はてなキーワード: カウンターカルチャーとは
・俺のような教室内の2~3人の日陰者たちが共有できるカウンターカルチャーなどというものは現代には存在しません。
「しかたない」
・俺はどうすればいいんですか。助けてください。
「同じ趣味の仲間を集める、アニメ見る、自分から行動しないやつに面白いことなんて絶対にやって来ない。「経験談」他人を誘って遊ぶしかない」
・いつからクッセエ萌え豚アニメや淫夢はこんな日向の連中に浸透した。オタクがライト化したのか?こんな奴らのことをわざわざオタクと呼ばなければいけないんでしょうかこいつらのことをオタクと呼びたくありません。そういうライトオタク共はデカい顔して教室の真ん中で机を囲んで昼飯を食ったりしています。
「あんたは自分がオタクだとわかっていないオタクですね。それにオタクの好きなアニメを見下しているつまり、暗い系のオタクも明るい系のオタクもどちらも見下している。そんなつもりはない?と感じるかもしれないがそれを判断するのは世の中や周囲の人間だ。あんたじゃないと気が付け」
「あいつは詳しいから重度のオタクとかあいつは浅いからライトオタクとか上下をつけたがるなんて愚かです。
ウェーイ系とかライトオタクとかひとくくりにしているのがまず思い込みであり、オタク差別と同じことをしている。
いいやつもいれば悪いやつもいるのはオタクも変わりません
彼らクラスの明るい連中はデカい顔しているわけじゃなくて仲間たちと遊んでいるだけで、それを色眼鏡で見て決めつけて極端に怖がってるだけですよね?」
当時オタクだった少年がユーチューバーになり、当時の彼らウェーイな人たちと会談をしたとき彼らはこういいました
「話しかければよかったじゃん」と
常に扉は開いているわけだ。
それと容姿を求められる集団であることに変わりはないので、着の身着のままじゃ拒否られて当たり前
・みすぼらしいヘアスタイル
・荒れた肌
・衣服の汚れ「フケとか染み」
これらはオタク側が悪い。
そういう時代の流れはあらがうだけ無駄、どうしようもなく変えられない。
むしろそういう美意識は世の中の流れだから、社会人になるなら磨いておくのが正しいとすら思う
あと明るい連中の中には威張り散らしているやつらもいるから一概にあんたが悪いとは言えない
かくいう自分も林間学校のときごはん配膳をしている最中、隣の子にご飯茶碗を渡したとき、いきなり怒鳴りつけられて
「俺らに速く渡せよ!なんでこいつらが先なんだよ」と威圧された
そういうのは苦い経験として尾を引く
そいつらは悪いやつらかもしれないし
後輩に接するときは勇敢だったりして尊敬されていたりするかもしれない
オタクも似たようなもんだ。
俺はオタクじゃないと思いながらアニメをたしなんで同じオタクを蔑んでいるオタク
第二の大衆とは、大衆の集団でありながら、その大衆ではないという否定した、または否定された人たちによって生まれた大衆である。
これは最初に生まれた大衆を否定し、しかし大衆の性質全てを否定することはできず、大衆が持つ特徴、属性はそのまま持っている。
また、第二の大衆は大衆によって否定されたという特徴がある。大衆から否定された、大衆へのカウンターとしての大衆である。
簡単に思いつく第二の大衆とは、インターネットによって生まれた、5ch(2ch)である。
彼らは、大衆から否定された哀れな存在であるが、また大衆を恨んでいる。そのことが彼らを大衆側に立たせず、大衆文化を恨むことにつながる。しかし大衆の特徴を完全に否定することは叶わず、彼らもまた操作の対象になる。
彼らは操作される大衆を見下すわけだが、彼らもその見下す特徴を持っているのだ。
例えば、風評被害というのは、大衆を批判するための言葉だが、この言葉を用いるのは大衆によって否定された人たちである。(否定された者たちは事実という言葉を使い、大衆を見下す。)
つまるところカウンターカルチャー的であると言える。カウンターカルチャーは文化による対抗であるが、大衆に対して、対抗することは新しい国民を作ることぐらい難しいく、つまるところ自浄力を持つためには、大衆を批判する内部の大衆が必要なのであるが、その役割を担うのが第二の大衆であり、彼らは一部メディアによって操作される。
しかし第二の大衆が不幸なのは、彼らは大衆によって否定されたが、その否定の原因は大衆にはない。つまり大衆を否定したところで彼らが救われることはない。統治者による大衆をコントロールするための仕組みに過ぎない。
うん、君のような差別主義者がこういうこと言うんだなってのがよくわかったわ。
カウンターカルチャーでもなんでもなく、余裕ねんだなぁって思うってだけの話なんだがな。
別に大阪に他県の人間がきて、その地方の方言で話そうがまぁ気にしないからさ、おれ。
あ、でもさすがによほど「ん?なんて?」ってなるくらい単語が違う言葉(イントネーションとかでなく)とかは「それはこっちではこう言うよ」ってくらいは言うかな。
