はてなキーワード: ことなとは
というか姫野の方を読んだことない
その上で元増田に書かれている感想を持つ人がいても別におかしいとも思わないが…
あれだけでは森茉莉が苦労してて能天気の愛されお嬢様だと思って言ってる発言にも読めないし
小説の全文読んだら違うの?
https://anond.hatelabo.jp/20240531110922
デパートのトイレで吐きまくるベトナム人女性を介抱し、駅の階段で転倒したおばあちゃんのために人を呼び集め、テーマパークのショーで見知らぬお子さんに最前を譲り、インバウンドファミリーの道案内に応じ、その全てで同行女性を激怒させてきた俺の前で……
正直元増田の気持ちはかなりわかる。困ってる人を見たら助けになりたいし、何より初デートというウキウキの状況では、彼女に少しでも「コイツ良い奴だな」と思われたい……彼女の前だからこそよりカッコつけたい下心が十二分にある!
でもそれをやる度にデート中の女性は皆、惚れ直してくれるどころか一様に不機嫌になり、その後どれだけ宥めすかしてもデート開始時のテンションは戻らなかった。なんでか。
最近思い至った答えとしては「初デートにやってくる女性は、お姫様になりに来ているから」である。
お姫様になりに来た女性にとって、デート相手の人助けは「世界で一番お姫様」のはずの自分を「ヒーローを支えるモブ市民」の座に貶める行為でしかない。お姫様-モブ間の認知的不協和こそ、彼女たちがブチギレる理由なのである。
初デートなら目の前の私が絶対的に最優先されるべきで、どんな理由であれ余所見は重罪という、そういう理屈が働いているのだ。
それをそのまま口には出さない、人助けを咎めることを躊躇うような理性ある女性ならなおのこと、不機嫌の理由を言えないことすら察せない相手に怒りが燃え上がる、そういう仕組み………こんな悲しいすれ違いはなかなかない。
この考え方は乱暴に言うと、「付き合っている相手が朝から晩までパチンコ三昧」と「見知らぬ子供を庇って暴走トラックの前に飛び出した」は、彼女たちにとっては何の区別もないということだ。なぜなら「彼女自身にとって直接の利益がない」点では全く差がないから。どっちも自分勝手で最低でわたしのことを全く考えないカス、こんなカス野郎と付き合わされたわたしは世界一不幸、そういうことなのだ……
私こと増田(バイ女性)は様々な女性のこの性質、公益を無視した強烈なプリンセス性を目の当たりにするたび心底驚いて、とてもじゃないが理解などし合える気がしなくて、女性と恋愛をするのは諦めた方がいいかもと思っているのだけど、やっぱり可愛くてフワフワで良い匂いがする女性を好きになってしまう。
どこかには自分とうまくやってくれる女性もいるはずだという希望と、もう全部や〜めたの狭間でどうしたらいいかわからん。助けて。
5人時代の動画を見ると切なくなる。別の道を歩み始めたということが切ない。
もう5人でわちゃわちゃしてる図を見ることは一生ないんだろうなと思うと、胸が苦しい。
まるが辞めた理由は「おんな」(ふぉい)と言っているけど、それだけではないだろう。
おんなはきっかけに過ぎない。
社長についていけなくなったんだと思う。
社長はどんどん前に進む。
言うことは突拍子もないし、普通の人間はなかなかついていけない。
まるは東京でいろんな価値観に触れ、YouTubeなどお金を稼ぐ術も得た。
一緒に社長の夢を見ることができないなら、もうレペゼンにいる必要はない。そういうことなんだろうか。
私もその一人である。
何より早すぎる。
レペゼンのファン的には、あれだけ炎上させてレペゼンを裏切ったも同然だから、そんなまるがすぐに幸せな状態になるのは見たくないんだと思う。
反省してほしいし、苦労してほしいと思ってしまうのは意地が悪いだろうか。
そう思ってしまってごめんなさい。
なんか何でもかんでも「弱者男性」とつければ「可哀想ランキングから排除された人」みたいな風潮があるけど、そんなことないからね。
なんなら本当に社会生活に支障が出ていて、声を上げて何とか行政を動かしてきた人を嘲笑していたのが、その「弱者男性」である事実を誰もが無視している。可哀想ランキングとかその典型よね。
その「弱者男性」は言うだろう。「それは一部がやったことで、それを全体責任として扱うのは卑怯だ」と。
そうだね。一部の人がそのような愚行をやったからと全体が悪いというのは誤っているかもしれない。ただ、こうも言えるよね。
「そういう奴らを放置しておいて、自分らだけは助かろうと思っているの?」
はっきり言う。この健常者前提の社会において、本当に困っている人に対しては男性でも女性でも助けてもらえる。女性支援団体や障害者自助グループがあるだろ?
