はてなキーワード: ねぎらいとは
扶養内パートは、時に批判の対象になる。ずるをしている。楽をしている印象を持たれがちでもある。
私自身は、子どもが小さい(中学年の小学生と、幼稚の年中)ので、扶養内でパートをしている。(正社員だった前職は、流産をきっかけに退職した)
そろそろ、扶養を外れてフルに伸ばしたいなと思ってはいるが、現時点で体がしんどく、二の足を踏んでいる。
帰宅時には、すでに体は疲労困憊。それからの怒涛の育児をしながらの家事は修羅場だ。貴重な平日休みや買い物や日々の行き届かいない家事に費やされる。土日は、育児と家事。おまけに、夫や両親からは扶養内パートは仕事とみなされない。両親からは家事・育児をおろそかにするなとはっぱをかけられ、夫からは、最低限の家事を求められる。
ちなみに、便利家電や家事の外注について、夫は肯定的ではない。
夫の意見を無視して家事をお金で解決するとして。現職のままであれば、扶養内からフルに伸ばしたとしても、年収は50万ほどしか増えない。
この50万をどうみるのか。
たった50万なのか。されど50万なのか。
この50万から便利家電や家事の外注分の金が飛んでいくと考えると、残りのわずかなお金のためにフルに伸ばすメリットってどこまであるのだろうか、と考えてしまう。
もっとも、時給の安さがそもそもの原因ではある。だが、小さな子供を抱えた主婦を高い時給で雇ってくれる職場など、地方にはそうそうない。
例え、フルに伸ばしたとしても、だ。
はたして、夫も両親も私を「働く女性」とみなして、サポートしてくるだろうか。ねぎらいの言葉をかけてくれるだろうか。非常に疑問だ。
経済的にも自立はできない。
だったら、扶養内パートでいいや、と思う気持ちが、私は大いに理解できる。
決して楽でも何でもないのだけれども。
おつかれさま、本当におつかれさまです。
あなたが書いてることは至極真っ当です。それぐらいつらいもの。
なので、現実を知らない訳わからないコメントは全部無視して、ねぎらいの言葉だけ見てね。
最初の1ヶ月が一番しんどいですよね。寝かさない拷問ってのがあるって聞いて、そりゃつらいはずだと私は思ってました。
私は1人目の時に出血1Lで、2人目はそこまでなかったのですが、産後の体調が全然違いました。1.5なんて何もしなくてもフラフラですよね。
1人目の産後に悪いことが起こるという妄想みたいなことがしょっちゅう頭に浮かんでたんですが、それも出血が多かったからだろうなと今では思います。
鉄分が足らないって鬱の原因にもなるらしくて。
鉄分足らない人は1日100mgとか飲んだ方がいいそうで私は今でも毎晩150飲んでます。
数ヶ月たったら楽になる、なんて今がしんどい人に安易に言えないんだけど、でも本当です。
鬱に片足突っ込んで妄想に取り憑かれてた私ですら2人目考えるようになったので、この先は楽になります。
その他、こんなのもう知ってるよと思われるかもしれませんが、産後ヘルパーやシッターに数時間でも半日でも預かってもらって寝る。調べて予約する余裕なんてないだろうけど、一度登録したら後は同じことすればいいだけだから。
あと、市の育児相談窓口に電話で話を聞いてもらうだけでも気持ちが楽になるかもしれません。
またつらかったら吐き出しに来て。
70を越えた両親はワクチンを2回とも接種した。
他にも身近な高齢者は次々にワクチンを終えてとりあえず身近で感染リスクの高い人はいなくなった。
その頃からふつふつと湧いてきた感情が、今のうちに感染して楽になってしまいたいという気持ちだった。
周りの人間たちは不毛な議論を繰り返しては今の状況を人のせいばかりにする。
協力しあって乗り越えればよいのに、まるで自分以外のどこかに原因があるかのように好き勝手主張している。
声を大にして言いたいのは、コロナが一向に収束に向かわないのはそういう声の大きな人たちのせいだ。
あなた方が自分の欠点を認めて、異なる考えの人同士欠点を補い合えれば事態はもっと早く良くなっているはずだ。
