はてなキーワード: インプリンティングとは
これ言うの何度目か知らんけど、お前らが「AKIRAは画期的だった」と言ってるとき、本当にお前らが口にするべきは「童夢」の方だからな。
サイキック的な見えない力を扱うという漫画的な演出の最も原始的な部分を完成させたのが「童夢」。
ドラゴンボールのかめはめ波に代表される「古典的には『気』と呼ばれていたエネルギーを、肉体を経由することなく直接発射する」という概念が圧倒的に新しかった。
そういった「不思議な力」が一見弱々しいキャラクターの元で強く発現するというジャンルを作ったのも「童夢」だ。
「AKIRA」が洒脱さとビビッドさを織り交ぜたポップカルチャー的な造形において優れていたのは事実だが、そこに新しさがあったかというそうでもない。
多くの人が「AKIRA」に対して感じた新しさは、単に「童夢」をまだ通らず先に「AKIRA」を見てしまったことで発生したインプリンティングに過ぎない。
前衛的すぎた「童夢」を混ぜ物によって薄めて軟着陸させることでより社会に受け入れやすくしたのが「AKIRA」なわけであるからして、「童夢」を差し置いて「AKIRAが画期的である」というのは流石におかしいわけだよ。
ジョジョの奇妙な冒険と同じような「なんか話題になってるしよくネタも聞くけど、実際に自分で見たことはない作品」という枠だったんだよね。
超シリーズもいきなり入っても全然わからない作りで、まずはZまでは必修してこいって雰囲気にハードルの高さを感じていた。
ウルトラマンやガンダムのような毎シリーズリセット型のコンテンツじゃないということがドラゴンボール最大の弱点だと思う。
孫悟空の幼少期は知らなくてもいいから、ベジータ~セルの辺りは把握してないと全く話についていけない。
作劇が「あの悟空が」「あのベジータが」「あのクリリンが」「あのピッコロが」「御飯が遂に」といった所に軸足を起きがちだからだ。
悟空とベジータの名前は大雑把に知っていても、どれぐらい強くてどういう関係なのかが分かってないと、なんか突然パワーアップしてビュバビュバして勝ったり負けたりするだけで終わってしまう。
ドラゴンボールの戦闘スタイルは出てきた当時は画期的だったのだろうけど、今やもう使い古された戦い方になってきている。
もはやAKIRAと大差はないと言えるだろう。出てきた当時はその差分がそれはそれは大きく感じられたのだろうが。
なまじっかリメイクや超が進んだことで、ドラゴンボールは合流するタイミングの難しいコンテンツになってきている。
子供向けゲームコーナーにはデジタルカードダスがあるが、そういった所から入ってから正しいストーリーを把握するまでには長い時間がかかる。
スパロボから入ってガンダムとガオガイガーが全く別の話であることを理解するまでには、どちらか片方を単品で見なければ始まらないわけだが、そこにたどり着くまでが長いように。
そもそも戦いに興味がない子供はドラゴンボールにハマらないし、女の子はプリキュアに対してインプリンティングを行ってしまう。
激しい空中戦といえばドラゴンボールという感覚がある層は日本人の過半数よりかは少ないだろう。
でも何故か世の中では、誰もがドラゴンボールを好きで、シュッシュッババババババッッとなればドラゴンボールを連想するのだと思い込んでいる層が結構多いように見える。
人類70億人中の少なくとも60億人ががかめはめ波の練習をしたことがあると思いこんでいるような言動を目にすることがある。
不思議でならない。
??? キャプテン・マッスル、悪魔王子、日下部丈一郎、宮沢鬼一郎
S 幽玄全開放キー坊、舐めプ無し殺人技・気功・仕込み刃全開メカ尊鷹、GKドラゴン
S- イスラム兵
A 大観、春草、武山、観山、トダー、ガルシア28号、ハゲ鬼龍、夢二
Aー 鬼熊、ファントム・ジョー、おとん、鬼龍と戦ったテロリストたち、ジェット、バルカン・ボビー、ノーヘアモンキー・ボス、ゴリラ
