はてなキーワード: エペとは
急進的な著者の本が主流紙で書評されることは、ましてや好意的に評価されることは滅多にない。デヴィッド・グレーバーとデヴィッド・ウェングローによる『万物の黎明』は例外である。わずか2ヶ月前に出版されたこの本は、すでに世界で最も影響力のある英字新聞や雑誌の多くから賞賛を受けている。
著者のアナーキズムの主張に疑問を呈する書評家でさえ、「3万年にわたる変化に関する岩盤の前提を覆す見事な新説」(アトランティック誌)、「多くの大陸と数千年にわたる文明に関するめくるめく物語の数々、そのすべてが自由であることの意味に取り組んでいる」(ワシントン・ポスト紙)と称賛している。また、ソーシャルメディア上の左翼的な投稿者たちからも、好意的なコメント-場合によっては絶賛!-が寄せられている。
しかし、以下に掲載する2つの書評は、いずれも唯物論的人類学者によるもので、この本の人類史に関する記述は、大量の反対証拠を無視しており、その政治的主張は観念論的で自発主義的であると論じている。どちらの書評も特に、女性抑圧の原因を考察していないことに批判的である。
クリス・ナイトはユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの人類学上級研究員で、アフリカにおける人類の起源を研究するチームの一員である。著書に『Blood Relations(血のつながり)』など:Menstruation and the Origins of Culture』、『Decoding Chomsky: Science and Revolutionary Politics』などがある。The Dawn of Everything』の書評はTimes Higher Educationに掲載された。
ナンシー・リンディスファーンとジョナサン・ニールはともに人類学者として訓練を受け、人類の進化、階級社会、性的暴力についての本を執筆中。ナンシーの近著は、リチャード・タッパーとの共著で『Afghan Village Voices』(アフガニスタンの村の声):Stories from a Tribal Community, 2020』である。ジョナサンの近著は『Fight the Fire: Green New Deals and Global Climate Jobs』。The Dawn of Everything』の書評はエコロジスト誌とブログ『Anne Bonny Pirate』に掲載された。
本書は楽しく、有益で、時には爽快である。また、根本的なところで支離滅裂で間違っている。ヨーロッパに洞窟壁画が現れ始めた頃からの、比較的最近の先史時代について学びたいのであれば、必読の書である。しかし、人類が最初に笑い、歌い、話し、芸術、儀式、政治を創造し始めたのはなぜなのか、どうしてなのかを知りたければ、きっと失望するだろう。
この本のタイトルは深刻な誤解を招く。『万物の黎明』? 『お茶の時間』の方が正確だろう。ホモ・サピエンスがヨーロッパに到着する何万年も前にアフリカで始まった文化の開花を体系的に横取りし、この物語はあまりにも遅く始まる。
欠点はあるが、この本は広報の勝利である。フリードリヒ・エンゲルスが『家族、私有財産、国家の起源』を出版して以来、左翼知識人や活動家が人類の社会的起源や先史時代の過去について学ぶことにこれほど興奮したことはない。
短い書評では、本書の幅の広さと博識を伝えることはできない。その核となる政治的メッセージは露骨だ。平等主義の狩猟採集民が生活の中で共産主義を実践したというエンゲルスの話は神話である。『万物の黎明』はエンゲルスを見事にひっくり返している。第4章の結びの言葉を引用すれば、「私有財産に "起源 "があるとすれば、それは聖なるものの考え方と同じくらい古いものであり、おそらく人類そのものと同じくらい古いものであろう」。デヴィッド・グレーバーは、マーシャル・サーリンズとの共著『王について』の中で、神の王や森の精霊のような想像上の超自然的な存在が常に人々に対して権威を行使してきたことから、国家権力の原理は人間の条件の不動の特徴であると主張している。
