はてなキーワード: いではくとは
あのね、婚活のコツはね、すべて諦めることよ。
小学校に上がるときに小学校を選んだりしないように、たいして選ばずに適当に結婚しちゃえばいいんだよ。
魂の殺人とか言って過大評価されてるけど、3万くらいで売ってるありふれたサービスだから。
男性の人が読んでたら、コスパ悪いから同意のないセックスはしないほうがいいよ。
コスパがいい犯罪だからってしていいわけじゃないけど、合意のないセックスで人生を棒に振るなんて、パンを盗んで19年刑務所につながれるくらい理不尽だから。
一人で暮らすより二人で暮らすほうが、普通は経済的には楽だから。
遺族年金っていう便利な制度があってさ、どっちか若くして死んだら、生き残ったほうが死んだ人が貰うはずだった年金をもらえるわけ。
死ぬまでもらえるわけじゃないけど、それでまあ生き残ったほうは逃げ切れるんだよ。
自分が生きた証、くだらないオタクコレクションとか、夢のマイホームとか、とりあえず引き継いではくれるよ。
すぐ売られちゃう可能性もあるんだけど、一人で死ぬ間違いなくゴミだしね。
死んだ後のことなんかどうでもいいやと言われたらその通りなんだけど。
自分の両親が築いた家庭とおんなじような、生活感あふれるフツーの生活が続くだけ。
それでも、まあ悪くないんだ。
あんまり深く考えずに、デートに誘って、誘われたらイエスで答えて、適当にうまくやりなよ。
断られたら次にいけばいいよ。
昨日まで机の上に置いてあった本が今は無くなっている。最近はその上にいろいろ積み重ねていたのでの存在を忘れていたけど、持ち主に「返して」と言われて掘り返すことになった。
〜〜〜
"歌集をプレゼントしたことがある人"になりたくて、誰にあげようかと機会をうかがっていた。たまたま、仲良くしたい人が雑誌「ダ・ヴィンチ」の短歌のコーナーを毎月楽しみにしているという話を聞き、きたきたと思った。渋谷のhmv&booksの詩歌の棚とにらめっこして、帯に書かれていた
「目がさめるだけでうれしい人間がつくったものでは空港が好き」
という一首に惹かれ、装丁も彼女のイメージにぴったりだと思い、雪舟えまの詩集『たんぽるぽる』を誕生日に渡した。
なんと彼女はそれを図書館で借りて読んでいてとても気に入り、今度買おうと思っていたという。恋人のいる人をプレゼントでぐさりと刺してしまってヒヤヒヤしたが、それくらいじゃ揺らいではくれなくて安心した。
そんなに人を刺したプレゼントをできたことを自慢したくて、好きな人と遊んでいるときにその話をした。彼女もその一首をきいて、「わたしもその歌集が好きだろうね」と言っていた。
その話をした帰り道、気持ちを伝えて彼女と一歩先へ進んだ。恋人という契約はいらないので特に「付き合ってください」とは言わなかったが、そう名づけてもよい関係に、それからなった。
少し経って二人でhmv&booksに行くことになったとき、彼女が『たんぽるぽる』を買った。私は同じ棚から同じ本が2冊別々に旅立っていくのに初めて立ちあった。
そしてまた少し経ったあと、ファミレスで並んで座り、二人でその詩集を読んだ。ドリンクバーのティーバッグやそれが入っていた紙の袋を散らかしながら、ページをめくる係を交代しながら、一首ずつ読んだ。逢わなかった次の日に「『逢えばくるうこころ会わなければくるうこころ愛に友だちはいない』だね」なんて言っていた。
彼女がこの詩集をほしいと思った理由のうちに"嫉妬"が入っていたらどうだろうと思った。"好きな人が私以外に上げたプレゼント"を自分でも持っていたいという感情の渦のなかに自分がいるのだとしたら、とてもなんだかあれだな。雪舟えまの歌は、まるくて優しいものを紡いでいるけれども、そういう棘と無縁ではない感じがあって、このエピソードはこの詩集にぴったりだなと、胸に秘めていた。どうせいつでも返せるからということで、『たんぽるぽる』は私が持っていることになった。
