はてなキーワード: お客様は神様ですとは
①玉木が言っているのは、収支報告書の数字だけ見て下げろとイーロン・マスクを真似てやってるだけで、頭で考えて言っているわけではないことは理解した方が良い。
②国民皆保険によって劣悪だった健康が是正され、健康への意識が高まり、低所得者であっても高度医療を受けられるようになり、難病者は本来なら数千万数億の治療費を自腹で払うこと無く受けられるようになった。その恩恵は計り知れない。
ただ国民皆保険は1922年に施行されて何度か改正されているものの抜本的な制度改革をやってきてない。このことについてツッコミを入れるべきで、国民皆保険(国民健康保険)を無くせば解決する話ではない。
③労働改善は会社(病院)と医師である労働者が協議して解決すべきこと。国民皆保険と同列で話すべきではない。
④北米型の医療制度に変えると決まってもそれは10年や20年かけて段階的に変えていく話になるはず。
タクシーの人とか慌てる人多いじゃない。
客の要求とか行動とかに対して瞬時に反応しないとヤバいみたいな。
よく見るでしょ?
客が手を上げた瞬間に後ろに車がいるのに急停車する人とか。
反対に客を降ろすために(多分、不意に客がここでいいとか言い出すからだと思うけれど)
後ろに車がいるのに予想もしないような場所で車を急停止させる人とか。
よく周囲の状況を確認せずに車から飛び出すように降りる人とか。
こういう「慌てる」がなぜ起こるのかは一概には言えない。
ただ前述したように「慌てる」ことが一種の接客としてのマナーであるかのような意識というのはあると思う。
そういうのが関与してるんだと思う。
なんか、そのへんはもうちょっと図太くなってもいいんだと思うけどな、そろそろ。
まあ、いろいろな不幸が重なって死亡事故にまで発展したのだとは思うけれど
2 居留守だろうなって分かってるのに何度も尋ねるとかウゼえ
3 軍師として必要として依頼してるならむしろ劉備が下の立ち位置だろ
1の「ちょっと相手のやる気見るために居留守しちゃおっかな」とか普通に単なる人格破綻者じゃないっすか。こういう人を試すような態度が許されるの学生までっしょ。
2の居留守と感づいて何度も来てるのも相手側の都合とか想像できてなくてサイコっぽいですね。断っても毎年電話してくる投資営業みたいなクソさ。
3がまあ一番アカンっつーか、「お客様は神様です」みたいなノリがキツいんですよね。依頼してる側って結局は頼む側なわけで、それって「貴方じゃなきゃだめです」って告白してる側じゃないですか。それでなんで「俺の生涯の肉便器にしてやってもいいぞ」みたいなウエメセかましとるんすかっていう。
こんなんをいい話だと思ってる人や国は終わってますよ
男女平等パンチというワードが、日本の街中で撮影されたらしき動画とともに、現在Twitter上でにわかに話題になっている。
・女性が男性に暴行を加える。それに男性が反撃し、女性はあえなくダウン
そんな男性たちについて、女性側では「女性というか弱い存在を虐めて楽しんでいる」「男性という強者による加虐趣味」と捉える意見が見られる。
そう思いたい気持ちもわかるし、男性たちの中にはそういう手合もゼロではないだろう。
しかし、大多数の男性については、おそらくそれは間違った認識だ。そして、そのように認識を間違うこと自体が、男性たちがあの種の動画に喝采を送る原因の一つでもある。
どういうことかというと、あの動画への喝采は弱い者虐めや加虐趣味に興じる気持ちではなくて、
・女性の持つ特権と特権意識によって、一方的かつ物理的に虐げられた恨み
から来る声なのだ。虐げる側ではなくて、虐げられた側としての叫びである。
世代による違いもあるだろうが、男性は日常生活の中で、女性から暴力を振るわれるケースが、実は少なくない。