B+ スヌーカ、ビッグ・ピッグ、ガルシア、風のミノル、ゴア博士、御子神、ハイド、ジーキル、パク、バッキー、シャノン、ゴーレム、ヤクザ空手、ビッグ・ハンド、鯱山、一撃絶命鉄宝流空手最高指導者木村大観十段、薔薇丸
B 朝昇、スマイル・ジョー、龍継ぐ鬼龍、万次、黒ちゃん、王さん、右近、有働、マーフィー、ノーマル龍星、アイアン木場、陳ジィ、由美子おばちゃん、魔物のロドマ、ダンプ松木、ギャルアッド
Bー 左門、チコ、闇猿、ヨッちゃん、鉄山、ゴードン・クランシー、ブル・マツダ、オーエン、姫次、オニ平、幻舟、新吾、金田、レムコ・ヤーコブ
C 和香ちゃん、ゴメス、ダーティ・ホワイト、アニマル、淫売の息子、エンゾウ、暴殺拳の人
D マネモブ兵士、ドラゴン・インプリンティング清丸、ヤクザ・チャカ、佐渡、加納
E 人差し指のゲン、総合不良三人組、ヤクザ・ドス、マネモブ格闘家、ヤクザ・ステゴロ、裸男
F マネモブ、道元、リキちゃん、優希ちゃん、その他非戦闘キャラ
某匿名掲示板のタフ専用板でマネモブ達が議論を超えた議論を重ねた上でのランキングなんだ
おじさんの弱体化に一番戸惑っているのは俺なんだよね
なんか皆して普通のロキノンと混ざり合うことを選んじゃったな。
エロゲ音楽らしさがなんなのかは上手く説明できないんだけど、90~00年代テイストというか、ある種のフェイク感と透明感とゴチャゴチャ感、「わかりやすい音楽聞いてるねwwwそんなのアニソンしか聞いたことがなくて耳が鍛えられてないオタクぐらいしか喜ばないよwwwww」って言われようと知ったコッチャねえと蹴り飛ばすような、その上でそんな決して優れてないオタク達の耳によって選ばれるエロゲソングランキングの上位を真剣に狙っていくような、安っぽいカードしか使えない限られたカードプールの中での必死の模索というか、その中である種のノスタルジックと記号化されたエモに恥ずかしげもなく頼っていく貪欲さ、技術を学ぶための知の高速道路が引かれた現代社会において基礎技術を0から再構築して地に足がついた正統派になっていこうとする流れではなく、日本国内で数々の音楽的なテクニックが発掘されてジャンルが作られたあとの世紀末の時代にそれらをチェリーピックしまくって作られた小手先の集合体とそれらを載せるための丁度いいフワフワのスポンジをベースにしたキメラケーキみたいな奴をさ。
今なお受け継いでるのって現役のベテラン連中を除けば堀江晶太ぐらいだよね。
Dying breedなんだねえ……
追記:
今更だけど「MUSE DASHから漁っていく手があったかー。あざーす」言いに来ました。
あざーす。
パッケージが滅んだ結果としてエロゲ音楽は失われたってのは確かにですねー。
当時で8000円(今の物価だと1万ぐらい?)のゲーム売るためにPV滅茶苦茶気合い入れるってのは戦略として正解でしたけど、DL販売で2000円のゲーム売るためにどこまでやるのかって話ですよね。
いわゆる「電波系」の新曲が今はVtuberに集中しているのも、収益の見込みがあるからということなのでしょう。
それで考えていくとソーシャルゲームってのはかなりの鉱脈に見えるんですが、こちらは伸びていく時期にドリランドやパズドラがやった「ゲーマーとして濃くない人達を客層に取り込む」という流れを受け継いでいるのか、全体的に無難さを感じるんですよね。
ここでいう無難というのは「オタクのノスタルジックな受けを狙ってない」という感じですかね。
そう考えると韓国・中国辺りのスマホゲーなんかはわりかし「ユーラシアに住む世紀末クールジャパンノスタルジーに脳を焼かれたゲーマー共を客層に考慮している感じ」の曲がチョコチョコあって、まさにその辺を効率よく芋づるのに「MUSE DASHから辿ってみ」は大正解ですねドンドンパフパフでした。
