はてなキーワード: アメリカ帝国主義とは
以下、非武装中立をぶん殴る、日本共産党: 「1970年の焦点 : 日米安保条約をめぐる30問」 (1968)
社会党の「非武装中立」論は、日本が中立化すれば、外部からの侵略の危険はなくなるという希望的・主観的な判断を前提に、中立日本の安全保障の問題について、真剣な追求を事実上放棄しているのが特徴です。そのことは、安保条約を破棄した独立・民主の日本において、外国からの圧迫や干渉、中立の侵害、さらには侵略の危険などからどうして国の主権と独立、中立を守るかという問題にたいして、説得力のある具体的な解答をもちえないでいることにしめされており、そしてまた、そこに社会党の「非武装中立」論の最大の決定的な弱点があります。現に、一九六八年の参議院選挙にさいして、NTVテレビと『読売新聞」が共同でおこなった立候補者のアンケートでも、「非武装中立で万一日本が侵略を受けたとしたら、あなたは、次にあげる態度のうちどれをとりますか」という質問にたいして、社会党の候補者の回答は、「非力でも抵抗する」十四人、「国連、又は第三国の援助を要請する」十三人、「抵抗しないで連命を甘受する」三人、「その他」十一人、「わからない」四人、「無回答」八人と、まったくばらばらで、社会党が中立日本の安全保障の問題について統一したまとまった見解をもっていないことを、あらためて暴露しました。
ところで、社会党はどのような論拠をもってこの「非武装中立」論を主張しているのでしょうか。
社会党は、同党中央機関紙『社会新報」六八年七月三日付に、「事実を歪め、国民を欺瞞するな、日本共産党の非難に答える」というMなる署名の長論文を発表しましたが、そこでのべられている主張は、さいきんの成田委員長の発言や同党の方針のなかでもくりかえされています。それは、第一に、「日本が断固として非武装政策をとることによって」「いかな国も非武装の日本を攻撃する口実をもてなくなり、日本が侵略される危険がなくなる」と主張しています。これはきわめて無責任な議論です。
だいたい、「侵略がなくなる」というこの断定自体、なんの根拠もないものであり、日本が安保条約を廃棄して中立の道をふみだしたからといって、なお帝国主義が存続する以上、アメリカを先頭とする帝国主義陣営が、そのアジア侵略政策のいっそうの破綻のなかで、日本をもう一度アメリカを盟主とする軍事同盟にひきこもうとして不当な圧迫や干渉をくわだてたり、侵略の挙に出たりする危険は、依然としてのこっています。日本が非武装政策をとれば、どんな国も日本を攻撃する口実がなくなるから、「侵略される危険はなくなる」などというのは、帝国主義の侵略性、凶暴性に目をふさいだ、まったくの主観的、希望的な観測にすぎません。
したがって、帝国主義者の干渉や圧迫、侵略の危険などをどのような手段で防止し、日本の独立と中立を守るかという問題は、日本の平和・中立化の政策を真剣に追求するものにとって、けっしてゆるがせにすることのできないきわめて重大な問題です。まさにこの問題で、「侵略の危険はなくなる」などと勝手にきめこみ、なんら現実的な考慮をはらおうとしない社会党の態度が、独立・中立日本の前途に真剣に責任をおう態度でないこと、さらに、将来にわたって「非武装中立」などを固定的な原則として宣言し、あらかじめ自衛の手をしばってしまうことが、真に日本の主権と中立をあらゆる情勢のなかで守りぬく正しい態度でないことは、まったく明白です。
