はてなキーワード: オーディオコメンタリーとは
Blu-rayで見るなら、1回目は吹き替え、2回目はオーディオコメンタリー+字幕だな。
皆さんはライブの映像を収録したBlue-rayやDVD(以下ライブBD、BD)を買いますか?
買うとしたら、それはどちらのBDが多いですか?
後者が少ないのは、私自身が関東住まいという事もあり、見たいライブがあれば足を運ぶからという理由ですが・・・。
1度見たはずなのに、何故映像を手元に置きたいと思うのか?
自分なりに考えてみました。
あくまでも私の場合ですが、BDを買う目的は、それを見ながらその日あった事を振り返ったり、友人たちと一緒に見て共有するためです。
「ここでこの曲が来て盛り上がったね」とか、「このMCが面白かったね」「企画コーナーが楽しかった」「そうそう、こんなハプニングもあったね」といった事を振り返る事を楽しみにBDを買います。
そのため、BDを買う際は事前に必ず確認する事があります。それは「公演内容が全て収録されているか」という事です。
つまり、MCだったり、その日のライブならではの企画コーナーだったり、そういうものも含めて「全て」入っているか、という事です。
良い例としては、水樹奈々さんのライブBDは上記の内容を全て網羅したものとなっており、かつ映像特典も充実していて大変素晴らしいBDです。
売れ行きも大変好調で、おそらくライブに足を運んだ人の多くが買っているのだろうと思います。
また、ライブBDを見た事がきっかけで「水樹奈々のライブに行ってみたい」と思った新規のファンがいたとしても、きっと違和感なく入っていけるのではないかと思います。
しかし、全てのBDがその方式を取っているわけでないのが実態です。
これは私の好きな某アーティストの話になりますが、そのアーティストはライブの際に必ず企画コーナーをやっています。
企画もツアーをやる時は会場ごとに内容を変えたりして、結構手のこんだものになっています。ファンとしてはライブに行く楽しみの1つです。
しかし、これがなぜかBD収録時にはカットされます。丸ごと。まるで最初から無かったかのように、です。
その結果、アーティストが歌ってるだけのライブBDが出来上がるわけです。(MCはカットされてないけど)
…それでは、意味がありません。
私が欲しかったのは「あの日見たもの、体験したもの」なんです。
なのに、映像が欠落している。言ってしまえば記憶喪失みたいな状態です。
そのため、その某アーティストのライブに関しては、関東での開催であれば必ず参加し、関東以外の開催でもたまに遠征しますが、BDは買いません。
ライブの内容に不満は無いですが、ライブBDの内容には不満が残るので・・・。
そしてこの某アーティスト、BDの売上がすこぶる悪いです。つまり、私と同じ「行って満足、BDはイラナイ」という人が多いという事です。
また、これは上記とは別のアーティストですが、友人の好きなアーティストのライブはBDにMCが収録されていないという事で、友人が不満を漏らしていました。
ここまで不満をダラダラと書いてきましたが、もちろん「収録出来ない理由」だってきっとあるに違いないでしょう。
例えば「不適切な言動があった」とか、「映像収録するにはそもそもクオリティが低すぎる」とか?
前者の場合は仕方がないと多少の諦めはつきます。しかし後者はどうでしょうか?
もし後者の場合であれば、キツイ言い方をしますが、BDに収録する気がないんだったらそもそもステージ上でそんな企画やらなきゃ良いんですよ。
仮に、ライブBDをきっかけにそのアーティストのライブに興味を持った人がいたとして、いざ参加してみたら、収録されない企画コーナーを見てギョッとするのではないでしょうか。そういった点でも、あまり良い効果があるとは思えません。
ただ、私は楽曲、MC、企画コーナー諸々含めてそのアーティストのライブが好きです。好きなので足繁く通うわけですし、だからこそBDに収録して欲しいという思いが強いです。
まとめになりますが、私が一番言いたい事は、
という事です。
某アーティストも、「初めてのオーディオコメンタリーを収録しました」とか言う前に、まずは「ライブの模様を完全収録しました」と言ってください。完全収録してください。
そうでなければBDは買いません。買いたくありません。
ライブには行きます。しかし、ライブに行った思い出は時間と共に薄れていくものです。
だからこそ、思い出を振り返るためにも記憶喪失でないライブBDを販売してくれる事を、(某アーティストに限らず)切に願います。
予約本数が一定数増えるごとに商品仕様が豪華になるという受注生産方式で、
この度無事最高仕様となる3000本の予約に到達したようだ。
http://www.heybot.net/project-H/
これでDVD-BOXには
1:映像特典
7:スタッフ本
が付属されることになった。
DVD-BOXを買えばBlu-ray BOXが手に入るという荒唐無稽さこそ、
なお、この達成を記念して10月20日から11月10日まで追加受注受付を行うとのことだから、
Blu-rayなら買うと思っていた人はチャンスだぞ。
さらに当初の期限である15日までに予約した人には「ネジが島マイナンバーカード」もプレゼントされるそうだ。
変なミニゲームより、適当な1話を流してオーディオコメンタリーなしゃべりをしてもらったほうがいいという点には同意。
シューゴ:妙に人気だよな。モブキャラらしいんだが、その割にキャラデが凝りすぎじゃないか?
