はてなキーワード: カラマーゾフの兄弟とは
http://lfk.hatenablog.com/entry/2017/02/04/132000
ドストエフスキー読もうぜ、と言う割に、なぜ読まないといけないのか、読むとどういういいことがあるのかが全く書いてない。
地下室の手記がオススメというが、あれはそれ自体がある論考に対する反論となっていて、その論考は日本じゃ通常読めないという難物。しかも最終的な結論はキリスト教色が強く、それこそカラマーゾフの兄弟なんかを読んでないと意味不明に陥る。
「地下室の手記」については「カラマーゾフ」のように宗教的なテーマにあまり触れていないから、キリスト教的価値観についてそこまで意識しなくても読み進めることができる。
ホントですか?
ドストエフスキーはトルストイなんかと違って、誰にでも楽しめるエンターテインメント的展開(読者サービス)に乏しいため、娯楽のために読める代物ではない。ドストエフスキーの描こうとした主題をつかみ取るために奮闘するというような読み方になる。
そうなると必然的に予備知識として聖書の知識が必要となってくるわけだが、その辺のフォローもなし。
で、どうやったらそのベースとやらが手に入るのさ。
http://anond.hatelabo.jp/20161119215613
最終的にキリスト教様様に持っていきたい方のご意見と思い反論をさせていただきます。
◇黒澤明『生きる』を観る。
⇒結論:子供に生きる意味を見出してる人が多いけど間違い。とにかく楽しく生きることに意味を見出すのも違う。生きる意味は、何かを作り出すことにある。
⇒疑問:何も作り出せない人はどうすんの?
作り出すものは商売になる創作物だけではありません。実際、生前は優れた創作を作りながらも全く評価されなかった芸術家も数多くいます。自分が作ったものが評価されるかどうかは後世の人の価値観によるものです。
◇宮崎駿『もののけ姫』庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』を観る。
⇒結論:生きるのはめちゃくちゃ辛いけど、とにかく生きなきゃダメ。
⇒疑問:いや、理由は?
まあ、今時の若者に対しての「死ぬんじゃねーよ。俺たちの老後が困るだろー」っていうプロパガンダ的に優秀な作品ですよね。
◇イニャリトゥ『バードマン』を観る。
⇒結論:生きる意味は成功や名声にあるのではない。やりたいことをやることにある。
⇒疑問:やりたいことをやれない人はどうすんの?
やればよくない?
やれないなら、やれるところから自分のやりたいことを探すこともできるはず。
◇カフカ『城』『変身』を読む。
⇒結論:個人の生きる意味は社会に占める地位(職業、父)を通してしか存在しないよ。
⇒疑問:そんなん辛すぎて死ぬわ。
悲観論に引きずらるのは、悲観論を正論としたい気持ちがあるからでしょ。カフカ存命中とは全然社会状況違うし。
⇒結論:群体としての人類ならともかく、個体としての人間には生きる意味なんかないよ。
⇒疑問:・・・。
ああ、いかに感嘆しても感嘆しきれぬものは、天上の星の輝きと、わが心の内なる道徳律
~~この辺で上記の映画・本が前提していた無神論(=キリスト教でないこと)に疑問を持ち始める~~
⇒結論:個人個人の高潔さが人類全体の罪を贖うんだよ。そこに生きる意味があるんだよ。
⇒おお・・・
⇒結論:金儲けや教育や物書きの才能がある人はそれで後世に遺産を残せる(そこに生きる意味がある)けど、そうでない人も、高潔な生涯を送ればそれ自体が後世への遺産になるんだよ。
⇒(泣)
◇『聖書』を読む。
例えば自分が自殺しようとする時に、「どうせなら他に死にたいと思ってる人を救うっぽいことして死んだらカッコよくない」くらいの感じじゃないすかね。
http://anond.hatelabo.jp/20161119131901
◇黒澤明『生きる』を観る。
⇒結論:子供に生きる意味を見出してる人が多いけど間違い。楽しく生きることに意味を見出すのも違う。生きる意味は、何かを作り出すことにある。
⇒疑問:何も作り出せない人はどうすんの?
◇宮崎駿『もののけ姫』庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』を観る。
⇒結論:生きるのはめちゃくちゃ辛いけど、とにかく生きなきゃダメ。
⇒疑問:いや、理由は?
◇イニャリトゥ『バードマン』を観る。
⇒結論:生きる意味は成功や名声にあるのではない。やりたいことをやることにある。
⇒疑問:やりたいことをやれない人はどうすんの?
