はてなキーワード: エルトン・ジョンとは
But not for me 祭り!
https://www.youtube.com/watch?v=R_f_mMJAezM
https://www.youtube.com/watch?v=TLjWdZ3mP5E
https://www.youtube.com/watch?v=X03uSwM07_A
https://www.youtube.com/watch?v=WGCryXJVoQ4
エラ・フィツジェラルド
https://www.youtube.com/watch?v=u0TfkySxDMo
https://www.youtube.com/watch?v=1w60ugvxzrg
フランス暴動:数百人の警官が負傷、数千人のデモ参加者が銃撃で逮捕される中、知っておくべきこと
抗議活動により警察官270人が負傷、2,000人以上の参加者が逮捕された
交通停止中に 17歳の少年が死亡したことを受けて、暴動がパリ郊外を襲い、すぐにフランス全土の他の町や都市に広がったが、なぜ状況はここまで制御不能になったのだろうか?
ヘンリー・ジャクソン協会の共同創設者で事務局長のアラン・メンドーサ氏は、「そこで起きていることは、国内のイスラム系移民人口の統合に失敗した結果だ」とフォックスニュースデジタルに語った。
「伝説のフランスは、原住民と同じ進歩や成功の機会を持たないゲットー化されたコミュニティの日常生活の現実からは遠く離れている」と彼は語った。「フランスの忘れ去られたコミュニティは、もはや忘れ去られたままではないことを示しています。」
「バンリューで感じられたくすぶる怒りは、爆発するための火花を必要としていましたが、暴動や略奪という形での無秩序を常に歓迎してきたフランス社会の無秩序な緊張によって今利用されています。」
5日間の暴動期間中、全国で合計2,000人以上が逮捕された。フランスのエマニュエル・マクロン大統領も暴動を受けて予定していたドイツ訪問を延期した。フランス内務大臣は土曜日、逮捕者の平均年齢は17歳だったと発表した。
統一SGP警察FO組合のグレゴリー・ジョロン事務局長は、警察は「フランス国内のこれほど多くの都市で、このような都市暴力は18年間初めて見た」と語った。
警察は火曜日の朝、パリ郊外のナンテールで、ネーヘル・Mという名前だけが判明したこの少年を逮捕した。ネヘルさんは配送ドライバーとして働いていたが、警察官2人と話すために車を止め、警察官が彼の車に近づき、交通ルールを破ったと説明したと検察官は述べた。
警察の報告書とソーシャルメディア上で拡散されたビデオの矛盾もあり、事件の正確なきっかけは依然として不明である。フランス24紙によると、警察はネヘル容疑者が警官の1人に向かって車を運転したと発表しており、ビデオには警官の1人が彼に武器を向けて「頭に銃弾を受けるぞ」と言っている様子が映っている。
ネーヘルは黄色のメルセデスを運転した。車には2人が乗っていたが、当時彼は無免許だった。伝えられるところによると、彼は以前の交通停止に従わなかったために拘留されており、9月に少年法廷に出廷する予定だった。
その後、警官はネーヘルを撃ったとみられるが、車はわずかな距離を走行して突然発進し、ネーヘルはその場で死亡した。警察は加害警察官を拘留し、金曜日に容疑をかけて自発的過失致死の容疑で捜査を開始した。
ロイター通信によると、警察官の弁護士ローラン・フランク・リエナール氏はフランスのテレビとのインタビューで、依頼人は運転手の脚を狙ったが、車が発進する際に衝突し、胸に向けて発砲したと述べた。報告書によると、同容疑者は「明らかに(警察官は)運転手を殺したくなかった」と述べたという。
家族の弁護士によると、ネーヘルさんはアルジェリア系とモロッコ系で、犯罪歴はなかった。彼は地元のラグビークラブでプレーし、貧困地域の人々が見習いを受けるのを支援することを目的としたプログラムに参加していた。ネーヘルは電気技師になるつもりでした。