マスダ:キャラデザイナーの興が乗ってたんでしょうかね。声優の方もいい仕事してくれたというか、ハマり役でしたね。
シューゴ:ああ、『ヴァリオリ』のリ・イチと同じ子か、そういえば。
マスダ:あれ、リ・イチの声に起用したのって、そこで評価を上げたからだと思ってましたが。
シューゴ:オレはそういうエコヒイキしねえから。事務所がゴリ押してはいたが。
第5話
マスダ:おや? これ、シューゴさんにしては随分と不自然なストーリー構成ですね。
シューゴ:オレとしては原作からあるものとはいえ、欠点までそのまま再現するのはどうかと思っているんだけどな。『原作再現だから』は言い訳にならない。欠点は欠点。
マスダ:媒体が変われば表現方法だって変わるのは当然ですが、それでも残したんですね。原作と、そのファンを尊重したと。
シューゴ:それもあるが、どちらかというと当時はオレがクリエイターとしての自意識が枯れ気味だったのが理由だなあ。どうも身が入らなくて、消極的だった。
マスダ:まあ、シューゴさんだけじゃなくて、現場全体が緩いムードでしたよね。予算は過剰気味で、当時スタジオが携わっていたのもコレだけでしたから、スケジュールもユルユルだった。
シューゴ:ただ経営状態を分かっている関係者からすれば、かなりヤバい状態の前振りではあったんだよな。自転車操業でやってきたスタジオが、一本のアニメに金も時間も人手もかけるって。
マスダ:とはいっても、上がコレ以外の企画持ってこれませんでしたからね。仮に状況を分かっていたとしても、現場のスタッフが出来るのは目の前のアニメを作ることだけだったでしょうし。
シューゴ:……オーディオコメンタリーで話すことじゃないな(笑)
マスダ:まあ『ヴァリオリ』で当てて、スタジオが持ち直したからこそ出来る話ですね(苦笑)
シューゴ:今さらだが、キャラクターのリアクションがオーバーだなあ。さすがにちょっと疲れてきたぞ(笑)
マスダ:ここまで休みなく収録していますからね、オーディオコメンタリー(苦笑)
シューゴ:オレはこの手の作品に慣れているが、改めて考えてみると独特なノリだよな。
マスダ:漫画だとそれ位でも丁度いいのかもしれません。アニメだと様々な情報が付加されて視覚から聴覚から入ってくるから、それ目線で観てみるとちょっとクドくなるのかも。
シューゴ:自分でやっといて何だが、いま観てみると構成がちょっと過剰な印象もあるな。常に誰かが喋ってて、サウンドエフェクトやら劇伴が流れ続けている。一部から「音も画面もうるさい」って言われるわけだ(苦笑)
マスダ:この当時のシューゴさんって「間」を作ることをかなり怖がっていた節がありますよね。「絵でも音でも何でもいい、とにかく騒ぐのをやめるな。騒ぐのをやめた時点で視聴者は観るのをやめる」とか言ってました(笑)
シューゴ:言ってた気がする(苦笑) でもプロットが会話主体だからなあ。過剰だと分かっていても、これ位しないとキツいと思っていた。
マスダ:そういえば劇伴についても触れておいたほうがよいのでは?
シューゴ:とは言ってもなあ。いわゆるこういう日常モノって、曲調がすごい似たり寄ったりになるんだよ。
マスダ:ああ、あまり気にしたことありませんでしたが、言われてみれば。控えめで、主張してこない感じ。音源も似たようなものが多いですよね。
シューゴ:一応、これでも工夫はしている方なんだけどなあ。ほら、例えばここ。
シューゴ:そうか……だったらいいや。
マスダ:あ、「観賞用の花が、高嶺の花とは限らないだろ」ってセリフはここで出てくるんですね。
シューゴ:ここかあ。ネットスラングのイメージが強くなりすぎているから、実のところオレも正確な文脈を忘れてたんだよなあ。
マスダ:このセリフ言ったのって今話限りのモブキャラだったんですね。ということは、ネットで出回っている画像はコラか。
シューゴ:使い方もちょっと違うよな。ネットだと「分不相応な扱いをされている対象や取り巻きへのツッコミ」みたいな使われ方だが。行き過ぎた接触を図ろうとするアイドルファンの独善的なセリフで、どちらかというとボケとして使うのが正確なんだな。
そのブルーレイボックスの特典として、プロデューサーだった父と、監督のシューゴさんによるオーディオコメンタリーが収録されているらしい。
父が携わった作品とはいえ、作風が肌に合わないので個人的にそこまで興味がなかったのだが、オサカが見せてくれるというので一緒に観ることにした。
第1話
マスダ:はい、どうも。『女子ダベ』をご覧の皆さま、こんにちは。プロデューサーのマスダです。
シューゴ:監督のシューゴです。このオーディオコメンタリーでは、オレたちならではの制作よもやま話をしていこうかな~と。
マスダ:まずはオープニングですね。
マスダ:歌詞が聞き取れないですね……作詞と作曲、だれでしたっけ?