今の自分の年齢なら、コロナに感染してもぎりぎり軽症ですむ可能性が高い。
ワクチンはまだ1回目だけど、それでもないよりは全然安心できる。
できればもう少し医療機関に余裕があるほうが安心できるが、逆に感染者が増えている今だからこそ、感染しても仕方ないと思ってもらえるかもしれない。
自分でも馬鹿だなと思いつつ、そんなことを考えてここ数週間を過ごしていた。
そしたら見事に感染した。
油断したわけではない。信じてもらえるとは思えないが、世間の人よりはよっぽど気をつけていたほうだ。
検査で陽性を告げられた時、これからどうなっていくのかという不安よりも、ほんの少しだけ嬉しさが勝った。
人より対策していたことは皆も知っていたので、驚きとともに温かいねぎらいの言葉をもらう。
2週間、だれに遠慮することなく休める。
もともと引きこもり体質なので、外に出られないことは一切苦にならない。
あとは症状がどこまで軽症で済むかどうかが問題だ。
幸いにしてほぼ発熱のみの軽症で済んだ。ワクチンが効いたのだろう。
辛かったのは最初の数日だけで、あとは割と元気だった。
ただ、気力が伴わないので、難しめのゲームや映画など精神力を使うものは一切やる気が起きなかった。
自宅療養期間も終わり、社会復帰した。
皆に心配され、軽症で済んでよかったと喜ばれた。
そして何より、もう、表向きの感染対策だけで、向こう半年は感染を気にしないで済むことが死ぬほど清々しかった。
ウィルスを撒き散らさないために手指の消毒や手洗いは相変わらず続けている。
でも、それが自分が感染しないためなのと、人を感染させないためなのとでは気持ちのゆとりが全然違う。
そこに恐怖はない。
こんなにすっきりした気持ちになれたのは本当に何年ぶりだろう。
そう思った時、やっぱり自分はコロナに感染したかったのだと思った。
きっと世の中にもそう考えている人は少なくないはずだ。
絶対に感染したくない人と感染したいと願う人とでは、会話なんかが成り立つわけがないと思った。
年に数回だけど必ず一緒に遊びに行っていた友人も早く感染すればいいのに。
そうしたら二人で、誰に遠慮することなくまた遊びに行くことができる。
ほんの数パーセント、重症化というリスクがついてまわるロシアンルーレットのようなギャンブルだけど。
生存バイアスで満ち溢れた今、皆に勧めたくなるこの抑えられない気持ちを理解してもらえないだろうか。
この清々しさをみんなにも感じてもらいたいと心から思ってしまう自分を否定することは難しい。
自分は運良く生き延びた。
東京五輪の開会式で入場する台湾選手団=7月23日、東京・国立競技場
NHKが7月23日の開会の中継で、入場行進する台湾選手団を「チャイニーズ・タイペイ(中華台北)」ではなく、「台湾」と呼称したことが話題になったほか、台湾代表選手の活躍が大きい。台湾のインターネット交流サイト(SNS)には今、五輪関連の投稿があふれている。
台湾は今回、4日時点で金2個を含む計11個のメダルを獲得し、史上最多記録を更新した。蔡英文総統は連日のようにSNSを更新。台湾に順次戻ってくる選手に向けて「五輪の英雄、お帰りなさい」とねぎらいの言葉を掛けている。
4日には、中国チームを破り、金メダルに輝いたバドミントン男子ダブルスの李洋、王斉麟両選手、銀メダルを獲得した同女子シングルスの戴資穎選手らが「凱旋(がいせん)帰国」。空港には大勢のメディアやファンが集まった。軍は主力戦闘機「ミラージュ」を派遣し、選手らを乗せた航空機に随伴飛行させ、帰還を歓迎した。
一方、テレビ局は、開会式の中継で「台湾です」と紹介したNHKアナウンサーの声を、今も繰り返し放送。SNSでは「日本がわれわれに本来の名前を返してくれた」などと好意的な声が上がった。「一つの中国」原則を主張する中国側は、不快感を示しているが、台湾では日本語の「台湾です」がちょっとした流行語になっている。