その時をピークに、だんだんと二人の心は離れていき、今まで1ヶ月以上膝を突き合わせていない。「付き合おう」と言っていないせいで「別れよう」と言う必要がないので宙ぶらりんにある。先に向こうの恋が冷めて、友だちでいましょうという話はした。特別で大事な人間に変わりはないとも言ってくれた。だがこちらは今、それも受け入れられないほど心が離れている。それはまだ話題にもあがっていない。伝えたら驚かせるのか、察しているのかもわからないほど離れたところにいる。「話そう」とも「離そう」ともとれるよう「はなそう」とは言ってある。
宙ぶらりんをやめるためになにか伝えるとして、「もう好きではありません」と自信をもっては言えないが「あなたのことが嫌いです」とは実感を持って言える。"嫌いになった"わけではなく"もともと嫌いだった"ことに気づいた。ひどいことをされたとは思わないけど、向こうが普通にすることにモヤモヤするなと気づいて今に至る。こうしてわたしが日中の物足りなさを純粋な孤独で埋めるよう感傷にひたっている今、彼女は自分を愛してくれる世界へと健やかに目覚めていくために体を休めているのだろうと思うと、そういう人間に魂の何を捧げるつもりなのか、ちゃんちゃらおかしいと思えてくる。同じものをみて同じことを切実に考えていたつもりだったけど、生きているだけで愛され満たされている彼女に切実なものなどなにもないんだろうどうせ。「大事な人だ」とか、「君しかいない」とかは、そのときは本当に口に出して気持ちよかったから言っていたけど、今は口が裂けても言えない。好きになるために無理して言ったわけではないけど、客観的にみると事実ではない。そのときの「私」はそう思っていたけれど、それは今の私と違う心の持ち主だという気がする。先に"冷めて"いただいたあなたですがこの"覚めた"感覚わかるでしょうか。
そういうつい最近までの「あのころ」感じていた気持ちは、"私のものであったことはないけれども、買ったことも読んだこともある"あの本と同じだ。
でも『たんぽるぽる』を読んだときに感じる、"美"みたいなものは同じように感じることができるだろうことは否定できない。でもそれは言葉にできないから確かめようがない。
言葉にできないなにかで繋がっていて、言葉にできるすべてで離れている、そんな気がする。
話す必要も会う必要もないが、完全に拒みたいわけではない。持っている必要もない本だけど、これを返してほしい理由が「他の大事な人と読みたいから」だとしたらめちゃくちゃモヤモヤする気持ちはある。まぁこれは誰にでもあることでしょう。本は埋もれていたけれど、あなたのことはこの1ヶ月ずっと手前にあってどうすればいいか考えている。
とはいえどうせ愛される自分がだいじで足りないものなどないあなたは「ならそういうことで」と、本といっしょにこれっきりになるだろうから、悔しくて残念。あなたにとっての"切実なもの"に私がなれたら嬉しいのだけど、私にとってあなたがそうである理由が見当たらないように、あなたにとって私がそうである理由も見当たらないから、悲しいけれど驚きはしない。
わざわざ伝えることではないけど知りたいことかもしれないと思い、見つけてくれればとこんな使ったこともない媒体で書いたことのない類の文を書いている。もらってばかりのあなたにはもう何もくれてやるつもりはないが、手を伸ばしてくれるならどうぞ手に入れてほしい。「違うよ」と伝えたいと思ったら伝えてほしい。
正社員で平均年収ちょい超えくらいの年収であり、同額くらいの貯金がある。NISAにぶっ込んで漬け込んでる部分もあるから全額すぐ動かせるわけじゃないけど。
BMIが25に達してきたので必死こいてリングフィットとかやってる。
で、
彼氏ができない。
持病と体質の問題で酒が飲めないしタバコも吸わない。バーとか普段は行かない生活。
トラブって辞めたくないので職場恋愛はナシ。そもそも在宅勤務メインでデスクも減らされたので接触がない。
でもじゃあ、この状況でどう作りに行けばいいかよくわからない。
友達はいない。地方から進学で東京出てきたけど大学の交友関係ぜんぶ切っちゃった系。在学当時から合コンとか行ったことない。酒が入る場面キライ。付き合いじゃなきゃ行かない。
マッチングアプリも一時期やってたけど何もピンとこなくて退会してしまった。
次のボーナス結婚相談所費用とかに充てるくらいしかもうできることが思いつかない。
あとなんか、婚活に限らないTwitterアカウントとか作ればいいの?