よりによってアナーキストが国家の必然性を受け入れるのは逆説的に思えるかもしれない。しかし、本書はそのメッセージに重みを与えている。そう、著者は言う。アナーキスト的な自由は実現可能だが、それは貴重な瞬間や飛び地に限られると。もうひとつの世界は可能である」という革命的スローガンはもうたくさんだ。その代わりに、グレイバーとデイヴィッド・ウェングローは、「階層と平等は、互いに補完し合うものとして、共に出現する傾向がある」と主張している。ある場所で自由を手に入れるには、別の場所での抑圧を受け入れるしかない、と彼らは言っているようだ。
著者たちはダーウィンの自然淘汰理論に違和感を抱いており、現代の進化論を「社会進化論」と混同している。現代の進化論は科学的であると主張するが、実際は純粋な神話である。グレイバーとウェングローは、進化論をまったく認めない人類の起源についての視点を、読者が真剣に検討することを期待しているのだ。
彼らが認める唯一の科学は応用科学であり、この場合は「考古学的科学」である。彼らは、政治や社会生活については、古代の人類の「頭蓋の遺骨と時折出てくる火打石のかけら」からは何も読み取れないと主張することで、「万物の黎明」の年代をわずか4万年前とすることを正当化している。この言い訳は、人類の最もユニークな特徴である芸術や象徴文化が、これまで考えられていたよりも3、4倍早くアフリカで生まれたという、説得力のある最近の証拠に照らすと、弱々しく見える。その証拠とは、骨や石だけでなく、ビーズ、幾何学的な彫刻、埋葬品、砥石や絵の具壺などの工芸品である。
彼らが "フェミニスト "と呼ぶ人物(実際には進化人類学の第一人者サラ・ハーディ)が、現代人の本能と心理を形成する上で集団的育児が重要な役割を果たしたことについて興味深いことを言っていることは、グレーバーとウェングローも認めている。しかし彼らは、「エデンの園は存在せず、一人のイヴも存在しなかったのだから、そのような洞察は部分的なものにしかなりえない」とコメントしている。この種のトリック--この場合は、ハーディの研究が "アフリカのイブ "の年代測定より200万年前にホモ属が出現したことに焦点を当てているという事実を無視すること--は、明らかに人類の起源研究が追求する価値があるという考えそのものを損なわせることを目的としている。
グレーバーとウェングローは、初期の平等主義を "有害な神話 "として否定する一方で、狩猟採集民の多くが "自称自慢屋やいじめっ子を地上に引きずりおろすために、嘲笑、羞恥心、敬遠など、他の霊長類には見られない戦術を総動員している "ことには同意している。ではなぜ彼らは、私たちの人間性を規定する本能や能力が平等主義的な生き方によって形成されたという考えに敵対するのだろうか?
私たちは皆、社会的・政治的に対等な人々と笑い、歌い、遊び、交わることができるとき、最も幸福を感じる。しかし、グレイバーとウェングローは、この事実を土台にする代わりに、狩猟採集民の祖先も同様に、攻撃的な男性による嫌がらせや虐待、支配を選んだかもしれないと言っているようだ。進化人類学者クリストファー・ボームが描く、反権威主義的抵抗の中で形成された道徳意識の高い社会に対する反論をまとめると、狩猟採集民の祖先は一貫して平等主義を好んでいたという彼の考えを、彼らは「初期の人類をさりげなくエデンの園に投げ返している」と表現している。
グレーバーとウェングローの基本的な論点は、政治的選択の自由に関するものである。彼らの考えを説明するために、人類学の古典であるエスキモーの伝統的な生活の説明を思い起こさせる。アザラシを狩る彼らは、夏の間は家父長制的な家族構成を確立し、冬の間は共同生活(夫と妻を含むすべてを共有する)に戻るだけである。私たち人類は、その本性上、大胆な社会実験に駆り立てられるのだと著者は結論づける。その結果、奴隷制度や人身御供、大量殺戮といった極端なヒエラルキーが形成され、破滅的な結果を招くこともある。しかし、遠い過去の良い点は、少なくとも現代のようにひとつのシステムに縛られることはなかったということだ。
