はてなキーワード: キタキツネとは
橋の上から見た川は雪に覆われ、乱反射する日の光は無数の粒となってきらめいている。その上を通っていった何かの足跡が、蛇行しながら切れ目なく続いている。キタキツネか犬が夜明け前に現れ、またどこかへ去っていったのだろう。
麻布十番の店はシャッターが閉まっていた。貼り紙も何もなかった。あの味は永遠にこの地上から失われてしまったのか。喪失感にさいなまれ続けるよりは、かすかな希望にでもすがって失われたものを追い求めた方がよい。とは思っていた、が。
噂だけを頼りにやってきた土地。雪原。夏の間は田んぼか畑なのだろう。トタン屋根に木造の物置か家かわからないものがまばらに建っているほかは何も見当たらない。道路は山に向かって真っ直ぐ伸びているが、車は通らない。雪で段差のわからない歩道を歩く人もいない。
雪を踏みしだく自分の足音以外に音のない世界。冷気が頬にひりつく。マスクを顔からはがすと、自分の呼気で湿った内側からすぐに凍り付いて固くなる。
茶色いスズキアルト。路肩に止まって。テールランプの点滅。道から少し離れたところに、髪を後ろにまとめたロングコートの人が、こちらに背を向けてしゃがんでいる。近づいていっても動く気配はない。
「すみません」
その女性は立ち上がりざまにスカートパンツをたくしあげてからこちらを向いた。足元の雪には、黄色い尿が深く穿ったばかりの穴があいていた。
「どれくらい……」
「10km?」
「……」
「今行くところなので……乗ります?」
「すいません」
車は山に近づき、周囲が針葉樹林に変わり始めたあたりで脇道に入ると、木造の小屋の前で停まる。小屋の壁からは黒ずんだL字型の煙突が出て細い煙が立ち上る。ガラスの引き戸を開けて女性が入っていく。
「ばあちゃん、お客さん!」
小屋の中心には大型のストーブがあり、中は暑いほどだ。小さなカウンターの向かいは小上がりになっていて、樹脂製の天板を金属で縁取りした座卓が置いてある。
カウンター席に座ると、毛糸のチョッキを着た老婦人が現れ、こちらを一瞥してから、車を運転してきた女性の方を訝しげに見る。
「お客さんだよ!」
「あら。いらっしゃいませ」
「あ?」
「オ メ ガ ラー メン!」
油っぽい台の上のテレビがつく。また誰かの車がコンビニに突っ込んだらしい。店内に半分以上めりこんだ車体。散乱するガラス片。
さっき乗せてくれた人は店主の孫かなにかなのだろうか。割り箸の束を出してきて補充したり、カウンターをふきんがけしたりする。戸が開いて、海老色のジャンパーにニッカズボン姿の二人連れが入ってくると、いらっしゃいませええと声をかける。二人連れは小上がりに座る。孫は注文を取りに行く。
店主は寸胴鍋からアルマイトのひしゃくで黒い液体をすくい取り、丼に注ぐ。湯気が立ち昇る。
出てきたラーメンは東京でよくあるオメガ系のラーメンとは少し違っていて、輪切りのネギと肉厚のチャーシューが大量に載っていた。黒いスープは今まで食べたオメガ系のどのスープよりも熱く、油の層が表面を完全に覆っていた。北国にありがちな昔懐かしい醬油ラーメンに、どことなくスパイシーな風味が混じっていた。チャーシューはトロトロに柔らかく、甘辛く仕上がっていた。
食事を終えて店を出ると、外は吹雪いていた。地面から吹き上がる粉雪。前を向くと顔に雪が吹きつけて歩けないので、うつむいて頭を前に突き出すようにして進んだ。歩けば、市街行きのバス停があるだろう。歩き続けることができれば。
背中の方からクラクションの音。振り返ればヘッドライトに照らされて。茶色いアルトの窓が開く。もの問たげに見つめてくる目。
「すみません。行きも帰りも」
「バスは夕方まで来ないから、駅まで行った方がいいですよ。この吹雪だし」
ワイパーはひとときも停まらずにフロントガラスの雪を掻き落とし続けるが、数メートル先は真白で何も見えない。何の番組かわからないラジオの音がかすかに聞こえる。
車はすぐに白の中へ飲み込まれる。
辺り一面真白で、何も見えない。風はさらに強まり、歩き回ろうとするとなぎ倒されそうになる。もう一度辺りを見回す。駅らしいものは見当たらない。白。白。白。食後の身体の火照りはすでに取れて、雪の冷たさをじかに感じ始めた。
1980年代、北海道でエキノコックス拡大が深刻化し、子供だった私も検査を受けた。家族みんな陰性だったけど、どこでいつ感染するかわからない。エキノコックスが体内に入ったところで、それがわかるのは発症する数十年後だ。
北海道では地道に確実にエキノコックスの啓蒙が行われており、大抵の道民は心得ている。
野生動物には近づかない、川の水に触れたら必ず手を洗う、などなど。
しっかりと理解し、適度に恐れ、上手く自然との付きあう。これで特に困ることはない。