あっしはまあ感受性構築の過程でエロゲ文化に刷り込みをされたというだけで「エロゲの歴史とは」って配信してる人みたいには語れるほどじゃないというか、例のエロゲソング投票とかにも参加してないようなレベルのROM専消費者層なんでもっと何か喋れと言われても結局これぐらいなんですよねえ。
もっと詳しかったら作曲家の師弟関係(直接ではなく影響を受けた場合も含む)をどんどん辿って行けると思うと、学ぶ能力そのものについて鍛えてないというのは人生を貧しくするなと改めて思いますわ。
でもそういう無能な人間にもエロゲは優しいっていう所がハマった理由なんじゃよなあ。
テキストゲーはカチカチしてるだけだし、難しかったら考察サイトでフムフム言えばいいっていうお手軽さが、自己肯定感を奪われまくった心を生き返らせそこで第二の人生のインプリンティングが行われたわけじゃよホッホッホッ老人の話はこれぐらいにするかのう
クリエイトが以外でもそうだ
このとき、文化5を作るにあたって、最初の世代は他の文化を経験した人たちなわけだ
なので彼らは文化5で色々工夫するし、改善するし、文化5の良い面と悪い面を、他の文化との差分として知っている
インプリンティングされた常識が非常に枷になって、宗教じみてくる
それも当たり前で、彼らは文化5が好きだから文化5の担い手になるのだ
そこを変えようだなんて人は滅多に居ないだろう
第三世代の誰かが何かを変えようとした時、承認を求める先が第二世代になる
第二世代は答えを持っていないので、第三世代の改革を阻止することしか考えない
するとポスト第四世代は「古い体質で、変わろうとしない文化」という認識を持つ
ごく狭い領域で生き残ったり、彼らに権力が生じると延々とゾンビのように生き残ることになる
というのは当たり前かつ乱暴なので、ちゃんと書いてみる
その情報がウソかホントか、判別する力が無い場合、人はその情報の出所で判断しようとする
これは対象が難しくなると誰しもある程度やっていることだ(例:医学的知識に対し、医者が言ってるから正しいだろうなど)
この現象が起こる際に、ではどのように出所の良し悪しを決めるかだが、これは刷り込み効果が非常に強い
最初に「ここはデマ情報ばかり流す」と思い込むと中々その認識は変わらないし、「ここは信用できる」という認識も中々変わらない
判別能力がある人からすると、その人の言動は頑固に見えることだろう
例)○○新聞は正しいことを書くが、○○新聞はいつもデマばかりだ
情報が正しいかどうかの判別能力が引く人ほど、騙された経験が多くなる
そして新しい情報が来た時にも、判別能力が無いため、その情報が正しいかどうかわからない
・この人は私を騙そうとしているに違いない
・みんなで私を騙そうとしているに違いない
・ひょっとしたら自作自演なのかもしれない
・彼が言ってることは怪しい、私の敵かもしれない、敵ならウソを言ってるはずだ
・これは誰かの陰謀だ
信頼している情報源へは、より一層信頼するようになり、疑ってる情報源へは、より一層疑うようになる
人に指向性がないと、騙されても「ふーん」で終わる
もちろんそういう人も社会的に問題なのであるが、デマを拡散する人は更に問題意識も抱えている
問題意識とは漠然とした表現だが、単純に「不満」と「理由」があれば問題意識は簡単に完成する
特に騙されやすい人は、上記2点の傾向により信頼する情報源から発せられた情報に感化されやすい
もし「〜〜は問題だ!」ということを発するタイプなら、感化されてしまう
情報の真偽を正しく判断できないということは、つまり白か黒かわかりやすいものしか判断できないということだ
世の中の意見をグレースケールにしたとき、過激な意見ほど分かりやすく、まっとうな意見ほどグレーでわかりづらくなる
自ずと感化される意見も、インプリンティングされる情報源も過激なものとなる
↓
↓
↓
↓
疑心暗鬼が進む
こうしてよくSNSで見る人が完成するわけだ
すると、集まった彼らは基本的にバカなので、議論が前に進まなくなる