この歴史は対立と交替に満ちているが、その周期性はエスキモーの周期性に倣ったもので、一方的な季節性である。グレイバーとウェングローは、ほとんどの狩猟採集民が季節だけでなく月の周期にも従っていることを知らないのだろうか。月経の満ち欠けと結びついた女性の儀式は、基本的に月によって予定されている。
著者たちが問いかける重要な問いは、"なぜ不平等になったのか?"ではなく、"なぜ行き詰まったのか?"である。彼らは自らの問いに答えられるところまで来ているだけに、そこにたどり着けないことに深い苛立ちを覚える。自らに課したハンディキャップのひとつは、女性人類学者による狩猟採集民の研究を見落としがちなことだ。例えば、適切な参照もなしに、彼らはモーナ・フィネガンの共産主義の概念に触れている。彼女は、コンゴの熱帯雨林に住む女性たちが、男性たちが筋肉質な勇気と優位性を発揮する可能性を示すよう意図的に促していることを記録している--男女間の「力の振り子」で優雅に降伏する前に、「ンゴク」と呼ばれる女性だけの儀式で男性たちをあざ笑い、反抗するのだ。しかし、グレイバーとウェングローは、この政治的知性の表現を認める代わりに、ここでの成果やパターンを見出すことなく、それに言及している。
なぜ私たちは行き詰まったのか?正しい答えは、人類が農耕に依存するようになり、太陽暦が月暦の儀式よりも執拗に優先されるようになったからだ。私が最もよく知る先住民、タンザニアのハザ族の弓矢猟師たちは、今でも彼らの最も重要な宗教儀式であるエペメを、新月前後の最も暗い夜に毎月行っている。
太陽と月の中間的な存在であり、世界中でたどり着いた無数の妥協案のひとつが、中世ヨーロッパで毎年行われていたカーニバルの伝統である。庶民が今でも大切にしている伝統は、家父長制の秩序を逆転させるこのライセンスだった。
残念なことに、この「新しい人類史」は、その始まりがあまりにも遅く、アフリカが物語から切り離されているため、女性の抑圧とマンネリ化した現在の苦境との因果関係を説明することができない。
グレーバーとウェングローの新著は、エネルギッシュで、献身的で、万華鏡のようだが、欠点もある。これは私たちに問題を提起している。
デヴィッド・グレーバーはわずか1年前に若くして亡くなった。彼の代表作である『Debt』は、部分的には思わせぶりかもしれないが、その野心は当時としては刺激的だった。活動家として、またオキュパイ運動や社会正義運動のリーダーとしてのデイヴィッド・グレーバーの活動は異例であり、模範的であった。LSEの人類学部門の同僚たちからの彼への尊敬と愛情は、そのことを物語っている。そして、彼の心は常に虐げられた人々とともにあった。
しかし、グレバーが善人であり、つい最近この世を去ったばかりであったからこそ、多くの人々にとって『万物の黎明』が、今後長い間、不平等の起源に関する理解の枠組みとなってしまう危険性がある。
本書の裏表紙には、レベッカ・ソルニット、パンカジ・ミシュラ、ノーム・チョムスキー、ロビン・D・G・ケリーといった、著名で立派な思想家たちからの賞賛の言葉が掲載されている。ケリーはその代表的な例として、「グレーバーとウェングローは、私がこれまで世界の歴史について考えてきたことを、事実上すべて覆した。この30年間で読んだ本の中で最も深遠でエキサイティングな本だ」。
この本は最近、マスコミでかなり注目されているが、このような賞賛が一般的な見方になったら残念である。
人類の進化と歴史における不平等の起源という問題は、私たちがどのように世界を変えようとするかという点で、非常に重要である。しかし、グレイバーとウェングローは平等や階級に目を向けることなく変化を求め、環境や生態系の説明を敵視している。これらの欠点は保守的な意味合いを持つ。
では、ここから。これは膨大な本の、乱暴で部分的な書評である。私たちは、グレバーが知的な議論の切り口を愛し、得意としていたという知識で自分自身を慰める。
この本の最後の段落、525-526ページで、グレーバーとウェングローは自分たちの立場を明確に示している。彼らはこう書いている、
