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はてなキーワード: イデア論とは

2024-02-16

anond:20240216161225

追伸。

イデア論かな哲学書読めばってブコメついたけど、順序が逆なんだよね。

イデア論とか学校で習って本読んだりして教養として知ってるからこそ、改めてその考え方を自分なりの具体的な考察対象にあてはめて思索したくなるわけよね。

先達の哲学者たちがいなかったら俺はいまだにブルアカで抜くだけの毎日だわ。むしろ哲学者リスペクト100パーセントなんだよね。

あいブコメつける人って「方向性とかみたいな意味ベクトルという言葉を使ってる人は横文字使いたがりの格好つけ」と言ってる人みたいな人を性悪説的にとらえるクレーマー気質が高い人間に感じる。

ちなみに俺はベクトルという言葉を使う人は「周りがベクトルという言葉を使ってるからリアルタイム性を要求される会話でとっさに出てくる言葉ベクトルから、それをそのまま使ってる」ってだけだと思う。

数学定義は本当に厳密で一意なものと言えるのか気になりました

たとえばユークリッド幾何学での直線は「幅をもたず、両側に方向に無限にのびたまっすぐな線」だそうですが、これも「幅」とは?「(幅を)持つ」とは?両側とは?「方向」の定義は?「無限(限りが無く)」とは?そもそも「限り」って何?「のびる」とは?「まっすぐ」とは?「線」と結論づけるのは循環論法じゃないの?

と突っ込む人にとっては厳密ではなくなっていませんか?

ここで、これらの言葉意味は、国語辞典に載っている意味と同じものだよなどといおうものなら、それこそ数学の厳密性を否定したようなものになってしまっていると思います

たとえば「方向」を調べたら「向くこと」とでます。これを調べると「物がある方向を指す」というふうに出ます。これは循環論法に陥ってますし、「物の正面があるものに面する位置にある」という別の語釈もありますが、物とは?正面とは?面するとは?位置とは?となります。これを繰り返せば結局どこかで循環論法に行きつくでしょう。

そもそも数学の根幹部分を支える論理学重要概念である否定(そうでないこと)」にしても、厳密に定義することは可能なのかと思います

「~でない」というのは、そうであることがないということ、と言ってみたところで循環論法

そうであるのになぜ上記のような定義公理が厳密なもの認識されているかといえば、「さすがにここまで平易な単語の組み合わせで書けば、これらの単語については私が常識として理解してる意味と同じ常識を、相手も持ってるはずだから同じ理解をするよね?」みたいな態度に立っているんだと思います

結局相手も同じ常識を持っているという不確かな信念によりかかっている、甘えている点で、数学記述もまた完全に厳密で一意というわけではないのかなという気がしてくるのです。

そもそも「方向」なんていうような概念は、言語によって定義されたものを知っているというよりは、幼少期に言語習得していく過程で、それが話されるシチュエーション、つまり五感などあらゆる感覚総体とセットでそうした言葉が使われているという環境に身を置いているなかで理解しているにすぎません。理解内容が各個人で全く同じである保証はどこにもないと思います

どんなに高度な数学表現も究極的には自然言語還元されるはずで(どんな高級言語機械語に置き換えられて処理されるように)、自然言語の各単語に対する人々の理解原理的には五感に根差し感覚的なものなのだから数学記述が厳密で一意というのは、結局はほかの記述の仕方に比べた程度問題(つまりは誇張表現)なのかなと思うのです。

感覚によらない「証明」をすることに価値を見出す人が数学をありがたがることがありますが、数学もまた根源的には感覚ありきの理解に基づいていると思うわけです。

この考えは間違っているでしょうか?そうであればどうして間違いなのか、どこがどう理解を誤っているのか知りたいので教えてください。

ちなみにたとえば「否定」というのは、根本的には、やはり言語理解が完結しているものではなく、現実の状況としての存在非存在にそれぞれ直面して、それぞれに対して「○○がある」「○○がない(なくなってる)」と言われてる場面を経験したうえで、その状況から理解した内容のさらなるアナロジーとして理解してるに過ぎないと思います(理解のあり方が、言語的ではなく、観念直観的)。

