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2024-05-16

anond:20240516045242

女性身体学校生活会社員として暮らしていくためにハンデがあるのは事実

そもそもその仕組み(学校会社)って明治時代以降たかだか100年程度の間に出来た常識で、

古来、女性子供を産むことが出来るというのが一番の身体的特徴でしょう。

あなたがいくつかわからんけど、子供を産むってすごいことだよ。

世の中にヒトが一人増える。何千年も何万年も続いてきた種を継続させることが出来る。

俺は縄文関係博物館を観に行くんだけど、最後はコレ。

子供を産み育てる、ということがいか尊いことか。

自分の何百代、何千代も前のご先祖さまから渡されてきたバトン

電気水道も無い時代から渡され続けてきたバトンを次の世代に渡せるのって凄いことだよ。

2024-01-01

大晦日ってやっぱり家でやる仕事多いじゃん

仏壇掃除とか大掃除の締めとか主に掃除ご先祖さまのことを家族でやる一日だったりする

帰省してるなら久しぶりの親戚縁者同士交流を深める日でもある

とにかく大晦日はそういう日ってのが昔から日常じゃないですか

それなのにコミケってそんな日程って常識を本気で疑うんだけどマジですか

親御さんとか泣いてるよ

2023-10-03

[]28歳になってやっと自分毒親育ちだということに気付いた

28歳男。最近職場で母が怖かった話を笑い話程度にしたら思ったより引かれて毒親ちらしいことに思い至った。

その時同僚と話したエピソードは「母が突然怒り出して三者面談に来なくて担任と二者面談をした」「反復練習が良いと聞いた母に終わった宿題を全部消しゴムで消された」の2つ。俺的にはあんまり他の人がしてないおもしろ体験を話したつもりだった。でも聞いた人たちは引いてたし、増田さんってもしかして毒親育ち?と聞かれもした。

こう言われてから初めて俺は毒親育ちではなかろうかとちゃんと向き合って調べてみた。自分の家庭環境なんて人と比べることがないから今まで気付けなかったけど、どうもそうみたいだ。

何となく思い出したことを書いていく。

俺が9歳から18歳までの間、母と2人で暮らしていた。父は単身赴任で月に1回帰ってくるかどうかで帰ってきても会話はほとんどしなかった。

とにかくメンタル不安定な母だった。そして他人とよく喧嘩していた。俺の小学生時代授業参観か何かのイベント男子児童(友達ではない)をなぜか詰めてその子泣きながら家に帰った事件があった。結局俺は何も知らされなかったけどその後親同士で何か話し合いをしていた。他にも近所トラブルや何やらかんやら。母は孤独な人だった。

からよく無視されていた。2人暮らしの家で1週間も無視されるのはたまったものではない。小さい頃は泣きながら謝り続けていたが、中学生くらいになると機嫌を取ろうとニコニコしながら話しかけていたように記憶している。謝ろうが話しかけようが全部無視だったけど。そして母はある日突然普段通り話してくれるようになる。母が無視モードに入っているかどうかを確認するために、朝起きて「おはよう」の挨拶が返ってくるか、学校から帰った時の「ただいま」が返ってくるか、をビクビクしながら毎日笑顔確認していた。この挨拶が返ってこない時は絶望だった。なお無視中でも一方的に凄まれることはあった。結局なぜ頻繁に無視されていたのかは分からない。

ただ、無視中でも、異常に不機嫌ではあるがご飯は作ってくれていた。皿を投げるように扱ったり、「私は召使いか」と凄んできた、大きな物音を立てられたりされながらも食卓毎日一緒に囲んだ。俺は2人での食卓から逃げられなかった。逃げると余計酷い目にあうから。逃げてもまた狭い家の中で顔を合わせる事になるから耐えるしかなかった。

母は料理について頻繁に「なんで私だけこんなことしなきゃいけないのか」「私は女中か」と俺に言っていた。そこまで料理が嫌だと言うなら、と思い俺が料理をしようとした時もあったのだがキッチンに入った時点で凄まれた。何も解決できなかった。

したことは無いのだが、よく分からないサプリメント水素水なんかも無理やり飲まされ続けた。拒否権はもちろん無い。1度水素水意味が無いことをやんわり伝えてみたのだが激怒されて終わった。受験期によく分からない波の音のCD毎日20分聴かされたり、塩を撒かれたり、毎晩寝る前にご先祖さまへの感謝を述べなければなかったりもした。まあこれらは無で従えばいいだけだったから辛さはあんまり無かった。

