はてなキーワード: アニメーションとは
それは嘘だった:ゴールデングローブ賞受賞映画に出演したと主張したコロンビア人は拒否された
ジェラルディン・フェルナンデスは、制作中に 25,000 フレームを描いたと主張しました。しかし、エル・ニーニョ・イ・ラ・ガルサのクレジットには彼の名前は載っていない。
ジェラルディン・フェルナンデスというバランキージャ出身の女性が、最優秀アニメ映画賞を受賞した作品『エル・ニーニョ・イ・ラ・ガルサ』のイラストチームの一員だったと主張したため、コロンビアは数日間ゴールデングローブ賞受賞を祝った。
これはソーシャルネットワーク上で喜びを呼び起こし、これに加えて、いくつかのメディアがフェルナンデス氏の証言を求め、フェルナンデス氏は映画に登場する25,000フレーム(視聴覚映像の合計時間の約30分に相当)を描いたと主張した。
同様に、ジェラルディン・フェルナンデスさんも自身のソーシャルネットワークにビデオを公開し、その中で、これらの絵を描くためにリモートで作業し、その過程で映画監督の宮崎駿に会ったことを主張し続けた。この業界では史上最高の製品です。
「30歳になった自分が、まさかスタジオジブリで制作を担当することになり、最新作だけでなく宮崎駿監督の引退作にも出演することになるとは思ってもみませんでした。信じられないです。 」とフェルナンデスはビデオで述べた。
これらの発言を踏まえ、一部のイラストレーターはフェルナンデスさんの証言の矛盾を強調した。彼女は2万5000フレーム撮影したと主張しており、一部の人にとっては不可能なことだったが、バランキージャの女性は遠隔で撮影したと主張しているという事実に拍車をかけた。
コロンビア人の彼女は映画のクレジットに登場しておらず、IMDBやアニメスタッフデータベースの専門サイトにも彼女の名前が掲載されていなかったため、数人の国際的なイラストレーターはこれが詐欺であると断言し、メキシコ人のジュリエッタ・コラスは最も憤慨した人物の一人であった。これ 。
コラスはフェルナンデスに、このような重要な作品に参加することを夢見ているラテン系イラストレーター全員に害を及ぼすものであると主張し、自分のバージョンを修正するよう求めた。その上、
「この女性は、エルニーニョ・イ・ラ・ガルサに取り組んでいたと語っています。彼女はコロンビアで自ら映画の2万5000コマを描き、宮崎監督も彼女の名前を知っていたと語った。彼女はいつも自分のことをイラストレーターだと呼んでいます。彼は絵を一枚も見せません。ボールは嘘をつくべきだ」とメキシコ人選手はジェラルディン・フェルナンデスの出版物に反応した。
これに加えて、フェルナンデスのポートフォリオにいくつかの盗作があることを強調した他のイラストレーターからの批判もあり、それが彼女を悪人であり、この職業の信用を傷つけていると非難した理由です。
彼らはソーシャルネットワーク上で、バランキージャの女性に対し、彼女に対する申し立てに対する返答を求めた。しかし、ジェラルディン・フェルナンデスさんは声を上げていないが、彼女が嘘をついていると非難した一部の人々は、コロンビア人選手が彼らをブロックしたと述べている。
「繰り返しますが、彼女はこの映画の 25,000 フレームを個人的に「イラスト化」したと(彼女の言葉で)言いました。それは 35 分です。コロンビアで海賊プランナーをしている女性は、フリーランスのリモート仕事として、ジブリ映画の 35 分間のアニメーションを制作したと主張しています。ちなみに彼女は私をブロックしました」とジュリエッタ・コラスさんはXアカウント(旧Twitter)に書いた。
フェルナンデスの沈黙により、ソーシャルネットワーク上では、バランキージャの女性は間違っており、他の場所で働いていたと主張するさまざまなミームが作られ、状況をからかうために過去の宮崎作品を利用した。
コロンビアではフェルナンデスの発言を信頼し、彼女が日本のスタジオの制作に参加したことを祝福する人もいたが、『エルニーニョ・イ・ラ・ガルサ』はアカデミー賞の最優秀アニメーション映画賞の最有力候補としての地位を確立し続けており、この賞を受賞するのは3 月 24 日に 開催。
14歳の少年ニルス・ホルガション少年がトムテ(妖精)によって小人にされ、ガチョウのモルテンやガンの群れと一緒にスウェーデン中を旅する。この物語は、スウェーデンの子供たちが自国の地理を楽しく学べるようにスウェーデンの国民学校教員協会の読本作成委員会がセルマ・ラーゲルレーヴに執筆を依頼したものである[1]。
1955年以降2回、アニメーション作品が制作された他、1962年にスウェーデンにて実写映像作品が、2011年にスウェーデン・ドイツにて、実写およびCGによる映像作品が製作された。
スウェーデンの20クローナ紙幣の表面には、作者セルマ・ラーゲルレーヴの肖像が、裏面にはモルテンに乗っているニルスの絵が印刷されている[2]。またスウェーデンの地図制作会社Tele Atlas(英語版)社(2007年、世界三大メーカーの一つでもあるオランダのトムトム傘下になった)のロゴマークのモチーフにもなっている。
あらすじ
スウェーデン南部・西ヴェンメンヘーイに住むわんぱくでいたずら好きの少年ニルスは、いつも家畜をいじめてばかりだった。
ある日曜日の朝、両親が教会に行って留守の間にニルスは妖精を見つけて捕まえるが、妖精に魔法をかけられ、小人にされてしまう。小さくなったニルスは動物の言葉を理解できるようになるが、普段いじめられていた家畜たちはニルスの小さな姿を見てここぞとばかりに復讐しにかかる。
いや、すごい人だとは思われてるけど、そのすごさの敬意が才能に対してだけなんだよな。
アニメーターとしての才能。
あの人は何も考えずに手癖だけであれだけのアニメーションを作れたのは驚異的だ、みたいな評価のされ方な。
とかいわれるわけじゃない?
でも安彦良和は違う。
あれは才能だけでやってる人間だ、みたいな言われ方をする。
褒められる場合でも。
そのへんがねえ気の毒。
漫画とかもね。
でもそれをアニメでやろうとするとお話が小さすぎてうまくいかない。
とか言われちゃう。
きっとガンダムのあとも、2作か3作か4作くらい富野由悠季と一緒になって作ったほうが良かったんだろな。
なんかあの二人ってお互いを高め合うような効果があったじゃない。
初代ガンダムなんか見てると、これは安彦さんの感性なのか?富野さんアイデアなのか?ってわからない部分あるでしょ?