シューゴ:えー、作詞はマーク・ジョン・スティーブ、作曲はスズキサトウっていう人だな。
マスダ:あー『ヴァリアブルオリジナル』と同じ。ある意味で納得。
シューゴ:うわあ、ここのダンスするところ。改めて観てみたが、すごい枚数使ってる。過剰気味な予算を象徴するようだ。
マスダ:とはいえオープニングですからね。視聴者を引き込むためにも、まあ多少は。
シューゴ:これ、振り付けとかはテーマあった気がするけどなあ、あんまり覚えていない。絵コンテとかに書いてあったりしない?
マスダ:えー……振り付けの細かな指摘はありますけれど、どういう意図かは書かれていないですね。
シューゴ:うーん……あ、本編始まったぞ。
マスダ:第1話というのもあるんでしょうけど、すごい動きますね。
シューゴ:このあたりも過剰な予算配分を象徴するシーンだな。主人公が大した理由もなく走っているだけのシーンでこんなに枚数使われても感動しようがない。
マスダ:ド派手なアクションシーンとかで作画が美麗になったりするのは、それがより効果的だからなんですよね。メリハリがあることで映える。
シューゴ:そうそう、演出意図があるからこその神作画。だから、これは無駄遣い(苦笑)
マスダ:(笑) とはいえ本作はキャラの会話が主体というコンセプトですからね。普通に作ってたら口くらいしか動かすとこないので、これ位が丁度いいのかも。
シューゴ:作画といえばキャラの動きばかり褒められるが、美術背景にも注目して欲しいところだな。
マスダ:ここの背景美術は……虎美堂ですかね。
シューゴ:特徴的だからすぐに分かるよな。だが第1話だけなんだよな、虎美堂が手がけたの。
シューゴ:いや、演出的意図がちゃんとある。第1話は主人公の転校初日の話で、彼女にとっていわば未知の場所だったからな。その不慣れな間の、居心地の悪さを表現するため。
マスダ:だから、あえてキャラクターの画風から浮いている、非現実的なデザインをお願いしたってことなんですね。
シューゴ:そうそう、ほら、ここの主人公が家族と話しているときはリアリティ寄りの背景なんだよ。
マスダ:あ、本当ですね。ここも虎美堂が?
マスダ:ここ、実在する場所なんですかね。ファンの間では熱心に検証が行われていますが(笑)
シューゴ:特別これといったお願いはしていないが、もしかしたらあるのかもなあ。背景美術の人のみぞ知る。
正確に言うと、たとえるならばある議案が決まったとかそういう事柄は「ふーんそうなんだ」と納得までは出来るんだが
その議案はどこの層に良くてどこの層には都合が悪いだとか、他の事柄をピックアップしてこれとは相性が悪いんじゃないの?とか
多面的に見ることや、多面的に情報を収集するのが苦手だ。政治自体に興味を持つ事ができないのも原因なんだろう。
中学受験の時見ていた週刊こどもニュースのような誰か解説してくれる番組か何かが出てこないかなと常々思ってる
国会の中継にオーディオコメンタリーを入れ、関連したニュースも流すコンテンツなんかあったら面白そうである
アニメ作品のブルーレイとかよくオーディオコメンタリーが特典で付いてるじゃん
でもオーディオコメンタリーを見て冷や水ぶっかけられた気分になったことしかないんだよね
で、楽しさ度数は変わると思う。
あれ原作からして説明しないことが多いのだが、アニメもかなり説明しない。
感想検索したらある漫画家?が「原作にあった妊娠シーンが無くて」とか書いてて「ファッ!?」となった。
と、すると…やはりあの作品からどれだけの情報量を読み取れたかで、感想も少し変わるし、疑問点も変わりそうだ。
(君の名は。とかもそんな映画だったな。説明せずにガンガン進んでいく。おばあちゃんがパパを説得してたシーンとか)
アニメシナリオ作家に多い典型的欠点である『説明過多』がむしろもう少しあっても良いほど無い。
でも君の名は。もそうだが、そんなものを望んでたのかもしれない…。果たして自分は、いつも身の回りにある全ての物を理解して生きてるだろうか。
例えばこのシーンが理解しているかで、解釈が変わるのではないか。
全然書き切れてないけど、つまりこういう映画で情報量が半端ない。正直自分も全然把握しきれていない。
説明はしてくれない。だから一度見ただけじゃすべてを捉え切れない。
あのEDロールでアレが周作だと気づかない人も居るとか。
欲を言うなら円盤の方で監督のオーディオコメンタリー(解説説明)をつけて販売してほしいです。
※追記 わかりやすく訂正
リンについては読者は「分からない」って言うだろうけど分からない人は原作見たくなるし
映画だけでも注意してみれば察することができるようになっている
特典沢山なんて知らんかったわちょっと調べてくる。
・キャラクターデザイン:中村直人描き下ろし身蓋式BOX
■音声特典
■映像特典
・WEB予告(第2話、第3話)
・ノンクレジットオープニング
…………こんだけっすか
豪華かなあ?