マクロン大統領はこの危機に対してさまざまな反応を示しており、当初は銃撃事件を「不可解」で「許せない」と表現していたが、その後抗議活動を非難し、暴力が増大している原因はソーシャルメディアからビデオゲームに至るまであらゆるものにあると非難した。
マクロン氏は、TikTokやSnapchatなどのソーシャルメディアプラットフォームが、特にネヘルさんを射殺した警察官の個人情報がプラットフォーム上で出回った後、暴動をあおるのに役立った、と主張した。同氏は、政府がソーシャルメディアサイトと協力して「最も機密性の高いコンテンツ」を削除し、「無秩序を呼びかけたり、暴力を激化させたりする」ユーザーを特定すると述べた。マクロン大統領はまた、国内の法執行機関内に組織的な人種差別があったことを否定した。
ネーヘルさんの母親は警察が「アラブ人の顔」に暴力的に対応したと非難し、一部の観察者らによると、大規模でサービスが行き届いていない北アフリカ系移民(主にイスラム教徒)と警察との間に潜在的な緊張があることに注目を集めた。
ネーヘルさんには犯罪歴はなかったが、2021年以来5回警察による検査を受けており、停止命令に従うことを拒否していた。停車のほとんどは、無免許運転や無保険、虚偽のナンバープレートの使用などでした。
このビデオと、隠蔽工作のような印象を与えた警察の矛盾した証言は、一部のフランス国民の怒りを引き起こし、最初のデモ参加者につながった。ニューヨーク・タイムズ紙の報道によると、デモ参加者らは、ネーヘルさんの死はフランスの法執行機関の根底にある人種差別の表れだと主張している。
事件以来、デモ参加者らは警察と激しく衝突しており、デモ参加者が警察官に石や花火を投げつけたり、車両やゴミに火をつけたり、建物を汚損したりするなどして逮捕者が増加している。
最初の抗議活動はナンテールで発生したが、3日目までにパリ本土、マルセイユ、リヨン、トゥールーズ、ストラスブール、リールなど他の町や都市に広がった。
マルセイユの暴徒らは銃器店を強盗し、狩猟用ライフルを奪ったが弾薬は受け取らなかった。
土曜日、マクロン大統領は、抗議活動と暴力的衝突が拡大し続ける中、物議を醸しているエルトン・ジョンのコンサートに出席したにもかかわらず、国内の危機に対処するためドイツへの旅行をキャンセルした。
彼は抗議活動への対処方法を決定するために国会の緊急会議を招集し、最終的に抗議活動の鎮圧に4万5000人の警官と装甲車両を投入することを決定した。当初、法執行機関は約9,000人の警察官のみを配置していた。
土曜夜の時点でロイター通信は、マルセイユやニースなど国内各地で散発的な暴力が勃発しているものの、状況は落ち着いていると報じた。来年のオリンピック開催地であるパリでは、ソーシャルメディアが抗議活動参加者にシャンゼリゼ通りに集まるよう呼びかけたとされ、警察はシャンゼリゼ通りの警備に警察官を増員した。
フランスのジェラルド・ダルマナン内務大臣は、テレビニュースチャンネルで 政府が 非常事態を宣言するかどうかとの質問に対し、「端的に言えば、いかなる仮説も排除するつもりはなく、選択します。今夜以降に共和国大統領の判断が分かるだろう」と述べた。
子供の頃に読んだ/聴いたコンテンツで、大人になってから気になっても、調べきれないものって、多いと思う。
・音楽
音楽は、以前NHKで、「ステージ101」という番組があって、たしか日曜の夕方くらいに放映されていたと思ったけど、その番組では、オリジナル曲も多かったけど、ヤング101というメンバーが海外の曲の、今で言うカバーをよくやっていた。ビートルズのヘイ・ジュードとか、エルトン・ジョンのクロコダイル・ロックとかね。
その中で、メロディというか雰囲気が今でも気になっている曲で、こんなのがあった。
ぼくの魂でありました」
という曲。わりと軽快な感じ?
