はてなキーワード: イシスとは
異論は認めない。だいたいなんだってそうなのだ。「おうじゃのつるぎ」だの「はかいのつるぎ」だのといったような、伝説級の武具。それらは確かに格好いいかもしれない。しかしだ。それらを手に入れたとき、我々の心はほんとうにときめいているだろうか?
だいたい、そんな大層な武器を手に入れたところでだ、我々にはどこにも行くところがないじゃないか。もう地図はほとんど埋め尽くしてしまっているころだし、呪文だってもう「ギガディン」なんて名前の、あからさまに最強くさいものを覚えてしまっていたりする。強力な武器や魔法を手に入れたところで、それを用いて闘う相手などいやしない。せいぜい魔王か、さもなれけばとってつけたような隠しボスが、倦み疲れた我々を接待してくれるだけだ。
もはやそこに冒険はない。
「はがねのつるぎ」には、そうした重たさはない。その切っ先が指し示す先には、ただただ限りない自由が広がっている。「はがねのつるぎ」さえあれば、平原を越え、アッサラームの街に渡ることができる。それどころか、少し勇気を出せば、砂漠を越え、イシスの都を目指すことだってできるのだ。はがねのつるぎは、実に様々のものを我々に教えてくれた。
例えば、それは、ほんの少しの努力*1で、世界はこんなにも広がっていくのだ、ということであったり、どこまでも広がっていくかのように思えた世界は、やがてちいさくしぼんでいってしまう、ということであったりする。
人生。
我ながら、何てつまらない単語を選んでしまったかと思うが、人生。我々の人生だって、結局は「はがねのつるぎ」と同じようなものだ。やれ、Gスポットだ、ボルチオだとか、くだらないテクニックで頭をいっぱいにしてみても、我々はどうしても粘りつくような空しさに囚われてしまう。これから、何を覚えたところで、はじめて異性のおっぱいに触れたときの、あのよろこびを超えるものなど、この世にありはしないのだ。我々はもう十分にそのことを弁えている。
であれば、もうこれ以上ゲームを進めない、という選択も、当然考慮されて然るべきだろう。「はがねのつるぎ」だけを握りしめ、まだ見ぬポルトガに思いを馳せる。馳せ続ける。そうした生き方がいま最高にク-ルだよね、渋谷109に集うギャルたちもそう言っていたし、僕もそう思う。人生でいちばん楽しい時期を凍結させて、その中だけで生きてゆく。「成長しないって約束じゃん」という理屈だ。
しかし、もちろん、そうすることのできる人間は、それほど多くはない。「はがねのつるぎ」は、誰にでも手に入れることのできる武器だけど、それを輝かせつづけることは案外むずかしい。誰にでもできることじゃない。本邦には、三十年間童貞を守り続けた男は魔法使いになれるという物語が伝えられているけれど、おそらくこれは半分しか正しくない。孤独な生活の中で、それでもなお、はじめてのときめきを心に抱きつづけられたものだけが、魔法を使うことができるのだ。
その変身をみたくて寝てるふりしても、ネコにはバレてる。
それは「30歳以上の童貞」の人たち。
これこそ、真の魔法だ。子供のころ、僕は魔法を信じていたし、いまも信じている。魔法は、ほんとうにあるんだ。
https://anond.hatelabo.jp/20231229231559
(本当は http://d.hatena.ne.jp/yoghurt/2F20090911/p1 、飲めヨーグルト にあった名文。連想したのでコピペしちゃうね)
Colaboと東京都との契約が「公法上の契約」とのことで、その取扱いについて話題になっている。
また、先行したまとめもあるが、
もう少し詳しく見ていこうと思う。
結論を先にいうと、
と考えている。
どのように区分されるのか。
国や公共団体(市町村がその典型)の内部や相互間の関係を規律するルール、および、それらと私人との関係を規律するルールが《公法》であり、私人相互間の関係を規律するルールが《私法》である。
具体的にいうと、公法に該当するものとして、刑法、民事訴訟法、刑事訴訟法、国家行政組織法などがあり、私法に該当するものとして、民法や商法、会社法などがある。
ただし、公法に区分されている法律にも私人間について規定した部分があったり、私法に区分された法律にも国家について規定した部分があるなど、法律単位で明確に区分できるものではないので、概念的なものと理解してほしい。
公法と私法はそれぞれ別の法体系として捉えるべきかどうか、という議論がある。現在の通説は一元論(というより区分の意味がない)であり、判例・実務も一元論寄り(あえて区分しない)と理解されている。
法解釈技術的に見る限り、今日、公法私法二元論を取って取れないことはないにしても、その場合、一元論に対比しての独自の意味は余り無く、従って、どうしても二元論に固執しなければならない、という理由もまた無い、というのが実態
公法上の契約に入る前に、行政庁がその活動を行うにあたって、どのような形式があるのか見ていこう。
一般的に、私人間の法律関係・権利義務関係を作るものは契約である。
契約という手段を用いることもある(後述)が、そのほかに「行政行為」という概念がある。法律上の用語ではなく、講学上の用語であるが、便利なのでこれを用い、具体例を挙げて説明する。
行政行為にはこのような種類があるが、それ自体は余り重要ではない。重要なことは、行政行為とは私人に多大な影響を与えるものであり、法的な根拠が強く求められる(行政の好き勝手は許されない)ということだ。
行政行為は権力的行為の象徴としてとらえられ、その限りにおいて行政権についての法の拘束を問題とする法律による行政の原理を中心とする行政法の諸原理が直接妥当する。
例えばあらゆる行政活動につき妥当する「法律の優位の原則」は言うまでもなく、「法律の留保の原則」に至っては、そもそもそれ自体が行政行為を中心とする個別具体的な行政活動をめぐって展開されて来た
ざっくり言うと、「法律による行政の原理」とは、行政は法律に従って活動しなければならない、という大原則(例外あり)のことであり、この原理から導かれる「法律の優位の原則」とは行政は法律に違反してはならないということで、簡単に理解できると思う。