まぁ永遠のナンバーツーでもなんでもいいよ。自分のとこの都市レベルをどうこう思ったこともないわ…だからこういう主張を見るたびに不思議でならん。大阪にもそういう人は結構多いけどさ。
さすが永遠のナンバーツー(笑)らしいカウンターカルチャー思考?嗜好でらしいなぁと
コムドットについて詳しくなくとも、SNSで拡散される彼らの活動を目にする機会は多い。彼らはそのように有名になってきたのだから、彼らのファンでない私のような人間が彼らに言及することも、ごく自然なことだと言える。
彼ら、というかリーダーのヤマト氏の炎上に対する声明を読んだ。
少し調べれば、多くの人がその文章に対し強い違和感を抱いていることがわかる。今暇なので、この違和感を明文化してみようと思う。
まず、コンビニ、近隣住民への騒音での迷惑等についての謝罪がある。これはそうだろう。コロナ禍でなくても絶対にやめてほしい。赤ちゃんが寝付いたばかりかもしれないし。
ここでは明確に謝罪の対象にしていないが、彼らは当然マスクをしていない。感染症予防のため、飲食店等を除き、複数人でマスクなしで密になることは避けるべきという『ルール』がある。
コムドットはこれまでも何度か炎上しているようだ。YouTuber飲み会をはじめとするそれらは、『ルール』に違反したから炎上した。
ではここで、この『ルール』について踏み込んで考えてみよう。
ここでの『ルール』とは、法律ではないものの、社会全体の利益のために守るべきこと、とでも言い換えられるだろうか。現在におけるマスク着用はまさにそれだろう。
私が彼らの炎上やそれにまつわる弁明について調べ強く感じたのは、彼らは本当にこの、マスク着用『ルール』の必要性を理解しているのだろうかという疑問である。
マスク着用ルールは、判子は斜めに押すとか、乾杯の際はグラスを下にすべきとかそういうクソくだらない仕草ではなく、疫病の蔓延を防ぐためという目的を持ち、また明確に効果が判っているものである。マスクは本当に不便だが、私たちは自分がウイルスの運び屋にならないよう、大切な人、あるいはそうでない人を守り、この疫病を根絶させるため、マスクをして、密を避け、ときには帰省や結婚式を我慢して過ごす。
自分と他人を守るための『ルール』を履き違え、大きな問題となった、NAMIMONOGATARIというHIPHOPフェスについて、知る人は多いだろう。HIPHOPにカウンターカルチャーの側面は認めているものの、それは体制的な抑圧であったり、不条理な命令であったりに対するカウンターである。
おそらく参加者にとって、マスク着用、密の禁止、禁酒もしくは減酒というルールは、「根拠のない、上からの不条理な命令」程度の認識だったのだろう。だから破っていい。
コムドットメンバーの根底に、同じような気持ちを認めるからこそ、ファンは不安すら覚えているのではないか。
コムドットのファンには良識的な人が多いと感じる。悪いことをしたことは認めつつも、応援の姿勢を示し続けることは簡単なことではない。
だからこそ彼らは不安を抱くのではないか。自分が応援している人たちが、バカではないと信じているからである。
コムドットと『ルール』は意外と根深い関係性を持つ。彼らが盗撮を嫌い、直接ファンに苦言を呈する動画をアップロードしたことは有名らしい。
盗撮はもちろんルール違反であるが、ただちに法律違反ではない。そんなことを言い出したら、彼らの撮影中映り込む人々は、彼らを訴えていいことになる。
では何をもって悪意のある盗撮とみなすのか、その線引きが難しいからこそ、『ルール』によって彼らは自分たちの、また、ファンは彼らの盗撮を許さない。
マスクおよび密を避けるというルールと、この盗撮に関するルール、正当性については述べるまでもないが、彼らは前者のルールをたびたび軽んじ、それどころか、タバコは外で吸うが(条例違反)、他人のタバコのポイ捨てを厳しく指摘するなど、矛盾が多く見られる。
これは大きな違和感であるし、彼らもその矛盾を否定はしないだろう。だから謝罪文は早々にその姿を変える。
ヤマト氏による謝罪文は、いかに多くの誹謗中傷が寄せられ、その恐怖が如何程であるかを切々と述べている。情に訴えている。
さらには過去に行きすぎたネット上の誹謗中傷により自ら命を絶った有名人をもちだし、覚えていないのかと訴える。
ここにも大きな違和感がある。明文化するのは難しいかもしれないが、やってみよう。
まずここでの有名人はまず間違いなく木村花氏のことであろう。彼女の痛ましいニュースは私たちに否が応でも画面の向こうに人がいることを思い知らせた。もちろんそれを私たちに教えるためだけに彼女は亡くなったわけではない。
まず第一に、このタイミングで彼らが自らその話を持ち出すことに対する違和感である。
任意の誰かが社会通念上誤ったことをしたとき、「そんなに叱ったら死ぬよ!」などと言われたら、私たちはどうしたらいいのだろう?