もう一つは、ちょっと暗めの曲調で、
…空中ブランコ、やめろ!」
という曲。曲の雰囲気が子供心に不気味で、本当にこの程度しか思い出せないのだが、いまだに気になっている。
※曲は、歌詞は和訳だしメロディくらい分からないと何のことか分からんね。適当にメロディ録ってみるかな。
・漫画
当時は家の環境もあってあまり漫画を読む機会もなかったのだが、一つだけ今でも気になっている作品がある。
おそらく少年誌系のおそらく漫画雑誌に掲載されていた(と思う)作品で、おそらく宇宙空間を旅する系のストーリー。
主人公は、宇宙空間に漂う巨大な生物のようなもの(巨大な平べったいナマズのような姿)の内部を探検している。
その内部には、岩っぽいものがあったり小川や池のようなものがあるのだが、主人公が池の畔に辿り着いたときに、おそらく小川の上流の方から、人っぽい生物が何体か現れる。
彼らは、細長い容姿をしていて、頭髪はなく眼は単なる白抜きの楕円、一様に片手を上げて「やあ」と言ってくる。
年代的にはおそらく70年代初期、手塚治虫ぽい絵柄で、手塚治虫の作品から探してみたけど、自分の調べた範囲では、それらしい作品は見当たらなかった。
また、当時の漫画に詳しい知人に聞いても、よくわからない、とのこと。
それにしても、70年代ってもう50年前なんだな、おそろしい。
エルトン・ジョンがその栄光の影で、ドラッグや酒に溺れお世辞にも幸福とは言えない状態を経験し、そこから立ち直る様を描いたお話で、『ボヘミアン・ラプソディ』(監督も同じだしね)や『エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜』とかそんな流れの映画だ。
こういった類のストーリーを見聞きしたとき僕は、多くのファンがいても孤独を感じるんだなとかどれだけお金があっても愛は手に入らないものなのかなといったぼんやり浅薄な感想に終始していた。
でもこの映画のエルトン・ジョンを見て彼らがなぜ孤独に取り憑かれて様々な依存症へと転落していくのか、なんだか腑に落ちるものがあったので頭の整理のために書き記しておく。
僕のような凡人も、当然日々人並みの孤独を感じて生きている。
それは僕が、人見知りのコミュ障で、才能もないし、お金もないし、成功もしてないし、顔はぶさいくでモテないからだ、とかまあ永遠に列挙できるんだけど、
お金持ちになったら、イケメンになったら、仕事で成功したら、誰かの愛を勝ち取って幸せになれるんじゃないかって恥ずかしながら思ってる。
もう孤独は、解消することは不可能に思えるだろうし、何かしらによって紛らわせ逃避するばかりになるのだろう。
やっかいなのは、孤独は大勢に愛されれば解消できるものではなく、自分が愛してもらいたい人に愛してもらえないと意味ないということ。
そして、顔や才能や財産をきっかけに人を好きになることはあれど、根本的に愛って損得やリーズナブルな理由を超越した絆を意味するものだから、
やっぱり持ち物が少ないほうが愛を感じやすいのだと思う。
すべてを手に入れて多くのファンに愛されているのに、お父さん、お母さん、好きな人は自分に向き合ってくれないの?とか、もうしんどい。
なんつって、ここに来てすごく当たり前のことを書いてることに気づいちゃったw
Your songが生まれるシーンなんか実写版幸福って感じで、心震えた。
悲しい映画じゃないのに、僕は観終わったあとなぜか激烈に寂しくなったから、これから観に行く人はだれかと一緒に行くことをおすすめする。
昨日書き忘れたので、合わせて書く。
フロントプルダウン 57-47-37 kg, 52-42-32 kg 10回ずつの2セット
ダンベルカール 13-10-8 kg 15回、10回の2セット
もしかしてなんだけど、筋トレは最低2セットはやったほうがいいのではないだろうか?