例えば、他のあらゆる点で厳密な研究が、人間社会には何らかの「原型」があり、その性質は基本的に善か悪かであり、不平等や政治的意識が存在する以前の時代があり、このすべてを変えるために何かが起こり、「文明」と「複雑さ」は常に人間の自由と引き換えにもたらされ、参加型民主主義は小集団では自然であるが、都市や国家のようなものまでスケールアップする可能性はない、という未検証の仮定から始まる場合。
つまり、神話を打ち砕く者たちは、人間社会の原型は存在しないこと、不平等や政治的意識が生まれる前の時代は存在しないこと、事態を変えるようなことは何も起こらなかったこと、文明や複雑さが人間の自由を制限することはないこと、参加型民主主義は都市や国家の一部として実践可能であることなど、正反対のことを言っているのだ。
このような断定的な声明は、非常に大胆に述べられ、新しい人類史を書いたという彼らの主張を魅力的なものにしている。しかし、2つのつまずきがある。
第一に、彼らの主張そのものが、彼ら自身の政治的プロジェクトと対立している。第二に、証拠が彼らが言おうとしていることにそぐわない。
私は今まで「子どもなんていたらゲームの時間無くなるじゃん!絶対いらねー!」と思ってたんだが、ここ数年で今まで大好きだったゲームへの熱量がどんどん冷めていくのを感じている。
今の仕事はクッソ楽だし毎日7時間以上寝てるし休みもまあまああるから体が疲れてるとかではないのに、最初は楽しかったエペもスプラもゼルダですらも1時間以上やるともういいかな…という気分になる
昔は平気で飲まず食わず10時間以上できてたゲームも今年で30になった今はこんなに無気力になりYouTubeのショート動画を無心で眺めることしかできなくなった
ま〜〜〜〜〜ったくもうどうして職場の人間たちは人のプライベートに興味がある連中ばっかりなんだろ〜〜〜か。
人に趣味とか休日の過ごし方聞いてくるくせに、酒もタバコもギャンブルもアニメもゲームも最近は興味ないですって言ったら面白くないな〜って言ってきやがって、こっちからすりゃあちょっと時間空いたら共通LINEでアニメとゲームの話ばっかしてる君たちの方がキモいよ、業務LINE以外にグループ作ればいいのにさあ。
そんでもって結婚してて子供欲しいとか言ってるわりには、休日の半分くらいは職場の人間とオバウォだのエペだのやってんだってね?30超えてそれやってんのは勝手だけどこっちを巻き込もうとするんじゃあねえよ。
プライベートを知った方が仲良くなれる!とか抜かすから、みんなと同じようにちゃんと嘘なく話したら、あまりにも想像つかなすぎたのかすごい塩対応されるようになったし、何なんだと思ってたら同期から、実家太くて僻んでるんじゃないですか?笑って、いやいや実家細いのに子供作ろうとしてるアンタらの自業自得やんけ!としか思わんわ、持ってるカードで戦ってんなら文句を言うんじゃないよ全く。
ま、もうプライベートの話はガチガチにシナリオ作り込んだから本当のことなんて一切話さないし、会話にも塩対応するんでいいですが。配属期間満了で退職する気満々だし、甘い汁だけ吸わせてもらいますわ。
今のはてなは女叩きのメッカと言っていい状態で、特に最近運営が手を入れるまで半年ぐらい主に増田の女叩き記事が延々毎日複数個ホッテントリ入りしていた。
元々弱者男性論が幅を利かしているところで、そこまでは許容範囲なのだがそこで男性社会での疎外や表現規制の主題を扱えばいいのに女叩きの方に行ってしまい、雪だるま式にルサンチマンやデマで埋まってしまう。
更に最近だとコロナ初期での反PCR運動という反技術ラッダイトムーブメントの中心となり社会に甚大な悪影響を与えたのが記憶に新しい。
はてなは2010年頃からブクマリニューアルとか日経との提携とか「キャズムを超える」為の施策を色々やってたんだが、その結果キャズム超え出来ずに土着化したようなユーザーの楽園になってしまったんじゃないかと思われる。
