はてなキーワード: アニメ監督とは
一番奇妙なジブリ作品。過去のジブリ作品のオマージュが散りばめられているばかりか、なぜか他のアニメ監督作品ともどこか繋がっているような…。細田守や今敏作品が頭をよぎる。(細田守の「星を追う子ども」との共通点は無視できないレベルな気が。あとは作画が明らかにジブリを離れている瞬間があるのが大きいかも。)
この映画は物語を追うものではない。誰かに感情移入して楽しむようにできていない。最後までその不思議な感覚が残る。でも、目の前で鑑賞していた小さい子どもが、終わった瞬間に「おもしろかった…!」と呟いた。もしかすると、真に子ども向けの映画なのでは?
そう考えると、今回の「異界」はある種の「生まれ直し」なのだ。正しく「異世界転生」している。転生先で出会いと別れ、困難と戦い、そして選択を行う。これらは子どもにとって、これから人生で起こることを予期させる。映画を通して「君たちはどう生きるか」シミュレータが機能するよう設計されているのではないか?(なお自分は十分に歳を取っているので、このシミュは動作不良を起こす。)
そして勝手な想像だが、あの老人は宮崎駿の分身である。とすると、宮崎駿は誰にも世界を渡せなかった、世界を手渡すことを失敗した。異世界の崩壊は、ジブリのイマジネーション世界の崩壊を意味する。しかし老人はそれを事前に、自ら選んでいる。老人は次世代のために「汚れていない石」を必死で探し当てた。しかしそれは第三者に破壊されるのだ。
きっと今度こそ、これが最後の作品ということなんだろう。ジブリのエッセンスは拡散し、勝手に引き継ぐ人間がその破片を受け取る。映画が始まる前の予告編の、やけにジブリライクな作画や、作中の他作品への無意識的な連結はそれを印象付ける。
「おもしろかった?」と聞かれたら「奇妙だった!」と答えるし、「もうちょっと詳しく」と聞かれたら「自分が子どもだったら最高だったかも!」と答える。そういう映画。
主に描かれるのは、原作のクライマックス山王工業戦。宮原氏は「漫画を組み立て直し、この場面ではどこに誰がいるかを解析していきました。コート上の配置を描いたA3の書類が2センチくらいの分厚い山のようにあります。それを基にモーションキャプチャーを収録していきました」と説明する。
モーションキャプチャーの撮影では、実際に10人のキャストが40分の試合を再現。360度、50台以上のカメラを設置し、集まったデータを3DCGのアニメへと落とし込んでいく。
現場では「井上監督の圧倒的な熱量」がスタッフに伝播した。「まだ上があると思います」が口癖。眉毛1本を消すなどの繊細な修正が繰り返された。
宮原氏は「1カット1カットすべて確認していく。的確な修正がくるので、それに応えたいと、みんながアニメーター魂で合わせていった。普通のアニメ監督でもやらないだろうなってくらいの作業を原作者の監督がやっている。頭の先からしっぽの先まで原作者の絵。私は30年以上やっていて、初めての経験でした」と証言。約2700カットすべてに生みの親の情熱が込められている。
本格的なアニメーション作業が始まったのは2018年。制作の過程で、すでにカリスマ的な画力を誇る井上監督自身も「進化」していった。宮原氏は「2~3年間、作っていく中で監督の絵も変わっていきました。そこを拾わない手はない。絵を描く方が監督をされているからこそだと思います」と併走。96年に完結した当時のままではなく、現在進行形のスラムダンクに魂が宿り“懐かしい、でも、新しい”というワンダーを生んだ。
「原作主義」を徹底し、井上監督による「圧倒的熱量」がチームで共有され、監督自身も制作しながら「進化」していく。“3Pシュート”が観客の心のネットを揺らし、大きなムーブメントへとつながった。
水星の魔女の脚本家は?と聞かれて大河内一楼の名が出る人は結構多いのではないだろうか
じゃあ小林寛(こばやし ひろし)監督の名前や仕事を答えられる人はどのくらいいるのだろう
本来作品の評価を一番に受けるべきは監督のはずなのに、水星の魔女に限らずアニメ監督の名前はあまり知られていないというか興味を持たれていない気がする
アニメ監督の仕事って要は脚本も含めた作品に関する全部で、その膨大な仕事量のわりに評価されにくくてなんだかなあと思う
シンエヴァや鬼滅の刃ほどの作品でも監督を答えられる人は意外と少ない
逆に作品が荒れたり発言が悪目立ちする人のほうが有名だったりするのはアニメ業界に限らずか
別に作品への愛を語る上でスタッフの名前を覚える必要はないんだけど、せめてその作品で一番働いている人の名前だけでも覚えているといいなと思う