ああいうの。あれ元々はどっちが持っていたものだったの?ってわからないくらい混じり合ってるでしょ。
だからね。
・良かった
そんなに抵抗なくみれた
顔がイケメンとかじゃないけど
とにかく足を使ったモーションが艶っぼくていい
アニメーションってすげー!ってなった
・足技キャラには足元油ぶちまけるんだよ!には
・「大筋は高度成長期時期中国舞台のアラジンやろ」と思ってたけど
足技ボスの最終戦、「金を望んで触れたもの全てを金にするようにして詰んだ人の話は
知ってるよね?」から自己犠牲で友達を救う→見えるようになった→悲しき別れ…
の流れ、脚本家の人すげえぜ!ってなった
・ライオン少年で予習してたから獅子舞バトルシーン、進研ゼミになった
・これドラゴンさんが本編100年〜200年後位に出会った主が
主人公君とリナちゃんの孫かひ孫で別れる前に判明して一瞬もしかして…ってなって
変わらんな…的な感じで懐かしさを感じ表に出さずにお別れするやつじゃん…
・リナちゃんとお別れした時に「えび煎餅?は本物のえびは入ってないらしいぞ!」っていう
慰めいうやさしさ
@aaron2927
古いタイトル、特に 2D ゲームで最も恋しいのは、入手できるクールなアイテムの数々だと思います。 マグネット グローブ、ガスト ジャー、フックショット/クローショット、グラップリング フック、カブトムシなどは非常にクールですが、オープンワールド ゲームにはありません。 BOTW/TOTK で本当に深刻な問題は、進行システムが実際には存在しないことです。 ゲームを開始すると、すぐにすべてのギズモを入手できます。そして、唯一の障害となるのは健康とスタミナで探索するように言われます。 ダンジョンから手に入れたクールなアイテムを持って古いエリアを再訪したり、遠くにハートのかけらが見えたけど、適切な道具を持っていないのでどうやって手に入れることができるのか疑問に思ったりすることはありません。 成長システムが機能するのは、キャラクターが向上し、大きなクライマックスに向かって盛り上がっていくのが嬉しいからです。 ただし、BOTW/TOTK はゲーム表面の 90% をレベルにする方向に進んでいますが、それは大量にあります。
@dericandkhristy
素晴らしい投稿です。 やりがいのある進行状況がないため、ゲームは本当に空虚な体験のように感じられます。
@wesshiflet2214
はい、そして今では、強力なオーバーワールドのボスを除いて、期待ループはありません
@JJMomoida
それも懐かしいですね! 過去のゼルダ作品のダンジョンアイテムに関して私が見た主な不満の一つは、通常、入手したダンジョンの外ではあまり使い道が見られないということです……個人的には、そこはあまり気にしていませんでした。 。 TPのアービターズ・グラウンドでスピナーを使うのはとても楽しかったです。 これがこのダンジョンのアイテムであることは理解していたので、ダンジョン以外であまり使わなくてもあまり気にしなかった。 歓迎しますか? もちろんですが、私にとってそれは決して苦痛ではありませんでした。
@therealpskilla502
まだアクセスできない爆撃可能な壁やフックショットのターゲットなどを見て、そこにあるものをさまよい、その後ハートのかけらを拾うのに必要なアイテムを持って戻ってくるというメトロイドヴァニアの側面が懐かしいです。 これは非常に効果的なゲームプレイ ループです。
@TitForce
@dericandkhristy 空とは言えません。 しかし、それはただ違う経験です。 ただ空っぽだという考え方は、青沼氏の「リニアなゲームを作る意味がない」という考え方と全く同じだ。 「そんなに自由ではないから」
@ドメスティックス2958
ありがとう。 アイテムベースの進行はゼルダの最大の特徴の 1 つでしたが、それが廃止されたことに私はショックを受けています。
特にイライラするのは、TOTK には早い段階で遭遇する可能性はあるものの、まだ何もできないもの (コンストラクト ファクトリなど) がいくつかあるからです。 以前のゼルダ ゲームでは、特定のアイテムや能力を後でやり直す必要があるため、実行できないパズルに遭遇するのが一般的でした。 しかし、totk では、最初に必要なツールがすべて入手できるため、他のすべてがすぐに入手できるときに、まだ実行できないパズルがあるかどうかをどうやって知ることができるのでしょうか?
@thatnerdygaywerewolf9559
そうだ、これが新しいゼルダで私が欠けている主な点だ。 新しいアイテムやパワーを手に入れると、新しいことができるようになるのはいつも楽しかったです。 時にはプレイ方法を完全に変えることさえありますが、そうでなくても、それはまだ楽しみです。
この点では、TotK の方が BotW より少し優れていたような気がします。少なくとも賢者のパワーには環境効果があり、パズルに使用され (チャンピオンの能力とは異なり)、入手できるマイナーパワーもいくつかありましたが、それはまだ数マイル先です。 エンドゲームの感触や感じ方が初期のゲームとは大きく異なっているという点で、従来のゼルダとは異なります。 (編集: また、TotK には、新しい能力の獲得を特に気分良くさせる「まだ解決できない問題が見える」という側面がまだ欠けていました)。
@therealpskilla502
@thatnerdygaywerewolf9559 どちらかというと、両方のゲームに逆の難易度曲線があるように感じます。 最初は非常に脆弱で、いつも殺されますが、大量の回復アイテムを手に入れると、特に鎧を完全にアップグレードすると、文字通りゲーム内の何もかもあなたを殺すことができなくなります。
@rondorock2563
非常に多くの新規プレイヤーは、ダンジョン内でこれらすべてのアイテムを入手するスリルを知りません。 ドーパミンの爆発、オープニングの宝箱のアニメーションだけでも人生が変わります。ゲームプレイを強化するアイテムで視点が突然変わり、新しい方向性を発見すると、特に素晴らしいアイテムを手に入れることで多くを達成したような気分になります。 それを手に入れるための挑戦。 かつてのゼルダ ゲームはその点で非常に優れており、それは私にとって簡単には忘れられないでしょう。 😊