◇カフカ『城』『変身』を読む。
⇒結論:個人の生きる意味は社会に占める地位(職業、父)を通してしか存在しないよ。
⇒疑問:そんなん辛すぎて死ぬわ。
⇒結論:群体としての人類ならともかく、個体としての人間には生きる意味なんかないよ。
⇒疑問:・・・。
~~この辺で上記の映画・本が前提していた無神論(=キリスト教でないこと)に疑問を持ち始める~~
⇒結論:個人個人の愛が人類全体の罪を贖うんだよ。そこに生きる意味があるんだよ。
⇒おお・・・
⇒結論:金儲けや教育や物書きの才能がある人はそれで後世に遺産を残せる(そこに生きる意味がある)けど、そうでない人も、高潔な生涯を送ればそれ自体が後世への遺産になるんだよ。
⇒(泣)
◇『聖書』を読む。
http://anond.hatelabo.jp/20160904033715
選定基準は
・読みやすい
・有名で、他の本や映画に出てきがち
ド名作。読んでおくと伊坂幸太郎の『陽気なギャングが地球を回す』がもっと楽しい。
早く来てくれオーバーロード。
③永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編カント(訳:中山元)
「本邦初訳」作品。古典新訳文庫ならでは。イタリアっぽいユーモア。
エログロ。
『藤野先生』も『狂人日記』も入っていてお得。訳者の村上春樹と中国の関係についての研究も面白い。
誤訳が多いらしいが、すごく読みやすかった。他の訳では通読できなかったと思う。
訳者は元国際プラトン学会会長(2007~2010年)で、解説の量がすごい。
読んでおくと、あの映画とかあのミステリーとかのネタ元なので捗るはず。
⑩闇の奥 コンラッド(訳:黒原敏行)
『地獄の黙示録』の原作。個人的には「叡山の僧兵の大将」中野好夫の訳より好き。
―――
①グレート・ギャッツビー(村上春樹翻訳ライブラリー)フィッツジェラルド
村上春樹の訳が好き。
『英文の読み方(岩波新書)』など、英語の読み方の著作に定評のある行方昭夫の訳で。
野村萬斎が自ら演ずるために、河合祥一郎に新訳を依頼しただけあってとても読みやすい。
『月下の一群』の堀口大學の訳で。
⑨カフカ-ポケットマスターピース-01-集英社文庫ヘリテージシリーズ
小説家の多和田葉子の訳で。『変身』は先に別の訳を読んでおいた方が新鮮かも。
⑩マーク・トウェイン-ポケットマスターピース-06-集英社文庫ヘリテージシリーズ
はてな民ならハックルベリーは読んでおきたい。柴田元幸の訳で。
―――
http://anond.hatelabo.jp/20141207214956
「はてなーの血肉となった3冊を教えて欲しい」
http://anond.hatelabo.jp/20141207214956
のブックマークで挙げられていた本の中から、Amazonのレビューで5つ星のものだけをピックアップしてジャンル別に並べ替えたもの。
正月暇になりそうだから読む本を探している人の参考になれば幸いでございます。
はてブ | 検索キーワード | Amazon検索結果へのリンク | レビュー数 |
---|---|---|---|
kerodon | 歌よみに与ふる書 | 歌よみに与ふる書 | 8 |
hayakuzaka | 茨木のり子 詩のこころを読む | 茨木のり子 詩のこころを読む | 31 |
inmymemory | ボードレール 悪の華 | ボードレール 悪の華 | 10 |
inmymemory | アルチュール・ランボオ イリュミナシオン | アルチュール・ランボオ イリュミナシオン | 4 |
「大学教師が新入生に薦める100冊: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」のCSVファイルを重複排除・ソート。出現数3回以上だけを抜き出してみた。記号が統一されていなくて漏れてしまっているのもあるかも知れない。(ゲーデル、エッシャー、バッハ─
の長音風記号はなぜか統一されていて、Amazonでも全く同じ表記)
最近暇なので、ブックオフとかで安く買えそうな所謂古典的名著?的なものを
色々読んでみようかと思った。
なんとなく興味が湧いたやつをピックアップしていった。
適当につらつら書くので、参考にするなりツッコミを入れるなり好きにしてくれ。
あと他にもこれ読んでおけみたいなのがあったら教えて欲しい。
正直ありきたりのラインナップで面白みが無いと言うことは先に言っておく。
一部、古典でも名著でも何でも無いやつが混じっているが、
これはまあ適当にAmazon眺めてたら目に入って気にはなっていたので追加した。
それを買ってみようかなと思う。
全部読み終わるのにどれくらいかかるだろうなー
リリース3週間で20万ダウンロード達成した、手軽に名作が楽しめる電子書籍アプリ。
このアプリの凄いところは、無料でも最初から最後まで読めてしまうということ。シェイクスピアってどんな人?日本の始まりっていつ?新渡戸稲造って何者?カラマーゾフの兄弟ってどんな話?