また、法律に反しなければ行政は何をしても良いわけではない。そこで登場するのが「法律の留保の原則」である。これは、「行政活動を行うには法律の授権を必要とする」という考え方だ。ただ、これはすべての行政活動に妥当するとは考えられておらず、例えば純粋な私経済作用(例えば文房具を購入するなど)については妥当しないと考えられている。
しかし、我が国における一般的な行政慣行として、行政行為に至る前に、行政指導というものが行われている。具体的にいうと、役所に「こんなことできませんかね?」と質問した際に「それじゃちょっと難しいっすね。ここをこうしてもらえるならできまっせ」と回答して貰ったり、役所から、「建物が壊れそうで、このままだと行政処分をせざるを得ないから、今のうちに危険を除去しといてね」と指導されたりするやつだ。
これは行政行為(処分)ではなく、単なる事実上の指導であるので、基本的には法的な根拠は不要であるし、訴訟の対象にもならないと考えられてきた(例えば行政指導を信じた私人が不利益を被った場合、行政庁に責任はないと解されてきた)。
行政行為には法的根拠が必要で、手続き守らなければならず、訴訟の対象にもなるということで、面倒くさい行政行為ではなく、行政指導を活用してきたということだ。
しかし、あまりに便利で幅広に使いすぎたせいもあり、一定の手続きの整備や訴訟の対象とすることは必要だ、と解されているのが現在である。
行政指導には何らの法的拘束力も無いという基本的な考え方からして、行政指導に対する私人の信頼の保護ということが、行政法学上重要な問題とは考えられなかったような時期はもう終わった、ということだけは明らかとなった
第三十二条 行政指導にあっては、行政指導に携わる者は、いやしくも当該行政機関の任務又は所掌事務の範囲を逸脱してはならないこと及び行政指導の内容があくまでも相手方の任意の協力によってのみ実現されるものであることに留意しなければならない。
2 行政指導に携わる者は、その相手方が行政指導に従わなかったことを理由として、不利益な取扱いをしてはならない。
第三十五条 行政指導に携わる者は、その相手方に対して、当該行政指導の趣旨及び内容並びに責任者を明確に示さなければならない。
2 行政指導に携わる者は、当該行政指導をする際に、行政機関が許認可等をする権限又は許認可等に基づく処分をする権限を行使し得る旨を示すときは、その相手方に対して、次に掲げる事項を示さなければならない。
(略)
第三十六条の二 法令に違反する行為の是正を求める行政指導(その根拠となる規定が法律に置かれているものに限る。)の相手方は、当該行政指導が当該法律に規定する要件に適合しないと思料するときは、当該行政指導をした行政機関に対し、その旨を申し出て、当該行政指導の中止その他必要な措置をとることを求めることができる。ただし、当該行政指導がその相手方について弁明その他意見陳述のための手続を経てされたものであるときは、この限りでない。
(略)
行政行為と行政指導を見てきたが、大まかな考え方として、「行政のフリーハンドは認めない」方向で議論が進んでいる点が重要である。
行政の意思の実現は、これまで見てきた行政行為や行政指導以外に、契約という形式を用いることがある。例えば、住民と水道局との給水契約、官公庁舎の建築契約、消耗品の売買契約等々、幅広く存在している。
そして、これらの範疇に含まれない、公法上の契約というものが存在する、と議論されてきた経緯がある。
しかし、先ほど見てきたように、そもそも公法私法二元論自体に疑義があり、公法契約にも疑義が呈されているのが現状である。
いわば狭義の行政契約すなわち公法契約(公法上の契約)という行為類型が存在する、という主張が、伝統的になされて来た。
(略)
特に「公法契約」というカテゴリーを解釈論上設定する意味は極めて薄い、と言わざるを得ないことになる。このような事情にあるために、現在わが国では、公法契約なるものの存在可能性自体は否定しないにしても、現実には極めて例外的にしかその例を認めない見解が、多数であると言ってよい。
そこで、これら行政の行う契約をひっくるめて、行政契約(行政上の契約)として議論されることが多くなっている。
いずれにしても、大きな議論の流れとして、契約であるから行政庁は好き勝手して良い、という方向では議論はされておらず、行政行為・行政指導で見たように行政庁の自由裁量を認めない方向で議論が進んでいることは間違いない(もちろん契約内容にもよるが)。
したがって、行政契約であることをもって、契約主体(行政庁と契約相手)が自由裁量を得る、というのは誤りであると言える。
特に、公法契約が存在するとした場合、行政庁と私人の自由な意思に任せることが原則の通常の契約よりも行政庁の裁量の幅が狭くなることはあれ広くなることは考えにくい。
この方法には、私人との合意があったことを理由に、行政主体が好き勝手なことをなし得る、という危険が内在することをも意味する。先に見たように、現行法上、行政主体の結ぶ契約について、様々な制約が付されているのは、まさに、このような危険を防ぐためである
Colaboと東京都の契約は、「東京都若年被害女性等支援事業委託仕様書」に基づいてなされた一般的な委託契約(請負契約か準委任契約かは結論に影響しない。)であり、公法契約という概念が出てくる余地はない。
従来の行政法学では、行政上の契約を公法に属する「公法契約」と私法に属する「私法契約」とに二分し、前者のみを行政法学の対象としてきた。そして、「公法契約論」においては、報償契約・公用負担契約などを念頭において、こうした公法契約を締結するには法律の根拠が必要とされるかとか、いかなる要件のもとに締結が可能かといった問題(公法契約の許容性と可能性)を主に議論してきた。
また、仮に公法契約であったとしても、競争入札において、予定価格を定めなくて良いという特別法がない以上、一般法(地方自治法)の規定が適用されるものである。
したがって、東京都の「公法上の契約のため当該資料は存在しない」という説明は、①公法上の契約とは考えられないこと、②仮に公法上の契約だとしても予定価格の算定は必要なこと、と二重の意味で誤っていると思われる。
(予定価格の算定をしなくて良いのであれば、地方自治法第234条3項が適用されない法的根拠の説明が必要だ。)
