。
オーストリアからたった一人参加していたプロではない博士号持ちの数学研究者アンナ・キーセンホーファー選手がスタート直後から飛び出し、そのまま最後まで逃げ切って金メダルを獲得してしまいました。
通常ロードレースでは大きな集団(メイン集団とかプロトンと呼ばれます)になって走りますが、そこから飛び出して先行する少人数の逃げ集団も良く作られます。
今回もアンナ選手と他に4人がスタート直後にメイン集団から飛び出し、5人の逃げ集団を作って先行しました。
しかし、そのような逃げ集団はレース終盤にはメイン集団に追いつかれて吸収されてしまうのが一般的です。
たまに逃げ集団の選手がそのまま逃げ切って勝ってしまうこともありますが、それだけでニュースになってしまうぐらい珍しいことです。
しかも、今回はオリンピックという一大イベントで逃げ勝った選手がプロではない数学研究者だったということでロードレース界隈を越えて大きなニュースとなりました。
そもそも逃げ集団が終盤にメイン集団に追いつかれてしまうのは一言で言うと「人数が違うから」です。
集団の場合、先頭の人はこの空気抵抗をまともに受けながら走ることになりますが、2番目以降の人は直接空気抵抗を受けないので楽に走れます。
どのくらい楽に走れるかというと先頭の人の6割程度の力で同じ速度で走れると言われています。
そこで、集団で走る場合は先頭でしばらく走ったら後ろに下がって、次は別の人が交代して先頭を受け持つという戦術が取られます。
この場合、交代要員がたくさんいるメイン集団の方が少人数の逃げ集団より圧倒的に有利なため、ほぼ必ずレース終盤には逃げ集団はメイン集団に追いつかれてしまうのです。
ところが今回、アンナ選手は最後までメイン集団に追いつかれませんでした。
理由の一つは今回勝ったアンナ選手が最後まで速かったからです。
スタート直後からゴールまで残り40kmぐらいの籠坂峠というところまでは複数人で走っていましたが、そこでアタック(スピードを上げて飛び出すこと)を決めて他の人を振り切り、以降はゴールまで単独で走っていました。
http://www.vill.doshi.lg.jp/ka/info.php?if_id=929&ka_id=4
単独だと空気抵抗をずっと受け続けるので、しばらくすれば速度が落ちてくるものですがゴールまでスピードを緩めることがありませんでした。
これは彼女がロードレースよりも単独走行で時間を競う個人タイムトライアルという競技を得意としていたからだと思われます。
そして、もう一つの理由は今大会随一の強豪であったオランダ チームが彼女の事を見落としていたことです。
今回のオリンピックでは各国毎にポイントで参加人数が割り当てられ、強豪国オランダは最高の4人が割り当てられていました。
そのメンバーもリオ五輪優勝とかロンドン五輪優勝とかのすごい選手ばかりです。
ところが、そんなオランダ チームはアンナ選手に振り切られた2位のイスラエル選手に追いついたところで、それ以上追おうとしませんでした。
なぜなら、そのイスラエル選手の前にまだアンナ選手がいることを見落としていたからです。
なぜこんなことが発生したのかというと、通常のプロのレースでは選手は無線を使ってサポートカーに乗ってる監督から様々な情報や指示を受けることが出来ます。
しかし、今回のオリンピックでは国毎に参加人数が違う有利不利を緩和するため、選手が無線を使うことが禁止されていました。
そのため、情報を得るには集団から離れてサポートカーまで下がって直接聞くか、ホワイトボードを持ったバイクが先頭との時間差を書いて教えてくれるのを見るかしかありませんでした。
たしかに終盤はオランダの選手がサポートカーまで下がる場面は見ませんでしたが、バイクはホワイトボードで先頭との時間差を伝えていたでしょうから、なぜこんなことが起こったのか本当のところは良く分かりません。
いつものレースの様に無線で十分な情報を得ることのできない環境に戸惑っていたのか、あるいは日本の真夏の暑さにやられてしまっていたのでしょうか。
もし、オランダ チームが彼女を見落とすなどというミスをしていなかったら、彼女は勝てなかったのでしょうか?