そういう方におすすめ。いままで読んでなければきっと一生そういう本は読まないでしょうし・・・。6時間ごとに約100ポイント貯まり、3000ポイントに達すると一冊無料で読めます。初めての方は紹介されることで一気に2500ポイント貯まります。
「まんがで読破」
https://itunes.apple.com/jp/app/mangade-du-po/id576960723?mt=8
アプリを起動すると、招待者のIDを入れることができますので私のID:
FGYWAILMD
を入れて頂けると私も一冊読めるので幸いです。
ここからは私の発見した裏ワザなのですが、招待されたあとで2500とさらに500貯めて一冊読み終わるとします。その後アプリを削除してダウンロードし直すと、また招待されることができます。レビューで私のように多くの招待者の方々がいらっしゃるのでそのIDを入れてあげてください。いずれアプリが修正されるかもわからないので、急いだほうが宜しいかと思います。
もちろん250円払えば、購入していつでも読めるようになります。全て面白いですが、おすすめはドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」、太安万侶「古事記」、ゲーテ「ファウスト」、サン=テグジュペリ「夜間飛行」
どうやら村上は、この本のアメリカ版をそのとき初めて目にしたらしい。
日本では『1Q84』は2年を掛けて3巻に分かれて発表された(村上は2巻目で一度終わりにしたが、一年後にもう数百ページ付け足したのである)。
アメリカでは、一巻のモノリスとして組まれ、秋の読書イベントに発表が設定された。
YouTube ではきらびやかなトレーラームービーを見ることができ、
一部の書店では発売日10月25日に深夜営業が予定されている。
Knopf は英語訳を急がせるため、二人の訳者に手分けして翻訳をさせた。
村上にこれほど長い作品を書くつもりがあったかと尋ねると、なかったという。
これほど長くなることが分かっていれば、書き始めなかったかもしれないともいう。
彼はタイトルや冒頭のイメージ(この作品の場合は両方だった)が浮かんだ時点で、机の前に座り、
毎朝毎朝、終わるまで書きつづけるのである。
といっても、この大作はごく小さな種から生まれた。
村上によれば『1Q84』は、人気を博した彼のショートストーリー『四月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて』(英語版では5ページ)を増幅させたものに過ぎないという。
「基本的には同じなんだ」と彼は言う。
「少年が少女に出会う。別れてしまった後、二人は互いを探し合う。単純な物語だ。それを長くしただけ」
筋書きを要約することすら、少なくともこの宇宙で人間言語をもって雑誌の1記事で書くとすれば不可能だ。
青豆という少女が、タクシーに乗って東京の周縁に掛かる高架の高速道路を行く。
そこで渋滞に巻き込まれ、身動きがとれなくなる。
チェコスロバキアの作曲家レオシュ・ヤナーチェクの「シンフォニエッタ」だ。
「渋滞に巻き込まれたタクシーの中で聴くのにうってつけの音楽とは言えないはずだ」と村上は書く。
運転手は青豆に変わった迂回路を提案する。
高架高速道路には非常用脱出口が設置されている、そして、普通の人には知られていない脱出口への階段がある、と彼は言う。
本当に絶望しきっているのであれば、そこから地上に降りることもできる。
青豆が考えていると突然、運転手が村上一流の警告を口にする。
「見かけにだまされないように」と彼は言う。
降りていけば、彼女にとっての世界は根底から変わってしまうかもしれない、と。
そしてわずかではない違いとして、月がふたつあった(ちなみに彼女が遅刻した約束というのは暗殺の約束であったことが明らかになる)。
そしてその世界にはリトル・ピープルと呼ばれる魔法の種族がいる。
彼らは死んだ盲の羊の口(詳しく書くと長くなる)から生まれ、オタマジャクシの大きさからプレーリードッグの大きさにまで育ち、「ホーホー」と合唱しながら空中から透明な糸を紡ぎだして「空気さなぎ」と呼ばれる巨大なピーナッツ型のまゆを作る。
この本ではなかばあたりまで、このように浮世離れしたした超自然的ガジェット(空中に浮かぶ時計、神秘的なセックス麻痺など)が繰り出されてくるので、
私は行間にエクスクラメーションマークを置きたくなった。
この数十年、村上は自身が「本格小説」と位置づけるものを書こうとしていると言い続けてきた。
一例として彼は『カラマーゾフの兄弟』を挙げて目標にしている。
その試みこそが、三人称の幅広い視点から描かれた巨大小説『1Q84』であるように思われる。
怒り、暴力、惨事、奇妙なセックス、奇妙な新現実を抱えた本であり、
偶然ぶつかることになってしまった悲劇にも関わらず(あるいはその悲劇のなかでこそ)、
ひとりの人間の脳に詰め込まれた不思議を提示して、本書は読者を驚嘆させる。
驚きを覚える本の数々をこれだけ読んだあとでもなお、私は村上の本で驚かせられた。
そのこと自体が驚きだったと村上に伝えると、彼はいつものようにそれを受け流し、
自分の想像力を入れたつまらない花瓶でしかない、と言い張った。
「リトル・ピープルは突然やってきた」という。