(そもそも人数が多いと話が前に進まない)
・年を取って経験値を詰む
・きちんと信用できる頭のいい人達の議論や結論を見せる(白黒以外のグレーの存在を受け入れさせる)
・信頼したいた情報源にひたすら裏切られる、あるいはその逆(過度な信頼を崩壊させる)
ただし、自分が成長し、素晴らしい考え方を発信することで周りを成長させることはできないと思う
難しい話をはじめたり、極端な思想から外れたら、無知蒙昧な彼らの「信頼できる情報源リスト」からは外れていく
説得も難しい
(ちなみにこれを突き詰めたのが宗教だと思ってる
内容については伏せておくが、話の内容も結構面白く、また主役のキャラクターを演じる女性声優の演技力も相まって非常に魅力的な作品であった。
しかし例の深夜アニメは、政権や経営者団体の意向を伝えるためのプロパガンダという側面の強い作品であった。
例の深夜アニメの具体的内容は伏せておくとは先述したが、作品を読み解くためのキーワードとして「生きづらさ」と「自己責任」の2つがある。
「生きづらさ」に関してだが、主人公は人間関係などに困難という「生きづらさ」を抱えている存在として描かれていた。
もちろん人間関係に困難を抱えた主人公は古今東西多くの作品に登場し、またプロパガンダ目的以外の作品にも「生きづらさ」を抱えている主人公が登場することも多い。
従って、「生きづらさ」だけを以てプロパガンダと認定するのは乱暴である。
もう一つのキーワード「自己責任」についてだが、例の深夜アニメは主人公が抱える「生きづらさ」を嘲笑する作風であるように感じられた。
また、話の内容も「生きづらさ」の根源を徹底的に自己のパーソナリティに求めるものである。
これらを踏まえると「生きづらいのはそれを感じるあなたが悪いのです。社会や制度は何も悪くありません。だから自分を変えてね。」という自己責任イデオロギーが例の深夜アニメの底流を流れているといえよう。
さて、例の深夜アニメは「経営者団体の機関紙」と揶揄される大手新聞社と資本関係を結ぶ放送局が制作に関与していた。
また、
・「経営者団体の機関紙」は社会保障のスリム化と自己責任イデオロギーの吹聴を主張として行っている
このの3点を踏まえると、政権や経営者団体の意向が例の深夜アニメにも反映され、結果政権や経営者団体のプロパガンダとして例の深夜アニメは制作・放送されたということが推測される。
一見魅力的な話もキャラクターも、実は政権や経営者団体の意向を視聴者にインプリンティングさせ、思想を誘導させるための装置の一つでしかなかった。
作品の政治性という物語の根幹に目を向けようともせず「キャラクターが魅力的だから」「話がおもしろいから」という枝葉末節に眩惑され、
あまつさえ映像ソフトやキャラクターの人形、出演者の声優が登場するラジオCDなどを嬉々として購った、己の軽佻浮薄さと愚鈍さに慄然とした。
そして過日、アニメの映像ソフトや人形、女性声優が登場するラジオCDなどを全部処分した。
ただ例の深夜アニメ以外にも、政権や経営者団体のみならず、右左問わず様々な政治団体やロビイストのエージェントが、テレビや漫画、小説、ポピュラー音楽、映画といった
ポピュラー文化を通じ人々を特定イデオロギーに染め上げようとしていることは容易に想像される。
もちろん接触者が全員特定イデオロギーに染め上がるといった、皮下注射モデルが妥当であるとは思えない。
しかし例の深夜アニメのように魅力的なキャラクターやプロットで人々を眩惑し、徐々に思想やイデオロギーをインプリンティングさせることは十二分に考えられる。
これを踏まえ、今後はテレビや漫画、小説、ポピュラー音楽、映画といった娯楽にはなるだけ目を向けないように心がけていきたい。
勿論「だからあなたたちも娯楽には目を向けないでね」と言いたいわけではないし、思想やイデオロギーを読み解いたうえでいったんそれを相対化できるなら娯楽を楽しむのもありだろう。
