はてなキーワード: エンターテイメントとは
でも「あっヘンな奴がおるー!」って指さして嗤うエンターテイメントはやめるべきですよね?
なんだ、原発か…と言われるかもしれないし
こっちは映画っていう「文化」に対する議論してんだよ、遊びの話なんか持ち込むな。と言われるかもしれないが、まあ
詳細省くが、主人公は世界を渡り歩く旅人で、今回訪れた日本っぽい国で、原発事故後の処理で揉めてる場面に遭遇する。
バリア内は放射能だらけで入れない上に、放っておくと爆発して施設のある島ごと吹き飛ぶ可能性が有るのだが、役人たちは兎に角早いとこ施設を再稼働させたがっている。
原子力推進委員会あたりがモデルの組織(作中では鳴神大社と呼ばれてる)の使者が事態の収拾を現地の役人たちに求めるが、現場責任者不在で、現場は何も出来ない
ここにたまたまやってきた旅人が、この使者からの依頼を受けて、たまたま残っていた外国人技術者と炉心の調査と炉の沈静化を行うことになる
というのが大まかな話。
面白い点が
設定自体はファンタジーな世界観しているが、だいぶ露骨に福島原発事故をモチーフにしている。
よく日本向けにも配信してるゲームでこんなストーリー入れようと思ったなと感心する。
でもまあ、これは外国、特に中国なんかにとっては隣国の原発事故なんか、単なるエンターテイメントとして消費できるコンテンツの一つでしかないという点はよく理解できたね。
百合とかBLとかセクマイとかの「クィア」を客寄せ要素として使ってるけど扱いが不誠実、みたいなのをクィアベンディングと呼んで差別だと指摘する意見がある。
カタカナ語であることからもわかるように英語圏で流行り、最近は日本でもセクマイを扱ったエンタメや芸能人が批判される際に、意識の高い人たちを中心に使われだしている。
百合営業とか腐営業やってるくせに浅いし適当だし失礼なんだよ、みたいなことは昔から日本でも言われてきたが、クィアベンディングという用語を使った場合、倫理面での強い批判というニュアンスになり、批判された側は申し開きが難しくなると思う。
私は百合やBLを楽しんできたオタクであり、同じジャンルのオタク友達の中には、クィアベンディングなどを指摘する人も結構いる。
クィアベンディングにある程度の問題があるということは否定しない。
だが、私は、クィアベンディングであることを理由に何かを責めるつもりにはなならない。私は、客寄せのクィアを散々楽しんできたし今後もそうするだろうからだ。
そして私が認識している友人たち(レズビアン、ゲイ、バイ、トランス含む)や、世間のほとんどの人もそうだ。
(おそらく異性愛者であろう)アイドル同士がMVでほっぺにキスをしあうところや、キャラクターが不意のボディタッチであわあわするシーンや、役者が作品中ではなくオフショットで共演者にあすなろ抱きや壁ドンしている写真や、Twitterのフォロイーや私たち自身が同性友達とお出かけすることをデートと呼称することを、ニコニコしながら……時にはキャーキャーウォーウォー言いながら私たちは楽しんできた。
それらの半分以上はクィアベンディングと呼ばれてもおかしくなかったと思う。でもそれらは燃えなかったからわだかまりなく楽しんでいます、だけど何かのきっかけで燃えた物に対しては、急に真っ当な顔をしてクィアベンディングで差別的だと全力で怒ります、という気持ちにはならない。
ダブルスタンダードとかブーメランとかの指摘が力を持ちすぎる風潮は歓迎していない。人間は考えを変えたり矛盾したりしてしまう生き物だと思うので。
でもそれにしたって、タチの悪いダブスタをやりつつ倫理的に正しい側に立った態度をするのはよくないだろう。
クィアベンディング的な売り方はよくないと学びました、私も悔い改めて今後それらを楽しむことはしません、ということならばわかる。