日常の中で、女性は気軽に男性を引っ叩く。身に覚えのある女性もたくさんいるだろうし、自分がやらずともそういう光景を目にしたことはあるだろう。
「女性を殴ったことはないけれど、女性に殴られたことなら何度か(あるいは何度も)ある」というのが、おそらく多くの男性の一般的な経歴である。
女性は男性に対し、日常のツッコミレベルでもそうだし、揉め事のレベルでもそうだが、強いものを平気でいく。
これは痛いのだ、シンプルに。
女性に叩かれたくらいで、なんて思うかもしれないが、むしろ女性だからだ。
女性は男性に比べ、同性同士での小競り合いめいた小突き合いの経験がおそらく圧倒的に不足しているためだろう、手加減がぜんぜんできてない。
はっきり言って、男性同士であれば即本気の殴り合いに発展してもおかしくない威力の殴打を、スパンと気軽に張ってくる。
そして、日常のツッコミならまだいいが、揉め事の場でそれをやっておいて、男側が不快感や抗議を示そうものなら、
「え? なに? あんたもしかして叩き返す気なの? 男なのに? 女の私を? 許されると思ってんの?」
と、極めて非対称な特権を堂々と主張するまでが、残念ながら、暴力を振るう女性のお決まりワンセットなのだ。
また、そうはっきり言葉にせずとも、「まさか反撃なんかしないよな?」という前提を押し付けてくるのは、暴力を振るう女性たちに共通するところである。
こういう話をすると「女が引っ叩いたくらいで情けない」という声が必ず出てくるが、いい加減今は令和である。男だろうが女だろうが、人が人を叩くのは普通に暴行だ。
顔であれば、鼻に手のひらが当たれば折れることもあるし、目に指が刺されば失明もしうる。もちろん、顔でなくとも危険だし、危険でなかったとしても痛いし不快だ。
(なお、ごくまれに金的を打ってくる女性もいるが、相当な状況で相当な覚悟がない限りやらない方がいい。あれば内臓を打っているので、ギャグでは済まされない)。
女性に引っ叩かれても物理的な反撃はしない(おそらく多くの一般的な)男性からすると、このように、日常生活の範囲において、男女間における肉体的な暴力行為は、常に女性の特権なのである。
同級生から同僚から、友人からパートナーから配偶者から、引っ叩かれて嫌だったし屈辱だったが、状況も経緯も正当性も一切関係なく、ただただ『自分は男で相手は女』というだけで反撃が許されなかったという記憶は、男たちにとって日常の中で当たり前にある。
「お前は反撃しちゃいけないんだぞ? わかってるよな?」と特権を笠に着て一方的に殴られるしかなかった、その恨みは、おそらく女性が考えているよりも深く生々しいのだ。
で、話は件の動画に戻る。
今話題になっている動画は、確認できる限りおいては、女性が先に男性の顔面へ攻撃している。
平手であろうがなんであろうが、あの勢いで顔面殴打は普通に危険である。「男なんだからあれくらい大丈夫でしょ!」などという声もあるが、人間なのでとにかく顔面は危険です。上にも書いたが、指が立っていて目に刺さっていれば失明ラインなのは疑いようもない。
あそこまでのものはやや珍しいとはいえ、とにかくああいった女性から男性への暴力は、男性にとって身に覚えのある自分ごととして、血の通った恨みの対象なのだ。
つまり、喝采が上がる理由はこれである。加虐趣味でも差別主義でもなく、積み重ねられた理不尽への恨みなのだ。
また、「この理不尽は正しいことじゃないぞ、俺たちは恨んでいるぞ」ということをを示したい、的な要素もあるだろう。それだけ、男性から見て世の女性はこの問題について無自覚なのだ。
どういう経緯でああいう事態になったのかはわからないが、(嫌味やおためごかしではなく)シンプルに動画の殴られて倒れた女性はすごく心配。
個人的な意見だが、恨みがあるのなんのと長々書いたものの、「男性は女性に暴力を振るうべきでない」という規範は、やはり必要である。それだけ、男女間の体格や筋力には危険になりうる差がある。