死は究極的に個人的なものだ。100人いれば100通りの死に方があるだろう。もしそれが自死であれば、その理由は本当に個人的なものだ。
彼らはあえて木村花さんという個人名を出さないことで、これに関するそしりから逃れようとしているのかもしれないが、個人名を出せないということは、それは配慮ではない。後ろめたさがそこにあるということである。
木村花さんは、何もしていない。本当に何もしていないが、マスメディアにより悪意のある人間に仕立て上げられ、自分の意見を述べることもできず、頼れる人もおらず、また前例もないため、亡くなるほど追い詰められていたことに気づく人もおらず、孤独に死を選んだ。彼らとは土台から違う。それを指摘されたくないから、個人名を出さなかったのは、卑怯とすら思う。
自分たちの引き起こした不祥事に、無関係の故人を持ちだし、自分の死を匂わせることで、批判から逃れようとする姿勢がダサい。彼らの肩で風を切るイメージとあまりに相反する態度に、違和感を覚えるのである。
もちろん誹謗中傷はルール違反ですらなく法律違反だし、絶対に行ってはいけない。密になるよりマスクしないより騒音を起こすより、明確に悪いことである。そういう人に対し、彼らは私刑に出る必要もない。法的にアプローチすることができる。皮肉なことにこれは、あきらかに木村花さんの事件あっての効果である。
正直なところ、そんなに批判の矢面に立つのが嫌なのであれば、大きな芸能事務所に入ればいい。大きなところであれば文春スキャンダルを揉み消すこともできるし、こういった際矢面にたちタレントを守ってくれる。
しかし彼らは自由でいることを選んだ。事務所のものになり、金銭的、肉体的な縛りを受けるより、自由に活動していくことを選び、彼らのそんな姿勢がウケているのである。
自由は必ず痛みを伴う。これは、自由な者は痛みを覚えるべきということではない。痛みを受けることと自由であることは、ほとんど同じ意味であるということだ。
総合的に一貫性がない、悪い意味で、あらゆる立場のいいとこ取りをしてやろうという彼らの甘えを私たちは感じ取っており、彼らと彼らのファンが大事にする『筋を通す』ことができていないことに、失望を抱かれているというのが、現状への分析である。
ほんまそう、ポリコレもカウンターカルチャーも逆ギレも、みんなみんな中卒オヤジ並みの知能と感情表現の発露だよなぁ
コーネリアスの件で問題とされているクイックジャパンが発行されていた当時は、「電波系」の根本敬や村崎百郎、「完全自殺マニュアル」鶴見済が活躍していた時代で、サブカルチャー(カウンターカルチャー)として悪趣味な世界観が消費される時代だった。
悪趣味カルチャーは80年代のオシャレやモテや電通文化に対する怒りだった。カーディガンを肩にかけ、ポロシャツの襟を立ててテニスやスキーしてホイチョイの「ヤレる店」読んでナンパして人を「ちゃん付けで呼ぶ」奴らにゲロや死体で嫌がらせしたかった。当時を知らない人にはわからないだろうけど。
https://twitter.com/TomoMachi/status/1417347576521629706
私は傍観者でしたが、「自分も壊れているし、君も壊れているし、社会(世界)も壊れているんだよ」というメッセージなのかなと思いました。
https://twitter.com/ak_tch/status/1417418603620491271
いま批判している人は、この時代を知らない若い人か、知っていたがそういうものを忌避していた人か、知っていてあえて無視しているのだと思う。
当時の自分もクイックジャパンを読んでいたのだが、twitterで紙面のキャプチャを一通り読んで感じたのは、あのときの空気感だった。
小山田圭吾に関しては「あー言ってるな」と。
時代の空気をキャッチアップして、わざと露悪的な表現で悪趣味を前面に押し出しているなと感じてた。
これはそういう時代性の発露であって、本当に起きたことなのかは定かではない。
個人的にはフィクション、もしくは一部が本当でも誇張されたものだと受け取っていた。
当時の表現がそうだったというだけ。
吉田光雄さんはTwitterを使っています 「小山田圭吾のいじめ発言は、悪趣味ブームだった当時(94〜95年)は別に問題にもならず、 その後だんだん世間の常識が変わってきてからは何度も「これはひどい!」的に掘り起こされてきたという経緯があります。そして、あれは小山田圭吾だけじゃなくて、当時の『QJ』とライターの責任も大きいかと。」 / Twitter
これはちょっと言葉足らずで当時知らない世代には誤解しかならないと思う。
今にも続くけど文科省、教委、PTAの「理想の学校」に対して白けながら「現実の子供は違うんだよw」って露悪してカウンター食らわせる。今は増田含め匿名ネットコミュニティでしか見ないけど昔は雑誌が発信の場だった。
増田にも大勢いるけど「障害者と同じ学級は嫌だ!」「言葉が通じないやつは嫌だ!」という差別心は当時以上に今のほうが支持されるのではないか。
90年代のカウンターブームは別に学校、教育に対してだけでなくて、男女雇用機会均等法への反発や、歴史修正主義みたいな政治分野も雑誌で担ってた
この記事も言葉足らずだからかおかしな反応が見られるな。「露悪的」「本音主義」というのは今で言うと「現実主義」「リアリスト」ってことよ。
当時はまだまだ「理想主義」に力があって「権威」になれた時代だったからカウンターとしていくらでも露悪的に過激になろうとしたし、大海の一滴のサブカルだからそう振る舞ってもスルーされる土壌だったというだけで、常識が当時と今とで違うからという話ではない。
カウンターカルチャーというのは、wikipediaに対抗文化と書いてある。サブカルの一種であると。
私はカウンターカルチャーの神話という本を読み、カウンターカルチャーを知り、そして否定的である。
特に私が書きたいのは資本主義に取り込まれているカウンターカルチャーである。
私は新人発掘や、素人を応援する行為、またまだ人気の出ていない何かを応援する行為はカウンターカルチャーに近いと思っている。
メインカルチャーに対して、つまり今人気がある何かに対して満足できない物足りない、または自分が最初から関わりたいなどの気持ちがあるときに
カウンターカルチャーには実際のところ、メインカルチャーの腐敗に対抗するとして、正しさのようなものも含まれているが、今回はそれは省いて考える。
今回、なぜこのことを書こうかと思ったかというと、いつか言語化したいと思っていたが、いつまでもはっきりと思い浮かぶものがでなかったので
例えば、うっすらと感じているのは、なぜこんなものが人気になったんだ?と思うものは、
カウンターカルチャーの影響を受けている可能性があると思っている。
しかし注意しなければならないのは、なぜ人気なのかということに対しては、単純に理解する自分の知識不足である可能性や
ヒットする階層が異なる可能性、時期がよかったなど、人気が出たことを単純な理由では説明はできない。
カウンターカルチャーが一部分として占めているだけだけかもしれない。
それは一言で言ってしまえば、対抗先がいなくなると消滅してしまう文化で主体性が無く、継続性もないからである。
文化の発展性から言えば、サブカルチャーがメインカルチャーになるような可能性をつぶしていると私は思っている。
ドイツの哲学でアウフヘーベンという言葉があるが、否定することで発展するというケースが存在するか私は疑問に思っている。
仮にあったとしたらカウンターカルチャーはメインカルチャーが発展するための踏み台である。
残酷ではないだろうか?
