はてなキーワード: オリ・パラとは
飲食はリモワ出来ないこと以外は手堅いと思うやで。飲食の経験あるから飲食にはいつでも戻れるって感じなら
もう無資格でもさっきのワードで引っかかるところ数受けて入っちゃった方がいいと思うな
ずっとSIは死ぬって言ってるひとたちがおるんやが消えて無くなりはしないだろうけど
エンジニアの活躍の場は、SIerからユーザー企業へ
――開発者ではなくユーザーになるとしたら、エンジニアの仕事はどうなるのですか?
「全員が食っていける」のは、あと10年くらいじゃないですか。それまでにいわゆるゼネコンシステムがなくなって、SIがいらなくなるはずだから。
現時点ではいまだに日本企業の約7割がレガシーシステムを使っているので、クラウドに移行する作業が残っていますが、それが終わればSIに発注する企業はなくなりますよ。AmazonからAWSを買ってくれば、わざわざ外注しなくても、自社でいくらでも運用できますから。
それにIT業界のゼネコンシステムがいかに無駄な仕組みか、企業側も気付き始めています。最近もメガバンクが立て続けにシステム障害を起こしましたが、銀行が元請けに原因を問い合わせても、下請けや孫請けに丸投げしているから分からないっていうのが大体の回答でしょう。同様の構造が東京オリ・パラやコロナ関連のアプリ開発でも行われていることが報じられた。
それでも今はまだテクノロジーに疎い世代が経営層にいるので、しばらくは外部に発注する流れが続くかもしれませんが、10年後には今の40代が組織の意思決定者になるので、「外注するのは無駄だから、自前でやろう」となります。
――自社サービスに携わるエンジニア以外は、10年後には職場を失うと?
誤解のないように言っておきますが、エンジニアの仕事は、その後もずっとなくなりません。ただ、私が言いたいのは、エンジニアの活躍の場がSIerからユーザー企業へ移るということ。企業がAWSやAzureを使うにしても、それを担う技術者は必要なので、自社でエンジニアを雇うようになるわけです。
ワイは最後のところについて、こう思ってるやで。非IT職でもプライベートでITに触れる世代が決裁権を持つわけでお寿司
個人的には全部やめたほうがよかったとは思うけど、オリパラと甲子園フジロックで問題の質は違って、オリパラのほうが圧倒的に問題が大きいと思う。理由は政府・東京都が主催的立場だから。(政府は主催者じゃない?担当閣僚まで置いて、そんな表面的な言い訳は通用しません)
こうした大規模イベントの問題はその場の感染リスクだけではなく、世の中へのメッセージ効果も無視できない。そして、これまでの経緯から明らかなように、十分な割合の市民が同期して行動抑制をしないと流行の波は制御できない。政府は立法措置をしての強制的手段やお金で釣ってのコントロールはどうしてもやりたくないようなので、市民に納得して一斉に行動抑制をしてもらうためには政府・自治体がどのようなメッセージを出すかは非常に重要、というかそれしか方法がない。
よく聞く主張の「自分の身は自分で守れ、政府がどんなメッセージを出してるかは関係ない」というのは一面では正しいが、流行の波がおさまらない限り自衛している市民はいつまでも家から出られない。人ごとじゃないんですよ。
にも関わらず我々は五輪にまつわるどうしようもない矛盾を見せられてきた。いちいち列挙はしない、したくもない。政府・東京都による、「下々は我慢しろ、ただ為政者がやることは例外な」と言わんばかりの明らかなダブルスタンダードは感染抑制に大きな悪影響を与えている。緊急事態宣言というブレーキが今や完全に壊れていることからもそれは明らかだ。立法措置やお金でなく、お願いベースで人に大きな我慢をさせようとするなら自分も誠意を示せというのは当然のことだ。
結論。甲子園やフジロックが政府や自治体主催なら同じように全力で批判するけど、民間でやってる間は反対だが大きな声は上げない。直接の感染リスクが問題の全てではなく、公がやることにはより大きな責任があるから。なので、オリパラ反対者に対しての「なぜ甲子園フジロックについては何も言わないのか?」というwhataboutism的批判は的を外している。
いやまああの……私はね、素で「パラリンピックだけでも中止しろ!」と思ってたのよ。
てか素でパラリンピックは中止になるものだと思ってた。素直にブコメにも書いてたよ。まあ目立たんけど。
こんな状況だから当たり前でしょって。感染拡大が中止のいい言い訳になると思ってたんだよ。医療崩壊だってしてるわけだしね。なんも考えてなかったの。
なんでパラだけでも中止しろって声が上がらんものかなーってのんきに考えてたの。