なお、ここでとくに指摘しなければならないのは、社会党の「非武装中立」論が、日米関係についての同党の根本的な誤りと結びついたものであるということです。いうまでもなく、一国の中立政策を問題にするばあい、その国がどんな外国の支配からも解放され、真の独立を確保していることが、その前提です。このことは、第二次世界大戦後の日本のように、アメリカ帝国主義の占領あるいは半占領下におかれている国では、アメリカ帝国主義の対日支配を打破し、真の独立を達成することをぬきにしては、ほんとうの意味で国の中立化や中立政策を語ることはできない、ということを意味しています。ところが、社会党は、「日本がアメリカに本質的に従属関係にあるものとみることはできない」(「旧本における社会主義への道」、一九六六年一月第二十七回党大会)として、日本の対米従属の関係を本質的に否認する態度を公式にとっているのです。帝国主義の存続と侵略性に目をつむるだけでなく、現実のアメリカ帝国主義の対日侵略を否認する立場からは、もちろん、日本の真の独立の達成という課題が提起されることはなく、けっきょく、この課題を軽視あるいは回避する社会党の立場が、真の日本の平和・中立化をめざす態度と両立しえないことは、あきらかだといわなければなりません。
社会党の「非武装中立」論のもうーつの論拠、問題点は、自衛権をめぐる問題です。
結論的にいえば、日本人民が主権者となった独立・中立日本の安全保障問題において、周囲にアメリカ帝国主義のような侵略勢力があるなかでの「非武装中立」という主張は、けっきょくのところ、いっさいの自衛権の発動の手段をみずから否定して手をしばるものである、ということです。さきにあげた『社会新報』のM署名の論文は、独立・中立日本の自衛権についての日本共産党の主張を攻撃して、つぎのようにいっています。
「日本共産党は、……プルジョア国家間の規範である国際法上の自衛権をもちだしている。これを根拠にして自衛軍隊を主張するなら、一国がプルジョア政府であろうと、民主連合政府であろうと、軍隊をもつことができるのであって、主観的にはどうあれ、自民党が進めようとしている自主防衛論、憲法改悪と核武器をふくむ軍備強化に積極的に手を貸すものといわざるを得ない」
まったく乱暴で、おどろくべき議論ですが、独立・中立日本の自衛権を主張した日本共産党の安全保障政策を批判しようとした『社会新報』は、問題の自衛権そのものを、「プルジョア国家間の規範」だという説でどこかにふっとばしてしまっています。しかし、自衛権とは、国家あるいは民族が、外国の圧迫や侵略から自国の主権と独立を守る正当防衛の権利のことです。これはすべての民族がもっている国際法上も広く認められた固有の権利であり、「プルジョア国家」だけにかぎられるものでは、もちろんありません。にもかかわらず、それが『社会新報』がいうように「プルジョア国家の規範」だとするならば、独立・中立日本には自衛権はないことになり、けっきょく、さきに引用したNTVテレビと『読売新聞』のアンケートへの社会党候補者の回答にあるように、「抵抗しないで運命に甘受」しなければならないというようなことになってしまいます。
なお『社会新報』はここで、自衛権についての日本共産党の主張を「自衛軍隊の創設」の問題と同一視し、最近になっても、「共産党は……外交政策における自衛権の主張は武装自衛の方向をとっている」(「一九七〇年安保廃棄をめざす闘争方針案」、六八年十一月社会党中央執行委員会決定)などといっていますが、これは、日本共産党の主張をきわめて一面的にねじまげたものです。自衛権は日本民族が一貫してもっている固有の権利ですが、これを行使する形態は、内外情勢や憲法上の制約などによってちがいます。日本共産党が、現憲法下では、たとえ真の自衛のためであっても国が軍隊をもつことを明確に否定していることは、ここでくりかえすまでもなく、「日本共産党の安全保障政策」および「日本の中立化と安全保障についての日本共産党の構想」にあきらかです。
自衛権をめぐる問題で最後にいっておかなければならないことは、さいきんの成田発言でもくりかえされている、日本共産党が自衛権を問題にすることは自民党の「自主防衛」論に手を貸すものだという議論が、ぎゃくに自民党の「自主防衛」、調をたすけてやる結果になっているということです。