ただ枝葉末節に幻惑され、思想やイデオロギーに目が向かなかった己の愚鈍さを鑑みた場合、娯楽から遠ざかった方がベターだと判断しただけだ。
ついでに例の深夜アニメは映像ソフトも全く売れず、一部マニアから「爆死」と揶揄される作品である。
ちゃんと思想やイデオロギーを読み解いたうえで、一旦それを相対化できるリテラシーは多くの人に備わっているのかもしれないと安心した。
http://anond.hatelabo.jp/20130222222510
いや文章みるにつけ君の方がずっと稼いでるようではあり、そんな私が共感するのも変な話ですけど。
で、嫁さん妊娠中はそんな空気の中に私もいたんです。 まだ1年前くらいか
「まぁ生まれる前だが生命保険にも入っておいたし、いきなり死んでも大丈夫だよな。いやとりあえず死にたくはないけど」
が、生まれてしばらくすると「おぉっと」「あひゃー」な感じでした。
新生児のウンチって水っぽいんですけど、ウンチの海の中で足をばったんばったんしたりするんです。
「うわ、どこから手をつけたらー、あぁぁあ」とか
噴水のように母乳を吐き出したらとかでも「あぉあ?!わー!」とか声出したり。
自分はどちらかというと引きこもり傾向であり、理系で無口な人間なんですけど、
「あぉあ?!わー!」とか言う日が来るなんて思ってませんでした。 新鮮な自分の一面。
昔は「女に金つかうくらいだったらメモリ買った方がいいよね」って飲み屋で言うタイプだったのに。
それと男性にもよるのでしょうが、私は出産直後は父親になった感覚が全くありませんでした。
一方、嫁さんはというと出産直後からなんか妙な感じで、自分の変化にそわそわしてましたが。
男性は父親になった感が得にくいので、その辺の男女間ギャップはあると思っておくと良いかな、と。
出産直後は赤子観点でもあまり男女の区別がついてないんで、父親にもすがってくる(というか男と認識してない風である)のですが、
数週間たつと「母親にべったり」になります。 母親しか見てない、みたいな。
試しに「母親との間に入ったら視線もらえるかなー」と思って二人の間に入ってみたら泣かれました。
そんなに見たいの? と。 お前インプリンティング中か、と。
「この野郎、俺が男だと気づくようになったな」と。
父親観点では大変しょんぼりする期間ですが、母親を褒めたらいいかなと思います。
今の社会って結構いびつで、女性が「母親であるというだけで褒められる」なんて空気はなくなりました。
なんかこう男女共同参画社会基本法以降「母親かつ仕事も正社員で」みたいな風潮が作られてきました。
女性はそういうロールモデル観の中にいるので、育児だけだとなかなか自己肯定感が得られません。
「でもまぁ、赤ちゃんの体重が増えてれば成果として捉えていいんじゃない? 割と計測しやすい成果でもある。
みたいな感じで彼女の自己肯定感を増やしてあげられたらなー、と他人事ですが思ったりします。
「母親超ラブ期」は父親観点ではしょんぼりですが、女性の「母親としての自己肯定感」を増やすフェーズとして利用できて良かったな、と今では思います。
男女の違いがはっきり現れる時期であり、母親としての嬉しさ、誇りみたいなものを得やすいタイミングかな、と。
更にしばらくすると子供観点で父親は「なんか面白い/新しい事をやる人間のようだ」みたいな認識をしてきます。「お? またお前か。なんか新しい事する?」な目で見てきます。
「お母さんといると安心できるけど、お父さんといると楽しい」みたいな。
この段階になって、私は自分もまぁ父親になったのかね、って気持ちになってきました。
別に嫁さんに「俺は父親になった気がしないんだー!」と宣言する必要は全然ないのですが、まぁタイムラグありますよ、と。
「母親ではない者が、母と子にどう向かうのか」って観点で描いているマンガって少ない。
