はてなキーワード: アナロジーとは
serial experiments lainを観た。マトリックスのようで、攻殻のようで、終盤でエヴォフォロワー感を感じたりして、SFというかオカルトみが強かった。
首根っこに端子があるとか、義体化してるとか、そういうワンクッションがあれば人間が直接ネットワークにダイブするとか、現実との境界が曖昧になるみたいな描写もなんとなく納得がいく。でもlainはそれが無かったから(一応一回PCと身体をケーブルで繋ぐシーンがあったけど)そこに強くオカルト感を感じたのかな。あとはユングのオカルト理論をネットワークでのアナロジーにスライドしたりとか。
記憶こそが人間の本質なのか、みたいなラディカルな問いは面白いけど、あまり真剣に考えたくないね。怖いし。そういう人間のアイデンティティを揺るがすようなテクノロジーが私の生きてる間には出てこなさそうで良かった。
雑誌の投稿欄だったり、査読後の論文といった、一度人の判断が入っているといったことや、
ポスターの掲載といったような特定の場所にいる人しか見れないといったことを、
ネットで最初にアナロジーとして設計できたら、変わっていたのだろうか。
誰でも情報発信できるようになった、民主化だと持て囃されたが、
個人でインプットできる量なんてたかが知れていて、日々のアウトプットなんて不可能だ。
ヤフーのコメント欄、はてブのコメント欄、ニュースについてあれこれ言っているYou Tubeなど、ほぼ意味がない。
炎上案件についても、実際の関係者間で話し合わないと何も変わらないのに、ネットで外野が盛り上がる。
ネットなら多くの人が知恵や意見を出し合い問題が解決されるかもしれない、そんなのに夢見ていて時期もあっただろう。
だが多くの無関係な人が集まっても、3,4秒で見て思いついたことしか集まらず、知識を持った人には届かない、
煽りか炎上でなければ広まらず、それで解決する問題は偏っている。
個人としては直接お金がかからない、コスパが良いようだが、衰退する社会だと長期的にコスパは悪い気がしてならない。
政府批判にしても、見てるかどうかわからないような、はてなで「だから俺はああ言ったんだ」とか言っても全く意味がない。他のサービスもそうだ。
ひとつ前の増田の「不買運動の正邪は状況が決める論」は、元増田の疑問に沿ってないと思う。
もうひとつ前の「不買運動は戦争説」のアナロジーが問題意識によくフィットしている。
戦争と同様に、巻き込まれてしまう市民がいるのに、悪の根源に対抗するのに戦争という手段をとっていいのか、って話だよね。
考えてみると明らかに邪悪な首脳に支配された国が悪さをして、それを倒すために戦争を仕掛けるのはどうなんだって気もする。連帯責任っぽさがある。
それよりも言論による抗議活動で株主総会を刺激して経営者を下ろす方がよっぽど文明的だ。
不買運動が不可避に起こるか起こらないかに関わらず、個人の目の前に選択肢があるとき、どちらを取るかの判断は正義が基準になりうる。いまはツイッターがあるから、不買運動は不正義だ。
大人向けのオンラインセミナーが月額980円でいくらでも見れる、みたいなサービスがあるらしいんですよ。
その内容がさ、プログラミングのやり方とかエクセルの使い方とか文書の書き方なら全然いいと思うのね。
でも、
「エシカル消費」がどうたらこうたらとか、「ヴィーガンでSDGs」とかを語ってるとか
あるいは「私の履歴書」みたいなノリで偉い人が自分の人生と哲学を語る動画とかそういうものもあって
それらの価値をどのぐらい高く評価すればいいのかよくわからんのよな。
SNSの普及で、今まで有識者扱いされてた人たちがどんだけいい加減な人たちだったかってのがわかってきたじゃん。
そういう中で「人」の考え方を聞くことにどれだけの価値があるのか、
俺にはよくわからなくなってきたよ。
なんか怖いんだよな。
https://anond.hatelabo.jp/20220503215621
言及する必要が無い。人権に敷衍してこの問題を考えれば、プロライフ派になりやすく、胎児の人権、人間規定の恣意性と言う重要な問題を孕むこの問題を、女権拡大の意味合いからそれらの問題をまるっきり無視しているのがプロチョイス派である。