日本共産党が、自民党政府の「自主防衛」論や自衛隊増強に反対しているのは、一般に国を守ることそのものに反対だからではなく、自民党の「自主防衛」論が、日本の主権と独立を守るどころか、反対に、アメリカの指揮下にアジア侵略の「日米共同作戦」態勢を強化することをめざしたものであり、自衛隊が憲法違反の対米従属と人民弾圧の軍隊であるからです。自民党のこの「自主防衛」論を粉砕するために必要なのは、「自主防衛」の名による日米軍事同盟強化、自衛隊増強の危険な実態を具体的に暴露するとともに、アメリカ帝国主義の対日侵略と主権侵略を許している日米安保条約のもとでは、一具の自主防衛はありえず、日米安保条約を廃棄し、日本の真の独立をかちとり主権を回復してはじめて、ほんとうの意味で、日本の自衛や安全保障を問題にすることができるという根本の道理を、広範な国民のあいだで明確にすることです。この意味では、日本の主権を侵害し、領土を侵略しているアメリカ帝国主義を日本から追いはらうことこそ、日本民族の正当な自衛権の発動なのです。
これにたいして、もしわれわれが成田氏らの主張のように、自民党の「自主防衛」論に反対しようとして、日本民族の自衛権そのもの、外国の侵略から主権と独立を守る権利そのものを否認する立場にたつならば、それは、日米安保条約をなくす民族的な権利をあいまいなものにするだけでなく、かえってわれわれの立場を道理のないものにし、自民党が「自主防衛」論を欺まん的にふりまわして日米軍事同盟強化の方針をおしすすめるのをたすけてやる結果になることは明白です。このことは、六八年の参議院選挙中、テレビやラジオの政党討論会などで、自民党が中立政策に打撃をあたえようとして、自衛の問題を無視している社会党の「非武装中立」論の弱点に攻撃を集中する作戦をとり、社会党がこれに明確な反撃をおこなえないできたことにも、はっきりとあらわれています。このように、社会党の「非武装中立」論は、自民党との対決という点でもかれらに乗じられる決定的な弱点をもっています。
専守防衛の自衛隊を合憲と認め、自公政権下でも、よりまし政府・民主連合政府の段階でも自衛隊を存続させ活用するという提案には同意。
綱領上の位置づけや憲法解釈問題についても納得できる整理がされている。
付け加えるなら、自衛隊の反国民的・反民主的部門の廃止・改革も取り上げたい。
一方、米帝評価や核抑止抜き日米安保についてはなかなか難しい。
松竹氏は本書で「日本周辺で平和と安定の環境がつくられ、国民多数も他の野党も『アメリカの通常兵器にも頼る必要がなくなった』と考えるようになれば、『日米安保抜きの専守防衛』の段階に進む」と述べる。
しかし、次の疑問が出る。
①安保条約がある下で「日本周辺で平和と安定の環境がつく」ることが可能なのか?すなわち、安保条約を廃棄してこそアジアに平和の環境をつくることができるのではないか?
②核抑止抜きの日米安保といっても結局は軍事同盟にほかならない。軍事同盟を必要悪として認めるのか?暫定政権構想で日米安保は一時的にタナ上げする、というのなら理解できるが。欧州左翼党グループもNATOからの離脱を基本方針としているようだし、非同盟のスローガンは掲げたいところ。
③核抑止抜き日米安保になったとしても、中国や北朝鮮は在日米軍基地をミサイル標的にするのをやめないのではないか?台湾有事の際に中国からミサイル攻撃を受けないようにするには在日米軍に撤退してもらうしかないのではないか?
④氏は在日米軍を合憲と位置付けていると思われる。憲法で許容される軍事力は専守防衛に必要な必要最小限度ということであれば、在日米軍はその限度を超えていると思うのだが、そのあたりどう整理するのか?
⑤氏が核抜き安保を主張する理由は、それが今よりましだからなのか、それとも核抜きであってもやはり日米安保は必要なものだからなのか、どちらなのか?言い換えれば、自公・改憲志向政権を打破して野党連立政権を目指すためのやむを得ない譲歩なのか、それとも、現在の台湾情勢や中国情勢などから導きだされる必然的な選択なのか?
⑥従来話法で端的に言えば、アメリカ帝国主義の侵略性にたいする過小評価にならないか?