だが、先月クィアベンディングで怒ってたのに、翌週には2.5次元俳優の楽屋での距離の近さにときめいてて、来月出る百合萌えゲームも楽しみだけど、今日はまたクィアベンディングに怒りますというのは、よくないよ。
自分自身がセクシャルマイノリティであろうとなかろうとね。
エンターテイメントや芸能業やスポーツ含めた興行というのは多かれ少なかれ外道の商いで、売り手も買い手も、私たちはみんなその悪を背負っている。
それでも、悪すぎるものは程度問題として批判され改善された方がいいと思うが、その時話題になっているモノの悪さの程度はどれだけなのかというのをちゃんと考えた方がいい。話題性だけに引っ張られて怒り、クィアベンディングという使い勝手が良くて非難として強い言葉を使い、自分の普段の行いを棚に上げて善人面していないか。
一般論として読んでほしいから具体名を出すか迷ったけどボカすのも不自然かと思うので名言すると、このエントリを書くきっかけは水星の魔女の話題である。
百合やBLを尊いとか萌えとか言って楽しんできたし今後も楽しむであろうベンディングエンタメ大好き人間が、水星の魔女を批判する際にクィアベンディングという用語を使うのはスジが通らないと思う。
まず前提として、水星の魔女の作中・作外においての結婚の表現の避け方が、余韻を生む効果より、不自然で違和感を生むマイナスになっているとする。この前提に同意せず「作品の質を上げるためには結婚表現の回避が必要だった」という立場もあるかもしれないので。
あの不自然な結婚表現の回避が、誰かの思想によるのであれば(百合を売りにした作品じゃなかったとしても)同性婚冷遇的すぎてよくないし、海外展開の妨げになるからと勘繰られているのが本当にそういうなら商業主義のせいで作品に不自然さという瑕疵を作っていてよくないし、だいたい婚約指輪を描くのはいいし花嫁花婿と言うのもいいけど結婚と言うのはダメみたいなピンポイントの言葉だけ隠せば問題ないという基準は馬鹿らしい、などの批判なら、大いに頷ける。
君たちはどう生きるかのストーリーが難解だとか、伏線が回収されないとか言われているが、ストーリーのプロットはすっごく単純。という意味では、着ぐるみを着てるエヴァなんかよりわかりやすい。
要はこういうこと
・現実世界は戦争もあるし泥臭い人間関係もあるしすごく醜い。とにかく汚い。妹と結婚するお父さんも嫌だと思っている。
・まひとは理想世界に引き込まれて、そこで自分の理想とする母と冒険する
・叔父さんは、つまり、エンターテイメントにおける先人たちの叡智の象徴
・君も一緒に理想世界を作らないか?と言われ、自分の心は醜いのでできません。と言って世界を崩壊させる
・醜い物をそのまま受け入れて、この世界をありのままに受けいれて生きていくことを、まひとは決める
あまりにも単純すぎて何も皮をかぶってない。宮崎駿の原液と言われるのもそれが理由。これがエンターテイメントなのかと言われたらよくわからん。ストーリーを楽しむというより、宮崎駿の美術館を楽しむと思った方が良い。
宮崎駿は夏目漱石の草枕が好きと言っていて、それも頷ける。草枕もストーリーはないし、感情移入するところがない。むしろそれをあえて避けている。君たちはどう生きるかは意図的に、宮崎駿は誰にも感情移入しないように作っていると思う。細かな辻褄を指摘する人もいると思うけど、そこが主眼じゃない映画。
所々美しい、ジブリらしい映像はあったし、自分はそれだけで十分だった。誰かに感情移入して、泣いたり喜んだり苦しんだりするのは疲れたし、こういう表現はありだと思う。これがエンタメかは別として。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/shonenjumpplus.com/episode/4856001361514085330