宗教的な頑迷が問題になるのは、宗教的な教義や信条が、近代法の根底にある人権思想、人権原理を毀損する場合であって、そうではない場合からのクレームは、単に個々人の思想信条に過ぎない。善意からであろうが悪意からであろうが法理的に矛盾があるのであればそれは矛盾があるのであって、個々人の内面の思いにフォーカスするのは、それこそ宗教的な悪魔化である。内心のことは証明可能性が皆無であり、相手を悪魔視してリンチしてやろうと言う下種な自身の心情をまずは問うべきではないか。
プロライフ派とプロチョイス派の争いは人権派と女権派の争いである。近代法に適合している人権派が、自らの内心の潔白を証明するべき理由は何もない。
無視していない。女性の身体自由権と胎児の生存権を比較して胎児の生存権により重篤な公益を見出しているだけである。
すでに体制にビルトインしているので女性は意識しない傾向にあるが、男性に対する法的優遇措置は皆無であるが女性に対する法的行政的優遇措置は多数ある。女性専用車両についても、その経済的負担は身体労働からの転換物であるので、より寿命の短い男性たちに「女性の権益のために奴隷労働を課している」と言う面が多々あるが、それらは公益のためには正当化され得る受忍限度内の責務とされているのである。
中絶の件は、一方に乗せられているのが生存権と言う極めて最重要な権利であるため、通常一方的に保護される立場の女性が、公共の福祉において市民的な負荷を課せられるべきであるというだけのことである。
昨今、問題になっているトランスジェンダーの扱いの件、ハーグ条約関連の問題、重要人権案件のほぼすべてが女権と人権の対立周りにおいて生じている。これは女権が人権に根差しているのかどうか、女性が市民社会の構成員としての責務を果たす覚悟があるのかどうかが問われているのである。人権に根差さない女権は人権を毀損するのでナチズムそのものである。
遥かに寿命の短い男性に課せられている負荷は受忍限度内とみなされるのであれば中絶案件も受忍限度内である。子を産んだからと言ってマクロでは女性の寿命は1年も縮まない。そもそも子を産むかどうか、それに至る行為をするかどうかの選択肢を与えらていての話である。
私は女子大学の存在は性差別そのものでありとても問題があるとは考えているが、男性である私が支払った税金を女子大学に注がない選択肢はない。
徴兵制がアプリオリに人権侵害と見なされていないこと自体が問題なのである。徴兵制の根幹は、不可避性である。逃げられないと言うことだ。
徴兵で生じる給与はその不可避性を正当化しない。また、「ならば妊婦にも給与をくれ」と言う言い草がナンセンスなのはことことからも自明であるが、母体保護法やそれ以外の立法措置、行政支援において、既に給与相当分は得ているとも見なせる。逃げられないのは無関係の第三者だ。
もしこのアナロジーで男女対立を煽るのであれば、それは中絶の問題ではなく「産む性」としての保護優遇を女性が得ていること自体が問題視されるべきであろう。そして「負担をイーヴン」にするのであれば、産まなかった女性たちは、徴兵忌避者や脱走兵がそうされるように収監されたり銃殺されることを甘受すべきであろう。
それらの反論がまったく成り立っていないのは、そもそも不可避性を満たしていないからだ。
食べて働いて眠って、だけであれば絶対に妊娠しないのである。妊娠することをしない限りは絶対に妊娠しないのだ。
それでいうならば徴兵制は中絶禁止よりも「ひどい」と言うことになる。そして徴兵制のアナロジー自体は今も公式非公式に残っている。「男は女を守れ」と言う強制である。
『男性にも罰を与えよ』
与えればいいじゃないか、としか思わない。ただそれは妊娠した女性vs妊娠させた男の間で発生するものであって、どうぞ好きに民事裁判でも何でも起こしてください。現行法でも可能だ。
中絶のコンフリクトは妊婦と胎児との間で発生するので男は、胎児にとっては無関係、というだけのことである。
※元記事は間違いなく私が書いたものであるが、私は5/3には記事は書いていない。つまり現在ブクマされている元記事は赤の他人が私が書いた複数の記事をまとめて、再アップロードしたものである。
囲碁が難しい(と感じられてしまう)のは他のゲームに過剰適応してるから説
囲碁がスッと入ってくる人とそうでない人いる
両者の違いは、将棋を含む他のビデオゲーム等に過剰適応してるかどうかという説を唱えたい