『レヴェナント』を観た。
監督の前作『バードマン』に比べて難解で、現段階ではテーマがさっぱり分からないのだが、主に海外サイトの議論を参考に、テーマの考察をまとめておくことにした(これを踏まえてオーディオコメンタリーやインタビューが出るのを待つことにする)。
そこで以下、結論、難解な理由、様々な視点からの問題提起、現段階で考えられるテーマ(妄想)の順に書いていくことにする。
考えながら書いたので、思ったより文章が長くなってしまった。結論を先に書いておく。
『レヴェナント』をそのテーマに基づいて要約すると次のようになる。
主人公グラスは、その人生の全てであった息子ホークを殺されたことで、生きる意味を見失い、死亡する。 しかし、息子を愛する気持ちにより、死と再生を繰り返し、野生動物に生まれ変わってまで生き残り、宿敵フィッツジェラルドのもとにたどり着く。
最後の戦いではフィッツジェラルドに瀕死の重傷を負わせた末、神の代行者リーによる神罰を引き寄せ、息子の敵を討つ。 息子を失い、復讐という目的も失ったグラスの精神は崩壊し、(ブチャラティ的な意味で生き延びていた)肉体もついに死を遂げる。
本作のテーマは、親が子を愛する気持ちがいかに強く、大きいものか、ということである。
『レヴェナント』のストーリーを単純に言えば、「復讐心に捕らわれた男が、大自然の中で死闘を繰り広げるが、最終的に復讐をやめる話」である(図式的に表現すれば、『大いなる勇者』+『デルス・ウザーラ』である)。
このストーリーを見たとき、すぐ連想するテーマは、①復讐のむなしさであったり、②大自然と対比された文明の批判である。
しかし、①復讐のむなしさがテーマだと言い張ることには疑問が多い。というのも、(後述するように)復讐をやめた後の主人公の表情は発狂寸前のそれである(復讐を完遂して破滅するか、中止して救われるかの方がテーマとしては明確なはずである)し、監督自身インタビューで復讐の物語を描くこと自体には興味がないと答えているからだ。
さらに、②文明批判がテーマだと言うのも苦しい。というのも、この映画には文明に対する疑問が提示されることがないからだ(『デルス・ウザーラ』のデルス、『大いなる勇者』のジョンソンのように、文明と対立する人物が出てこない)。
ということで、『レヴェナント』は単純なテーマで理解することが困難である。
『レヴェナント』は昔の映画からたくさん引用をしている上、宗教的に意味ありげな要素がたくさん散りばめられている。さらに監督の過去の作品との整合性まで考慮に入れるとすると、どの要素にどの程度力点を置いて物語を解釈すれば良いのか分からないという問題があり、これがテーマ理解の妨げとなっている。
(2)と関連するが、『レヴェナント』ではタルコフスキーの諸作品(『僕の村は戦場だった』、『鏡』、『ノスタルジア』、『アンドレイ・ルブリョフ』)からの引用が多数なされている(これを分かりやすくまとめた動画がある:https://vimeo.com/153979733)。
しかしタルコフスキーの作品と言えば、それ自体が難解映画の筆頭である。そこからの引用となると、どういう意図なのか(タルコフスキーの意図をそのまま継いでいるのか、ただタルコフスキーの表現が気に入ってやりたかっただけなのか)が皆目検討がつかないのだ。
そういうわけで、『レヴェナント』は難解な映画なのだが、海外のファンサイトでいくつか有力な問題提起がなされていたことから、これをいくつかまとめておく。
まず、イニャリトゥ監督の過去の作品では、「うまくいかない親子の関係」が描かれることが多い。
監督の前作『バードマン』では、監督そっくりの父親が、娘に全く愛されず尊敬もされていないことに気が付き、悩む様が描かれる。また、デビュー作『アモーレス・ペロス』では、マルクスそっくりの元反政府活動家が、活動のために家族を捨てたことで愛する娘と会えず、悲しむ様が描かれている。
これらの作品に比べ、『レヴェナント』は異質である。というのも、主人公グラス(ディカプリオ)と息子ホークの関係は互いに愛し合っているからだ。
この点をどう評価するのかがまず1つの問題である(問題点α)。
前作『バードマン』で、主人公は、演技に悩んだ末、舞台で拳銃自殺をする場面で、拳銃に実弾を込めて自分のこめかみに発射する。その死を賭した演技が絶大な評価を受け、主人公は自らの弱さの象徴であるバードマンを打ち倒すことに成功する。
こうした死と再生のイメージは、映画でよく用いられるモチーフである(『鏡』、『8 1/2』など)が、『レヴェナント』ではこれが3回(数え方によっては2回とも4回とも)も行われる。
① 熊に襲われ瀕死となり、フィッツジェラルドに埋葬されるが、立ち上がる。② インディアンに追われ、川に流されるが、生還する。③ 崖から落下したのち、馬の中に隠れ、回復する。