オリやったのにパラ中止はまずいという、その影響とか考えたこともなかった。アホやから。
君の主張を受け入れられてないっつーか、ああそれじゃ誰だって反対の声も上げづらかろうねって気づいただけなのよ。
コロナ医療に関わるドクターはまず、この時期のオリ・パラ開催に賛成してた人はいないだろうし、苦言を呈する人も見てる。
でもそういう空気なら、オリンピックが閉会してしまったら、医療関係者とはいえ(というかだからこそ)「パラリンピックだけでも中止しろ!」とは思ってても言いづらいものだなあと。
オリ・パラの音楽担当者がいろいろ騒動になったのを見ながら、なんとなく思い出した。
長野五輪の開会式は劇団四季の創設者にして自民党のブレーンだった浅利慶太が演出したんだけど、まあ評判が悪かった。
アメリカのテレビ局の圧力に屈して向こうのゴールデンタイムに時間をあわせ、日本時間の真っ昼間にやったので光を使った演出が使えなかったのはハンデだったと思うけど、それを差し引いてもダサくて。
まず横綱の土俵入りから始まって(同時はまだ相撲が国民的スポーツだった)、諏訪御柱でゲートたてて、なぜか力士が各国のプラカードもつ、という、分かりやすい“スシ・テンプラ”的なニッポンを散りばめて。二十年以上前だけど、当時でも相当ダサかった。
聖火の点灯はフィギュアスケート日本人初の銀メダリスト、伊藤みどりがやったんだけど、これがねえ。
ネット検索すれば動画あると思うが、なんかコテコテの豪華な巫女さんみたいな衣装を着させて、で、BGMに流れたのが、なんとプッチーニのオペラ「蝶々夫人」のアリア「ある晴れた日に」なのである。
これは酷い。
なにが酷いって、なんで日本のオリンピックで西洋のクラシック?とかそういうレベルの話ではない。
蝶々夫人が、まあ国辱モノ(好きな言葉じゃないけど)の話なのである。
そこに現れたのが、軽薄なアメリカの海軍士官ピンカートン。(なお、フルネームはベンジャミン・フランクリン・ピンカートン。このオペラ、アメリカ人も小馬鹿にしてると思う)。
ピンカートンは蝶々さんに結婚を申し込む。もちろん現地妻としてテキトーにあしらって国に帰るつもりなのだが、“軍人=武士”と思っている蝶々さんは、この求婚を「名誉なこと」と思って受けてしまうのである。周りには反対する人が沢山いたのに。
で、ピンカートンは「すぐに帰ってくるよ」なんつって航海に出てしまう。
蝶々さんは待ちつづける。あの娘はアメリカ人にもてあそばれたのよ、なんて周りに言われても、彼を信じて待ち続ける。
そして歌うのだ。
「ある晴れた日に、港に船が入ってくるのよ。あの人を載せた船が!」
彼女にはどうしても信じたい理由があった。だって、彼の子供と二人で帰ってくるのを待っているのだから。
そして彼は帰って来たのである。アメリカ人の妻を連れて。そして、息子を引き取ってアメリカで育てるという。蝶々さんは息子の幸せを願って息子を父のもとに送り出し、武士の家の伝わる刀で自刃し、ピンカートンは自分の犯した罪を初めて自覚するのである・・・。
オペラのあらすじが長くなったけど、まあ、昔の欧米人が“ゲイシャ・ハラキリ”を取り入れたエンターテインメントなのはよくわかるだろう。
これ、日本のオリンピック開会式の、1番の見せ場でつかうかね?と個人的には思った。
一部には批判的な論調もあったように記憶するが、そんなのはなんでも批判したい面倒くさいインテリのやり口と思われてて、一般的な報道では問題点と触れられることはなかったように記憶する。
あれからもうすぐ四半世紀。
リオ・オリンピックの閉会式での東京のアピールは、長野五輪の開閉開式とは比較にならないほど洗練されていて、もしかして東京五輪の開会式は素晴らしいものが見られるんじゃないかと期待していた。
しかし、なんかあんなことやこんなことがあって、グタグタ感がすごい。開会式をめぐるゴタゴタは必ずしもコロナのせいとは思えない。
ただ、ちゃんと“あんなやつ”が開会式からきちんと排除されたのは良かったと思う。日本は少しずつ良くなってるんだとすら思う。
冒頭の4分間? 適当に有りものあてがっても、誰かに突貫工事で作らせてもなんとかなるだろう。今の日本には素晴らしいクリエイターたくさんいるよ。
極論ですなあ。表立って「反省してます」と言えばいいだけだろ。
NHKのやつは別に公開の文書でも何でもない上に第三者を通して間接的に言ってるだけなんだから謝罪とみなされないのは当然。
なんならオリ・パラに起用されたときに「過去の過ちを反省しており贖罪のためにこの仕事を受けました」的なこと言えばそれで済んだ話。