はてなキーワード: うな牛とは
12月最初、親がチーズ牛丼を買ってきた。すき家のチーズ牛丼(並盛)である。初めて目にするそれはやけに黄色が眩しい見た目だけはとても美味しそうな牛丼だった。タバスコが付いてきたので
ちょっとだけかける。そして食べる
あら、美味しいじゃないの。
と思ったのは最初のうちで
すぐにタバスコの辛味が襲ってくる。辛い、ご飯の味がしない、ご飯まで辛い。ここで私は気づく
タバスコちょっとかけたつもりだったが、全てかけていたことを…そしてくっっどい、チーズがすさまじくくっっどい。もう半分ぐらい食べたとこでタバスコもチーズも敵にしか思えなくなった。
そんなこんなで完食したけど、まあ
メロンパンにはメロンが入ってない!へいへいへい!って歌あるじゃない。
焼きそばパンに焼きそばが入ってなかったら!ってだと普通にクレームの歌になっちゃうわよね。
そんでね、
私先日隣の会社の人に
まあ例のオーリョーの件で色々調べているやつの例の私が以前いた会社のたまーにお手伝いとか仕事してるんだけど、
その会社の人に
牛筋カレー3日間煮込んだ美味しく出来たやつがあるから!ってお裾分けいただいたの。
でもね、
表題の通り
具が入ってなくて牛筋がいなくて牛筋大好きなので楽しみにしていたのに、
なんかルーしかプラスチックのお裾分け容器には入っていなくて、
なんか他のカレーの具のメンバーも例えばジャガイモやニンジンのそう言う類いのものも入ってなくて、
なんかルーだけで、
でもこれプラスチックのお裾分け容器にお玉でよそうとき具が入ってない?って気が付かないものかしらね?って
もらっておきながらクレームを言ういや違うの
牛すじカレーに牛筋が入ってない!ヘイヘイヘイ!って歌いたい気持ちを抑えて翌日にはその3日間煮込んで美味しく仕上がったであろう牛筋をまるで賞味したかのように牛筋美味しかったです山脈に向かってヤッホー!って叫んだのよ!
たとえ牛筋がプラスチックのお裾分け容器に入っていなくとも牛筋あったかのように賞味した体裁で美味しかったわよ!って言えるレヴェルなので、
あーでもほんと牛筋カレー楽しみにしていただけに大好きだっただけに
主役の牛筋がいなかったこと、
それに加えて他の例えばジャガイモとかのメンバーも一切いなくてルーだけだったことも黙っておくことにしたわ。
よくあるじゃない、
スイーツとかでもこれどうやって食べたら良いのが正解なの?って
これもきっと偏差値の高い牛すじカレーだったのかも知れなくて、
ゴロッとした牛筋の存在を確かめて噛みしめて賞味するタイプの牛すじカレーじゃなくて、
牛筋が充分3日間煮込まれ溶けた偏差値の高い牛筋カレーだったのかも知れないわ。
メロンパンの歌を歌う女の子より可愛く歌う自信が今ならマックスでその子より16倍高い気持ちで歌い上げることができるわ!
本当にあれってなんだったのかしら?って
首をかしげそうな、
トンチの効いた一休さんでも頭を悩ませそうな牛筋カレーだったわ。
あと
もらっておいて文句言うのは悪いけど、
塩辛いのよね!
どんだけ塩味効いてるの?途中で味きいてみた?って言いたいところで、
夜中喉が乾いちゃって水を一気に飲み干すぐらい喉が乾きまくりまくりすてぃーだったわ。
本当にいただいておいて申し訳ないんだけど、
そう!思い出したけど
目を瞑って必死に牛筋の3日間煮込んだであろうそれだったら牛筋エキスがたんまりと出ているかと思って舌にフォーカスして集中して感じようとしたけど
私の牛筋ステータスのレヴェルでは牛筋を一切感じられなかったわ。
ファイナルファンタジーのファイヴで牛筋を感じるアビリティを覚えたら真っ先に装備したいアビリティーで牛筋を感じたいところよ。
舌でも感じることの出来ない、
私の牛筋の鍛錬の修行が足りてないのよね?きっと。
おかげでこれ私が作った方が
ゴロッとしたほおばるような牛筋カレーを作ることができる自身に満ちあふれているわ。
多分私が作った方が美味しくできるって。
言ってることがよく分からないと思うけどとにかく凄い自信なの!
