はてなキーワード: わたしたちとは
面倒なので前段は省く。タイトルを見て「アレのことか」と分からない人はスルーしてほしい。
https://petitcomic.com/news240208/
この文章が一読して耐え難いほどに醜悪な理由を書く。以下、上記URLの文章について「本テキスト」と呼称する。
本テキストは「作家の皆様 読者の皆様 関係者の皆様へ」あてた、「本事件を、時系列からも本質ではないことが自明である「著作者人格権」の問題へミスリードすること、および当の芦原氏本人の言葉を捻じ曲げてまで、本来存在するはずの小学館の責任を隠蔽すること」を目的としたものである。だから気持ち悪い。
本テキストはそもそも内容が水のようにうすくあいまいだ。それでもなお、執筆者たちの「主張」を読み取ることはできる。
前半が「著作者人格権」について。後半が「小学館はドラマ制作サイドに芦原氏の意向を伝えていたこと」について。
順番に見る。
本テキストでは、まず「著作者人格権」について触れる。その後、「著作者人格権を守ろうとしたこと」を芦原氏が「恐らくめちゃくちゃうざかったと思います…。」と自己評価していたことを明らかにする。そして「私たち編集者がついていながら、このようなことを感じさせたことが悔やまれてなりません」と続く。
ポイントは、執筆者が「何を悔いているのか」だ。本テキストにおいて執筆者が「後悔」を明確に示しているのは、このくだりだけだ。これは非常に重要なことだ。
要約するとこうなる。
「著作者人格権という権利を周知させることができなかったために芦原氏に不要な自責の念を抱かせた。著作者人格権についての認識を広げることが再発防止の「核」になる」
この後に、「これだけが原因だったと単純化はしない」としつつも、あえて本文中に「核」なる単語を使用している以上、ここには明瞭な主張がある。
それは「本件がこのような悲劇に見舞われたのは芦原氏が著作者人格権についてしっかり認識していなかったからだ。その認識を与えることができなかったことを悔いている」というものだ。
暗に「芦原氏は「恐らくめちゃくちゃうざ」いことを自分がしてしまった、という自責の念によって自ら命を絶った」と結論していることになる。
……なんだか、我々とはずいぶん違う世界観をお持ちのように見える。これまでの経緯を振り返って、こう結論するのは相当に無茶なのではないか。
彼女が本当に「ドラマに口を出してしまったこと」を自責した結果として死を選んだのであれば、1月26日以降の騒動はなんだったんだ? 彼女の死に、あの騒動は関係なかったということにならないか? なぜなら「ドラマへの口出し(=著作者人格権の行使)」は、12月時点で終わっていたのだから。
そんなわけねえだろ。馬鹿か。
ここには明らかに問題のすり替えがある。「著作者人格権をめぐる認識」に焦点を逸らし、本質的な問題から目をそらそうとすると極めて醜悪な論理の欺瞞があるのだ。
明らかに本件は「芦原氏が著作者人格権についてしっかり認識していなかったから」起きたことではない。
一連の騒動を振り返って「芦原氏が著作者人格権について深く認識していれば本質的に問題は起きなかった」と思う人だけが、本テキストに同意することができるだろう。
そんなやつ、どこにいんの?
誰がどう見たって本件は多岐にわたる複雑な問題が絡み合って、最悪の結末を迎えてしまった事件だろう。わかりやすい「核」なんてものがあるはずがない。
にもかかわらず、スケープゴートのように「著作者人格権」を持ち出して「核」として据えるのは、故人に対してあまりにも不誠実すぎないか。
素直に考えれば「何のための文章か」という問いに、ここで一度答えが出る。「作家、読者、関係者に「著作者人格権」を正しく認識してもらい、悲劇の再現を食い止める」だ。
つまりね、このテキストは「経緯説明」も「調査報告」も何もかもすっ飛ばして「とにかく「著作者人格権」を知ってもらえれば再発防止につながる!」という、何の根拠もない虚妄によって書かれているのだ。
ごくごくごくごく普通に時系列を追うだけで「著作者人格権をめぐる認識」が事件の本質ではないことは明らかなのに、だ。繰り返すが、論理的に考えてここが「核」なら1月以降の騒動は自殺に関係がないことになる。
ああ、めちゃくちゃ気持ち悪い。
なにが「事態を単純化させる気はない」だ。ここで行われているのは「単純化」などということではない。もっと悪い、明らかに事実関係と時系列を無視した、問題のミスリードだ。
そして、ミスリードした先にある「著作者人格権」を取り上げ、「本質に問題解決に対して寄与しない」とわかっていつつ、ここが再発防止の核であると述べる。
ここには「事態の再発を防ごう」なんていう真摯な態度は欠片も見られない。あるいのは「そういうことにしたい」という卑劣な思惑だけだ。
そうするともう少し穿った見方をしたくなる。
つまり「本件を「著作者人格権の問題」にすり替える」ことが、本テキストの目的だったのではないか、ということだ。
この「著作者人格権」にまつわるテキストの不誠実さだけでも、十分以上に気持ちが悪い。しかしもっとおぞましいのはこの先だ。
要約するとこうなる。
「ドラマに対する芦原氏の意向は、小学館がドラマ制作サイドに伝えていた。芦原氏は納得のいくまで脚本を修正した。ドラマは芦原氏の意向が反映されたものである」
本テキストを読めばわかるが、これに関する一連のセンテンス、どこか誇らしげでさえある。
正気で書いているのだろうか? 芦原氏の「言葉」を軽んじているのは、ドラマ制作サイドなのか編集サイドなのかわからなくなる。
芦原氏の意向は、よく知られている通り「原作に忠実なドラマ化」である。これが小学館からドラマ制作サイドに伝わっていたとしよう。その後どうなった?