私たちはカウンターカルチャーを応援してメインカルチャーへ攻撃する(と人は思っている)
しかし実際のところはカウンターカルチャーがメインカルチャーになりうるとはだれも思っていない。
むしろなったら不幸である。時限爆弾が起動(発火)するのだから。
言いたいことがまとまってきた。
つまりカウンターカルチャーで人を応援するのやめようぜ人類ってことだ。
しかし、こうも言えるかもしれない素人のただの思い付きがメインカルチャーに匹敵するレベルに成長するというのは
本人やその集団にとっては幸せだが、巨視的に考えると私は不満だ。
私がさらに不満なのはサブカルチャーをメインカルチャーの踏み台、または不幸な結末を迎えるために用意することだ。(自覚的なのか無自覚なのか分からないが)
ほとんどの人は自分が応援しているコンテンツがメインカルチャーに匹敵するほど人気が出るなんてことは思わない。
その人たちは問題ない。
例えば、自分の文化に刺激が足りないから、対抗文化を盛り上げようとか!
不幸になることが仕組まれている。
なぜなら私もそうだが、カウンターカルチャーが大好きだからだ。
なろう小説がもっと人気をでて日本の小説文化に影響を及ぼすことを考えると愉悦を感じないだろうか?
アニメ映画だらけになっていることに何とも言えない気持ちにならないだろうか?
彼らにとって体制側とはリベラル思想の世界であるので、それに反発しているわけだ。
だがこの反発の正体は社会の革命などという大それたものではなくもっと家庭的な問題に起因している。
もともと日本の戦後左翼は自分の親(この親も戦争でPTSDなど抱えていた可能性もあるが)と折り合いがつけられなかった子供たちによって構成されており、
現代の見方で解析するなら恐らくはアダルトチルドレンに属するだろう人々だ。
それと同様、トラウマを治療することなく自身の家庭問題を逃避する形で、怒りだけを社会に持ち込んで居場所を作り出した、それがネトウヨコミュニティ。
では俗にパヨク(支流には俗流のフェミニズムや弱者男性論も入る)と呼ばれている人々は何かというと、これはネトウヨとコミュニティが異なるだけで本質的には同じなのだ。
彼らもまたアダルトチルドレンである。だがこちらはもう少し複雑な状況である。
ネトウヨコミュニティは男性が先に作り始めたが故に基本的に男社会なので、男性的でない男性や女性には入りづらい。
だから周縁的な人々がしばしば行きがちな外国への憧憬に寄り集まり、海外で流行っていた「リベラルっぽい」集団を形成した。直接向こうでリベラル思想を学んできた人々としばしば正反対の言動を取るのは彼らが学問として体系的に取り込んでこなかったからである。
つまりパヨク世界はネトウヨに対するカウンターカルチャーである。
だがどちらも確固とした社会思想も信念も持ち合わせていないうえに、そもそも本当に社会をよくしたいとは思っていないため、同じ相手と同じ問題についていつまでも解決しない論法によってぶつかり合い、非建設的な言い争いで延々と絡み合い続ける。傷のなめ合いや互助を反転させた関係だ。
第2次スニーカーブームの人間なのでちょっとジェネレーションギャップあるかも知れないけど手がソワソワして書かずにいられなかった。
増田がどういう意図で書いたのかわからないから、とりあえずスニーカーに詳しくない人向けにオススメすると
お金があるなら、ニューバランスの1000番台買っちゃってもいいと思う。
1300が有名だけど、個人的には1400を推す。まあニューバランスは自分のファッション感覚的に合わないから、そこまで詳しく言及できるものではないんだが
ニューバランスは公式でソールの修理などを行っているから、高いのを買ってずっと履くのに向いているんだ。
修理については下記のスニーカーが対象。まあフラッグシップモデルは手厚くサポートされてるから、マジで生活のための正当な投資としては、ニューバランスが一番いいよ。
https://shop.newbalance.jp/user_data/packages/support/repair_list.pdf
じゃあそんなお金がない人はどうすりゃいいの?って話なんだが
ナイキの安物ランシューを履いてりゃいいよ。スニーカーの魅力は、安い投資でそれなりの性能が得られる部分でもあるんだ。
やっぱタンジュンが一番安いな、3000円台ならこれがいい。アディダスならファルコンランかな、ナイキの方が軽くて汎用性高いらしいけど。
個人的にはアウトレット行って、サイズのあうそれなりのランシューがオススメ。
アウトレットで何を買えばいいのか?だが、プーマならスエード、アディダスなら都市名の名前のやつは最高、VANSはハーフキャブが大好き。ultra cushはマジで最高。