だから
メロンパンにメロンが入ってない歌の二匹目のドジョウになるけど
牛筋カレーに牛筋入ってない歌を歌って作るアイデアはあげるわ!
なんど思い返しても
ステルス牛すじカレーで大変偏差値の高い牛すじカレーを賞味したことには変わりないかもしれない。
そんで牛筋の口になってしまったから私が求めていた想像の牛筋カレーを満たすことが出来ていないから、
そのお裾分けの牛すじカレー一杯だけに!って別に上手いこと整って掛けてもいないけどダブルミーニングでもないからね!
でも美味しい牛筋カレー食べたいな!って思ったわ。
夕日の画面と重ね合ってそのベテラン刑事を偲ぶ走馬灯的なシーンって出てくるじゃない、
話題になった「元カレが好きだったバターチキンカレー」って当てつけでそれを再現してお店で出したら大繁盛したって話あるじゃない、
あれの
「牛筋カレーなのに牛筋が一切入っていない牛すじカレーと見せかけてたっぷり牛筋が入っている私が大好きな牛すじカレー」ってメニュー作ってだしたら売れるかもね!
なんつってー
でもほんとおかげでここ何日か真っ当な牛筋カレーを食べたいと牛筋カレーの口になっちゃってしまってるわ。
もー!ってね。
うふふ。
ここのミックスのサンドイッチには野菜パートにトウモロコシは入っていてプチプチとした食感に甘いコーンのスイーツな感じが美味しいわ。
朝方ほどよい常温になっていて
美味しく仕上がったわ!
茶葉多めにしたので濃いめ美味い味ね!
今はうまうまよ!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
インスタントラーメンについて書いているので、自分が思っていることを書く。
自分は韓国のインスタントラーメンが好きだ。
韓国のインスタントラーメンといえば辛ラーメンがスタンダードのように思われているが、あれはスタンダードではない。
辛ラーメンは韓国人の中にも辛すぎるという人もいる。あれはポピュラーではあるが中心から少し外れているラーメンで、本当の韓国ラーメンのスタンダードは、三養ラーメンや安城湯麺のような牛骨スープでほんのり辛いラーメンがスタンダードのラーメンという認識を持ってもらいたい。辛ラーメンの農心は、「辛ラーメンBlack」という辛味を減らして牛骨の旨味を増したラーメンも出している。
さて、本題。
日本のインスタントラーメン開発者は、なぜ、韓国インスタントラーメンを研究しないのか。
この方は、1から4の食べ方の改善点を書いているが、韓国ラーメンはすべてクリアしているのである。
韓国ラーメンは、日本のインスタントラーメンよりも麺の量が多く、煮込むことにより麺のモチモチ感を維持。液体スープは添付してある場合が多い。
添付していない場合も煮込む前提なので、適当に冷蔵庫にあるものを入れて煮込めばコクも出る。うちではソーセージを冷凍しているのでソーセージと玉子を入れるだけで、かなりの満足感が出る。
一方、日本のインスタントラーメンは量も少なく、麺とスープを別で作る必要があって手間がかかる上に具材まで分けて用意するとなれば、わざと不味くして食べるように作っているのではないかと思うし、ライバルを研究せずにラーメンを作っているのではないかと感じてしまう。
そのあたりについて、どうお考えなのだろうか。
意見だけ書いても実際食べないとわからないので、韓国ラーメンで辛くなく自分が衝撃を受けたラーメンを以下に書いた。最近はKaldiやドンキで入手しやすくなったので、まだ食べたことがない人はぜひ入手して食べてほしい。
また、A子の夢を見てしまった。逐一日記に書いているのでわかるのだが、今年に入ってもう6回目だ。中学を卒業した後に会ったのは、成人式の時と地元の飲み屋で偶然会った時の2回だけなのに、夢の中でも空想の中でも、彼女の輪郭ははっきりしていて、色も鮮やかなままだ。少し垂れた目と厚めの唇で、いたずらっぽく笑うあの顔が、今でもまぶたに焼き付いている。