ではそれぞれ、何に生まれ変わったのだろうか。前作『バードマン』で主人公は、拳銃自殺ギリギリのことをすることで、弱さ(バードマン)を克服した強い人間に生まれ変わった。では本作ではどうか。
これについて、海外サイトに面白い考察があった。グラスは死と再生を繰り返すたびに、野生動物に生まれ変わっているというのである。
まず最初にグラスは熊に生まれ変わっている。その表れとして、グラスは熊の毛皮を着て、首に熊の爪のネックレスをしている。さらに川で魚を手づかみにし(木彫りの熊)、それを生のまま食べている。
次にグラスは狼に生まれ変わっている。その表れとして、インディアンにバッファローの肉をもらう際、四つんばいになって人間にへつらっている。そしてインディアンが肉を投げると、これを貪るように食っている。
さらに、グラスは馬に生まれ変わっている。これは冷たい夜を生き抜くために、馬の死体の中に隠れ、後に這い出ていることから明らかである。
最後の戦いにおいて、グラスは牙と爪で戦う肉食獣に生まれ変わっている。これは、銃を放棄し、斧(牙)とナイフ(爪)で戦っていることに表れている。
上記の見方はそれ自体面白い見方だと思うが、これによって何が言いたいのか、というのはまた1つの問題である(問題点β)。
なお、グラスが当初の瀕死状態から山を走るところまで回復するのは、死と再生を何度も繰り返すからだという見方があった。
先に貼った動画(https://vimeo.com/153979733)から明らかなように、『レヴェナント』ではタルコフスキー作品からの引用が非常に多い。
そのうちよく解釈に影響を与えそうなものとして挙げられるのは、「宙に浮く女性」、「ラストシーンでグラスがこちら(観客側)を凝視する表情」、「鳥」、「朽ち果てた教会」、「隕石」である。
このうちここで取り上げたいのは、「ラストシーンでグラスがこちら(観客側)を凝視する表情」である。他の引用は解説が面倒くさすぎるので各自ぐぐってほしい。
この表情の元ネタは、『僕の村は戦場だった』である。この映画の主人公イワンくんは、ソ連の少年兵であるが、母と妹をナチスによって殺害されている。問題の表情は、そんなイワンくんがナチス軍相手に戦闘を仕掛けるシミュレーションを1人でしていたときのものである。
つまり、この表情は、純粋で愛に満ち足りていた少年の心が、ナチスへの復讐心で歪み、壊れかかるときのものである。
これをそのまま『レヴェナント』のグラスに類推するならば、グラスの心は最後の戦いの後、壊れかけていたことになる。
しかし、『僕の村は戦場だった』と違い、『レヴェナント』では復讐を止めた後にこの表情をしている。そのため、イワンくんの内心をそのままグラスに類推していいものか、グラスは最後にどういう心境だったのか、という問題が生じる(問題点γ)。
イニャリトゥ監督はインタビューで、目指している映画として以下の5本を挙げている。
① 黒澤明『デルス・ウザーラ』② コッポラ『地獄の黙示録』③ タルコフスキー『アンドレイ・ルブリョフ』④ ヘルツォーク『フィッツカラルド』⑤ ヘルツォーク『アギーレ/神の怒り』
共通点は、いずれも撮影に困難が伴った映画であるということである。
①『デルス・ウザーラ』では秋の風景を撮るはずが雪が降ってしまったためソ連軍を動員して人口葉を木に付けた、②『地獄の黙示録』では台風でセットが全て崩壊した、③『アンドレイ・ルブリョフ』ではソ連当局の検閲が通らず製作から公開までに10年以上の歳月を要した、④『フィッツカラルド』では実際に巨大蒸気船を滑車を使って山越えさせた、⑤『アギーレ/神の怒り』では撮影の過酷さから引き上げようとした俳優を銃で脅した、などなどの多数のエピソードがある。
そうすると、「テーマとかどうでもよくて、むちゃくちゃつらい撮影がしたかっただけなんじゃ・・・」という疑念が湧いてくるのである(問題点δ)。
これはグラスが途中で出会った一匹狼のインディアンの言葉だが、意味は正直言ってよく分からない。
ただ、ラストシーンでグラスが復讐を委ねた相手はインディアンのリー(誘拐されたポワカの父親)である。このことから海外サイトの中には「リーは神の手、すなわち、神の復讐の代行者である」との解釈が多く見られた。
イニャリトゥ監督の作品のテーマはいずれも生きる意味にまつわるものであるが、この点に関してグラスが2つの重要な言葉を残している。
“All I had was my boy... but he took him from me.“
「私にとって息子は全てだった。しかしフィッツジェラルドは私から息子を奪った。」
“I ain't afraid to die anymore. I've done it already.”