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12279860477
DLsiteで購入した同人ゲームの画面が暗い現象が発生します。
アダルトの2Dアニメーションの同人ゲームをよく購入するのですが、ウインドウのゲーム画面が全体的にうっすら暗いです。
質問者が募集閉じちゃったからここで書く。自分の場合、HDR の設定だったわ。Windows の HDR 設定をオフにすると解消した。
ツクールMVかUnityかわからんが、OSとディスプレイでHDR有効だと半端にHDRゲームとして扱われてしまって、ディスプレイ全体の輝度設定無視してずっと暗めになってしまう。
「1年後に作家デビュー、5年後に家を買う、10年後は大御所」
「あのクソアニメ会社が一番やりそうなことってあの時点で原稿叩き落として裏切ることだったんだよな」
「あれだけホレさせるだけホレさせていきなり「浮気性」と言われても…」
「〈男の夢を壊さないレベルでリアル〉という書き込みはクリエイター側のこだわり。見る立場では言えないなと」
「知っている人に聞いてこの会社は危ないと自分から退職届を出せば、犠牲者になることを回避できたと思う」
「京アニのほうがやってきたという思いがある。それは正直に申し上げる。精神鑑定をした鑑定人からは妄想だったという話が出ていたが自分の中では事実としてとらえている」
「ガソリンをまいたあと、止めに入られることを想定した」
「パソコンのデータをスマホにコピーしたら、掲示板に〈変態〉と書き込まれた。ハッキングされ、監督の写真で自慰をしたことがバレたに違いない。」
「恐竜の肉味ポテトチップスなんて送ってきたことから見ても、そちらの考えてることは分かる」
「京アニのアニメ「氷菓」に登場する「なんで顔出さないの」というセリフは彼女が自分に宛てた伝言。」
「掲示板に行くと〈お金持ってるの? 浮気性の女なの〉と書き込んで突き放してくる。放埒な彼女に、恋する気持ちを弄ばれている―」
「ビッチカス女でカネのことしか興味なくて 平気でパクるし平気で裏切る さすがに我慢の限界は越えた」
「自分と結婚したいのに何度もたたき落とし、一人スターダムを駆け上がる女性監督を終わらせたい」
「もう無茶苦茶。『相手』は諸葛孔明で余興程度らしい。ありえん。こっちは全力生き抜いているが、相手の人は」
「『京アニに裏切られた』なんていうのも、あの時もっと細かく気にして『これはなんかあるぞ』と予測しとけばわざわざ『爆発物もって京アニ突っ込む』とか『無差別テロ』とか『裏切られた』など感じる必要もないわけで」
「最後の段階まで行く直前の段階。人間関係は切っちゃえば終わるが、京アニは離れようと思っても離れられない。ここまでやられて切れないとなると、最悪のことを考えないといけない」
「悪いことをされたときに良いことで返すとなめられる」
「やられたら、やり返す」
「悪いことには悪いことで返す考えが根付いた」
「ほんと人畜無害だろ」
「ツルネでもぱくってやがる。ありえねえ。つくづくありえない」
「怒りを抑えると恐怖に変わる」
「しつこいんだよ。いい加減つきまとうのやめろ。やめないと殺すぞ」
「数分話を聞いて薬を出すだけなので信用できない」
「こんなの(薬)は飲まない。トイレに捨てたよ。1週間前から飲んでねえよ」
「全員かはわからないが、(京アニを俺の作品をパクってることを)知っている人に聞けばわかったはず。知らないことは悪で、努力不足だ」
「逆にお聞きしますが、僕がパクられた時に京アニは何か感じたんでしょうか」
「小説は誰かのものを読んで書くものじゃない。自分で書くものだ」
「自分の10年間のことで頭がいっぱいでした」
「自分はどんな刑だろうと罰は受けなければならないが、京アニがしてきたことは全部不問になるのか」
「それなりの人が死ぬだろうと」
「昔、どこかの消費者金融で、たぶん武富士だったと思うんですけど、ガソリンをまいて、ガソリンが気化して爆発し、人が亡くなった事件を見てそういう犯行に及ぼうと思いました」
「・・・(20秒ほど沈黙。首をかしげながら)知ろうとしなかった部分はあります」
「秋葉原事件で、(元死刑囚も)言っていたが、ためらうものです。自分みたいな悪党でも小さな良心があった。でも1999年からの20年間は暗いと考え、ここまできたら『やろう』と思った」
「罪を犯した身だから夢なんて持っていない!」
「前科が無ければ悪いことをしようと思いませんが、一度つくと『もういいか』となり、何かのタガが外れて、自分を支配していた良心が無くなった気がしました」
「(過去に)あんまり誰かに何かを言って解決されたことがなかった」
「(ハルヒは)それまでは『ネットゲームよりも面白いものはない』と思っていたが、ハルヒのアニメを見て『今時こんなすごいアニメはないだろう』と驚きました。ネットゲームに並ぶほどの面白さで、すごいと」
「(ハルヒの文庫を)大人買いしました。10冊ほど出ていたものを2日くらいで全部読みました」
「(ハルヒを読んで)なんとか自分でも書けないかと。当時は仕事もしていなかったので、それなりの小説ができれば、仕事も解決すると。初期衝動が強くて、衝動そのまま小説を書こうと」
「(うまくいかないときは)ハルヒの本をぶん投げて『書くのやめてやろう』という時期がありました」
「(ハルヒの本は)壁にあたってバラバラになったのが1冊、森に投げたのが2冊、そのまま残ったのが2冊。(ハルヒの文庫本は)6回くらい買いなおしているはずです」
「昔一緒にクリエイターを目指していた人が『スクエアエニックス』という会社でCGグラフィッカーになり。自分がクリエイターになれなかったことに納得行かず、その人の名前を1文字変えて自分の名前にしました」
「ハルヒは教科書として使っていて、自分は書いていく過程でパクったが、最終的に別の作品を作っている。京アニは小説を落選させて、著作権を自分に戻しながら、パクったものを放映しているので、いかがなものかと」
「むこうも最終手段を使うだろうし、自分としても最終手段をとらないとと思った」
「話し合うより、バイバイする方が30分で済む」。気に入らないことがあればパイプ椅子を机にぶつけ、女の子の胸ぐらもつかみ、最後は首になった。
「自分が小説を書くためにネタを集めていたノートにそのシーンがあった」
