はてなキーワード: アプローチとは
いやまあ分かるよ、ストーカー傾向になりやすい人間に予防を行うことで被害者を減らすアプローチだってのは
ただ予防の効果があるのか疑問なんだよ、特に加害に走るタイプには。ストーカー気質で執着してしまうけども、相手に危害を加える前に思い留まる自覚型のストーカーだっているわけでしょう
だから自覚のあるタイプが予防としてカウンセリングを利用するなら分からんでもないけど、自覚もなく暴走して加害するタイプに予防は意味あるのかと思ってね
ていうか加害するタイプはそのカウンセラーにも執着するんじゃね?引き受けたがるカウンセラーが現れないかもね。そういう意味で現実的ではない気がする
ポスト構造主義的マルクス主義は、構造主義とマルクス主義の要素を組み合わせつつ、両者を批判的に再解釈し、社会や経済の分析を行う理論的枠組みです。このアプローチを代表する重要な思想家の一人がジャック・デリダであり、彼の弟子とされる学者には以下のような人物がいます。
1. **スラヴォイ・ジジェク**
- ジジェクは、ラカン的精神分析、ヘーゲル哲学、そしてマルクス主義を融合させ、現代のイデオロギーや政治を批判的に分析しています。彼の思想はポスト構造主義的マルクス主義の影響を強く受けています。
- ランシエールは、デリダの影響を受けつつも独自の政治哲学を展開し、平等や民主主義について深く探求しています。彼の著作は、ポスト構造主義とマルクス主義の融合を感じさせるものです。
- ラクラウは、チャンタル・ムフと共に「ポストマルクス主義」の理論を発展させました。彼らはヘゲモニーとポピュリズムの概念を再構築し、デリダの影響を受けつつ、マルクス主義を批判的に再解釈しました。
- スピヴァクは、ポストコロニアル理論の主要な学者であり、デリダの解構学を用いて、サブオルタナート(被抑圧者)の声を取り上げています。彼女の研究もポスト構造主義的マルクス主義に関連しています。
これらの学者たちは、それぞれが異なるアプローチを取っていますが、共通してポスト構造主義とマルクス主義の対話を通じて現代社会の諸問題を分析しています。
そのうえでヤカラ諸君にはその子のことを単なる肉便器として侮っていてほしい。
”清潔でとにかく無口でテンション低いのが平常運転だけど、自分の価値をわかりきってる美人”
が合意の上でそういう男に股を開いて、ハメ撮りや乱交も喜んで受け入れる・・・・・・
そんなシチュエーションに何よりも興奮するんです私は。
多分、中学時代の経験がこういう性癖に影響を与えているのだと思います。
メガネ黒髪無口なのにもかかわらず学年No.1人気があった憂いのある美人の同級生が、学校最凶と悪名高かったヤンキーの同級生と付き合っていたんです。
「非常階段の踊り場でバックでヤったw」とヤンキー君が男連中に自慢してたらしいのを小耳にはさんでほんと最高だったし感謝感激だったんですよ。
贅沢いえば……
「反社・ヤカラにいいように肉便器にされそのことを喜んでいたのにもかかわらず、
大企業勤めの同年代とシレッと結婚し落ち着いた聡明な美人の家庭人として豊洲や二子玉や品川や小杉のタワマンに住む」
そんな締めくくりであってほしいものです。
とにかくですよ?
一見すると関東連合と区別つかないようなヤカラの皆さん(できれば学歴弱者の前科持ちであってほしい)は、どんどんこういう女性にアプローチしていってほしいんです。
そうしてくれると私、ドピュッドピュッと良く精子を出すことができるのであります。はい。
余談ですけどねえ。
「この手の女子は才女、育ちが良さそうに見えるだけで実は反社の情婦がお似合いのアッパラパー」
むしろ彼女ら女子校で学年生徒数少ないのに例年東大何人も受かるような中高一貫校に中学受験で入ってたりして、私立専願ながらちゃんとお馴染みの難関大出てたりするんですよ。
受験生時代から英語と世界史が妙に得意だったりしちゃってね!!