いずれにしろ、本書が提案する、安保・防衛政策に関する全党員のブレーンストーミングは必須だろう。
マスコミ報道では「党首公選」が大きくクローズアップされているが、それはあくまで党内における安保・防衛政策(それ以外の政策も含めてもよいが)についてのブレストのための一手段と考えるべきだ。政策論争や基本路線論争なしの党首公選は意味がないからだ。実際に党内討論が活発に行われているのであれば「党首公選」などしなくてよいのである。党大会代議員による選挙でもよいくらいだ。
しかし、日本共産党は61年綱領確定後数十年にわたり党内で路線論争や政策論争をしてこなかったものだから、党内討論のやり方・おさめ方が未経験で不慣れであり、中央も中間指導機関も積極的に討論する気風を醸成してこなかった。大会決議案はいつも大会3~4か月前に発表され、支部総会→地区党会議→都道府県党会議→大会という「全党討議」のプロセスを経るが、実際のところは「決議案を"学習"して"全面実践"しよう」という見出しが赤旗に堂々と見られる程度の"全党討論"なのだ。
この慣行を打破するには、「党首公選」というやり方が一番効き目があるのは確かである。末端の党員でも議論に参加しやすいからだ。たとえば「○○の政策を掲げている池内か米沢に投票したい」とか「私は、神谷と坂井推し。理由は△△だ」とか人物評をきっかけにして政策討論を起こしやすいし、投票という自分の行動を決めるものだからその分討論も真剣になる。
ただ私見だが、党首公選を実施するなら党員候補制の復活をお勧めする。入党して6か月間は党員候補で党首公選の選挙権はない、6か月ちゃんと活動したら党員と認められ党首公選の選挙権を持つことができる、という制度設計にしないと、党首選挙のためだけに一時的に入党する十条党員が増えてしまい、支部活動に支障をきたすからだ。
https://anond.hatelabo.jp/20220321014214
これがロシアのウクライナ侵攻前だったら、まーたネトウヨの妄想かよで済ましてたと思うんだが、
例の琉球新報の「ロシアの悪魔視をやめよ」を書いた人が、一昨年の北朝鮮訪問について話した講演録を読んで、
ネトウヨの妄想にそのまま合致するような人が実在することに愕然としてる。
http://chikyuza.net/archives/113658
この講演録に二点ほど、筆者の乗松氏が今回ロシアを擁護せざるを得ない伏線があった。
一つは核廃絶運動に参加しておきながら北朝鮮の核開発には一切触れない点、
もう一つは北朝鮮が朝鮮戦争を「祖国解放戦争」と呼ぶことに何の疑問も抱かない点の二点だ。
この人は信じがたいことに、金日成が日本帝国主義とアメリカ帝国主義を倒した英雄であるという100%のフィクションを受け入れているのだ。
特に後者だが、朝鮮戦争はほぼソ連の傀儡であった北朝鮮が韓国に突然侵攻する形で始まったことは今では広く知られている。
分断されたスラヴ民族を西側の傀儡政権を倒すことで統一するというロジックと瓜二つだ。
もうとっくに滅びたと思っていた親北ユートピア左派がしっかり生き残っているだけでなく、
マスメディアにまで登場しているということ。
おい、そこのお前!あさま山荘事件が大好きすぎてカップヌードル食う度に機動隊の気持ちになっているお前!なおかつ伊勢×戸田か戸田×伊勢かで議論したいが相手がいないお前!お前だ!お前に向かって俺は今書いてる!
『三体』だ!『三体』を買って読め!せめてKindleで無料サンプルは落とせ!BGMはRHYMESTERのThe X-Dayを無限リピートだ!
よし、Kindleの無料サンプルは読んだか?読んでないよな。面倒くさいもんな。あんくらいWeb上で読めるようにしといてほしいよな。まあいい、せめてSpotifyでRHYMESTERのThe X-Dayをリピート状態にして以下の文章を読め!
『三体』は最高だ!一般的なあらすじは「文革で物理学者の父を失った娘が云々」などとぬかしているが、無料サンプルで読めるその描写が最高であることはまったく紹介されていない。引用するぞ。
シュプレヒコールがおさまるのを待って壇上に立つ男の紅衛兵の片方が批判対象をふりかえって言った。
「葉哲泰、おまえは力学の専門家だ。自分がどれほど大きな合力に抵抗しているか、わかっているだろう。そうやって頑なな態度をとり続ければ、命を落とすだけだぞ! きょうは、前回の大会のつづきだ。くだらない話はもういい。次の質問に真面目に答えろ。六二年度から六五年度の基礎科目に、おまえは独断で相対性理論を入れたな?」