「そこから流出した。ネット上の書き込みが自分の小説を知っている内容に変わっていった」
「思考盗聴まで行ってる」
「『国民はたぶん気づいていないですよ、財政破綻すればあなたは大臣も議員の職も失う、辞任すれば助かりますよ』とメールしました」
「おそらくここでなら最高のアニメがつくれる。最高の物語が作れる」
「犯罪歴を知っているってなると、小説を京アニに送れないし、小説も書けない」
「作家で食べていけないので、犯罪した人ばかりしかいない刑務所に行ったほうがいいと思って犯罪をしようと思った」
「(妄想性障害と診断されて)もともと何かを考えたり思い浮かべたりする癖があるので、そう言われたのかなと」
「自分のものの覚え方というのがあります。曖昧に覚えてから正確に覚えるという覚え方で、曖昧に覚えていて正確に18という覚え方になっていた」
「ナンバーツーが歩いてきて、刑務官に『よろしくお願いします』と頭を下げていた」
「秋葉原の事件が起こったことへの思いがあった。秋葉原では車で突っ込んで、3人殺傷した。刀は時代劇ではバサバサ切っているが、1人か2人で血糊で切れなくなる。もしかしたら、ガソリンをまいたあとで止められることが予想されるので、その時に使おうと思っていた」
「(加藤智大も)仕事を転々としたり、郵便局をクビになったり、事件を起こしたことに何かしらの共感や類似点があると思った。他人事に思えなかった」
「アニメーションは1人で完結できない。何人かで盗作シーンを作ったという思いがあった。無関係ではないという判断しか当時はできなかった」
「逆の立場になって考えて、パクられたり、『レイプ魔』と言われたことに、京アニは良心の呵責も何もなく、被害者という立場だけ話すという理解でよろしいでしょうか?」
「私は2ちゃんねるで荒らしをしていて有名だったが、一度管理人に直々に怒られたことがあります」
「パクられた!小説!」
「やりすぎたと思っている」
「恨みがあり憎しみがあったとして、『やってやった』『ざまあみろ』というのが残る訳ではなく、他に方法がなかったのかと思うので、そういう部分では後悔しています」
「(2ちゃんねるの掲示板で)トップ編集者らしき人から『すげえものを見た』と反応があり、賞金をどう使うか聞かれたから、(京アニ大賞に)通ると思った」
「小説を諦める気持ちがあった。失恋に似た感情があり、一度密接にくっついたものを引きはがすのに大変難儀した覚えがある」
「何かしら、つっかえ棒がなくなった。生きていくためのつながりがなくなり、良からぬ事件を起こす方向に向かった」
「ぶっちゃけ、やる前、やった後とに、そういう考えがあると出来ないものなんですね。検事さんの最初の取り調べでも、『後のことはどう考えていたか?』とか聞かれましたが、当時そのことに関して、ある種『やけくそ』という気持ちじゃないと(犯行が)出来ない。一言で言うと、『やけくそ』でした」
「もう少し『やってやった』と思うのかと思っていたが、意外となんか、悩むこともたまに結構あるし、そんなことしか残らなかった」
「人が死んでこの世から存在が消えるというのは、やはりそういうことなんだなってちょっと思った」
「例えば、単独で『女性監督』を襲うとか、弁護士に依頼したところで、京アニがパクりをやめるかというと、そうではないかと思った」
「京アニは光の階段をのぼり、それに比べて自分の人生はあまりにも暗い」
「全て実を結ばずに終わった」
「自分の20年間はどうしても暗い。やっぱり、ここまで来たらやろうと思った」
「泣きゲーの元祖で、影響のある作品だった。『ONE』の後続作品をアニメ化したのが京都アニメーションで、『ハルヒ』をアニメ化したのが京都アニメーション。『ONE』を見なかったら『ハルヒ』も見ていない。そうなると小説も書いていなかったと思います」
「小説一つでそこまでとの思い 少しある」
「性欲に困っていたというのがあります」
「生活保護を受給して昼夜逆転の生活をするようになり、京アニの作品を初めて見て小説を書き始めた、ハルヒ」
「(加藤智大のことを)ひとごとには思えなかった。何とかしないと自分もこんな感じになると思った」
「人と関わるメリットが見いだせなかった」
「汗腺はほとんど取っ払ってしまっているので、頭と胸のあたり以外は汗をかけない状況です。痛覚も取っ払ってしまったので、痛みや温度も感じにくいです」
「『下りエスカレーター』ではなく、『上りのエスカレーター』に乗りたいと思った」
「(小説は) 書く時間そのものは短かったが、考えている時間を含めると24時間365日書いていた」
「福山雅治さんや『けいおん!』の声優、芸人の『あばれる君』が結婚していて、自分にも結婚させようとしているのかなと、自分と『女性監督』とを」
「日本を財政破綻させる世界的なシナリオがあった」と語り、自身が当時の故・与謝野馨経済財政担当相に警告のメールを送ったことで「国家破綻が回避された」と訴えた。
「逆に聞きますけど、それはこんなことするなら、さっさと死んでくれということですか」
「パクりが事実じゃないとすると36人が何のために死んだのか」
「2ちゃんねるが心の拠り所だった」
「加藤智大さん」
「(埼玉大宮駅に包丁6本を持って行って)この程度の密集度では、刺したとしても、すぐに驚かれて逃げられると即座にわかった。なので、そんなに大きな事件にはならないのでは思ってやめた」
「早く大拘(大阪拘置所)に来ていれば事件は起こさなかったのでは」
「強盗事件で服役していたときに刑務所で出会った『ナンバーツー』という名前で、ハリウッドやシリコンバレー、官僚などにも人脈のある、闇の世界に生きるフィクサーみたいな人だ」
「2ちゃんの用語で『あおる』、つまり『あなた本人ですよね』という書き込みをすると(本人の場合)恥ずかしさから流す態度を取る。(あおりに対してそのような態度だったので)女性監督で間違いない」
「自分の中では最悪の事態を防ごうとする努力はしたと思っている」
『涼宮ハルヒの憂鬱』は今でも好きか」と問われると「手本にすべき作品だが魔性の作品でそういう作品と出会わなければ事件を起こさなかった。今も『人を狂わせる作品』という認識だ」
「女性監督に『レイプ魔』と言われた。犯罪歴を知られていると小説も応募できない。刑務所に行ったほうがいいと思い、したくはなかったが強盗事件を起こした」