ナイキはなんだろう。。個人的にオレンジの箱以外ならなんでもいいかも。
たまに海外から日本へ商品が入ってきていたりしてるからアウトレットは面白い。
ちょっと前ならair max97のnintendo64カラーがアウトレットで売ってたね。
ちなみによく話題に上がるzoom alphafly next %なんかは勝負靴で、普段使いには向かないし、耐久性はかなり低い。なのでオススメしない。
主語をデカくして言うが、人間なんてNIKEのタンジュン履いて、GUの服着て、iPhoneSE持ってりゃ見かけ上は全員平等なんだ、そこに貧富の差はないんだ。
ファッションの素晴らしいところはそう言うところである。バーバラクルーガーはこれを見てなんて言うだろう。
大体言いたいことは終わり。
増田が「靴が欲しいんじゃなくて、知識が欲しい」とかそう言う感じだったらこっちの方が気に入りそう。
とは言っても、かなり偏見あるからここら辺からボロが出始めると思う。
ナイキは商売がうまい。スニーカーは正直、高くても値段相応ってわけじゃないんだけど、売るのがうまいから高くても売れちゃう。
カルチャーを促進することを重要視している。これはスタバとかもカルチャー意識から自社に還元しようみたいな働きがある感じに
ナイキも顧客に対してそう言う意識を持ってもらおうとしているんじゃないかな。ブランドは「思想」を買って着飾るのだ。
今はSB Dunkが流行っているが、スケートカルチャーとしてのナイキはカスで、カスすぎてスケートブランドのconsolidatedがdrunk hiって靴を出してた。
まあ、そんなナイキだが生まれもasicsのコルセアをパクってコルテッツとして売るっていう不義理なところから始まったブランドなので、カスみたいなことばっかりしてるのは平常運転かも知れない。
アディダスやプーマみたいな靴から生まれた会社じゃなくて、経営学の学生から生まれた会社だからどちらかというと、靴自体よりもその他周辺の物に魅力があると思う。
ナイキはスニーカーを少量生産して、希少性を持たせるというブランディング手法をとっているため、ほぼダメージがない。
みんなにスニーカーを持ち上げさせて、生産数絞って稼ぐって感じ。なので、コルテッツなどの有名スニーカーに関しても、数年単位で生産されてないこともしばしば。
結局この希少性による2次流通で余計に格差が広がるんだけどね。
じゃあ何が一番ダメなのかというと、ブランディングを崩壊させることだからフェイク品を履くことが一番ダメージがでかい。
全員が希少な靴を履けば価値の比較ができなくなって平等になるので。ちなみに偽物を履こうが履かまいが、少量生産なのでナイキの収益に違いはない。転売屋が泣くだけ。(在庫があるなら他社ブランド購入や不買の方が効果的だけど)
国内で偽物を買うとすれば、ラクマが偽物をめちゃくちゃ売ってるから、結局ナイキにお金を払うのか楽天にお金を払うのか、みたいな地獄の2択になってしまう。
偽物と言えば、マフィアにお金が回るとか児童労働が…みたいな話もあるが、ナイキも暴動の発端になるようなヤバい組織だし、児童労働もさせてたし変わらないかも知れない。
インスタで出回ってた工場のシーンでは、途上国の家族営業みたいな感じでフェイクスニーカーを作っているのは見かけたけど、子供はいなかった気がする。
ストリートカルチャーとフェイクは切っても切れない関係で、ダッパー・ダンの話などが見ていて面白いかも知れない。
第二次のスニーカーブームをざっくり語るとこんな感じだと思う。世間とネットの自論だし、メディアの説とは乖離してるかも。
1.スキニーブームで足元が目立つ この辺りでK-POPとかではスニーカーのブームがやや来ていた感じがする。
2.2016年にモアテンがアジア圏で発売される。 この靴は視認性を第一に作られたから、ここから火がついたと思う。
3.ダッドスニーカーが来る。 ここら辺から靴が強調される服装が多くなって来た気がする。
4.StockXが開始。 価格順でトップにDunk SB Low Parisが表示される。
5.リセーラーが中古で安くなったDunk lowを買い占める
なんか、それまでに2013年辺りとかは、「外し」として、きこりファッションと共にニューバランスやサッカニーとか地味目なのが履かれていた記憶があるけど、曖昧だからうまく言えない。個人的に世のアラサーはここら辺のまま地味目な靴を一生履いてるんじゃないかと思ってる。
2011年にも2014年にも2017年にも、何かスニーカーで暴動起きてるけど知らない。リベンジストームとかもう忘れた。オールドスクールが定番になって終わった。
そういえば2.の時点で視認性のあるスニーカーとオタクが相性良すぎて、ハイテクスニーカーのイラストがめっちゃ出たな。