それなのに、それなのに……
大学進学後、男なんかに影響されて腹や尻にタトゥー入れてみたり、乱交(反社様やヤリサー幹部様、複数の強き者から求められる悦び)に忌避意識なかったりしてもう最高。
なんのための実家暮しだあ!笑
向いていないものや無理なものに対しても前向きに積極的に「周りに迷惑かけずに」取り組めるなら良いと思う。運動全くしていない50代のおじさんが「初心者だけど今からスケートボード でオリンピック出る!」って言ったとして、休日や仕事後にパークで楽しく一生懸命練習したり大会出るなら何の問題もない。
けれど無理とわかっているものに自分で取り組んだ結果自分で苦しむというのは幼稚というか大人になれていない気がするな。
ましてや恋愛は1人でするものではなく、どうしても相手が必要だから「周りに迷惑かけずに」が難しい。
女性から異性として認識され難いことをわかっていながら女性にアプローチして嫌な気持ちにさせ自分も傷つくってのは馬鹿の所業だよ。
どうやっても這い上がれない水瓶に酔っ払って落っこちて、それでも這いあがろうとして短い前足でカリカリもがく猫と同じ。
それでは太平は得られない。
俺は30超えて未婚(彼女もいたことない)のおっさんだが、飲み会などでちょいちょい未婚であることをいじられるし、それがかなり苦痛だ。
特に嫌なのが、「結婚したくないの?」→「好みのタイプとかないの?」とコンボを進めていって、こちらが真面目に答えると(「数歳くらい若い人」とか「可愛い系よりキレイ系」とか「話が合って性格がいい人がいい」とか)、
「選り好みしてんじゃねーよ。妥協してないでしょ。妥協しなきゃ結婚なんてできないよ(彼女なんてできないよ)」
とフィニッシュを決めてくるヤツがいることだ。
お前が好みのタイプ聞いてきたから答えたんやろがい、というツッコミどころは当然あって、だいたいそれを指摘して場が笑いに包まれて他の話題に移るのだが、俺の心にしこりは残る。
「俺は選り好みできない立場なのか…」と。
恋愛なんて選り好みしてなんぼじゃないのか。みんな縁ある人の中で自分の好みに合う人にアプローチし、それが合致して付き合い、結婚するのではないのか。
それとも選り好みせずに少しでも脈がありうる人に総当りでアプローチして彼女を捕まえるのが、「普通の男」なのだろうか。そういう人もいるのだろうけど、みんながそうではない気がする。
こういう話題は大学生の頃からずっと言われていて、当時は彼女(彼氏)がいるやつ、今なら結婚してるやつからふられるが、ただただマウントを取られているだけにしか思えない。
今度振られたら「なるほど〜。貴方は妥協したから結婚できたんですね〜。どんな妥協したんですか?」と聞いてやりたいな、と思う。多分言えないけど。
今まで恋愛を全くしてこなかった(できなかった)ので、初めての経験が多い。
いいな、素敵だな、と思った相手には全く相手にされず、担当の職員さんが勧めてきた相手にアプローチするとすんなり顔合わせできたりする。
正直、全員好みではない。容姿、姿勢、声、喋り方、といいと思うところが一つもない。
おそらく向こうもそう思っているだろう。
お前に見合う人間はこういう奴らだぞ。と言われている気がして最初は結構辛かった。
今はもう慣れたが、それは自分は相当な恋愛弱者なんだなという自覚と弁えを知ったので前向きに慣れているのかは分からない。
街を歩いていたり、TVの結婚のニュースを見たりすると、ああこんな綺麗な人と結婚(交際)できるのが羨ましい。
喧嘩とまではいかなくとも小さな衝突で、見た目が好みじゃあないとなかなかにキツい。
この人と5年10年一緒に過ごせるのか?
大人になれない時もある。
見た目さえ良ければいいというわけではないけれど、パートナーが綺麗な人ってすごいなあ。
本当に羨ましい。
どんなアプローチしたの?