第二百三十四条 売買、貸借、請負その他の契約は、一般競争入札、指名競争入札、随意契約又はせり売りの方法により締結するものとする。
2(略)
3 普通地方公共団体は、一般競争入札又は指名競争入札(以下この条において「競争入札」という。)に付する場合においては、政令の定めるところにより、契約の目的に応じ、予定価格の制限の範囲内で最高又は最低の価格をもつて申込みをした者を契約の相手方とするものとする。ただし、普通地方公共団体の支出の原因となる契約については、政令の定めるところにより、予定価格の制限の範囲内の価格をもつて申込みをした者のうち最低の価格をもつて申込みをした者以外の者を契約の相手方とすることができる。
すなわち、競争入札でなければ予定価格を算定する必要はない、ということだ。
では、東京都若年被害女性支援事業は競争入札で行われたのだろうか。実は、この公募関係のウェブページが全部削除されているのである。
かろうじて、平成30年度は公募が行われたらしきことが見て取れる。
[都]平成30年度東京都若年被害女性等支援モデル事業の一部を実施する事業者を公募します
http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/kodomo/jakunenjosei/jakunenjosei.html
https://www.tcsw.tvac.or.jp/php/contents/mailmagazine.php?key=617
だが、リンク先を見てもらえばわかるようにすでにリンク切れであり、ウェブ魚拓・ウェブアーカイブさえ見つけることができなかった。そして、平成31年度~令和4年度までは公募が行われた形跡すら見つけられない。
通常、こういった公募手続きについては終わった後も消すことは余りないように思うのだが、何故見つけられないのだろうか。(見つけた方はぜひ御提示ください)
不意に予定価格と出てきて、何のことかわからない方もおられると思う。
予定価格とは、ざっくりというと契約金額(落札金額)の上限だ。
不思議なところであるが、例えば議会で予算が1000万円と認められた事業について、入札を行う際には予定価格は950万円くらいになったりする(なので980万円で入札しても落札することはできない。)。
予定価格の算定方法は公表されてないが、一般的には業務ごとに一定の割合を乗ずることによって算出している(例えば役務(労働力)の提供であれば予算額の95%等)。
(ここではそういうものだとご理解ください。詳しくするとまた長くなるので)
ここに書いてきたことは、「東京都が、都とColaboの契約を公法上の契約ととらえており、また、予定価格を定めていない」という情報が正しかった場合です。
個人的には何かの間違いだったと思い
コンテストに出場した清居だったが、一位にはなれず。コンテスト終了後に一人きりで悔しがる清居を追いかけ、声を掛ける平良だったが、拒絶されてしまう。夏休みが終わると、教室のヒエラルキーが一変。清居はコンテストで入賞を逃した。たったそれだけの事で城田達、元清居のグループが清居外しを始め、それはやがて露骨なイジメへと進展してしまう。城田達による清居への悪辣な嫌がらせに遂にキレた平良は……。
これまで、原作に比べると純朴で可愛い印象だった平良が、ここへ来て原作通りの根暗アグレッシブ俺様ぶりを発動! マシンガンを構える平良の闇の深すぎる目線にシビれた。てか、「マシンガンがあればいいのに」って独白をバッチリとマシンガンをぶっ放すシーンで表現してしまうの面白いw なのに平良が城田に殴りかかってボコボコにするシーンは写さないし、平良の顔や身体に跳ね返ってるのは血糊ではなくトマトジュース(城田が清居にぶっかけたやつ)にしてしまうという、謎の表現規制w
平良役に萩原利久を当てたことに当初は批判の声もなくはなかったんだけれども、萩原利久で本当に良かったとしみじみ思った第3話だった。あの平良の目つきを再現出来る役者は他にいないのではないかと思った。あと、跪いて清居の手の甲にキスするシーン、腐女子の夢がめっちゃ詰まってた!
城田が平良に八つ当たりした理由がわかりにくいような。といって私も原作の部分を正確には覚えていないけど……二学期初日に城田と二人で自撮りしてた元清居ファンのロリ顔巨乳ちゃんが清純そうな顔して二股かけたせいで別れた、というやり場のない怒りを通りすがりの平良にぶつけたとか、そんな感じだったような気がした。そんなドロついた背景のある城田とロリ顔巨乳ちゃんが、卒業式には何事もなかったかのように和解しているのには笑った。平良と清居の同級生達は小学生かよってくらい幼い。城田があまりにもアホな言動をする子にされているせいで、やること最悪なのにいい子っぽく見える。そもそも高校三年生なのにクラスで亀を飼っていたりとか、夏休みの宿題を写し合いしてるとか、謎にリアリティの無い高校生活描写なのは一体何故なんだ。
清居がハブられたせいで思いがけずに訪れた平良と清居の二人だけの時間が、萌え萌えしくてよかった。お家で一緒に宿題したりとか、自転車二人乗りで帰ったりとか。
さて、残りあと2話。次回にはあのビーバー小山が登場する訳だが、陰のあるイケメン平良&清居とは真逆の陽キャ爽やか系イケメンな高野洸が小山役を担当しており、半端ないラスボス感が! しかも爽やか良い人そうな役作りでありつつ、なんだか「お前自分がイケメンだってこと良く分かってるだろ」って感じさせる、うっすらとした嫌味のある演技。ビーバー小山感ハンパない。予告では平良と小山の前に立ちはだかる清居……これまたキングのオーラを放っており、来週も見逃せないな。
平良役の萩原利久、清居役の八木勇征、小山役の高野洸は将来ビッグな役者になりそう。今もう既にすごいし。
正直読んでもあらすじが今ひとつ分からなかったのだが、エジプト神話の話。
1話全部と2話の殆どが神話パートで、2話の終わり辺りでアヌビスが父のセトに歯向かい、そこにホルスがやって来て、ボコられた。3話でイシスがセトに殺されかけて、ホルスがセトを刺す。
シーモアで3話無料だったので読んだのだが、3話までではさっぱりストーリーがわからない。分からなさ過ぎるよ!