僕は物語の虜だった。選択したのは僕ではなかった。彼らが来て、僕はそれを書いた。それが僕の仕事」
明晰夢を見ることがあるかと尋ねると、
覚えていられたことはない、という。
目覚めたときには消えている、と。
ここ数年で覚えていられた夢は一度だけ、それは村上春樹の小説のような繰り返す悪夢だったという。
その夢の中で、影のような未知の人物が「奇妙な食べ物」を料理してくれていた。
食べたいとは思わないが、夢のなかでは彼はそれに興味をひかれていて、まさに一口入れようというとき目が覚めた。
2日目、村上と私は彼の車の後部座席に乗り込み、彼の海辺の家へ向かった。
運転したのはアシスタントの一人である身ぎれいな女性で、青豆よりわずかに若かった。
私たちは東京を横切り、青豆が『1Q84』で運命的な下降をした高架高速道路の本物へと向かった。
カーステレオではブルース・スプリングスティーンがカバーした「Old Dan Tucker」がかけられていた。
車中で、村上は冒頭のシーンを思いついたときに考えていた緊急脱出口のことを持ち出した(青豆と同じように実際に渋滞に巻き込まれていたときにそのアイデアを思いついたという)。
実際の高速道路で、小説中であれば青豆が新世界に向けてくだっていったであろう場所を正確に特定しようとしたのである。
「彼女は用賀から渋谷に行こうとしていた」車窓をのぞきながら彼はいう。
「だから多分このあたりのはずだ」
と言ってこちらを向いて念を押すように
「それは現実じゃないけれど」
と付け加えた。
それでも、彼は窓の方に戻って実際に起こった出来事を話すように続きを語った。
キャロットタワーと呼ばれる、およそ巨大なネジが刺さった高層ビルのような建物の前を通り過ぎた。
村上はそこでこちらを向いて、もう一度思いついたように、
「それは現実じゃないけれど」と言った。
日本に滞在した5日間のあいだ、私は村上の東京にいたときとは違って、実際の東京で落ち着くことができなかった。
村上の東京、それは本物の東京を彼の本というレンズで見たときの姿だ。
客席の上の方で二塁打が打たれるたびに注目した(私がもらった天啓にもっとも近いものは、枝豆を喉につかえさせて窒息しかけたことだった)。
また、私はローリングストーンズの「Sympathy for the Devil」とエリック・クラプトンの2001年のアルバム「Reptile」をかけながら、神宮外苑という村上お気に入りの東京ジョギングルートをゆっくりと走った。
私のホテルは新宿駅に近い。そこは『1Q84』でも重要な役割を果たす、交通機関のハブ的な場所だ。
登場人物たちが好んで使う集合場所、中村屋で私はコーヒーを飲み、カレーを食べた。
そしてフレンチトーストとタピオカティーの向こうで東京人たちが交わす会話に耳をひそめた。
そうしてうろつくあいだに、村上小説が極度に意識しているものごと、すなわち、偶然かかる音楽、上昇と下降、人々の耳の形といったものを、私も極度に意識するようになった。
実際、彼の小説中の説明をもとにして料理本を出版した人もいるし、
登場人物が聞いた音楽のプレイリストをオンラインでまとめている読者もいる。
村上は、明らかに喜んだ様子で韓国のある会社が西日本への『海辺のカフカ』旅行を企画したこと、
ポーランドの翻訳者が『1Q84』をテーマにした東京旅行のガイドブックを編集していることを教えてくれた。
村上は読者から彼が生み出したものを現実世界で「発見」したという便りを受け取ることがよくあるという。
たとえば、彼が作り出したと思っていたレストランや店が東京に実際ある、など。
ドルフィンホテルというのは『羊をめぐる冒険』で村上が生み出したものだが、札幌にはそれが複数ある。
『1Q84』の発表後、ありえない名字として作り出したつもりだった「青豆」という名字の家族から、村上は便りを受け取ったという。
ここでの要点と言えるのは、現実に漏れ出す虚構、虚構に漏れ出す現実というものが、
村上の作品についてはほとんどの場合、作品そのものだということだ。
作家活動の初期には、「日本人という呪い」から逃れようとしているとさえ語った。
その代わり、十代の若者として、西洋の小説家の作品を貪ることによって、文学の感受性を培った。
その中にはヨーロッパの古典(ドストエフスキー、スタンダール、ディケンズ)もあったが、
彼が生涯を通して繰り返し読んだのは、とりわけ20世紀のアメリカのある種の作家たち、
レイモンド・チャンドラー、トルーマン・カポーテ、F. スコット・フィッツジェラルド、リチャード・ブローティガン、カート・ヴォネガットなどだ。
処女作に取りかかったとき、村上は奮闘し、標準的でない解決法に行き当たった。
そうやって自分の声を獲得したと彼は言う。
知っているということが
それが、すなわち、あらゆる生命なんだ
何かを残してくれただろうか
残してくれていただろうか?
おじいちゃんは、紛れもなくおじいちゃんだったのに
彼らがいなくなってしまったことで悼んだのかすら覚えてはいない
オレは決して、哀しみでは泣かない
涙は絶対に流れない
絶対に、いったいどれだけ哀しくても、決してない
くやしさや、いかり、この世の無情さ、また誰かのいたみに涙することはあっても
自身が哀しくて涙をながせることであれば、うらやましくすら思う
それで少しでも楽になれるのならな
命ってなんだ?