(スプラトゥーンのおかげもあるかもしれないけど。)よふかしのうた とかが一番顕著でわかりやすいかも。
ここら辺でかなり広まったんじゃないかなとも思う。第一次の時はどうだったんだろう?遊戯王や格ゲーはスニーカー出てたよね。
第二次ではノームコアの流行りと共に「わかりやすさ」がより強調されてsupremeのボックスロゴとかが流行ってきて
オタクはとりあえずOFFWHITEだとかsupremeだとかを着てるイメージがある。
あとなんか謎にHUFとripndipを知っている。スケーターでもないのに…ジェルミクラインは知らない。
スニーカーの出る作品としては、ドロヘドロが一番世界観とマッチしてて好き。
これはマジで伝えたい。スニーカー好きがどんな考えなのかは知らないけど、個人的に好きな魅力が1つある。
スニーカーが貧富の差を逆転させて、ファッション史に名を刻んだこと。
ゴプニクだって金持ちに憧れて始まってるadidasジャージのファッションだし。ハイヒールだってそうじゃん。
ファッションショーはなんであんな奇抜な服作るんだ?着られねえよ、動きづらい。
とか思ったんだが、それが”狙い”らしくて、「動く必要もない」という部分に意味を持たせてるらしい。
ルブタンが赤い靴底なのも、絨毯以外で履かないみたいな理由だし。
でも、ラッパーなどが成功してセレブの仲間入りになった結果、ファッション史としては異例の事態が起きた。
あの、動きやすい、スニーカーを、なんならバッシュを。(ヴィトンはAVIAのパクリみたいなやつを作ってた)
貧民層のカルチャー(黒人文化の成功の証がスニーカーだったんだけど)が反映されたのが
個人的に、第一次と比べ、スニーカーの文化は随分オープンになった。
正直なところ、コレクションはあんまり意味をなさなくなった。(とはいえ気がつくと勝手に30足ぐらい溜まってたりするが)
と言うのも、ネットショップが発達していて「お金があればいつでもレアなスニーカーが買える」と言う状態になっている。
昔みたいにカタログを見て、毎日スニーカーショップに通って…なんてことはあまりないんじゃないかな。
唯一スケートショップでスケシューを買うときはある気がするけど。
だから、これ持ってます!ってアピールするやつはスベってて痛い。中身がない。
それこそ、適当に通ぶりたいならスニーカー売買サイトで値段の高い順で買えばいいんじゃないかって思う。
基本的にスニーカーもカードゲームなどと同じく、投資商品成り下がっているので
自分が好きだ!って思うデザインの靴を買ってみるといい。ポリシーを貫ける人の方がかっこいいと思う。
自分の持ってるものを、定価じゃなくて転売価格で語り始めるといよいよ"終わり"になる。
「AJ1だから」「つま先が黒だから」とか謎に正解を求め出す奴が多いけど、好きな物は理由なしにもっと胸張っていいと思う。
個人的に気に入ってるのは、セカストで手に入れたallstar w-punk xx-hiの30cmのやつ。
メンズでallstarのバカ長い靴は手に入らないから、vansのスノーブーツやasicsのボクサーブーツを買いかけた。
高いので言えばsupremeコラボのfoamposite oneやAF1 highの黒。最近のならStrangeLoveのDunkLowとか。
現代っ子って、コピーに対して寛容になっている。反動で現物に価値を見出したりするけど、そう言うのは逆張りでクールと見なされているだけで主流じゃない。
そんな感じのがスニーカーにも来ていて、インスタでちょっとした議論になったけど
フェイクを着るのは悪くないって考えの子が多くなったんじゃないかなと思う。
これに関しては序盤に話した希少性による格差に対するカウンターカルチャーかも知れないけど(カウンターカルチャーで食ってたナイキが食われるのは面白いね)
ラクマでは「dude9系」って言葉で質の悪い靴が売られてるから、見つけ次第通報した方がいい。
Dior x AJ1のフェイクも出るぐらいなんだから、セレブも大変だろうと個人的には思ったのだが
つまり、話題になったOFF WHITEのAJ1であっても数ヶ月経てば無価値とされてしまう(日常的に履いたりはあるかもだけど)
両方に言えることだが、スニーカー自体にそこまで価値はなくて、「セレブには物凄い人脈がある」ということをアピールしている。
回り回って言うと、オタクがモアテンみたいなわかりやすいスニーカーを好んで、絵に潜ませたり、自称スニーカーマニアがつま黒のAJ1 highにこだわるのも
言語として、相手とコミュニケーションを取るためであって、周囲あってこそのスニーカーになっている。
貧富の差があり、悩んだ末の行動がフェイクの着用かも知れないので、真っ向から否定はしないが。。