勉強については度々怒られた。俺の成績が悪いことについて、勉強してる最中に1時間怒られることはよくあった。なんなら勉強中に勉強しろと怒られ続けたこともあった。これは母が酒を飲み始めた22時以降によくあった。このおかげで22時くらいに寝るようになったのだが、今度は寝てる最中もお構いなく叩き起して怒ってくるようになってしまった。俺は辛すぎて天井を見ながら無言で泣いていた。怒られている時はずっと無言で泣いていた。言い返すことなど許されなかった。「こんな成績で恥ずかしいとは思わないのか」ということをよく言われていた。

いちばん辛かったのは無視だが、度々「子育てに失敗した」と母から言われるのも辛かった。あれは自分自身への苛立ちを俺にぶつけていたのだろうか。俺に完璧人間になってほしかったのか。俺が東大に入る成績だったら母は優しかったのか。

小さい頃から母に「人の顔色を伺うな」と怒られていた。今も人の顔色を伺う癖は抜けていない。怒ってる人や不平そうな人に擦り寄ってしまう。だからメンタルおかしな人に好かれがち。メンヘラに寄りかからせてしまう。母とももしかすると共依存になっていたのかもしれない。

ちなみに父親は俺のことがあまり好きではなかった。俺は9歳からオタクだったんだが、12際の頃に父からオタク社会に不必要オタクは死んだ方がいい」と言われてからずっと距離を取っている。

実家にいた頃、とにかく自由が欲しかった。自分意思で行動したかった。逃げたところでどう考えても結局母と2人の家に連れ返されるのは見えていた。

幸いにも父の稼ぎが良かったか大学で母から離れ東京に出てこれた。東京で念願の一人暮らしだ。一人暮らし中も母からネトストされて激怒の連絡が来るとかあったけど、今は3年か4年に1回くらいしか帰ってない。そして母からの連絡は全て無視している。

ご飯も食べられたし殴られていた訳でもないしお金もあったし教育も十分受けられた。虐待されていたわけではない。なんなら恵まれ環境だったと思っている。贅沢と言えるような環境だったのにも関わらず毒親育ちを自称するのは被害者面して気持ちよくなっているということなんじゃないか、こう思い今まで目を逸らし続けていたのかもしれない。ここでも人の顔色を気にしている。自分が辛ければ辛いでいいのか。

結婚願望はある。俺は辛くない家庭を築きたい。しか孤独以外の家庭を知らない。父親がいる家庭を知らない。

家族ってなんだろうね。

2023-09-17

増田ファミリーを紹介するね

増田ママ育児ネタが得意。フェミニスト

増田パパ(婚活ママ結婚婚活レポを書いていた)

増田娘(増田ママによくネタにされるので怒っている)

増田息子(弱者男性予備軍。脱チー牛を図る)

増田じいじ(インターネット老人。COBOL使い)

増田ばぁば(コンピューターおばあちゃんVtuberをやってて登録者70万人を超える)

増田天使増田家に住む天使。たまに優しいトラバをしてあげる)

増田悪魔増田家に住む悪魔対立煽り増田を書き、非公開3連ブクマする)

増田ご先祖さま昭和のノリでセクハラパワハラをする厄介者

増田ミケ(増田の人気猫)

2023-05-21

anond:20230521121941

でも神仏に頼りたいときもあるよな…

そーゆーときって無宗教って何に頼ったらええの?ご先祖さま

2022-07-21

anond:20220720101306 みなさんありがとう

いろんな人が意見を書いてくれていてビックリしました。

みなさんどうもありがとう

私は、幼少期に親族商売をしている関係連帯保証になった人が逃げちゃったのを見てきたり、

実際にギャンブル借金こさえてどうにもならなくなって、子ども含めた家族捨てて消えちゃった身近な人を知っていたりするので、

お金借金)に対して「すぐに人を狂わせるもの」という価値観人一倍強いのだと思う。

そして、みなさんの(特に、恐らく恋人に近しい感覚の人たちの)意見を見させてもらって、

自分の「別れる!!!」という直感を引き延ばすことはできても、覆すことはできないんだろうなと改めて感じました。

 

去年、誰にも言えない恋人との惚気をここに書いたときは「末永く幸せに」と、自分でも驚くほどたくさんの方に言ってもらえたのに、人生は何が起きるかわからいね

 

みなさん、どうもありがとう

これまでの人生で培ってきた私の価値観も、「やめた方がいい」としっかり警鐘を鳴らしています

 

私は、恋人とおじいちゃんとおばあちゃんになるつもりで同棲をはじめたんだけどね。

宅配便が届くたびに、違う名字ではなく、同じハンコを使えた方がやっぱり便利だよねって思ってた矢先。

ずっとこんな日が続くといいなって、つい数日前まで思ってたから、あまりの落差にまだ心が追いつかないみたい。

 

みなさん、どうもありがとう

 

そして、なにかの神サマ。(私の守護霊とかご先祖さまとかか?)