恋愛経験がないと何がいけないのかpreciar「転んだ者を笑ってはいけない。彼は歩こうとしたのだから」/ちゃんとアプローチして傷ついて、至らなさと心のままならなさを学ばねばダメよ。拗らせて「アセクシャル」とか存在しない病名自称しだしたら終わり2024/05/09 15:14
yomichi47 これはそう、学生の内なら頭おかしくなっても被害が少ないし経験になる。そして理解が進むと自分の気持ちを完全に隠しながら自然なアプローチが出来る様になる。女性は自分を女と意識しない男を好きになるよ
これはそう、学生の内なら頭おかしくなっても被害が少ないし経験になる。そして理解が進むと自分の気持ちを完全に隠しながら自然なアプローチが出来る様になる。女性は自分を女と意識しない男を好きになるよ
やはり嫌われたのかもしれない。無視されてるわけではない。挨拶すると返してくれる。話しかければ、二言、三言だが会話は成立する。でも、冷たく感じる。昨日、話かけて少し喋ったあと立ち去っていった。誰に対しても反応が素っ気なく冷たい子だからいつも通りと言われれば当てはまるかもしれない。
大したことないように見えるかもしれないが、異性関係だからセンシティブだ。相手は、何度かご飯にいって、告白して、ご飯程度ならと答えてくれた子である。告白自体は失敗している。ここで判断を誤れば付き纏いだのストーカーだの言われかねない。だから色々と怖くて恐れ慄いている。ハッキリとしないから。
先日、Twitterで明らかに女性が避けてて脈がないことを暗示しているのに男性はそれに気づかずアプローチし続けていて痛いという旨のツイートが話題になっていた。このようになりそうで怖いのである。いやこの投稿を観たから余計に嫌がられてないか気になっている。好き避けという言葉もあってそうであって欲しいが、こちらに賭けるのはリスキーである。そうであれば御の字だが、そうでなければ付き纏い、ストーカー予備軍だ。
ハッキリしないことが不安と苦しみを増幅させる。ハッキリとしないから不安に駆られ、話し掛けたくなる。でもウザがられたくないから、話し掛けたい気持ちをグッと堪えて苦しくなる。結局、不安が勝って話し掛けてしまうこともあって、その後に大きな後悔が押し寄せる。正直言って、“察しろ”は僕の場合、事態を悪化させる助燃剤である。ハッキリと言われれば、気は落ち込めど色々悩み苦しむことはないから楽である。
好意を寄せていて上手くいかないから苦しんでいるのもあるが、それ以上に色恋沙汰で拗らして鬱になった時の二の舞になりそうなのが怖くて苦しい。男女問わず皆から、ハニトラだの美人局だの相手が悪かったなどと言われてはいても、察せずに突き進んで拗れて、自殺寸前まで精神的に追い詰められたあの時の二の舞にはなりたくない。地獄を味わい、その淵が再び見えているから怖い。
はぁ、上手くことが運ばないかなぁ。
全ての異性の眼中に入れてもらえず結婚や生殖もできない現実に耐えきれず気が狂うのは男だけだよ
未婚既婚の寿命差が男のみに顕著なのもそうだけど
女をあてがわないとテロを起こすだの結婚の義務を果たさない女は加害されても放置するといった脅迫的な言動に走る
親しくないもしくは初対面の低身長男性や非モテおじさんのアプローチを断った女を高望み嫌われ者女扱いして攻撃(断った事実は女自身と断られた男しか知らない)
顔も名前も身元も不明でも認知や会話してくれてレスポンスをくれる女なら誰でもいい
ギャラリーストーカーを含め一般人やネット越しの声優やvtuberなどにつきまとい、ババアいじりや貧乳いじりや未婚年増いじりといった「無価値な女を相手する俺」コントを押し付ける
昔のマシンのリメイクは郷愁を誘われて嬉しいですね。懐かしのマシンを現代風にアレンジするのは面白そうです。ミニ四駆世代の大人をターゲットにした戦略なのかもしれません。
SNSを活用したコンクールは、ミニ四駆コミュニティの交流の場として素晴らしいアイデアだと思います。自慢のマシンを披露し合ったり、アイデアを共有したりと、ユーザー同士の繋がりが生まれそうですね。