数学が他よりも他者と厳密に同一な合意が常に成り立つ、その工夫として、抽象度を高くしているのがその工夫にあたるのではないかという人がいました。↓

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14293524459

しか抽象度を高くすることは、合意内容のずれを減らすという点で「有効でもあり逆効果でもある」のではないかと思いました。つまり諸刃の剣なわけです。

有効である理由リンク先に書かれているのでそこに説明を譲るとして、逆効果であると思う私の説明を書きます

まり抽象度が高い概念は、抽象度が低い概念や直接的な事物に比べて理解が難しい傾向があるのがまずあるわけです。

また定義者の提起する定義をそれを発信される側が期待通りに理解しているか確認するのも、抽象度が高い概念ほど困難な傾向はあると思います

これ自体ある意味抽象のものなのでたとえが悪いですが、たとえば「左を向いて」という発言に対して、「左」を向く反応をすることで、この人は左について正しく理解してそうだなという確認(いや原理的には推定というべき)することができます

抽象度が高くなるほど具象と結びつけたこのような正しく理解してるかの評価確認テストをすることが難しくなるでしょう。

といってもそもそもわれわれは相手自分の言ったことを期待することと厳密に一致した内容で理解してるか確認することは原理的に不可能です。

頭をパカっと割って理解内容を覗きみるということはできないですから

対象となる言葉に関連したその人の発言や反応をみて、理解の結果としての発言や反応として、その人がある部分で正しく(定義者の期待通りに)理解してるだろうということを推定するしかありません。

しかも全体ではなく一部だけの理解が正しくても、発言や反応には異常が見られないということもあるでしょう。

反応や発言いくら調べても、概念全体を期待通りに理解してるかのテストには無限通りのパターン必要と思われ、原理不可能と思います

哲学的ゾンビにも通じそうな話ですが、日常範囲内で「理解齟齬があるような反応が返ってこないなら」そんな「理解が完全同一でないかもしれない」という可能性上の話を心配する必要はないというのはその通りでしょう。

ただ場合によってはそれが表出したように見える一例が、あれの原因がこれだとは言いませんが、望月新一がABC予想を証明したという論文での紛糾みたいなことが起こる一因にはなりえると思います

あれだけ理論として抽象的な概念を積み重ねた先には、定義者とそれ以外のその定義を見た人とでの理解のずれは、反応や発言として顕在化してくるほどになっても不思議ではありません。(定義者の解釈が正しいという優劣の問題ではなく)

特定公理範囲内において論理的矛盾のないシステム

はいますが、そもそも矛盾」とは何か?「論理」とは?「範囲」とは?とは、といくらでも曖昧でしょう。

たとえ矛盾記号論理の表現記述して定義した気になったところで、じゃあその記号定義ないし意味は?とどこまで突っ込まれても感覚に頼らない定義可能なんですかね?と思います

dorawiiより

追記

数学に限らない話じゃんっていうのはまあその通り。

でも定義について「厳密で一意」であることを(得意げに?)標榜してるのは数学(+論理学)とそれベース客観的であろうとする学問ぐらいだから別にエントリ詐欺じゃないよね?

a=b、aはbだ。「は」って何?「だ」って何?「英語的にはどっちもisという語に集約されてるけど、じゃあisってなんだよ」ってところから概念の共有をしてない前提に立った時、その概念を非感覚的で厳密に共有することは可能なのか、それが「完全に」できたと確かめるのにはどうすりゃいいって話よ。

言葉という形式が従で、それに乗るべき内容が主であることは百も承知だが、形式言い換えれば入れ

物抜きに内容を厳密に伝えられるのか、入れ物の存在無関係な、内容の厳密な伝達というテレパシーじみたものを考えることはそれこそ論理的に正しいのかという話でもある。

言語的なテレパシー論理的に矛盾してるので存在しえないのではないかとは思っている。

さら追記


イデア論かな哲学書読めばってブコメついたけど、順序が逆なんだよね。

イデア論とか学校で習って本読んだりして教養として知ってるからこそ、改めてその考え方を自分なりの具体的な考察対象にあてはめて思索したくなるわけよね。

先達の哲学者たちがいなかったら俺はいまだにブルアカで抜くだけの毎日だわ。むしろ哲学者リスペクト100パーセントなんだよね。

語彙力ないので語弊ありそうなのは百も承知だが、哲学って考え方の基幹部分のオリジナリティーはそんな求められてないんだよ。

しろ先人から受け継いだ考え方をどう今の時代の具体的な問題適用して考察を広げるかが大事なので、ちょっと哲学かじったような素人目には過去論文の焼き増しに見えてその存在意義が理解できないような論文ごまんとあるんだよね。