「(刑務所でけいおん!をみて) 涙を流して見た記憶がある。こんなところで見られるとは」
「またパクってんのかなと思った」
「愛深けりゃ憎しみ大きいという感じで、何も感じていなければこんなことは起こしてい」
「兄、妹への仕返しのつもりもあった」
「妹にもすごいことをやられてきた。妹が飼っていた猫をいじめていて、それを止めようとぶん殴ったら、警察を呼ばれて「ざまみろ」と言われたのを根に持っている。それでも、そこまでしなければならなかったのかと」
「コンビニ強盗のときの調書を見てもらえれば、すでに兄や母に対して、ガソリンをまいて殺してやりたいとの心でいる。当時からそういう感情を持ち合わせていた」
「やはり、いろいろな方の顔が浮かんだというのがありますー京アニの女性監督になります」
「申し訳ないのですが、全ての発言を洗いざらい取っていって、許せないと言われても、恨んでいただくしか方法はございません」
「他に方法がなかったのかと思う」
「はっきり言って答えていいと思いますが、弁護士さんからアレがあって控えたい」
「昔ほど(相手を)徹底的にやり返したりという考えは減ってきた」
「(第一スタジオに)らせん階段があるとは知らなかったのでー(2階3階にいた人は)ツキや運がなかった部分があったと思います」
「『落とせ』という指示があったら落とすという意図」
自身がIoTについて独自のアイデアを持っていたと主張。これが世界経済のバランスを損なう可能性があったため、ナンバー2が快く思っていなかったという趣旨の持論を述べている
「記憶では(目の前にいたのが)3人くらいだったので、そのくらいの死傷者が出るんじゃないかと」
「多く亡くなるとしても8人が上限じゃないかと思った」
「やはり秋葉原の件がありました。7人か8人か9人。雀荘の事件で、7人から9人。たぶん2桁までは考えなかった」
「京アニなんか、なくなっちゃえばいいのに、という考えはあったと思う」
「ブログ上で、あの〜……時間移動のことに関して触れているので(自分の応募作品を)読んでないことはないんじゃないかと思うんですがぁ。」
「その仕事……落とす(被告の作品を落選させる)ことをした後、建てられたのが第五スタジオ。そのお金が見返りになっている。いやぁ、けっこうあの頃は、ネットで散々やりあってて、それで、あの〜、やっぱり、まぁ、それで『落とせ』という形になったんじゃないかと」
「えーっと、それがちょっと、見ている現実が違う? それはないんじゃないか」
「(パクリが妄想と診断されて)自信がなくなった。目の前にあったことが事実でないかもしれない」
「それはやはり、申し訳ありませんでした、という形にしかなり得ない」
「やりすぎた、ということに、こういうところの事(謝罪)を言っている部分はあると思う」
「金輪際このようなことが起きないよう、教訓にしてもらうために全ての話をした」
「正直に申し上げると、あまりに自分のやったことの大きさに対して、目を背けることが多いのが否定できません。」
「質問に答えることも自分のできる範囲ではありますが、ちゃんとやって来たので、この場において付け加えて話すということはありません。そうとだけ申しておきます」
映画 窓ぎわのトットちゃんを観た。金持ち用の多様性を認める緩い私立学校でASD児の主人公が時間をかけて矯正され卒業する話なわけだが、ヒロイン枠が心身ともに軟弱な男で、その上で涙が出るほど感動したから驚いた。
戦前に、田園調布で風呂付2階一戸建てに母親は専業主婦、百科事典全集を並べられる本棚と勉強机に柔らかなベッドのある個室を小学一年生ながら持っている。
しかし、小児マヒがあり左腕・右足の自由が利かず、激しい運動をできない。そのため、いつも本ばかり読んで同級生との遊びや体育の授業にも加わらない。
体育会系軍隊気質を尊ぶ戦前において泰明くんの小児マヒは大きな性的ハンディキャップで、しかも孤立気味だ。一方で、幼少からの読書により得た思索力と文化資本を背景にした包容力を、親しい相手に対しては見せる。
作中トットちゃんが遊びの中で手加減し意図的に負けたシーンでは、手加減されたことに激高するシーンもあった。男性としての「プライド」を傷つけられたと推測する。
主要な展開として、活動的な主人公のトットちゃんと物静かな泰明くんが新しい学校でガールミーツボーイし、お互いを変えて変わっていく化学反応が描かれる。泰明くんは親しくなった後病の影響でか亡くなり、主人公に消えない傷と社会性を与えてエンディングとなる。このプロットはギルガメシュ叙事詩そのままであり、何も特筆すべきことはない。
しかし、エンドロールで作中の主要シーンが原作絵に近づけてスライドショーされているとき、自然と涙が出てしまった。
涙が出た理由は質のいいアニメーションが第一だが、ヒロインが良質なマクガフィン兼ロビンとして不自然なく場面を印象付けるよう機能していたことを忘れてはならない。
まず手塚治虫がデビューした頃の印刷技術の話になるんだけど、そもそも自分が書いた絵がそのまま印刷されるわけではない。
浮世絵なんかと同じでマンガ家の絵は原画で、それを版画の原板みたいに別の人が写して印刷する。
浮世絵ほど手間暇かけてないので、微妙な線とかは再現されない。
「のらくろ」なんか、田河水泡の原画は線がすごく美しくて感動するけど、印刷された「のらくろ」は潰れた線みたいな感じになってたりする。
手塚治虫の初期の頃も同様。
次に、マンガの根本的な技術命題として、たくさんのコマを連結するために、それぞれのコマの絵の登場人物の見分けがつかないといけない。
同じキャラクターのつもりで書いてても別人に見えてしまうとか、別人のつもりなのに混同されるとか、これは今でもしょっちゅう発生する。
これを上記のような未熟な印刷環境の中で発生しないよう、キャラクターの明確な書き分けをしないといけない。
なので、見分けのつきやすいパーツでキャラクターを構成する必要がある。
のらくろが他が白犬なのに一人だけ黒いのは、アメリカのフィリックス・ザ・キャットのフォロワーであるのと同時に、主人公を埋もれさせないため。
昔のマンガ入門なんかだとキャラクターの喜怒哀楽の表情のラインナップが並んでたりしたんだけど、
同じ登場人物なのに、泣いたり笑ったり怒ったりで顔を構成してるパーツがまるきり違うのに気づくと思う。
あれ?
パーツが違ったら別人、別キャラクターなのでは?