絵柄はアレなんですけど、これを読んでおいて良かったなと思いました。
産後の母子密着によって徐々に母親が壊れていく過程が良く描かれていたと思います。
(登場人物が姉妹なのは、男女の話にすると、描きにくいというか、汚いというか、四年生、五年生みたいな話になってしまうからかな、と)
http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20090913/1252836093
私は『女』が非常に苦手だった女です。なぜか物心ついたときから『女の子は怖いもの』と頭の中にインプリンティングされていて、女の子の友達はあまり作らず男の子とばかり遊んでいました。もちろん『女の子として』遊んでもらうのではなく、男の子と対等であると思っていました。
怖い女の子もいる。でもそうでない女の子もいる。その差はどこにあるのか、子供心に考えました。小学校中学年くらいの頃にその答えらしきものは見つかりました。
ある日母と一緒に、何だったかは忘れましたがテレビ番組を見ていました。そのテレビに出てくる女の人が、私がクラスで怖いと思っている女の子と全く同じだと気づいたのです。常にどうやって男子の歓心を買うのか、それに一生懸命になっている人でした。そして自分以外の女子が男子に注目されていたら、ストレートに嫉妬していました。もう滑稽なくらいに。それを正直に母に言いました。「女の人って大人になっても考えが変わらないんだね、この人、クラスの子と同レベルだよ」と。母はこう答えました。
「そりゃそうよ。女は生まれたときから女なんだから」
つまり、どっちにも転びうるように設定されているというような。
1、男は全ての女の過去現在未来の性を占有したいという欲を持って誕生する。ただしこれは自覚される事がない。
2、男が複数いるとこのモデルは成立しない。従って妥協的に価値が作られる。妥協のパターンは2種類。
A.人数による妥協 女を半分ずつ分け、自分の取り分に関しては過去現在未来の性を占有する。この場合、男の人数と女の人数が近くなればなるほど、取り分は1:1に近づく(一夫一妻制)
B.占有の解除 人数に関する妥協はせず、複数の男で全ての女を共有する(乱交社会や、売春などがこれに近い)
3、ある男がAになるのかBになるのか、そのあいだのどこを妥協点として性衝動が完成されるかを、幼少期から思春期のインプリンティングによって決定され、以降変更不能と仮定する。
4、都市型社会では構成員が所在を確認されてる必要がある→家族制度、夫婦制度が作られ、性行動が制限される→Aになる。農村型社会では個々人は管理されていず、家族集団を構成しない為、性行為に制限がない→B的な感覚が刷り込まれる。
5、都市型社会の次の段階として、女性の行動が自由になる。自由になった女性の性行動は付き合って分かれて付き合って分かれてを繰り返し、最適な異性をチョイスすることにある。この行動様式に対して男側がとるABのあいだの最適化行動とは、過去現在未来に関する占有を一部だけ解除し、現在未来に関してだけ占有し、その代わり当人も異性を代替することによって、擬似的に複数所有(B)を満たすこと。擬似的とは言え複数所有的な感覚が無意識にあるから、男は「別名で保存」女は「上書き保存」と言われる。
6、その次の段階として、妥協点が極端にAよりの男からの社会的モーションが起こると予想される。その前段階としてのネットでの本音発露とも解釈できる。ただしこの社会的モーションがいかなる結果を生むかは不明。この社会的モーションを嫌う勢力にとっては、「極端にAよりの男たちの行く先」は当然惨憺たるものであろうと確信的に予想するだろう。嫌いなものはだめであって欲しいと言う願望がそう思わせる。
また、これは単なる状況の変化(パワーゲーム)であって、不可逆な時代の流れではない。単なる現象に過ぎない。時代は流れ、未来こそ正しいという考えはここでは当てはまらない。