答えは出てるんだけど、あともう少しだけ、考えるふりをさせてください。

2022-05-18

anond:20220512063813

ところで知ってますか。

最初に設置されたATM(のご先祖さま)のヘビーユーザー売春婦の方だったそうですよ。

パートナー(オス)をATMと称する方はつまり、そうした職業系譜末裔なのかな、と考えるとふふふ、ってなりますね。

2022-03-22

ゼレンスキーが米議会真珠湾攻撃言及したことをどうとらえるべき

Twitterかにも「日本特別事情も知らずに勝手に言ってる」とか言って怒っている人がいるけどね.....

こういう人たちは、「自分の国を客観的に見る」ことができない、未成熟なまま育った残念な大人なので、相手にしなくていいよ!

日本真珠湾攻撃したのはね、喩えると「隣人に暴力をふるって村八分になったのでむかついて後ろからバットで殴った」みたいな行為からね!

ここには何にも正当性はないよ!

ロシアとは違って、軍同士の戦闘で、民間人は殺してない?

それウソ!単に誰も言わないだけで、そりゃもう、ネット歴史系の論文検索すればすっごい話は幾らでも出てくるから

たとえばこんなのとかね。

日本軍によるババル住民虐殺覚え書き」 https://digital-archives.sophia.ac.jp/repository/view/repository/00000004461

たとえば君が東南アジアの各地の歴史博物館に行ってみるとする。

シンガポールはともかく、マレーシアインドネシアなどは展示そのもの第二次大戦中の話は軽くしか扱わなくても、ミュージアムショップで本を買ってみると、中身はなかなかエグいよ。

じゃぁ、君はずっと、贖罪意識を背負って生きていかなければいけないの?

そんなこともないよ!

日本の先人はちゃん謝罪し、賠償も終わってる。

から、もうこの話は終わり!

ただ、基本的アジア諸国の人々の意識は、「許そう、だけど忘れない」だからね!

自分たちのご先祖さまは、彼らのご先祖さまに、申し訳ないことをした、それだけは覚えていてね。

過去を無かったことにしようとするのだけは、御法度からね!

それだけ意識しておけば、あとはもう、中二病だったご先祖様はやんちゃしたけど、それはそれ、これはこれ、で普通に外国人とつきあえば良いよ!

大切なのは過去じゃなくて現在

毎日を大切に生きて、困っている人を助ける。

さなことからコツコツと、毎日、きちんとやっていけば、日本、そして世界は、明日今日より良くなるはず、それを信じて日々を頑張ればいいと思うよ!

2022-03-20

妻を見て思う

仕事が終わって帰宅すると「おかえり」と玄関まで来てくれる美人でも無ければブスでもない、いかにも普通の妻を見て自分に本当に釣り合っているなと実感する。

小学校中学校高校男子の好みは多様だった。たまたま隣の席になった女子電車でいつも同じ時間に乗る女子。家が近所の幼馴染。クラスの男たちで好きな女子の話をしていても様々な名前があがるし、外見や性格も様々だ。

男子が雨夜の品定めのようにたくさんの女子名前をあげる一方で女子視線クラスで一人か二人の男子、つまり主人公に注がれている。小学校ではスポーツ万能な男子中学校ではイケメン男子高校以降は学力などのレベルにもよるが大抵勉強運動もそこそこでき、爽やかな顔立ちに少し長めの髪、そしてバランスの良いスタイルをもった男子だ。彼らは主人公なので、朝の何気ない挨拶廊下でのすれ違い、仕草などちょっとした言動行動が全てフラグを立てる。そしてフラグを立てまくった中から容姿性格も優れたヒロインを選んでカップルが成立する。感動のラブストーリーだ。この構図は以降の大学でも職場でもずっと変わらない。