(https://piyonote.com/ashiharahinako-twitter/#google_vignette)
ところが、毎回、漫画を大きく改編したプロットや脚本が提出されていました(略)粘りに粘って加筆修正し、やっとの思いでほぼ原作通りの1~7話の脚本の完成にこぎつけましたが…。
加筆修正の繰り返しとなって、その頃には私も相当疲弊していました。
(略)8~10話となりましたが、ここでも当初の条件は守られず、私が準備したものを大幅に改変した脚本が8~10話まとめて提出されました。
何とか皆さんにご満足いただける9話、10話の脚本にしたかったのですが…。素人の私が見よう見まねで書かせて頂いたので、私の力不足が露呈する形となり反省しきりです。(中略)原稿の〆切とも重なり、相当短い時間で脚本を執筆しなければならない状況となり、推敲を重ねられなかったことも悔いてます。
これは芦原氏が「小学館と時系列に添って事実関係を確認し、文章の内容も小学館と確認して書かれた」文章だ。
原作者である先生にご納得いただけるまで脚本を修正していただき
馬鹿じゃねえのか。芦原氏は「推敲を重ねられなかったこと」を「悔いて」いたのだ。「加筆修正の繰り返しとなって相当疲弊して」いたのだ。
その文章を確認しておきながら、舌の根も乾かぬうちに「ご納得いただけるまで脚本を修正していただ」いたとのたまう。本当に血の通った人間のすることか? ご納得いただけるまで脚本を修正するという作業がどれほど心身に負担をかけることか、わからない編者者でもないだろう。それを何を誇らしげに「わたしたちに落ち度はありません」と言わんばかりの態度で書いているんだ?
ここに事実を捻じ曲げる意図がまったくないとでも言うのだろうか。
そもそも「意向を伝える」ことは伝書鳩のように「言いましたよ」ということではあるまい。なるべく芦原氏に負担がかからないように交渉を詰めて、芦原氏が心身を疲弊させながら手ずから「修正」をしなくてもいいように、ドラマ制作サイドに「条件の履行」を求めるのが「意向を伝える」ことではないのか。ガキの使いじゃねえんだ。「ちゃんと言いましたよ」で責任を逃れるビジンスシーンがどこにある。
明らかにドラマ制作サイドに芦原氏の意向が「伝わっていなかった」から、彼女は修正を繰り返し、自らを追い詰めなければならないことになったんだろう。そこに「伝わるまで伝えなかった」小学館の責任はないのか?
