はてなキーワード: アナロジーとは
大学で研究者をやっているが、声高に「東京オリンピックを中止にしてくれ!」と言いづらい弱みがある。
2021年夏に強行開催されそうな東京オリンピックについて、国民の大半はそっぽを向くか諦めの境地に達し、海外からはCOVID-19に関連した大きな健康リスクを指摘されている。それにもかかわらず、日本の政府、財政会、大企業、マスメディアは、オリンピックを名目にしてどれだけ甘い汁を吸うかしか頭にないようで、ろくなCOVID-19対策を計画することも透明で開かれた議論をすることもなく、自分たちは安全な高みに身を置いて、無謀な開催に向けて国全体を追いやっているように見える。
COVID-19ワクチンの確保や接種にも大きく遅れを取っている日本がこの夏にオリンピックを開催することなど、あまりに現実離れしているように思える。私個人としては、スポーツは好きで自分でたしなんだりもするが、このような状況ではオリンピックなど中止にしてほしいと思う。しかし、大学で研究者として仕事をしている身からすると、そう簡単に中止を訴えられない弱みがある。
その弱みは、スポーツも大学で行なわれる研究も、その資金の多くが税金でまかなわれており、産業に直結したわかりやすい有用性を即座に示しづらいという共通点に由来する。多くの税金を現在進行系で喰い潰しているスポーツの祭典オリンピックを中止せよと主張することは、この非常事態にCOVID-19に関連しない「役に立たない」研究には税金を投入するのをやめよといった主張と地続きである。人びとの声や政府がスポーツにおける資金の流れを意図的にコントロールしはじめたら、次に、その矛先は基礎研究や芸術などにも向くことだろう。
このアナロジーでいくと、選手にオリンピック開催の中止を訴えてもらうことが筋違いであることもわかる。選手たちはオリンピックを始めとする大会があるおかげで活動を続け生活費を稼ぐことができる。たとえ大会の理念が歪められ利権にまみれていても、現場のいち個人の力でシステムを変えることができない以上、スポーツ界全体を危険にさらし得るオリンピック批判をおいそれと口に出すことはできない。研究界だって同じようなものだ。ムーンショット型研究開発制度のようなばかげたプロジェクトに年間数百億円もの資金が使われているが、十分な説明や一般の理解なしにそうしたプロジェクトの批判をすれば、運営交付金や基盤研究のような比較的広く浅く交付される研究費まで減額されたり廃止されたりしかねない。
もちろん、IOCの主導するオリンピックがスポーツ界のなかでも例外的な悪玉であることは多くの人が認識するようになったことだと思う。商業主義が席巻し、利権と私欲にまみれ、もともとの理念すら失ってしまった醜い怪物。そうしたオリンピックはやはり例外であって、オリンピックを非難することは、スポーツ全般やひいては研究への資金の流れを制限することには必ずしもつながらないと楽観視することもできるかもしれない。しかし、欺瞞に満ちた前・現政権の態度を見ていると、政府のほうが積極的にそうした「読み違い」を演じて、オリンピックに対して叫ばれる中止の声をわざと曲解し、今後、スポーツや研究への支配を強めてくる恐れが大いにあるように思えてしまうのだった。(日本学術会議の件を思い出してほしい)
税金で大部分が運用されている点でスポーツ界と研究業界の構造が類似しているため、下手にオリンピック中止を叫ぶと、あらぬところに飛び火させられて、国から交付される研究費を減額されたり停止されたりするのではないか。そうした恐れから、正当な主張が声高にできなくなっている研究者は多いのではないかと思う。また、大学の研究業界に限らず、そうした恐れのあてはまる業界はほかにもたくさんあるだろう。
何か既視感があると思ったが、「宮崎勤事件とオタク叩き」だった。古すぎる話で悪いが。
その事件からのアナロジーで言えば、「得体のしれない存在」だからレッテル貼りが起こる、ということなんだと思う。
宮崎勤の部屋の床を埋め尽くす大量のビデオの映像が強烈で、「こんな異常な趣味の人間の思考回路がわからない」という反応が起こり、その後オタク叩きが始まった。
当時「オタク」は今と比べて全く市民権がなく、コミュニケーションをとろうとしない得体のしれない奴らだった。
人は得体の知れないものに自然と恐怖心を持つ。排斥されるのは当然といえば当然の反応だったのかもしれない。
ということで、弱者男性も「得体の知れない」存在を脱するために、何かアクション起こす必要があるんじゃないのかと思うが、どうでしょう。
増田に書き込んでても埒が明かないよね。
オタクが市民権を得るうえでは何がよかったのかなぁ。すごい長い時間かかったと思うけど。
例えば、岡田斗司夫みたいに名前を出して主張することなのかな。
ただ、オタクの例と根本的に違うのは、オタクは「趣味」の話であって、弱者男性は「社会問題」の話なので、「いいね」と共感してもらって同じ趣味の人口を増やすっていう話じゃない。
「救済されるべき社会問題を解消してきた例」を探すとすると、「LGBT」とか「ハンセン病」の方が近いか。
これも誤解による差別を晴らすのに長いことかかった例だが。
そっちの例で言っても、「得体の知れない」状態から脱却するためには、誰か実名で困難さをアピールするしかないような気がするね。
https://anond.hatelabo.jp/20210315160051 を受けて。
福島以前の原発事故リスクについての議論と同様に、コロナワクチンの長期リスクについて、感情論で議論にフタがされすぎではないかという点について。
しかし、日本の環境(地震と津波)に合わせた災害対策は十分に行われなかった(「地震と津波が同時に来ることは想定していなかった」)。
電力会社等の専門家には、利害関係から、リスクを十分に調査する動機づけがなかった(リスクが見つかれば原発が止まり、採算が取れない)。
福島以前に、「原発には本当にリスクがないのか」という問題提起をすれば、下記のような議論が行われていた。
このため、「原発には本当にリスクがないのか」という問題提起は論点がズラされ、日本国民は、「原発の災害対策が不十分である」という本質にたどり着くことができなかった。
原発が安全神話化された結果、地震と津波により、原発事故が起きた。
専門家会議は、ワクチンの長期リスクを判断するように求められるが、当然、長期の治験実験をやる時間はない。