「私はもう死ぬことを怖れていない。私は既に死んでいる。」
息子が全てだったという台詞は、グラスの生きる意味が息子にあったことを示している。そしてこれは、デビュー作から親子の関係を描き続けてきた監督自身の言葉でもあるだろう。
息子がフィッツジェラルドによって殺害されたことで、グラスは生きる意味を失う。代わりに「復讐」という意味を見出したかのようにも見えるが、それによって再生した姿は上述したように、野生動物の姿である。
このことからすると、私は既に死んでいるという台詞は、「生きる意味を失ったことで、人としては既に死んだ」ということを意味するのではないだろうか。
海外サイトの掲示板などで最も熱く議論されている論点は、グラスは死んだのか?という点である。
これが問題となる理由は、①復讐モノの物語は復讐者の死で終わる場合が多いということと、②戦いに勝利したとはいえグラスも致命傷を負っていること、③スタッフロールが始まってもグラスの吐息が聞こえること、といった事情があるからである。
さらに映画外の理由であるが、④前作『バードマン』においても主人公が最後に死んだのか死んでいないのかで論争があったこともこの議論に影響を与えている。
死んだ説に立つ人は①②の事情を挙げ、死んでないよ説に立つ人は③④の事情を挙げている状況にある。
しかし、これもテーマとの関係で考える必要がある(問題点ε)。
これらを踏まえて、現時点で筆者なりに『レヴェナント』のテーマについて考察してみたいと思う。
結論:
「親子」というテーマは『レヴェナント』においても依然として維持されている。
その根拠は、(a)グラスの息子ホークというキャラクターは史実に存在していないのにわざわざ登場させたこと、(b)監督がインタビューに対して、息子を登場させたのは親子関係を題材にすることで物語がより複雑で充実したものになると考えたからだと答えていること、(c)デビュー作から前作まで延々親子関係をテーマにしてきた監督が、ここに来て生涯のテーマを捨てたとは考えにくいこと、である。
② しかし、「親子」というテーマに対する切り口が、前作までとは違う。
前作までの切り口は、分かり合えない親子の問題をどう解決するか、というものであった。『レヴェナント』はそうではなく、子供を生きる意味としてきた親が、子を喪失したとき、どうなってしまうのか、という切り口で「親子」というテーマに迫っている。
その根拠は、(a)グラスが息子ホークが人生の全てであったと言及していること、(b)グラスが息子を失ったことで一度死んだと(解釈しうる)発言をしていること、である。
結論:息子ホークを失ったことで、グラスが生きる意味を喪失し、結果、人間としては死んだということを表現している。
その根拠は、(a)野生動物へと生まれ変わるタイミングが、息子ホークを失ったことをグラスが認識した時点からであること、(b)グラスが息子を失ったことで一度死んだと(解釈しうる)発言をしていること、である。
結論:グラスの精神が壊れ(かかっ)ていることを意味している。
その根拠は、(a)元ネタである『僕の村は戦場だった』のイワン少年がやはり精神が壊れかかったときにこの表情をしたということ、(b)息子ホークという生きる意味に加え、復讐という一応の生きる目的さえ失ったグラスには、これから生きる意味が何もないこと、である。
結論:グラスは死んでいる。
この問題は前作『バードマン』で同様の問題が争われたときと同様、作品のテーマから考えなければならない。
前作『バードマン』で主人公の生死について争いになったとき、生きている説が有力となった理由は、作品のテーマが「『中年の危機』を迎え、娘ともうまくいっていない父親が、この先どう生きていけばいいのか」というものであったという点にある。つまり、主人公が死んでしまうとこのテーマとの整合性が取れないのだ。
しかし『レヴェナント』では、主人公は既に自分は既に死んでいる旨を明言し、生きる意味を新たに獲得した様子も認められず、その心は壊れかけている。
ここからは解釈が分かれるところだが、『レヴェナント』のテーマは「親が子をいかに愛しているか」という点にあるのではないか。
グラスは本人が言うように、息子ホークの死亡を確認した時点で、死んでいた。それにもかかわらず死と再生を繰り返し、フィッツジェラルドのもとにたどり着いたのは息子を愛する精神の力(つまりジョジョ5部のブチャラティ的な意味で生きていただけ)によるものではなかったか。
フィッツジェラルドを打ち倒し、インディアンのリーによる神罰を引き寄せた時点で、彼の精神は崩壊し、肉体的にも精神的にも死亡したのではないだろうか。
赤城だか加賀だか知らないが、お前らがアニメのオーディオコメンタリーなんかをしっかり聞いてることに驚くわ。
ここ半年で見たアニメ映画のなかで、強く印象に残る作品が2つある。「リトルウィッチアカデミア 魔法仕掛けのパレード」と「KING OF PRISM by PrettyRhythm」だ。
どちらも非常に優れた作品なので、知らない人は覚えて帰ってほしい。
キンプリことKING OF PRISMは好評上映中で、リトルウィッチアカデミアはNetflixで配信しているはずだ。
それぞれ1時間程度の短編映画なので、あまり身構えずに見ていただきたい。
これら2つの作品が優れているのは、ひとえに制作スタッフの熱意によるものだ。
しかし監督の方向性の違いにより、その特質が大きく異なっている。
端的に言うと、「リトルウィッチアカデミア」は作画を楽しむアニメであり、「KING OF PRISM」は演出を楽しむアニメである。