哲学において焼き増しは無意味パクリじゃないのよ。

あいブコメつける人って「方向性とかみたいな意味ベクトルという言葉を使ってる人は横文字使いたがりの格好つけ」と言ってる人みたいな人を性悪説的にとらえるクレーマー気質が高い人間に感じる。

ちなみに俺はベクトルという言葉を使う人は「周りがベクトルという言葉を使ってるからリアルタイム性を要求される会話でとっさに出てくる言葉ベクトルから、それをそのまま使ってる」ってだけだと思う。

2022-01-14

anond:20220114001310

イデア論は正しいのでYES (anond:20220114003546)

答え書くぞ、"NO" な。2022年の現時点では実証されてません

 

実在性の破れを実証した実験とかニュースになってはいるけれど

超伝導磁束量子ビットを用いた巨視的実在問題実験検証成功

https://www.brl.ntt.co.jp/J/2016/11/latest_topics_201611042223.html

原子電子素粒子も「実在しない」を実証するものじゃないです

 

存在とは何か?(anond:20220114001522)

YES or NO ってしてるでしょ😡

実験観測実証されたものが『実在』だ

2021-05-17

anond:20210517185319

哲学者イデア論はもう飽きたよ

科学者が全員クオリアにだまされてるかも~ってそこまでかもしれない運転しなくていいぞ、桂小太郎ちゃんみたいに

2021-04-26

anond:20210426000358

プラトンイデア論を論ずる際に図解してくれたのが、僕の最も古い記憶である

2019-08-04

「〇〇はエロゲ」ってつまりイデア論だったんだね

同じ心理が作り出す別の影、それがエロゲでありアニメであり文学であり現実であり空想だったんだ。

俺たちは結局同じもの表現しようとして、別の形を使っていたんだ。

から、この世の全てがエロゲに見えるのは当たり前なんだ。

この世の全てのものエロゲによって表現できるけど、エロゲによって表現されるものエロゲ以外の物によってもできる。

そして、エロゲ表現しようとしているものエロゲのものではないし、それは他の表現物についても同じなんだ。

やっと分かったぞ。

色即是空なんだ。

「〇〇はエロゲ」とはすなわち色即是空が別の形をとったものだったんだ。

全てを知ったぞ。

エロゲ卒業して10年……10年の時を超えてエロゲは僕らに世界の真理を教えてくれた。

10年間離れることによってようやくその形が見えるようになったんだ。

木と森の形を両方知ってやっと見えるものがある。

それは何でもよくて、俺達にとってはたまたまそれがエロゲだったんだ。

そして、人々の心がエロゲから離れて離れて離れきって、その状態で再びエロゲの方を振り向いた瞬間に、大勢が同時に心理に気づいたんだ。

凄い。

こんなことってあるのか。

忘れられることで伝えられることがあるって教えてくれたんだ。

ありがとうエロゲ。安らかにさようなら

2019-07-23

お前が「無敵の人」にならないとでも思ってるの?

無敵の人」って言葉が嫌いだ。

名付けるって便利だよな。

ソシュールイデア論もわからねえけど、「無敵の人」っていう言葉共感覚として誰もが理解している現代怖いよ。

無敵の人」に犯人カテゴライズしておけば自分とは違う存在にできるもんな。

私にはそう思えないよ。

自分発達障害を持っててメンタルクリニックズッ友人生から、ってのもあるけどさ、精神病んでるっていうのは、「普通」とそこまでの差があるんだなって驚いてる。

私は無敵の人側の人間扱いされてる感じがして怖いんだ。私だって許せねえよあん事件起こしたやつ。

ただな、みんなのニュースへの反応見て、思ったんだよ。

お前が「無敵の人」になる可能性は、ゼロだとでも思ってるのか?