専門家会議は、おそらくあっても僅かであろう長期リスクには目を瞑り、「コロナワクチンは安全である」と発表する(させられる)。
結果、長期リスクや、ワクチン流通のオペレーションミスについての議論にはフタがされ、リスクの徴候は見過ごされる。
可能であったはずのリスク管理がなされず、大規模な事故が起きる。
「コロナワクチンには長期リスクがないのか」という問題提起をすれば、下記のような議論が行われる。
コロナワクチンは安全神話化され、必要なリスク対処ができず、事故が起きる。
つまり、専門家だからといって、利害関係者が意思決定を行ってしまっために、リスクが見過ごされた。
実際、事故の反省として、原子力規制委員会が経産省から分離・設立された。
アナロジーで考えるなら、日本国民は、まず、コロナワクチンのリスク評価が行われている意思決定過程を改良するべきだ。
現在の組織構成では、専門家会議が、その内部で、集団免疫獲得と経済活動再開の両方のバランスをとりながら意思決定を行っている。
妙な話だが、コロナワクチンのリスクを可能な限り科学的に評価すべき組織が、同時に、日本の経済活動再開の責任も担っている。
経済活動再開を停止することは目に見える損失であるため、経済活動再開ありきで、コロナワクチンのリスクを過小評価した意思決定に陥りやすい。
例えば、コロナワクチン政策に対する批判的な立場の責任組織を作り、専門家会議との議論を国民に公開することで、真のリスクに対処し、事故を防ぐことができるのではないか。
当時高校生だった私は3.11のその年に福島県の大学(会津大学)に入学しました。あれから10年も経ってしまったので、私のごくプライベートなことについて書きます。
2011年の3月11日に、私は茨城県の博物館の中にいた。高校の卒業式が終わって、車の免許を早々にとったらしい友人と二人、車で博物館にきていた。地震のとき、私は吹き抜けの空間の中心にいて、長い振動の間、博物館全体のガラスは轟々と鳴り響いていて、「ああ、私は、今日が命日なのだなぁ」と人々の動揺の中、思った。
実際にはガラスの耐震性能が高かったので、館内にはけが人はいなかったようだった。
信号機の止まっている、徐々に昏れていく道を、車中でほとんど会話もなく急いで帰った。急いで帰ったけれど、通常の2倍以上もかかって家についた。
私は地震の直後、2ちゃんねるに張り付いていた。「福島の原発がやばいらしい」そんな書き込みを見て、いよいよ日本は終わったんだ、と私は思った。
私が高校生の頃、世界の原発事故のドキュメンタリーが大好きだった。チェルノブイリ、スリーマイル島、東海村。「原子力」という尋常ではないエネルギーが生身の社会に取り込まれて、人間の内側におとずれるということに私はなんとも言えないグロテスクさを感じて、親や友達に気持ち悪がられながらも読んでいたのだった。
当時、特にJCOの臨界事故のNHKのドキュメンタリーは何度も読み返したものだった。事故が起きた時、「出奔した原子力」に対しての(政治的・肉体的・精神的)人間の無力さ、弱さのコントラストがあまりにもどぎつく、生々しく顕れていたからだった。
私は地震が起きて、一、二日後にはリビングのこたつを占拠して、こたつのど真ん中にデスクトップPCを置いて、情報官気取りで気象シミュレーションをみたりしていた。そして、家族にも協力してもらい家中のシャッターを閉めた。それくらい、当時私は怖かったのだと思う。
私は震災の年、福島県の大学に入学した。私の地元の同級生にも福島県の大学に入学する予定だった子がいたが、辞退したらしかった。大学の入学式は遅れて執り行われた。ガイガーカウンターを買った方がいいかな、とか、「あそこには近づかない方がいい」とまことしやかな噂を聞いては少し怖いな、という思いが常に頭にあった。
しかし、入学してみると、その話はなんとなくしてはいけない話に思えてきたのだった。それはその土地に長く住んでいて動くことができない人たちには、惨い話であるからである。私もいつの間にか、放射線の話はしてはいけない気がして、話題にするのをやめた。すると、怖いという感情もいつの間にか薄れていった。
しかし、時々、放射能汚染される夢を見ていた。これはつい福島県を離れる少し前まで見ていたのだった。
私の当時住んでいたアパートには窓の近くにベッドがあって、その窓の外には何年も取り込み忘れたバスマットが干してあった。私の覚えている夢では、実はそのバスマットは大気中のチリや雨に放射性物質がたっぷり含まれていて、そのバスマットの線量が高くて、実は私の身体が蝕まれていて……という夢であった。何年もそのバスマットを干しっぱなしにしてしまったのは、もしかしたら、そういうことに対する無意識的な恐れから触りたくなかったのかもしれない。
私は、大学で特にパッとした研究もできないでいるのに何年も何年も大学にいた。でもそれが良かったのかもしれない、と今では思う。福島県という土地に「土着」して、私なりの感覚で放射能の感じ、特にその怖い感じの中に居たということが。
私はもともと怖い思想の持ち主だと思う。正しいと思ったら、それに突き進んでしまう。人の感情も、中学生くらいから読まないように生きてきてしまったため、無視する癖がついてしまっている。だから、原子力という「科学技術がコントロールから外れた状態」の中に当事者として生きた、というのは私が、私の歴史にとって重要なことなのである。もちろん、日本にいたら誰だって当事者なのだが、私は福島県に住まわず当事者と思えるほど賢くない。
3.11から10年が経って、私は福島県から遠い場所に住んでいる。今は遠くから考えることしかできない。
最近、原子力、ひいては(科学)技術についての論考を読んでいる。1950年台、まだラジオな世の中で、近未来的なもの、技術とか科学が大きな期待を背負っていて、すごくキラキラしていたであろう時代、人々は核の技術に対して、今でこそ信じがたいが「核兵器の利用は良くないが、核の平和的利用こそ人類の幸福につながる」と本気で思っていたようなのだ。多分、今でいうところの、テレビのCMでIT系の企業がたくさん広告を打っていて、ITの企業に勤めていることが一種のステータス(少女漫画に出てくる男性がIT企業勤め!)になっていて、AIすごい!VRすごい!仮想通貨すごい!IoTすごい!みたいなイケイケドンドンな感じだったのだろうと思う。そんな時代、「核兵器はまだ可愛いもので、核の平和利用こそ恐ろしい」と指摘した人、ハイデガーがいた。今でなら、「AI, VR, 仮想通貨,IoTで大量殺戮するのはまだ良いことで、それらの平和利用こそ恐ろしい」と言うのと同じことなのである。今でなら炎上やむなし発言なのである!しかし、このアナロジーを単なる面白おかしいアナロジーとしてだけで捉えていいか。彼は世の中の潮流とは全く違う発想を省察によってしたからこそ、核の平和利用の危険性をかなり早く認識できた。