こちらの記事も拝読しておりました。なかなかお一人お一人の思いにすべて反応できず、余計なご心労をお掛けしてしまったこと、お詫びいたします。
あなたがお怒りになるだけの経緯はよくよく伝わってきました。自分の思い・はからいによって得ようとした結果が、期待していたものとはまったく違ったことを嘆かれている訳ですね。裏切られたような怒り、蔑ろにされたような悲しみが、少なからず私にも感じ取れました。
あなたの仰った通り、その寺院が以前は対応していたはずのところを取り止めた、ということであるならば、御朱印を求めて参拝した方に対する態度・応対というものは、もっと丁寧で親身であるべきだろうと私も考えます。むしろ私ならそうします。どのような形であれ、寺院に足を運ばれた方との貴重な仏縁なのですから。たとえ自宗の教義信仰、方針と違ったとしても、お相手の労苦をねぎらいつつ、また同時に、自身の立場をはっきりと分かりやすくお伝えする義務があると思います。
ですから、寺院の応対の不誠実さという点については、おこがましいこととは承知の上ですが、私が当宗門を代表してお詫び申し上げます。せっかく遠いところから時間と体力を割いて足をお運びになったにもかかわらず、ご期待に添えることができなかったばかりか、宗門そのものに対する疑念と憤りを抱かせてしまったことを、大変残念に思います。
そして、御朱印の記帳を浄土真宗が行わない理由についてですが、私どもの立場をはっきりと申し上げますと、
御朱印を集めても、それが救いにはならない
と信じているためです。
真宗門徒は、お念仏ひとつでお浄土に往生する道を“聞き”ひらく教えです。つまりそこには、お念仏のみ教えを“聞く”という過程が求められます。“聴く”ではなく“聞く”ですから、受け身です。「(俺が私が)聴いてやる」とか、「それなら聴いてもいい」とか、そういう思いでは成り立ちません。仏から、相手から、聞こえてくる、聞かせていただく。このような心をまずお育てにならなければ始まりません。
かつて、浄土真宗のご門徒に、布教師や講師の話を一生懸命ノートに書き写す方がいました。その方はいつでも聞法ノートを携え、全国各地の法話や講義に赴いていました。その熱心さには誰もが驚くほどで、どれだけ遠かろうと時間がかかろうと、その方はとにかく聞法を続けていました。
ある時、宗門では有名な講師が講義をした際、その方は講師の元に駆け寄り、ご自分のノートを講師に見せました。「私はこれだけのことを学んできました、そんな私のノートに、何か一言お願いします」とその方は講師に頼みました。
という強烈な一言でした。
彼はいつの間にか、教えを“聴く”心になっていたのです。いただいた教えよりも、「これだけ教えを“聴”いてきた自分がえらい」と勘違いしていたのです。努力している自分・熱心な自分という姿に陶酔し、肝心要のことがまるで人生と心に響いていなかった。そういう態度を戒められるための一言でした。
御朱印を集めることによろこびや達成感を抱かれる方が多いのは私どももよく理解しています。それが思わぬ形で仏縁をもたらすことがあるのもよく理解しています。
だからこそ、かつて御朱印を取り入れた過去があるのも、そうした世俗の方々との接点を得ようとした苦肉の策だったのだろうと推察します。そして、そうした在り方が、自分で自分たちの教義と信仰を貶め歪めさせるのだという過ちに気が付いて、取り止めたのでしょう。
私自身はこの件について、これまでもこれからもあってはならないことだと考えております。どれだけ世間から非難を浴びても、一貫した姿勢を貫くべきだと思います。ですから、あなたの訴えには宗門全体が耳を傾けるべき意味があると感じております。
そして、あなたの怒りや疑念を受けてもなお、私(と浄土真宗)は御朱印がもたらす作用にうなずくことはできません。
それが何故なのかは、私があれこれと何でも押し付けるよりも、あなた自身の胸に問い掛けていただくことが、何よりも近道だと思われます。
あなたにとって御朱印を集めるということは、どういう意味を持ちますか?