だからこそ、女性がこの規範を日常で都合よく濫用するのも、特権として声高に主張するのも、ヘイトを貯めるだけだからやめてほしい。
あの動画に対しても、やはり女性側からは「女性相手に男性が反撃したら危ない」という声が出ているが、まさにそういう意見が出てくるところが問題なのだ。
あの勢いで先に顔を叩かれても男性は反撃をすべきでない、などというのが、どれだけ非対称で異常な要求か冷静に考えてほしい。
そもそもあの光景に言うべきは一つで、女性だから男性だからどうのではなく「暴力はいけない」である。
「男性は女性に手を上げてはならない」とは、男性側が自分たちを律する際に言う言葉であるべきで、女性側が暴力を振るいながら当然の顔をして非対称に求めてくれば、不愉快であり軋轢を生むのだ。
貯まったヘイト、不愉快、軋轢が行き着く先は、生産性のない男女間対立だ。
なお、今回の件については、
『「女性は生理が負担になっている分スペックが落ちる」という話題には「女性を身体的要件で下に見るのか」と怒るのに、女性が男性に殴りかかって反撃された事例においては、「女性はか弱いから配慮されるべき」と言い出すのは、さすがに二枚舌では?』
そもそもさ、買い切りのゲームなのに自由にアイテムを選ぶことも出来ないっておかしくね?
買いきりなんだぜ?
こういう話すると「じゃあRPGも最初からLV999とかにして遊ぶの^^」みたいに言うバーカバーカクソバカ死ねよバーカバーカがいるけどさ
それとは全然違うじゃん
RPGの場合はレベルを上げつつ上のステージに行くっていう成長曲線が魅力じゃん
でもスプラはそういうのじゃないわけよ
なんなんだろうなー
これが基本無料のゲームだったら俺も談合する側が全面的に悪いって言うよ
でも買い切りのゲームで談合させるような仕組みを入れているのはゲーム側がプレイヤーの遊びを妨害してる状態じゃん
それって完全におかしいよね?
お客様は神様ですって話じゃなくてさお金払って買ったゲームで「おいお前らゲーム人口維持するためにゲーム内マネー目当てにプレイしろよ^¥^」みたいな事されるのマジでおかしいっていうか
つうかそもそもゲーム自体をフルに味わう権利を人質に取られてるのってどうなっていうかさ
たとえばこれがゲームを上手くなれば簡単に出せる隠しキャラとかならまだ理解できるのよ
そのうち落ち目になってくんじゃないかなこういうこと繰り返すと
「お客様は神様です」について
https://www.minamiharuo.jp/profile/index2.html
「三波春夫」といえば、『お客様は神様です』というフレーズがすぐに思い浮かぶ方が少なくないようです。印象強くご記憶いただいていることを有難く存じます。
ですが、このフレーズが真意とは違う意味に捉えられたり使われたりしていることが多くございますので、ここにちょっとお伝えさせて頂きます。
三波本人が生前にインタビューなどでこのフレーズの意味を尋ねられたとき、こう答えておりました。
『歌う時に私は、あたかも神前で祈るときのように、雑念を払ってまっさらな、澄み切った心にならなければ完璧な藝をお見せすることはできないと思っております。ですから、お客様を神様とみて、歌を唄うのです。また、演者にとってお客様を歓ばせるということは絶対条件です。ですからお客様は絶対者、神様なのです』
歌手として歌を歌う、「セリフ入り歌謡曲」や「長編歌謡浪曲」で歴史上の人物や物語を歌い語る、その折の三波春夫の心構えを表現した言葉であり、お客様に歓んでいただくことを歌手人生の第一義として追及して生きた、三波春夫らしい心情を表したものでした。
また、三波春夫の舞台をお客様が楽しみにお越しになり、三波も一所懸命に舞台をつとめるといった、楽しさや高揚感がいっぱいの、歓び合う場での思いを表したものでした。