ハイデガーは「技術」について『放下』の中で、(科学)技術に対して「その価値を認めつつ、それに対して否、と言う」 ―ーこの本のタイトルにもなっている、「放下」という態度が大事なのではないか、と言っているらしい。(まだ『放下』は直接読めていないので、「らしい」でごめんなさい。)
そして、彼は思考について、「計算する思考」と「省察する思考」とに分けて考えており、彼は「科学は考えない("Wissenschaft denkt nicht")」、科学は計算する思考であって省察ではない=「考えていない」、というしかたで核の平和利用について否、と言ってみせた。
「科学は考えない」
これは、理系の立場で仕事している者にとっては「耳が痛い」ことなのではないか。しかし、耳が痛いからこそ考える価値があるのではないか。
彼の言っていることを私は理解できる気がするのだ。科学は進歩的に進んでいく。その「ひたむきに進んでいく」ということが「科学は考えない」と彼が言う理由なのではないかと私は思う。何か、ある方向に、引っ張られるように「進んでいく」。立ち止まる者は厄介者として排除される(Publish or Perish)。ハイデガーは技術を批判するだけではない。もちろん価値を認めつつ否定するという態度を彼は実践している。私も技術がなくなったら困る。方向音痴の私はGPSが無くなったら、地図が無くなってしまったら、とても狭い世界を生きることになってしまう。だから難しい、ある意味、矛盾の中を生きなければならない。
私は、実は博士過程を休学した。プライベートも荒れてしまったし、閉塞感でいやだったし、どうしても、論文が書けなかったのだ。
私は小さい頃から哲学が好きだったらしい。「最近、哲学系の本を読んでいるよ」と昔の友人たちにいうと、みんな「よく哲学的な話してたもんね」と言ってくる。
でも、私が文系に進学しなかった理由が、「確かなものが何もないと怖い」という恐れからであったし、国語がとても成績が悪いし、理系ってなんかかっこいいとか思ってたのもあって、ずっと理系の研究室で研究していて、哲学とか諸々の教養がほとんどないのだ。
「哲学を最近やってる」と言うと大半の人に苦い顔をされる感じがする。「中二病が抜け切っていないな、こいつ」と言いたげなそんな感じ(笑)。おそらくそれは哲学に「生産を止める」作用があるからなのではないだろうか。無意味で、ある意味破壊的な作用が。
以前、こんなことがあった。課外活動で何人かで集まってスマホアプリを作ろう、となったときに、誰かが「xxさん(有識者らしい)から教えてもらった方法で、xxという仕方でブレーンストーミングすると良いらしい」と言った。私は「なんでその方法でなければならないの?」と、ある意味チームの士気を下げるようなことを言ってしまったのだ。こういう「そもそも論」(哲学)というのは「生産を止めてしまう」。イヤな感じに水を差す。だから疎まれる。
しかし「生産を止める」という行為が実は重要なのではないか。世の中的に、「生産的=いいこと」という認識がある。生産を止め続けないことがそれほどいいことなのだろうか。これこそが、ハイデガーが批判するところの「考えない」態度ではないか。「より幸せに、より便利に」を目指すために科学や技術を信じて、生産、生産、生産、とひたむきに努力してきた末の原発事故ではないか。
昔の時代、原子力は「兵器として利用されることはとてもよくないことであるが、平和的に利用するならむしろ幸福に導く」と信じられていた。
今の時代も同様に、情報技術や生命科学が「非倫理的に利用されるのはとてもよくないことであるが、平和的に利用するならむしろ幸福に導く」と信じられている。「再生可能エネルギーでなら、持続可能な社会が実現できる」とも信じられている。
もし、「なぜ地震大国に原発つくったらヤバイという今ではあたりまえの認識を持てず、当時誰も水を差す人がいなかったのだろう?」と考える人がいるならば、なぜ、現代においてもその人が水を差す人にならないのかが不思議なのである。だから、私はあえてこうして水を差す、ということをしてみたい。
ということで、私の全然論文を書けていない「生産しなかった」大学時代も、この哲学的態度の実践とみなしてこの文章を締めくくることにする。
例の文章を読んで、細かい点かもしれないが、どうしても気になったことがあるので書く。
トーン・ポリシングと言われたら困るので最初に書いておくが、ハラスメントの告発に横槍を入れるつもりは毛頭ない。
むしろ逆に、あの文章の本旨であるハラスメントの告発ではなく、いわゆる「不倫」に関する問題がクローズアップされることを恐れるがゆえに、次のことを指摘しておきたい。
「立場の不均衡」や「非対称性」といった語は、パワハラの背景を説明する用語として一般的に用いられているはずだ。
しかし、ハラスメントを告発する目的で書かれたあの文章では、「不倫」における既婚者と未婚者の関係にもこれらの語が用いられている。
これでは文脈的に、「不倫」における既婚者と未婚者の関係を、ハラスメントの加害者と被害者の関係に類比的なものとして捉えるアナロジーが成立してしまう。
つまりあの文章では、ハラスメントを告発するための論拠である「立場の不均衡」や「非対称性」といった語を、「不倫」という別の事柄を捉えるために「転用」してしまっていることで、文章としてハラスメントと「不倫」の問題が混同され、結果としてハラスメントを告発する意図が弱まっている印象を受けるのだ。
たとえこの事案においてハラスメントと「不倫」が複合体をなしていようと、あくまでハラスメントはハラスメントであり、「不倫」は「不倫」である。
ハラスメントを批判するには、両者は峻別されなければなるまい。
ハラスメントと「不倫」が混同されてしまうのは、ハラスメントを告発する当事者にとっても本意ではなかろうと思って、書いてみた。