でも競争ばっかりしてないで、芯をもった上でルールに則った中での楽しみもあって良いと思う。
個人的にオススメするのは、日本限定の伊藤忠版ALL STARを履き潰すこと。
これは安く手に入るし、自分の個性が全面に出るし、他人には絶対に真似されない希少性のある靴ばかりだから、簡単に楽しめる。(履き心地はあんまりだけど)
当然ながら、靴は履く物であって、肩に乗せたり家に飾ったりする物ではない。
(そう言えば佐藤隆太も防水スプレーかけないし、スニーカーをスニーカーとして履いて楽しむタイプだった気がする。)
スニーカーマニアはCT70をやたら高尚な物だとするが、ナイキ傘下のコンバースは日本においてフェイクであり、フェイク批判してる奴がアレを履くのはダブスタじみてて個人的にあまり好きにはなれない。。
結構こういうマイナー叩きみたいなのは割とあって、ABC Mart製スタンスミスはクソだ直営を買え!みたいなのも国内だけでもあるんだけど、実際のところ直営版はシュータンが薄くてスネにぶっ刺さるとかあるから、あんまりライフスタイルを無視してイキる奴の話は当てにしない方がいい。
(abcmart製スタンスミスはシュータンにクッションがあって履きやすい)
ちなみに日本製のALLSTARも今やそんなクッション性に大差ないし、どちらも履けばすぐへたる。
ちなみにABC Martなどにある日本版ALLSTARは、品番すら書いてない物も多くアーカイブがしづらい。
内側がフェルト地のコンバースとか、アッパーが二重になったコンバースなどは今見つけることはできるのだろうか。。
関西に観光する場合は、柿本商店に足を運ぶといいかも知れない。
もっとマイナーで、とにかくスニーカーに関するアーカイブ知識だけを欲するならば
超マイナーモデル、カスタムモデル、PEモデル、チャリティーモデルの収集をおすすめする。
これらは球数が少なすぎて、フェイクすら作れないものも多い。(逆にネットに出回るコンセプト写真だけで再現したフェイクもあるが)
例えば最近ではNike Dunk Low Cactus Jack x PlayStation、製法上フェイクが作られにくいfoamposite one ParaNorman
Nike x MSCHF x INRI Air Max 97 Jesus Sneaker、WWWESH STUDIO™ x HEIGHTENED SENSE TN(c): NIKE® + CONVERSE®
日本人が当選してたUNHeardof × SABOTAGE × NIKE SB DUNK LOWやair32 x Nike Dunk SB Low "Stay Home"
世の中に存在するのか怪しい、triple S x AJ1 offwhite
PEシリーズの入門編としてのオレゴンダックスシリーズ、できるのならばF&Fモデル
アンダーグラウンドに手を染めて、没になってしまったコンセプトモデルの収集なども面白い。
古典芸術を含むかつての支配的な文化への対抗としてまずカウンターカルチャーがあって、テレビや映画や歌謡曲といった大衆文化がもろもろ生まれて、そこからマイナーなやつがサブカルチャーとひとくくりにされて、中でも漫画・アニメ・ゲームはオタクと呼ばれて日陰の存在であったが、誰でもコンピュータとインターネットを利用する時代になると、もともとその世界で幅を利かせてきたオタクが支配的な存在になっていって、かつてオタクを白眼視していたような人種もコスプレしたりアニソン歌ったり演奏したりでオタク文化に媚びるようになったという流れ。
古典なんかなんも知らない矢沢永吉とか浜田省吾とかBOØWYとか浜崎あゆみとか好きそうなヤンキーにオタク趣味を馬鹿にされて嫌な思いをしてきたオタクのほうがはるかに多いだろう。
犯罪行為を悪い物として描かず賛美しているし、影響されて真似する馬鹿が出て有害(強力効果論)
権力に対峙する訳でもなく、無関係な人間のバイクを盗んでるだけで反抗にも何にも成って居ない
最近の曲だと「香水」とかもカスだよね、浸ってんじゃねぇよ馬鹿、って話、「15の夜」も「香水」みてぇなもんだな
結局ただのポップソングでカウンターカルチャーでも何でも無いし、無価値だよね
価値観のアップデートのコツは加害者、強者とされる側(ヘテロ男性)への共感を抹消し、想像力を消滅させる事
幼いころ、何かのイベントでフェイスペインティングをやる機会があったのだけれども、当時の僕は顔に何かが付着するのが不快に思われて、断った記憶がある。
それ以来、身体に何かを塗ったことはない。皮膚科の薬くらいか。女性の場合、ファウンデーションを使うので、フェイスペインティングは男性よりも抵抗が少ないと思われるのだがどうだろう?