ENNAD(エネアド。ヘリオポリス九柱神)の一人セトが暴虐の限りを尽くし、ホルスがそれを止めようとセトと王座を巡って闘うわけなのだが、Pixiv百科によれば、どうやらセト←ホルスのBLであるっぽい。なるほどわからん。面白そうではある。買って読むかというと……保留かな。
なんか……たまに韓国BLを試し読みしてみると、ストーリーがかなり殺伐としているので驚く。海を超えてまで人気が出るような作品だからこそ過激な作風なのかもしれないけど、愛憎の憎の部分がめちゃ強いのはなんなの……。
とあるBL書きのコミュニティで、BLと非BLの違いってなんなの? と聞かれた。
アマチュア字書きの書くBLの場合は単に男同士が愛し合ってるかセックスしてるかというだけで他に確たる決まりはなさそうだよ、でも商業BLはそれだけでなく他に守らなきゃいけない掟があるようだよ、と私は答えた。
そしたら質問者が「じゃあ私の作品はBLではないってことですか。私はBLだと思うんですけど、BLというジャンル設定で小説投稿サイトに投稿したらダメなんですか」と食ってかかって来たので相手をしたんだけど、どうも要領を得ないというか……。そもそも最初にアマチュアの字書きの書くBLは男同士が愛し合ってるかセックスしてるかというだけで他に確たる決まりはないって言ったじゃん! アマチュアなんだから好きに投稿すりゃええがな。誰も文句なんか言わぁしねえよ! と思ったけどそんなこと言ったら怒りそうだから丁寧にリプライした……。
質問者は自分の作品なんかクソクソのクソだからプロになるなんて夢もまた夢だと言いつつ、BLってなんですか? 女性向けってなんですか? ライトノベルってなんですか? 等、アマチュアがWeb上で投稿する限りにおいては別にそこまで厳密に考えんでもいいことを、あくまで商業作品の定義としてどうなのか? っていう意味で聞いて来るので困った。一体、この人は何なの? 死ぬほど自信が無いと言いながら実はプロ目指していたりするの?
段々相手するのが馬鹿らしくなってきたけど、真面目に対応しないとキレ散らかしてコミュニティーを荒らしに荒らしてから垢消して去る系かなと思ったので、「ggrks」と言いたいのを抑えて分かる範囲で答えた。
最終的に、
「ジャンル分けを気にするのはプロになろうと思ってコンテストに応募する時だけで、ただ投稿サイトに投稿するだけなら、自分がBLと思ったらBLで投稿すればいいってことですね」
と分かって貰えた……。と思ったら、
と、話が振り出しに戻った。
anond:20210210062305 (クラシック曲ガイド) を見やすくしたよ。
§1600年代前半
§1600年代後半
§1700年代前半
§1700年代後半
§1800年代後半
§1800年代終盤から1900年代初頭 (後期ロマン派・印象派音楽)
§1900年代中盤以降 (第一次大戦終了によってロマン主義と印象主義が古くなった時代に真価を発揮した作曲家たち)
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1664833
↑このブコメで賞賛されている表がかなりデタラメなので修正してみた。
とりあえず同じように1600年代から始めます。「オケゲム、マショー、パレストリーナ、ジョスカン・デ・プレがないぞ」とかいう意見もあるようですが、それはもっと以前だから書いていないだけです。
作曲家の「生まれた年」ではなく「主に活躍した時代」で書きます。これに文句を言っている方もおられるようですが、何故かと言うと例えば生まれは1600年代終盤だけれど音楽家として活躍し世に認められたのは1700年代になってから、といったような例があるからです。
「あれは記憶だけで描いてるから素晴らしい」とおっしゃる方もいらっしゃいますが、これも資料などは参照せず、ほぼ脳内の情報だけで書いております。
モンテヴェルディ(みんな知ってる「私を死なせて」)、カッチーニ(「アヴェ・マリア」が有名だが実はソ連の音楽学者ヴァヴィロフの贋作。真作で有名なのは「アマリッリ」)
シュッツ(「ドイツ音楽の父」として有名)、シャイン、シャイト(以上3名は「ドイツ三大S」として有名)
コレッリ(「ラ・フォリア」が有名)
ヴィヴァルディ(「四季」の人)、アルビノーニ(「アルビノーニのアダージョ」が有名だが贋作。真作で一般に有名な曲は無い)、ペルゴレージ(「スターバト・マーテル」が有名)
クープラン(チェンバロ曲で有名)、ラモー(音楽理論とオペラ)
バッハ(名曲多数)、ヘンデル(日本では「音楽の母」などと呼ばれたが女性ではない。「メサイア」「オンブラ・マイ・フ」「水上の音楽」など)、テレマン(「食卓の音楽」で有名)
以上1600~1750年が「バロック音楽」の時代。欧州における「絶対王政」の時代とほぼ重なるという見解があります。
「古典派音楽」の時代。啓蒙思想によって理性が重視され、それが音楽に影響を及ぼした時代です。
チマローザ(オペラ「秘密の結婚」)、パイジェッロ(「うつろな心」)、ボッケリーニ(「女ハイドン」の異名を持つが男性)、サリエリ(オペラの巨匠)
音楽における「ロマン主義」は文学や絵画よりも遅れて1800年代になってから現れます。この時期は古典派音楽からロマン派音楽への過渡期です。
ロッシーニ(オペラ「ウィリアム・テル」「セビリアの理髪師」など)、ベッリーニ(オペラ「ノルマ」など)、ドニゼッティ(オペラ「愛の妙薬」など)
シューベルト(未完成交響曲 D 579、歌曲集「冬の旅」など)
メンデルスゾーン、シューマン、世代的にはワーグナーもここに入る(この時期はオペラ「リエンツィ」「タンホイザー」「ローエングリン」など)
リスト(本人はハンガリー人を自認したが実際はドイツ系オーストリア人で本来のハンガリーの民族要素は無いのでドイツ・オーストリア音楽として捉えるのが正しい)
グリンカ(オペラ「ルスランとリュドミラ」)、ダルゴムイシスキー(オペラ「石の客」)
1848年革命の失敗により、ヨーロッパ音楽の雰囲気も暗くなって参ります。
ヴェルディ後期(オペラ「椿姫」「アイーダ」「オテロ」「ファルスタッフ」など)