一般的に逃げ集団をメイン集団が追う場合「平地なら10kmで1分差を縮められる」と言われています。
今回のレースでは中盤のゴールまで残り約60kmの山伏トンネルあたりで、逃げ集団とメイン集団の差は7分弱ありました。
しかも、下り坂ではコーナーを曲がるために単独でも集団でもある程度以上の速度を出せないため、あまり差を詰められません。
そんな下り坂がゴールまで約40㎞の籠坂峠から10数キロあるのです。
この時点で当然、オランダ チームは前に逃げ集団がいることと時間差を把握していたでしょうから、確実に捕まえるならここから既に追走を始めていなければならなかったと思われます。
しかしながら、オランダ チームはまだ追走態勢に入りませんでした。
追走態勢というのはこの場合、メイン集団の先頭でオランダ チームの4人が次々と交代しながら全力でスピードを出して集団を引っ張っていくようなことを言います。
自チームだけが全力を出していると相対的に他の国のチームが有利になるので、逃げ集団の5人がアンナ選手も含めて有力な選手では無かったため、ここで追わなくても後で追いつけると判断したのでしょう。
これは運が良かった、悪かったというレベルではなくオランダ チームの判断ミスだったと思います。
次に、アンナ選手に振り切られた逃げ集団の残り二人をメイン集団が視認したのはアンナ選手がゴールまで残り10km前後の時点と思われます。(逃げ集団の他の二人はそれ以前にメイン集団に吸収されていました)
この時、アンナ選手とメイン集団の時間差は3分以上ありましたので、仮にオランダ チームがアンナ選手を見落としておらず、その二人の前にアンナ選手がいると認識していてそこから全力で追ったとしてもゴールまでに追いつくことは出来なかったでしょう。
また、オランダ チームは二人を視認するまではアンナ選手を認識していたかどうかに関わらず、先頭に追い付くつもりで追っていたのでしょうから、結局予想よりも先頭との差が詰まらず追いつけなかったという判断ミスを犯したということになると思います。
よって、自分としては彼女は運が良かっただけでなく、終盤にオランダ チームが彼女を見落としていなかったとしても逃げ切っていたと考えます。
ちなみに2位となったオランダ チームの選手との差は1分15秒でした。(あれ、けっこう微妙?)
現在はスイス連邦工科大学ローザンヌ校(EPFL)で非線形偏微分方程式を研究するポスドク研究員だそうです。
先月も学術誌に論文を投稿しています。下のリンクがその論文ですが、さっぱり分かりません。
そして彼女のスポーツ歴はというと下記の通りで、短期間プロチームに在籍していたこともありますが、オリンピック参加時はプロチームとの契約の無いアマチュアです。
最近は大きなロードレースに参加することも無かったため完全にノーマークだったようです。
彼女を含めたレース後の選手へのインタビュー記事が以下にあり、彼女の名言を読むことが出来ます。
https://www.cyclowired.jp/news/node/350652
研究者らしくツイッターではオリンピック前に準備として自身の体の熱順応を分析してたりします。
https://twitter.com/AnnaKiesenhofer/status/1411359788454363138
(元のツイートにあったグラフが削除され、URLが変わったようなので修正しました)
今回のロードレースはNHKの下記のページから見逃し配信で全て見ることが出来ます。(いつまで見られるかは分かりません。大会期間中ぐらいは見られるのかな?)