ほとほと困るのは本州の夢見心地さんたちだ。北海道は自然が豊か。自然とはピュアなもの。ストレスがないユートピア。そんなふうに思っている。
数年前たまたまエキノコックスの話をしたら、そんなことがあるはずがない!と立腹された。夢見心地さんの理想の北海道の情報とかけ離れていたからだ。
給料は今高いけど、遊べるほどじゃないし
彼女どころか友人もいないし
学生の頃から、自分をごまかして頑張る理由を作ってきたけど、なんか本当に何で頑張ってるのかわからないし
親もいい年だし
そろそろもう消え去っても良いんじゃないかと思うんだけど
けものフレンズ2期が見れないのは困る
困る
たつきいいいいいいいいいい
___
じゃあお言葉に甘えて、覚えてる分だけ叫ぶ
サーバルあああああああちゃん
かばんちゃーーーーーーん
ボスううううううううううう
シマウマあああああああああ
カバああああああああああ
アライさあああああああん
フェネックううううううう
オセロットおおおおおおお
マレーバクううううううう
フォッサああああああああ
インドゾウううううううう
アクシスジカあああああああ
ミナミコアリクイいいいいいい
クジャクうううううううう
タスマニアデビルうううううう
エリマキトカゲえええええええ
オカピいいいいいいいいい
コツメカワウソおおおおおおお
トキいいいいいいいいいいい
アルパカあああああああああ
ショウジョウトキいいいいいい
スナネコおおおおおおおおお
ツチノコおおおおおおおおお
アメリカンビーバああああああ
オーロックううううううううう
オリックスううううううううう
ライオンんんんんんんんんん
アルマジロおおおおおおおお
アフリカタテガミヤマアラシいいいいいいい
カメレオンんんんんんんんん
シロサイいいいいいいいいい
ヘラジカあああああああああ
ハシビロコウうううううううう
ツキノワグマああああああああ
アフリカオオコノハズクのハカセえええええええ
マーゲイいいいいいいいいい
イワトビペンギンだぜのイワビーいいいいいいいい
フンボルトペンギンのふるるうううううううう
コウテイペンギンのコウテイいいいいいいいい
ギンギツネえええええええええ
キタキツネえええええええええ
カピバラああああああああああ
タイリクオオカミいいいいいいいいいい
アミメキリンんんんんんんんn
キンシコウううううううううう
ヒグマあああああああああああ
リカオンんんんんんんんん
マイルカああああああああああ
うおおおおおおおおおおおおお
__
たぶん同年代だと思うんだけど
まぶしい
オーロックスは打ち間違いです
未だにフルネーム覚えられない子がいる
でもアフリカタテガミヤマアラシ覚えたし、全員いけるいける
参考:http://www.oreilly.com/animals.csp
半狐半人だから言葉が変になるかも。発情期も近くなってくると女友達の愚痴がエグくなってくる。コンなエグい愚痴を丁寧に聞いて、遅くまで付き合ってやる俺はまるで稲荷大明神のように優しい人間だ。だが、コン度というコン度は我慢ならなかった。彼女は信太の森時代からの友狐で、気ごコろンの知れた仲なんだけど、狐独のグルメとも言ってられなくなってコン活に熱心らしい。彼女曰く、
(1)ろくな狐が見つからない
とか。どんな物語がいいのか聞くと
求める条件
(1)椋鳩は十以上
(2)発表は1933年以前
(3)教訓ナシ
(5)教科書に載せてくれる
とのこと。そう聞いて、コンと思い浮かんだのが、やはり昔からの友人で、腐れ縁続きで同じ村に住んでいる猟師の顔だった。あいつなら全部の条件満たしている。彼女にそう言うと、「兵十(彼のアダ名だ)も変わったよね。今なら、付き合ってあげてもいいかも」と。その風貌から高校時代はゲイ充呼ばわりだった彼も、今ではビートルズに唄われるほど立派なヘイ・ジュード。今では引く手もベタベタベタベタだろう。でも、彼女の言い草に、俺はとんがりコーンと来た。なぜなら、彼は鰯屋に鰯泥棒と間違えられて、今では夜な夜なネットで鰯屋叩きに精を出す立派なイワジニーになっているからだ。
お前、すっぱいぶどうなんか追ってないで、兵十と付き合ってれば今頃理想の結コンができてたぞ。お前の周りに今、理想の物語がないのは自分の選択の結果だろ。ようはお前が童話を見る目がない、バカ雌狐だってことだよ。お前あのころ、いなり巻きと一緒になって兵十のことバカにしてたよな。ダサイし勘が悪いしマザコンで、一生童貞間違いなしって。事実あいつは一生童貞だよ。お前らのせいで。お前があの頃優しくしてやってれば、もしかしたらあいつも粟や松茸と縁があったかもしれないのに。お前も結コンできたのかもしれないのに。とにかく毛並悪いんだよ、お前。周りにエキノコックス撒き散らすしかできないなら、自分もエキノコックスになれよ。お前には蔵王キツネ村がお似合いだよ。
