はてなキーワード: カラマーゾフの兄弟とは
人の怒りというものは往々にして誰かに利用されることにしかならない。誠実な戦争というものが存在しないのと同じで、この世界には誠実な怒りというものは存在しない。それは通貨に似ている。うらぶれた通貨だ。誰かが、誰かの何かが、へばりついた通貨だ。そういうものと一緒なんだな。
とにかく、俺は怒りというものがあんまり得意じゃない。大体において、怒りというものには何の価値も無いし、いわばそれは何かに対するアレルギー反応と一緒なんだな。
それをエネルギーに換えている人もいるって? 人糞から電力を作り出す装置を作った人間の方がずっと優れてるよそんなの。怒りというものが何なのか全然分かってねえなお前らは。
何でお前らはそんなにも馬鹿なんだ?
いいかい、感情においては多くの場合同一律とか矛盾律とか排中律というものは通用しないんだ。感情の世界において怒りは怒りじゃないし、悲しみは悲しみではない。時に好意は好意ではない。執着は執着ではない。何でそんな簡単な理屈がお前らには分からないんだ? お前らは何を考えて普段生きてるんだ? 何も考えていないんだろうな。分かるよ。
これは怒りじゃない、侮蔑だ。
侮蔑は侮蔑じゃない。感情の世界においては、同一律が機能することはない。だから俺はお前らを侮蔑しているけれど、これは侮蔑じゃないんだ。
世の中の本当の感情はそれほど多くなくて、それは愛情と憎しみなんだよ。
分かるかな。
分かんねえだろうな。分かるよ。
三段活用だよ。お前らに対しては俺は年中こう思ってるんだよ。「分かるかな。分かんねえだろうな。分かるよ」って。分かるよ。俺はずっと色んなことを考えてるからな。だから分かっちゃうんだよ。お前らが分かってねえってことが。そして、お前らが何も考えてねえってことが。なあ。分かっちゃうんだよなあ。
ドストエフスキーはお前らみたいな人間を愛していたよ。ドストエフスキーの書いた小説を読んだかい?
『悪霊』を読んだかい? 『悪霊』に登場する人物には一人として理知的な人間は存在しない。ヴェルホーヴェンスキーも、スタヴローギンも、ステファン先生も、皆々馬鹿ばっかりだ。何も見えてねえ。メクラだよ。盲。でもなあああああああああ、ドストエフスキーの愛が伝わってくるんだよあの物語からはなあ。お前ら分かるか? 分かんねえだろうな。分かるよ。
大小説家の共通点はなあ、一つだよ。その資質は一つだよ。それはね、取るに足りないものを愛するということなんだよ。
分かるかな?
わかんねえだろうなあ。分かるよ。でもね、ドストエフスキーは多分お前らみたいなやつのことを愛していたと思うよ。いいかい。これは『悪霊』を読まないとお前らには絶対分からないと思うし、あるいは読んだとしても全然分からないかもしれないんだけど(その可能性の方が高い)。とにかく、ドストエフスキーはお前らみたいなカス野郎達のことを愛していたと思うよ。何故かって?