「相対性理論は物理学の古典理論だ。基礎科目でとりあげないわけにはいかないだろう」と葉哲泰。
「嘘をつけ!」そばにいた女の紅衛兵のひとりが荒々しい声で叫んだ。「アインシュタインは反動的学術権威だ。欲が深く、倫理に欠ける。アメリカ帝国主義のために原子爆弾をつくった男だ! 革命を起こす科学を築くためには、相対性理論に代表される資産階級理論の黒旗(反動の象徴)を打倒しなければならない!」
(中略)
「葉哲泰、これは言い逃れできないはずよ! あなたは何度も学生に反動的なコペンハーゲン解釈を撒き散らした!」
「それが実験結果にもっとも符合する解釈であることは厳然たる事実だ」これだけ厳しい攻撃にさらされても、葉哲泰の口調は落ち着き払っていた。紹琳はそれに驚き、畏れを抱いた。
「この解釈は、外部の観察者によって波動関数の収縮が引き起こされるというもの。これもまた、反動的唯心論の表れであって、その中でも、じっさいもっとも厚顔無恥な表現よ!」
「思想が実験を導くべきか、それとも実験が思想を導くべきか?」葉哲泰がたずねた。突然の反撃に、批判者たちは一瞬、言葉をなくした。
「正しいマルクス主義思想が科学実験を導くのが当然だ!」男の紅衛兵のひとりが言った。
「それは、正しい思想が天から降ってきたと言うに等しい。真理は実験によって見出されるという原理を否定し、マルクス主義思想がどのようにして自然界を理解するかという原則に反している」
紹琳とふたりの大学生の紅衛兵は、無言で同意するほかなかった。中学生や労働者出身の紅衛兵とは違って、彼らは論理を否定することができなかった。しかし、附属中学の若き闘士たち四人は、反動分子を確実に攻め落とすための革命手段を実行した。
最高かよ!!! 時はあさま山荘事件の数年前だが、アカの本場中国でも似たようなどうしようもないことが起こっていたのだ!引用の最後の部分で作者がたくみなカメラワークを用いて批判者側の「論理の欠如」を指摘しているのがまた光り輝いている。そうなのだ。この手の議論には論理というものがまったく存在しない。あるのは連想ゲームだけなのだ(「物理学者のお前は自分がどれほど大きな合力に~」「アインシュタイン=核兵器=帝国主義=敵」)。あさま山荘事件でもそうであった。無色のリップクリームを塗ったことと、彼女が死ななければならないということの間にまったく論理的な関係は存在しない(そもそも何かと誰かが死ぬということの間に論理的関係が成り立ちうるのかという問題は置いておくとして)。そこにあるのは、「革命」や「自己批判」といったマジックワードを挟んだアクロバティックな地滑り的連想ゲームだけである。
しかし、しかしである。われわれはそうした連想ゲームに時として身を委ねてしまう。どころかしばしば喜んでその中に身を投じさえする。あさま山荘の彼らが目指した「革命戦士」という存在にどうしてもワクワクしてしまうのは、そこからこれまでわれわれが目にした「革命」や「戦士」についての輝かしい言説やビジュアルがまさしく連想ゲーム的に引きずり出される快感にわれわれが抗えないからである。
「ベネディクト・アンダーソンは国民国家を『想像の共同体』と呼んだ」と言われるとき、たいていアンダーソンが主張したかったことは無視されている。アンダーソンはこうも書いている。「国民国家は『想像の共同体』であるからこそ強いのだ」と。どういうことか。例えばご近所たちは想像の共同体ではない。そこに想像力が働く余地はないからだ。近くてよく見えるがゆえに嫌いなところがよく見えてしまう。しかし国民国家は想像の共同体であるから、そうしたデメリットを回避することができる。逆の意味で、人類もまた想像の共同体ではない。そこにもまた想像力は働かない。あまりに大きな対象であるがゆえに、想像することができないからである(それを想像できるように「地球市民」とかいろいろなレトリックが開発されては頓挫した歴史があるわけだ)。つまり国民国家は想像するのに小さすぎも大きすぎもしないがゆえに、人間の持つ最も偉大な能力=想像力/創造力を刺激する存在であるがゆえに、これほど大きな存在になり得たのだ。世界大戦を二度経験して、戦後もエコやらなんちゃらがあってメイクアメリカグレートアゲインな今、人類は人類を想像力の対象にすべきであると誰も[誰?]がわかっているはずであるが、そうした方法は未だ見つかっていない。めっちゃナウい想像力を持ってそうなイスラム国ですら国を名乗る時代である。