助けてもらえないのは「弱者男性」を免罪符にして他人を排除する行為を正当化する奴らだけだ。得てして、そのような奴らが「弱者男性」としてSNSなどでアピることで、本当に社会から疎外されている者がより透明化され、さらに同じカテゴリに放り込まれて、まとめて社会から排除されていく。
それでも「弱者男性」という名で免罪符を掲げるのであれば、それは社会への挑戦であり、逆に排除を正当化する合理的な理由になることを彼らは理解しなければならない。
転職活動をする間も無職となる心配をする間もなく衝動的に仕事を辞めたい
ある日、突然仕事辞めよ!となり当日中にもう明日来ませんすみませんと言ってそのまま辞めたい
できることなら朝起きた瞬間にうーん辞めるか!となり上司に電話をしたい
それくらいの衝動がないとこの地味に嫌でうすら苦しくゴールの見えない仕事を辞めるためにすら頑張れない
早く衝動が来てほしい
例えば、
誰かによるデタラメな回答に質問者が納得し感謝している様子を見ると、
「このままではこの人は間違った知識をずっと正しいものと勘違いしてしまう」
という強い危機意識と焦燥感に駆られて、納得できるよう根拠を示しながら訂正をせずにはいられない程度には誠実です。
それにもかかわらず、「日本語訳」を提示することに対する拒否反応が自分の中で凄まじく強いです。
日本語訳の助けとなる文法知識や読解方法などのヒントは惜しげも無く教示しますが、そこから先はどうしてもやりたくないのです。
相手が
「教えられた知識を頼りに自力で日本語訳をしたあと、答え合わせしたいから」
という理由で日本語訳も併せて求められても、ここだけはとにかくキッパリと断ってしまいます。
また、「日本語訳を教えてください」という質問に対してもわざわざ出ていき、ヒントを提示した上で
「自分でなんとかしなさい。訳せないなら力不足だからやる意味が無い」
と叱りに行きます。
このどうにも抑え込めない出し惜しみはなぜ起きてしまうのでしょうか?
私以外にも英語学習の世界には同じような人はかなり多いので我がことながら不思議に思いました。
ちなみに、プログラミングやイラスト制作の世界も同じような感じだと仄聞しました。
正直言って、日本語訳を求められた時に意地悪な衝動が湧き上がるのも自覚してます。
一方で、私が見る限り野球やゴルフや楽器演奏のジャンルでは、仮に自分より技術的に劣る人間が教えを乞うてきた場合は快く、丁寧にノウハウを伝授し、
「これはエラー動作だからこう直そう。これは君の武器になる良い特性だからそのまま大事にしよう」
とか惜しげもなく導こうとする意思を持つ人が大多数のように見えました。
なぜ英語の世界では腕に覚えがある人ほど意地悪になってしまうのでしょうか?
自分の胸に問うてもわかりません。
この増田本人では無いので尻馬に乗る感じで申し訳ないけど、ブコメとか見てると未だに理解があやしい人が多い気がする
まず元増田の内容を自分なりにまとめると、「文化資本」に該当するかどうかを計る条件として
の2つの条件が少なくともあり、はてなで言われている「文化資本」の多くはこれに該当しない(そのため、はてなの人達は「文化資本」の意味を理解せずに使っている疑いがある)
特に②についてはそもそも資本とは自己増殖するもので、文化「資本」というからには再生産の要素を含まないと変というのはその通りなんじゃないかなと思う
でその上で、なんだけど
いや美術館が無ければ美術館に行く文化も作れないので「文化を享受できる環境・子に文化を享受させる親の文化」は文化資本なんだが。みんな美術館(物理的な資本)の話じゃなくて美術館に行ける東京の話してるだろ。
例えばこの反応って、①の説明にはなってるけど、②の説明にはなって無くない?何が再生産されているの?