昨日
消費: 416 kcal
消費: 837 kcal
映画『ロケットマン』を観た。ぶっちゃけ流れは『ボヘミアン・ラプソディー』とだいたい一緒だが、話の終着点が異なる。『ボヘミアン・ラプソディー』はラスト20分のライブシーンに繋がるためにフレディ・マーキュリーの話が展開していくが、エルトン・ジョンの物語はそうではない。最初から一貫して示されていたあるテーマのゴールを探す話になる。ストーリー性って意味ではこっちの方があるなあと思った。ただしエルトン・ジョンの曲をほとんど知らなかったという致命的な問題もあった。
ホットドッグとキャラメルポップコーン。結構多めのお供たち。なぜなら本編240分。
たしかに一作目も2時間超えだったから、今回もフルボディなのね。
キングスマンの組織が倒されちゃうところから始まる、チャーリーズエンジェル方式ね。なんて言いながら鑑賞。
言えることは2つ。
エルトン・ジョンはなぜあの映画にあんな出方することを許したんだろう。
とても楽しそうだったしお芝居もとても上手だったけど。製作陣に今のオキニイリがいるのかな。
240分に感じられないスピーディーさは1作目に引き続きとっても好きだった。
男性が見ても女性が見ても、楽しめるポイントが多い。エグジー派かマーリン派かとかね。
うちに帰って、同居人と1作目を見直した。食い入るように観てたのでホッとした。
pixivでどのカップリングが人気なのか確認してみたけど、エグジー単体が人気のよう。
そういえば今日は街ゆく紳士たちが持っている傘から銃弾が出てくるのかなってソワソワしたなあ。
雨やだなあ。
1,なぜ同性愛結婚をしたいのか理解できない。特に結婚式をあげたいというのが理解できない。
結婚式って異性間で行うように作り上げられてるじゃん。例えば衣装にしても、男性はこの服装で女性はこの服装でって。それを無理やり同性で二人ウェディングドレスとか着て異性婚者とおんなじ格好して結婚式をあげる意味がわからない。ウェディングドレスとか異性婚を前提としてそれに意味が付与されているわけだし、神父の言葉とかもそれを前提とされてるじゃん。
そういう以前からある異性婚を前提とした因習をもとにしたものなのに、同性愛者がそれをしたいというのが理解できない。同性愛ってそういう因習とかから自由なものじゃないの?
例えば、同性愛者の結婚類似の結びつきを祝う、独自の形態の祭りを発展させればいいじゃん。なんでわざわざ異性愛者と同様の結婚形式をとろうとするの?
「理解できない」っていうか、理解=受容する気がないだけでしょ。
異性婚者の結婚式は「異性婚者だからあの格好」なんじゃなくて、それを着る人が男性あるいは女性だからあの格好なんだよ。そこを意図的にごっちゃにすんなよ。
男性はこの衣装で女性はこの衣装って決まってるから、同性婚のときも男性同士は二人とも男性の衣装で、女性同士は女性の衣装でやってるってだけじゃん。
そもそも結婚式で異性婚前提にされてるのは祝詞くらいなんじゃないの?
少なくとも日本の結婚式においては宗教的意味はすごく薄れていて「結婚する二人のお披露目・お祝い会」ってのが存在意義なんだから、祝詞をそれに合わせて変えることが言うほど非合理的と思えない。
なんでわざわざ「結婚類似の結びつき」を別に作って独自の祭りを今から発明しなきゃいけないの?めんどくせえ。めんどくさすぎる。
それにその路線で行くとどうせその「お祭り」ではウェディングドレスや燕尾服や白無垢やその他異性婚者が今結婚式で使ってる衣装は使うなとか言われて着ると叩かれたりするんでしょ?
でも個人が個人のイベントで何着ようと本来は自由であるべきなんじゃないの?
2,なぜ同性愛者が異性愛者と同様の愛の形を持っていると当然のように語るのかがわからない。
いやさ、世の中には様々な性愛の形があって、人に相当の迷惑をかけない限りそれぞれ認められるべきだと思うわけですよ。SM,グロ,動物。。。いいんじゃん?
でもなぜ同性愛だけが異性愛と同様の地位を占めるべきって主張できるの?
例えば統計的に同性愛者も異性愛者と同様の長い期間1対1の強い結びつきを維持すると証明されてるの?パートナーをとっかえひっかえしたりしないの?ほら、一部のゲイたちは「ハッテン場」とか言って乱交に近いような行為をする傾向にあるとか、まことしやかに言われるじゃん。それって一般的な結婚をするような異性愛者の行動とはかけ離れてると思うんだよね。もちろんそういう人たちが同性愛者の一部でしか無いのかも、とも思うけど、一部なのかかなりの部分なのか全然外からはわからないよね。友人にも直接は聞けないけど、なんとなく飲みの席とかで聞くには性に奔放だよね。
もし、安定したカップルが形成できていてそれで異性間結婚と同様の社会的認定を受けたいなら、やっぱり結婚類似の制度を作ってそれで認定してもらえばいいよね。それで結婚と同様の扶養とかの制度を受けられると。結婚と全く同じ制度である必要はないよね。
制度に愛の形とか持ち出すことの意味がわかんない。なに「愛の形」って。愛って有形なの?
人に相当の迷惑をかけない限り認められるべきなら、同性愛者で結婚考えてる人はお互い好き合って結婚するわけで誰にも迷惑かけてないんだから認められるべきじゃん?