……と、感情表現のつもりで異なるパーツを使うと、読む側が別のキャラクターだと認識してしまうかもしれない。
キャラクターの同一性が重要なので、顔が大きく変化させにくい。
アニメだと連続的にアニメートすることで激しい表情変化でも同一性は比較的らくに示せるが、マンガはそこが大変。
なんで縦筋や汗の漫符表現が必要なのかと言えば、表情が変わらないままで感情を表現するため。
複雑な長編ストーリーを描きたいが、そのためには必要な道具が多数ある。
まず登場人物がたくさん出てくるのを、見分けがつくように交通整理しなければいけない。
その複数の登場人物がストーリー展開によって複雑に変化していくのをわからせなければならない。
主人公だけでなく複数の人物の感情のダイナミックな動きをキャラの書き分けを維持しつつ表現しなければならない。
それができないとストーリーが示せない。
なので、絵の情報整理をやった。
有名なスターシステムは、キャラクターの書き分けのための土台。
劣悪な印刷環境で見分けがつくため記号化されたパーツを、それぞれの定番キャラクターごとに整理し、見分けがつきやすくする。
これで顔の構成パーツが大幅に入れ替わっても同一人物だとわかり、その人物の感情が変化していることが表現できるようになる。
手塚治虫が「マンガは記号だ」と説明したのを、なんか面倒な理屈でこねくりまわす人がいるけど、
複数の登場人物の複雑な感情の動きを表現してストーリーを描くために、記号の整理分類、使い分けを行ったんだよね。
これ、手塚治虫がアニメに進出したときに導入した「バンクシステム」と考え方が一緒なんだよね。
というか、マンガの改革の成功体験を元にバンクシステムを提案したんだろうけど。
「同じ絵を使いましてセル画を節約すればいい」という、「同じ絵」はつまり「記号」なんだよね。
「マンガは記号だ」と言った手塚治虫だから「アニメの絵も記号だ」という発想に行きつく。
こういう発想ってさ、「芸術家」じゃないわけでしょ。
芸術としての絵画は1枚だけのオリジナル性、作家の手に宿る技術の唯一性に依拠するわけだけど、
手塚治虫が優先したのは、ずっと、絵よりも何よりもストーリー。
だから絵を分解分類して記号にしていいし、アニメーションを分解整理してバンクシステムを作れる。
こういう人じゃないと、そもそも絵描きなのに絵を下に置けない。
ストーリーを描きたいという自分の目的のために、既存の仕組みを分析・解体して再構築し、現代日本マンガの基礎を作った。
見たので感想を書く。
まあまあ面白かった。
けど売れなそう。地味で暗くてエンタメ性がそんなに高くないし、アニメーションとしての凄さ、新しさは特になかったから。
奇しくも昭和生まれの特大IPゴジラと、同じく昭和生まれの長寿IP鬼太郎がほぼ同時期にどちらもプリクエル的な作品を公開したということで、せっかくなので比較して語りたいと思う。
映画としてのエンタメ性や、興行収入、話題性、邦画史におけるインパクトなどはゴジラー1.0の圧勝だった。これは両作品を見た人ならだれも異論はないと思う。
でも、本当の「昭和」を描けていたのは鬼太郎だったと主張したい。
(ゴジラが1947年の話なのに対して、鬼太郎は1956年の話と10年程の開きはあるんだけど、まあそこは置いといて。)
ゴジラの戦中戦後の描写、登場人物の行動原理ってほぼパラレルワールドの昭和だったと思うんだよね。
色んな人が散々指摘してると思うので細かくは書かないけど。
一方で、鬼太郎の昭和はよく知ってる昭和だった。あのタバコまみれの空間や明日を信じて疑わぬ企業戦士たち、犬神家のような農村、狡賢い狸おやじたちに支配された社会。
先にゴジラを見ていたからこそ、あーこれが本当の昭和だよね、となった。
鬼太郎はちゃんとこれまでの「昭和」(それは実際のリアルの昭和だけでなく映画や小説で描かれてきたフィクションの昭和を含むものだけど)のイメージを踏襲して紡がれたストーリーであり演出だった。
世界観はテンプレ、物語は淡々としていてある程度先を読みやすい(予期を裏切らない)から、子どもでも見られる。
全体的にアニメにしては感情の起伏が少なめで、大声で喚くようなシーンが無いので落ち着いて見られる。
アニメーションとしてはとても良く品質管理されていて、およそ作画が崩れている箇所が見当たらず、戦闘シーンはもちろん日常の動作で驚くほど凝った作画が行われている。
ようやく観始めた。
観始めた理由は「アウラ、○○だ」などフリーレンのミームを見る機会が増えてきて、このままだと話についていけないという危機感を覚えたから。
3話までだが、今のところまだ面白くない。
弟子の女の子が「16歳になりました」と言ったあとで弟子のバストがアップになり、フリーレンが自分の貧乳を気にするシーンと、村のクソガキがスカートめくりするシーン。ああ、週刊少年サンデーだな……変わってないな、平成から……と思った。
フリーレンは頭が良いはずなのに人の策略とか心の機微が一切分からなかったり、たまにドジっ子なところを見せる。可愛いでしょこの女の子たち!どうぞ二人に萌え萌えしてくださいよ!さあ!!って感じが伝わってくる。
二人をとくに可愛いと思えなかったりすると十分には楽しめないかもしれない。というか現に私が楽しめてない。
孤高っぽくて優秀っぽいけど人の機微に疎いフリーレンって人付き合いの苦手なオタク男子が自己投影しやすそうなキャラだなって感じる。
アニメーションは安定していて非常に美しい。
今のところは深い心理描写もないし、かわいい女の子たちの旅に萌え萌え〜!できる人じゃないとそこまで楽しめる作品じゃないのではという感想。
これから観続けたら感想も変わるかもしれないし、話題作なのでとりあえず視聴続行。
面白いと思えないので視聴に集中もできないし正直つらいが、我慢して観る。
【追記】
最新話(12話)まで観終わった。
結論から言うと、8話から面白く感じ始めて、そこから観るのが苦痛じゃなくなった。特に8〜10話が良かった。
何が良かったかというと、7話から登場した魔族が本格的な活躍を始めるのが8話からで、「純粋な悪」という要素が加わったことで作品全体に締まりが出たからだと思う。
「アウラ、○○しろ」の元ネタがようやく分かったので安心したし、個人的には面白く感じられるようになるまで我慢して観て良かった。
観始めた当初に感じていた萌え要素は登場人物が増えるに従って薄れていったので、ブコメの反応も最もだなと思い、ちょっと反省した。
6、7年前のこと。
当時、私は大学を1年休学し、アルバイトで貯金を貯めては発展途上国に旅に出るという生活を送っていた。
いわゆるバックパッカーという奴で、当時はうだつの上がらない大学生を中心にとても流行っていた。
国民からの支持も厚きプミポン国王陛下(大変偉大だった。名前の響きも良い)がまだご存命であらせられた頃の微笑みの国で、途上国と言っても過ごしやすい場所だった。
主な活動拠点であった首都バンコクにはそこら中にコンビニがあるし、バンコクでなくても観光地ならそこら中にコンビニがあった。
短距離の移動も楽で、自動車やバイクやトゥクトゥクなんかのタクシーが車道を(適宜信号を無視しながら)縦横無尽に行き交っていた。