Amazonのレビューなどに書くと過去のレビューから身バレする可能性があるのと、わざわざ別アカウントを作ってまで批評するほどのものではないと思ったので、こちらに書きます。
初めに断っておきますが、本稿は別に加藤文元先生の人格や業績などを否定しているわけではありません。また、IUT理論やその研究者に対する批判でもありません。「IUT理論が間違っている」とか「望月論文の査読体制に問題がある」などと言う話と本稿は全く無関係です。単純にこの本に対する感想でしかありません。
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加藤文元先生の「宇宙と宇宙をつなぐ数学 - IUT理論の衝撃」を読みました。結論から言って、読む価値の無い本でした。その理由は、
「ほとんど内容がない」
本書は、RIMS(京都大学数理解析研究所)の望月新一教授が発表した数学の理論である、IUT理論(宇宙際タイヒミューラー理論)の一般向けの解説書です。
1~3章では、数学の研究活動一般の説明や、著者と望月教授の交流の話をし、それを踏まえて、IUT理論が画期的であること、またそれ故に多くの数学者には容易には受け入れられないことなどを説明しています。
4~7章では、IUT理論の基本理念(だと著者が考えているアイデア)を説明しています。技術的な詳細には立ち入らず、アイデアを象徴する用語やフレーズを多用し、それに対する概念的な説明や喩えを与えています。
まず、数学科の学部3年生以上の予備知識がある人は、8章だけ読めばいいです。1~7章を読んで得られるものはありません。これはつまり「本書の大部分は、IUT理論と本質的に関係ない」ということです。これについては後述します。
1~3章は、論文が受理されるまでの流れなどの一般向けに興味深そうな内容もありましたが、本質的には「言い訳」をしているだけです。
などの言い訳が繰り返し述べられているだけであり、前述の論文発表の流れなどもその補足のために書かれているに過ぎません。こういうことは、数学者コミュニティの中でIUT理論に懐疑的な人達に説明すればいい話であって、一般人に長々と説明するような内容ではないと思います。もっとも、著者が一般大衆も含めほとんどの人がIUT理論に懐疑的であると認識して本書を書いたのなら話は別ですが。
4~7章は、「足し算と掛け算の『正則構造』を分離する」とか「複数の『舞台』の間で対称性通信を行う」などの抽象的なフレーズが繰り返し出てくるだけで、それ自体の内容は実質的に説明されていません。
のように、そこに出てくる「用語」にごく初等的な喩えを与えているだけであり、それが理論の中で具体的にどう用いられるのかは全く分かりません(これに関して何が問題なのかは後述します)。そもそも、本書を手に取るような人、特に1~3章の背景に共感できるような人は、ここに書いてあるようなことは既に理解しているのではないでしょうか。特に6~7章などは、多くのページを費やしているわりに、数学書に換算して1~2ページ程度の内容しか無く(誇張ではなく)、極めて退屈でした。
8章はIUT理論の解説ですが、前章までに述べたことを形式的につなぎ合わせただけで、実質的な内容はありません。つまり、既に述べたことを並べて再掲して「こういう順番で議論が進みます」と言っているだけであり、ほとんど新しい情報は出て来ません。この章で新しく出てくる、あるいはより詳しく解説される部分にしても、
複数の数学の舞台で対称性通信をすることで、「N logΘ ≦ log(q) + c」という不等式が示されます。Θやqの意味は分からなくてもいいです。
今まで述べたことは局所的な話です。局所的な結果を束ねて大域的な結果にする必要があります。しかし、これ以上は技術的になるので説明できません。
のような調子で話が進みます。いくら専門書ではないとはいえ、これが許されるなら何書いてもいいってことにならないでしょうか。力学の解説書で「F = maという式が成り立ちます。Fやmなどの意味は分からなくていいです」と言っているようなものだと思います。
本書の最大の問題点は、「本書の大部分がIUT理論と本質的に関係ない」ということです(少なくとも、私にはそうとしか思えません)。もちろん、どちらも「数学である」という程度の意味では関係がありますが、それだけなのです。これがどういうことか、少し説明します。
たとえば、日本には「類体論」の一般向けの解説書がたくさんあります。そして、そのほとんどの本には、たとえば
奇素数pに対して、√pは三角関数の特殊値の和で表される。(たとえば、√5 = cos(2π/5) - cos(4π/5) - cos(6π/5) + cos(8π/5)、√7 = sin(2π/7) + sin(4π/7) - sin(6π/7) + sin(8π/7) - sin(10π/7) - sin(12π/7))
4で割って1あまる素数pは、p = x^2 + y^2の形に表される。(たとえば、5 = 1^2 + 2^2、13 = 2^2 + 3^2)
のような例が載っていると思います。なぜこういう例を載せるかと言えば、それが類体論の典型的で重要な例だからです。もちろん、これらはごく特殊な例に過ぎず、類体論の一般論を説明し尽くしているわけではありません。また、類体論の一般的な定理の証明に伴う困難は、これらの例とはほとんど関係ありません。そういう意味では、これらの例は類体論の理論的な本質を示しているわけではありません。しかし、これらの例を通じて「類体論が論ずる典型的な現象」は説明できるわけです。
もう一つ、より初等的な例を出しましょう。理系なら誰でも知っている微分積分です。何回でも微分可能な実関数fをとります。そして、fが仮に以下のような無限級数に展開できたとします。
f(x) = a_0 + a_1 x + a_2 x^2 + ... (a_n ∈ ℝ)
このとき、両辺を微分して比較すれば、各係数a_nは決まります。「a_n = (d^n f/dx^n (0))/n!」です。右辺の級数を項別に微分したり積分したりしていい場合、これはかなり豊かな理論を生みます。たとえば、等比級数の和の公式から
1/(1 + x^2) = 1 - x^2 + x^4 - x^6 + ... (|x| < 1)
arctan(x) = x - x^3/3 + x^5/5 - x^7/7 + ...