この理屈だと幼少期の子供がスッと囲碁に入れるのが説明できるのではないか
過剰適応がどういうことかというと、他のゲームは取るのと取られるのが一致している
将棋の駒は取った瞬間に解決されるし、ゲームにおいて取れない駒がない
飛車と角がどれだけ駒として強かろうと、歩が同じ座標位置に移動してしまえば一瞬で取れる
一方囲碁は、攻め合いで手数が足りなかったり、二眼ができていたりしたら取ろうしてもどうやっても取れない石がある
ここに混乱するのではないだろうか
取れない石をいくら追いかけても取れないのが囲碁だが、これにいつ気付けるかというのが第一歩としてまずある
そして囲碁は価値が局面で変化する株取引のような相対的なゲームで、駒の強さや価値がほぼ一定の将棋やスパロボ系のSLGとは大きく違う(最終盤なら飛車より他の駒がいい場面もあるので「ほぼ」とした)
さっきまで強かった石が周囲を囲まれたり、断点など弱みをつかれることで立場が弱くなったり、他のところで争ってるうちに石が強化されて一転、立場が逆転し反撃されるということがあるのだ
この相対的な性質が他のゲームに類似するものがほぼなく、大きな混乱の元となっている説
地点の価値が局面によって揺れ動く現実の戦争との類似ゆえに囲碁は武将たちに好まれてきたのだが、それが駒(キャラクター)の価値や強さが固定のゲームになれた現代人には難しく映るのだ
現実も囲碁のように置かれた石によって相対的に価値が揺れ動いている
えッ⁈
君ちょっと頭悪すぎない?
増田1の感想:「登場人物のカップルがたまたま同性。それだけ。あー、普通なんだ。と思った。」
増田2が「別に進んでるわけでもなんでもない。ただ下衆なだけ」と言っている対象:
増田2の偏見: 増田2が知り得ないのに増田2の主観で断定している部分。
「アメリカ人は先進的ではなくただのレズ好き」で「嗜好を満たしつつ『多様性を重んじてるフリ』」をする。
ちなみに増田1は「アメリカ人は先進的だ」とも「多様性を重んじてる」ともまったく言っていない。
「あー、普通なんだ。」と言っているだけだ。そしてカムアウトしているゲイカップルはアメリカでは実際に普通である。
←君の頭の悪い書き変えには「創作物」の部分が抜けてるから、君1が何を見てこの感想を持ったのか不明。
君2が「別に進んでるわけでもなんでもない。ただ下衆なだけ」と言っている対象:
元々の流れではここは「増田2がアメリカのドラマ制作者と視聴者全般について言ったこと」だが
君の頭の悪い書き変えには「創作物」の部分が抜けてるから、君2が誰を「下衆なだけ」と思ったのか不明だ。
君2が「普通にカムアウトしている日本のペド」が「別に進んでるわけでもなんでもない。ただ下衆なだけ」と言っているなら
元の増田2は「普通にカムアウトしているアメリカのゲイ」は「ただ下衆なだけ」と言っていることになるが、いいのか?
増田2は直接そうは言ってなかったと思うが、「カムアウトしているゲイは別に進んでるわけでもなんでもない。ただ下衆なだけ」と「受け止めるのは偏見の持ち主」かもしれない。そのゲイが「ただカムアウトしているだけ」であれば。
なんで君が「こうですか?」になると思ったのか君の頭が悪すぎて私には分かりませんでした。
遅く起きて少しだけ本を読んで昼寝をした
本は『蜂と蟻に刺されてみた』というイグノーベル賞を受賞した生物学者の本
自分の体で実際に刺されてみることで指数的に痛みを数値化して研究している人だ
読む前はバカなことをするもんだと笑っていたんだけど、虫って体が小さいから研究するために毒液を集めようにも1体からほんの少量しかとれなくて毒液中の成分分析とか毒液の作用の原因追及とかハードルが高すぎらしい
今日読んだところで面白かったのはシュウカクアリの集団交尾についての記述だ
この集団交尾には2種のシュウカクアリの雄と雌が参加するらしい
シュウカクアリの雌は精子を蓄える性質を持っていて、労働力をたくさん生み出すために別種の雄とたくさん交尾して、同種同士の交尾の結果の生殖用個体は少しだけ生めればいい
一方、オスは自分の遺伝子を後世に伝えるためには同種の雌と交尾をすることを望んでいる
この交尾集団でさらに奇妙さを増しているのはオスもメスも相手がオスなのかメスなのか区別できないから、とりあえず交尾しようとして判断するということだ