足に自信があればレンタル自転車でも移動できたし、自信がなくてもレンタルエレファントに騎乗することによってなんか自分がとても偉くなった気分にもなれた。
だが、長距離の移動は辛かった。
何十キロも移動する場合、貧乏学生に与えられた選択肢は乗合バスか国有鉄道の2択になる。
私はこの1年後、南国フィジーで偶然出会った黒人と雰囲気でビガップするまで乗合バスというものを食わず嫌いしていたのでタイで乗ったことはない。乗り込んだら最後、ギャングが鮨詰めになったファベーラっぽい場所に連れて行かれるような気がしていたからだ。
なので国有鉄道ばっかり乗っていた。
国有鉄道は大変安価で、バンコクから国中に放射状に線路が伸びていたっぽい。バンコクのなんか名前の長い駅からどこへでも行けるし、どこからでもバンコクに戻れた。
だだ、乗り心地は酷かった。
座面も背もたれも材質不明の硬い何か(プラスチックっぽい)で長時間乗るとケツが割れる。
窓はいつも半開きなくせになぜか換気能力が低く、どの車両に乗っても独特の臭いがした。しかもこの窓は出入り口でもあった。車両が駅に停車すると野生の物売りたちが華麗な身のこなしで窓から乗り込んでくるのだ。なので泥とか砂とかがいろんなとこについてた。
最も難儀したのは、夕方夜にかけて、バンコクから地方に向かう鉄道の車内である。
一つ考えてほしい。我々日本人は、夜にへとへとで電車に乗りこんだものの、座席が空いていなかったらどうする? 観念して空いている場所に立つか、次の電車を待つかするだろう。
タイの疲れた人々はどうだろうか。そんな非効率的なことはしない。
何故なら、電車には床があるのだ。そして疲れているのだ。疲れている人は、座るか、寝るのだ。
そう、電車の床に座って、寝るのである。それも、スペースがあればあらゆる場所に。
座席の肘置きはもちろん、座席の下に潜り込んで疲れを誤魔化す。始発のバンコクならまだスペースに余りもあるが、途中の街から乗り込もうものなら、扉をあければもうみっちみちである。
しかも、地方に行くほど駅が減る。1時間停車しないということもあった。つまり、長時間、めちゃ揺れる車内に、みちみち。
私はその日の夕方、とある観光地から別の観光地に向かう鉄道に乗り込んだ。そして、普通に行き先を間違えた。
動揺を押し隠して途中下車し、優しい駅員の指示のもと折り返しの電車を待った。折り返しの電車が来るころには、空は暗く、月が輝いていた。
やたら笑顔の駅員にはにかみながら、私はやってきた車両に乗り込んだ。
扉を開けると、わぁ……人がみっしりしていたぁ……。
足の踏む場もないほどの人の密集具合に、育ちのいい小学生ほどもあるバカみたいにでかいリュックを背負っていた私は、車両にいることさえ不可能なのではないか思った。
行き場所を失い、半分外みたいな場所に追いやられた私は、そこが電車の連結部であることに気づいた。(賢いので)
日本の電車の連結部は大抵、人間がおっこちて線路脇のゴミにならないように何かしらで覆われている。だがその車両は違った。
連結部の左右は吹き抜けで、端的に言うとめちゃくちゃ危なかった。
だが、私の居場所はそこにしかなかった。私は肩の荷を慎重に下ろし、それに腰掛ける形で車両入り口の扉に向かい合った。バランスを崩すとそのまま車両から脱落する可能性が大いにあったので、足を広く開き、腕は胸の前で組んだ。RPGのボスみたいな座り方だな、と思った。
それからしばらく、私は連結部の主だった。
どれぐらい動的不動の時間が過ぎたか、12、3歳の少年が、扉を開いて入ってきた。
続きはまた今度書く。
さて、続き。
少年の年齢は私の推測である。見慣れた日本人ならともかく、他人種の正確な年齢など私にとっては一目見て分かるものではない。
ただ、少年は成人男性の顎ぐらいの身長でスポーツ刈りだった。よれよれのシャツを着て、よれよれのズボンを履いていた。
少し話は逸れるが、私がタイを訪れ、タイ人と出会って抱いた強い印象の中に『なんか目がキラキラしている』というのがある。これは漫画的な表現ではあるけれど、これが一番適切な表現だと信じている。涙袋のせいだとか二重がどうこうといった美容的なことは知らないので詳しくはわからないが、タイ人の多くはどことなく目が大きく、それでいて黒目が抱き込んでいる光がたくさんあるように見えたのだ。今昔の写真で見返すとそんな風にも感じないのが不思議だが、とにかく、当時の印象としては、大人から子供まで、とにかくキラキラした瞳を持った人間が多く、特に子供たちはだいたいキラッキラだった。屈託のないとか、卑屈な感じじゃないとか(実態はともあれ)そんな感じだったのだ。ちなみに、現地でインド人もたくさん会ったが(外人にスーツを仕立てさせる押し売りが流行ってたっぽい)特にそんな印象はなかった。
さて、話を戻すと、その少年もまた瞳がキラキラしていた。表情は特に無かったと思う。連結部は車両の光で明るく、顔はよく見えたはずなのだが、今思い出せるのは瞳の印象だけである。
少年は私を見ると、なんか言った。タイ語は全くわからなかったので、私は唯一知っているタイ語で挨拶をした。
「サワディカ」どこでも使えて便利な挨拶だった。
すると少年は少し笑って、挨拶を返してくれた。浮かれた様子はまったく無かったので、彼にとっては電車の連結部で見知らぬ外国人がふんぞり返ってる状況など慣れたものだったのかもしれない。
私は気が楽になって、アイフォン(当時はオンボロの5を使っていた)を取り出してイヤフォンを耳に入れると、昨日ホテルのWi-Fiでダウンロードしていたアニメを見始めた。
画面に青白い顔でピンク色の制服を着た女子高生がウロウロしたり電気をつけたりするオープニングが流れ出すと、少年が近づいてきてそれを覗き込んだ。
私は少年の顔を見た。少年は、驚きとか、興奮とかそういう表情を浮かべてはいなかった。ただ、じっとアニメーションを見ていた。私は途中からイヤフォンのコードを抜いて、音量をあげた。
そのオープニングが終わると、別のアニメのオープニングを流した。それから、アイフォンに入れていた日本のアーティストのMVや、ディズニー映画のミュージカルシーンなんかをいくつか再生した。
私は映像を流し見しながら、少年を見た。少年はだいぶ負担のかかりそうな首の角度で、画面を凝視していた。
海外の反応集みたいな大きな反応を期待したが、そういうものはなかった。だが、私には分かるような気がしていた。幼い頃、実家で兄が怪物と戦うゲームを遊んでいた時、たぶん私もこんな風に画面を凝視していた気がする。
しばらくして、私は再生するのをやめて、アイフォンをしまおうとした。少年に見えるように持っているのが普通にしんどかったからである。
すると、少年がなにやらそれを止めた。
まだ何かが見たいのかと思ったが、どうやらそれも違う。自分の写真を撮ってほしいということを身振りやら表情で伝えてきた。
そんなことならとカメラを向けると、少年はポケットから小さな箱を取り出した。
それはたばこだった。
真っ黒な内蔵の写真が雑にプリントされた、やたらグロテスクなパッケージのタバコである。当時、タイのたばこは全て買う気が失せるようなパッケージをしていた。(今もかもしれない)
