はてなキーワード: やるかやらないかとは
とにかく労働が多すぎるし、そこに目を瞑ることが仮にできたとしたって、病気とか事故とかそういうイヤ〜な要素はかなりある
しかも避けられない
コンテンツとして、間違いなく「万人受けする」とは言えないだろこれ
俺はこのコンテンツめちゃくちゃ嫌いですよ
メイン部分が本当に受け付けない
自由意志でやるかやらないかを選べるなら、絶対にやらないと断言できる
人生を始めるかどうか迷ってる人がいたら、本当にやめておけ!というと思う
で、俺、これ勝手に始めさせられてんだよな
カンタンにやめられるならまだ許せたし、もうとっくにやめてるだろうけど、実際やめるのも結構難しい
昔一回やめようとして失敗してそこそこの騒ぎになったし…
なんかこう、「客観的に見て好みが分かれるうえにメチャクチャ長いコンテンツを、他人に強制的に摂取させて、やめることは許さない」みたいな構造なわけじゃないですか
ひどくねえか?
せめてやめさせてくれよ
俺もういいよこれ
飽きたとかじゃなく、シンプルにつまんないし嫌いです not for meです
いいところが何ひとつないとは言わないし、好きな人がいるのもわかるし、好きな人は楽しんでたらいいんじゃないかと思います
でも、俺はやめたいですし、他人に強制的にやらせるもんではないと思います
本当に頭おかしいですよ
勝手に他人を巻き込んで、降りることも許さない、そんなのが当たり前に許されてる営為ってほかにないじゃん
「お茶はいかがですか?」で合意の大切さを学ぶ、みたいな動画あったじゃん
完全にアレなんだよな
俺は口に無理矢理お茶を注ぎ込まれて、やめてくれ、こんなのは飲みたくない!つってんのに、社会そのものが「お茶はおいしいものなのだから、飲みなさい、飲まないことは悲しいことだ」みてえなことを言ってくる
そんなバカな!
やりたくないことを無理やりやらすなよ
やっぱりここになってきて本格的に冬マジ間近!って感じで寒くなるわ。
寒くなるって思って思い出したら、
私の今年の目標のDSのドラゴンクエストVをクリアするって今年の目標に掲げていたんだけど、
てっきりすっかり忘れていたわ!
もうさ、
途中で再開するぐらいなら
確か最初の祠の4つが見付からなくなって止まってるんだったわ。
スプラトゥーン2とかはやってもやってもやり尽くせないのに、
斧とかさ弓矢の弓とかさ、
私は弱い心を強く!と思って攻略法を見ない!って心に決めているんだけど
これでいいのかしら?って私の心の中にしこりが残るわ。
でもね、でもちゃんとE.M.M.I.ちゃんは全部自力で倒したわよ!
足場が不安定なところでこれチャージしてる時間が間に合わない!
絶対無理!って窮地に立たされたけど、
考えて考えて考え抜いたらチャージする場所を見付けてE.M.M.I.ちゃん倒せたわよ!
むしろラスボスの倒した達成感というよりもE.M.M.I.ちゃんをもう全部倒して恐怖にさらされない安心感の方が充実感としては大きかったかも知れないわ。
最後E.M.M.I.ちゃんが仲間になってくれると思ったんだけど、
DSのメトロイドのラスボスの方が強かったイメージがあるけど、
だからそんな感じでDSのドラゴンクエストVをやるかやらないかは私次第なのよね。
なんか進めさせるのがしんどいわー
なかなかその面が辛いわ。
スプラトゥーン2も相変わらずガチエリアで隠れてロボットボムを投げまくるのが楽しくて
ガチエリアはとにかく隠れてロボットボムを投げるのがいいわね。
そうやってなんだかんだ言って、
あそんでいるはあそんでいるんだけど、
ゼルダだけは進まないのよね。
どこに言っていいか何をして良いのかあまりにフリーダムすぎて、
あれにまだ慣れないわー。
なんかそう言う昔の記号的な意味合いでしか書かれなかったキャラクターや合図が
ドッグファイト系の戦闘機があれミサイル255発も抱えて飛べないでしょ?
写実的になればなるほどそういった違和感の突っ込みどころがあるわ。
宝箱って記号でアイテムがあるよ!ってプレイヤーに知らせること調べさせることが出来たけど、
こんなところにリアルグラフィックで描かれた宝箱があったら不自然でおかしい!って写っちゃうのよね。
なんか疑ってしまうわ。
怪しい!ってね。
これは食べたらだめなやつ!って現実世界の判断基準を持ち込んで
超絶リアルグラフィックで描かれた美味しそうな焼きたてチキンターキーなんだけど
絶対怪しいわよね。
だってみんなだって道端にから揚げ落ちてたら拾って食べないでしょ?