では雨夜の品定めをしていた光らない男たちと、ヒロインになれなかった女性たちはどうなるのか。理想ラブストーリーを夢見ていた彼らも高校卒業の頃には自分たちが脇役であることを自覚する。そしてそれぞれのコミュニティの中で「好きじゃないけど無理じゃない異性」とうまいことマッチングして失った日々を取り戻すべく必死恋愛ごっこを楽しむ。「この男性は顔は悪いし年収も低いけどスタイルが良いし面白い」「この男性スタイルは悪いけど顔も性格も悪くないし仕事が安定してる」「この女性は笑うと歯茎がむき出しだけど、太ってないし優しい」「この女性は寸胴で平安貴族みたいな顔だけど料理もできて気も利く」という風に自分のなかで我慢できるところやメリットをなんとか探し自分を納得させる。やがて結婚し、脇役を再生産していく。こうして世の中は回っている。

現実として小中高と好きな子ヒロインと結ばれず風早くんではなかった僕は、好みではないけどそれなりに小綺麗で愛嬌のある穏やかな性格の妻を選んだ。黒沼爽子になれなかった(大学生や社会人の時に風早くんの気まぐれや暇潰しで遊んでもらったことはあるのかもしれないが)彼女風早翔太くんではないが清潔感があって常識的仕事も堅実な僕を選んだ。そして二人は結婚した。

これが不幸なことだとは思わない。なぜなら世の中のほとんどは風早翔太くんではない男と黒沼爽子ではない女でできているからだ。僕も妻も僕の両親も友達もみんなそうだ。

主人公ではない男たちと、ヒロインになれなかった女たちの世界の中ですらマッチングできない男女のことは知らない。きっと前世ご先祖さま戦国大名日本中寺社破壊して僧侶女子供を殺し回ったんじゃないだろうか。知らないけど。

2022-03-08

anond:20220308133124

私たちはいから肉食になったのか?日本人の肉食の歴史を徹底解説

https://intojapanwaraku.com/culture/48024/

疲れている時、あるいは気合を入れて勝負に臨みたい時、もちろんなんでもない時にでも「お肉食べたい!!」と思うことはありませんか? 焼き肉から揚げ、ハンバーガー、さまざまなお肉をわたしたちはすぐに食べることができますしかし、こうしてお肉をなんのためらいもなく食べられるようになるまでに、わたしたちご先祖さまたちは葛藤を繰り返してきたのです。

日本人の肉食について『肉食の社会史』(山川出版社)の内容と、著者である上智大学教授中澤克昭先生お話をもとに追ってみました。

うつりかわる肉食への考え方

日本史教科書などで「文明開化」の言葉とともに「牛鍋」を食べる人の絵を教科書などで見て、なんとなく近代明治時代)以降に肉食が始まったと思っている人は圧倒的に多いのではないでしょうか。けれども中澤先生によれば、肉や魚を食べることは、伝統的な食文化だったそうです。ただ、平安時代からは「食べないことが高貴な身分のふるまい」「食べるのはいやしい」と思われるようになったとか。また、家畜労働力提供してくれる大切な存在であり、食べる対象としては見ていなかったようです。

3世紀ごろの日本ヤマト)には、誰かが亡くなった際、喪主は肉食をがまんする習慣があると『魏志倭人伝』に書かれているそうです。これは「物忌み」のひとつとして肉食を慎む「禁欲」だったと考えられています。つまりこの時点では日常における肉食は「禁忌」ではなかったのです。その後、6世紀仏教とともに「殺生」を「罪業」とする考え方が伝来します。喪に服したり何かを祈願したりする時に肉食をガマンする習慣と仏教の殺生罪業観、このふたつが融合して、のちの肉食忌避タブー)につながっていくのです。

中澤克昭著『肉食の社会史』(山川出版社

しかし、肉食忌避が強まるのは中世からで、古代には天皇も肉を食べていました。天皇は各地でとれたものを食すことで統治していることを示していたからで、イノシシシカも食べられていたことが、さまざまな記録や古代遺跡から出土した木簡からわかっています中澤先生によれば、「大地を象徴する生き物を狩ることで土地所有権確認する儀礼でもあった」と考えられているそうです。

貴族メインディッシュはあの鳥

古代には禁欲対象だったお肉も、平安時代になると禁忌まり忌避されるものへとかわっていきました。たとえばイノシシは何世代飼育されるとことで「豚」という家畜になりますが、奈良時代にはヤマトでも豚が飼育されていたそうです。ところが平安時代になると、食用に育てられている動物確認できなくなります。野生のイノシシを食べることは続くので、家畜は食べないほうがよいというメンタリティを持っていたことはまちがいなさそうです。