それはともかく、同様の理屈でボディペインティングはやったことがない。とはいえ、ドラえもんの学習漫画で、水着を忘れたのび太が絵の具を塗ってごまかそうとするが、前だけを塗って尻を塗り忘れて恥をかく場面があり、それが自分の野外露出・CFNM願望とマッチしていたのを思い出す。気づいたしずちゃんが顔を覆って赤面しているのも高ポイント。
実際に水着やショートパンツを描いて野外を全裸で徘徊する女性の動画は、各種動画サイトで閲覧可能だ。
人々が顔や身体を様々な色彩で飾ってきた歴史は長く、世界中で見られる。ブラックベリーやサフラン、粘土や木炭などで様々な色合いが用いられてきた。つまり、赤、黄色、青、黒、茶色などが利用できたわけである。
欧米では、顔や腕を塗ることが多かったし、今でも大道芸人やピエロなどもそうだ。全身をカンバスとして用いるのがメインストリームの芸術やファッションに導入されたのは、1933年のシカゴの万国博覧会でだった。Max Factorがバーレスクの大女優Sally Randを映画のためのモデルにしたが、裸を公衆の面前に出すのは同時としては当然挑発的に過ぎたし、社会的通念からは外れていた。そして、全裸のアートは人気にならなかった。
これが60年代から70年代のヒッピー文化の時代になってくるともう少し人気が出てくる。花やピースサイン、その他サイケデリックな模様を、大義を信奉していることを表現するために描いた。今でも海外のヌーディストたちがワークショップか何かで全身にそうした絵を塗っているのを確認できる。くすぐったそうである。この時代もまだ、カウンターカルチャー的なもので、主流ではない。
革新的であったのが1992年、Vanity Fair誌をDemi Mooreが飾った時だ。彼女は全くの裸であり、芸術的でかつタイトなスーツを着ているようにみえるペイントをしていたのである。今までこうしたものがメインストリームの前面に現れたことはなかった。
一応、乳首が見えているので、直接のリンクは張らない。Demi’s Birthday Suitで検索してほしい。
身体に名画を直接描いたり、人体の形を活かして生き物の姿を描いたりする。全裸も多いのでリンクが晴れなくて申し訳ない。中には会田誠の作品のように、セクシーさというよりはシュールさで有名なものがある。漫画のすごい顔の絵を描いていて、おっぱいに目がある。たぶん現代美術好きな人だったら見たことあると思うのだけれど、ものによっては普通に割れ目までも見ているのでリンクしない。女性器は猥褻だとは思わないが、残念ながら規約違反になってしまうおそれがあり、ブルマーの記事まで削除されてはたまらない。
例えば「アバター」なんかの映画で用いられるメイクアップで用いられる。他にも、Playboy誌が時折ボディペイントを使うことがある。2005 年のカレンダーでは皆がビキニを着る中で、Karen McDougalやHiromi Oshimaはボディペイントだった。そのほか様々な広告でも用いられる。
フットボールの試合、レイヴパーティー、その他の祭りなのでボディペインティングが行われる。また、国際的なボディペインティングのフェスティバルもあるようだ。World Bodypainting Festival(1997年より開催、50か国以上より3万人が参加)など。
Fantasy Festなるフロリダのストリートパーティでも用いられるようだ。おそらく、全裸・半裸になりたいけれどもファッションは楽しみたい、という需要にボディペインティングは応えている。
PETA(動物の倫理的扱いを求める人々の会)が動物の模様を身にまとって抗議することがある。また、全身を様々な色で塗っている写真も英語版のウィキペディアで確認できた。
いい機会なのでPETAについての記事を斜め読みしたのだが、増田ではよく叩かれているとはいえ、捨てられたペットの保護や、ヒツジの臀部から皮を剥ぎ取るミュールシングの代替手段の模索に向けての活動については知らなかった。もっとも、セクシーな抗議がフェミニストの怒りを買っていたり、殺人・虐殺の犠牲者と屠畜された動物を同列に並べて猛反発を受けていたりしてもいるようだ。
一番安全。すぐに落ちてしまう恐れがあるが毒性がなく、アレルギーもほとんど引き起こさない。加えて、石鹸と水ですぐに落とすことができる。手入れが必要で長続きしないが、皮膚の敏感なひとや妊娠中の女性に適している。
汗や水に強いのが特徴なので、夏の音楽フェスやパフォーマンスに適している。落とすときには専用のリムーバーを使うか、アルコールで拭く必要がある。ただし、少し時間がかかる。
ラテックスや油性の画材は全身を塗るのに適しており、目を引く視覚的効果を上げられるし、芸術的な目的にも使われる。取扱説明書を事前にしっかり読む必要があり、塗る前に全身の毛をとり除くひつようがある。毛が残っていると脱毛ワックス的になって痛いためだ。
多くの化粧品に含まれているのと同じもので、前衛的な外観を作りやすく、長続きするが、割れたり摩耗したりしやすい。利点としてはアルコール系と同じように汗や水に強いことが挙げられる。しかし、完全に乾燥することがないので、仕上げのスプレーやパウダーで駄目になるのを防がないといけない。
アジアやアフリカの熱帯地域の植物から採れる色素で染める。髪を染めたり、ボディペインティングの材料にしたりするだけでなく、繊維を染めるのにも用いられる。落とせるタトゥーとしても使われる。
Brown hennaは基本的には天然素材で毒性はないが、black hennaは金属が含まれており、長期にわたって使われると皮膚を害する恐れがある。
多くの人がボディペインティングのときに実際に何を着ていくか迷うらしい。特に野外で行うときには最低限、皮膚の色に近い紐パンや、ペイスティース(乳首の前貼り)だけを身にまとうことがある。トイレに行くときにはローブが必要であり、加えてペインティングスタジオは寒いことがあるとのこと。
WNBR(ワールド・ネイキッド・バイク・ライド)なんかだと普通に全裸に人もいるし、そういうイベントでだったら全裸も普通にOKだろう。
今回は、野外露出目的ではないボディペインティングについて調査した。今後は、ヘナタトゥーなどについてももう少し情報を得たい。
また、ヌーディズムそのものの歴史、ストリーキング、ムーニング(尻を見せる行為)などについて調査予定である。すなわち、身体が自然と触れ合う喜び、抗議・無防備さの象徴としての全裸、宗教的な全裸、それから、祝祭としての全裸についても調査したい。
Significance and Origin of Body Painting - Lynn Schockmel Body Art
History of Body Painting - Facts and Types of Body Painting
History of Body Painting - Ancient Body Paint Art