それと一緒の感覚。
フィールドにむき身のまま落ちている食べ物を拾って食べるってことに違和感を覚えるのよね。
きっと。
幸いゲームと現実の区別が付かなくなった若者の話でそう言った話し、
道端に落ちているリンゴを拾ってお腹壊したってニュースが出てこいないって理由は
まだみんな見境があるって事なのかも知れないわね。
ゲームと現実の境が本当になくなるなんてまだまだ遠い未来のことなのかも知れないわ。
うふふ。
なんだかおにぎりを本当に食べたくなってくるけど
私が見た中で
そこは現実味あるというか、
謎の緑のドロドロの液体が体力回復のやつじゃないのかよ!?って突っ込んじゃう。
急遽急須で煎れたわよ。
少し温めのお湯で飲みやすくした
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
いざ開けてみるとどの競技もつつがなく進行するので現場の人たちはやるかやらないかわからない状態でもちゃんと準備してきたんだな。
思えば開会式もドタバタで自分はとんでもない進行ミスが起きるんじゃないかってハラハラしていた。ハードル低いからか開会式は統一感ないなと思いながらやってる間は楽しめた。あるいは無観客だったのがよかったのかな。実際ボランティアはスタッフが余ってるみたいだし。
選手もすごいよ、卓球も水泳も感度した!ずっと非常事態が日常化していてあらゆる祭りも自粛してきた中で、無観客のオリンピックは今できる最大のハレの日なのかもしれない。
でも今まさにコロナ禍における人類最大の実験が目と鼻の先で行われていることに恐怖を感じる。二週間後に何が起こるんだろう?去年のニューヨークのような医療崩壊?世界各地で変異したコロナウィルスが東京で再集結したことによる最強最悪の変異株の誕生?それが世界中に再拡散することによる同時多発的な医療崩壊?その責任を日本が追求されたことによる国際社会からの追放?
それと、東南アジア諸国が今まさに感染爆発してロックダウンしている中、先進国のメダルラッシュは世界丸ごと格差社会なんやなあってベトナムの取引先と必死に納期調整しながら思いました。
体育館や公園を整備して国民が思い思いにスポーツできる環境を整えるのは大事だとは思うけど、オリンピックいらないよね。
オリンピックが無くなるからみんなスポーツやめたり皇居ランニングやめたりする訳ないよね。
オリンピックが無いと困るんです、って言ってる競技もあるけど、それぞれのスポーツが自分たちで大会運営して自分たちで儲けられるようにすれば良いだけじゃない?
てか自分たちで儲けられないスポーツは趣味でいいでしょ。仕事の片手間に選手が金払ってやれば?
てかそもそもオリンピックの理念にオリンピックは必要ないよね。
卓越→エンジニアやサラリーマンの皆様(一部)が毎日卓越した技術を奮ってますよ
友情→世界的なプロダクトを作ってる企業たくさんいるし、毎日外国の人達と仲良くミーティングしてますよ
敬意→敬意ないと今コンプラ違反で怒られる世の中ですから前提です。てか、オリンピックって日本国民に敬意払ってます?
結局オリンピックって金の話でしょ?
偉そうな理念掲げてるけど、ただの金儲けするための道具。
それなら俺も同意するし、インバウンドで観光業や地方が潤うならいいと思う。
オリンピックの金儲けに関する意義は結構日本国民内でもコンセンサスが取れてたと思う。
その唯一コンセンサスが取れていた金儲けができないとわかったならさっさと辞めるべき。
国だってそれがわかってたから、今更無観客辞めようとしてるんでしょ?
ただその反動でお盆が緊急事態宣言で潰れたり、無理して在宅勤務を続けてる業種の在宅勤務期間を伸ばして業務効率落としたりすることが続くことで生まれた経済的損失をペイできるくらいの効果がコロナ禍のオリンピックで得られるのかね?