なんかセンセーションな自殺問題が起こった時にこういう作品を載せるか否かみたいな話でまたブクマカが盛り上がってるみたいだけど(自分は読めない)
自分は14日に更新されたこっちにダメージを受けてしんどかった
コーポ・ア・コーポ第38話
http://www.comic-medu.com/st/corpoacorpo/38
(今まさに自分で死ぬことが選択に入ってる人、それしか道がないと思っている人、自分がゴミだと思ってて希死念慮が常にある人は読まないで)
まず1話を読めばこの話の必然性がわかるのでこんなタイミングで載せるなとか言うのではない(38を読むなら1話は絶対読んでほしい)
そもそも自分はそういう「配慮」は特定の人物を明らかに指しているとかそういうよほどの事情で限りはしなくていい派の人間なので
ただ単に自分がこの登場人物と同じ思考状態に長いこと陥っておりあまりにもその描写が的確なので、自分も早晩この人のように自分で死ななければならないだろうという強迫観念に
これを読んだときから強烈にとらわれてしまい今まで逃れられずのたうちまわっていた さっき飯作って食ってマシになった 人間空腹だとより弱るからいけない
読まなければよかったと思ってしまった、この漫画はとてもすばらしいし、落ちこむことばかりあったところに最新話の更新!と思って開いたのが間違いだった
現実世界で話題になっている人の死でももうだいぶダメージを負っていて自分もいつそれを決断しよう、でもしたくはないできればと思っていたところに読んでしまったのが最悪だった
そしてこうしたことを増田で書くことがまさに「当てつけ」のような考え方を捨てられない、その情けなさどうしようもなさをこの作品というか作者に喝破されたような気がしていてというか事実完全に喝破されてるので本当に死にたさMAXになった
結局議論が巻き起こるのって人の目についたかどうかなのだろうな
それとも多くの目に触れたところで「自分はこんな屑ではないから共感しない」人の方が多いだろうか
誰か自分とこの苦しみを共有してほしい
こんなにも底辺でのたうちまわってる人間のことをわかっている作家がいて、最後に「明日は自分かも」と思う人間たちのいることを描いてくれていることをあたたかいと思うと同時に
所詮貧困で愚かなものはその死も対岸のものとして捉えられるだろう人間にとっての「解像度の高いものがわかる」喜びに供されるエンターテイメントにしかならないのかという意地悪な気持ちを同時に抱いている
これこれ、この卑屈さ、他責性、自分も持っている だから本当にこの人は自分そのものだっただからつらい
作者さんがどういう人かは知らないけど死体を見上げてる人たちは少なくとも「対岸」ととらえてないことは救いだが、それらの人ごと「対岸」として描かれていて読まれているのかもしれないということを思うとしんどくなってしまう
まあこちらには知る由もないし何を描こうがどう読もうか自由であるし、こんな風に状況によって刺さり方は同じ人間でも変わるものだろうしどうこう言えない 何しろ面白い ほんとにすごいよこの漫画
この漫画を読む人間にこのタイミングであげるな!なんて言うようなものがいないことは編集側も読者側も百も承知だろうから作品ページにブクマで出てくるみたいな注意書きも当たり前にないのだろうと思うが、
むしろないことこそ作品を世に出し続ける側としての自負なのかなと思うが今回ばかりはクリックする手を止める慈悲のような間がひとつ欲しかったと思ってしまった……やってくれとは言わない、読み進めてしまった自分が悪いだけ
韓国ドラマ以下Kドラは、もうそうだと思わせるくらい女の性欲をぶっ刺しにきている。
全部ではないが、こんな話は多い。
昔の韓流メロドラマと違うのは、恋愛要素に加えて、女性の社会的に自立したいという欲求も叶えるという点にある。