ブルックナー(交響曲では4番と7番、8番が有名だが初心者に聞きやすいのはむしろ1番と6番だと思う)
ブラームス、ブルッフ(ヴァイオリン協奏曲第1番が有名)、ワーグナー後期(楽劇「トリスタンとイゾルデ」「ニーベルングの指環」「ニュルンベルクのマイスタージンガー」)
オッフェンバック(オペレッタ「天国と地獄」など。実はドイツ人)、グノー(オペラ「ファウスト」)マスネ(オペラ「タイス」など。「タイスの瞑想曲」)、サン=サーンス(長生きしたので今年没後100年)、フランク(バッハの対位法、ベートーヴェンの劇的構成、ワーグナーの和声を融合した究極の交響曲を作曲したが実はベルギー人)、フォーレ(「レクイエム」「幻想の水平線」)
スメタナ(連作交響詩「我が祖国」その中の一曲が「モルダウ」)、ドヴォジャーク(「新世界交響曲」e-moll op.95 など)
ボロディン(オペラ「イーゴリ公」、交響詩「中央アジアの草原にて」、交響曲第2番など)、バラキレフ(東洋幻想曲「イスラメイ」)、ムソルグスキー(オペラ「ボリス・ゴドノフ」、ピアノ組曲「展覧会の絵」)、リムスキー=コルサコフ(交響組曲「シェヘラザード」など)、チーコフスキー(バレエ「白鳥の湖」、交響曲第6番「悲愴」など)
グリーグ(ピアノ協奏曲、劇判音楽「ペール・ギュント」、ピアノ曲「抒情小品集」、歌曲「最後の春」など)
プッチーニ(オペラ「トスカ(星は光りぬ)」「蝶々夫人(ある晴れた日に)」「トゥーランドット(誰も寝てはいかん)」など)、マスカーニ(オペラ「カヴァレリア・ルスティカーナ」映画「ゴッドファーザー PART III」のあれ)、レスピーギ(交響詩「ローマの松」などローマ三部作)
マーラー(11曲の交響曲と歌曲)、ヴォルフ(ドイツ語歌曲の頂点として非常に有名)
リヒャルト・シュトラウス(交響詩「ツァラトストラはかく語りき」〈映画「2001年宇宙の旅」のあれ〉オペラ「サロメ」〈裸踊りで有名〉「薔薇の騎士」〈少女漫画オペラ〉)、レーガー(変奏曲と室内楽の達人。歌曲も秀逸)
ダンディ(「フランスの山人の歌による交響曲」は初音ミクが歌った冨田勲の「イーハトーヴ交響曲」の元ネタ)、ショーソン(「詩曲」、フランクの影響を受けた1曲だけの交響曲など)、ドビュッシー(オペラ「ペレアスとメリザンド」、交響詩「海」など)、ラヴェル(バレエ音楽「ダフニスとクロエ」、ピアノ協奏曲ト長調など)
フェルステル、ヤナーチェク(オペラ「利口な女狐の物語」、村上春樹のせいで何故か有名になった「シンフォニエッタ」)、スーク(アスラエル交響曲などが有名)
シマノフスキ(「スターバト・マーテル」など)
グラズノフ(ロシア浪漫派交響曲を集大成した作曲家として有名)、ラフマニノフ(無伴奏合唱曲「晩祷」で非常に有名)、スクリャービン(神智学に陶酔した交響曲第4番「エクスタシー」と、「神秘和音」を駆使した妄想ピアノソナタで非常に有名)
エルガー(「威風堂々」が有名だが真の傑作は交響曲第2番)、ディーリアス(「春始めての郭公を聴いて」は英語圏では誰もが知る名曲)、ヴォーン・ウィリアムズ(「田園交響曲(3番)」と「南極交響曲(7番)」が有名だが5番も捨て難い)
ヒンデミット(オペラ「画家マティス」と、その音楽をまとめた交響曲が有名)
シェーンベルク(無調音楽、12音音楽の創始者。彼が最初に12音音楽による楽曲を完成したのが1921年なので今年はシェーンベルク式12音音楽の100周年。まず聴くばきは「ピアノ協奏曲」「ヴァイオリン協奏曲」「弦楽四重奏曲第3番、第4番」)、ベルク(無調音楽、12音音楽に調性音楽的要素を取り入れて聴きやすくした人。オペラ「ヴォツェック」「ルル」、器楽曲では「ヴァイオリン協奏曲」が有名)、ヴェーベルン(12音音楽の究極として有名)。以上の3人は「シン・ヴィーン楽派」として20世紀音楽を語る上で非常に重要です。
いわゆる「6人組」の時代。現在でも有名なのはプーランク、ミヨー、オネゲル(交響曲第2番と第3番はカラヤン盤もあるので聴いて下さい。このほかオラトリオ「火刑台上のジャンヌ・ダルク」も泣けます。実はスイス人)。現代音楽史的により重要なのはメシアン(「トゥーランガリラ交響曲」「世の終わりのための四重奏曲」「彼方の閃光」オペラ「アッシジの聖フランチェスコ」などが非常に有名)。
プロコフィエフ(大人は「ピーターと狼」みたいなガキ向けの曲は聴かず「交響曲第2番」の暴力的激しさにヒャッハーしましょう)、ハチャトリアン(「剣の舞」とかいう曲は子供の頃運動会で聴いたでしょうから、そんなものより「交響曲第2番」でファシストとの激しい戦いを体感しましょう)、ショスタコーヴィチ(世間一般では交響曲第5番が知られていますが、高く評価されているのは4番、8番、10番、14番など偶数番号の交響曲です。真髄はオペラと弦楽四重奏曲です)
20世紀後半以降は省略。
グルメ系ブロガーによく見られるのが、「素材以外に余計な味が入っていない」事を過剰にありがたがる傾向。
完全具無し派、液体に近いルーを有り難がる。さらに炭水化物否定で、小麦粉を使用していない、ライスも不要という主張。
スープと麺以外は不要と言う過激な人がけっこう居る。許せてもネギ、メンマ、チャーシューまで。1200円超え系だとスープの透明度を気にし始める。
絶対に塩派。「動物性タンパクには塩」主義とも言え、焼鳥・ステーキも塩以外邪道と断じる。
いちばん驚いたのが「具は頼むが観賞用として手を付けず残す」という人。具の絵画的バランス云々という説明で異次元に持っていかれかけた。
おかずをご飯に付けるワンバン食いをよくやるが、これを「冒涜的」と激しく攻撃された。このような人物を個人的軽蔑をこめて「ライシスト(白米至上主義)」と呼んでいる。
飯を食ってるだけなのに、それを「~道」にしたがる輩が個人的に気に入らないので増田でこういう形で発散したかった。高級リストランテでもないのに食い方にケチを付けられたくないし、それを晒されたくもない。
彼個人の資質についてはアホだけどいじめの才能だけは有り余ってるとかかね?