そういうのをちゃんと算出して、データに基づいた判断をして欲しいよね。
30代前半になる。
結婚して4年くらい経つけれど、「自然妊娠で良い」と思っていた。
「子どもは引っ越しの後だよね」と最近話しあったのだけれど……。
そして私の友人にも2人目の子供がいると知ると
途端に「子ども欲しい!」となってきたみたいだ。
月1、やるかやらないか程度で自然妊娠とか無理ゲーとか思っていたのだけれど
そのうち出来てしまうのだろうか。
痛いの嫌いだし怖いから、妊娠も出産もしたくないというのが正直なところ。
自分の面倒をみるのも面倒なのに、子どもを育てる自信なんてあるわけない。
自分の面倒を見れないクソ女が、他人を世話できると思ったら大間違いだと思う。
そこんところ旦那も手伝ってくれるだろうけれど、
「週1日の休みしかないんだぞ、こっちは!!!」とキレられるだろう。それは確実だ。
育てられないという理由の他に、引っ越しなんて絶対に出来なくなるのが嫌だ。
旦那がもっともっと稼いでくるとか、何よりも金があれば全て解決するんだ。
子どもが出来たら働きたくないのだけれど
食費や光熱費分は稼げと言われている。何があっても仕事からは逃げることが出来ない。
地獄だ。
今の会社を辞めたいと思っているが、
旦那にもバレているかもしれないが、糖尿病に片足突っ込んでいる。
こんな状況で子どもなんぞ無理だ。
あーーーぁ、クソ女でごめんねぇ~~~~
・五輪をやるとなったら対外的な体面を整えるために五輪前から五輪中は緊急事態宣言を一時的に解除するだろう。それはコロナ収束の妨げになる。
・五輪期間中は国外から数万人の五輪関係者が入国する。選手とその関係者に対しては比較的厳重な規制をかけるようだが、その他の人間に対してどうするかは菅総理は言葉を濁している。つまりは、五輪期間中に国外からさらにコロナの変異株がもたらされる。
・医療体制がひっ迫する自治体も出る中で政府は五輪のための医療関係者のボランティアを募っていて、休眠中の医療関係者がいるからそういう人たちを動員すればいいだろうと言っている。しかし、休眠中の人材はいざという時のバッファとなり得る人たちだ。そういう人材まで駆り出したらいざという時のバッファまで減ってしまう。
韓国発のドキュメンタリー映画『狼をさがして』が間もなく日本で公開される。金美禮(キム・ミレ)監督の2020年の作品で、原題は『東アジア反日武装戦線』という。映画が描くのは、1974年から75年にかけての出来事――「東アジア反日武装戦線」(以後、「反日」と略す)を名乗る人びとが「連続企業爆破」を行ったこと――とその背景である。
描かれる時代は、アジア太平洋戦争で日本帝国が敗戦してから30年近く経った時期に当たる。活動を担ったのは、敗戦から3~5年経った頃に生を享けた、当時は20代半ばの若者たちだった。いわゆる「団塊の世代」に属する。その彼ら/かの女らは、敗戦以前に日本がなした植民地支配および侵略戦争の責任を問うた。同時に、戦後過程はすでに30年近い長さに及んでいるにもかかわらず、日本がその過去を清算することもないままに、改めて他民族に対する加害国と化している現実に警告を発した。手段として使ったのは爆弾だった。
その標的はまず、戦前は絶対無謬の存在として日本帝国を率い、戦後は「平和」の象徴となった昭和天皇に向けられた。だが、「お召列車」の爆破計画が実現できなくなった後は、戦前・戦後を貫いて繁栄する大企業に的を絞った。
戦後日本を象徴する言葉は、長いこと、「平和と民主主義」だった。それは新憲法を貫く精神でもあると多くの人びとが考えていた。
天皇の戦争責任が問われることも裁かれることもなく始まった戦後は、「一億総無責任体制」となった。この体制の下では、日清戦争以降、断続的にではあっても半世紀もの間(1894年→1945年)アジア太平洋地域で戦争を続けた近代日本の実像を覆い隠し、この戦争の全体像を、最後のわずか3年半の「日米戦争」に凝縮して象徴させることが可能だった。広島・長崎の「悲劇」を前面に押し出し、米軍占領下の沖縄は辺境ゆえに無視して、日本全体があたかも戦争の「被害国」であるかのようにふるまった。「反戦・平和勢力」の大勢も、そのことに疑いを持たなかった。