π/4 = 1 -1/3 + 1/5 - 1/7 + ...
のような非自明な等式を得ることができます。これは実際に正しい式です。また、たとえば
dy/dx - Ay = B (A, B ∈ ℝ、A≠0)
のような微分方程式も「y(x) = a_0 + a_1 x + a_2 x^2 + ...」のように展開できて項別に微分していいとすれば、
よって、
a_0 = -B/A + C (Cは任意の定数)とおけば、
- a_n = C A^n/n! (n ≧ 1)
「e^x = Σx^n/n!」なので、これを満たすのは「y = -B/A + Ce^(Ax)」と分かります。
上の計算を正当化する過程で最も困難な箇所は、このような級数が収束するかどうか、または項別に微分や積分ができるかどうかを論ずるところです。当然、これを数学科向けに説明するならば、そこが最も本質的な箇所になります。しかし、そのような厳密な議論とは独立に「微分積分が論ずる典型的な現象」を説明することはできるわけです。
一般向けの数学の本に期待されることは、この「典型的な現象」を示すことだと思います。ところが、本書では「IUT理論が論ずる典型的な現象」が数学的に意味のある形では全く示されていません。その代わり、「足し算と掛け算を分離する」とか「宇宙間の対称性通信を行う」などの抽象的なフレーズと、それに対するたとえ話が羅列されているだけです。本書にも群論などの解説は出て来ますが、これは単に上のフレーズに出てくる単語の注釈でしかなく、「実際にIUT理論の中でこういう例を考える」という解説ではありません。これは、上の類体論の例で言えば、二次体も円分体も登場せず、「剰余とは、たとえば13 = 4 * 3 + 1の1のことです」とか「素因数分解ができるとは、たとえば60 = 2^2 * 3 * 5のように書けるということです」のような本質的に関係のない解説しかないようなものです。
もちろん、「本書はそういう方針で書く」ということは本文中で繰り返し述べられていますから、そこを批判するのはお門違いなのかも知れません。しかし、それを考慮しても本書はあまりにも内容が薄いです。上に述べたように、誇張でも何でもなく、数学的に意味のある内容は数学書に換算して数ページ程度しか書かれていません。一般向けの数学の本でも、たとえば高木貞治の「近世数学史談」などは平易な言葉で書かれつつも非常に内容が豊富です。そういう内容を期待しているなら、本書を読む意味はありません。
繰り返し述べるように本書には数学的に意味のある内容はほとんどありません。だから、極端なことを言えば「1 + 1 = 2」や「1 + 2 = 3」のような自明な式を「宇宙と宇宙をつなぐ」「正則構造を変形する」みたいに言い換えたとしても、本書と形式的に同じものが書けてしまうでしょう。いやもっと言えば、そのような言い換えの裏にあるものが数学的に正しい命題・意味のある命題である必要すらありません。本書は少なくとも著者以外にはそういうものと区別が付きません。
ここまでネガティブなことを書いておいて、何食わぬ顔でTwitterで加藤先生のツイートを拝見したり、東工大や京大に出向いたりするのは、人としての信義に反する気がするので、前向きなことも書いておきます。
まず、私は加藤先生のファンなので、本書の続編が出たら買って読むと思います。まあ、ご本人はこんな記事は読んでいないでしょうが、私の考えが人づてに伝わることはあるかも知れませんから、「続編が出るならこんなことを書いてほしい」ということを書きます。
まず、上にも書いたような「IUT理論が論ずる典型的な現象」を数学的に意味のある形で書いていただきたいです。類体論で言う、二次体や円分体における素イデアル分解などに相当するものです。
そして、IUT理論と既存の数学との繋がりを明確にしていただきたいです。これは論理的な側面と直感的な側面の両方を意味します。
論理的な側面は単純です。つまり、IUT理論に用いられる既存の重要な定理、およびIUT理論から導かれる重要な定理を、正式なステートメントで証明抜きで紹介していただきたいです。これはたとえば、Weil予想からRamanujan予想が従うとか、谷山-志村予想からFermatの最終定理が従うとか、そういう類のものです。
直感的な側面は、既存の数学からのアナロジーの部分をより専門的に解説していただきたいです。たとえば、楕円曲線のTate加群が1次のホモロジー群のl進類似であるとか、Galois理論が位相空間における被覆空間の理論の類似になっているとか、そういう類のものです。
以上です。
加藤文元先生、望月新一先生、およびIUT理論の研究・普及に努めていらっしゃるすべての方々の益々のご健勝とご活躍を心からお祈り申し上げます。
以下、センスという言葉は字義通りの意味、つまりテクニカルな要素に先立つ感覚的な要素の意味で用いる。
これは考えてみれば当然だ。
たとえば力学の質量や速度などの概念は理論的に定義されるから存在するわけではなく、それに対応するものは感覚や認識として存在しており、理論はそれを上手く反映したモデルなのだ。
いくら数式の変形が得意でも、速度という概念が日常的な感覚として理解できていなけれは、力学を理解することは不可能だろう。
もちろん、知識によって補強されるセンスもある。たとえば電磁気学の概念の多くは、力学の概念のアナロジーであるから、力学を正しく理解していることが、ここでいうセンスに該当する。
なお、センスというのはプラスアルファの特別な才能ではなく、必要条件に過ぎない。
彼らは、自分が理解できないことを話し手の説明のせいにしたがるが、ほとんどの場合、彼らのセンスが無いのである。
普通の人に何かを系統立てて説明する場合、以下のような手順を踏めば、よほど前提知識が足りていない場合を除いて、おおよそ通じる。
2番目と3番目は入れ替えても構わない。これは演繹的に考えるか、帰納的に考えるかの違いであり、どちらか一方が優れているというものではない。
およそどんな分野にも、異常にセンスのない