彼女や、おじいちゃんや、お世話になった友達のおかあさん
いまでも思い出のままだ
言葉を交わしながら、思い出の中にいるようなものだ
世の中には、無数の心があるが、その終わりは誰もわからない
あらゆるふれあいが、いったいいつ終わるのか、当人たちもわからないのだ
オレの周りには大切な人が何人かいて、大切ではない人ももちろんいて
そのいずれかは既に終わっているかもしれない
それが生命の終わりとは限らないが、
会いたいのに、会えないということは、数え切れぬほど転がっている
みえるだろ
まだまだたくさん、会いたかったのに、もう会えない、二度と
まだまだたくさん、話したかったのに、話すことはもうできない
いや、話すことはできた
できたにもかかわらず、しなかったことが続いていくうちに、
気づけば終わっているんだよ
終わるだなんて思っていないんだから、そういうこともある
責められやしないよ
でも考えてみろ
世の中には、会うことだってできるのに、会わないこともあるんだよ
まだ会えるのに、もう会わないこともある
まだ話せるのに、もう話さないことだってある
いつ、片方が死んでもわからないだろ、そうだとしても、
しない、だから哀しむことすらできない形もあるんだ
目の前にいても、いなくても、同じなんだよ
だから、じつは、死ぬためには準備が要る
考えれば当たり前のことだ、人間は生まれたときから死にはじめてる
充分な準備をおえて、さあ、死ぬぞとはいかない
大切にすること、いかに美しく生きるかというところにその準備があたり
彼は、その点、オレにとって美しかった
彼はしんでしまったのだ
ほんとうに
いってしまった
ほんとうに
知ったのは一週間とすこし前だが、
彼は本当に、オレにとって美しかった、ただの一度も
もし彼に準備をする余裕があり
オレがその準備に応えることができるとしたら?
頼むから
ありがとうと言わせてくれ
でもそれもできなかった
誰もできなかったのだ
でも、残されたものもある
卒業してから疎遠になってしまったことを悔やむのは、やめにしたい
言いきれなかった事を並べたてるのは、やめにしたい
後悔するのは失礼な気がするのだ
オレはなくなった心をむやみに肯定するようなことは
人の誇りを守るという意味で、なにより大切なことだと思っている
誠実さなしには何も誇れないのだから
それでもとにかく彼はいなくなり、
学生生活のように日々を共にしているわけでもなければ、
お互いがお互いの生活をもっているいまとなっても
かなしくて
かなしくてしょうがないのだ
彼がしななければいけない理由も、
どこにもないのだから
それなのにオレは、普通に笑いはするし
食事もすれば、お酒ものむ
誰かを笑わせることもできるし、他の誰かのために哀しむことだってできる
一体オレはどこまでおもしろくなれるのか、試したくらいだ
日々を越えて、お墓の前に立ち、目の前をくもらせながら
何を祈ればよいのかもわからない
彼のための思えばよいのであれば、それは日々だ
何故かなしいのに、笑えるんだろう
自然体って、なんだっけ?
これは書くべきではなかったのかもしれない
でもこれが、もし届くならば、もし未来のオレに示すことができるならば
彼女や、おじいちゃんのように、悼んだことすら思い返せなくなってしまったとき
何かがよみがえるならば、オレにはこうするしかない
帰り道、いよいよ現実感を失いながら、日常に戻るための努力をした
ユニクロで買い物をしながら、袋をもって、歩いて家に帰る
涙がながれていることをのぞいては
教えてはくれない
ただ、そこにあるのだ
いや、元々ないのかもしれないが、
それでも美しい思い出は残る
そして、これから先いつの日も、我々は誰かにとっての彼であるように生きるのだ
それがおそらく生命だろう
呼吸は関係ない
http://anond.hatelabo.jp/20100913002509
小学生の頃、中休みや昼休みに遊びの輪に入れず図書室に逃げ込んでいた。
そこで読んだ「十五少年漂流記」や「ロビンソン・クルーソー」辺りが出発点だろう。大丈夫、俺もそうだ。
そして大方の場合、小学校~高校までははっきり言ってクソだっただろう。
グレたか孤独だったかの二択しかない。家庭科の授業と体育は大嫌いだ。大丈夫、俺もそうだ。
そんなわけで、自分の才能はどこにあるか小学生の俺は考えた。運動、論外だ。絵、話にならない。勉強、出来なくはないが一番には到底なれそうもない。そんな時、読書感想文コンテストが市の優良賞に選ばれた。そうか、俺の才能文章じゃね?