中学2年の時、2泊3日の修学旅行があり、夜の男子部屋では定番の「誰が好き?」トークが繰り広げられていた。最初はみんなお互い探り合うような空気だったが、段々と気持ちが高揚していき、「誰にも言うなよ?」という前置きのあとにぽつぽつと女子の名前が出始めた。幸運にもライバルは現れず、話を振られた俺はその場のテンションに任せ、口外禁止を条件にA子の名前を言った。いくら普段からいい加減な連中とはいえ、口約束はある程度は守られるだろうと思っていた。しかし、その場で出た情報は全て、翌日の夕方にはクラスのほとんどが知るところとなっていた。
自由行動が終わったあとの旅館で顔を合わせた何人かの女子にひやかされ、バツの悪い思いをしたが、その場ですぐに何か行動を起こすわけにもいかず、悶々とこっ恥ずかしい気持ちを抱えて行動していた。その晩の夕食は大広間で食べるすき焼きだった。忙しそうに器を持って歩き回る仲居さんを目で追っていると、7,8人ほどの同級生を挟んだ向こうにA子がいた。やっと表情が読み取れるくらいの距離だった。俺の視線に気付いたA子は、すぐにこちらを見て、一瞬の間を置いたあと、少しだけ笑った。心臓が止まりそうになって、すぐ目を逸らした。座卓に目を落とすと、家では絶対に出ない高そうな牛肉が鍋の中に並んでいた。紅潮した顔を誤魔化すようにかきこんだが、どんな味だったかは全く覚えていない。金閣よりも龍安寺よりも、いたずらっぽい笑顔が俺の1番の思い出になった。
大学生の時の彼女と結婚して今年で9年になり、再来月には2人目の子どもが生まれる。広くはないがマイホームも去年購入した。今の生活に確かな幸せを感じているし、かっこいいクルマが欲しい以外は何の不満もない。仕事は大して楽しくはないが、まぁこんなもんだろうと思っている。でもたまに、夢に出てくるA子に心をかき乱される。顔を見れた嬉しさの一方、目覚めてしまったことにひどく落胆する。旦那失格だと自分でも思う。向こうにも向こうの家庭がある。でも、会いたい。あの笑顔をまた見たい。と思ってしまう。
何かの行動を起こさずにいられなかった俺は、彼女が今住んでいる自治体の名前をググり、10,000円ふるさと納税した。来月には米が届く予定だ。
ここのところカツオがどーだ、安売り買ったらお前は搾取したこのブルジョワジーめと殴り合いが続いてますが皆さんお元気でしょうか。
で例のカツオの例えの記事を何個か見てて思ったんですけど、やっぱカツオと今回の嬢は似てませんよ。
片方が魚で、片方が人間だからと言いたいんだろって?そんなものじゃなく経済的に苦しんでるのは変わらないから一緒って?
そもそも、今スーパーにある安いカツオを買うのは、100%搾取なんでしょうか。
店は開けることができません。加工も無理。
スーパーが仕入れてこなきゃ、ゴミです。何も生まない。経費でマイナスです。赤です。
つまりスーパーが仕入れ我らが買うのは、応援でこそあれ搾取の汚名だけを貼られるものではないのでないでしょうか。
学校で使われず余って安売りになりそうな牛乳の消費を求めたあれですが、あれの近いものではないでしょうか。買って応援。
発言で示された風俗嬢を考えても、いろいろと違うんじゃないかと思えるところが出てきます。
新しく労働を始める人か、何かを辞めた、辞めざるを得なかった人たちですよね。
この機にやってみようと思ってた、ってんならどうぞご自由にしてください。
でも発言の風俗嬢は短期間で辞めるとなっている。やりたくて入った方は、3ヶ月だけで辞めるんでしょうか。
それは自由意志からしてやりたくなかったけど、その意志を飛び越えてやる必要があった人たちがメインではないのですか。
応援するという意味ではカツオと一緒じゃないかとなりそうですけど。
漁師さんは漁師業界の知識を活用して売り先を変え、漁師のアイデンティティを守ったうえで応援してもらえるのです。
個人事業主で事前知識を誰も教えてくれないまま、意思関係なく風俗嬢業界に飛び込まなきゃいけない所に応援って、本当に一緒なんですか。
詳述しないですけど、昔私は不況の只中で就職活動をやる羽目になりました。
希望の業界、やりたいこと、ちょこちょこ色々あったけど、全部パーです。
その時たまたま元気だった業界を選ばざるを得ませんでした。それがそう、IT業界です。
人は募集してたし活気があったのは間違いないですけど、その時代とうにIT業界の化けの皮は剥がれており、過酷な労働が跋扈しているとささやかれました。