無敵の人ってあらかじめそう生まれたわけじゃないと思う。まあ、発達障害に限らず生まれ持っての特性はある程度あるにしても、無敵の人って、「全てを失った絶望の果てにいる、普通の人の成れの果て」なんだと思うんだよ。

犯人を許す必要はない、被害者を軽んじるつもりは一切ない。心から哀悼を示す。

からこそ、だからこそ、未来事件を防ぐために、私たちはあの理解不能に見える「無敵の人」を、自分たちと同じ普通の人に引き摺り下ろして、私たちと同じ人間ということを思い出すべきなんだ。

つーか普通って言葉も気に食わねえな。

地球宇宙船、全ての生き物は乗組員とかそういうはなしをしてーんじゃねえけどさ。

小説パクられたからって人を殺す人間を、わからないままにしていいわけないと思う。

今後、人生においてわからないもの出会う時なんていくらでもあるのに、わからいから全て逃げていくわけにいかなくない?

こんだけ無敵の人とやらが生まれる昨今だから、今こそ、彼らが自分たちの同等の人間だってことを思い出すべきなんだと思う。

ちょっとだけ、想像力をつかってみよう。

ニュースで、彼の生い立ちを見た。

引きこもったり、職を転々としたり、隣人トラブル窃盗

割と怒りに突き動かされる、衝動性が強いタイプの人だったのかなと思う。

思っちゃったんだよ、この人の人生において、心休まるひとときって、あったんだろうか。

知らないよ、彼の人生を見てるわけじゃねえもん。でもさ、自分以外の、彼の周りが全て敵に見えてたんじゃないかなって思っちゃったんだよ。

自分がそうだったから。

発達障害自分は、障害持ちだと知らなかった頃、割ともうダメだと思ってた日々がある。

周りの世界が全て敵に見えて、手を差し伸べてくれる人も怖くて、けれど頭の中でずっと心が騒いでいる。くるしい、くるしいと。

その、叫びは、私の場合自分に向かったんだな。腕には今も無数の傷があるし、毎日見えないところに青あざ作ってた。屋敷しもべ妖精ドビーかよって感じで、部屋をのたうち回って体が傷つくのを求めてた。

異常だなぁって思うでしょ。でも私にはそれしか生きる方法がなかったんだよね。

薬1つで人の心なんて変わってしまうことを知った今だからふと思ったが、自傷ってあれドーパミン不足を補おうとしてるんじゃないか

知らんけど。マジでこれは私見な。

今は薬でドーパミン不足を補ってるんだけど自傷した後のどこかまったりとした感覚に似てるんだよこれが不思議なことに。

話ずれたけど。絶望が深まるうちに、自分に矛先が来るなら平和だよね、自殺だもん。

この矛先が、外に向いたのが、みんなの言う、無敵の人だと思うんだよ。

おっし、発達障害持ってるやつぜーんぶ無敵の人予備軍か!ってなるのは早計ですぜお兄さん。いわゆる無敵の人と呼ばれた犯人たちに発達障害を持たないやつはいるぞ、黒バス犯人は無かったはず。