表彰式まで含めると5時間ほどあって実況も英語しかありませんが、綺麗な景色も見れるので環境ビデオ代わりにずっと流して見てみてください。
https://sports.nhk.or.jp/olympic/highlights/list/sport/cycling/
ちなみに男子ロードレースは女子のようなサプライズはありませんでしたが、普通にかなりおもしろいレース展開でしたのでこちらもお勧めです。8時間弱ありますけど……
(好評だったので続きを書きました。https://anond.hatelabo.jp/20210806115303)
終わってみれば、いくつかの伏線があった。
まず、自転車のロードレースは名目上は個人競技だが、実質的にはチーム競技である。エースとなる選手をチーム内の他選手がサポートする。しかしながら、今回オーストリアからは優勝した眼鏡っ娘数学者ただひとりだけの出場で、名実ともに個人の力だけの戦いをせざるを得なかった。これが第1の伏線。
空気抵抗は速度に比例する。速いけどすぐ終わる陸上短距離や、時間は長いけどゆっくりのマラソンとは異なり、車なみの速度で長時間長距離を走る自転車ロードはとりわけ空気抵抗の影響が大きい。そのため、空気抵抗を減らすための工夫が必要になる。それが集団走行。先頭となる数人が風を受け、大多数はその背後に隠れることで空気抵抗を減らす。先日のツールドフランスにおける大落車事故も、風よけのために意図して密集して走っていたからこそ起きたのであり、離れていれば巻き込まれずに済んだのになどというのは単なる妄言でしかない。
つまり、集団(プロトンと呼ぶ)のメリットを捨てて序盤から飛び出すというのは、本来なら無謀な戦略である。しかしながら、たとえプロトンにいても、誰からのサポートも受けられない孤独の選手がエースとサポートで分業できる他チームと張り合って勝てる見込みはない。万が一でも勝機を見出すのであれば、プロトンの中で埋没するのではなく、逃げて逃げて逃げまくって、後方のプロトンで何らかのトラブルが発生するのを期待するしかなかった。そしてそれが起きた。
第2の伏線はオリンピックのルール。通常のプロのレースでは、選手は無線機を装着し、それを使ってレース全体の状況や戦略が伝達される。しかし、オリンピックでは無線連絡は不可。詳しい状況を知るには、プロトンの後方を走っているチームカーのいるところまで下がって聞く必要があった。序盤から中盤にはできただろうが、終盤になってくるとそんな余裕はない。チームカーだけでなく、プロトンの前を先導している車両からも逃げ集団とのタイム差が随時伝達されていたはずだが、キーセンホーファー以外の逃げ選手が吸収された少し前ぐらいに伝達されたのがおそらく最後だったのではないだろうか(推測)。そのためプロトンをコントロールしていたオランダチームはすべての逃げを捕えたと判断してしまい、前方に注意を向けるのをやめてしまった。キーセンホーファーがどのプロチームにも所属しないほとんど無名の選手だったことも幸いした。有力選手だったらプロトンにいないことが気づかれないはずがない。誰も知らない選手だったから、集団にいないことが不自然に思われなかった。実は3位になったイタリアチームはまだ前で逃げていることを認識していたらしいが、プロトン内での争いになったと誤認していたオランダチームが先頭を追うことを許さず、差を詰められなかった。
そして何より、優勝したキーセンホーファーは強かった。プロではないが過去にはプロチームに1年だけだが所属していたことはある実力で、また、集団ではなく個人で走る種目であるタイムトライアルを得意としており、かなりの実績があった。また、今回は上り坂の多いコースだったが、キーセンホーファーはまさにヒルクライマーだった。つまり、上り坂の多いコースを集団ではなく自分の力だけで走るのは実は得意中の得意だったのだ。スタート直後から逃げるという戦略を選んだのはキーセンホーファーだけではない。彼女を含めて5人いた。この5人でかわるがわる先頭交代しながら逃げたが、他の4人はけっきょく脱落した。数人でもひとりよりは圧倒的に風よけの効果はあるが、それでも数十人の大集団に比べればたいしたものではない。体力の消耗は激しく、逃げ続けるなんて到底無理である。しかしキーセンホーファーは最後まで逃げ続けた。これはただの尋常の力ではできない。
こうやって後から振り返ってみると、偶然の要素はあったものの、ただ幸運なだけで掴んだ結果ではなかったことがわかる。ちなみにオーストリアが自転車競技で金メダルを取ったのは1896年アテネの12時間耐久レース以来だそうで。昔はそんなとんでもない種目があったんだ…。
落ちる原因は、最初は受け答えの内容が甘いとか、コミュ症寄りだから面接に慣れるまで時間かかるのかなと考えていた。