あなたが御朱印を与えてくれなかった寺院や宗派に対して怒りと憎しみを抱いたことで、あなたの心は晴れましたか?
あなたが生きる現在、そしていのち尽きてゆく未来に、御朱印はどう影響しますか?
今後ご返信いただく必要はありませんので、私の言葉をご自分の中で“聞”いていただきたく思います。あなたのお声を確かに受け止めたことに免じて、あなたもまた、私の声を受け止めていただければ、私はとてもうれしいです。
私たちの開祖・親鸞さまは、「念仏以外に救われる方法があるのではないか」ということを問いただそうとして遠方から駆け付けた方々に、こう仰せになりました。
合掌
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最近、というかこの数年、私の周囲では、廊下で誰かとすれ違う時に「お疲れ様です」ということが多い。職場だけでなく、たとえば近所の道やマンションの廊下で顔見知りの人に会ったときに思わず「お疲れ様です」という言葉がお互いの口をついて出る。「お疲れ様です」が、「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」にとって代わる万能の挨拶として認められているような気がする。
私が覚えているかぎりでは、「お疲れ様です」は職場の挨拶、つまり被雇用者どうしの挨拶としてはじまった。別にそんなに親しくもないが、普段顔を突き合わせて一緒に働いている人たちにとっては、形式化したねぎらいのことばが挨拶になるのだろう。
だが、マンションで同じ階の人や、同じ町内会の人とは別に一緒に働いておらず、私は彼らの労ををねぎらう必要はない。それでも思わずお互いに「お疲れ様です」という言葉が口をついて出る。これは何なのだろう。それほど親しくないが円滑にやり過ごしたい人間関係は、被雇用者どうしの人間関係をベースに運用するのが適切だ、という暗黙の了解がお互いの間に成り立っているので、「お疲れ様です」が一般的な挨拶として機能するようになってきたのかもしれないと思っている。
言うことは至極ごもっとも。
ただ、リーダーの努力を見てるので、それが馬鹿の一つ覚え…と切り捨てるのはかわいそうだ。
ビジネスは結果が全てっていうけど、頑張ったことに対するねぎらいは必要だよね。
リーダーはスタッフより5歳ほど年下で、実務経験も上だし、役職もだいぶ前からついている。
スタッフが入社してから、どういう関係性になっているのか気になって、聞き耳たててることがある。
姿勢がどうのこうの…というのはナンセンスかもしれないが、スタッフは指導されているという認識が薄いような気がするんだよ。
その証拠に…というか、自分が指導すると、めちゃくちゃ緊張して、態度が若干違うのがわかる。
まあ、自分が出張ってくるのは、かなりヤバイ局面の時だけだから、そりゃ緊張するだろうけどw
もはや、当初期待していたことは、これから先も、できないだろうと言うことがわかってきてるので、徐々に簡単なルーチンワークに切り替える予定だ。
本人は、そちら側には行きたくないようだけど、できないものはしかたない。
誰かも言ってたけど「できることをやってもらう」までだ。
指導って本当に大変だよね。
指導役が優秀だからこそ、うまく誘導できないってことも多いと思う。
自分は、恐ろしいくらいできない会社員だったし、数年来「できないと社内で有名な若手社員」二人を同時に指導していたので、その頃の知見で、色々アイディアを試すこともできる。