創業当初のはてなは個性的な「変な会社」で、技術志向のユーザーと運営の距離が近かった。障害が発生したらその障害の内容を技術的に解説する、todoリストを公開する、ユーザーがwantリストに書き込める等の特徴があった。
人力検索だけだったサービスにはてなブックマークとダイアリーを加えると数年でユーザーの特徴や偏りが顕著になった。
IT技術者、経営者ワナビー、リベラル、非モテ、がメインユーザーとなった。
IT技術者が多いのははてなの運営特性に合致するターゲット層だから。
経営ワナビーは小泉改革と大人気学者だった竹中の影響だが、肝心の経済に弱いという特徴があった。日本の経済構造を一新する改革側に居れば既存の経済活動に関する知識や経験は必要ないしそれが自分を幸せにすると信じていた。金融とは証券取引の事と信じそれらとM&Aの記事に金融タグを付けて経済通のつもりになっていた。商慣行や銀行との付合いには無知だった。
リベラルが多かった理由は2chの隆盛の為だ。まだネットの書き込みに関する事件捜査は行われておらず、ブログや掲示板を炎上させれば意見が通ると信じられて全能感に浸る2chネラーが暴れており、その対極としてはてなが位置づけられていた。故にこの頃のはてなは一部のネラーに憎悪されていてはてな=在日朝鮮人などという病識がないコピペで溢れていた。「2chの専門板ははてなでは敵いませんよ」という有名な文章があった。このころの2chネラーの全能感に棹さしてキャリアスタートさせたのが佐々木俊尚。
非モテは今に繋がるが、この頃は革非同などネタに昇華させて外国メディアに記事にされたりもした。
はてなユーザはこういう布陣でいた訳だが、一方で「キャズム」が問題になっていて『キャズムを超えろ』なんてブログが人気をはくしてもいた。
キャズムとは断崖の事で、新製品の受容ユーザーをイノベータ→アーリーアダプタ→マジョリティと分類した時に分布が正規分布になり、そのベルカーブの縁の部分を超えて広がるのが困難だという事である。
当時のネットはキャズムを超えられずベルの端っこの下、ロングテール部分にしか訴求出来ていない。これは製品の販売量で規模の経済が働かない、それ故広告料も上がらないという事である。
はてなはユーザーが特殊で偏っていて更にブクマのせいで喧嘩も多いという特殊な環境で、それで一般の人に忌避され、日記を始めてみたけど止めちゃう、アメーバに乗り換えちゃうというケースも多かった。
そこでキャズムの中のキャズムを打破すべくはてなは2010年頃から色々なイメージアップ策をするようになった。
・日経と提携する:経済意識が高いユーザーが多いのに応えてだと思われる。B層的であり経済事件などに不如意な点も経済記事を毎日読めばリテラシーがアップすると期待されたと思われる。
・綺麗なオフィスを公開する:会社のイメージアップと社員の採用面で重要。
・旅ブロガー等の推し:ココロ社氏やメレ子氏、在華紡氏など、一般受けしやすい旅&食べ物ブロガーを推してインタビュー記事などを掲載。最後の在華紡氏は喧嘩や炎上があると必ず火事場にガソリン持って立ってる人で推していいのかと不安に思うが、この甲斐あって彼等ははてな出身ライター、ブロガーとして多種媒体に出るようになった。
・はてブの改変:人気コメントだけだが表示されるようにするなど。ブコメ欄での論争低減を狙ったものと思われるがかなり不評でユーザーの流出もあって元の仕様との折半になっていった。
だがこうやって一般化を目指すと一つまずい事がある。
はてなのユーザ層はオタクに寄っている。そこでキャズムを埋めると一番流入するのは当時隆盛を誇っていたまとめブログ層じゃないのか?すると一般人とのキャズムはより深くなってしまう結果となる。
このまとめ民流入が増えた時機ははっきりしていて2018年だ。18年にネトウヨ春のBAN祭り騒動というのがあり差別デマや文字スクロール動画で埋まっていた日本版Youtubeが大掃除されたのだがそれでネットでの風向きが変わった。
更にこの前後からまとめブログでの広告引き上げが続いており、要するにまとめブログがおいしい商売では無くなった。元々差別的なまとめブログが隆盛となったのは広告料の上昇によるもので商売の形として確立され情報商材屋のシマともなった。しかも情報商材屋はネット広告でカモを集めるというループである。ネット広告キャパが拡大するに従って拡大した循環参照だが、広告料の上昇で審査が厳しくなって商売にならなくなったのだ。