個人的には、文化「資本」を名乗るうえで②の方が重要な気がするので、そっちが片手落ちになっては意味が無いんじゃない?と思ってしまう
上は一例だけど、元増田への反論で②の再生産の部分まで言及できている人が少ないように見える
で、更に、そもそも「東京は文化資本が豊富」と言っている人は、どういう再生産を想定しているんだろう?
ただの資本の場合、単純に金持ちは投資等で更に資本を再生産できる、というよくある話で、これは分かりやすい
対して文化資本は、例えば親が教育の重要性をきちんと理解し、そのおかげで子は十分な教育を経て資産や社会的地位、権力を得られるようになり、それらが再生産される、といったシナリオになる
ただ、「東京は文化資本が豊富」と言ったり、その例が美術館(へのアクセス)だったりする場合、具体的にどういう継承から資産や社会的地位、権力の再生産に結び付く話をしているんだ?
例えば、近くに美術館があってよく通った場合、しかしそれが自身の給料や社会的地位や権力に特に結び付かない事はよくあるし、その場合②を満たさないので「文化資本」とは呼べないよね?
例えば美術に精通する事で上流階級の人とコネが生まれて立身出世の役に立つ、とかだと「文化資本」と呼べると思うけど、現代日本でそういう機会がそもそもある人は(東京内に限っても)何%だろう?
当然、その%が低ければ東京全体でならした時の美術館の「文化資本」寄与率は低くなって、他の寄与から比べると誤差以下になってしまう
という感じで多くの場合②を満たせない割合の多いと思うんだけど、どうだろうか?
具体的にどういう継承・再生産のシナリオで考えているんだろうか?
また、再生産という観点で見た時、そもそも「東京」で括る意味って何?とも思う
例えば「金持ちは文化資本が豊富」ではダメなんだろうか?こちらなら上流階級の振る舞いや教育の重要性の理解等々、再生産に関わる文化資本が豊富なのは頷ける
これに比べて「東京」だと、金持ちでない人も居るし、そういう人が美術館に通っても再生産に繋がらない事が多い
というのも、そもそも機会やノウハウなど、「美術」という文化的素養を資産や社会的地位、権力の再生産につなげるための回路こそ、資産家の親から子へ継承される貴重なものであり、ある意味それこそが「文化資本」だからだ
よって、「東京」という雑多なフレーミングは文化資本を持たないノイズの人達(言い方は悪いけど・・・)を多く含み本質的ではないのに対し、
「金持ち」というフレーミングは再生産に結び付く「文化資本」と本質的につながっているので、より適切なんじゃない?と思えるし、その上で「東京」で括る意味is何?と思えてしまう
「東京は金持ちが多いから、結局文化資本とも相関がある」という人も居るかも知れないけど、それってわざわざ要らない項を噛まして、分かりにくい疑似相関を作ってるだけじゃね?
地方でも金持ちなら教育もするだろうし振る舞いも継承したりコネも引き継いだりするだろうという事で、文化資本と言えるものが多そうだし
結局、文化的ななにかを資産や社会的地位、権力の再生産へとつなげられるかどうかって、住んでる場所より資産や社会的地位、権力に依存するんじゃないかなー、と思うし、それによる寄与と比べると「東京」要因の寄与って誤差に呑まれそうじゃね?と思う
もう一つ大きな、そして根本的な疑問として、元増田の言うように「文化資本」というものが資産や社会的地位、権力の再生産、つまりは格差の再生産を前提とするものだとして、
それが「東京に豊富だ」と言われる事は、その人達にとって嬉しいのか?というのがある
美術なり音楽なりの素養が格差の再生産となるという事は、それなりに差別的な論理が社会のなかに残存しているという事だけど、