そうした状況にある人類に対して、「地球市民」としての自覚=想像力を持たせるために一番手っ取り早い方法は、宇宙人に攻めてきてもらうことである。映画『インディペンデンス・デイ』があれだけ面白いのは、その「俺たち感」を徹底して純粋なものとして描けているからだ(もちろん「俺たち」と書いたようにそこからは女性が排除されているのだが、それもまた「俺たち」の盛り上がりを純化させるように働いている)。しかし、この方法には大きな問題がある。それはわれわれの知る限り宇宙人が当分の間攻めてきそうにないという点である。したがって二番目の方法が取られることになる。それが科学教育である。ひとりの神様とか王様の下で人類みんなが仲良くするのは無理だとわかったので、次は科学様の下で人類全員集合しましょう、というわけだ。まあ、承知のようにこの方法にもいろいろ問題はあるのだが、他に良さそうな方法もないので多くの人々からのんべんだらりと支持されているといってよい。
科学の持つ大きな問題として真っ先に挙げられるのが、それが神様よりも信頼可能か?というものだ。科学教の信者はそうだとなんの疑問も持たずに答え、異教徒たちはおらが村の神様の方が偉いと主張する。そこを調停するのが科学哲学者の役割のひとつであったが、どっちつかずとして双方の陣営から攻撃されるため調停役に名乗りを上げる科学哲学者はほぼ絶滅している。
(注:ネタバレ防止のため人名や固有名をアルファベットに置換している)
「Aくん、きみは仕事の範囲を逸脱しかけている」Bが首を振りながら言った。「研究は理論的なものだけに絞るべきだ。こんなに手間をかける必要が本当にあるのか?」
「Bさん、この実験は、大きな発見につながる可能性があるんです」とAは懇願した。「実験は絶対に必要です、とにかく、一回だけやらせてください。おねがいします」
「B、一度だけやらせてみたらどうかな?」Cが言った。「オペレーションはそれほど大きな手間でもなさそうだし。送信後、エコーが帰ってくるのに要する時間は――」
「十分、十五分だろう」Bが言った。
「だったらXシステムを送信モードから受信モードに切り替える時間もちょうどある」
Bがまた首を振った。「技術的にもオペレーション的にも造作ないことはわかっている。しかし、C、きみはどうも……、この手のことには鈍感みたいだな。赤い太陽に向かって超強力な電波を送信するんだぞ。こういう実験が政治的にどう解釈されるか、考えてみたことは?」
AとCは、どちらも茫然としたが、Bの反対理由が荒唐無稽だとは思わなかった。逆に、自分たちがその可能性を考えもしなかったことにぞっとしたのである。
この時代、すべてのものに政治的な意味を見出す風潮は、不合理なレベルまで達していた。紅衛兵は、隊列を組んで歩く際は左折のみ許され、右折は禁止された。信号機は、赤が進めで、青が止まれでなければならないと提案されたこともある(周恩来首相に却下されたが)。
(中略)
そういう風潮に鑑み、これまでAが研究報告を提出する際は、Bが必ず綿密な査読を行っていた。とくに、太陽に関する記述は、専門用語であっても、くりかえし吟味し、政治的危険がないように修正した。たとえば、“太陽黒点”という言葉は使用が禁じられた。太陽に向かって強力な電波を送信するという実験については、もちろん、千通りのポジティブな解釈が可能だが、たったひとつのネガティブな解釈がなされるだけで、関係者全員が政治的な災難に見舞われるにじゅうぶんだった。Bが実験の要請を拒絶する理由は、たしかに反駁のしようがなかった。