天神さま(菅原道真)の牛のように、神話伝承世界にも動物は出てきますが、家畜を食べるという物語はまずありません。タブーだったのです。死んだ家畜、いわゆる斃牛馬(へいぎゅうば)はいわば産業廃棄物で、専門の人々によって処理されましたが、その仕事にあたっていた人は捨てずに食べていたと思われます」(中澤先生)。ただ、そのことは公の記録には残っていません。馬刺しも牛の内臓ホルモン)も食べられていたはずですが、身分の高い人には忌避されていたのです。おおっぴらに食べられるようになったのは、近代以降ではないでしょうか。

新鮮な馬肉

では、鶏肉に関してはどうだったのでしょうか。「鶏も『時を知らせる、占いをする』という性質が強いので、おおっぴらには食べられていなかったと思います。卵は食べたはずですが、それもあまり記録にのこっていません」(中澤先生)。闘鶏に使われた軍鶏などは「筋肉質で硬くて、現在の鶏ほど美味しくなかったでしょうね」と先生はいます。「牛も体脂肪が少なく、現在の『霜降り』のような食感とはほど遠かったのでは」とのこと。

なお、近代以前に肉を地方から京都江戸へ運ぶとき塩漬けにするか干し肉にする場合が多かったそうですが、キジの新巻や干し肉存在していたとか。案外さまざまな加工肉があったそうです。……鮭では見たことがありますが、鳥が新巻にされるなんて想像もつきませんでした。また、少し前にグルメ界を席巻していた熟成肉もあったそうです。遠くから生で運ばれた場合、その可能性が高いとか。よく食べられていたのはシカイノシシでしたが、貴族社会宴会ではメインディッシュとして鳥のキジが好まれたそうです。焼くだけでなく、刺身でも食べられたそうですが、味付けは摂関家であれば、ひしお現在味噌醤油の原点と考えられている調味料)や酢などが使われたと考えられています

殺生禁止と生贄とのあいだで揺れた「鷹狩り」

肉食を考えるうえで必ず登場するのが「鷹狩り」です。鷹狩りは、神々へのお供え物の調達手段としても大切で、仏教の殺生禁断の思想が広まってからも続けられました。古代には貴族の間で行われて、鷹狩りのための狩場もつくられ、鷹狩りに用いる鷹の繁殖のために狩猟や入山を禁じた巣山や巣鷹山と呼ばれる山もありました。その後、貴族から武家権力が移ると、キジだけでなく白鳥や雁もよく狩られるようになり、小型の鶴が狩られたこともあったようです。武家食事マナーでは、鷹狩りの獲物は箸ではなく指で食べることになっていました。食材としての価値が高く、食べ方にも特別作法があったようです。

江戸時代になると、徳川家康が好んだ鷹狩りを、代々の将軍が受け継ぎ行っていました。江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉が発した「生類憐みの令」のころまでは史料確認できますが、その後しばらく姿を消してしまます。復活するのは8代将軍・徳川吉宗のころ。吉宗徳川家康尊敬していたので、家康が好んでいた鷹狩りを復活させたようです。その後、大政奉還が行われ明治新政府が発足した後は、鷹狩りは大名特権ではなくなりました。明治天皇御料場で鷹狩りを行ったようです。在位中の天皇狩猟に出かけたのは、白河天皇が1073年に嵯峨野鷹狩りをして以来のことでした。天皇800年ものあい狩猟をしていなかったわけですが、この800年はそのまま武士時代と重なっているのが興味深いところです。

明治天皇1872年牛肉を食べましたが、近代以降もしばらくは肉食に対する忌避感がありました。しかし、食の欧米化や大規模な多頭養豚経営、乳用種雄の肥育牛の食用への転用などにより、1955(昭和30)年ごろからは急速に肉食が一般化していきます。結果、戦後まれ世代からは肉食があたりまえの世の中になって現代に至ります。食肉生産が進み、ブロイラーが出てきたからこそ「帰りに焼き鳥ちょっと一杯」ができるようになりました。そんな生活高度成長期にようやく成立したもので、まだ現在のような「お肉を食べたい」「お肉を食べよう」の歴史は50年ほどしかないのです。

ジンギスカン用のラム肉

一方で2030年ごろには、世界人口の増加が食肉生産を追い越してタンパク質が足りなくなる「プロテイン危機」が起こるという研究があり、昆虫食研究などが進んでいます。今のようにお肉を食べられる時代は、日本史のなかの、ほんのわずかな期間で終わるのかもしれません。