『悪霊』には二十名程の登場人物が出てくるんだけど、そのどの人物を取っても皆愚か者しかいないんだよ。面白いだろ? そして、そのどの人物に対しても緻密な描写が施されている。人間性の掘り起こしがかなりの深度まで及んでいる。
とにかく、『悪霊』。これは面白い。何故って、あんな愚か者しかいない小説を1200ページくらいぶっ続けで書けるモチベーションがどこから湧いてくるか余人には想像もつかないからなんだよ。そしてそれはね、ドストエフスキーが愚か者のことを、取るに足りない者達のことを、愛しているからなんだよ。
ドストエフスキーは貧困街の医者の息子として生まれて、貧困故にありとあらゆる不幸によって苛まれる人々と幼い頃から接してきた。特に、強姦された少女との交流の話は有名だな。
幼い内から、ドストエフスキーは、この世界にいる人々の多くは愚か者で、取るに足りない存在で、そしてそれ故に愛おしく美しく描くに足る存在であることを直観してたに違いない。馬鹿野郎どもが。つまりそれはお前らのことを愛していたってことなんだな。分かるか? わかんねえだろうなあ。
俺が読んだことのあるドストエフスキーの小説はそんなに多くなくて、罪と罰と、カラマーゾフの兄弟と、悪霊と、それから何だったかな。死の家の記録と、賭博者。多分これくらいだと思う。
まあとにかく、ああ、怒りが尽きてきてしまった。でも、本当は誰にも怒ってないんだ。これは同一律の存在しない世界なんだよ。感情の世界には、同一律は存在しないんだ。
怒りは怒りじゃないんだ。悲しみは悲しみじゃないんだ。
でも、唯一、いや唯二つ存在しているものがあって、それは憎しみと愛情なんだよ。でも、憎しみって結構簡単に消えちゃう気がするなあ。俺は忘れっぽいのかしらん。分からん。いや、あるいは気付かないだけで憎しみは存在し続けているのかもしれない。分からない。まあいいや、愛情もかなり長く存在し続ける。あるいは消えるかもしれないけれど、その消えた後に残った穴ぼこみたいなものもまた、愛情なんだな。
リーダビリティと同様の概念として、メモラビリティーという概念を導入したい。人の頭の中には、記憶しやすい情報と記憶しにくい情報がある。忘れやすい情報と忘れにくい情報がある。そして、そのような情報の中から、記憶しやすい情報と、忘れにくい情報を選り分けていく。すると大体二つのものが残る。それは、愛情と憎しみなんだね。それが人間のアーキタイプなんだ。多分皆こういうことは考えないんだろうなあ。ねえ、「覚えやすさ」っていうものとか「忘れにくさ」っていうものは、多分人間の構造というものと一直線に繋がっている。人間の、多分原型といっていい枠組みと、ダイレクトに繋がっている。何故って、人間の心を作っているものはたった二つだからだよ。それは、覚えやすいものと、忘れにくいものだよ。ねえ。考えてみたことはあるかな? それ以外のもので人間の心は作られていないということについて。
分かるよ。
分かる。
だから答えなくていい。お前らはそんなことを考えたことはないだろうからね。分かる。
まあ人間が人間たりうるには色んなことが必要で、そして、その色んなことの内で我々がもっとも普段から必要としているのは、「考えているフリをすること」なんだ。
考える。でも考えていない。怒る。でも怒っていない。好む。でも好んでいない。嫌う。でも嫌っていない。楽しむ。でも楽しんでいない。悲しむ。でも悲しんでいない。
それがないと人間の生活は成り立たない。例え怒っていなくても人間は怒ったフリをしないと生きていけない。じゃないと生活は成り立たないからね。
文学ベスト100と検索すると、国内に限ってもいろいろなランキングが出てくる。英語圏では、ベスト100を選んだときどのような小説がランクインするのか、気になって調べてみた。
そうすると、日本と同様にたくさんの種類のランキングが出てくるが、これらをひとつひとつ紹介するのも退屈だ。
だから、それなりに信頼がありそうないくつかのランキングを選んで、それらにくり返し選出されている作品名をここに挙げてみたいと思う。
なにをもって信頼があるというのかは難しい問題だが、だいたい以下のような基準を満たしているランキングだけを取り上げることにした。
英語で検索しているからには、英語で書かれた小説が多くランクインするのは当然なのだが、英語圏に限らず、世界の文学を選出の対象にしていることを条件とした。なので英米文学オンリーとかなのは避けた。