そもそも「書きたいもの」がそんなにない。ファンタジーもSFもラブロマンスも特に好みではない。
なんとなく「文学」に憧れはあるが、そもそも文学ってなんだ。これは本を読まねばなるまい。
とりあえず「金閣寺」と「人間失格」を買ってみた。どっちも意味がわからなかった。ただ、人間失格を読んだとき「要するにゴミ野郎だよね」と思った記憶はある。これのどこがいいのだろうか、と真剣に思った。金閣寺は途中で放り投げた。
仕方が無いので、遊び人のおじさん(36歳、ヒモ)に相談した。面白い文学ってない?おじさんは「これを読め」と安部公房の「壁」を貸してくれた。世界がひっくり返った気がした。あの衝撃は未だに忘れられない。「S・カルマ氏の犯罪」「バベルの塔の狸」。まさに「衝撃」と呼ぶのにふさわしかったと思う。ようするに、文学とは衝撃なのだとそのとき俺は思った。「作者は何を言いたかったでしょうか?」という国語教育の呪縛から解き放たれた瞬間だったと思う。
おじさん、面白かったよ。とおじさんに本を返すと、次におじさんが貸してくれたのは
中島らもの「バンド・オブ・ザ・ナイト」と三島の「不道徳教育講座」だった。今思うと、中一に貸していい本では決して無いのだが。これらの本は「衝撃」という点では安部と全く比較にならないが、とにかく面白かった。中島らものラリった文章と三島と毒たっぷりのユーモア。おかげで、俺は加速度的に人生を踏み外していった。その後、叔父さんは叔母さんと離婚しどこかへ消えていってしまった。どこかで野垂れ死んでいるかもしれないが、元気ならいいな、と思う。
もともと、安部公房からスタートした読書遍歴だったのでとにかく「実存主義」というやつに俺は興味があった。
言うまでも無い、カミュである。「論ずるに値する議題は一つしかない、自殺である」(ちょううろおぼえ)のシジュポスの神話、なにより「異邦人」は安部以来の衝撃を俺に与えた。また、この頃俺の心を捉えたのはもう一つ、いわゆるビート文学である。ケルアック、ギンズバーグ、そしてバロウズ(これは中島らもの影響も強い)、そしてもう一つ。読書暦の長い人は次に何が来るか容易に予想が出来るだろうが、ドストエフスキーが直撃した。「カラマーゾフの兄弟」や「罪と罰」は当然として、俺の心をえぐったのは「貧しき人々」だった。あの主人公の愛すべきクズっぷり!誰も悪人はいないのに、誰もが加速度的に人生の谷底へ落下していく感覚。学校をさぼっては喫茶店でひたすら本を読んだ十代だった。しかし、サルトルに関してはさほどピンと来ていなかった。「嘔吐」が面白いとは全然思えなかったのだ。根っこをみたらゲロが出る、それで?といった感じだった。
この年齢になると読書に対する耐性もかなり固まっていたので、バルザックやゾラも読んだ、カフカも読んだ。ラテンアメリカ文学にも手を出し始めた。ボルヘスやマルケスも悪くはなかったが、なんといっても「ペドロ・パラモ」のファン・ルルフォが心を捉えた。セリーヌ、ジット、ベケット、クノー、ロブ・グリエといったフランス文学の一連の流れも好きだった。とにかく読みまくっていたことだけは覚えている。おかげで、センター試験の数学は4/200点だった。
そして高校を卒業した。この時期には熱心に小説を書いていたような記憶がある。だが、今読み返しても全く面白くもなんともない。無駄に重苦しい下手糞な文体、意味不明なストーリー展開、自意識過剰さだけがひたすら鼻につくクソみたいな小説だった。大学入試は願書を出すのを忘れた。家にもいられなくなり、家を出た。その後はなんか二年くらい働いた気がする。ある日ふと、立ち寄った本屋でテリー・イーグルトンの「文学とは何か」を読んだ。そうか、よし、文学理論をやろう!そう思って大学を受けた。北海道の片田舎で二年も働いただけあって貯金はそこそこあった。なんとなく某私大を受けたら受かった。奨学金を借りて、三畳間に住んで暮らした。死ぬほど楽しかったことだけは覚えている。図書館の充実っぷりと来たらすさまじいものがあった。幸せだった。いつまでもこうしていたかった。
大学の間は一生懸命研究をやったとしか覚えていない。卒業する頃、現実的に大学院はムリだと悟り就職した。その間に小さい文学賞や論文の賞を幾つか取ったけれど、デビューには全くつながらなかった。今はとある金融機関の出納担当をしながら小説を書いている。明日も早いから寝なきゃならない。何が言いたいのかさっぱりわからなくなったけど、とにかく小説っていいものですよね。人生って辛いですよね。そういうわけで、リンク先の増田にイーグルトン読めとお勧めしたいだけなんですよ。面白いよ。
http://anond.hatelabo.jp/20090503233005
これは二次裏でもimg鯖でまとめられたオススメ本一覧2008年度バージョンだったらしい。
元は「中高生のため」と限定したわけじゃなく単純に他の人に薦めたいというものだとか。
1年毎にまとめられているようで、これの2007年度バージョンを見つけたので貼ってみる。
4 シラノ・ド・ベルジュラック エドモン・ロスタン
9 風が吹くとき レイモンド・ブリッグズ
10 黄金の法 大川隆法
15 パンセ パスカル
20 シブミ トレヴァニアン
22 もの食う人びと 辺見庸
26 愛に時間を ロバート・A・ハインライン
30 マルドゥック・スクランブル 冲方丁
32 薬菜飯店 筒井康隆
34 変身 カフカ
35 チリの地震―クライスト短篇集 ハインリヒ・フォン・クライスト