票については田舎の農協が強いとこは自由匿名選挙っていう前提がないので
農協の言うままに自民に入れろって言われてジジババがその通りに投票するし
役所の人間も誰が投票に来て誰がどこに入れたか見張ってるっていう
そうかそうか方式より数段キッツイシステムが罷り通ってるって聞いた
田舎でうまくやるには中卒とか高卒の子どもや孫を役所か農協に入れなきゃいけないし
金が入用になったらうまく道路を通してもらって端っこの土地を役所に高値で売らなきゃいけないし
オンラインや対戦ゲームでのプレイヤーで異性を使っている人はわりと多いけどさ。それを現実でやったらおもしろいんじゃね?と思ったのがきっかけ。みんながゲームの世界でやることを俺は現実でやってみるわ。
身体のスペックは身長160台前半 体重50kg台 童顔で痩せ型なので「これはいける!」という謎の自信にも後押しされ、ネットでサクッと予約した。
女性の店員さん2人(男性じゃないし可愛かった)に迎えられ、カルテを書く。
コースが複数あったが、今回は着物とワンピースの2パターンでお願いした。基本料金は17000円ほどだが着付け等の追加料金で23000円した。まさか6000円も上乗せされるとは思わなかったがソシャゲよりはマシだと割り切る。パズドラのイシスなんて10000円出して出なかったしな。然るべきお金を払えば確実に実現できる女装は素晴らしい…?
流れとしては
着物の着付け→化粧→写真撮影→ワンピースに着替え→写真撮影→お出かけ→化粧落とし→お支払 のべ3時間のサービス。
全部事細かに書くとグダグダになるのでいくつかポイントごとに。
成人式でも無難にスーツを着たし、茶道等の経験もないのでこれが初めての和服デビュー。これが初めてになってしまった。今後和服を着るたびに女装のことを思い出すのかと思うと複雑な心境だった。
の順番でやるんだけどさ。文字にすると一行で終わるけど実際には10分から20分はかかった。
着付け後はメイクを施すため、試着室からメイク台へ5mほど歩く必要がある。短い距離なのにこれが思いの外大変だった。
なんでかっていうと
①着物が重いこと ②着付けの関係でいつもの歩幅で歩けない ③下駄 と簡単にハットトリック達成するから。
着物って背すじがピーンと伸びるし疲れるわ。もうすぐ成人式だけど振り袖ガールズには優しくしような。
・男はどうあがいても男
化粧以外にもフェイシャルエステだのテープによるリストアップだのありとあらゆる手を尽くしたが、目を開けば紛れもなく男性がメイクをした姿がそこにはあった。俺は女の子にはなれないと実を持って知った。素顔はゴリラ系ではないので3秒くらいは騙せそうなのが救いだった。
いつだったか資生堂のCMで女装メイクが話題になったことがあった。あれは技術もそうだけど日本中から集められたイケメンの中のイケメンだからこそできる芸当だ。女装でもイケメンは強い。
女性よりも女性らしいポーズを頼まれ、「カワイイ」と言われ続け(これが不思議と悪い気はしない)、果てには自分の口から
「今日のコーデどう?」「にゃは♡」「かな(カルテ記入時に決めたニックネーム)のこと、カワイイ?」
撮影中の店員さん達の楽しそうなことと言ったらもうね。そもそもどっかずれてないと女装サロンの店員さんなんてやらないしな、変態に決まってる。
身も心も女性に塗り替えられていくような気がした。店内には俺と店員さん二人しかおらず、タガは簡単に外れた。頭がおかしくなりそうだった。
着付けを始める前に好きな曲を聞かれ、適当にクイーンと答えたのが救いだった(以後最後までクイーンの曲が店内に流れ続けていた)。
プレイの影響でもう女でもいいじゃねえかと思っていた最中、耳を傾けると「We Are The Champions〜」と頼もしい歌声が聴こえて来た時は心の中で「なんのチャンピオンだよww」とツッコんだし心強かった。
「俺は男なんだ」そう思った。
・女らしい振る舞いは一日にしてならず
12月の寒い日だったがなぜか暑かったため服装による寒さは気にならなかった。なんでだろうな。
でもここまできたら女性らしく歩きたい。すれ違う女性を参考に真似をしてみるが自分でもぎこちないとわかる。ヒールも悪さをしていてかなりおぞましい姿だったろうな。
アレだ。『メタルギアソリッド』で女性隊員のメリルは歩きを男らしく出来てなかったけどアレの逆バージョンだ。メリルができなかったのに俺にできるはずもなかった。
ノリでコンビニに入って飲み物を買ったけど、店員さんのドン引きした顔が今でも忘れられない。そうだよな、わかるわかる。
外は寒いだけでなく風も強かった。
こうなると少し長めの髪型が乱れていないかものすごい気になった。身だしなみは大事だ。たとえそれが女装だとしても。
そうなると必要なのは手鏡だが、元々そういうのを持つ人間ではなかった(たまーにいるよね)。
仕方なく誰もいないガラスの前で髪型を確認し少し直した。外出時間は30分と短めにしたが、もっと長時間外にいたら化粧崩れでも不安になってたはず。
電車内では鏡を見ながら髪や化粧直しをしている女性をよく見かける。個人的にマナーとして良くないんじゃない?とは思うが気持ちは理解できるようになった。
・おわりに
化粧落としをして終了。帰際にTwitterの女装アカウント開設をめちゃくちゃ勧められたがごめんなさい。
はてな匿名ダイアリーに書いたからゆるして。
時代遅れの多色16倍火力では通用せず、 頼みの綱のドロップ強化火も封印され惨敗だった
