はてなキーワード: アブラハムとは
/*追記
朝起きたらブクマがいっぱい付いててびっくりした。これは、素人増田の素人論考です。増田本人は無宗教、消極的な無神論で、円滑なコミュニケーションのために宗教行事に喜んで参加します。身近には浄土真宗、浄土宗、日本のプロテスタント福音派、ゆるふわユダヤ人などがいます。
追記*/
無神論と無宗教(≒特定の宗教に強くコミットしていない)は違います。
無神論は、神はいないという"積極的な"主張であり、ひねくれた言い方をすれば「無神論教」と言えます。
ちなみに、「カトリックが自由な感じではなく、プロテスタントが自由な感じ」というのも偏見のように思います。
(おそらく、自分自身はカトリックの教会に行ったことがなく、周囲のプロテスタントからそう聞かされているだけでは?)
仏教について
仏教は、立場にもよるが、本来的には神のような超越存在はいないと考えていると思います。哲学に近い。
神道について
ご存じ八百万の神なので、多神教。そもそも1人(1柱?)ではないし、「私"だけ"を信仰しない者、異教の神を信じる者は滅びる」という嫉妬深い神はいません(or少ない)。そもそも、日本語の「カミ」というものは、本居宣長の古事記伝第3巻によれば「すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功(いさを)しきことなどの優れたるのみを云ふに非(あら)ず、悪しきもの奇(あや)しきものなども、よにすぐれて可畏きをば、神とは云ふなり」となっていて、今っぽく要約すると「SUGEE存在全般」という意味でしょうか。アブラハム系の神とは大きく違います。
特定の一宗教にコミットすることを求める一神教に対して、上記の通り仏教は厳密・本来的には教義の無神論であり、神道は八百万である点が大きく異なると思います。神社に行って賽銭を投げても、仏教葬式に参列しても、そこにいる超越存在"のみ"にコミットすることにはならないのだと思います。
いわゆるリベラルとされるグループでは都合良く「ゆるふわ」で通るかもしれませんが、福音派とかであればそうもいかなそう、と思うのは私の偏見、、でしょうか。
以下、追記
watchcat
まったくその通りですね。「強くコミット」っていうのが違うのかな。特定の宗教を信仰している意識があるかどうか?多神教&掛け持ちOKの宗教だと話がややこしい。
cameraojisan
無宗教≒特定の宗教に強くコミットしていない、って広く共有されてる感覚なの?元増田は「それゼロじゃないじゃん」という主張だと思ってた
ごめんなさい、適当にレスポンスしただけです。こんなへぼいテキストに反応が集まってしまい申し訳ない。
ak248
多神教的考えや習慣を一神教の人は理解できないってことかな。あとカトリックの方がプロテスタントより厳しいルールが多く、信者以外は行事に参加できないと思ってたのですが違います?教えて詳しい人
カトリックの方が伝統や慣習を重視していると言う点で、厳しいルールが多く見えると言うことかも?プロテスタントにその種のルールはないが、ゴリゴリの福音派だと聖書に従って生きるという(別の種類の)厳しいルールがあると感じる。
https://www.nikkei.com/article/DGXLASGM04H0I_W5A400C1EAF000
『2100年にはイスラム教徒が35%に達してキリスト教徒を1ポイント上回ると予測している』
地味にキリスト教徒も緩やかに増加する予測が立っていて、これが現実に起こるとユダヤ教も合わせて世界人口の7割くらいがアブラハム系宗教に属する人々で占められる事態になる。
地味に中国でキリスト教が増えているらしいという話もあるからあながちあり得ないことでもないのだろう。
今は5割ちょいなのでかなりの増加だ。
それでもまだリベラルが勢力を保っているなら彼らはもはや経済的格差を背景に少数者が優位を維持しているという点で民主主義に反する存在だろうな。
ロシア株のBCGだから感染しにくいって?ロシアの惨憺たる状況でその仮説は崩れた。では、東アジア諸国と欧米の、文字通り「桁違い」の死者数の違いの原因は何か。
死者数が多いのは欧米諸国の他、イランも多いし、イスラエルも健闘しているとはいえ東アジアからすると一桁多い。
共通点は、一神教(アブラハムの宗教)の国かどうかだ。イスラム教国のインドネシアも結構増えてきた。封じ込めに失敗したシンガポールもイスラム圏からの労働者が主な感染者だし、キリスト教が主流のフィリピンは東南アジア最多だ。
アブラハムの宗教を信じてるやつは、「最後の審判」をガチで信じてる奴がけっこう多い。日本人には想像つかんだろうが。で、今回感染して重症化してる連中、COVID-19の流行を「最後の審判」と勝手に結びつけて、逆プラシーボ効果で症状悪化させてんじゃねーか?「最後の審判」なんか単なるデッチ上げと承知している非一神教の人間は、ウィルスの実態以上にはこじらせてないってこと。
思い込みをこじらせ過ぎると命に関わることもある、ってことだ。気をつけろよ、オマエら。
くしゃみの瞬間って、反射反応だから、理性が支配していた身体を本性(ほんせい)が奪うともいえる。したがって、身体を奪われた理性が身体から剥離するという想像は難しくない。剥離体が再び身体を支配する(すなわち本性が鎮まる)とき、その定着を錯誤なく完了するために(アブラハムの)神の手が必要だと思わせたのだろう。
しかし、理性から身体を奪った本性(生命維持のための反射反応)こそが人格の主人だと考えると、話は逆になってくる。普段、身体を支配しているのは本性であり、理性は時間的領域的に一部の支配権を移譲された状態でしかないと考える。すると、くしゃみの瞬間は人間の本質の顕れであるといえる。その結果は、二通りの反応とスペクトラムになる。すなわち、第一に、本性の発露は正しく善であるのでそのままを容認する反応。第二に、本性の発露は動物的で人間らしくないので容認しない反応。あるいは、社会性に因る分別を通過して容認か非容認かを選択する反応である。
以上のことから