これがポルノだと言うのは、ドラマの前提となる設定が余りにも女性側に都合良くできているからである。主人公の女性は男社会でやっていけるくらいの能力を持ちながら、オンナを使えるくらいには美人設定で、言うなれば才色兼備。
また、オンナの使い方も枕営業といった下品なことはしない。あくまで女を盾にして、男なら殴られるから言えないようなことを平気な顔で言い放ったり、好意を向けてくる男をうまく利用したり、といった狡猾な使い方である。
一方、彼女の相手をするイケメンの類は男児のような幼い顔で、大人しく、ツルツルした女性のような顔立ちである。男の暴力性は無害化され、男のわがままは男児の駄々こねに見えるくらい可愛く描写される。
少年漫画や王道アニメでは、仲間のために強くなれる男をヒロインが好きになるという共同体の構造が必ずある。しかし、Kドラは、この共同体の概念を希薄させ、私とあなたの物語の周縁程度にとどめる。そして、最終的には私が気持ち良くなるようにあなたとその周りを改変させていく。この過度な私中心のストーリー展開はポルノ的と指摘せざるを得ない。
しかし、Kドラは女性をエンパワーメントしているとフェミニスト界隈ではむしろ称賛されている。能力を活かして仕事をバリバリこなす筋書きなら理解できる。しかし、オンナを逆手にとって、都合よく愚かに設定した男性社会をのし上がり、一番魅力的な男を自分だけのものにする過程を描くことはエンパワーメントではなく、単なるエンターテイメントである。
同時に、過度に弱体化した男性相手に性的な優位性を取って支配下に置くことはもはやレイプ演出と呼べるのではないだろうか。
しかし、ポルノをポルノだと見抜けないまま大人になると痛い目に遭うのだ。充分に成熟しないとポルノを閲覧してはいけないのはそのためである。これは今まで男の専売特許だと言われてきたが、女にも言える時代が来たのだと思う。女性用風俗が産業になる時代なのだ。
Kドラに感化されるのはいいものの、現実はそこまで都合良くできていない。実際、美人や能力者ではない女性は取り残されるという、ドラマ設定の裏の脅迫に対して多くの弱者女性たちは無力だ。だからこそ彼女たちは美容整形に走ったり、摂食障害になってしまったり、姫扱いしてくれるホストクラブにハマってしまったり、ODに依存したりといった逃避・自傷行為に出るようになったのではないか。
また、現実にはドラマほど愚かな男性は中々おらず、ドラマで見るような鉄槌を下す機会などほとんどない。煮え切らない思いをぶつけるために、一部フェミニストが敵の定義を不必要に押し広げた結果、フェミニズム運動は女性にすら支持されないくらい過激化してしまった。
韓国の異常すぎる整形文化、”韓国フェミニズム”と呼ばれるに至った特殊なフェミニズム、憎悪としか形容できない激烈な男女間対立と、極度に低下した出生率は、Kドラをはじめとする女性用ポルノの悪影響と言えるのではないか。もちろん、依然として残り続ける儒教社会の悪習や、周辺国相手に全く役に立たない弱腰軍隊(や徴兵制)及び政治家への辟易など、男性を糾弾する土壌が先にあって、その欲求に応えるようにKドラが発展し、その価値観を強化して捻じ曲げたとの見方もできる。
日本でも、トー横キッズ、歌舞伎町界隈、港区女子、過激なフェミニズムといった女性が登場する世相の乱れが目立ってきたのは、女性用ポルノの無制限の蔓延をその要因の一つに挙げても良いのではないだろうか。
ポルノは社会の風紀を乱す。だからこそ男性向けポルノは文化的に暗がりに追いやられ、法的にも規制されており、表立って語られるときは冗談や嘲笑の対象にすることで現実との距離感を保っている。
それなのに、Kドラに見られるような女性用ポルノは忌避されるどころか、政治的妥当で、多様性準拠で、年齢制限も緩くて良いものとみなされている。今もなお、エンタメ界のど真ん中を、スポットライトを浴びながら威風堂々と闊歩しているのだ。