奴は存在して、奴らは、どんなに言葉を変えて説明しようが、具体例を示そうが、たとえ話をしようが、絶対に理解しない。
何せ、センスの無い奴は上の工程のどの箇所も、特に(1)すら理解していないからだ。奴らはたとえば、「2次方程式を解くのは1次方程式を解くよりも難しく、別の方法が必要になる」というところからまず理解していない。こういう奴らに平方完成とか教えても無意味である。
教育にナイーブな幻想を抱いている奴は、適切に教えれば誰でも理解できると思っている。特に、分からない原因を突き止めて改善すれば分かるようになると思い込んでいる。たとえば、微分法で接線の方程式が分からないのは、2点を通る直線の方程式の立て方が分からないからだ、とか。
もちろん、これは原理的には正しいのだろうが、ほとんど現実的ではない。おそらく、小学校低学年まで遡らないと、そういう原因を解消することは不可能だろう。
センスの問題を感じる奴の多くに欠けていると思うのが、言語的なセンスだ。
たとえば、プログラミングを教えていると、「ソースコード」や「オブジェクト」という言葉の意味が分からなかったとか、フィードバックしてくる奴が結構いる。もちろん、一部はやる気が無くてそういうことを書いているのだろうが、数が多いので実際にそういう奴はいるのだろう。
普通の人はそんな感想は抱かない。その話の中でそれらの語が何を指しているのかは明らかであるし、そもそも「それらの語の厳密な定義を知らなくても内容は理解できる」ということは分かるからだ。
文字通り渋谷は谷だ。宇田川・渋谷川に代表されるいくつかの川に削り出された地形、その底にあるのが渋谷の街なのだ。ブラタモリで渋谷あたりの地形の断面図を見たことがある方も多いのではないだろうか。
谷というのは清流ばかりが流れ込む場所ではない。雨が降れば澱やら泥やらが流れ込み堆積する。
こと渋谷には面白いアナロジーが成立する。きらびやかな若者文化ばかりでなく、時々はゴミみたいな文化若者が流れ込んできて明け方まで滞留している。
渋谷というのが時流に敏感な街であるからには、いずれ起こる革命も渋谷から始まらないはずがない。その時諸君は青山あたりで高みの見物か、それとも我々とともに戦車を横転させるのか。今のうちに考えておいて欲しい。
行動主義はJ.B.Watsonが最初に提唱した心理学の哲学だ。この哲学は、現代では下火のように見なされてたり、あるいは棄却すべき対立仮説のように扱われることが多い。
しかし、実際には認知心理学者、あるいは認知科学者が槍玉にあげる行動主義は、誤解に基づくものか、そうでなくても「その行動主義を自称している行動主義者は現代にはいないよ」と言わざるをえないような藁人形論法であることが少なくない。
そこで、行動主義の誕生から現代的な展開までの歴史について、ごくごく簡単にまとめてみようと思う。
Watson の基本的な主張は、ご存知の通り「心理学の対象を客観的に観察可能な行動に限る」というものだ。
当時の心理学は Wundt の提唱した「内観法」を用いて人間の持つ「観念連合」を記述する、というものであった (余談だが、内観法は単なる主観報告ではない。これもよくある誤解である。Wundt の提案した心理学は、繰り返しの刺激に対し、同じように報告するよう徹底的に訓練することにより、人間の持つ感覚の組み合わせについて首尾一貫とした反応を得ようという研究方針である)。
Watson が反対したのは、Wundt の方法論である「人間の自己報告」を科学データとすることである。それに代わって、刺激と反応という共に客観的に観察可能な事象の関係を研究の対象とすべきであると主張した。Watson は Pavlov の条件反射の概念を用いれば刺激–反応の連関を分析可能であるし、人間の持つ複雑で知的な行動も刺激–反応の連鎖に分解できると考えた。
また、情動や愛のような内的出来事は、身体の抹消 (内臓や筋肉) の微細運動から考察された。Watson の心理学が「筋肉ピクピク心理学」と揶揄される所以であるが、現代の身体性を重視する心理学・認知科学を考えると、(そのまま受け入れることはできないにせよ) あながちバカにできない部分もあるような気がする。
さて、認知心理学者、認知科学者が批判するのは多くの場合 Watson の行動主義である。場合によっては、次に登場する Skinner と Watson を混同して批判する。
注意しなければいけないのは、Watson の行動主義の立場を取っている行動主義者は、この地球上にはもはや存在しないという点である。従って、Watson 批判は歴史的な批判以上の何物でもなく、現代の科学の議論ではない。
では、行動主義を自認する現代の研究者が寄って立つ立脚点は何なのか? その鍵になるのが、Skinner の徹底的行動主義である。
Skinnerは、Pavlov の条件反射を「レスポンデント条件づけ (いわゆる古典的条件づけ)」、Thorndike の試行錯誤学習を「オペラント条件づけ」として区別し、概念、および実験上の手続きを整備した。そのためあってか、Skinner は20世紀で最も影響力のある心理学者 1 位の座についている。
Skinner は、科学の目的を「予測 (prediction)」と「制御 (control)」とした。ここでは説明しないが、そのためにの強力な武器として概念としては「随伴性 (contingency)」、方法論として「単一事例研究」などを導入した。 彼の心理学は他の心理学とは大きく異なる用語法、研究方法を持つため、「行動分析学」と呼ばれる。
徹底的行動主義では、Watson が扱ったような客観的に観察可能な「公的事象」に対し、「私的事象 (ようは「意識」のこと)」もまた、同様の行動原理によって説明できると主張した。つまり、内的出来事も「行動」として捉えられる、ということだ。文字通り「徹底的」に行動主義なのである。実際に、Skinner の著書の中には「知覚」「感じること」「思考すること」といった、内的な事象についての考察も多く、それらは行動分析学の重要な対象であるとはっきりと述べている。