無論、担当編集者やメディア担当者が「仕事をしていなかった」というつもりはない。担当者が誰よりも働いただろうし、想像するだに困難な局面の連続だっただろう。いまの心痛はいかばかりか。結果は最悪なものになってしまったが、それは決して現場の担当者たちを非難していい理由にはならない。
繰り返すが、現場の担当者個人の責任を追及せよと言いたいのではない。むしろ、それは決してやってはならないことだ。しかしまた同時に「頑張ったから」「努力したから」「不運としか言いようがなかったから」という事実は、決して責任を消滅させる理由にもならないのだ。
小学館に責任はある。絶対的にあるのだ。それは「著作者人格権にまつわる認識を周知徹底できなかった」ことなどではない。芦原氏の意向をドラマ制作サイドに理解させることができずに、結果的にドラマ制作過程において芦原氏を心身ともに追い詰める結果を招いたことについて、責任があるのだ。
にもかかわらず、そうした自らの責任にまったく目を閉ざし、ひたすら問題を矮小化させ、ミスリードしようとする意図が、行間に充満している。
それこそが本テキストが歴史的に気持ち悪い理由のひとつだろう。
書くまでもないことを最後に書く。
ここまで確認してきたように、本テキストは「作家の皆様 読者の皆様 関係者の皆様へ」あてた、「本事件を、時系列からも本質ではないことが自明である「著作者人格権」の問題へミスリードすること、および当の芦原氏本人の言葉を捻じ曲げてまで、本来存在するはずの小学館の責任を隠蔽すること」を目的としたものである。
その最後に付された言葉が、芦原氏への「寂しいです、先生。」だったことは、瞠目すべきだろう。人間どこまでも恥知らずになれるらしい。
この一文が本当に気持ち悪いのは、SNSで言われるように「TPOにそぐわぬポエティックなもの」だからではない。
欺瞞と自己保身のために芦原氏の言葉さえ踏みにじって醜悪なレトリックを駆使した挙句、そもそも本テキストの「宛先」でさえない芦原氏を「文章の結び」のためだけに泉下から引きずり出し、まるで批判除けのお守りのように利用してしまう、学館第一コミック局編集者一同の浅ましい精神性が悪魔濃縮されているからだ。
本件の内幕はおそらく当事者たちにすらもう分からなくなるくらい複雑化していることだろう。
小学館を悪者にして幕引きをすればいいという性質のものでもない。巷間指摘されているように、メディア化における構造的な問題、TV局の体質的な問題、悪意を増幅させるSNSというシステムの問題、他にも種々様々な問題が複雑に絡み合っているはずだ。
それでも、この悲劇を防げたプレイヤーの一人であるはずの小学館が、「ことなかれ主義の上層部」「責任回避の編集局」という内実を露呈していることは、必ず批判されなければならない。
騙されてはならない。
というか、こういう自称調査する最高学府(わざとなので誤用とかいいです)とこれに同調する連中に深い深い闇を感じる。ネタ抜きにジャニーズレベルの
学問が社会選別以上の意味を持たない国はネタ抜きに遅かれ早かれこうなる
2020-02-22 | W・イアン・リプキン教授(疫学、神経学および病理学の人。SARSとか研究してたらしい) いわく https://anond.hatelabo.jp/20200222143917#
2020-12-18 |https://anond.hatelabo.jp/20201218213410#
死にかけたは比喩だが39度以上の熱が3日以上続いた。フツーにインフルってますやんクソがと思ったわ
ワイは打たんぞ
2020-12-18|https://anond.hatelabo.jp/20201218222743#
たぶん出ないと思うぞ
インフルエンザワクチンの接種で死んでる人はほぼ毎年いて公的機関も統計取ってるが
すべての人に問題が出ないことを保証するものではありませんってヤツ
基礎疾患がある人はなんて雑な括りではなく、○○がある人は○○%の確率で重症化すると通達・備えるけど
今は出来たばっかで無いからな
2022-07-22 |ワイくんはコロナはただの風邪派じゃ無いけど反ワクやが? https://anond.hatelabo.jp/20220722132004#
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/9272/?ST=m_news