1960年の安保闘争の時にも、1965年の日韓条約反対闘争の時にも、戦前の日本帝国がなした対外政策と関連づけて現在を分析する言動はほとんど見当たらなかった。すなわち、日本社会は総体として、近代日本が持つ「植民地帝国」としての過去をすっぽり忘れ果てていたと言える。
1960年代後半、この社会・思想状況はゆっくりとではあっても変化し始める。日本は、高度経済成長の過程で目に見える形での貧困は消え失せ、急速に豊かになった。この経済成長の最初の基盤となったのは、1950~53年の朝鮮戦争による「特需景気」だとする捉え方が常識となりつつあった。
時代はあたかも米国のベトナム侵略戦争の渦中で、沖縄を軸に多数の米軍基地があり、インドシナ半島に輸送される米軍物資の調達地でもある日本は、再度の「特需景気」に沸いていた。近くに住むアジアの民衆が苦しんでいる戦争によって自分たちの国が総体として豊かになっていく――この際立った対照性が、とりわけ若い人びとの胸に突き刺さるようになった。
加えて、米国でのベトナム反戦運動は、黒人や先住民族(インディアン)の権利回復の動きと連動していた。植民地主義支配が人類史に残した禍根――それが世界じゅうで噴出する民族問題の原因だとする意識が、高まっていった。
「東アジア反日武装戦線」に所属した若い人びとは、それまでの歴史像と世界像が一新されゆくこのような時代のただ中にいた。彼ら/かの女らは、日本の近代史と現在が孕む問題群に、「民族・植民地問題」の観点から気づいたという意味では先駆的な人びとだった。
「重大な過ち」の根拠を探り続けた歩み
「反日」はこうして獲得した新たな認識を、すぐ実践に移そうとした。当時刊行された「反日」の冊子『腹腹時計』から鮮明に読み取れるのは、次の立場だ。「そこにある悪を撃て! 悪に加担している自らの加害性を撃て! やるかやらないか、それだけが問題だ」。政治性も展望も欠いた、自他に対する倫理的な突き付けが、行動の指針だった。「反日」が行った、1974年8月30日、東京・丸の内の三菱重工ビル爆破は、8名の死者と385名の重軽傷者を生み出す惨事となった。
「反日」にはひとを殺傷する意図はなかった。事前に電話をかけて、直ちに現場を離れるよう警告した。だがそれは間に合わなかった。しかも、なぜか「反日」は三菱爆破の結果を正当化し、死者は「無関係な一般市民」ではなく「植民地人民の血で肥え太る植民者だ」と断言した声明文を公表した。映画の前半部で、この声明文がナレーションで流れる。
多くの人びとはそこで「引く」だろう。半世紀前の当時もそうだった。それゆえに、彼ら/かの女らは、日本では「テロリスト」や「血も涙もない爆弾魔」の一言で片づけられてきた。
その責任の一端が、「反日」そのものの言動にあったことは否定し得ないだろう。だが、実はそこにどのような内面の思いが秘められていたのかということは、路傍の小石のように無視されてきた。そんな渦中にあって、獄中の彼ら/彼女らは初心を語ると同時に、自らが犯してしまった重大な過ちの根拠を探り続けた。獄外には、その試行錯誤を〈批判的に〉支え続ける多様な人びとの存在があった。映画『狼をさがして』は、これらの獄中・獄外の人びとの歩みを74分間の時間幅の中に刻みつけている。
画面には登場しない「主人公」のひとりは、「反日」狼部隊の大道寺将司である。彼は2017年5月、長らく患っていた多発性骨髄腫で獄死したが、死刑が確定してのち、彼はふとした契機で俳句に親しむようになった。生前4冊の句集にまとめられたその作品は、人間関係も自然とのふれあいも極端に狭められた3畳間ほどの独房にあっても、人間はどれほどの想像力をもって、ひとが生きる広大な世界を、時間的にも空間的にも謳うことができるものかを証していて、胸を打つ。それは、ひとを殺めたという「加害の記憶と悔悟」を謳う句において、とりわけ際立つ。
映画でも紹介される「危めたる吾が背に掛かる痛みかな」もそうだが、他にも「死者たちに如何にして詫ぶ赤とんぼ」「春雷に死者たちの声重なれり」「死は罪の償ひなるや金亀子」「ゆく秋の死者に請はれぬ許しかな」「いなびかりせんなき悔いのまた溢る」「加害せる吾花冷えのなかにあり」「秋風の立ち悔恨の溢れけり」などの秀句がある。