2000年以降に発表された小説の割合が高すぎたり、「ハリー・ポッターシリーズ」のような、あまりにエンタメ寄りの小説を選出しているものは除外した。
「ハリー・ポッター」が文学かどうかは知らないが、それが文学ベスト100に選ばれているランキングが参考になるかというと、あまりならないんじゃないかな。
どのランキングにしても19世紀以降の西洋文学に偏りすぎなのだが、そこはもう仕方がない。
このような基準で選んだランキングは以下の4つ。検索すればソースはすぐ出てくると思う。
・ガーディアン誌による「The 100 greatest novels of all time」(いつ誌上に掲載されたのかはわからなかった)
・Goodreadsによる 「Top 100 Literary Novels of All Time」(国内でいうと読書メーターや読書ログみたいな位置づけのサイト。ユーザーが投票して選出している)
・Modern Library(アメリカの出版社)による「100 best novels」
・アメリカの文学者Daniel S. Burtによる「the Novel 100: A Ranking of the Greatest Novels of All Time」(同タイトルの書籍がある。Burtは英文学の講師をしていたらしい)
4つのランキングのうちすべてに選出された作品は、ナボコフの「ロリータ」と、ジョイスの「ユリシーズ」の2つだった。ロリータすごい。
4つのランキングのうち3つに選出されたのは、以下の28作品。
このうち22作品はすでに読んでいた。
けっこうそれっぽいタイトルが並んでいるように見えるが、日本ではほとんどなじみのない作家も中にはいる。ジョセフ・ヘラーとかフォード・マドックス・フォードとか。
フォードの「善良な軍人」が翻訳されているかはわからなかったが、これを除けばすべて翻訳で読むことができる。すばらしい。
ブコメの指摘から、フォードの"The Good Soldier"(上では「善良な軍人」と訳した)は、「かくも悲しい話を…」という邦題で翻訳されていることがわかった。ありがとう。
言及どうもです。
彼らは、単純にphilosopher(=知恵を愛する者)ということでいいんじゃなかろうか?
『「知」に対して極めて能動的な人間』、というより、『新しいことを知ることが好き』、ただ単に好きって感じで。
だから、はたから見ると、増田も『知らない話題に対しては、無知な者として、目を輝かせて知識を吸収する』スタンスで行けるといいのではないか?と思う。
そう、そこなんだよね。
俺が「怪獣映画を見ること」を苦に感じたことないように、彼らにとって
『新しいことを知ること』はまったく苦じゃなくて、むしろ何よりも楽しいことなんだろうな。
だから知識を毎日のように流し込んでも頭でっかちにならずに教養として心身に身に付くのだろうな。
彼らにとってはソルジェニーツィンを読むのもゴジラを観るのも同じ『新しいことを知ること』なのかもしれない。
自然体で「philosopher(=知恵を愛する者)」として振る舞えてる人達への劣等感や羨望みたいなのは正直あるよね(笑)
ああ、彼らには「おし、勉強するぞ!」って喝を入れる感覚すらなくてこれが自然体なんだ!って気付いた時には震えたね。
実はこの土日で奮起して古本屋で有名な哲学書やらロシア文学をしこたま買い占めてきたよ(笑)
「地下室の手記」はなかったけど、カラマーゾフの兄弟や罪と罰は買ってきた。
ソルジェニーツィンも何冊か買ったし、デカルトやらカントやらあるだけ買ってみた。
古本屋の店主はすげえ偏屈そうなオッサンだったが、購入ラインナップを見たら笑顔になってた。
何度もお礼を言って店を送り出してくれた。彼も「philosopher(=知恵を愛する者)」なのかもしれない。
手始めに薄いゴーゴリ「外套」を読んだけど、思ったより易しくてすぐ読了した。
すっげーヘンテコな話だったけど、不思議な後味が残って楽しめたよ。どんどん読むぞ。
『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」に答えがある
大阪の人が、映画やドラマ等で俳優、役者が演じる大阪弁がおかしい、ちょっと違う等と良く言っているのを見聞きする。
でも個人的には、大阪ネイティブでない役者が話す、大阪の人達からすれば違和感のある大阪弁の方が、