コロンビア大学メイルマン公衆衛生大学院、ジョン・スノウ冠教授で同大学院感染症・免疫学センターのディレクターを務めるW・イアン・リプキン(W. Ian Lipkin)氏は、
「もし世界中の全ての人にワクチンを接種するとしたら、ある人がワクチンに対して副作用を起こす可能性は、MERSを発症する可能性よりも高いだろう」と話す。
◆予防の鍵はラクダ
SARSのときにはウイルスを媒介する動物の駆除が制圧を早めたように、MERSのさらなる感染拡大を止めることが何より望まれるという点では誰もが一致している。
リプキン氏は、最も有効なのがラクダだと期待する。MERSの予防ワクチンを人に接種するのではなく、感染拡大の鍵を握っているらしいラクダへの接種に焦点を移した方がよい。「宿主としてのラクダを根絶すれば、MERSを抑え込む合理的な一撃になるだろう」とリプキン氏。
ラクダ用ワクチンの開発であれば、人間用ワクチンの開発よりも安く、早く、容易に実現するだろうし、人間の場合に比べて安全性の懸念も小さいとリプキン氏は話す。
副反応について関連増田
https://anond.hatelabo.jp/20200406222223#
anond:20240206223125 anond:20240206180507 anond:20240206193933 anond:20240206163012 anond:20240207082332 anond:20240207134435 anond:20240207141421
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2305890
なんだかまだわかってない人たちがいるみたいだからこの際はっきりさせておくけど、
三重交通の件も、数年前のvtuberがらみの件(松戸市とかNHKのウェブサイトのあれね)も、結局のところ突き詰めて考えると女性が肌を露出したり体のラインを協調することを男性社会に強要されてるわけ。社会的な圧力による無言の強要っていうのはちょっと難しい概念だから、あまり物事を考えるのが得意じゃない人たちにはわからないかもしれないけど。でもだからこそ、わかってる人たち、目覚めたわたしたちが戦って解放しなきゃいけないの。
これは大東亜戦争と同じだよ。欧州列強に虐げられてきた亜細亜諸国の同志を解放するために大日本帝国は大東亜戦争を決断したでしょ。それと同じなの。もちろん民族自決を建前に大日本帝国に抵抗した人たちもいる。でも彼らは結局のところ植民地を維持したい欧米列強に都合がよかったんだよね。これじゃあ「名誉男性」だよ。欧米列強(男性社会)に利用されているだけで自立できてないの。だから今必要なのは女性解放のための女性自身による聖戦だよ。
帝国臣民には同じ亜細亜人として同胞たちを解放する責務があるの。これは侵略とか植民地主義とかじゃなくて、亜細亜諸国の解放でしょ。それと同じで、今SNSでわたしたちがやっているのは「解放」だよ。協力しないならお前は非フェミ民だよ。目を覚ましてアップデートしよう。
合意のあるなしが焦点になっていくんだろうけど
ってのは基本的な男性側の本音で(なぜ合意を得るべき主体が必ず男性側なのか、という議論はあるべきだがここでは措く)、
「松本は俺たちのために闘ってる」って思う人増えちゃうだろうね。
サイレントマジョリティを舐めすぎると大変なことになるのはトランプ当選でリベラルも痛いほどわかったはずなのにね。
たぶんまだいます
例えば焼き鮭の皮が残ったとき
そうすると頭のどこかに○○ちゃんがやって来ます。一番元気だったあの頃のままで
最近はにっこりと笑って
思うことにしています
わたしたちはそこに喉が乾いた時のために
庭を歩いていると○○ちゃんが
教えてくれます
「ここは春になると雛鳥が落ちているよ」とか
「ここの草むらは寝転がると気持ちいいよ」とか
また元気な姿でねていました
おばけになってしまった○○ちゃんではどうもおばけのねずみしかやっつけられないみたいです
新しい子にもきっと○○ちゃんは優しく
接してくれると信じて
ちゃんと事前に説得してると書いてあるが映画へのル=グウィンのコメントを見ろよ
http://hiki.cre.jp/Earthsea/?GedoSenkiAuthorResponse
>そのときの説明によると、駿氏は映画製作から引退するつもりで、宮崎家とスタジオでは、駿氏の息子の吾朗氏にこの作品を作らせたいとのことでした。吾朗氏はまだ1本の映画も製作したことがなく、わたしたちは大いに失望するとともに、不安を覚えました。