なんで同性愛が異性愛と同様の地位を占めるべきでないって主張できるの?
カップルの安定度? 安定度で測るの? つーか安定度って何??
パートナーをとっかえひっかえするのだって「人に迷惑をかけない」なら認められるべきでしょ。それは異性愛間でだってそうじゃん?
逆にそれで人に迷惑をかけるんだったらそれは異性愛同性愛関係なくやめるべきじゃん?
なんで「結婚類似の制度」が必要なのかが全然説明されてないんですけど。
3,そもそもなんで結婚して結婚と同様の社会的認定や庇護が得られると思っているのかわからない。
結婚して何かメリットが得られるとしたら(本当にそんなものが得られるのかは不明だが)、それを同性愛者がほしいと思うのは理解できる。でも、それが与えられるかは別の話だ。
例えば、日本人のだれかがアメリカ人にとっての当然の権利であるアメリカの投票権がほしいと思ったら、、、アメリカに帰化するしか無い。「日本人のままでもアメリカの投票権がほしい」というのは気持ちは分かる。僕ももらえるならほしいかもしれない。でも、そりゃむりだろう。
なので、これまで異性間のものとして扱われてきた結婚というものに同性愛者が入り込んできても、すぐにじゃあ同様の認定と庇護を与えましょうというわけには行かないんじゃないかな。
こういう結婚はこれまでの歴史、経緯で異性間のものとして扱われてきたという話をすると、「武田信玄も男の小姓に恋文を書いていて、同性愛は歴史的にも認められてきた」とか主張する人がいる。これは無理筋だと思う。僕も同性愛は長く歴史上存在してきたんだろうな、と理解はしている。だけど、同性結婚は直近の近代まで認めた社会があったとは聞いたことがない。同性愛は否定も差別もする気はないが、同性婚はそれとはまた話が別じゃないかな。
え、なにこれ。「ぼくは同性婚者に異性婚者と同等の庇護や認定や権利を与えたくありません!」って言ってるだけじゃん。論拠とか無いじゃん。
あなたが同性愛者イヤだから同性愛者に結婚制度認めたくないんですってゴネてるだけですよね。
「昨日まで黒人は奴隷だったんだから今日から法律変わって自由人になったからって白人と同様の認定と庇護を与えましょうというわけには行かないんじゃないかな」、って話に対して、「そりゃ法律変わったし本人ら何も悪いことしてないんだから認定と庇護与えない方がアカンのは明らかでしょうが。与えないこと正当化してんじゃねえよ」とか思わんのかいな。
いやどんな感想を抱くのも自由だけど、それを他人にもっともらしく主張して認定と庇護を付与する云々レベルにまで真顔で首を突っ込んでくるのはやめてくださいよジョークでも不快なのに。人の権利左右するような話題ですよ?
鬱陶しいし怖いわあ。これが通っちゃったら「ぼくは女に選挙権とか認めたくありません!」「わたしは男は全員去勢するべきだと思います!」とかも通っちゃう話になるじゃん。
イメージとしてはリベラルをきどりたい異性愛者の声が大きいようにみえる。たとえばエルトン・ジョンのように著名人が日本でカミングアウトをして権利拡充を歌っているのだろうか。マツコ・デラックスやミッツ・マングローブですら、「オカマ」という売り出しで同性愛的側面は強調していないように思える。また、そういう活動もしていないように見える。
誰が推進してるかってそんなに重要か?
つうか普通に同性愛者の団体とかが推進してんじゃないの。今だって権利制限されすぎだし。普通に同性婚が制度として確立されれば同性カップル利益あるじゃん。
ということで、「同性愛者に対する結婚類似の制度を作って認定していくべきだが、結婚と同じにしてしまうべきではない」というのが理解できない。
本人たちはなんでそんなことしたいと思うんだろう。
また、それを積極的に認めていこうと考えている異性愛者たちはちゃんとつきつめて考えているのだろうか。
ぼくには「同性愛者の友人もいる」し、全然同性愛者を差別する気はないんだが。
1,なぜ同性愛結婚をしたいのか理解できない。特に結婚式をあげたいというのが理解できない。
結婚式って異性間で行うように作り上げられてるじゃん。例えば衣装にしても、男性はこの服装で女性はこの服装でって。それを無理やり同性で二人ウェディングドレスとか着て異性婚者とおんなじ格好して結婚式をあげる意味がわからない。ウェディングドレスとか異性婚を前提としてそれに意味が付与されているわけだし、神父の言葉とかもそれを前提とされてるじゃん。
そういう以前からある異性婚を前提とした因習をもとにしたものなのに、同性愛者がそれをしたいというのが理解できない。同性愛ってそういう因習とかから自由なものじゃないの?