ポルノを嗜む主体性を女性が得たことは歓迎するべきことである。しかし、主体性に伴う責任と枷のようなものが、男性側には文化・慣習の中で課せられている一方で、女性はそのような社会的装置を壊すことが近代であったがために、際限のない自由に放たれてしまったことは問題視したい。
自由を阻むものは自分だけである。だから自由は弱き者にとっては呪いでしかない。フェミニズムは弱者女性を救うことができないまま、自由だが不安定な空虚だけを残したのだ。
そんな空虚を埋めるために、男性向けポルノのような規制を受けない女性向けポルノが広まるのは当たり前のことだった。その女性向けポルノが、Kドラこと最近の韓国ドラマなのである。
https://open.spotify.com/episode/5BDRDdcqfIXgOKa0WgfsN6?si=BseqB4LQSuW_MswLDDQ-jg
■田畑竜介:
毎週月曜日のこの時間は松尾潔のBrush Up、お送りしています
■松尾潔:
前回お伝えしたのが5月の22日ですからまあ
ほぼひと月経ちましたのでその間の動き含めて
で、あのなぜ今お話しするかというとあの
皆さんご存知でしょうが
ついこの間ですね月曜日ですか
6月の…え…12日ですか
■田畑竜介:
そうですね12日、1週間前ですね
■松尾潔:
再発防止特別チームていう
林さん飛鳥井さんていうお二人ですかね、が◯◯になって
でまあそれ、まあ僕も見ました
あのこれはけっこうニュースで報じられましたんで
ご覧になった方も多いとおもうのですが
あの…◯◯
もちろん、あの、ある意義は感じましたし
開かれることは前進かとはおもうんですが
えー、そうですね…なんかこう…
というのは、これあのやっぱり
それでは不十分でないかというような
世の中の声にお答えするような形での会見だったかとおもうんですが
まあ、蓋を開いてみると、そこに藤島ジュリー社長は出席していませんし
第三者委員会であると受け取ってもらっても差し支えないですよって
まあ林弁護士は言うわけですよ
なんだろなこの言い方はっておもうんだけど
まあそのいわゆる独立した第三者機関を第三者委員会と我々認識しているはずですが
ということもまあ、あの…まあ物語っているわけですね
ま、これはジャニーズ事務所がイニシアチブがあると、いうことなんで
うーん…だからそういうことが問題だって言っているんじゃないのっていう
なんだろうなっていうね
ジャニーズ事務所判断ではこれを第三者委員会的なものと言っているのかもしれないんだけども
うーん…◯◯
あの一般企業であれば、あとまあ社会的に影響の強い企業であれば
当然やっていることなのになという◯◯
あのまあ一方でね
Snow Man4大ドーム、大成功だったというふうに聞いてます
もうほんとうにに大成功におさまっているわけで
で、そんななかで性加害問題のことも
あの…一応やってますよぐらいの印象を持ってしまった方も多いんじゃないかと思います
で、あのこれ別にあの…僕一人が曲がった見方をしているわけじゃなくて
そういう捉え方は多いようで
これけっこう本質的なことを言っていましたね
で、まあ経営陣が沈黙する一方で矢面に立っているのは所属するタレントたちだと
ま、そこは僕も非常に共感を覚えました
ま、その締めとしてはね
手順、まあいわゆる一般的な手順を踏まないまま特別チームに検証を丸投げしただけでは納得が得られるはずはない
性犯罪対策をどう強化するか政府も検討を始める事態になっている
で、ジャニーズ事務所に記者会見を開くことをあらためて求めるという
まあ…ひと月前と同じことをまた我々口にしているわけなんですが
あの…こういったこととあと、ま、報じられて、あまり報じられていないこととしては
あの…裁判になって
やっぱりそのジャニーズの性加害、まあ当時、性加害という言い方していなかったですね