イアン・ハッキングがイヤンと言いそうなくらいむき出しの「科学の社会的構成」である!ここでも論理が連想ゲームに膝を屈している。このことを中国に特殊なものだと考えるのは科学教の信者である。似たようなことはどこの国でも多かれ少なかれ起こっている(また国家がくくりとして出てきてしまった!)。STAP細胞は論理を飛び越えればどんなものまでが「発見」されてしまいうるか、という好例であろう。それでも科学教の信者は言うだろう。「STAP細胞は誤りであることがわかった!これこそが科学の勝利ではないか!」と。残念ながら科学はそんな単純なものではない。たとえばケプラーの理論はそれ以前の理論よりシンプルでもなければ正確でもなかった。そのあたりのことはスティーブン・ワインバーグ『科学の発見』に詳しく書いてある。「それでもわれわれは今はケプラーの理論が正しいということを知っている!これが科学の進歩だ!」という主張は残念ながらワインバーグとは仲良くなれるが歴史学者からは異端扱いされるだろう。このワインバーグの本は、「ノーベル賞物理学者が科学の歴史について論じたら歴史学者から総攻撃を食らった」というそれじたいSFにガジェットとして出てきそうなシロモノなのだが、けしてトンデモ本でなくワインバーグは確信犯的にその地雷を踏んでいる。非常に面白い本なので『三体』を読んだあとにはぜひこの本を読んでほしい。『三体』に出てくる宇宙物理学の理解の助けにもなるし。
話がそれた。『三体』である。まあ、歴史学者から異端扱いされようが科学者は科学者でやっているのである。……本当に?「科学をする」とはどういうことか説明できるひとは今のところ地球上に存在しない。どころか説明できるひとが今後現れる可能性もまた科学哲学者によってほとんど否定されていると言ってよい。では科学者は何をやっているのか?われわれのような皮肉屋に言わせれば「教義の精緻化とその確認作業」とでも言い捨てられるだろうが、『三体』はそこに真摯に向き合っている。どころか、その先までをも作品の中に織り込んでいる。ネタバレになるので詳しくは話せないが、科学を「打倒する」ことを本気で考えてみた人はいるだろうか?いないだろう。『三体』はそれを本気で考えている。誰がなんのためにそんなことをし、さらにそれに抗うには何をするべきかを描いている。そしてその描き方がまた最高なのである。作中、ある「組織」が出てくるのだが、それがまたなんとも、「アカい」のである。もちろんそれは最初の引用で出てきたような無知蒙昧なアカさではない。連想ゲームではなく論理によって貫かれた「アカさ」というものがあるとしたら、こういうものだろうという迫力がある。
作中にこういうセリフがある。「中国では、どんなにすばらしい超越的な思想もぽとりと地に落ちてしまう。現実という重力場が強すぎるんだ」と。これはおそらく作者の嘆きでもあろう。その重力場から逃れるために、作者はこれを書いたのだと思う。中国の現実の重みは、隣にいるわれわれも知るところだろう。この作品は、その中国の現実の重みを、実に力強く脱出していると思う。それがこの文章で伝わったかどうかは甚だ心もとないが、一人でも多くの、未だ北田暁大先生のTwitterの件に心の整理がつけられていない人々が、『三体』を手にとってくれるよう望む。
そりゃ、当時の大日本帝国にあっては、直接的に皇軍に加わりアジア諸国を侵略したわけじゃなくとも、多かれ少なかれ悪事に加担はしていただろう。
工場勤務の青年は、他国を侵略する兵器を作っていたかもしれない。銃後の婦女子であっても、息子や夫を戦地に送り出して侵略の片棒を担いでいたかもしれない。軍人とは縁遠い教師が、軍国主義を子供たちに吹き込んでいたかもしれない。
あるいは生まれたばかりの赤子であっても、その子に乳を含ませた母親は、植民地から収奪してきたコメを食べていたかもしれない。とすればその赤子の幸福もまた、植民地の人びとの血と汗の上に成り立っていたことになる。
『この世界の片隅に』で主人公が泣き崩れるシーンを想起されたい。あのシーンは、自分たちの「平穏な日常」が植民地からの収奪の上に成り立った「暴力」であると気づくシーンであり、主人公に自覚していなかった「責任」を突きつけるシーンだった。
そういう意味で「無辜の人々など本当に存在したのでしょうか?」という問い自体は正しい。が、同時に、その問いを「この文脈で」持ち出すのは間違っている。
第一に。なるほどそういう意味で「責任」はあろう。だが、それは核の炎で焼かれても仕方ないほどの「罪」なのか。
ホロコーストを計画・実行した連中だって、生きたまま焼かれはしなかった。ニュルンベルク裁判で死刑宣告を受けた死刑囚たちは、どれだけ残虐なナチであろうと絞首台に吊るされる程度で済んだ。
それなのに、戦争犯罪や侵略を命令したわけでも実行したわけでもない、せいぜい「喝采を叫んだ」「止めなかった」「のうのうと暮らしていた」程度の人たちが、あんな殺され方をしていいのか。
罪には軽重というものがあり、罰はそれに応じたものであるべきだろう。