体調不良に鬱なんてよくある事、業界を知ってる人からは平然と辞めた方がいいと言われてましたね。
でも私は選ばざるを得なかった、そんな糞上等の世界から、何の事前知識もなく正しい会社を選び取ってIT土方になるしかなかった。
これです。これこそ、あの発言で期待された風俗嬢なのではないですか。
若く、体力も多分あってハンデもないと思われる、そんな大量の学生が事前の希望一切関係なく、経歴に空白を生む致命傷だけは避けるため。
何だったら、3ヶ月。3ヶ月というキリのいい数字だけでも働いて転職時に話せる経歴にしておきたい。
勿論生活費も稼いでおきたい。
聡明な読者なら多分、どこからか違う部分を見つけ出して喝破してくれるかもしれません。
でも私には自分の意思で職業を選びきれなかった屈辱が今も心のどこかに残ってて、発言で指差された風俗嬢に、自分勝手な憐憫を感じざるを得んのです
個人的にひとつ言いたいのは、厚切り牛タンは絶対にNOということだ。
仙台の名店と言われる店の多くが厚切りで牛タンを出してくるが、はっきり言ってありえない。
厚い牛タンなんてゴムみたいな食感で、あごは疲れるし味はボヤけるしすぐに飽きるし、全然牛タンとしての旨みを活かせていない。
サクサクと噛みきれる厚切りは、それはそれで不気味だ。肉としての威厳が無い。
あんなものを店で食うなら、土産用の薄切り味噌漬けを家で焼いて食ったほうが100倍美味いと、俺は思う。
こう思うにいたったきっかけは、20年ほど前、仙台に出張した際に地元の人に連れられて入った牛タン屋である。
夏の日だった。
地理には疎いが、仙台駅の西口から10分ほど離れたところだったと思う。ビルが並ぶ通りから少し裏道に入った場所だった。
ここで出された牛タンが薄切りで、その完成された味に驚いたのだ。
焼き魚を乗せるような長方形の皿に、飾り気無く盛られた牛タン。薄切りとは書いたが、普通の薄切りよりは厚めだ。だが厚切りではない。そして一口が小さい。
同じ皿には、意外なほど大量に添えられた漬物がある。
そしてサイコロ状の肉が一個と、白髪ネギが浮いたテールスープ。
麦飯。トロロ。(案内してくれた人にこれは後半に食べろといわれた)
まあ、牛タンだし普通に美味いんだろ程度に思いながら肉を口に運び、そして打ちのめされた。
小さく薄切りにされた肉の一枚一枚に、牛タンの味が凝縮されていた。
肉は硬すぎず、適度な噛み応えがある。
噛むとジュワっと肉汁が噴き出す。
厚切りになどしたら下品で間抜けな味になるところを、美味さが一口にまとまるように絶妙のバランスで計算された分量だった。
今までの人生で食べてきた牛タンのコクがすべてここに集結したかのような味である。よく出来たアニメの最終回と同じ感動だ。
試しに二、三口分をいっぺんに食べてみたらこれはもう方程式が狂ってしまい、途端に「違う」と感じた。
この店は牛タンだけでなく定食としての完成度も恐るべきクオリティだった。
薄い一切れの味が濃厚で、一口食べるごとに「牛タンを食べた!」と満足できる旨みの強さなので、他の食材にも箸が進む。
まずは当然麦飯。
塩加減が強い牛タンと一緒に食べると、少しパサパサめの麦飯が、まるで砂漠で飲む水のように喉を通過していく。
気づけば食事開始3分で茶碗は空であり、当然おかわりを注文する。
そして名前がわからない手作りの漬物と、よくダシの取れたテールスープ、ここまで温存しておいたトロロ。
以前の俺は漬物が嫌いだった。しかしこの定食を食べた時から漬物を愛するようになってしまった。食前に残したらどうしようなどと思っていた自分が馬鹿らしい。
一口分の漬物を牛タンで巻いて口に運び、麦飯とともに十分に咀嚼する。
笑いたくなるほど麦飯が進む。
夢中でほおばった勢いで軽くむせそうになりながら、それをあっさり味のテールスープをすすって流し込めば、ピリリと効いたコショウで食欲がさらに増進される。
これを何度も繰り返す。
牛タンの旨みを常に新鮮に味わい続けることができる、黄金の食事だ。
汗をかき喉が渇くが水を飲んでいる暇などない。
至福である。
すでに麦飯を二杯平らげているので腹もそれなりに膨れかけているはずだが、ここでトロロを投入だ。