当時を振り返るようなお話をされました
でこれも先週のことです
これあの…YouTube等に長めですが
たいへん見ごたえ聞きごたえのある会見が出てるんで
ご覧いただければとおもいます
そしてなんといっても決定的だったのは
これはかなり僕はインパクトを受けました
さっきお話しした
文春との裁判を20年前に報じなかったっていう反省が強くにじみ出てました
あとやっぱり、ま、もちろんTV局っていうか報道も大きな機関です
もうちょっとそういうこと報じるのやめてくれよみたいな
その…社内でもやっぱりそういうパワーバランスとかがあるんだっていうことをわりと生々しく語っていまして
ま、編集長時代に自らが関わった雑誌で少なくとも企画会議や編集部で
ジャニーズのその性加害問題がOKな議論になった、という記憶がないと
でご存知かもしれませんけど
まあジャニーズ所属タレントがしょっちゅう表紙になってる雑誌ですよ
それなぜ、なぜ大きな議論しなかったのかってすごく考えると
ひとつはやっぱり男性に対する性加害とか、男性の性加害ってのは知識がすごく少なくて
軽視していたところがあるだろうと
これ女性だったら話しが違ったのかもしれない
もしくは異性間のことであったら話しが違ったかもしれないと
裁判の結果でさえ大きなイシューとして大きな問題として報じなかった
自分たちの報じる姿勢が非常に甘い部分があったんじゃないかという
反省の弁を述べてらっしゃいましたね
あとはあのジャニーズタレントさんが起用されるカレンダーというのを
ていうような不文律があったということも踏み込んでお話しされて
けっこう僕にはあの…ショッキングともいえるインパクトがあったので
これあの報道特集、TVer等で今でもご覧になることできますので
膿を出しましょうよということを
なぜならそういうことにして
あの、可視化しないと
もう才能のある若い人たちが
僕の愛する、このエンターテイメントビジネスにもう寄ってこないんじゃないかと
■田畑竜介;
そうですね
そしてそれをどれだけ公表できるのかというところも含めてですね
(以降略)
私は料理をする時基本的に味見をしない。ベースにするタレの味や終盤の確認のための味見は絶対した方が良いのになぜか味見しない(焼き加減とかは見る)。
するのは最後に塩胡椒で整える時ぐらいである。それも下手すりゃテーブルに上げた後だ。
要はひたすらレシピの通りに調理を進めるというスタイルである。
少し脱線しよう。
例えばビールなんて苦いだけだ、コーヒーなんて苦いもの飲むやつの気がしれない、という人がたまにいるが、彼らにとってはタラの芽や春菊の天ぷらすら「マズイ」のかもしれない。
しかし実のところ、苦味もうま味の一つなのである。塩はしょっぱいだけだし、唐辛子も辛いだけだ、でもペペロンチーノにしたら美味しいだろ?タラの芽の天ぷらだってそう。
さらに脱線すると、私はこれから見る映画やゲームの情報は一切目に入れない主義だ。
それはプラネテスのハチよろしく面白さや楽しさだけでは無くくだらなさやガッカリ感すら「私の体験」にする事こそが私にとっての楽しみだからである。誰かの感想はどこまで行っても私の体験にはならないのである。
ようやく前提の話が終わった。
焦げた肉も、揚げすぎて硬くなった唐揚げも、バターを塗りすぎたトーストも、半熟のつもりで焼いた目玉焼きが固焼きになっていようとも、私の料理というエンターテイメントを「私の体験」として楽しむためなのである!
と、昨日奮発して白ワインをチーズリゾットに使ったのにバターを入れ忘れたり、試しに買った粉チーズを最後にかけたら乳臭くてリーズリゾットが台無しになったりと、まあ、味見をすれば防げていた失敗に思いを馳せてみた。
とろけるチーズはモッツァレラ多めの奴じゃない方がいいね。チーズリゾット目的なら。
※ まあ、誰かに食べさせる時は味見するよ!