別種同士で交尾することが通常だというのも驚きだし、雌雄で交尾の目的が異なるのもまた面白い
人間の倫理や無理なアナロジーで測れない虫の世界は純粋に好奇心を満たしてくれる
昔、『ムシヌユン』を読んだときは爆笑したもんだけど、もう少し虫の生態についての本を読んでから再読したら違う感想を持つんだろうか
『ムシヌユン』は昆虫博士に憧れた気弱な青年が虫人間になって、性欲が抑えきれず大変な目に合う漫画なのだけど、人間側から見ると主人公の行動は奇妙だけど、虫側から見ると理にかなっていたりするもんなんだろうか
そのうち再読したいもんだ
言い当て妙だなと思う
でも、往々にしてそれは「髪がピンクと緑でもいいよね」「男がスカート履いてもいいよね」というレベルだ
若者はたいてい、世界には自分の想像の及ばないけれども紛れもなく人間であるという存在が当たり前にいる、ということをまだ感覚できていない
現実社会のレベルでみたときの多様性とは、老人がいて、若者がいて、子どもがいて、性別を手術で変えた人がいて、足のない人がいて、…という、これでもまだ一般的すぎるような話なのである
アニメの世界や漫画の世界では実に多様な絵柄が存在できる…はずだがやはり、オタクの人々が好むのはその中でほんとうに特定の方向性の絵柄だ
もしその絵柄のなかにドップリ浸かるオタクとして生きていたら、目の描き方とか、線の処理とか、そういったディティールの機微によって「萌え絵の絵柄は多様である」と言いたくなるものだろう
だが本当の意味での豊かな絵柄の世界に目を向ければ、たとえばより文化的に近いばすの日本のマンガの世界ですら、萌えにとらわれないもっと「多様」な表現の海が広がっている
海外のコミック、イラストレーション、絵画まで幅を広げれていけば、視覚表現というのは如何様にもなしうるものであり、かつそれらは本質的には萌え絵と呼ばれる表現と地続きであることを感覚できるだろう
つまり、どちらの表現ももう片方に接近できるくらい共通のものでありながら、こんなに離れて感じられる言う存在が世界にあることを感覚できるだろう
若者が「多様性」を重んじているつもりでも、社会に触れてみると実際は自身が「若者」しか受け入れてなかったことに気づくというのは、これと同じ構造をもつことによるものだ
外部から「多様性がない」と評価されることにオタクが難色をしめすというのは、したがって老人から無理解を示されたと感じる若者というアナロジーが非常にマッチしていると感じられる
ホームレス死ね発言でメンタリストDAIGOって奴が絶賛炎上中だが、意識高い系不労所得民なんて生き方してる奴のテンプレみたいなもんだ。
10年前にその一歩先のホームレス殺人を唱導して名を馳せたAutomatons Hacking Guideというはてな日記があった。
ブロガーは「華殉」というビジュアル系っぽい名前を付けた自称東大卒国内一流会社勤務で大学院に通う20代後半という設定の男性。平成初期のトレンディドラマの設定みたいな生活をする人がこの世には居るんだね。
「Automatons Hacking」のAutomatonはオートマタとも言い自動人形のこと。原爆とコンピュータの父、ノイマンが提唱したセル・オートマトンという概念があり、これはそのままライフゲームのアルゴリズムなのだが、フランス現代思想が流行するとこれら情報科学の概念を借用してこねくり回す議論が流行した。
その過程で個人を特定アルゴリズムを持って社会的活動をする自動人形と扱う社会学的手法などが出来た。この辺まではAIの自動学習のベースでもある。
するとこれが人文系に逆輸入されて罵倒や見下しに使われるようになる。自分で考え経験してアップデートし続ける人生を送る人間じゃなくて、与えられたアルゴリズムに社会的入力(引数付き関数)を与えると安定した反応を出す人形として扱う。それは群衆のアナロジーでもある。群衆に属さず上から俯瞰する観察者が自分だ。だから「俺は他の大衆とは違う」と思いたい意識高い系の若者はこのソーカルにコケにされたポモの概念無断借用的な考えに靡きやすい。
ビジュアル系みたいな名前でトレンディドラマみたいな生活を送る華殉は人文家ポモの薫陶を受けている事が判るね。
ハッキングはコンピュータハッキングの事だからこのオートマタに普段の処理とは違う入力を直接与えて愉快犯的に恐慌状態にしたり自分の思うままに操縦する事を表す。