例えば、同性愛者の結婚類似の結びつきを祝う、独自の形態の祭りを発展させればいいじゃん。なんでわざわざ異性愛者と同様の結婚形式をとろうとするの?
2,なぜ同性愛者が異性愛者と同様の愛の形を持っていると当然のように語るのかがわからない。
いやさ、世の中には様々な性愛の形があって、人に相当の迷惑をかけない限りそれぞれ認められるべきだと思うわけですよ。SM,グロ,動物。。。いいんじゃん?
でもなぜ同性愛だけが異性愛と同様の地位を占めるべきって主張できるの?
例えば統計的に同性愛者も異性愛者と同様の長い期間1対1の強い結びつきを維持すると証明されてるの?パートナーをとっかえひっかえしたりしないの?ほら、一部のゲイたちは「ハッテン場」とか言って乱交に近いような行為をする傾向にあるとか、まことしやかに言われるじゃん。それって一般的な結婚をするような異性愛者の行動とはかけ離れてると思うんだよね。もちろんそういう人たちが同性愛者の一部でしか無いのかも、とも思うけど、一部なのかかなりの部分なのか全然外からはわからないよね。友人にも直接は聞けないけど、なんとなく飲みの席とかで聞くには性に奔放だよね。
もし、安定したカップルが形成できていてそれで異性間結婚と同様の社会的認定を受けたいなら、やっぱり結婚類似の制度を作ってそれで認定してもらえばいいよね。それで結婚と同様の扶養とかの制度を受けられると。結婚と全く同じ制度である必要はないよね。
3,そもそもなんで結婚して結婚と同様の社会的認定や庇護が得られると思っているのかわからない。
結婚して何かメリットが得られるとしたら(本当にそんなものが得られるのかは不明だが)、それを同性愛者がほしいと思うのは理解できる。でも、それが与えられるかは別の話だ。
例えば、日本人のだれかがアメリカ人にとっての当然の権利であるアメリカの投票権がほしいと思ったら、、、アメリカに帰化するしか無い。「日本人のままでもアメリカの投票権がほしい」というのは気持ちは分かる。僕ももらえるならほしいかもしれない。でも、そりゃむりだろう。
なので、これまで異性間のものとして扱われてきた結婚というものに同性愛者が入り込んできても、すぐにじゃあ同様の認定と庇護を与えましょうというわけには行かないんじゃないかな。
こういう結婚はこれまでの歴史、経緯で異性間のものとして扱われてきたという話をすると、「武田信玄も男の小姓に恋文を書いていて、同性愛は歴史的にも認められてきた」とか主張する人がいる。これは無理筋だと思う。僕も同性愛は長く歴史上存在してきたんだろうな、と理解はしている。だけど、同性結婚は直近の近代まで認めた社会があったとは聞いたことがない。同性愛は否定も差別もする気はないが、同性婚はそれとはまた話が別じゃないかな。
イメージとしてはリベラルをきどりたい異性愛者の声が大きいようにみえる。たとえばエルトン・ジョンのように著名人が日本でカミングアウトをして権利拡充を歌っているのだろうか。マツコ・デラックスやミッツ・マングローブですら、「オカマ」という売り出しで同性愛的側面は強調していないように思える。また、そういう活動もしていないように見える。
ということで、同性愛者が結婚をしたいというのが理解できない。
僕の意見では、将来的には同性愛者に対する結婚類似の制度を作って認定していくべきだが、結婚と同じにしてしまうべきではない。また、同性愛者たちは結婚類似の制度ができれば、異性愛者と同様に安定した家庭を築いて社会に貢献できる、ともっとアピールすべき。
異性愛者の結婚が以前より多様化、不安定化していて、異質な結婚形式を認める準備ができている、というのもそのとおりだとは思うしね。
同性愛結婚に反対する人が「僕にも同性愛者の友人がいるが」と話すことに対して、反論者が「テンプレうざい」的な反応するのはなんなんだろうね。わけわからん。