逆に Skinner が反対したのは、「心理主義的な説明」である。心的な活動は実在するし、それ自体研究の対象ではあるが、「心的な活動によって行動が駆動される」という因果的な心理主義に対しては、Skinner は反対であった。つまり、「原因としての心的概念」の導入に反対したのだ。この点を間違えると、Skinner を完全に誤解してしまう。
ただし個人な見解としては、行動分析学はほとんど顕在的な行動以外実際には扱っていないし、扱うための具体的な方法論を発展させてもいない。そこに関しては批判を免れないとは思う。
行動分析学の他に重要な特徴として以下の 3 つが挙げられる。
なお、帰納主義については「え?でも科学って演繹と帰納の両輪で回ってるんじゃないの?」と考える人もいるかもしれない。
Skinner は「行動について我々は知っているようでまるで知らない。そのような若い科学にはまず、具体的なデータが必要なのだ」と考えた。そのため、Skinner は環境 (刺激) と反応の間の関数関係のデータの蓄積を重視した。
つまり、あくまで当時の知的状況を鑑みての方針だったということは重要な点だ。
ちなみに、Skinner は自身の徹底的行動主義と区別するため、Watson の行動主義を「方法論的行動主義 (methodological behaviorism)」と呼んでいる。
また、次に述べる Skinner の同時代の行動主義も、同様に方法論的行動主義とまとめられることが多い。
Watson のアイデアを発展的に継承したのは Skinner だけではない。
ただし、Skinner 以外の新行動主義に与している研究者は、現代には皆無なので、あくまで歴史的な展開として捉えるべきである。
Guthrie は刺激と反応の間にできる連合は「時間的接近」によって生じることを述べた。また、Hull や Tolman と異なり、心理学の研究対象は客観的に観察できる行動に限定すべきであるという姿勢は堅持した。
Skinner と大きく異なる点として、Hull は「仮説構成体による演繹」を重視した。「習慣強度」という潜在変数を導入したモデルを考案し、その潜在変数の挙動の変化により行動の予測に挑戦した。
Hull の研究の問題点は、いたずらに潜在変数をいくらでも増やせてしまい、理論が肥大化する危険をはらんでいるためである。特に Hull や Skinner の時代は、行動に関するデータがまだまだ少なく、行動研究には強固な地盤がなかったのである。Skinner は「理論は必要か?」という論文で理論研究を批判していているのだが、Skinner が批判したかったのは Hull の心理学だったのである。
Tolman は刺激と反応の間に「仲介変数」を導入した心理学者だ。いわゆる S-O-R の枠組みである。彼は「潜在学習」の研究によって、「学習」と「成績」は必ずしも一致しないことを見出した。そのことから、刺激と反応の間には、それを仲介する隠れた変数がある、と考えた。
Tolman からすると、「感情」「期待」といった内的な出来事も、刺激と反応の間に存在する仲介変数である。
現代の視点で見ると、認知心理学の下地になるアイデアを提出したのが Tolmanだ。
ところで、Tolmanと地続きである認知心理学もまた、徹底的行動主義の立場からすると方法論的行動主義に立脚した心理学である。そう、私たち現代心理学徒のほとんどは、意識せずとも方法論的行動主義者なのだ!
なぜか?認知心理学でも、公的事象と内的事象を分ける。内的事象には直接アクセスできないので、公的事象の「操作」と計測を通じて内的事象の研究をする。公的事象の操作 (実験条件) を通じて、内的事象の定義を行う。これは、Stevens-Boringの「操作主義」と呼ばれる。操作主義では、操作と計測の対象は公的事象であり、内的事象については「研究者間での合意」に基づいて議論される。つまり、例えば「この条件によって反応時間に変化があったら、作業記憶に影響があったということにしようね」というのが、研究者集団によって暗に共有されている、ということだ。これが、認知心理学が「方法論的行動主義」と呼ばれる所以である。
1980年代以降、Skinner の弟子筋の研究者たちの間で、Skinner 以降の行動主義を巡って、研究方針が多様化しつつある。その中でも最も影響力のある 3 つについて、簡単に紹介したい。
Skinner の行動分析学はプラグマティックな科学であると言われているが、実は Skinner 自身は表立ってプラグマティズムに述べていたわけではない。例えば、近い時代を生きたパース、ジェームズ、デューイを直接引用して主張を行なっていたわけではない。一方、Heyes の機能的文脈主義の特徴は、Skinner の徹底的行動主義の持つプラグマティズムをより明示的に推し進めた点にある。
Skinner は心的概念を導入することを否定した。私的出来事 (内的過程) は外的な行動の原因ではなく、それ自体独立した行動として捉えるべきだと考えたためだ。また、心的概念による説明は、行動分析学の目的である予測と制御に寄与しないと考えたことも一因である。
Heyes の場合、そのような概念でも、予測と変容 (influence) に寄与する場合は、十分に有用であると考える。
具体的には、「態度」を測る質問紙研究が好例だ。質問紙で測る「態度」は Skinner であれば「質問紙に回答行動」として見なされる。しかし、Heyes の場合「そのような研究の問題点は、測ったところで、実際の行動を変容させるための操作変数が同定できないことだが、最終的に行動の予測と変容を目指すという目的がぶれない限り、足がかりとしては有用である」と主張する。
このような、伝統的な行動主義と比較してある意味で軟化した態度を、Heyes は「行動主義心理学の自由主義化」であると述べている。