ローラー数の制限撤廃はビッグニュースですね!より自由度の高いカスタマイズが可能になり、マシンのバリエーションが広がりそうです。ローラーの配置を工夫することで、コーナリング性能が上がったり、新しい走行スタイルが生まれたりするかもしれません。
セッティングの幅が広がったことで、よりテクニカルなアプローチができるようになったのは嬉しい限りです。自分なりのベストセッティングを追求するのが、ミニ四駆の醍醐味の一つですからね。
ミニ四駆から離れていた私ですが、久々に手に取ってみたくなりました。カスタマイズを存分に楽しんで、理想のマシンを作り上げてみたいと思います。
アドバイスありがとうございます。ミニ四駆の奥深い世界に、再び足を踏み入れる良いきっかけになりました。
新しい上司は数字管理が徹底していて面倒だが、目標に足りないとどの顧客にアプローチするか何をどうすべきか具体的に指示してくれる。ロープレにも付き合ってくれる。
増田が見逃していた顧客やこれは顧客にならんだろうと思っていたようなものを掘り出してくる。
前の上司も悪くはなかったが、こんなに細やかに指示する感じではなかった。
最初は半信半疑だったが、言う通りやったら決まった。それが何回も。
さらに入社して初めて有給20日/年使えた。残業も減った。おかげで入会したもののあまり行けてなかったジムにも週2で行ってる。自炊できる日も増えた。
マネージメントってすげー!とここ1年驚いてばかりだ。そして人を乗せるのもうまい。上司が変わってから、日曜夜の憂鬱が無くなった。
これまではGW最終日は翌日の出勤が嫌すぎてベッドから動けなかったが、今年は英気が養われてる感じで、むしろまた頑張ろうという気持ちになっている。
転職も考えていたが、いまの上司がいる限り続けようと思う。異動当初、母親と同じ名前でやりにくいわーとか同期に愚痴ってすみません。一生ついていきます。
https://anond.hatelabo.jp/20240506061423
短歌の結社に入っていて、歌会にもよく参加していたことがあるが、元増田のような話は何度も聞いたことがある。もはや歌人あるあるネタだし、私も深く共感する。ただ、字数という点に増田はこだわっているようだが、この話題はそのようなレベルの話ではない。
多くの人は短歌と俳句が同じ短詩型文学であるから、短歌も詠めれば俳句だって作れるだろうと思いがちだが、それは大いなる誤解だ。むしろ短歌を詠めば詠むほど、俳句から遠ざかることになる。
なぜなら、両者は表現のアプローチが正反対だからだ。短歌は風景と言葉を使って<私>の情念を表す文学であるのに対し、俳句は<私>と言葉を使って風景を表す文学なのである。
短歌を詠むということは、言葉に情念を圧縮するということだ。穂村弘は短歌を爆弾に喩えたが、自分の情念を読み手の心奥深くに埋め込もうとするために、言葉の選定や配列に独自性をもたせていく。風景すらも歌人にとっては情念の道具に過ぎない。日本語に己の爪痕を残してやろう。世界は我が情念を表すために存在するとでも言わんばかりの自意識過剰さでもって詠むのが短歌というものだ。己の全情念を31字にすべて押し込めようとするエゴイズムこそ短歌というものの醍醐味である。誤解を恐れずに言えば優れた歌人とは己の日常を糧にした自意識の純粋培養物なのである。
それに対して俳句を作るということは、言葉で風景をカットする行為だ。17字というフレームの中に厳選した風景の要素を置いていく。私は風景から要素を抽出するための機械でしかない。俳句にとって情念はノイズでしかないのである。
このような対比で見ると、短歌を詠む人が17字は気持ちを込めるのに少なすぎる、となぜ思いがちなのかが分かるだろう。字数云々ではなく、根本的にその容器は、あなたの情念をしまうところではないのです。高級フランス料理の小さなお皿にニンニクましましラーメンを入れようとする無理な行為なんですよ。俳句を作るなら、あなたが後生大事に抱えているその情念は捨てましょう。わかりましたか?