そのおかげで得をしている格差の再生産の加担者or受益者と指さされているようなものなので、それ嬉しいか?胸張るような事なのか?と思う
なので、軽々しく「東京は文化資本が豊富」という人は、「文化資本」が前提とする資産や社会的地位、権力の再生産についてよく分かっておらず、つまり「文化資本」の意味をよく分からずに使っているのでは?と思えてくる
ある意味「東京には文化資本による格差の再生産を肯定or容認するような差別的な風潮が残存している」という事でもあるので、本当に意味を理解して使ってる?と疑問
今話題のキム・カーダシアンとカニエ・ウェストの娘のノース・ウェスト。
全米最大規模のハリウッドホールで舞台「ライオンキング」でシンバ役としてデビューしたんだけどめちゃくちゃに叩かれてる。
理由は、キムとカニエがノースのことを主役にしたいがために多額の金を払ったのではないか?ということ。
私も今回の動画見たけど…
自信満々にのびのびと演技をしているのは子供らしくて可愛いんだけど、あのレベルでシンバ役はまじであり得ないと思ったし、これは金積まれたって言われても仕方ないだろっていうレベル。
オーディションを勝ち残った子供の保護者が告発の動画みたいなものを出してたり、実際にオーディションに提出したであろう演技をする動画見たけど、シンバにふさわしいくらいに上手い子たちばかりで悲しくなっちゃった。Nepobabyってもうセレブでは当たり前みたいになってるし、実力のあるself-madeが優先される世界線いつくるの😭
でもノースも可哀想なんだよな。
こういう無知低脳クソバカには専門家の話を聞く以外にできることないんだけどな
訴えるだけなら誰にでもどんな内容でもかなり広く割と可能なので、
正確に言えば、私道を歩くとか家を借りるとか水道契約を結ぶとかあらゆることに「同程度に訴えられるリスクがある」と言えるからね
訴える権利は基本的人権の一部なので全ての人に認められてる、の意味が全く理解できてないレベルの人間なのに弁護士や警察の話よりも適切な理解ができるわけなかろうよ
(認められるか、と、訴えることができるか、は全く別の話)
バカがバカの頭で考えてもデタラメバカ理論しか出てこないのに、日本は自分で考えようとか安直に教えちゃうんだよね
小学生レベルの社会科の知識もない奴に「自分で考え」させても、稚拙で誤謬まみれで差別的で醜悪で原始的なゴミみたいな内容しか出てこない
森茉莉のことを幸福な生い立ちゆえの自己承認カンスト代表みたいに言ってる時点で
ハァ?って感じだけど。
羨ましがるには森茉莉は森茉莉で親との関係にややこしいもの抱えすぎだろう。
でもどうせ誰も森茉莉なんか読んでないし、なんなら姫野カオルコも読んだことなくて知ったふうなコメントしてるのが多そうなはてな部落
nessko
将来「お前の子供に生まれるんじゃなかった!」とか言われるくらいなら、
まだ「パパ、パパ」って言ってくれてる今のうちに殺しといたほうが幸せなんじゃないかって思ったりしない?
まだ今だったら2人目も間に合うだろうし。
自分は賢さ(IQ、学歴、etc)上位の方だと思うので、世間の人は自分より頭が悪いのが普通、多数派
自分より頭が悪い人は大体みんなそうだし、頭がいい人の方がレアで、当たり前なのでどうとも思わないのだが、
女性はわからないことや知らないことについて自分は詳しくないから、その話題に意見を持てるほどの知識がないから自信がないと謙虚な姿勢であることが多い
男性は、年齢が高い層、若年層でもかなりいるのだが、わからないことや知らないことについて知識がないのに見合わないくらい高圧的で強く主張する人が多い
無知のくせに強く主張したら批判されるのは当然では?知らないことなら意見を持つのは困難だよな?よく知らないことに適当に意見つけてるだけなら中身もないし迷惑なだけだよな?