私は少しだけ衝撃を受けた。少年は明らかにタバコを吸っていい年齢ではない。タイではそういうものなのかもと思ったが、そんなわけないなとすぐに思い直した。
が、一介の腐れ大学生で、この国のことを何も知らない観光客である私には、目の前の未成年喫煙を止めるような義務も、権利もない。
少年は慣れた手つきでたばこを取り出すと火をつけて、口元に持っていって、動きを止めた。
どうやらポーズが決まったらしい。私は写真を撮り、それを見せた。
少年は素人のブレブレで光の加減も適当な写真を見て、口の片方だけを上げるやたらニヒルな笑い方をした。私も真似した。
それが気に入ったのか、少年は私にタバコの箱を差し出した。吸うか? ということらしい。
私は普段タバコを吸わない上に、未成年からこんなものを勧められるとは、などと色々と迷ったが、こんな経験も貴重だろうと一本いただいた。
少年にライターを借り、私はタバコに火をつけた。そして一口吸った。普通の煙たいタバコだった。
私と少年は少しの間、揺れる車両の連結部で煙をふかした。吐いた煙もタバコの先から出る副流煙も、すぐに飛ばされていった。
少年は私がたばこを吸い終わるのを待って、吸い殻を引き取ってくれた。そして、車両の外に放った。私はポイ捨てとかが嫌いな人間だったが、それをここで誇示してもしょうがないなと思ったのを覚えている。
私は車両に戻ろうとする少年の肩を少し叩いて、アイフォンの内カメラを見せた。一緒に写真を撮ろうという意思表示である。
少年は少し照れくさそうにしていたが、写真を撮る瞬間だけ何故かすごいハードボイルドな顔をしていた。たばこを吸っている写真を撮らせたり、なにかそういうのが流行っていたのかもしれない。
私は車両連結部の主に戻った。
私は時折車両の揺れによって荷物経由でケツを叩かれてバウンドしながら、ぼんやりと思った。
この電車は、私が乗り込んだ駅から、まだどこにも停車していない。私が乗り込んだ駅にはあの少年はいなかった。つまり、彼はどこか遠くからずっとこの電車に乗っているのだ。連結部で少しの時間を過ごしたが、親や兄弟と思しき誰かが様子を見に来ることも無かった。時刻はとっくに夜だった。平日だった。少年の様子は、何も特別なものではなかった。
あの子は家から離れた場所に働きに出ているのだろう。と結論づけた。
翻って白状すると、私は就職活動から逃げるためにバックパッカーをしていた。
ただし、当時の私は反省などしなかった。今もしていない。自分がやっていることは間違いじゃないし、こういうことしていたからこういう経験ができたわけだし。
だが、瞳だけはキラキラで、貧乏な風体の、サラリーマンみたいな貫禄の少年に、思うところがないわけでは無かった。
少年と自分を比較して、自分の子供時代を評価していたことにも気づいた。
意味のないことをした。と思ったと同時に、何かとても価値のあるイベントに参加したような気もした。
それから、電車はいくつかの停車地を経て、私を目的地へと運んだ。
電車を降りる時、さりげなく少年を探したが、彼は見当たらなかった。
私は何故かさらに少しだけ気分が良くなり、意気揚々と宿を探すことにした。
宿を探すのにはさらに1時間近くかかり、しかも宿のベッドで南京虫と格闘することになったため、私は激怒した。
結局、特に何かを伝えたい話ではない。
これは常駐している増田に対してマジで言いたいんだけど、大切にされるのはお金を稼ぐ能力や人目を引く能力があるからではなく、
"そのままで価値がある"と思ってくれる両親や家族や仲間がいて健全な自尊心と自己肯定感があったり、
生まれつき自己肯定感クソ高いのに加えてサバイバーで日常的に小さな成功を積み重ねてきたからだ
増田が親ガチャ・環境ガチャ外れてたり、日常的に小さな成功を積み重ねて来られなかったなら、
自己肯定するのは難しいし、何かをするときに、褒められたい・注目を浴びたいが動機になりがちだと思うが、
不健全だからなんとか意識して変えていったほうがいいぞ。あと積み重ねないとダメ(anond:20231117105620)なのはやっぱそう
『創作活動は自己満足で楽しむものであるべきです。他人からの評価よりも自己成長や楽しみを優先することは、創造的な活動において健康的でサスティナブルなアプローチです。それでも、誰かに褒められて前向きな一歩を踏み出したいと強く考えている場合は、AIを使ってアニメーションを作成してみるのも良いアイデアだと思っています。新しいスキルを学び、他人と共有する機会を得ることが出来ます
>増田の行動原理がスゲーと思われたいなら、AIでアニメーション作るのとかまぁまぁスゲーポイント高いと思います
一例
画像生成AIで動作含めアニメの中割り画像を作る方法を発見したので、その方法を実行するWebサービスを作りましたわ(ゆいもっぷ動画付き)(皆様にもお使い頂けますわ)| qiita
あと、容姿という能力に恵まれて注目を集める能力が実際に高くても自己肯定感が低いとこうなります
学歴コンプと同じで外見コンプの人は胸に刻んで欲しいんですけどね
美女・イケメン・かわいいだったら人生無敵?自己肯定感モリモリ?
ンなわけね~~~~~~~~~~~~のです
具体的にはコンカフェや水商売やエロ撮影&販売やアプリで立ちんぼ始めます
DV野郎となぜか付き合ったり、まさかのお手当や仕事の口利き無しで不毛な不倫・セフレもします
性の安売りしてない人は何をしてるのかというとフツーに会社員として働いてます
見目が良い人に対しては甘い人がやたら多いので、あからさまに能力が足りなくても面接まで辿り着ければまず落ちませんし、
血迷って技術畑に来るとひたすらに迷惑な人だけど、営業畑であれば若い間はある一定の成績は確実に出せます
自分を養ってくれる理解ある彼女ちゃん彼くんだって職場や取引先で見つかるかも知れません
わざわざ自尊心すり減らして性を安く売る必要性は微塵もないわけです
なんだよ、親ガチャ・環境ガチャが大ハズレじゃないなら結局イージーじゃんってなるかもだけど、
これも学歴・・・というかペーパーだけ得意なポンコツで、就活失敗したり、大企業入った後に落ちこぼれる人と同じ話なんですよね
自転車があれば自転車を使うし、車があれば車を使うし、みんな持っているものを使って楽をする、
楽をした分は負荷が掛からず能力が発達しないので、最終的にはそれ相応の結果に落ち着きます
具体的には、アラサーあたりから極端なバカのフォローは誰もしなくなる
そうするとバカだけど素直なバカであったイケメン・美女が、だんだん尖ったり・険のある感じになったり
いい年こいて美意識マウントだけしている謎のパート(派遣)さんみたいになる
どーでもいいことには気にしないことです
↓これに関連してだが、
https://anond.hatelabo.jp/20231115100011
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%AD%E3%83%86%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC
※「ゼロテスターとは生命維持度ゼロの限界に挑戦し地球の明日を切り拓いていく勇気と希望と友情にあふれる3人の若者たちのことである」(番組オープニングアニメーションのナレーション)