動物を殺す」肉食に対してはさまざまな意見もありますが、人間の食欲がそれを抑え込んでいるのが今の時代です。お肉はいつでも好きなだけ手に入りますし、食べることもできます。「中世には動物を殺すことやそれを食べることがタブーとされていましたが、実際に食べる人は少なくありませんでした。うしろめたさと食欲との葛藤があって、そこからさまざまな言説が生まれました。現在も肉をめぐってさまざまな問題があります。もう少し葛藤があっても良いのかもしれません」と中澤先生は言います。「お肉が食べたい」という気持ち自由に満たせる今だからこそ、食文化についてちょっとだけ考えてみませんか。

2022-03-03

anond:20220302105115

それをいうと、BLご先祖さま少年愛」は男性文化だったんだが。江戸川乱歩とか三島由紀夫とかみたいな有名な文豪が書いていてな。

それが後に女子の間で流行り(何故かは確かなことは知らないが、想像するに少女向けの恋愛ものエロスを描くような時代ではなかったからなのかな。)、少女漫画に取り入れられてヒットした。

2022-02-11

xevraさん、憲法精神に反する発言はやめませんか

xevraさんは以下のような発言をしている。

イソジン撒けばいいんじゃねーの? 知らんけど。/大阪に住んでなければ死ななかった人がたくさんいる。府民維新投票した事をしっかり反省すべき

https://b.hatena.ne.jp/entry/4715138856794720418/comment/xevra

やる事なす事全てが失敗した30年間だった。そして日本消滅は確定してしまった。自民党投票してきた人は土下座してご先祖さま謝罪して欲しい。神聖なる日本国を滅ぼした罪は万死に値する

https://b.hatena.ne.jp/entry/4713423000939795842/comment/xevra

こうした特定政党投票した人を責めることは、憲法15条の「選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。」の精神に反している。

第十五条 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である

② すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。

③ 公務員選挙については、成年者による普通選挙保障する。

④ すべて選挙における投票秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。



もっとも、憲法ほとんどの規定国家に対して適用させるものである私人には(少数の例外を除き)直接には適用されない。

15条もそうである。だからxevraさんの発言違憲だとか言い出すつもりはない。

ただ、憲法精神に反していて望ましくないので、やめませんかと提案したい。

xevraさんは瞑想運動野菜など同意できる点も多く、なるほどと思う意見も多いブクマカさんだからこそ申し上げたい。


もっとも、これはxevraさんだけに限らない。

はてなブックマークでは維新を選んだ大阪国民

ヤフーコメントでは米山議員を選んだ新潟5区や辻元議員を長年選んできた高槻市国民を責めるコメントがある。

そうしたコメントはみんな控えるようにしませんかと提案したい。

2021-08-12

菅義偉お盆帰省する意味はなんですか?」

私にこれお盆帰省について聞かれるわけですけども、実は私自身、27年前の母の実家への初めての帰省、5歳でしたけども、いまだに鮮明に記憶しています

 

それは例を挙げますと例えば精霊牛といわれたキュウリの馬とナスの牛。それを乗せる精霊舟っていうのがありました。

送り火灯籠精霊舟が流れていく川を食いついたように見ていました。非常に印象に残っています

また、底知れないご先祖さまの力というものを感じました、あの盆踊りも印象に残っています

そして何よりも私自身、記憶に残っていますのは、曾祖父墓参りです。広島空襲で命を落とした。迎え火を墓前で焚いて、その火を絶やさないように、提灯に明かりを灯して、先祖の霊を家まで導いて帰りました。

夕暮れ、ヒグラシの鳴き声、線香の匂い、その時のこと、すごく印象に残っています

迎え火の提灯を持ちながら、両親や祖父母や曾祖母と一緒に歩いた。数珠を握りしめた曾祖母が、なかなか墓前を離れようとしなかった。あの瞬間というのは私はずっと忘れることができなかったんです。

そうしたこと子供たちにもやはり見てほしい。

さらに当時、都会に住んでいた私は、田舎の全てが新鮮でした。そしてこのことを契機に、御先祖様を大切にする日本の文化にふれる、大きな契機になったと思います

こうした素晴らしい行事をぜひいまの子供や若者が見て、絆を伝えたい。

さらに親戚の集まり田舎祖父母と過ごす、こうしたものもしっかり私は大きな学習にもなるのではないかというふうに思います

家族の絆、そうした姿というものをぜひ見て欲しいというふうに思います

 

家族が新型コロナという大きな困難に立ち向かい一族が団結してこれを乗り越えるこ

とができた、そうしたこともやはり親から子供へ託したい、御先祖様へ伝えたい、そうした思いであます

2021-08-07

anond:20210807164057

休みは好きにとれ。

ご先祖さまナスときゅうりがないと帰ってこれん。

2021-02-18

夫婦別姓矛盾

自分の姓が大事なんですよね、自分もそう思ってます

何でか?って言うと、

その姓で生きてきたこれまでの思い出

家族、ひいては自分一族ご先祖さま大事にしたい(してきたつもり)

からです。

上記の、大事にしたいことってのは

よくよく考えると「姓」によって引き継がれてきたことではないですか?