「反日」のメンバーの初心と、結果としての重大な過ちを冷静に振り返るこの映画を制作したのは、韓国の映画監督キム・ミレとその協力者たちである。ふとした機会に「反日」の思想と行動を知ったキム・ミレ監督がこの映画を制作したのは、「人間に対する愛情、その人間を信じること」からだったという(「『狼をさがして』――金美禮監督に訊く」、東アジア反日武装戦線に対する死刑・重刑攻撃とたたかう支援連絡会議=編『支援連ニュース』420号、2021年3月6日)。社会的正義のために、加害国=日本に搾取され殺された東アジア民衆の恨みと怒りを胸に行動した結果、数多くの人びとを死傷させてしまった、つまり自らが加害者になったという事実に向き合ってきた「反日」メンバーに対する思いを、かの女はそう語る。
だが、その裏面には、次の思いもある。彼らは「長い期間にわたって、自らのために犠牲になった人々の死に向き合って生きねばなりませんでした。苦痛だったかもしれませんが、幸いにも『加害事実』に向き合う時間を持つことができたのです。8名の死と負傷者たち。それがこの作品の制作過程の間じゅう私の背にのしかかってきました。しかし、彼らと出会うことができて本当に良かったと思います。この作品は、私に多くのことを質問するようにしてくれたからです。どう生きれば良いのか、今も考えています。」(キム・ミレ「プロダクション・ノ-ト」、『狼をさがして』劇場用パンフレット所収)。
74~75年当時の「東アジア反日武装戦線」のメンバーからすれば、韓国の人びととの共同作業は「見果てぬ夢」だった。日本の自分たちが戦後の「平和と民主主義」を謳歌している彼方で、韓国および北の共和国の人びとは、日本の植民地支配を一因とする南北分断と内戦、その後の独裁政権の下で呻吟していたからだ。
そんな時代が40年近く続いた後で、少なくとも韓国では大きな体制変革が起こった。表現と言論の自由を獲得した韓国の新世代のなかから、こんな映画をつくる人びとが現われた。キム・ミレ監督は、この映画が日韓関係の構図の中で見られたり語られたりすることを望まないと語る。過去を振り返ることをしない社会は、前へ進むことができない。日本も韓国も、どの国でも同じことだ、と(前出『支援連ニュース』および2021年3月18日付「東京新聞」)。
最後に、もうひとつ、肝心なことに触れたい。この映画を際立たせているのは、女性の存在だと思われる。
刑期を終えたふたりの女性が、生き生きとしたその素顔を見せながら、獄の外から窓辺に寄ってきた猫との交友を楽し気に回想したり、かつて自分たちの闘争に大きく欠けていたものを率直に語ったりする。前者の年老いて元気な母親は、娘が獄に囚われてから、娘と自分たちを気遣う若い友だちがたくさんできたと笑顔で語る。二人は自宅の庭を眺めながら、「アリラン」を歌ったりもする。
キム・ミレ監督らが撮影する現場に付き添う姿が随所に見える女性も、長年「反日」の救援活動を担ってきた。撮影すべき風景、会うべきひとについて、的確な助言がなされただろう。
死刑囚の獄中書簡集を読んで、あんな事件を引き起こしたひとが自分と変わらぬ、どこにでもいるふつうの青年だと知って、縁組をして義妹となったひとの語り口もごく自然だ。女たちの運動を経てきたと語るかの女の言葉を聞いていると、獄中の死刑囚である義兄とは、媚びへつらいのない、上下の関係でもない、水平的なものだったろうと想像できる。
そして、もちろん、韓国人のキム・ミレ監督も女性だ。弱い立場にある労働者の現実を描いてきたかの女は、男性の姿ばかりが目立ち、男性優位の価値観が貫いている韓国労働運動の在り方に疑問を持ち、スーパーで働く非正規の女性労働者が大量解雇に抗議してストライキでたたかう姿を『外泊』(2009年)で描いた。日本でも自主上映されたこの作品に脈打っていたフェミニズムの視線が、『狼をさがして』でも息づいていることを、観る私たちは感じ取るだろう。
これはぶっちゃけあると思う
後天的に男に目覚めることがあるなら逆にセクマイを「矯正」してストレートにすることだって普通にできるはずだ
実際昔はそれがまかり通っていたのだろうし
もっと昔の戦国時代の武士なんか、みんなや上司がやってるから、それこそ一昔前のゴルフみたいな感覚で茶道も衆道もやってたんだろう
単に周りがやるかやらないかというだけでも、そこそこ影響はあるんじゃないだろうか
その上で人権侵害を伴うから無理強いすべきじゃない、というのはもちろん思うけど
「生まれつきだから差別してはいけない!」というルールを掲げているから変えられないということにするしかないだけで、ちょっと苦しいよなあというのは正直思ってしまう