結局はね、精神疾患なんですよきっと。

今回の京アニ犯人精神科に通ってたみたいだけどそれでも救えなかったのは残念。

けれどさ、精神科で、揺らめく心を抑えることができれば、きっと、未来犯人を先に救えるんじゃないかってそう思えるんですよ。

私はね、自殺寸前だった。

けれど、薬を飲んだ今、面白いね、世界が、こんなにも綺麗だって気付けたよ。

私は普通の人の中で下の下だと思ってたけど、普通の人から外れてみたら、割と普通のきらめく生活が待っていて、なーんだ、私って、穏やかに生活送れるんじゃんって。

この世の誰もが、いわゆる普通の、穏やかな人になれるんじゃないかって思ったんですよ。

そして言っておくとな、今はまだ気づいてない隠れ発達障害はたくさんいるだろうし、今後、心を病む可能性は誰にもある。

からさ、誰もが、無敵の人予備軍なんだよ。きっと。

ただ、救いの手があるかどうか。それだけの違いじゃないのかな。

その救いの手はさ、何もかも精神科任せじゃなくてもいいんだと思う。

今までの無敵の人たちも、だれか温かい言葉をかける人がいたなら、何か変わってたのかもしれない。

私たちひとりひとりが、互いにちょっと優しくしあうだけで、世界は小さく小さくちりつもで穏やかになってくんじゃないかと思ってる。

いいじゃん、電車の席譲るとかさ、コンビニバーコード面を上にしてレジ出すとかさ。

結婚もしにくい世の中で、誰もが老いていくうちにいろんな人とのつながりが切れて、きっと孤独な人は増えていく時代は、もう目前なんだよ。

インターネットで人とつながる機会が昔より増えた!って言う人いるけど、インターネットでの繋がりってさ、趣味とか話が合う人たちだけで固まるだけじゃないですか。どうやっても繋がれない人って出てくると思うんだよね。

昔の方が、村社会って言う物理的なエリア内での繋がりだったから逆に誰も見捨てられなかったんじゃないかって思う。

そういう風にさ、どんどん失うものがなくなっていくのが確実な世の中になってしまってるんだからさ。

ほんの少し、他人にも優しく、小さく親切にみんなで生きて、わずかにでも助け合って、繋がりを少しでも得て、お互いに、「無敵の人」に自分が、誰かが、ならないように生きていきません?

ペイフォワードだよ、映画の。

なんかさ、一日一善!じゃないけどさ、小さなこと、助け合って、生きていきたいよ、みんな。

それで、誰かを助ける余裕がないほどダメなら精神科いこう。

私さ、あの言葉好きなんだ。

「人にはそれぞれの地獄がある」

って。

もう誰もが地獄を抱えてるよ、そりゃ。

でもね、覚えておいて欲しいんです。

しかすると、その地獄は、精神科だったり、あるいは行政支援サービスだったり、何かで和らぐものかもしれないんですよってこと。

あなたが、無敵と言えるまでに、心を壊してしまう前に、助けてくれるところはきっとあるんですよ。

忘れないでね。

というわけでまとめでーす。

無敵の人って、誰にでもなる可能性あるよ。

無敵の人って傷つきすぎた果てになるのかも。

・辛い時は、頼ろう。精神科でもなんでも。

・余裕がもしあればさ、ちょっと人に親切してみない?

って感じです。

そんなわけで今日外国人に道案内したり酔ってふらふらしてるおじさんに電車の席譲ったり、会社の人にキャンディおすそ分けしてみたりしました。

…ただのお人好しなだけか?



意見めっちゃお待ちしてます

あと、書いてて社会学やいろんな知識インテリジェンスが足りてねえ!って思ったのでこれ読め!って本とか、おすすめあったら教えろください。

最後に。

亡くなられた犠牲者の方へ、心の底より、哀悼を。

美しい、あのアニメーション世界に救われたものの一人として、深い悲しみの中にいます

決して繰り返さぬよう、せめて小さなことでも何かしていきたいと思います勝手にですけど。

ほんと、何にもできない一人の人間ですけど。

何か、せずにはいられないから、文を書きました。

ご冥福をお祈りします

2015-07-25

少年少女愛者(ロリコンショタコン)はどのようにして生きればよいのか

まれながらにして少年少女を愛する者たちがいる。しか少年少女を愛するということは罪なのだ判断力がない子供たちを騙し自分の欲を満たそうとする極悪非道のやつら、それが少年少女愛者なのだ

私は中学生少年愛である社会は私のことを人間のクズだとか社会の敵だというがそれに対し何ら反抗する気はないしそんなこと言われなくてもわかっている。

私は社会自己批判を強いられ少年愛という反社会的思考から転向するか我が人生から愛をなくすかの二択を迫られた。だがそのような選択はできるのだろうか。

古代ギリシアプラトンという哲学者がいた。かつてプラトンイデア論とそこからプラトニックラブというもの提唱した。プラトニックラブは現代でもたびたび使われる言葉である意味は違っている。これは純潔だとかそういう下らないことを言っているものではなく美のイデアの崇拝を説いているのだ。つまり肉体的精神的を問わず少年一人一人に固執する一般的な愛ではなく少年個人は美のイデアの陰にすぎないとしイデアのものに恋をせよと説いているのである。これは現代少年少女愛者の悩みを解決するものではなかろうか。これが現実に可能であれば、少年少女愛者の苦しみと少年少女への危害はなくなるだろう。

プラトンは我々に第三の選択肢提示していたのだ。

2015-04-05

[]アナルイデア論

アナルの形状は人それぞれ違う。

皺くちゃのアナル、張りのあるアナルなどなど、様々である

何故、人はそれら形状の異なるアナルアナルだと認識できるのか?