自分はそういった読むエンターテイメントが肌に合わなくて、まれに、すごい話題作だったり、友人に推されたりで小説を読んだりノベルゲームをやったりすると、いつも期待したほどではないという感想を持ってしまう。ノベルゲームに至っては最後まで進めた試しがない。漫画や映像コンテンツとか文字主体じゃないゲームだったら普通に楽しめるんだけども。なので、シンプルに読むエンターテイメントに適性がないんだなと思ってる。
んで、ふと気になったのが、表題の「本の小説は読まないがノベルゲームは楽しむ、あるいはその逆の人っている?」っていう事。もしいた場合、どういう違いでもって片方だけ楽しむようになったのかな?
アンチマン / アンチマン - 岡田索雲 | webアクション
https://comic-action.com/episode/4856001361287348513
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/comic-action.com/episode/4856001361287348513
作り手がどういう意識で描いてるかは、この人の傾向を知らんから語らんけど
案の定、ブコメは「分り難いよ」という人と、「あの表現はこういう事、サイコー」って語り部に二極化してる
これが、賢らに何かを語ろうとする人に刺さるのは
作品自体は酷い偏見の再生産で、それはルックバックどころじゃない
そのために、読後感が悪い
自身は寝たきりになる
ブコメには当然に、弱者男性に関連して批判的な意見も乗るわけだが…
滑稽なのは、はてサ垢がそれを読んで現実と虚構を一緒にすんなみたいな言及しちゃってる所で
こういう表現がオーケーなら萌え絵なんて何の実害もないだろうって思うんだが
上岡龍太郎の漫談を聞いていても分かる通り、普通の人が聞いても「何言ってんだこのおっさん」から入らなければならない彼の演芸は、ダイナミックさで矮小さを誤魔化して潜在的に世界を侮らせる現代芸能界の風潮とは合わなかったのだろう、と思う。
タモリなどはそこら辺が上手くて、プレイヤーではなくコンダクターだったりバンドマスターとしてたまにチロッと指揮棒を見せたりエセピアノを弾いたりして場の雰囲気をコントロールしていた。
上岡龍太郎は話芸に特化していた。
話芸に特化していたからこそ、途中でその限界に達した。結局、緊張と緩和にしろ、守破離、起承転結にしろ、忙しくない読者がいないと役に立たない技術だった。
#Shorts動画がそうであるように、一分以内に型をつけなければならないのが現代のエンターテイメントだ。
だから、彼が辞めた後に彼の漫談を聞き流しながら作業する方々は多い。
現代の芸人とタメを張れるぐらい愉快な言葉を話していた気もするけれど、実は書いてる最中で思い出せなくなるぐらい薄っぺらな話で、だから、それこそがコメディアンとしての彼の話芸の極地なんだろうな、と思った。
いいじゃないか、その時はナンバーワンだとタメを張れると思えていても。
どうせ、あなたが思い出せないぐらい下らない話を丁寧に丁寧に聞かされて、そして面白かったなぁと思いながら薄ぼらけた意識のまま劇場からバラエティから帰っていくのだから。
なるほど、なんて小さな豊かさを持って帰らせてくれるのだろう。
現代では監視社会に差し掛かっていて、鬱陶しがられてるやつは記録も遡られてそいつの不正を徹底的に否定される状態ではある。
それがいつ発生するかもわからなかったりするのもしんどい部分だ。
こんな時代に、あのハッタリによって作られた小さく記憶も不確かな豊かさがあったことを忘れずに生きるのは大事なことなのかもしれない。
結局ここまで書いたこともそれっぽく整えて、それっぽく書いて、それっぽく見せただけのものなのだし
合掌
私に生きている価値が見出せない。
まもなく30になるが何も何も私は社会に適合できない。
何かを生み出す力がまるで何一つとしてない。
まずはじめに発達障害を持っている。