この手順をはじめて聞いた時は、牛タンの美味さと余韻をトロロが壊すのではないかと恐れた。しかし杞憂だ。
刻み海苔が添えられ甘めのダシで味付けされた冷たいトロロは、牛タンの油と旨みでギトギトになった口と食道に、これまた清涼剤のように染み渡る。
例えるなら、大学時代にサークル仲間と一緒に行った海水浴だ。小学校の友達とプールの帰り道に飲んだラムネだ。
晴れ渡った青空とギラギラと照る太陽のイメージが脳裏に広がる。
夏だ!! 俺は今夏を味わい尽くしている!! そう心から確信した。
行儀など気にする余裕もなく、とにかく目の前の牛タン定食を味わい尽くすので精一杯だった。
あまりの美味さに食事中はほとんど口も聞かず(案内してくれた人は食べる順番などを細かく指示してくれた。はじめは鬱陶しかったがあとから本気で感謝した)ガツガツと定食をむさぼり、店を出てからはひたすらに美味かった、本当に美味かっためちゃくちゃ美味かった、と連呼することしかできなかった。
案内してくれた彼は、特には言葉を返さずに、しかし心からの笑顔で静かに頷いていた。
それ以来、牛タンは薄切り派になった。
何年か経ち、また仙台に行く機会があったので当然のごとく牛タン屋に向かった。
一人だったので、とりあえず有名店なら外さないだろうと思って適当な店舗に入った。
しかし、出てきたのは厚切りのブサイクな牛タンで、タン特有の味や匂いがぼんやりと口中を漂うだけで美味くもなんとも無く、噛みきれない肉にイライラするだけであった。
テールスープもギトギトしているだけでアブラ水を飲んでいるようだった。
漬物だけの方がよっぽど食が進んだ。
しかし、これが有名店であり、地元民や観光客などから歓迎されているという事実に、さらに絶望した。
あれから何件か牛タン屋をめぐっているが、どこも厚切りのものばかりで、あの奇跡のような薄切り牛タンにはめぐり合えていない。
俺は少し牛タンを嫌いになった。
できることなら、あの店、あの奇跡の牛タン定食を出す店に、もう一度行きたい。
もう一度あの薄切りの牛タンを堪能したい。
そしてみんなにも行ってほしい。
ご存知の方がいたら、どうか店名を教えてほしい。
店はもう残っていないのかもしれない。
「昨日のこと、わたしのこと、誰にも言っちゃだめよ。強制はできないけど、わたしからのお願い。」
話が終わりそうになったので、ぼくは気になっていることを聞いてみた。
「あの女、なんて言ってたんですか?」
かなさんは困った顔をした。
「うーん。良くないことよ。口に出して言葉にしてしまうと呪われてしまうかもしれない。たいていの呪いってまったくのでたらめなの。でもね。人が言葉を交わすことで生まれる呪いっていうのは確実にあるみたいなの。わたしはのろわれたこともないしのろったこともないから確かなことは言えないけど・・・。やっぱり、やめておくわ。」
「ちなみに、矢口先輩、彼女と別れるわよ。それからまなと付き合うけど、まなともそんなに長くは続かない。でね、この地から出て行くことになると思う。」
かなさんの言葉通り、矢口先輩は彼女と別れまなさんと付き合い始めたが、二人で峠を攻めているときに事故にあいFD3Sは大破。二人とも奇跡的にほぼ無傷だったが、その事故以来二人でいるところを見ることはなかった。しばらしくて、矢口先輩の実家の会社が不正行為によって信用を失い、倒産した、という話がうわさ話として町内をかけめぐった。矢口先輩の携帯もつながらず、家に行っても誰もいない状況が続いた。二、三ヶ月し、母親から矢口先輩が一家で夜逃げしたらしいということを聞いた。どうやら自転車操業を続けていた会社が、不正の発覚により一気に回らなくなったそうだ。順風満帆に見えた矢口先輩の行方は誰も知らない。風の便りによると、父親はフィリピンに逃げたらしいが、矢口先輩、その妹、母親の居場所はわからなかった。
話をがっつり戻す。
かなさんと話をしていると、精神は弱いというA先輩がやってきて、いきなり威張り始めた。
「おまえなんだよ、かなに童貞もらってもらおうなんておもってるんじゃねえだろうなあ。」
A先輩はぼくの頼んだ高級そうな牛肉のなんかをつまみぐいし、そのままかなさんをつれてお店を出て行った。