ヘイト動画の方は18年の前から米国で悪質動画が問題になっており、極右や極左、イスラムの過激派が過激動画で勢力を伸ばしている事が問題視されてgoogleは対策に追われていた。ISの殺人動画等は消されても支持者がアップしてしまうのでそれを上回る速度で面制圧して統制しろとの要求がユーザーだけに留まらず行政司法機関から出されていた。
その為にガイドラインが相次いで変更されノウハウが蓄積され組織化されていた。結局広告キャパの拡大がそれらのコンテンツを爆増させ、それにより広告料の上昇が阻害され、対策されて消され市場として消沈するという流れだ。
ところでイーロンマスクは買収相手の業態の上記の流れを知らなかった為に「広告料上昇阻害」のラインまで広告引き上げされた訳で素人丸出し過ぎるんだが、まとめキッズとかツイ廃キッズのままで経営出来ると思っちゃったんだろうか?不思議な人である。
こういう流れがあってまとめブログのパイが急速に縮小して代わりにはてなにまとめキッズ(中年)が増えたという流れである。
彼等はtwitter社の大量解雇ではコンテンツ制御部署や法務部署の存在理由や綺麗なオフィスをわざわざ見せる理由が判らずにバックオフィスを「キラキラ世田谷自然左翼」だとの認識に蝟集し、めいろまの「twitterはアニメやプラもが好きな人らのものなのにユーザーに背を向けている」との論難に快哉を送ってしまっていた。会社にバックオフィスがある理由やこれまでのネット事件での流れ(特に米国内)、メジャーサービスでのキャズムの超克というテーゼなどを何も知らない無垢さを現していて侘び寂びの念に包まれる。
ついでにM&Aでイーロン下でtwitter社が多額の負債を抱えることと成長企業は積極的に融資を受けて投資に回す事を混同しており、企業体質が巨額赤字だと信じていた。税制への無知である。後になって「LBOはそういうもの」等と誤魔化しているが、そもそも個人が手持ちの金で買うというスキームで考えていたので無駄である。これは給与生活以外の世界を知らないからでネットの経営者ワナビーの悪影響である。
新型コロナが流行し始めるとはてなでは「インフルより弱毒」「ゆっくり感染して社会免疫」「PCR検査数が増えると偽陽性が激増するので検査してはならない」との危険なデマが席巻する事になった。また悪質なブクマカがPCRを受けたいとの願う患者や意志を見つけ出しては悪罵して叩き潰すという行為に出た。
最早社会に対する驚異である。この時のはてなはパブリックエネミーと呼んで差支えない。
これらの主張が「科学的」の表皮を被っていた事は忘れてはならない。有名なのがベイズ推定での偽陽性の議論の援用だが、ベイズ推定はベイズ統計学の一つのタームでしかないので概念の理解が簡単な上に知的に背伸びした気分になれる。だがPCRの特性上、偽陽性が発生しないのだから適用出来るはずもない。
PCRは独立で機能出来る検査じゃなくて、DNAシーケンサーの開発と普及に拠っている。2001年頃にシーケンサーが開発され、塩基配列が容易に読めるようになった。更に開発競争により世に普及するとともにありとあらゆる生物、ウイルスの遺伝子が読まれるようになった。この時に沢山使用される試薬の需要に応じて多くの試薬ベンダや製薬会社の部門が設立され、例えば焼酎の宝酒造が設立した子会社がタカラバイオだ。
この流れでコモディティ化した技術がPCRで、生物由来の物品を扱う様々業種で利用されるようになった。もうコモディティ化して普及が始まって20年以上になる。
要するにバイオテクノロジーにキャッチアップ出来てない人間があれらのデマに乗っかっていたのである。そもそも遺伝子検査で偽陽性が出るという事に疑問を抱いて調べないものだろうか?遺伝子偽陽性とは端的に他の生物と配列が一致するって事で、人間ががんになったら光合成できるようになったとか、人間同士から時々マンモスが生まれるって事だぞ?