少し脇道に逸れるが、Heyes は行動の「制御 (control)」とは言わず、「変容 (influence)」と表現する。これは、「制御」だと決定論的に操作できる印象を受けるが、実際の行動には確率的な変動性が必ずついてまわるため、表現を柔らかくする意図である。
また、機能的文脈主義では、研究の真偽の真理基準にも明示的にプラグマティズムを導入している。
行動主義の科学には必ず目的がある (多くの場合、それは現実の問題解決と結びついているが、そうでないものもある)。Heyes の標榜するプラグマティズムは、目的にかなうかどうかが、研究の真偽を決める、ということだ。
これは、「うまくいけばなんでもok」という主観主義ではない。問題解決としての科学として、発見というよりは創造のプロセスで知見が生まれるということだ。ただし、解決されるべき「目的」の方はどうしても恣意的にはなってしまう、と Heyes は述べている。
巨視的行動主義の特徴は以下の 2 つにまとめられる。
(1) 分析単位として「随伴性」ではなく「相関性 (correlation)」
Skinner はレスポンデント条件づけは刺激−反応という 2 項随伴性、オペラント条件づけは刺激–反応–刺激という 3 項随伴性によって定式化し、随伴性こそが考察されるべき基本単位であると考えた。
巨視的行動主義は、そうは考えず、よりマクロな「強化子–反応率」の相関性が行動主義心理学の分析単位であると主張している。
つまり、ミクロな刺激と反応の関係を捉えるよりも、マクロな環境と行動の関係を捉えることを重視しているのが、巨視的行動主義である。
行動主義心理学の目的を予測と制御に置くならば、結局はマクロな記述で十分であり、その方が有用であるというのが彼らの主張だ。
Skinner は外的な行動とは別に内的な出来事もまた行動として捉えられると考えた。巨視的行動主義ではそうは考えない。
彼らは、内的な出来事を「潜在的な行動 (covert behavior)」と呼んでいるが、心理学はそれを直接対象とする必要がないと論じている。なぜなら、潜在的な行動が実際に効力を持つならば、最終的には顕在的な行動 (overt behavior) として表出されるためである。
このことを彼らは「時間スケールを長くとる (temporally extended)」と表現している。瞬間瞬間に我々には豊かな精神活動 (mental life) があるが、それを相手取らなくても、長い時間観察すれば、観察可能な行動として現れる、ということである。
Staddon の主張は、他の行動主義と大きく異なる。彼の場合は、心的概念の導入を許容する。そして、それを用いた「理論」こそが心理学に必要であると考えた。その点は、実験結果から法則を抽出する帰納を重視した Skinner の立場とは異なる。また、「心的概念による説明」は Skinner の反対した「原因としての内的過程」でもあり、それを採用する点も Staddon の特徴である。
行動主義心理学の目的は、予測と制御だけではなく「説明」にもあると彼は主張した。Staddon の言う「説明」とは、概念同士の関係によって、現象を記述することである。わかる人にとっては、David Marr の「アルゴリズムと表現」の位置に心理学を位置づけている、と考えればすっきり理解できるように思う。
Staddon はやや言葉遣いが独特で、概念連関による記述を「メカニズム」と呼んでいる。そのメカニズムは必ずしも生理学的基盤を前提しないで、あくまで心理学的レベルでの記述である。
ようは、行動のアルゴリズム的な理解なのであるが、事実 Staddon は「私の言うメカニズムとは、アルゴリズムのことである」とも述べている。
Skinner は反応率 (時間あたりの反応数) を分析の基本単位としたが、Staddon はより多元的である。ただし、なにを分析の単位とするかは、それ自体が研究の立脚点を示しているものである。それを Staddon は「The model is the behavior」という言葉で表現している。
それでは認知心理学となにが違うのか?と思われるかもしれない。Staddon いわく、行動主義心理学が伝統的に堅持してきた「強化履歴」は理論的行動主義でも重要であるというのが大きな違いらしい。つまり、行動や内的状態は、それまでの環境との相互作用に基づいている歴史性を有しているとういうのだ。当たり前といえば当たり前なのだが、その点を強調するか否かである。
また、Staddon は「動的過程 (dynamics)」を重視した点も特徴である。他の行動主義は、基本的には刻一刻と変化するような過程というよりは、安定した反応の推移を対象としてきた。ややテクニカルな議論ではあるが、現代では複雑な時系列データを扱う方法もたくさん用意されているので、動的な過程を取り上げるのは科学として自然な展開であると思う。
一方、認知心理学では「コンピュータアナロジー」のように、入力–出力関係を固定して考えることが多い。動的に内的状態は推移していることを重視した点も、Staddon の理論的行動主義と認知心理学を分ける特徴の 1 つである。しかし、個人的にはこの差異は徐々に埋まっていくのではないかという期待もある。
色々なアイデアはあるものの、基本的に現在「行動主義」を標榜している人がいれば、Skinner の徹底的行動主義である。Watson、Hull、Guthrie、Tolman に依拠している者はいない。従って、歴史批判ではなく、科学の議論として行動主義を批判したければ、Skinner を相手にするべきである。
行動主義はとにかく誤解されがちである。それは行動主義心理学者サイドにも問題があるにはあるのだが、科学において、無理解の責任は基本的には不勉強側に帰せられるべきだろう。
個人的には、アンチは信者より詳しくあってほしい。認知心理学者も、自分たちが寄って立つフレームワークの出自はどこにあって、なにに対するアンチテーゼだったのかをきちんと理解してみたら、何か発見があるかもしれない。