しかし、どんなに話す内容を練習したとしても、一字一句を覚えたとしても、あるいはキーセンテンスだけを覚えてアドリブで話すようにしても、全て普段喋るより数段吃るし突っかかってしまう。
何度受けても一向に改善することはないため、流石にこれは何か他の原因があると思い突き詰めたところ、自分の幼少期の育ち方に思い当たった。
自分の母親はいわゆる毒親であり、家庭内で自分のルールを定めそれに従わないと従うまで怒ったり説教したりするタイプだった。
小学校の頃は1度逆鱗に触れると30分~1時間の説教はザラにあり、泣いて謝るまで続けられることもしばしばあった。
母親に従わないと長時間の説教が待っているので、常に親の顔を伺って怒られないようにしながら青年期まで生きてきたように思う。
その毒親の呪縛自体には高校~大学辺りで気付くことができ、今はそれを自覚することで自己否定感による生きづらさは多少なり薄れている。
が、このような育ち方をしたため人の顔を常に伺い、納得してもらえる当たり障りのない行動や発言をする癖がついてしまったように感じる。
特に初対面だと、「正しい行動をしなければ嫌われる」という考えを強迫観念的に持ってしまい、こちらの当たり障りのない発言が相手にとって精神的距離を感じたり、せているのではと思った。
そういえば研究室でも今でこそ指導教官とはそれなりに話せるが、最初の頃は上手く話せず「日本語が通じない」と言われていた。
初対面の人とそのような感じに接するもんだから、面接官にも「何かまずいことを腹に隠しているのでは」とか「この人とは仲良くやれそうにない」と思われ、このことが落ちる原因に繋がっているのだと思った。
勿論、仕事において交友関係が広い人やすぐに他人と仲良くなれる人が有利なのは分かるし、そのような人から優先的に選ばれることは不当とは思わない。
が、だからと言って自分の就活を諦めることは出来ない。何とかしたい。
面接官と近い年代のオヤジと喋れるキャバクラがあればそこで訓練したいとさえ思う。
どうしたもんかね。
『日本軍による強制連行の事実はみつからないけど? 韓国で調査しても見つからない。親によってキーセンに売られたんじゃないの?』
人身売買で強制的に売春婦にさせられてる時点で海外は「性奴隷にされた」って言ってるんだっていつになったら理解してくれるのかね?
慰安婦がいたことを否定しているのはただの馬鹿なんだけどなぁ。
「軍に連れ去られた」とかその手のが気になるって話なんだよね。
年齢があやふやって事は、「慰安婦であった事」は嘘ではなくても、他の証言の信頼度は落ちるだろうって話なんだよね。
強制連行された年が不明って事は、それ本当に「日本軍だったの?」とか。
http://tanakaryusaku.jp/2013/05/0007159
始めにマイクを握ったのは金福童(キム ボクトン・88歳)さん。金さんの次に吉元玉(キル ウォノク・86歳)さんが話した。金さんは自らの体験を詳細に、吉さんは自らの体験には触れずひたすら平和、世界に遍在する戦時性暴力に対する解決を訴えた。
「満14歳の時、軍需工場に行くと言っていたのに、着いたのは日本ではなく戦場、遠い暑い国だった。そこで私は日本軍の奴隷となった。台湾を始め、中国の広東に着いた時は陸軍の軍医が身体を調べた。そこでは何人入るのか知っていて、私達の部屋が用意してあった」。
「満14歳」
ここだと年齢は88歳か。
http://article.okinawatimes.co.jp/article/2013-05-20_49450
旧日本軍「慰安婦」で韓国人の金福童(キムボクトン)さん(87)が18日来沖、西原町内で大学生らとの交流集会に臨んだ。その後の記者会見などで金さんは、日本維新の会共同代表の橋下徹大阪市長の一連の慰安婦発言を批判し、謝罪を求めた。
金さんは14歳のころ、旧日本軍に「軍服を作るために日本へ行く」と日本統治下の韓国から連行された。アジア各地の前線を転々とし、8年間、「慰安婦」を強いられた。
http://article.okinawatimes.co.jp/article/2013-05-20_49447
「国家による性暴力に遭い、人権を踏みにじられた少女のことを知ってますか」。韓国人の元「従軍慰安婦」、金福童(キムボクトン)さん(87)が、舞台の上から「慰安所」での生活を語り始めると、会場は静まり、地をたたく雨の音が響いた。
金さんが14歳のころ旧日本軍に連行された場所には、複数の部屋を備えた慰安所があったという。金さんは「日本政府は民間人が慰安所をつくったとしているが、(戦時下の)民間人があのような慰安所を準備できただろうか」と軍の関与を指摘。「日本政府はうそをつかず、公式に謝罪してほしい」と訴えた。
「14歳のころ」
年齢が87歳か。先の88歳が数え?