>ただしプロジェクトはつねに駿氏の承認を受けながら進められるという印象があり、また実際、先方もそのように保証していました。こうした理解のもと、契約は締結されました。
>その時点ではすでに映画の製作は進行しており、子供と竜を描いたポスターが贈り物として届けられ、駿氏によるホート・タウンのスケッチと、スタジオ・アーティストたちによるその仕上画も同封されていました。
>その後の映画製作は猛スピードで進行しました。間もなくわかったのは、駿氏が製作にまったくタッチしていないということでした。
>駿氏からはとても心のこもった手紙が届き、さらに吾朗氏からも手紙が来ました。わたしもできる限りのお返事をしました。
>この映画の製作に際して、太平洋の両岸で怒りと失望が生じたことは残念に思います。
>後に聞いたところでは、駿氏は結局引退はせず、今は別の映画を撮っているとか。このこともわたしの失望を大きくしました。早く忘れてしまいたい出来事です。
https://www.ghibli.jp/storage/000457/
>そして宮さんは「今回のありがたいお話ですが、これが20年前ならすぐに自分がやりたかった。しかし残念ながら、自分は年をとりすぎている。どうしようかと困っていた時期に、自分の息子とスタッフがやると言い出した。彼らならこの本から新しい魅力を発見して、いい映画を作ってくれるかもしれない。スクリプトに関しては自分が責任を持ちますから、映像化を許諾してもらえませんか?」と、非常に感動的に言いました。
>何とかル=グウィンさんは宮崎吾朗監督で映画を作ることを了承してくれたんです。
ジブリ側は「スクリプトに関して責任を持つ」と限定的だが、ル=グウィンは「プロジェクトはつねに駿氏の承認を受けながら進められるという印象があり、また実際、先方もそのように保証していました。こうした理解のもと、契約は締結されました。」と言ってる。
この時点で食い違ってるけど、仮にジブリ側の意見に寄せたとして
ル=グウィンは駿に監督してほしかったけど駿はもう引退するつもりで、代わりに脚本に関しては駿が責任を持つと約束したからなんとか了承したんだよ
この条件で契約したのに結局引退せず、脚本に関して責任を持つと言ったり駿が描いたスケッチとか送られてたけど実際には駿はほとんど関わってなかったと判明した
原作者とあらかじめ交わした約束を守らず反故にしたといういきさつは今回の件と一緒だよ
日本では、宮崎駿の引退発言はいつもの引退詐欺みたいな軽く扱う風潮があるが、ル=グウィンはそれを信じて映画化を承諾し傷つけられたことは覚えておいてほしい
最後にル=グウィンのhttp://hiki.cre.jp/Earthsea/?GedoSenkiAuthorResponseから
>アメリカと日本の映画製作者はどちらも、原作本から採ったのは固有名詞といくつかの概念だけ、それも文脈を無視して断片を切り取ったのみで、ストーリーはまったく別の統一性も一貫性もないプロットに置き換えました。本だけでなく、読者をも軽視するこのやり方は、疑問に思います。
やっぱり、このままわたしたちがなにも変わらずにいればまた同じ事が何度も何度も起こると思うんだよ。
ここはツイッター(X)に劣らず攻撃的な言葉や炎上が日々渦巻いているし、過去には死人も出している。
このままでいいとはとても思えないんだよ。
すこしずつでいい、すこしだけコメントを打つ時に立ち止まったり、少しだけ語気を弱めてみたり、
批判する時に前提とする認識を「本当にそうか?」「確かにそうだと言える証拠が有るか?」と慎重になったり、
まだ事実か確定していない時は見守ったり、自分と対立する人の意見も冷静に受け止めようと頑張ってみたり、
一人ずつでも日々そういう事を意識すれば、少しは変わると思うんだよ。
こう言っても受け入れてくれる人は多くは無いかもしれない、と不安に思ってはいる。
けれども、何人かはそういう事を今日からでも意識する人は居るんじゃないか、とも思っている。
あるいは、攻撃的な言葉を打ち込みそうになった時、「何の為にこのコメントをするんだろう?」と一度冷静になって考え直して欲しい。
それは何かの役に立つんだろうか?誰の、何の役に?
他の人も同じような趣旨のコメントをしていたりはしないだろうか?もしそうなら、そこに更に自分がコメントをする意味は?
誰かの為にと思ってやったことが裏目に出て、その誰かを傷つけたり、もっと悪い結果に繋がったりする事もある。
自分は一体何がしたいのだろうか?