ダンジョンに響くパズドラー達のため 息、どこからか聞こえる「超地獄ノーコ ン無理ゲー」の声
無言で帰り始めるモンスターの中、昨年の首位打者ホルスは独りボックスで泣いていた
ディオス降臨で手にした栄冠、喜び、感動、そして何より信頼できるパーティーメンバー・・・
どれくらい経ったろうか、ホルスははっと目覚めた
どうやら泣き疲れて眠ってしまったようだ、冷たいボックスの感覚が現実に引き戻した
「やれやれ、帰ってトレーニングをするホル」ホルスは苦笑しながら呟いた
立ち上がって羽ばたいた時、ホルスはふと気付いた
ボックスから飛び出したホルスが目にしたのは、スレを1から1000まで埋め尽くさんばかりのホルキチ達だった
キリキチを完全に制圧し、地鳴りのようにホルキチの最強議論が響いていた
どういうことか分からずに呆然とするホルスの背中に、 聞き覚えのある声が聞こえてきた
声の方に振り返ったホルスは目を疑った
「なあに不死鳥、居眠りでもしてた の?」
「ssnosn・・・」
暫時、唖然としていたホルスだったが、全てを理解した時、もはや鳥の心には雲ひとつ無かった
「勝てる・・・勝てるホル!」
うーん、グノシーの場合は、さらにグノシーの意図で宣伝的なサイトを入れてたりするから余計にたちが悪いと思う。
そもそもただただニュースまとめて配信するだけなのにあれだけ資金を調達してることがあり得ない。
2,3人で副業がてらやってるもんだろう、と最初思ってたら今やかなりの規模になってるじゃん?
まー、ちょっとカッコイイ難しいアルゴリズムを作りました、って言ってバカどもは、じぶんはそれを理解できる程賢いんだ、って思いたいがために投資してるんだろうけど。
ドラコレ以来絵柄を変えただけのポチポチゲーが生まれては消えていったが
たとえばレアの上にスーパーレア、その上にダブルスーパーレアが追加になり、レジェンドレアやウルトラレアなんてものも後から後から追加され
お金をかけて集めたカードが半年後には紙くずになるという文字通りのインフレが起きている。
同じようなゲームばかりが量産される中だからこそパズドラが流行ったんだろう。
一応課金要素はあるが、無課金でも十分遊べることが広い層から支持されてるけど、最近の流れをみてるとどうも雲行きが怪しくなってきた。
課金はしていないがかなり遊んでるゲームなので、パズドラの今後が不安だ。
無課金でもモンスターが集めやすい、虹の番人という強力なモンスターが使える、属性的に不利なダンジョンがない、
などの理由で序盤にまず目指すべきパーティとして注目を浴びた。
耐久力を伸ばすリーダースキルがなかったが、ルシファーの登場で耐久パを組めるようになった。
無課金でもモンスターが集めやすく、6.25倍という強力な攻撃力が得られるので人気がある。
ドラゴンタイプは育成に経験値が多く必要なので序盤は辛いが育ててしまえばかなり強い。
スキルに幅が出ないのと耐久性、回復力に欠くので高レベルダンジョンではきつい。
やられる前にやるというパーティだが、敵の耐久インフレの前には火力不足になりつつある。
不遇だったエジプト神の性能が修正されて攻撃力9倍、12倍、16倍という超攻撃型のパーティが組めるようになった。
攻撃力もそうだが、このパーティーの最大のメリットは属性さえかぶらなければ、どんなモンスターでもパーティーに組み込めるということだ。
有用性の高い威嚇、防御体制、ギガグラビティ、鉄壁など、「やられるまえにやる」という方針を最大までサポートできるスキルで敵に挑める。
攻撃力インフレによって、被ダメージは6万とか8万とかになって、どんなパーティを組んでも攻撃を食らってしまうと負け確定というゲームになってきた。
また、HPインフレによって敵のHPが200万とか300万とかになって、普通の攻撃力じゃ倒すのは不可能じゃないが、なんどもコンティニューするのが前提、という風潮になってきている。
よって、ボス戦の基本的な方針は
割合ダメージ技でHPを減らす→「威嚇」で攻撃までの時間を稼ぐ→緊急時には「鉄壁」で敵の攻撃をしのぐ
という、いかに攻撃を食らわずにこちらの攻撃ターンを稼ぐか、いかに少ないターンで戦闘を終わらせるか。
もっというと石(一個85円)いくつでクリアできるか。というゲームになってきている。
イシスでは力不足になり、発動条件は厳しいが攻撃力30倍をたたきだせるラーが見直されてきている。
エジプト神はガチャでしか手に入らない(一応無料で引けるが運が必要)ので、
無課金で目指せるパーティはHP満タン時だけ攻撃力9倍のゼウスパ、HP20%以下のときに攻撃力25倍になる五右衛門パが主流である。
ただ、最近敵がゼウス潰し(先制攻撃)、五右衛門潰し(火属性10ターンバインド)のスキルを使ってくるようになってきた。
結局、パーティ編成しながら戦略を考えるのではなく、「いかに石の消費(コンティニュー)を少なく抑えるか」が基本的なスタンスになってきているので
新しいダンジョンでもコンティニューを最小に抑えるためには特定のパーティで挑むしかなくなってきている。
今思えば自分で考えてパーティ組んで試行錯誤したり、「このターンで回復ドロップ消しつつ4コンボ以上しないと死ぬ!」というギリギリの戦いをしていた頃が一番楽しかったなあ。
相互フォロー推進委員会で一躍時の人となり既に忘れられた竹下淳氏(@jdotsystemから@wgt0715に改名)が、ウィキに殺害予告を書き込んだ疑惑をご存知か?