40 恋のかけひき他11篇 マルキ・ド・サド
44 ロリータ ウラジーミル・ナボコフ
47 最悪 奥田英朗
50 泥流地帯 三浦綾子
57 魂の駆動体 神林長平
60 エルマーとりゅう-Elmer and the Dragon ルース・スタイルス・ガネット
65 一万一千本の鞭 ギヨーム・アポリネール
66 暗闇のスキャナー フィリップ・K・ディック
67 夏草冬涛 井上靖
68 家守奇譚 梨木香歩
72 アリス―Alice in the right hemisphere 中井拓志
74 かめくん 北野勇作
76 てのひらの闇 藤原伊織
77 極大射程 スティーヴン・ハンター
78 初秋 ロバート・B・パーカー
84 インスマス年代記 スティーヴァン・ジョーンズ
85 鬼麿斬人剣 隆慶一郎
90 サムライ・レンズマン 古橋秀之
92 死者の代弁者 オースン・スコット・カード
95 ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち リチャード・アダムズ
98 されど罪人は竜と踊る 浅井ラボ
超名作
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
名作
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
良作
北回帰線 赤と黒 阿Q正伝 ボヴァリー夫人 失われた時を求めて 1984年 キャッチ22
ゴリオ爺さん ガラス玉演戯 ユリシーズ 響きと怒り 城 アンダーワールド 異邦人
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
佳作
怒りのぶどう 大地 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド
グレート・ギャッツビー 明暗 老人と海 夜の果てへの旅 スローターハウス5
感情教育 ハムレット 失楽園 オデュッセイア モンテ・クリスト伯
クオ・ワディス 大使たち イワン・デニーソヴィチの一日 ライ麦畑でつかまえて
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
豊饒の海 ティファニーで朝食を レベッカ 万延元年のフットボール
決壊 初恋 アルジャーノンに花束を グランド・フィナーレ 椿姫
見えない都市 百年の孤独 オネーギン オブローモフ 外套 暗夜行路
昼間見て気になっていたのでいまさらレスしてみる。
自分は翻訳物ばかり読むエセ文系だ。一応ドストエフスキーとヘッセは大体読んだと思う。あとプルーストとかスタンダールとかアーヴィング(古典か?)とかブロンテ姉妹とかトーマス・マンなんかを点々と。まあ何というか中途半端だ。
でも、頑張って読んでみるとかなり楽しめる作品が古典には多いと思ってる。
最初はドストエフスキーの「地下室の手記」。増田に集まる非モテ(笑)のみんなに読んでみて欲しい。
「地下室の手記」は、引きこもったニートがひたすら恨み節を呟き続ける話だ。非常に痛い。(笑)
俺は本当は凄い奴なんだけどみんな俺をバカにするから俺はみんなをバカにするんだぜ! というような。
で、知人にキレた勢いでソープに乗り込んでソープ嬢を罵倒したりする。
この作品、やっぱり女性にはまったく理解不能らしくて(笑)、女性の訳者さんがあとがきで散々貶したりしたらしい。
読んでてゲロ吐きそうになるかもしれないけど、良いシーンもあるから、どうか我慢して読んで欲しい(笑)。
ドストエフスキーのほかの作品、「罪と罰」とか「カラマーゾフの兄弟」とか、サスペンスとしてもかなりドキドキできる作品だし、キャラクターも凄く立ってると思う。名前が長ったらしくておまけに何種類も出てきたりしてややこしいけど(汗)、慣れれば大丈夫。
あと、ヘッセの「荒野のおおかみ」という作品が個人的に大好き。
簡単に言えば、オタ中年がビッチな若い女に出会って教育される話だ。
女に命令されてモテ系CD買ったりディスコへ行ってダンス踊ったり女を買ったりイケメンを交えて3Pしそうになったりする。
実際はかなりシュールではっきりいってわけ分からないんだが(汗)、そのわけ分からない部分も含めて面白い。
自分は作中のこんなセリフが気に入った。
「踊ろうとさえしないで、生きるために骨をおったなんて、どうして言えるの?」
「あんたは世間にとっては次元を一つ多く持ちすぎているのよ。今日生活し、生活を楽しもうと思うものは、あんたや私のような人間であってはならないのよ。インチキ音楽のかわりにほんとの音楽を、娯楽のかわりにほんとの喜びを、お金のかわりに魂を、営業のかわりにほんとの仕事を、遊びごとのかわりにほんとの情熱を求める人、そういう人にとっては、この世のはなやかな世間は故郷じゃないわ……」
まあ「荒野のおおかみ」は読まなくても良いかもしれないけど(ヲイ)、「知と愛」(「ナルチスとゴルトムント」?)は本当に凄く面白いので是非読んで欲しい。
修道院のイケメン神学生をやっていたゴルトムントが、ひょんな事から女を知る。それから修道院を抜け出し、各地でヤりまくる、という話。本当にもう命がけでヤってヤってヤりまくる。(全部双方合意のもとでだけど)
単なる女食いイケメンの話みたいに思えるかもしれないけれど、一人一人の女性に対しては本当に誠実だ。というか、常人の域を超えた誠実さを抱えてしまった人間の話なのだと思う。