被抑圧者の膏血を絞って暮らしていたことに対して、下の世代から糾弾され反省を迫られる程度のことは受け入れるべきだ。でも、原爆で焼き殺されてもいいなんてとても思えない。
第二に。その論理を敷衍していくとヘイト野郎やテロリストどもにお墨付きを与える結果になるだろうが、それでもいいのか。
たとえば現在の中華人民共和国による少数民族への迫害に、中国人民は責任を負っている。外国に観光旅行に出かけるような都市部の裕福な人びとの暮らしを支える資源の一部はチベットから収奪してきたものだし、彼らの享受するテクノロジーは新疆でウイグル人を監視することによって発展してきた側面もあるし、彼らの抱くチベット人やウイグル人への偏見は政府による民族弾圧を側面からアシストしている。
では、彼らには迫害や弾圧への責任があるから、秋葉原で楽しく観光しようとしたときにヘイトスピーチを浴びても仕方ないと、暴力的なデモによって威圧されても仕方ないと、そういえるのだろうか。あるいは、だからテロで殺されても仕方ないといえるのだろうか。
アメリカは悪の帝国だから、その経済的中枢にあるニューヨークの人びとがビルに突っ込んだ飛行機に殺されても正当性があることになるのか。イスラエルはパレスチナを侵略しているから、イスラエルの空港で銃を乱射して民間人を虐殺しても正しいといえるのか。
世界貿易センタービルにいた人びとは、アメリカ帝国主義による他国への侵略や経済的収奪に責任の一端を負っていた。ロッド国際空港にいたイスラエル市民は、イスラエルの植民地主義に加担していた。だから彼らは崩れ落ちるビルに巻き込まれても仕方なかったのか。だから彼らは自動小銃で撃ち殺されても仕方なかったのか。
無辜の人々など存在しない。現に私たちは今も外国人技能実習生の汗と涙で育った安いレタスを食べ、ブラック企業にすり潰された人々の血で染まったシャツを着て、過疎地に押し付けた発電所から電気を供給されて暮らしている。現代日本で豊かな生活を送る私たちには責任がある。だがそれは、私たちが惨たらしく殺されてもよいことを、決して意味しはしないのだ。
Twitterやはてブは印象を投影するには便利なメディアだけど、議論するには不向きだから仕方ない。
百数十文字では説明し切れないことなんか世の中いくらでもある。現実世界は善悪二元論みたいなシンプルなものではないからだ。
特にTwitterは同じテーマに対して複数投稿できるため一見長文の議論も可能なように思えるものの、標準的なインタフェースではつぶやき間の相互関係を判断することは非常に難しく、単一のつぶやきで完結していない発言はその可読解性は著しく低くなるのが現実だ。
例を挙げてみよう。
「写真の空に星がない、真空なのに旗がはためく、影の方向がバラバラ、背中にワイヤーが見える、岩に大道具の証拠の文字がある、月の石は地球の石と同じだなど、アポロの月着陸が捏造だったことを示す証拠は山ほどある。工作員が月に行った証拠を何一つ出せないのが何よりの証拠。」(140文字)
今でこそアポロ捏造説はFAQとして整備され、そこへのポインタを示せば大体おわる話だが、同程度の難易度の新規の問題だとしてみよう。この発言に対する反論を、この陰謀論者本人は別として、大多数に納得できる形で提示することができるだろうか。
blogなら相手の言う「証拠」をひとつひとつ検証して、ソースとなるURLを複数出して、必要なら図で説明して、客観的に納得できるレベルのものを提示できる。だがTwitterやはてブではこれは不可能といっていい。
諸兄はアポロ陰謀説ならまだアメリカ帝国主義者(?)が恥をかくだけで済むから無視すれば良いと言うかもしれないが、では個人攻撃をしてくる輩がいたらどうすればよいのか。(炎上するから無視しろというのは一見識だがここではおいといて。)blogの真面目な文章に対してはてブやTwitterでレッテル貼って一方的に決めつけた内容で個人の人格まで攻撃してくる輩なんか掃いて捨てるほどいる。印象で攻撃するなら短い文章で楽勝だが、真面目に客観的に反論すればするほど文章は長くならざるを得ない。それを常に140文字で反論し釈明し誤解をとかねばならないとか言うのであればあまりに一方的だ。
むしろ、短いつぶやきでなんでも解決できるなんて世界を過剰に簡単に考えてたり、一方的で野放図なつぶやきを不可侵で免罪されたものにしようとしたりする言論統制的な発想のほうが問題あるんじゃないか。