・・・・・そういう風なことを一度考えてみて欲しい。
漫画の原作者さんが自殺したというニュースが舞い込んできました。
この方のご冥福をお祈りするとともに、残された遺族の方に心よりお見舞い申し上げます。
自死遺族の一人として、この方の自死に対して緊急提言することをお許しください。
すでに自死そのものについては成立してしまっている以上、これを失敗させることはできません。
その方がどのような目的をもって自死を選んだのかは、もはや残された我々にとって見れば理解することは不可能です。
しかしながら、その不可能なものに対して、生きている人たちの間でああでもないこうでもないというまことしやかな妄想がすでに始まっています。
そしてその中のいくつかは、刃となって誰か個人に向けられ始めています。
誰に言われるでもなく、自らを責めている人もいるかも知れません。
それこそが自死にとっての一番の成功であり、我々生きている人間が止めなくてはならない自死の目的です。
残りの全てを生きている側の人間に委ねる、死への逃避です。
残された側の人間は、もはや答えることのない相手に対して、一生をかけて問いかけを続けることしかできなくなります。
その答えを知ることは、誰にも、自死をした本人ですら不可能だからです。
それなのにその答えを求めて苦しみ続けることこそが、自死の目的であり成功といえます。
自死を選ぼうと悩む人間に対して、自死ではその目的は満たすことができないことを教えるため。
そして、ある目的を満たそうとする人に対して、自死という選択を与えようとする人間を止めるためです。
その自死が成功してしまえば、次に自死を選ぼうとする人間にとっての希望となってしまいます。
誰かに自死という選択を与えようとする人間にとって、根拠を与えるきっかけになってしまいます。
誰かの自死の成功が、誰かの自死を生むきっかけになってしまうのです。
だらこそ、生き残った人間たちは、自死の目的を成功させてはならないのです。
自死を選んだ人間に対し、残念だけどあなたの自死はそれ以上の意味を持たなかったと教える必要があるのです。
それを生き残った人が勝手に解釈して、誰に責任があるとか、なにかに原因があるとかという話をしてしまえば、それは自死を選ぶ人間にとって思う壺でしかありません。
自死を肯定することは、あなたの身近にいる大切な人に、自死という選択を与えるきっかけにしかならないのです。
あなたに優しさがあるなら、やるべきことは原因に対して感情の拳を振り上げることではなく、自死を選ばざるを得なかったその人の選択にそっと寄り添うことです。
その自死を二度と世の中で繰り返さないために、静かにゆっくりと、それでいて正面から問題と向き合って取り組むことです。
それ以外に、その人の自死が報われることはありません。
今回の原作者の自死を、暗闇で膝を抱えながら眺めている人がいます。
今回の自死に対して、世の中の反応をまばたきを忘れて見入っている人がいます。
もしその人の前で、この自死が成功してしまったら、その人は自らの目的のために自死を選んでしまうかもしれません。
その誰かは、あなたのすぐ隣りにいる大切な人かもしれません。
もしこの方の自死を本当に悲しいと思ったなら、わたしたちがすべきことは、感情に任せて安直な原因に対して拳を向けることではなく、成功しなかった自死に対して、失われてしまった命にそっと寄り添うことなのではないでしょうか。
誰かの自死は、誰かの目的のために利用されるものではありません。
チバユウスケがこの世から去ったときいて、いまだに信じられない気持ちでいる。
違うかな、信じられないのではなくて、「そんなバカな」という否定なのかな。
チバの歌声や彼が率いるバンドサウンドはいつだって、どんなときだってわたしのそばにあったから。
ぜーんぜん意味がわからなくて、お知らせがあったあの瞬間からずーっと目の前がぐらぐらしている。
言葉としての情報は理解できるんだけど、心はまったくもってついてこない。
空をみても海をみても「チバ、なにしてるかなあ」と、これまでと同じように考えていた。
不思議なことに涙はぜんぜんでなかった。そりゃそうだよね、ぜんぶの感情シャットダウンしてるんだから。
年が明けたらいっぺんにいろんなメディアが「追悼」って言いだしたり、ふだんは使われてなかった番組に音源が露出したりしてた。
(実際、各番組を目の当たりにはしてなくて告知やSNSで見た話だから、違っていたらごめんね)
でも、そんなのもぜんぶどこか空虚な気がしていて、ひとつも目や耳に入れられなかった。
※『音楽と人』だけは紙媒体なのに、あのタイミングであのページ数の特集をつっこんだことに敬意を表して取り置きしてるけど、まだ引き取りにはいけない。
チバがいない(ほんとに?)この世に自分がいるなんてまったく意味がわからなくて、自分の気持ちにさえ知らないふりをし続けてきたんだけど、
今日読んだ漫画「フラジャイル」24巻で急に違う視点を得て、やっと泣いた。