大阪の人達が話す大阪弁よりも、ちょっとだけ印象がよかったりする。耳に心地よいという時でさえある。
もちろん、全員では無いのだろうが、本物の大阪弁は発音が汚いというと言いすぎかもしれないけれど、どうしてもノイズに感じる時が多い。
心地よく感じるなんて状況はほぼ無いに等しく、ネタとして完成されている漫才は聞けても、
バラエティ番組は見る(聞く)に耐えないと感じてしまう事が多い。
標準語を話すべき場面においても方言丸出しで、それを恥ずかしく感じるどころか、ドヤ顔で大阪弁を話す人を見聞きする事も多い。
そこはちゃうやろと。
もしドストエフスキーの作品が大阪弁で翻訳されていたら、罪と罰を読んだ後これまでと同様の感想を持つことはないだろう。
ラスコーリニコフはじめ登場人物の人物像は大きく異なってしまう。読むに耐えないものになると思う。
自分は、村上春樹のファンである。長編は全部読んだ。中編、短編もほとんど読んだ。インタビュー集なんかも読んだ。
騎士団長殺しも発売日に買って読んだ。しかし、読み終わってみると嫌悪感しか残らなかった。そして、それは予感された嫌悪感だった。
一時期に比べ村上春樹の著作を読むことも減り、騎士団長殺しを買ってみたはいいが、正直今の自分の価値観に合わないんじゃないかという予感があった。
そんな不安に反して、読み始めると小説の世界観に没入する事ができた。なにしろ今までの集大成かのように、これでもかと、今までの著作に登場したモチーフが見られ物語の奥行きが感じられ、また文章の流麗さ、比喩表現の豊かさに改めて感心した。
しかし、物語の後半に入り、ファンタジーの世界で様々な問題が解決されてしまう所に、強烈な嫌悪感を感じた。それは今までの著作でもよくあった展開であったが、これまでは物語に没入したまま読み終える事が出来た。しかし、今回に関しては、ファンタジーの世界、あるいは高度なメタファーの世界で問題が解決する事に拒否感があり、もはや物語に没入することができなかった。
村上春樹的な世界観が描く未来はどんなものであるのか。村上春樹的な世界観の結論とはなんなんだろうか。そんな問いに対する具体的なメッセージを得ることができなかった事に落胆した。
一方で、そんな問いを村上春樹に求めること自体間違っているのかも知れないし、自分がメタファーを感じる能力が無くなり、具体的な答えを求め過ぎなのかも知れない。
抽象的に語られ、メタファーの世界で物語が終わることでこそ、読者個人の心の中で様々な物語となることができ、全世界的な共感を生んでいるのかも知れない。
他方で、今回だけでなく、今まで読んできた多数の村上春樹の著作を振り返った時に、これといった結論を得られていないと思った。村上春樹も度々言及する、キャッチャーインザライや、グレートギャツビー、カラマーゾフの兄弟などといった過去の名著は、どれを取っても全体を振り返った時にテーマとそれに対する結論が思い当たる。
しかし、村上春樹の著作では、一体なにが残るというのか。共感を呼びこそすれ、どこかに導くことは出来ないのではないか。そしてその意思も感じられないことは無責任なのではないか。そんな強い憤りを感じざるを得なかった。
http://lfk.hatenablog.com/entry/2017/02/04/132000
ドストエフスキー読もうぜ、と言う割に、なぜ読まないといけないのか、読むとどういういいことがあるのかが全く書いてない。
地下室の手記がオススメというが、あれはそれ自体がある論考に対する反論となっていて、その論考は日本じゃ通常読めないという難物。しかも最終的な結論はキリスト教色が強く、それこそカラマーゾフの兄弟なんかを読んでないと意味不明に陥る。
「地下室の手記」については「カラマーゾフ」のように宗教的なテーマにあまり触れていないから、キリスト教的価値観についてそこまで意識しなくても読み進めることができる。
ホントですか?
ドストエフスキーはトルストイなんかと違って、誰にでも楽しめるエンターテインメント的展開(読者サービス)に乏しいため、娯楽のために読める代物ではない。ドストエフスキーの描こうとした主題をつかみ取るために奮闘するというような読み方になる。
そうなると必然的に予備知識として聖書の知識が必要となってくるわけだが、その辺のフォローもなし。
で、どうやったらそのベースとやらが手に入るのさ。