いわゆるアスペルガーである。軽度とはいえ、職場で浮いていじめの対象にされる程度にコミュニケーションが出来ていない。
ということで職務、種の保存的に避けた方が良い人材であると言える。
次に同性愛者である。そのため、まず女性と性交が出来ない。試したけれど、女体の胸や尻といった丸みを帯びた体格がどうしても受け付けられずに挿入できたことはない。
よく言われる同性愛者の結婚の批判として子供を作らない(生産性が無い)からというものがある。
その分、仕事に打ち込んだり養子を取るなど同性愛カップルの結婚を認めることで社会的に利害関係が一致する点は多くあると思う。
けれども、私は違う。そもそもコミュニケーションが出来ないから、人生で恋人というものが出来た時期は一切無い。だから、誰かと人生を共にし…という情緒的に誰かを満たせるような人物では無い。誰も私を選ばない。
ただ溢れ出る性欲を誤魔化すためにネットで知り合った人にお願いをして、男性器を借りている。
めんどくさそうに、けれどもまあ射精できるから会ってくれている、性交の真似事をするだけの知り合いに、性欲の処理を頼み込んでいる。その人は妻子持ちだそうだ。
だから、「子供を育てる、作る」「誰かを愛するという形で情緒的に支援する」能力も私には無い。
次に、うつ病を患って、もう2年になる。
職務はこなせているのに、気分的に相容れないとよく言われる。なんで雇われたの?と何度聞かれたか。
そうして私はもう2年、ほとんど外から出れずにゲームと読書とインターネットで日々を終えている。
性格が悪くても仕事が出来てればまだ社会の歯車として存在価値があると思っていたのに、心が折れて、ついに職務にも就けなくなってしまった。
ひとつひとつはマイナス面もあればプラス面もあるようなマイノリティなものたちが、全て降り積もって打ち消しあってマイナスだけが残り負のエネルギーのみとなった人間が私だ、私こそが生産性のない人間だ。
ここまでして私は生かされる権利が本当にあるのだろうか。
いつか社会へと戻り、どうにか何かしらの形で何かに貢献できることを期待されているから生かされているのだと思うと緊張で眠れなくなる。
生活保護をもらって、生きるというのは罪悪感が募る。
みんな、税金を、私を生かしたくて払ってるわけじゃ無いのに…。
私に使うならその分をインフラ整備とかに使った方が多くの人へ還元できるのだ。
でも、でも、私は行きたくて保護を求めてしまった、生かされている、生かされてしまった、生きてしまった。
悲しいかな、どうせここまで必要がないならもう自我とかも手放せたら、狂って何もかも無頓着にただがめつく生きられるほどの厚顔無恥さを手に入れられたらまだ救いがあったのに。
私の精神は、自分の社会評価を正しく見積もれる程度には、考える力だけは残されていたのであった。
今私がするべきことは、社会へと速やかに戻り、仕事において何か貢献をすることである、税金を払う側に戻ることである、けれどそれもまた崩れて働けなくなるビジョンばかりが見える、また働けなくなったら?
誰かを、愛したり、エモーショナルに鼓舞したり、エンターテイメント的に楽しませたりする技量もない私は、どこへ?
今日も、息をしている。
私は、誰かを愛することもできず、誰かに好かれることもなく、誰かを好けば拒まれる。
子孫も残せず、むしろ残さない方が好ましい因子を持ち、仕事などで貢献もできずただただ生きている。
私、なんか見落としてたりしないかな。
青い鳥みたいに近くにあるのに気づけないとかそういうオチとかストーリー性とかそういうのいいですから何か私が生きている意味、生かされている意味について誰か何か教えてくれませんかね。
今の私の見えてる状況を分析すると、
痛くなければ、失敗の可能性が無いなら、そしてできることなら遺体の処理も簡単な状況で死ねるなら、死んだ方が世のためなんですよね。
何が起きるかわからない未来に期待、なんて思いながら30歳目前です。少なくとも心ときめく瞬間は、この人生にはありませんでした。