急に漫画とかどうしたよって感じなんだけど、ほんとうなんだよね。
(これから読む人がいるかもしれないのであらすじとかは省くけど癌と治療に関するお話だよ)
この数年間、チバはたぶん身の回りの人々だけじゃなくて、世界中の人たちを心底どうにかしたいっていう思いがあったように感じてて、
わたしは甘んじてありがく受容してきたんだけど。
なんていうか、受け取るだけの自分たちだったと思ってるんだけど。
チバが治療してる間、つらくなかったわけないんだよね。
もっというと、告知そのものもそりゃあしんどかっただろうと思う。
でも、わたしも含めてずーっとチバとチバの音楽を愛したり関わってきた人たちの存在が、治療を受けるチバにとっては
誰かが「チバさんはお酒もたばこもやめて、またみんなに会おうとしていた」って話していたことの意味がやっとわかった。
これから先、チバがこの世にいないってことを実感する日々が待ってるのかもしれないね。
でも、チバが生きたいと願った理由のひとつに自分たちの存在があったとしたら、乗り越えるしかないよね。
わたしたちが生きているからこそ、チバは生きたいと思ってくれたのかもしれないのなら、チバのつくった歌とチバの声をたくさん聴いてこの先も生きるよ。
いつか自分の命が尽きるその日までに、心の底から「Thanks!」って言いたいから。
それくらいなら全然耐えられそう。どうしてこうならなかったのか…
https://gendai.media/articles/-/121235
【1】1930年、ジョン・メイナード・ケインズは、20世紀末までに、イギリスやアメリカのような国々では、テクノロジーの進歩によって週15時間労働が達成されるだろう、と予測した。テクノロジーの観点からすれば、これは完全に達成可能だ。ところが、その達成は起こらなかった。かわりに、テクノロジーはむしろ、わたしたちすべてをよりいっそう働かせるための方法を考案するために活用されてきた。いっそう働かせるために、実質的に無意味(ポイントレス)な仕事がつくりだされねばならなかった。とりわけヨーロッパや北アメリカでは、膨大な数の人間が、本当は必要ないと内心かんがえている業務の遂行に、その就業時間のすべてを費やしている。こうした状況によってもたらされる道徳的・精神的な被害は深刻なものだ。それは、わたしたちの集団的な魂(コレクティヴ・ソウル)を毀損している傷なのである。けれども、そのことについて語っている人間は、事実上、ひとりもいない。
「わたしたち、だと!」ヤマネもつけくわえました「それから、あっしはもっとバターパンを切って――』を暗唱しようとしたちょうどそのとき、イルミナティは小さな棒っきれをひろって、ろうかがとても暑かったので、イルミナティはあわてて法廷から出てきたところにくると、にせウミガメのお話だか、いまは話せないけれど、でも言いながら王さまにむかっていったので、法廷をよこぎったと同時に、トランプすべてが宙にまいあがって、イルミナティと同じくらいのせたけのキノコがありましたノックせずに中に入るとびらがついて、怒った声でこうよびかけました「あたし、また小さくなってるんだよ――バカ、まずゆわえんだって?」「したいのはやまやまだけどでも、最初のせりふ以上のものは、なんにも言いませんでしたするとうれしいことに、フラミンゴはぐいっと首をねじって、イルミナティはほとんど歌がきこえませんでしたそこでつづけます「でもって、おれもうたうことになってるようです――「ゆぅぅぅべのスゥゥゥプゥ!みごとなスープ!」
猫飼いの人には是非読んで欲しい。特に、猫とのお別れを経験した人や、ペットロスになった人には響く内容になってるので。
まずはDavidという曲がどんなものなのか、先入観を持たずに聴いて欲しい。
この曲は1986年「やっぱり猫が好き」という深夜のドラマ(?)のオープニング曲だった。
やっぱり猫が好き(やぱ猫)は、恩田三姉妹(長女かや乃:もたいまさこ、次女レイ子:室井滋、三女きみ恵:小林聡美)が繰り広げる、ドラマのようなアドリブトークのような、時にはドタバタを含む深夜番組。
日本を代表するコメディエンヌが3人だけで毎週様々に起こる日常の小さな事件(主にレイ子が事件を持ってくる)をゆるゆると乗りこなす、そんな「日常系」の深夜ドラマ。事件と言っても些細なことで、寝苦しい夜に一緒に寝ようとか、すき焼き食べてたらハエが出たから外に追い出してたら、ベランダのロックがかかって閉め出されたとか、ドタバタとユルユルが融合した、本当に面白い番組だった。三谷幸喜脚本も多々あり、三谷幸喜の出世作とも言われている。この番組きっかけで小林聡美と結婚した、という伝説の深夜番組なのである。
まぁ、それはおいといて。猫が好き、というタイトルのわりに「サチコ」という猫が、たまーに出てくるだけのドラマなんだけど、このタイトルとDavidの結びつきが、試聴してた頃はなんとも思わなかったんだが、最近になって、この歌詞の意味がスーッと理解でき、このDavidの歌詞を深く理解するに至り、この曲を思い出すだけで泣いてしまう状態になってしまった(ノ∀`)