そういう経験をよくするため、女性には賢い人たちという敬意があるが、男性も賢い人には敬意を感じているが、
バーチャル・タレント・アカデミーのオタクって、なんなのだろうか。
毎週30分の配信を見て、感想をTwitterで呟いたり、FAを投稿したりして、「VTAを応援」していた。
歌も禁止、ゲームも原則禁止、毎週30分しか会えないから情報もあまり分からない……そんな彼ら(※性別を問わない表現として彼らという代名詞を使用する)のことを日々考えて生きていたし、その時は生き甲斐のひとつと断言できるほどだった。
私がVTAを見ていた時期、VTA界隈は大いに荒れていた。
サイレント退学が続き、いつまで待っても音沙汰がないために運営に問い合わせたりTwitterで訴えかける人が急に現れ始め、明確なソースがないのにも関わらずアカデミー生の名前がユーザー名になっているチャンネルやTwitterのアカウント一覧を流す人も現れ、アカデミー生とは名前の違うライバーがデビューする度に誰々ではないかという憶測や誰々はまだなのかという声が広がった。
アカデミー生が養成機関所属の人間にしては認知が広がりすぎたのは、VTA卒ライバーのデビューだけによらないものだと感じている。荒れすぎたからか応援タグも消滅したしね。
このことが「化石のように眠った情報の価値」を上げているんだろうなと思ったり思わなかったり。
化石のように眠った情報というのも、現在VTAのコンテンツは全て非公開となっている(オーディション活動はやたらと活発だが、アカデミーチャンネルで活動をしていくのかもよくわからない状態である)。リアルタイムで見てきていなかった人たちが、今彼らの情報(本人が口にしたり発信しているもの)を得れるのは、ファンの制作した切り抜き動画とVTA公式Twitterのツイートのみである。その他の情報は現在ソースがないため、間違っている可能性もあるものとして見るべきだと私は思っている。
アカデミー生がデビューした/していないに関わらずコンテンツ自体が消滅した今、「VTAを見ていたオタク」というのは、確実な証拠(当時のツイート等)がない限り実証できない。
「VTAを応援」していた中にはもちろんROM専と呼ばれる人もいるだろうし、アカデミー生みんなが利用していたGoogleフォームにお便りを送ったことのない人もいるだろう。逆に配信でコメントだけをしてTwitterでの発信はしていない人もいるだろう。
しかし、前述の通り切り抜きで情報を得れるし、「VTAから見ていたファン」による「VTA時代の彼ら」に関するツイートも多く出回っているため、今や誰もが「VTA時代の彼らを知っている」と言える状況になってしまっている気がする。まあよくバズってますよねそういうの。情報がいかに価値があるかの証拠すぎる。
個人的にはソースもないものが出回ってるの怖すぎるけど、インターネットリテラシーの違いかな?とか言うと角立ちますよね、すみません。
バーチャル・タレント・アカデミーのオタクって、なんなのだろうか。
VTA自体の、システム形態含めて概念から好きなオタクなのだろうか。デビューしたライバーの現在もしくは過去を懐古するオタクなのだろうか。他所で活動している人たちの現在もしくは過去を懐古するオタクなのだろうか。今どこで何をしているのかもわからない人たちの過去を懐古するオタクなのだろうか。
先日、現在の活動名がアカデミー時代の名義と同じ(それがVTAの権利的にOKなのかはわからないが商標登録はされてないのでセーフなのかもしれない)人物がVTAにいたことを断言し、今と過去を比較し今の状況に喜ぶ文面を見た。
個人的に結構応援していた人物であったこともあり、VTAで得たある程度の知名度を利用しているようにしか思えず今のその人を応援する気は湧かなくなったし、応援していた過去を遠回しに否定された感覚にもなったが、まあ色々大変だったっぽいことも書いていたので、仕方ないのかもな……という考えに落ち着いた。
元々証拠のない限り実証するのも難しいような「過去の応援」だ。その人に関しては、活動の形式的に別に過去の発言や本人の趣向等を知っているからといって何にもならないと思ったのだが、デビューしたライバーのアカデミー生としての過去がこんなにも重宝されているのは単にファンの母数の違いだけではないだろう。
当時を知らない人からすれば、「誰かが自分の知らないその人の過去を知っていること」はスタートダッシュに乗り遅れた感覚なのかもしれない。
あくまで私個人の考えだが、アカデミー時代に公表した情報が「今も公表してもいいこと」なら、本人は既に公表しているだろうし、「公表していないこと」なら本人が今言う必要がない、あるいは言いたくない情報だと思っているため、わざわざ掘り起こすことか?と思っている。またメンバーシップにてアカデミー時代の配信を公開しているライバーもいるし、公開していないライバーは何かしら理由があるのだろう。
これは「知っている側」「リアルタイムで見ていた側」だから言えることなのだろうか。
今を楽しむだけでは駄目なのだろうか。
一部のライバーに関しては頻繁にアカデミー時代の見た目の二次創作を見かけるが、過去と絡ませることで美味い消費をしてるんだろうなと思ってしまう。まあ二次創作って捏造であればあるほど美味いよね。さすがに冗談ですけど。
あと関係性くらい人間付き合い長ければ多少は変化あるし、本人たちの関係性って一部しか見えてないから、過去もクソもないと私は思います。
VTAのオタクをしていると、「知っていること」に価値があると思われてしまいがちだが、別に知っていることに価値があるわけではなくて、「不安定で発展途上なコンテンツを応援し見守っていた事実や経験」に価値があると思っている。