そしてその始めは、「お客様は神様です」という型にはまった言い方ではありませんでした。いきさつについての本人の著述を最後にご紹介いたしますが、“お客様を神様とみる”という心構えであることを舞台の上で話したことが始まりで、それは芸能生活としては22年目、歌手デビューから数えると4年目の1961(昭和36)年のことでした。
その後、漫才トリオのレツゴー三匹さんが「三波春夫でございます。お客様は神様です」という表現を流行させて、「お客様は神様です」という言い方が世の中に定着したというのが経緯です。
三波にとっての「お客様」とは、聴衆・オーディエンスのことです。また、「お客様は神だから徹底的に大事にして媚びなさい。何をされようが我慢して尽くしなさい」などと発想、発言したことはまったくありません。
しかし、このフレーズが真意と離れて使われる時には、「お客様」は商店、飲食店、乗り物のお客さん、営業先のクライアントなどになり、「お客様イコール神」となります。
例えば買い物客が「お金を払う客なんだからもっと丁寧にしなさいよ。お客様は神様でしょ?」という風になり、クレームをつけるときなどには恰好の言い分となってしまっているようです。店員さん側は「お客様は神様です、って言うからって、お客は何をしたって良いっていうんですか?」と嘆かれています。
また、クレーマーやカスタマーハラスメント問題を取り上げている番組などでは「“お客様は神様です”というのがありますからね」と、真意を紹介することなく引き合いに出されることもあります。
このようなフレーズへの誤解は三波春夫の生前から有りましたが、言葉や文章などでの短い説明ではこと足りないと思うのは、生前の三波春夫も、現在の私もです。説明となるものを挙げるとしましたら、三波春夫のライブをご覧いただいて心意気を感じ取っていただくことだったのかもしれません。
“雑念を払って澄み切った心で歌う”というような心構えに至ったのには、三波春夫のそれまでの人生経験が土台としてありました。
16歳で初舞台を踏んだ浪曲の世界は、芸がまずければ「下手くそ! 聴いてられないぞ!」と、お客様が舞台に上がって来てサッサと幕を引いてしまわれるような、目や耳の肥えたお客様ばかりでした。幸いに途中で「やめろ!」と言われたことはなかったそうですが、舞台に立つ時は常にお客様との真剣勝負でした。
20歳では応召して陸軍に入隊することとなり、戦場を駆け巡り、終戦後はシベリアで捕虜となり、4年間の抑留生活を送りました。
抑留中、絶望の中にある仲間を励ますために、また自分自身が希望を持って生きるためにも、時間を見つけては一所懸命に浪曲を語って聞かせ、皆で演劇も創りました。藝で、いかに人に喜んでいただけるかを徹底的に追及し始めたのは、このときからでした。
戦後は浪曲の世界に戻り、33歳で歌謡界に転向して歌手となったのですが、プロとして藝を向上させるには自分自身の心を磨き、鍛えてゆかなければならないと思い、“求道者”と言われるほど真面目に生きました。男性歌手初の和服の歌手であり、歌手が座長の芝居と歌謡ショーの大劇場の1ヶ月公演の一番手であったことを始め、前例が無いなどということは恐れずに、「常に新しい藝を、新しい作品を」をモットーにしておりました。
永六輔さんは三波春夫のことを「歌う学者」と呼んでくださいましたが、酒タバコは嗜まず、空き時間は本を読み、作詞やエッセイ、歴史本を書くために原稿用紙に向かっている人でした。
笑顔がトレードマークのようでしたが、いつも人に笑顔を向けられる自分であるようにと、心がけていました。日常、腹の立つこともありますし、不愉快な思いもしますが、そのまま仕事に入ってしまっては良い舞台はつとめられません。ですから、心の持ち方のスイッチをいつでも切り替えて笑顔が出来るように、と努力していました。