おや?メンタリストっていうのに似ているね。やってる事も知的スノッブの基礎もフォロワーを釣ったり釣られたりする部分も。
オートマタハッカーを名乗る華殉だったがかなり誠実な性格だった。自意識に。
実存の強さ、自意識の高さ故に「群衆の俯瞰者」に惹かれるのであるから自意識に誠実なのはありがちだ。
例えば
・批判されてメタから見ている姿勢は崩さないが相当数のレスをする。
・「安全地帯から言うだけで実際には殺せないだろう」と挑発され熱くなり「自分は実際ホームレスを殺す」と言ってしまう。
・ブログ副題に「〇〇劇場」と書いていたのだが、ホームレス殺人エントリなどで風呂無駄氏にはっきりと拒絶を受け、直後に外してしまう。
・Twitterで「痛い」ツイートをした直後に「ちんこまんこちんこまんこ」というツイートを十数回して流す。
そういえばメンタリスト君も動画の炎上コメントを数百個削除しているようだ。コメントが数百になると閲覧も大変なのに熱心だよね。
華殉はそもそも最初はgoogleの開発がどうとかアップルの製品哲学がどうとか、ニーチェの超人がどうとか、今では意識高い系のテンプレみたいな事ばかり書いていた。でもPVが伸びなかった。そこに「ホームレスの人権なんて行使される事も無い状態だろ」佐川ニキ「ホームレスに人権無いとかいい年してバカじゃねーの」という誤解みたいな論争があり、そこにホームレス殺人エントリで割り込みPVを浚ったのであった。
こんな華殉だったが最後はギーグ精神論的なものにシフトしてフェードアウトしていった。ホームレス殺人や偽善批判などの挑発的エントリから手を引いた理由は増田が見たところ以下による
善への挑発をしたらはてなのリベラルが直情的にひどいと吹き上がる反応をする事を期待していたがネットには宮勤め以外の人間も居り特に不良の経験を持つ人間は喧嘩慣れしている。更にポモ以前の思想の素養がある人間は同系の人間の実存をむき出しにして効果的に怒らせ誘導する術を持つ。これらによって「劇場」が状況劇場になってしまい、実存を開陳しすぎ、刺さり過ぎた。思想系の人間が実存の剥き方を知っているのは自分がその動機(実存のカバー)で思想なんてものに惹かれているから。
・自分への賛同者に底辺のテンプレネトウヨみたいなのが多かった。
ニーチェ援用したりしてるのにルサンチマンで歪んで挑発されると安定した出力する連中に擦り寄られたら立場が無い。というかなまじっか思想なんてやってるので羞恥心で「あ゛あ゛あ゛ー」となる。同意されて懸命に距離を取りたがる姿は侘び寂びが漂っていた。でもこれは華殉も悪くて過去エントリやTwitterではテンプレ的なデマや「自分の税金が外国人の生活保護に吸われて」みたいなテンプレを良く書いていた。そもそもそれってニーチェのルサンチマンそのものじゃね?
子供の主体にとって世界は暴力であり規範を強制してくる装置だ。特に「若者」になり大学や院に進むと知で征服した自分の世界と隷従を求められる外の世界の格差は大きくなる。オートマトンハッキングとメンタリストの行動が似ているのは共にこの需要を相手にするものだからだ。
・"歴史は韻を踏む"、"類似している"と表現し、共通点も具体的に述べ、その上で今後起こるであろうことを類推したまで。安易な"同一視"ではないことが分かるよう、こうして慎重に言葉を選んで筋道立てて書いたつもりだが、伝わらなくて残念だ。
・面白がっているのではなく、今の政権の言動に危機感を抱きつつも、長い目で見た時の社会の良識や自浄作用のようなものをある程度は信じているんだよ。
・とはいえ、日本ほどの高齢化社会は人類史上初の事態だ。ピラミッドどころか肩の張りだした壺のような形になった人口構成は、日本社会が危機に対応する力、危機から立ち直る力を急速に奪っていく。中国の覇権主義も日本にとって脅威となる。内憂外患は当分晴れそうもない。四半世紀単位で見れば、最悪の場合、日本では財政危機が起きたり、民主制が消滅したり、戦争や内乱で国家が分裂したり消滅したりする事態もあり得ると自分は思っている。もっとマイルドな未来が実現してほしいと願っているが、高度経済成長期のような右肩上がりではなく、最善でもどちらかといえば右肩下がりの時期が続くことはまず間違いない。