そうは言っても短歌人はやめられない。短歌を苦しみ抜いて詠んだきたのだから、この情念は捨てられない。世界中から笑われようとも俺はこの17文字に俺の心情を詰め込んでみせる。31文字でできて17文字でできないことはないっ。ここに俺の私の僕のアイデンティティがかかっている。
という具合に短歌は人に冷静さを失わせ、言葉を発するときに自意識を手放すことができなくさせる。そしてどんどん俳句の精神から遠ざかっていくのである。だから短歌を詠めば詠むほど、俳句は作れなくなる。
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一茶の句は反例にならない。
https://anond.hatelabo.jp/20240506233546
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https://anond.hatelabo.jp/20240508195326
俳句に情念は込められないという主張について、上の増田より鮮やかな反例を挙げていただいた。俳句への理解を深める契機をいただけたことに感謝する。
GPTシリーズやローカルAIが重要な役割を果たしているのは確かですが、それがすべての時代における最終的な解決策であるかどうかは疑問です。常に技術は進化し、新しいアプローチや技術が出てくる可能性があります。
実際のところ、そういう問題の根幹には
仮に、レイプなんか20円落としたくらいのダメージだよって意識を万人が持てば
そんな大きな問題ではなくなる。
大きな問題のままにすることには特に意味はないんだから、今すぐは無理だけど数十年後とかの目標としてそういうアプローチがあるのは悪くない
>TRAや男尊左翼はアンフェに屈してしまう腰砕けだから信用できない。
あくまで冤罪被害者に謝ったのであって、アンフェに対して何かしたわけじゃないんだよね。
ネットの諍いに夢中になって叩いたり叩かれたりしているうちに、色々と見失っている気がする。
もはやアンチアンフェ。
それなりに地位があって社会に影響を与えうる人までがこうなのは本当に恐ろしい。
男性嫌悪やアンフェ嫌悪、とにかく嫌悪で駆動しているのだろうけど、
このレス見てもわかるように、性被害者、冤罪被害者、誰のためにもなってないんだよね。
こういう人が「フェミニスト」を名乗ってかつそれなりに社会的地位を得ているという状況、どうすれはいいんだろう。
例えば法に訴えたとて、この人の考えが変わるとは思えない。
この人の女性至上主義とその裏の男性蔑視、それらを正当化する思想的背景はフェミニズム(の一分野)にあるんだろうけど、
同時に、こういう人に歯止めをかけるにはジェンダー論によるアプローチしかないと思う。
@Koiramako
フェミニストとして嫌われても言っておく。赤旗もスプリングも謝ったのは、悪手であり最悪だ。TRAや男尊左翼はアンフェに屈してしまう腰砕けだから信用できない。性被害者が被害に声をあげたら寄り添うことを私は躊躇わない。これからも性被害に遭った女性に寄り添いつづける。それがフェミニストだ。
この手順は、Latent Diffusion Modelsを使用してテキストから画像を生成するための一般的なアプローチを示していますが、いくつかの誤りや欠落がある可能性があります。以下にいくつかの修正と補足を示します。
1. **ライブラリのインポート**: `diffusers` ライブラリは存在しないため、代わりに `torch`、`transformers`、および `diffusion` ライブラリを使用する必要があります。
```python
import torch
from transformers import AutoModelForSeq2SeqLM, AutoTokenizer
from diffusion import LatentDiffusion
```
2. **環境のセットアップ**: 事前学習済みモデルとトークナイザーを使用する前に、必要なモデルとトークナイザーをダウンロードする必要があります。
```python
model = AutoModelForSeq2SeqLM.from_pretrained("nlptown/bert-base-multilingual-uncased-finetuned-xnli")
tokenizer = AutoTokenizer.from_pretrained("nlptown/bert-base-multilingual-uncased-finetuned-xnli")
```
3. **テキストプロンプトの前処理**: `encode_plus` メソッドを使用して、入力をトークン化し、テンソルに変換します。
```python
inputs = tokenizer.encode_plus(prompt, return_tensors="pt")
```
4. **Latent Diffusion モデルの定義**: `diffusion` ライブラリから `LatentDiffusion` をインスタンス化する際に、モデルとトークナイザーを渡します。
```python
ldm = LatentDiffusion(model=model, tokenizer=tokenizer)
```
5. **画像の生成**: `generate` メソッドを使用して画像を生成します。
```python
image = ldm.generate(inputs)
```
6. **生成された画像の可視化**: 画像を表示するために適切なライブラリを使用します。例えば、Matplotlibを使用して画像を表示できます。
```python
import matplotlib.pyplot as plt
plt.show()
```
男女を入れ替えて、声優趣味やオムライスを容姿のメタファーと捉えれば、恋愛工学の典型例にも見える気がした。
容姿に力を入れていない男性と付き合ってる女性、容姿にアドバイスしたら方向性が明後日に向き不満が募る。
そこに自分磨きに力を入れている男性登場。趣味も相性良く君だけのために頑張った風でアプローチ。めでたく乗り換え。
これは男も女もお近づきになりたくないっすねぇ。最初の相方に対して非情すぎて同じコミュニティには属したくない。本人たちが幸せならそれはどうぞお好きに……。
ジャンプ+のケントゥリア、期待して読んでいたものの4話まで来てかなり酷いなと感じた。
作者の力量にすら疑問符が付く内容だった。
働き口を探す気になり近くの村を紹介してもらう。
ところが村のリーダーから「お前には信用が無い」「足手まといは村全体の負担になる」と言われて
テスト内容は「崩落した穴の土石を一人で運び出してみろ」というもの。
夜中には仕事を完了して見守っていた村人達も感嘆、労働者として認められる。
…これもうすべてがおかしいでしょ?