かなさんは悪いと思ったのか、「○○くんも、一緒にカラオケいく?」と言ってくれたが、
A先輩は目で、「てめえきたらぶっころすかんなこのやろー」と言っていたので
丁重にお断りした。
そんな風にして、ぼくは廃墟マニア向けのホームページを作ることになったのだ。
かなさんもいまは30を越え、三人の子持ちだ。もちろんだんなさんはA先輩ではない。
いまだにぼくはかなさんと付き合いがあるが、
会うたびごとに、
「三つの願いごとのひとつとして、セックスしたい、と言ったらいまでもかなえてくれますか?」
と聞いてみる。
結局ぼくはあの別荘で聞いた女性の声の真相をしることはできなかった。
もしかなさんに願いをかなえてもらっていたら、ぼくには霊感があったのかもしれない。
そして、その後、廃墟めぐり、心霊スポット訪問で、数々の霊障を経験したかもしれない。
しかし、ぼくの平穏な日々は、メンヘラの彼女と出会い、あの病院廃墟へと行ったことで
終わってしまったのだった。
廃墟巡りとかしてた時の話へ続く。
放射性セシウムに汚染された稲わらを与えた牛が全国に流通していることが明らかになった
一連の報道を見ながら何かずうっと心に釈然としない部分があったのだけど、少しずつ見えてきたのでここにまとめる
釈然としなかったのは「農家はなぜ露天に晒された稲わらを牛に餌として与えたのか」ってことだ
もちろん「ずうっと露天にあった稲わらをなぜ畜産農家に売ったのか」でも構わない
「政府(農水省)が自治体通達を出したけどそれが農家まで伝わらなかった」から
ちょっと待って欲しい
震災発生から4ヶ月、事故数日のあの日(3.15)の様相もテレビや報道でだいぶ明らかになっている
その間、首都圏でも下水処理場の汚泥やゴミ処分場の灰やらに放射性物質が検出され大騒ぎになったり、遠く静岡のお茶でも検出されたりしている。
スーパーなどの店頭で見る限り、首都圏では今でも飲用に水道水を控えて水を買って飲んだり料理に使っている家庭は少なくないのではないか?
“現地”福島だって、親御さんが子供の学校給食を残させたり、校庭に出て遊ばせなかったりしている。
で、牛を大事にしている畜産農家の人はなぜ野外にあった稲わらを与えたのか?
もう少し踏み込むと
一般的な畜産農家ってのは基本的に“自営業”であってリスク管理というのは勤め人よりもしっかりしているのではないかと思っている
ましてや天候に直接左右されることの多いのだから蓋然性に関するリスクは工業サービス業その他産業の比ではない。
つまり“事故”からこの方、皆がリスクを意識している中、農家だけそうしたリスクを農協やら自治体やら国に転化している現象がどうしても理解できないというのが「釈然としないもの」の正体だ。
もしかしたら……
農家の人たちってのは今までずうっとそうしてきたのかな?
リスクは「あの人たち」がなんとかしてくれるって。「私たちはだまって作物を育て牛や豚を育てているだけで難しいことは「あの人たち」に聞いてくれ」って。
そんなことはないと信じたいけど、もしそうだとしたらあの事故の評価としてほぼ固まっている“人災”の様相も一変する。
ここで話は変わるけどテレビや新聞などのメディアってのはわかりやすい構図ってのを重視する
ストーリーを作りやすい「キャラづけ」と言っても良い。たとえば
こうした「キャラづけ」がより多くの人に何かを伝える理解してもらうのが都合が良いってことだ
テレビや新聞の中の人に悪意があるとかそういうことではなく楽チンかそうでないかの問題。
今、僕らはこうしたわかりやすいストーリーに乗っかり過ぎているのではないかと思う
「未曾有の災害」とか「想定外の事態」いうものに不安になって却って安定した物語構造を求めちゃうのも人の性(さが)かもしれないけど。
それで本来見えるものが見えなくなっているのではないか?とこういう次第
話を戻すと、この一連の食肉汚染騒ぎの中で「なぜもっと早く気づけなかったのか」というところで畜産農家の人たちも考えて欲しいし
テレビや新聞の人は彼らを過剰に被害者として扱い過ぎないでほしいということ。これを結論にしておく。
いちおう言っておくと、別に畜産農家を糾弾しているわけではないよ。
ただ、もちろんこんなストーリーをつくることもできる