(もちろん、それ1つに集約できることでは無いことは承知の上です)

もう一点、夫婦別姓の論

子が生まれたなら、いずれ子が選べばいい。

という論はよく聞きます

しかし、20才で選ぶとしましょう。

子供を持ったこともなく、知見もない子供(愛する家族が)

たいそう悩んで、後悔も背負って選ばなきゃいけないことを

課すのって大変なことです。どっちが良いか考えなければ。

そもそも姓が要らない、のかもしれませんね。

夫婦合姓」でもいいのかもしれないですね。

神田長谷川吉田つのしん みたいな。

2021-01-18

初恋相手を失った震災さよならという言葉

はてな匿名ダイアリーというもの存在自体は割と昔から知っていたが、

時たま読むことはあれど書き手としては縁がないものだと思っていた。

ふと急に、今日一日考え事をしていてどうしてもどこかに書いておきたくなった。誰かに話したいのかも知れない。

文章を書くことは苦手で、ここ特有ルール(そんなものがあるのかすら知らないけど)もわからないので、

色々と不備があるかも知れないけれど、おぼろげな記憶をたどりながら思いのままに書いてみようと思う。

30年前、私は子供だった。

近所に1つ下の幼馴染が住んでいて、その家には正月や盆など毎年数回ずつ兵庫から九州へ親戚が里帰りに来ていた。

母親とその子どもたち3人。長男(以下、A太)と妹2人(B子、C美)という構成だ。

シングルマザーだったのかな。幼かったのでそこの記憶がない。

A太は私よりいくつか年上で、B子は1つ下、C美はさらに2つ下だったと思う。

歳が近いこともあり、こちらへ帰省してくる度によく一緒に遊んでいて、幼馴染も含めて全員とても仲がよかった。

こちらにいる間、その3人は知り合いが私たちしかいないのもあってとにかく同じ時間をともに過ごした。

鬼ごっこをしたり、缶蹴りやドロケイをしたり、おしゃべりをしたり、

とにかく何をしても楽しくて今思い返してみても幸せ時間だった。

数年間、そうやって過ごしていくうちにB子を好きになっていった。

しかしたら年に数回しか会えない環境がそうさせたのかも知れない。

愛だ恋だなんてわかる歳ではなかったが、今振り返ればあれが私の初恋だった。

26年前の正月、いつものように帰省してきた3人と遊んでいるうちに、原因は思い出せないがA太と喧嘩になった。

喧嘩と言っても「お前の母ちゃんでべそ」的な稚拙な言い合いだったが、

A太の味方をしはじめたB子とC美にも矛先を向けた。

よく一緒に遊んでいた公園での出来事だった。

初めは稚拙な言い合いだった喧嘩が段々とエスカレート言葉も荒くなっていった。

何を言ったのかほとんど覚えていないが、別れ際に吐き捨てるように

「○ねばいい」「お前ら○んだらみんな地獄行き」と言ったのだけははっきりと覚えている。

その後会うこともなく数日後、B子たちは兵庫へ帰っていった。

1995年1月17日、その日は私の親類の葬儀で前の日から福岡にいた。

こちらだけの風習なのか知らないけれど、私の親を含む大人たちは交替でロウソクの番をしていたり朝食の準備をしていたらしい。

私はぐっすりと眠っていたが、その大人たちの声で目が覚めた。

ぼんやりしか覚えていないが「揺れた」というワードが聞こえたことは覚えている。そのまままたすぐ眠りに落ちたけれど。

朝になってテレビを見て映し出される光景愕然とした。B子たちが住む街だった。

あの当時、今となっては考えられないことだけど死亡者名前の羅列がテレビで流されていた。

それももしかしたら記憶いかも知れない。(あるいは新聞?誰かによって何らかの方法でもたらされた情報?わからない)