あと国文学だけど、夏目漱石なんかはかなり不器用な人だったらしく、読んでいて痛いのが結構ある。
「行人」は相当痛かったなあ。お前は俺か! という感じ。ひたすら愛されないことを嘆く兄貴が。(兄貴は既婚なのだが)
「明暗」なんかはリア充っぽい心理が入り乱れていて、小林(登場人物)と一緒に嘲笑できるかもしれない。ただし作者が執筆中に亡くなってしまったので残念ながら未完。
まともな評論とかあんまり読んでいないので色々怒られそうだし(汗)、チョイスもかなり変だけど、予備知識とかなくていきなり乱読しても慣れれば結構面白いよ、という例なので勘弁してください。
http://anond.hatelabo.jp/20081020231740
の増田です。
http://anond.hatelabo.jp/20081021145310
の増田の言ってるような構造ってやっぱりあるのか。俺はリアルではそういう体験したことないけど(何せ相手がいない)、ネットではそういうのも時々見かける。
それだけじゃなくて、少々わかりにくいし意味だってどうとでも取れるから、適当なことを言ったらバカにされそうだし、背伸びしてこむずかしいこと言ったら相手が「うーん」とか言って黙り込むし。たまに原典厨がいて(帰国子女や外国語が得意な人に多い)、日本語訳しか読んでないくせに偉そうに語るなと陰で言われることもある。ある意味間違いではないけど、そういうこと言い始めたらなにも始まらない。
とか
それから、読んだことの見栄や既得権意識が邪魔してる。今でも憶えてるけど、僕が高校生の頃ライ麦畑でつかまえてを学校図書館で借りたら「おっ、ライ麦か、ふーん」と読書家の友達からちょっと上から目線でコメントされたことがある。
似たような感じだとドストエフスキーだったら3作読むだけでも大仕事なのに、「地下室読んでないの?あれは基本だろ!」とか「死の家の記録は彼の転換点なんだから、読んでないなら彼を語るな」とか「ニーチェも読んだ?バフチンは?読まないとダメだよ」なんていくらでも言われる。
こういうテンション。というかノリ。
正直あんまり好かない。原典厨とかはそれ自体はわりと正しいから余計に。
それでちょっと小難しいことを考えたり言ったりすることとかについて、俺なりに考えてみた。そしたら、俺のやりたいことについてもちょっと思いついたので書いてみる。
小難しい論を展開するのは別にかまわない。それが面白いと思うことだって結構あるし。でも、初めて読んだ本の感想って、もっと感情的だと思うんだ。
たとえば、「カラマーゾフの兄弟」の兄弟にはそれぞれが別々の近代思想を体現している、とか言うでしょ。でも、初めて読んで感動した人は「この兄弟は近代思想を体現している!」って感動するだろうか?
シェイクスピアの「リア王」を初めて見て「リア王とエドガーの悲劇の対比構造こそ感動の要因だ!」って思うかな?
思わないと思う。「良くわかんないけど面白かった。」「このシーンで燃える。」「この台詞サイコー!」こっちの方が多分リアル。
小難しい論はここからその感動の理由探した結果だと思うんだ。「どうして面白かったんだろう?」「このシーンは何でこんなに燃えるのかな?」「この台詞はどうしてこんなに心に響くんだろう?」
この理由探しは面白いと思う。やりたくなる気持ちもすごくわかる。でも、他のジャンルだったら、その理由探し自体を共有したり、理由探しなんざほっといて、ただ自分の好きな台詞や場面を共有したりしてる。のに、古典文学ではそれが出来ない。
アニメとか漫画で、オタクが「○○たんマジ萌え」とか言ってるのは理由探しなんてほっといてる例だよね。「萌えの構造とは!」とかもやってる。あいうのが俺はうらやましい。ああいうことがやりたい。
でも、古典には先人がいて、理由探しは散々やってるんだよね。だから、それも出来ない相談なのかもしれない。
なんかそう考えてると、ちゅっと悲しくなってきた。
『カラマーゾフの兄弟』を、ついに読んだ。
さいきん噂の、光文社文庫の新訳版。
誤訳を喋々する向きもあるけれども、
これは本当に素晴らしい仕事だ。
テーマのひとつは、「父殺し」だ。
実際の血を分けた父親。国家の父としてのロシア皇帝。それに父なる神。
ドストエフスキーが急死したので、書かれなかった続編では、
ロシア的な「調和」がひとつの結論として描かれるはずだったろう、と訳者は推測している。
だが、これは、聖が俗にまみれて、父親と殺す殺されるの相克があって、
はじめて得られる「調和」だった。
わが身にひきかえると、自分は父親的なものに、あまりにも唯々諾々としていたのじゃないか。
誰もフョードル・カラマーゾフのような悪人じゃなかったから、
ぬるま湯のような関係にいたが、本来、父は殺されるべきものではなかったか。
俺は殺すつもりで向かっていかなければ、生きたことにならないのじゃないか。
「調和」に到達するのかは分からないけれども、明日からは戦いをはじめたい。
でないと俺は、自分の息子にとって、「殺しがいの無い腑抜け」になってしまう。
何かさ、こーゆー中2的なペシミストはすげー腹が立つんだけど、説得しようとすると途端にうさん臭くなっちゃうのはどうしてなんだろうねw http://anond.hatelabo.jp/20070823203703とかhttp://anond.hatelabo.jp/20070823203732とか。
いや、本当に正しいこと言ってるんだよ? でも胡散臭いw
「信じる」って心の機能は難しいなあ。