日本人が一個人として出来ることは限られていると自覚した上で、個々人は身の振り方をよく考えるべきだろう。ミクロな現象はマクロな現象に対して正面からぶつかったら勝てないのだから。政府の馬鹿げた言動には可能な限り掣肘を入れていく一方で、いざという時にどこでも暮らしていけるような備えと強かさが欲しい。
【同一視】
《名・ス他》差があると考えず、おなじと見なして取り扱うこと。
Oxford Languagesの定義
【類推】
《名・ス他》一方が他方と似る(幾つかの)点に基づいて、(既知の一方から)他方の有様を全体的に推し測ること。類比⑵。アナロジー。
「―解釈」
Oxford Languagesの定義
なんか事あるごとに旧日本軍の失敗事例持ち出すのってどうなんですかね。右も左も日本はあのころから何も変わってないみたいなことばっかり言って、政府批判して面白がってる。インパールがどうのとか言うのって聞き飽きてきたな。安易にあの時代を現在と同一視していいのかな。
一部のオーディオマニアは、電源タップやケーブルを「良いもの」に変えると音質が向上すると信じている。
常識で考えて、そんなわけはないのだが、なぜ彼らはそんな荒唐無稽な妄想を抱いてしまうのか。(たとえばケーブルによって変わる電気的な特性は、導線の抵抗値くらいしかないが、それは部屋の温度が数度変わるのと同じ程度の影響しかない)
ここでは、そんな彼らの多くが共通して信じている理論の紹介と、なぜ人はそういうニセ科学を信じてしまうのかについて説明する。
オーディオに関する非科学を信じる人の多くが共通して持っている考えは、電気には「きれいな電気」と「そうでない電気」があるというものだ。これはちょうど、飲料水に「きれいな水」と「そうでない水」があり、きれいな水を飲むと健康に良いと言うようなものだ。電気の場合は当然、「きれいな電気」で駆動したスピーカーからは「良い音」が発せられると彼らは主張する。
彼らによれば、家庭用の電源や大衆向けオーディオ機器に流れる電気は「きれいな電気」ではない。それをオーディオマニア向けの高額製品を使って変換したり、「不純物」の少ないケーブルを通すことで、スピーカーに「きれいな電気」が流れるらしい。
この理論の秀逸なところは、その単純さにある。本来、音質を決定づける要因は無数にあり、それらは複雑に影響しあっている。それらをすべて把握することは容易ではない。しかし、「きれいな電気理論」なら、
「高額オーディオ製品を通す→きれいな電気が流れる→音質がよくなる」
となり、単純明快だ。水質と健康のアナロジーで理解しやすいのもポイントだ。
オーディオオカルトに限らず、多くのニセ科学に共通するのが、問題を過度に単純化して説明を試みる点だ。マイナスイオンは身体に良くてプラスイオンは身体に悪いし、血液型性格判断診断なら人間の性格は4種類に分類できるし、波動測定装置を使えばあらゆる食品が身体にいいかどうかたった1つの指標で判定可能だ。
もちろん、「問題を単純化して説明する」というアプローチ自体は間違っていない。たとえば、力学で摩擦や空気抵抗が非常に小さいならば、それらは無いものとして考える。疑似科学の問題は、その理論を立証する過程で実験者の主観を排除するしくみが備わっていなかったり、そもそも理論中の概念が適切に定義されていなかったりする点だ。オーディオの場合で言えば、音質の評価は聴者の主観や対象製品への先入観に大きく依存するし、そもそも「よい音」とか「きれいな電気」の実態も正確に定義されていない。
だから、この種の「きれいな電気を流せば音質がよくなる論」は疑似科学である。
なぜ、オーディオマニアはこのような疑似科学を信じるのか?結局、人は安易な理屈がつけられるものを信じるということだ。オーディオ機器の内部構造やそれらの音質に与える影響を正確に理解するには、どうしたって大学レベルの物理や工学の知識が要る。一方、オーディオマニアの理論なら
これだけの理解で済む。一部の人達にとっては、小難しい数式を出されるよりも、こちらの方が説得力があるのだろう。
ただ、事実はこの説明の通りにはなっていない。ケーブルや電源タップの変化をブラインドテストで聴き分けられた人は、この世に存在しない。結論としては、音質の向上を期待してそんなところに金をかけるのは、馬鹿げていると言える。