そもそも本当に彼氏が欲しいのか私は。なんかふんわり男性恐怖症みのケがある気すらする。
単に暇と愛情のはけ口が欲しいだけ的な奴ではないのか?
「犬でも飼ってろ」という話になる。
でも犬は惜しみない愛を注いではくれるだろうけど、例えばメイドインアビスの次の巻の感想を共有したりできないじゃん。
何なら美味しいものを分けあって一緒に食べるとかもできないじゃん(イヌにあげていいものと私の美味しいものとがいつも合致することはない)。
しかし一個人を私のあれこれを分かち合う(といえば聞こえはいいがやっぱり個人的な体感は「はけ口」なのだ)ために選ぶとか求めるって、なんかすごくこう、非人道的な感じしないか。
もう何もわからない。
35歳、年収約800万円の夫。
おかげさまで、私は専業主婦として、贅沢は無理でも、不自由なく生活できている。
子ども2人も希望すれば進学でも留学でもさせてあげられると思う。
でも、最近年収が100万円、場合によっては200万円低くても育児に協力的な夫の方が良かったと後悔している。
結婚してすぐ、夫から専業主婦として家事育児を任せたいと言われたを
無茶苦茶忙しいわけではないけど、そこそこ残業があるので、役割分担をしたいと。
私も仕事にそれほどこだわりはなかったので従った。
そして夫はその約束どおり稼いではくれるけど、全く家事をしなかった。
家事としても育児はともかく、子どもの教育には責任を持って欲しかったし、子どもと向きあう時間をとって欲しかった。
でも、最初の約束だからと取り合ってくれず、そのうち私も諦めた。
私が諦めたら、表面上は円満になった。
子どもが生まれても3年、夫と子どもだけで出掛けたことは皆無。
3人で出掛けたのも数えるほど。
週末も遅くまで寝ているか、気分転換に出かける夫を置いて、私が子どもを公園に連れて行く。
昨日は久しぶりの晴天の日曜日。
我が家では多分今後もありえないこと。
そう考えると急に虚しくなった。と、同時に子どもに申し訳なくなった。
夫がどんなに嫌な顔をしても、子どもへの関与を求め続けるべきだった。
我が家では夫が子どもと関わらないのが当たり前になって、今更変えようなない。
小学生の頃、母ちゃんに唾くれおじさんが出没しているから気をつけるのよ、と言われたことがあった。
当時、純粋無垢の権化だった僕は、「なんで小学生の唾なんてフィルムに集めたがるんだろう」と不思議でしょうがなかった。
あれから、四半世紀の時が流れた。
社会という荒波に飲まれていくうちに、凶暴なもう1人の自我が芽生えていることに僕は気づいてしまった。
そう僕は、いつからか小学生の唾液を集めたくて仕方がなくなっていたのだ。
一日のうちで、ヒトの心を持つ「僕」の時間と、唾くれおじさんになって意識のなくなる「おじさん」の時間がある。
どうやら唾くれおじさんとしての時間の「おじさん」は、乱暴なことをしているらしい。
最近では、「僕」の時間よりも、「おじさん」である時間が増えている。
意識を持つ「僕」は、それを振り返るたびにとても苦しい。
でも、無意識で過ごす「おじさん」はその苦しさがない。
だからいつか、この「僕」が消えてしまえば、「おじさん」はしあわせなんだ。
もう時間がない。
誰か、おじさんが集めた数千のフィルムケースを受け継いではくれないだろうか。
後世に伝えないでは、死んでも死にきれないんだ。