まで言って万札テーブルに放って帰ってきた。ほんとうは木の葉だけど。いや、スカッとした。コンの瞬間のためにコンの女と付き合い続けてきたと思ったよ。
よく陰陽師って批判の対象になるけど、ネットの天文博士とかケモナーって、学生時代に見向きもしなかったのに、今更になって手のひら返すバカ女を叩いてるんだな。
恋しくば尋ね来て見よ 和泉なる信太の森のうらみ葛の葉 と思ったよ。
よく「イノシシの親子が人里に出没」「熊の親子が住宅街に接近」「親猫が子猫を口にくわえて運ぶところを目撃」
「イルカの子供が親に寄り添って泳ぐ」「キタキツネの親子が道路脇に出没して観光客に餌をねだる」
とか野生動物の親子に対して言ってる報道とかドキュメンタリーとか見かけるけど、そういう場合必ず推定親=推定母親である。
何の説明もなしに「母親が~」「お母さんが~」と言っている。
体のサイズから親子であることが推定されたとして、なぜ「父親」ではなく「母親」と推定されるのだろう。
そして父親はどこへ行ってしまっているのだろう。
野生動物の親子の画像や動画や現実の光景で、両親と見られる成獣が2頭揃っていることがあった覚えがない。
必ず推定親は1頭しかおらず、そしてその推定親は当然のように「母親」と推定されている。
最近の国語の教科書には掲載されていないとかいう情報を耳にした。
真偽のほどは定かでないが、事実だとすれば理由はいくつか思い当たる。
改めて読み直すと何度読んでもごんぎつねは涙が出てきてしまうし、
たびたび議論されていることだろうが、この二作品にはどうも腑に落ちない点がいくつかある。
すでに逝去している作者の真意を知るすべもなく、
後世の読者が独自に解釈をした上で内容を改訂できるようにしたらよいとも思うのだが、
勝手な改変を加えるのは文学作品に対する冒瀆であり、すべきでないとも思うので、
「ごんぎつね」
これはもともと新美が草稿として創作した「権狐」を文学者鈴木三重吉が全国的な童話の普及を目的として改訂して上梓したものであり、
元々の草稿とは変わっている点がいくつかある。
有名なラストシーン、「ごん、お前だったのか、いつも栗をくれたのか」と発する兵十に対して、
「ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました」が、
新美の草稿では「ぐったりなったままうれしくなりました」だったそうだ。
どっちがいいんだろう、と自問しているがいまだに答えが出ない。
本来の草稿を尊重して「うれしくなりました」にした方がいいようにも思うが、
うれしかったのかどうか読者に想像させるに留めて客観的な状況だけ描写したほうがいいようにも思うし、
しかし「感謝されたかったという思いが叶って満足なのか、自分の評価が一番大切なのか」という印象も持たせる終わり方になってしまうし、
かと言って「うなずきました」だと一層「自分が評価されたいだけなのか」という感を読者に植え付けてしまうし、
撃たれてもなお「うれしくなりました」の方が、自己犠牲的で感動を与えるような気がする。
どちらにすべきなのだろう。
最大の疑問はこの悲劇的な結末で子供たちに一体何を新美が伝えたかったということだ。
わかりやすい勧善懲悪物語よりも善意が報われない理不尽さを表現するこの童話のほうがよほど処世術の教本として理想的である気もするが、
それにしても得られる人生訓が一向に見えて来ない。
子供たちに、何をどう受け止め、どう人生に生かして欲しいというのか。
それとも作者はそんなことは考えていない、何の教訓も込められていない童話こそ教育材料として相応しい、ということなのか。
次に「手袋を買いに」。
母狐は自分が恐ろしくて行けないような街になぜかわいい子狐を一匹で買い物にいかせたのか。
母狐は病弱で動き回れないとかいろいろやむを得ない事情があると思いたかったが、
残念ながら作中の描写からはそのような状況は推測されない。
そこで狐の習性上の理由を思いついた。
子供が一定程度成長すると、近親交配の防止のため、親狐は本能的に子狐を強制的に巣穴から追い出す。
噛み付き、襲い、遠くに追いやって戻ってこなくなるまで攻撃を続ける。
子狐は昨日まで優しく育ててくれた親狐の豹変に驚き、必死に親にすがるが、親は心を鬼にして子供を突き放す。
母狐はいずれ子供を自立させなければいけないことを悟っており、
それの前段階として、人間とのかかわり方も含めて、世間の渡り方を学ばせるために、子供に冒険をさせた。
そう解釈したい。
作者にその解釈でいいかと聞きたいところだがそれが叶わないのでむずがゆくて仕方ない。
他にもいろいろ突っ込みどころはあるが、今更作者に聞くことができない以上、