どこの世界でも第一次産業では子供に手伝わせるし何ならその為に子供を作る。
「とりあえず小石運びとか雑用からやらせてみて勤まらなければ帰す」でいいわけで
わざわざテストなんか課す理由はどこにもない。テストだってコストがかかる。
現代で試用期間だの面接だのがあるのは労働者の権利が守られてるからであって
奴隷上等のこの世界なら一日働かせて「「この役立たず!給金なんかねーぞ帰れ!」でいいから
・ダメな奴にやらせられる仕事がないどころか触らせたことで台無しになる可能性がある
みたいなことはあるんだけど、作者はその現代日本の感覚のまま話を考えている。
自分の作った世界の諸条件に合わせて人物の行動を考えるということが出来てない。
ユリアン少年は村のそばで半年間生活していて、同居して面倒見てくれてたのは先述の兵士。
今回の話もその兵士が村に働き口の世話を依頼している。
兵士と村人との関係も詳細は不明だが、こういう話をするぐらいの関係ではある。
その兵士が身元を保証する少年を労働に使ってやってくれって言ってるのにこの対応、
「村人が兵士に相当険悪な反発心を抱いている」みたいな設定があるならいいけどたぶんないでしょ?
「有難いお申し出ですけどこの子はちょっとまだ小さいようで…」と兵士に談判するか、
兵士の顔を立てるために誰でも出来る雑用を与えるかとなるはず。
人間関係や社会的な行動についての想像力が相当低い(たぶん実体験が乏しい)。
暇すぎるだろ。
なんでよそ者の子供一人のテストに村人があんなに集まってるの?今日はまつりか?
一個目の時も背景にどう見ても数十人単位でいる。
半分まで行った時にもまだ同じ密度でいる。
ユリアンが石を運び終わった夜中にも同じ感じで村人が沢山いる。
新入り労働者のクオリティに「村の足を引っ張るんじゃないか?」ときついテストしてくるほど生産性に厳しい村の人間が
何十人も朝から晩までくだらない石運びテストを興味深く見守っている。
そんなに暇なのもおかしいし、そんなものに関心が続くのもおかしい。
これ本当に何も考えずに絵を描いてないだろうか。
主人公ユリアンにとってこの石運びが死んだ仲間やディアナ母への決意表明だったとしても
そんなことは他人には関係ないし伝わってもいないのだから、外から見ればただの石運びなので
ただただ退屈な石運びを見つめ続けられるわけもないし心を打たれるわけもない。
村人の視野とか村人の都合とか村人の思考とかを想像する能力が無く
ユリアン君が頑張ると村人がずっと一緒に見つめ続けて感動するという有り得ない展開になってる。
これは精神的発達段階としてはかなり未成熟段階の認知だと思う。
絵が素晴らしく巧みなのでギャップがあるが、描かれてるものだけ見ると相当稚拙なんではないだろうか。
全然裏切らずに命を捧げてくる奴隷仲間の時からなんか変な感じが漂っていた
(が、善良ベースな世界を描いているのかなと保留されていた)部分が
もちろん、裏切り者が出てくれば成熟した精神世界だとか言ってるのではない。
そうではなくて各キャラに独立した都合や思考が想定されているか、その上でユリアンに命を託してくれているのか、
と言う話をしている。
つまりただただた絵と内容が合ってない。
上手い絵で粗い内容を読まされると人間心理としては段々不快感やイライラがたまってくるので
このままなら『ケントゥリア』はそのうちアンチ的な感想が増えて叩かれるようになると予想する。
今はまだ『ケントゥリア』が期待され持ち上げられている段階なので
怪獣8号も2話3話で「これは期待外れかも」「普通の漫画になってしまった」と書いたら
作者は絵に対して真面目で打ち込むタイプに見える。
描かなくていい村人を描いちゃうぐらいには絵に賭けてる。
もしかすると実は内容が薄い自覚があって絵だけでもと思ってるのかもしれない、
けれども作家としての成長を考えるなら&『ケントゥリア』の成功を考えるなら
というアプローチが良い気がする。
粗い内容は粗い絵の方がいい。