リトルウィッチアカデミアは教えてくれる。アニメーションとは「動く絵」のことだと。
キンプリは教えてくれる。アニメーションとは「実写ではないもの」のことだと。
リトルウィッチアカデミアの作画は凄い。人が、物が、本物よりも本物らしく色づき、動き、生きている。
キンプリの演出は凄い。非現実的かつ過剰な演出を繰り返しつつも、誰もが作品にのめり込み、主人公と共に驚き、笑い、泣くことができる。
リトルウィッチアカデミアのメイキング映像では、監督が原画マンの提出したラフに対して、人体はどう動くか、それをアニメーションとしてどう表現するかを微に入り細に入り修正している。
キンプリの(劇場先行DVDの)オーディオコメンタリーでは、監督があらゆるシーンに対して、キャラクタが何を考えているか、裏で何が起こっているかを微に入り細に入り語ってくれる。
アニメ映画という同じ枠組みにありながら全く異質の価値を提供してくれるこれらの作品は、作成の経緯もまた異なる。
「リトルウィッチアカデミア 魔法仕掛けのパレード」は前作「リトルウィッチアカデミア」の人気を受け、クラウドファウンディングにより制作資金を調達した。既存ファンが先行してお金を払った。
「KING OF PRISM by PrettyRhythm」は原作「プリティーリズム レインボーライブ」の人気を受け、主要スタッフが会社上層部を説き伏せ、半ば騙すように制作した。監督は公開直前に内部事情をさらけ出し「どうか劇場に足を運んでほしい」とファンに対して頭を下げた。
どちらが良いという訳でもなく、どちらも非常に優れた作品であり、アニメーションという形でしか表現できない。
「アニメーションはこうあるべきだ」という正解を感じることができる作品である。
クラウドファウンディングにより一定の評価を終え、BDの発売も行われているリトルウィッチアカデミアに対し、
キンプリは今が評価の真っ最中である。少しでも気になった方は今すぐ劇場に行って、この作品をより長く続ける助けになってほしい。
キンプリを観てくれ。
そういえばあの作品どうなった?確か去年アニメになった…皆で馬鹿にしていた…えーっとなんだっけ、ほら、そうだ
カゲプロだ。
ファンが若年層ということもあり根も葉もない低能な悪口が蔓延していたカゲロウプロジェクト、最近では全くその話題を見かけなくなった。そもそも私はカゲプロの総本山と思われるニコニコ動画にもアニメ最新話の配信をチェックしに行くのみで、ユーザーの投稿動画なんて滅多に見ない。そして去年の夏、その最新話をチェックするリストにカゲプロのアニメ「メカクシティアクターズ」も入っていた。一応全話見ている。しかし本筋のストーリーが驚くほどに存在しない上に、設定だけ事前にチェックし期待していた能力バトルもほぼ皆無(最終話付近に少しあるがしょぼい…なにこれ…アクション監督つけてくれよ!!!えっ予算的に無理?そうかごめん…)で、なんていうかかなり落胆した。でもそれは「カゲプロに失望する」ということとはどうにも違う感じがしたのだ。私はその答えを導き出せないまま、こうして一年が過ぎようとしていた。
しかし最近、何故かこの落胆に対しての答えがふっと出たのだ。多分一年ぶりにアニメを見直したせいだと思う。
視聴し直した後、私はメカクシティアクターズにまた落胆した。
だって中高生があんなに夢中になっていてさ、きっと自分のほんの少しのお小遣いやお年玉をつかってカゲプロのCDや漫画を買っていたに違いないでしょ、そういう作品なわけでしょ。自分の親に自分の好きなキャラのこと熱く語っちゃったり、学校に行く途中でカゲプロの曲をipodで聴いて自分のこと最強だって思っちゃったり、アマチュアで趣味で音楽を作り絵を書いていた人達が事務所と契約して作り上げた数々のMVを見て、自分もこういうことがしたい!とかクリエイティブなことに目覚めちゃったり、そういうキラキラしたものを若い子達にきっと与えていた作品なんでしょ。キラキラした世界をすごくすごく身近に感じられていた作品なんでしょ。そのアニメがこれ。本当に落胆した。
カゲプロはきっと若い子達の夢だったんだと思う。夢を見させるなにかだった。そしてその夢がみんな大好きだった。それが意図も簡単に崩れるところを見せられた気がしたのだ。
「君達が夢を見ていたカゲプロはこんなに中身の無い作品で、アニメにするとほらね、どうしようもないレベルの作品なんです。大人達もそうレビューしているしね。」
とてもとても居たたまれなくなった。
なんでもっといいアニメにならなかったんだろう…。ツイッターで単語検索をすると中高生ですらもうカゲプロの話はしていない。黒歴史だと語る者まで居る。カゲプロはもっと凄くなる、カゲプロを好きでよかったと若い子達に思わせるだけのアニメになってほしかった。
きっとそれは色々なところに要因があるのだろう、これは殆ど私の推測でしかないが、原作者の物書きとしての経験不足、話題性と即効性を重視したのであろうアニメ化企画、キャストを含めたスタッフへの説明不足、他にも色々あるのだろうね、わかるよ。なんかもうね、悲劇のカタマリって感じのアニメ化。誰もあんな出来は望んでなかった感じすごくした。試しにオーディオコメンタリーなんかも聴いてみたわけだけれど、これも凄いこと言ってんだ。原作者がアニメ見て「このキャラこんなだったっけ!?」と驚いた話をしたり、出演者が設定資料集見ても「全然話がわからない」って言ってたり……いやもう……ここまでユルい作品初めて見たよ。話がわからないとかそれもはやカゲプロのお家芸のようだけれどね…駄目でしょそれ…駄目でしょうよ!