しかもコモディティ化した技術なら必ずマニュアルと技術説明は公開されている。ソーシャルブックマークなのにそういうのを探しに行かないのだ。
代わりに「最先端の特別な知」的なものに弱い。これは、それらは具体的に判る所まで判らなくても背伸びした知的な自意識が満足させられるのに対して、コモディティ化した技術や常識では具体的に判ったところでスタートラインのペエペエだ。自意識の面では効率が悪いのだ。
これは経済分野でも同じで、日本が発達した資本主義社会なので経済知識を身に着けるのは大変だ。学校では教えてくれずに社会に出てしか判らない秘術みたいな知識もかなりある。それを身に着けて初めてペエペエなのだ。
だが給与生活者が経営者エアプしている限りはそれらの摩擦に晒されずに済む。こうして「ネット経済通」となって中年の永遠に終わらない青春に浸り続ける事になる。
コロナ初期にはてなスターが機能停止し運営はテストだと言い、それをブクマカらは無能だと評していたが、まず考えるべきなのははてなの異常なデマバブルだろう。SIモデルとベイズ推定を全能感の為だけに消費して批判的に検証しない、技術マニュアルを見に行かないという自意識フィードバックを停止させるために止めたのではないかとまず考えるべきだろう。
元から弱者男性論が多かった地でまとめキッズの植民が始まったら女叩きに移行するのは目に見えている。自分たちの権利擁護として表現規制反対が多くなるのは当然の権利で真っ当な事だ。だがそこから批判対象がフェミに収斂し、女叩きへと容易に至る。
だからcorabo叩きの最中に男女平等パンチ賞賛の増田なども当然にホッテントリ入りする。
https://anond.hatelabo.jp/20230110202355
女に対する恨みの蓄積なんだそうだ。しかも世の男は皆女に恨みを抱いていると考えている。それは弱者男性だけであるし弱者男性の敵はそもそも「男らしい男」やその概念ではないのか?
それからcorabo叩きの最中には「西早稲田2-3-18-51」デマも複数ホッテントリ入りしている。これはプロテスタント教会が市民運動に事務所貸ししてるのだが以前は在日朝鮮人の根拠地という噴飯な差別デマであったものをアレンジしたものだ。エグザイルの伝統舞踊を踊りなんである。
非モテ+リベラル+経営者ワナビーの集団のうち、非モテは残って女へのルサンチマンで上書きされ、リベラルの非現実性とのバランスに実務者や現実主義ではなくて自称リアリストが蝟集して現実から遠ざかってしまい、経営者ワナビーの経済音痴は温存されたままになってしまったのが現在のはてなだ。
故に10年前のリニューアルはうまく行かなかったと言える。一般人を呼び込むつもりが一般人が近寄りがたいデマが横行するルサンチヘイトサービスの方に行ってしまったのだ。
結論から言うと、自己肯定感が低く、自分のような程度の低い人間と付き合うと他人の時間を奪っている感覚に陥り、知り合った人とも距離を詰められず、現状友達が1人もいない。から寂しくて仕方ない。
よく自己肯定感上げるためには成功体験を積み重ねることとか言われるけど、秀でた所もないギリ健の発達(検査済)なんだよな。
3年前に転職した会社の配属部署がとても多忙かつ厳しいところで、毎日些細なものから大きなものまで多種多様なミスを連発することで上司から疑われ、検査したところ注意多動とのこと。アスペの特性は無し。
教育熱心な両親のおかげで中の下の学歴があり、ギリギリ社会に紛れ込んで、ボロを出しつつなんとかやってこられたが、独身で仕事しか自分には無いと思ってるのにその仕事でいい所が見せられないのはかなりキツい。かといって毎日能無しと言われて怒られても今の給料以上のところに再就職できる気もしなくて、退職はできず塞ぎがちになり過去の友人とも疎遠になった。
そんな中趣味としてFPSゲームを始めて、とてもハマったがこちらも全く上手くない。索敵しながら射線管理して味方の場所見て〜みたいなマルチタスクが致命的にできない。1200時間やって、エペゴールド1が限界。
でもプレイするのは楽しくて、なんとか友達作りたくてTwitter作って異性同性問わず募集タグから話しかけて1回はプレイできるんだけど、2回目に繋がったことがない。
・私の話がおもんなかった
みたいなことを勝手に推測して二の足を踏んでるうちに疎遠に…のパターン。
友達が無理なら恋人を作ろうと思いペアーズとかも登録したけどみーんなスペック高いのな。
そら結婚目指す人たちが自分を売り込む場なんだから良いことを書くのは当たり前なんだけど。こんな素晴らしい人達のうちの誰かが罷り間違って私と結婚すると大損させるなとゾッとしてすぐ退会した。
結局自分のことばかりで他人を慮ることができてないことが1番の原因かなと思うけど、自分を肯定できる材料がなくて、「ありのままの底辺を受け入れてくれる人」の見つけ方もわからない。