それはアナルイデアがあるからである

アナルという概念、というかイデア存在するから、それがアナルだと認識できる。

ここまでは、通常のイデア論だ。


本題は、アナルイデア論である

可愛い女の子にはアナルが無い。

無いのにあると考えている人が多いようだ。

何故、そのような勘違いをするのか?

それは、可愛い女の子アナルは無くとも、可愛い女の子アナルイデア存在するからなのだ

イデアがあるため、あると錯覚してしまう。

可愛い女の子アナルイデアアナルイデア界(アナル界)にの存在する。

可愛い女の子の尻に何か穴のようなものがあっても、それはアナルでは無く、アナルのような何かなのである


アナル増田

2015-01-22

http://anond.hatelabo.jp/20141007135007

 長年彼のツイートを直接関わりなくただ眺めて楽しませていただいている一人としては、彼のことをテレビで知ったりはてなで論じたりするのもどうにも不思議な気のするもので、そういった立場から彼のフィクションという言葉の使い方について一言二言一家言ある身として書いていきたいと思う。

 つまりクオリアの話ともつながってくる。

 プラトン洞窟の影の話、イデア論とも関係してくる。

 我々は認知する機械しかないことは近年科学が発達した結果として多くの人が理解するところだと思う。現実物質人間物質。けれどそれだけでは人間社会は成り立っていない。そこには文化がある。文化は必ず物質であるわけではない。しかし多くの人がその文化になんの疑問を抱くこともなく物質と同じように自明で今ここに存在しているものとして認識している。この現実について、彼は疑問を抱いているのだと、長年彼を見ていた身としては思う。至極当然のことを彼は言っているだけだ。

 彼の指している中東フィクションとは、中東文化と言い換えることができる。すなわちイスラム国においての宗教、彼はその文化に、もしかたらこ日本の文化よりも上手く適応できるかもしれないという青い鳥症候群を我々に見せたのである。女を性奴隷にして人を殺す世界、彼は新天地を夢見ている。

 どれほど頭がいい人間でもよくて大学教授、悪ければ非正規雇用教員使い捨てられるポスドクしかなれない。儒教的上下関係年功序列、徹底されていない半端なメリトクラシー曖昧かつ意味がないこのつまらない現実に彼はほとほと嫌気がさしている。そしてこのつまらない現実を、本当なら実体なんてないただの文化で、いつでもひっくりかえるような普遍性も何もあったものじゃないフィクションであると言い切って切り捨てたいのだろう。彼が彼自身障害者であるとして自称するのは高度な皮肉であって、意味が無いものについて意味があると思っている大勢の人を馬鹿にしている。しかし同時に自分自身社会に不適合を起こしていると客観視して自虐しているのである

 ……結果として公安に追い回される日常という非日常を彼は手に入れた。それもまた今は自覚はなくとも彼にとっては好ましいことでしかないのだ。

2013-05-20

http://anond.hatelabo.jp/20130519112532

新潮の『弁明』は持ってますパイドンでしたかありがとうございます

プラトンを好きとか言っておきながら恥ずかしいのですが、イデア論のことがよくわからなくて…

美しさなんて観念などないのだ。余計なことで頭を悩ませず、ただ花を見れば、美しいと感じる花もあるだろう。確かに、そうですね。

…というよりも単純に読解力の問題ですよね。恥ずかしい限りです

2013-05-19

http://anond.hatelabo.jp/20130519112532

いや、イデア論って鋳型やん?という。

プラトン「花の美というのがイデア界にある。個々の花はその似姿にすぎない。花の美に気づくことこそが真の想起すなわちアナムネーシス

小林「ねーよそんなもん。美しい花はあるけど」

っていう話かと思ったの。

プラトン本人によっては確か『パイドーン(パイドン)』でちょびっと言及されるけど、他のどの話に出てたかわからん

新潮の『弁明』に併録されてるよ。岩波パイドンひとつで一冊だったか、これもまた別のと一緒に収録だったか

 
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