あと名前でチェック
生存する日本軍従軍慰安婦被害者の実名記録が初めて発見された。
韓国挺身隊研究所のカン・ジョンスク研究員は国家記録院の軍人軍属資料を調査途中、従軍慰安婦被害者の金福童(キム・ボクドン)さん(79)の実名記録を発見したと11日、明らかにした。
名簿に記載されている金さんの本籍や生年月日などの内容が挺身隊研究所が1997年に発行した『強制連行された朝鮮人軍慰安婦たちの証言2集』に収録された金さんの証言と一致するという。
今回発見された軍属名簿は、1947年9月に作成されたもので、「第16軍司令部同直轄部隊朝鮮人留守名簿第4課南方班」と書かれている。
この記録によれば、1945年8月31日、当時19歳だった金さんが南方軍第10陸軍病院の軍属の中で最も低い職級にあたる「傭人」として採用されたとされている。金さんは97年の「証言集」で「15歳で連れて行かれ中国の広東、マレーシア、インドネシア、シンガポールで日本軍の慰安婦として生活した」と明らかにしている。
結論がおかしな方向になってるなぁ。元記事が消えてるので、コピペで失礼。
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2005/01/11/20050111000084.html
http://ratio.sakura.ne.jp/archives/2005/01/12073703/ コピー元
「15歳で連れて行かれ」
いつの間にか年齢が1歳変更されているようです。なんではてぶでこの修正は指摘されないんですかね?
年表
1938年 数え14歳 慰安婦に徴用される(満12~13歳)
数え8年間(満6~7年)勤務
1945年 数え21歳 終戦を迎える(満19歳)
2005年 数え81歳 第16軍名簿が発見される(満79歳)
2012年 数え88歳 来日講演(満87歳)
ところがここで本人談の「満14歳」が再び「数え14歳」で計算されるという、摩訶不思議な現象が発生。
15歳が14歳に変更が「数え年を満年齢に修正」じゃないんですかね?
で、最初の引用では年齢が88歳。去年が88歳で今年が89歳? あれ? 一番最初に取り出したページ書いたのは「今年の講演」。
まぁいいや。来日公演の年2012が間違いだったんでしょう。とりあえずそうしておきましょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E5%BE%B4%E7%94%A8%E4%BB%A4
1939年ですね。
年表
やった! こんな感じで考えれば年齢がきれいに一致したよ! 国民徴用令もぴったり一致だ!
じゃぁ、後は8年間慰安婦を強いられたって期間だね!
8年「間」だとやっぱり足が出る。数えでいっても6年。
そもそも慰安婦募集の広告を見ると、17歳とか18歳とかで募集。数えでこの年齢なので、満年齢だと15歳以上くらいか。
吉原遊女の事例だと、客取るのが17歳。数えだとして15歳以上。同じ条件だね。
第二次性徴終わって数年経ってるくらいなので、まぁこれくらいなら不思議ではない。
ところが最初の Togetter だと満12歳か満13歳で慰安婦になってることになる。ロリコンだね。