だけどその羅列の中にB子たち3人とその母親名前を見つけて震えた記憶がある。どうやら祖母の名もあったらしいが私は知らない。

要するに世帯全員だめだったということだ。

当時死というものへの認識は既に持っていたが、その時は混乱していたのかうまく理解ができなかった。

何もわからずただただとんでもないことが起きたことだけは、自分の体が震えたことで理解できた。

痛かっただろうな、怖かっただろうな、苦しかっただろうな。まず浮かんできたのはそういうものだった。

「大切な人をなくした」とか「愛するあの子をうしなった」とかそういう感情ではなかったが、

ただもう会えないことと最後に言ったあの言葉けが月日を追うごとに重くなっていった。

最後に会ったとき最後に言った言葉、やり直せない時間に悔いても悔やみきれない。

子供ながらに言ったこととは言え、なんてひどいことを言ったのだろうと。

あんなに仲良く遊んでいたのに、どうしてよりによってあれが最後なのだと怒りすら沸いた。

あの震災で起きた出来事で、トラウマというほどでもないが、人との別れ際がすごく怖くなった。

大切な人ならなおさら、そうでない人相手にも「さよなら」という言葉がどうしても言えない。

どれだけ喧嘩しても必ず別れ際には仲直りをしたい。仲直りができないままには電話も切ることができない。

さよなら」という言葉の代わりに必ず「またね」というようになった。

私が高校生ぐらいになった頃から毎年1月17日に、よく一緒に遊んだあの公園へに花をそえに行っている。

本当はお墓に行くべきなのだけれど、さすがに兵庫まで行くわけにもいかないのと、行ったところであてもないので場所がわからない。

その場所に老人向けのグループホームが立ってからも、施設の人に事情説明してお参りを続けていた。

日流れて数年前の1月、私が生まれる前から散り散りになっていたという私の父のいとこが興信所やら何やらの調査を経て愛知から訪ねてきた。

数十年ぶりの再会とのことだ。長い長い思い出話の後にお墓参りがしたいということで、近くのお寺の納骨堂へ一緒に行くことになった。

納骨堂へ着いて一通りお参りしたあと、何気なしに周りの仏壇に目をやって驚いた。

目の前の仏壇B子たちの名前戒名が書かれた札が下がっていたのだ。

法事が近くなった頃に「もうすぐ法事ですよ」ということでお札を貼られるお寺だった)

その納骨堂へは毎年お盆しか来ていなかったからそれまでの約20年間気づけなかった。(ご先祖さまごめんなさい)

たまたま父のいとこが私たちを探そうとしてくれたから。

たまたま調査がうまくいって私たちを見つけ出してくれたから。

それがたまたま1月だったから。

色んなことが重なり合わさって知ることができた事実だった。

まさか私の先祖と同じフロアに眠っているとは考えつきもしなかった。

こんなに近くにいたとは。毎年目の前を素通りしていたなんて。

それからは毎年1月にその納骨堂へお参りに行っている。(もちろんご先祖さまにも手を合わせている)

今日も花を添えてきた。お参りが済んだ別れ際に言うのはもちろん「またね」

まさかこうやって会うことができるようになるなんて、と今でも不思議に思うし、直接祈りを捧げられることに

誰へかはわからないが、何へかはわからないが、色んなことにとても感謝している。

人との別れ際、トラウマとしてじゃなく、これからもやっぱり大事にしていきたいと思う。

おわり。

長くなってごめんなさい。改行やら体裁の整え方もわからずごめんなさい。

そしてやっぱりどうしても冷静に書けず支離滅裂になってしまう。ごめんなさい。

2020-10-13

anond:20201013184631

理論上は違うけど、現実的にありえないもんね。補給という理論日本を攻めうる国は、アメリカロシア中共だけだしな。戦車を使って日本侵攻するメリットあるのは、もう中共ぐらいだろうけど。


それはさておき、ご先祖さまABCD包囲網作られて、よくアメリカに奇襲仕掛けようという考えにたどり着いたなー、とは思う。舐めプしすぎ。

2020-08-04

沖縄日帝仕草してるのブラックジョークが過ぎるな

次はコロナにかかればご先祖さまに合わす顔がないからと集団自決が命じられるな

2020-01-26

anond:20200126113926

いるか根深問題なんだよな

逆に女もいる

何も持てずタコ部屋に詰められて公共事業をなさねばならなかった時代

身体を売らねば生活できなかった時代

とっくの昔に終わっているのだけどな

ご先祖さまや他に選択がなくそ地域の礎にならずを得なかった人たちが気の毒やで

なんで選択肢があるのに自ら捨てるのだといいたくもなるだろうと思う

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