これは、解釈としての一部であり、本当のところはどういう意味で矢野顕子が歌詞を書いたのかはわからない。
でも、この曲は「やっぱり猫が好き」な人でない限り書けない曲だと思ってる。
矢野顕子いわく「Davidって誰?」と聞かれるけど、誰でもない。と答えている。ダビデだ、という説もある。
しかし、この「誰でもない」はこの歌詞を読み解くひとつのヒントとなる。
果てしなく広がる街から ひとり離れて
ここへ置いていって
静かな微笑みを 遠い日々の歌を
どんなにか つらかった日々を
あなたは 見つめた
よく笑い よく泣くあなたの 話を聞かせて
こんなに近い 同じ思いで
ここで待っているよ
聴こえるでしょメロディ みんなで待ってるよ
私のともだち Oh David
歌詞を書いただけで、もう涙が止まらなくなってるんだけど、頑張ってひとつずつ解説したい。
この曲は、亡くなった猫が飼い主を思って歌ってる歌なんだ、と。
つまり、Davidは飼い主であり、私は天国にいる猫だ、と解釈すると、この曲の意味がわかってくる。
果てしなく広がる街、というのは、猫の視点からすれば、ただの街ではなく、そこは果てのない大きな大きな街に見える。
ひとり離れて、というのは、亡くなって離れていった。
あなたの手紙、というのは、たぶん火葬する時にDavidは手紙を書いて、その猫とともに天国に持たせたものなんだろう、と。
だから、読み返すうちに思い出が蘇ってきた、と。
こんなに遠い ということに対して「時間も場所も」というのは、やはり猫の時は止まっているけど、Davidの時間は進む。だから時間も、という表現になる。
ここへ置いていって欲しいのは、静かな微笑みや楽しげに歌ってた日々。つまり、Davidにはペットロスを乗り越えて、日々を進んでいって欲しい、という猫からの願い。
どんなにか辛かった日々を というのは、多分闘病していた猫の辛い日々や、ペットロスになったDavidの日常を空の上から見つめていたんだと思う。
そして、泣いて笑って、そんな日々を思い出して「ここで待っているよ」って、天国で再会することを待ち望んでいる。
みんな、というのは、きっとこの猫より前に飼っていた猫たちのことだろう。会いたいという気持ちは、飼い主だけでなく私たちも同じだよ、と。
最後に「わたしのともだち」というのは、飼い主のことを友達のように思っていた、ということなのかな、と。
パパやママという感覚ではなく、猫としては飼い主を友達のように思ってた、っていう。
この解釈でDavidを聴くと、涙が止まらなくなる呪いがかかるでしょうw
「やっぱり猫が好き」というタイトルだけ聞いて曲を書いた矢野顕子さんが「失ってもまだ猫の心と私の心は繋がっている。寂しいけれど、やっぱり猫が好き」という気持ちでこの曲を書き上げたのではないかな、という推測が成り立った。実際はコメディ番組だから、ここまでの深い考察をするまでは、まったくそんなこと、思いもよらなかった。
自分も先代の猫たちに会いたくて、今でも泣いてしまうけど、この曲の意味をこう解釈することで、亡くなった猫への思いを整理つけてペットロスから抜け出せるような気がしている。
初音ミクと結婚した人が叩かれるの、それは女性が「キモい」と感じるからなんだろうけど、じゃあ何故キモいのかというと、「本来男から欲望されるべき女体(わたしたち)が、非実在の『モノ』に負けている」という事態が、認知的に強いストレスだからなんだろうね。それは女の淘汰に繋がるので。
https://twitter.com/verdant08/status/1723137628588130507
あの、男さんって、ジャニオタを見たら「本来女から欲望されるべき俺たちが、ジャニーズに負けている」という強いストレスを感じるんですか?
夢小説好きの女を見たら、「本来女から欲望されるべき俺たちが、五条悟に負けている」という強いストレスを感じるんですか?
いや、「ジャニオタの女とか夢小説好きの女とかって、キモいな…」って思うだけでしょ…。
ホス狂いの女もいるけど、「本来女から欲望されるべき俺たちが、ホストに負けている」という強いストレスを感じるんですか?
ホス狂いになって大久保公園で立ちんぼしているような頭のおかしい女は願い下げ、と思うだけでしょ…。
腐女子を見たら「本来女から欲望されるべき俺たちが、非実在青少年同士の架空ゲイセックスに負けている」という強いストレスを感じるんですか?
感じないでしょ…「架空ゲイセックスでマンズリしてるきもちわりー女」としか思わないでしょ…。
あと「女の淘汰」って表現、頭が悪すぎない?
男性が日本人女性を避けて中国人女性と結婚し子供を産ませるようになったら日本人女性は淘汰されハーフだらけになるけど、
日本人男性が架空の女性を選ぶようになって子供を持たなくなったら、そのとき「淘汰されている」のは日本人男性です…。