http://www43.atwiki.jp/yourlife/pages/40.html
竹下氏の会社である株式会社ジェイシステムのドメインjdotsystem.comのメールを受信できる人物の仕業とのこと。竹下氏は自身のブログにて「いざとなればどんなサーバにだって形跡を残さずに入り込むことだって出来ます。」と語っているほどのスキルの持ち主であり、同社のメールサーバが第三者の侵入を受けるはずはない。
http://ameblo.jp/jdotsystem/entry-10737272113.html
また、一連の騒動で竹下氏に恨みを抱かれた人物の身辺で奇妙な事件が頻発しているとの情報もある(ドアノブに接着剤が流し込まれる・注文した覚えのない通販商品が届く etc.)。竹下氏は本件について沈黙を守っているが、真相の解明が待たれる。
私の家系は無宗教なのに、亡くなった時は真言宗にいつもお経なりを世話してもらってます。しかし、私としては、2日以上も葬式などに時間を奪われる価値はないと思っていますし、この日本文化の意味も全くもって分かりません。しかも、これが終わっても、法事地獄がまってんだぜ!全くこの仕組みが分からん。 父や母は、先祖代々からやってるから、親戚、周りの目があるので常識的にするしかないのよって 言ってます。
誰が考えたんだろう、こんなメンドクサイシステム。お寺さんか? 昔なら分かるぜ、田舎のほうとかさぁ、でも、この昨今ではこんなメンドクサイシステムする必要ありますか?もっとシンプルに1時間くらいで済ませてくれよと思うのは私だけですか?それとも異常ですか?
しかも、母はお布施をいくら包めば分からないこともあり、葬儀屋さんに相場の額を聞いていました。葬儀屋さんいわくお寺さん一人に対して、25から30万円くらいのお布施、初七日が3万くらい、交通費、諸経費が2万円くらいと言っていましたが、基本的にはお寺さんに直接聞いてくれと言ってました。なぜなら、昔からの長い付き合いの方はもっと額が跳ね上がるのだと言う。もう、意味不明です。そもそも、なんで直接聞くの?額なんて気持ちの問題だろ?しかも、こっちが高い金額で雇っているのに、坊さんが偉そうにするのはなぜ? 立場逆だろよ!! しかも、最初にお経を言う「枕なんとか」の帰り際に、「今日忘年会だからねぇ」などとほざきやがる!! 税金払えボケ!!交通費くらいだせよボケ!! 葬儀屋と癒着してるんだろうがよ!! 葬式の日は坊さん2人来るからお布施もその分だせって どうゆうことだよカス!!
あ"ーーーーーーーーー イラヅク!!
で、今日から、お通やと葬式に貴重な時間を奪われると同時に、高額なお布施をむしりとられ、葬儀屋にもお金をもっていかれ、遺体の祖母もたらい回しにされる。おかしくないか?この制度? そんなメンドクサイことせずに、火葬で焼いて土の肥料にすれば良いのではないのか? それから、墓場の存在よ。墓場なんかいらないし、墓参りもいらない、そうすれば、高額な墓石も買わなくていいだろ!!
なんで、シンプルに短時間で埋葬して低額で済むやり方を選択できない世の中になってしまったのだろうか?誰の洗脳だ?何回も言いますが、私には全くもって意味が分かりません。しかも、こんなひねくれた考えをして、葬式などに出ないと、周囲から揶揄されること間違いないだろ。あー意味不明だよこの習慣というか風土というか。
私が死んだときは一切そんなことはして欲しくない。直ぐに焼いてくれ!そして直ぐに土にまいてくれるように頼むよ。で、こんな私みたいな考え方する人って結構いるんじゃないだろうか?しかも最近では。ちょっと前までだと嫌々親戚付き合いや、葬式をしていたけど、そろそろみんなで取っ払おうぜ!この文化を!! みんなが徐々に短縮していき、追々はこんな制度辞めていけば、定着するからさ!
とりあえず、父と母が死んだときは、ちゃんと常識的にやってくれと言われているので素直にやりますが、心の中では "はてなマーク" が100個くら充満していて、意味ないのになぁと思いつつ、今回も祖母の葬式に行ってまいります。
最後に質問させて下さい。
皆様はこのシステムどう思われますか?
駆け出しの知人の話を聞いていると、オイオイ、とツッコミを入れたくてたまらなくなる時があるのだが、人間関係を維持するためにはこのまま隠しておいたほうがきっと無難なんだろうと自らに言い聞かせている。
とりあえず、知人が妙な壷を買わされたりただの石をありがたがったりするようになるまでは、あたりさわりなく接するのが正解なんだよな?
何を心のよりどころにし、何を信じるかは自由なんだ。科学的に間違っていても歴史認識が違っていても、それは(周囲に害がないかぎり)まったくフリーであるべきなんだ。
だがどうしよう、知人の歩みは危なっかしい。
水晶はただの二酸化珪素の結晶でその形状には何の不思議も無いというのに、イシスがどうとかアトランティスだとか本気で言っているんだろうか。