私はきっとカゲプロを好きだった若い人達の夢をメカクシティアクターズに守り続けてほしかったのだ。
カゲプロを作ったじん(自然の敵P)氏もしづ氏も驚くほど若い。2人ともまだ二十代前半だろう。
メカクシティアクターズの出来と評判はある意味この2つの若い芽にお灸を据えてやったという雰囲気もあってイヤなのだ。
しかしその一方でカゲプロがこうした未熟な部分を剥き出しにされ晒されてしまった作品になってしまった要因についても私は考える。それは前述したように原作者と事務所側の単純な実力不足、経験不足だろう。興味本位でカゲプロの小説や漫画を読んでみると、やはりその物語の希薄さにもどかしさを感じる。だってカゲプロが若い子達に夢を見させたのは、紛れも無い事実なのだ。その夢を実現させられるのが経験豊富な出版社の編集の手を借りて作るそれらだったのではないか?アニメ制作のプロの手を借りて作るメカクシティアクターズだったんじゃないか?でも現実はそうじゃないわけだ。そうじゃなかった。商業主義とか流行とかそういう色々なものが頭を駆け巡る。私の夢想が甘いことも察する。
じん氏もしづ氏も若い。数年前のtwitterでの発言やニコニコ生放送の内容を調べると「ひえ…」と声をあげたくなるほどにこの二人は"若い"。そしてそれらを"痛い"とだけ処理して突き放し見下すことは大人側の私はどうにも厭だった。だってあの"痛さ"は私たちが過去に持っていたもの、持ち得ていたものだからだ。
メカクシティアクターズの放送が終わり、今月で一年経とうとしている。二人の"痛さ"はメカクシティアクターズの放送以降すっかりナリを潜めているように見受けられる。
2人もまた"大人"になり始めているのだろうか。
カゲプロ、実はまだ完結していない。小説と漫画がいまだに展開中なのである。
今年発行された 小説6巻 は感触としてかなりのBLなのだが(余談だが腐女子のファンの比率は恐ろしいほどに低い)、サトリ世代真っ只中の登場人物が現状を受け入れ思考停止し運命に謀殺されていく様子は、じん氏の現状を物語っているようにもとれて興味深い。
ファン達が夢を見なくなったカゲプロ、これからが作品にとっての正念場なのだろう。にわかファンながらそう強く感じている。
この崩れかけた夢を、両名が今後どのように再建していくのか見守っていきたいと、今は思っている。
映像特典もいらないしイベチケも何か月かしたらゴミだし後追いで買う側に配慮してないよなぁって思う。
映像特典にしたってらきすたのようにどうでもいい中の人とこれまたどうでもいい誰だ?こいつって奴を登場させてる映像特典分だけ
値段が高くなってるんだから、正直買う買わない以前にそれ商品の価値あるのか?と本気で心配したくなる。
昨今のBDには大体イベチケが付いてるけど、アニメにしか興味ない人にとって見たらそういうのは声豚しかいないじゃん
声豚っていうのは、ニコニコ動画のアニメチャンネルとかでやたら声優名出して草生やしてる奴等ね。
ああいうののためにBDでは割高な位で買うだろうって制作陣に思わせちゃもうアレだ、売れるわけないよ。
どこだったか某地元を宣伝するためだけに作られたアニメもイベチケ付けてBD出したけど、高すぎて手が出なかった。
周りは1巻だけ買って後は買わないわけで、イベチケ目的なのは分かったけど
考えようによってはイベチケ目当てな奴向けにアニメで釣るよりいっそそういうイベントBDを発売すればいいわけで、
多分映像特典と同じでそういうのが好きなコア層向けに新しく作っちゃえばいいんだよな。
いっそアニメだけ、とかオーディオコメンタリー付けるだけに留めて発売した方が採算取れる気がするけどね。
イベチケ付けた作品に限ってその巻を除いて右肩下がりに売れ行きが減少してしまってるのを見たら期待値が上がってた制作陣からしても残念に思うだろうし
例えばイベチケも何もなしで発売したら、確かに1巻の売上で大体その後の売上が判断出来るけど、無駄にコスト掛けない分ある程度採算取れるんじゃないかな。
それに無駄にコスト掛けてないから安価で買えるだろうし、特典付けた方がコスト過多なんなら辞めた方が無難じゃなかろうかと思う。
少なくともイベチケや誰得な映像特典に魅力を感じない俺にしてみたら、作画が修正されてるとか乳首券発行されてるとか、オーディオコメンタリーが付いてるって
普通の事が嬉しいと思うし、逆に特典やイベチケが付きまくったら、もはやそれはアニメ目的で買うもんじゃなくなってる、本末転倒だとツッコミたくなるなぁ。