これらは、若い時に先輩から「普段の暮らし方が舞台に出るんだよ」と教えられたことを心におき、より良い舞台をつとめられるように、お客様に歓んでいただける歌手であるために、の切磋琢磨でした。
三波春夫が藝一筋に生きた姿勢は、DVDなどでお目にかける舞台などに表れているかと存じます。ご興味がおありになりましたら、どうぞご高覧くださいませ。
最後に、三波春夫自身が「お客様は神様です」について著述している文章をご紹介させていただきます。
三波春夫著『歌藝の天地』
(1984年初刊 2001年文庫化 いずれもPHP研究所)より
「お客様は神様です」の発端
お客様は神様です」という言葉が流行ったのには、びっくりした。よく、この言葉の真意はどこにあるのかと聞かれるが、私も、その答えに困ることがある。テレビなどで、短い時間で喋るには、うまく説明が付かない。
皆さんのほうでは、面白がって、「お客様は仏様」だの「うちのカミサンは神様です」とか、「選挙民は神様じゃ」などといった言葉になって広まっていった。いやはやどうにも賑やかなこと。
そのあげくに、「こんなふうに言われるのは、どう思います?」とくる。
しかし、振り返って思うのは、人間尊重の心が薄れたこと、そうした背景があったからこそ、この言葉が流行ったのではないだろうか?
私が舞台に立つとき、敬虔な心で神に手を合わせたときと同様に、心を昇華しなければ真実の藝は出来ない―――と私は思っている。つまり、私がただ単に歌を唄うだけの歌手だったらならば、きっとこんな言葉は生まれなかったと思うのです。浪花節という語り物の世界を経てきたからではないだろうか。
つまり、浪花節の台詞の部分は「瞬時のうちに一人で何人もの登場人物を的確に表現」しなくてはならない。そうしなければ、決してドラマは語れないのである。
われわれはいかに大衆の心を掴む努力をしなければいけないか、そしてお客様をいかに喜ばせなければいけないかを考えていなくてはなりません。お金を払い、楽しみを求めて、ご入場なさるお客様に、その代償を持ち帰っていただかなければならない。
お客様は、その意味で、絶対者の集まりなのです。天と地との間に、絶対者と呼べるもの、それは「神」であると私は教えられている。
あれはたしか、昭和三十六年の春ころ、ある地方都市の学校の体育館だった。
司会の宮尾たかし君と対談の際にこんなやりとりがあった。
「!?」
「こんないいところへ、何故もっと早く来なかったんたろう、と」
ここで、お客様はどっと笑ってくれる。ここまでは、昨日通りの対談内容。
すると、宮尾君はたたみかけて、
ウワーッと客席が歓声の津波!私ははっとしたが、宮尾君もびっくり。客席と私の顔を見比べて、
「カミサマですか」
「そうです」
「なるほど、そう言われれば、お米を作る神様もいらっしゃる。ナスやキュウリを作る神様も、織物を作る織姫様も、あそこには子供を抱いてる慈母観音様、なかにゃうるさい山の神・・・・・・」
客席はいっそうの笑いの渦。その翌日から、毎日このパターンが続いて、どこもかしこも受けまくった。宮尾君は、お父さんが落語家であり、本人も研究熱心だから、司会者としても一流。漫談もうまい。
こうして、このやりとりを続けて全国を廻るうちに、レッツゴー三匹が舞台を見て、おおいに流行らせたのである。
追記:
“翌日から、毎日このパターンが続いて…”とありますが、三波と宮尾さんが自発的にしたのではなかったのです。山陰地方を廻るツアー中のこの出来事でしたが、”三波春夫が、お客様を神様だと言う面白い場面があるよ”という評判がすぐに広まり、各地の主催者さんから「あの場面、必ずやって下さいね。お客様も待っていらっしゃいますから」と言われ、連日この2人のトークの場面をやらなければならなくなった、というのが真相です。