はてなキーワード: いつかきっととは
就活が終わった。
想像していたよりずっと良さそうな会社に滑り込むことができた。
何よりもこの就活を支えてくれたのは、私にベタ惚れで就活中ずっとサンドバックになってくれた人だった。
さかのぼること2年、私はバイト先の偏屈な先輩に興味を持った。
バイト先で店長によく怒られているけどなんだかんだ長くこのバイトを続けているようだった。
この環境が好きなのかと思えば、全然他の人となじまない、バイト終わりに皆でご飯とか誘っても来ない。
最近彼氏とマンネリで、バイトとゼミに追われてストレスまみれだった私は、ストレス発散にその先輩を落としてみたいと思った。
ちなみに私の顔は可愛いとかではない。よく言えば能年玲奈のすべての顔パーツを半分ぐらいのサイズにした顔。
ただ、先輩はいかにも女に免疫のなさそうな感じの人で、理由もなく私にも行けると思った。
バイト先で怒られるたびに慰めてみたり、無邪気なふりして近寄ってみたりしたんだっただろうか。
私に惚れた先輩は、私を可愛い好きだともてはやし、苦学生らしいのにご飯やらお酒やらをおごってくれた。
バイトも忙しい、ゼミも忙しい、でも誰も褒めてくれない、先輩のちやほやが私の自尊心を満たした。
酒の勢いで寝たりもした。
一度そこら辺が崩れるとそこら辺の貞操観念はぐちゃぐちゃだった。
だんだん私もほだされてきて、彼氏と別れて乗り換えるべきか?とか考え始めた。
しばらくして、先輩が大学を卒業して都会へと引っ越していった。
でも、これを良い機会だと思って、さよならお元気でと言った。
財布の都合でバイトのシフトは減らせない、何なら地方学生だったので、移動費がかかる。バイトは休めない。
ゼミはゼミで課題が山積していたし、教授が就活に理解がなくて、まったく融通を聞かせてくれなかった。
その結果、0時までゼミで頑張って資料をまとめ、朝の4時までESを書き、2時間だけ床で寝て風呂に入り、7時台の新幹線に飛び乗って、自由席が空いていなかったらデッキで座って寝落ちした。
お祈りが来ないことなんてザラで、みん就で「連絡来たー」みたいな嘘か本当かわからない投稿で、ああ落ちたんだとわかって心をえぐられた。
心も体も限界で、先輩に連絡を取った。
ちょうど私の就職活動先と先輩の家が近くだったので、ホテルの代わりに毎週のように先輩の家に上がり込んだ。
全然就活もゼミもうまくいかないんだと、またバイトだから早く戻らなきゃと、愚痴を言っては慰めてもらった。
先輩は卒業後も私を覚えていてくれたようで、再現なく私のわがままに付き合ってくれた。
就活がうまくいかないと、この世に必要とされていないような気がして死にそうだった。
今思えば不幸に酔っていたとも思うんだが、その当時はすべての空白を先輩で埋めようと必死にもがいていた。
6月のある日、ダメ元でエントリーしていた会社から内定を得た。
私の就活が終わった。
その瞬間に、一気に先輩への興味が失せた。
そんなことにも気づかずに、私のご飯の誘いを入れて来る。
内定を手に入れてメンタルが無敵状態になった私のとって、先輩はただの人生の汚点になった。
そのタイミングで、就職が決まったことを機に、彼氏がプロポーズをしてくれた。
「私やっぱり彼氏のところに戻るわ」と、LINEで一文送ってブロックした。
その後、もう会ってない。
私が就活中に生きていられたのは、まぎれもない先輩のおかげだ。
いつかきっと私は報いを受けるのだろう。
ちょっと前、子供がゲームに夢中になりすぎてルールを破るから、そのゲーム機を子供の前でぶっ壊すことを誇らしげに書いた新聞記事があった。
ああ、うちの親と同じことしてるな〜とその時は思ったが、私の感覚でいうとそれは虐待で、いつかきっと大人になってから、その傷はなにかしらの結果をもたらすんだろうなとなんとなく思っていた。
思っていたが……まさか、兄が統合失調症からの躁鬱、そして障害者施設行きになるとは想像もしていなかった。
子供の頃のことで覚えているのは、父の怒鳴り声、兄を吹き飛ばすようにぶんなぐる姿。
それが生死に関わるようだったら児童相談所の出番かもしれないけれども、数ヶ月に1〜2回ぐらいだと見逃されがちだ。
父の機嫌がよいときは、そこまでひどいことはないのだ。
だから私も、子供心に「時々怖いことあるけど、これがふつーなんだ」と思ってきた。
でもあれは虐待だったのだ。
そしてゲーム機の話である。「しつけのため。お前の将来のためなんだ。お前のためを思ってやってるんだ」と言って、父親は泣き叫ぶ兄の目の前で、愛機のゲームをぶっ壊した。
父が去ってから部屋の中ですすりなく声、部屋の扉を裂ける寸前まで蹴る音などが聞こえてきて怖かったのを覚えている。
そして母親がそんな兄をかわいそうがって、何度も買い与えていたが、そのたびに「お前のためを思って」と父親がぶっ壊した。
結果、何が起こったか。
兄はゲームをしなくなり、何もしなくなったのだ。
父親の前では「反省しました」と言っているものの、ぼんやりしていることが増えていったのだ。
父親にあれをしろ、これをしろと言われたらするものの、どこか中身のない感じで動いていたように思う。
そして父親の言われるままに医師になることを強く言われ、三浪してやっと私立の医学部に入った。
なぜそんな父親の言いなりなんだ、と聞いたら、「別におれ、もうやりたいことねえもん」とぽつんと言っていたのを覚えている。
そうして大学生になった兄は、今までおとなしかったのが嘘のように凶暴になった。
怒鳴り散らし、ものを壊し、それでも父親の前では押し黙っている。
何にそんなにいらついているのかはわからないが、母親がその八つ当たりの対象になった。
そもそも私立の医学部に行かせるような家庭ではなかったのに、父親がどうしてもときかなかった。
案の定金策につまり、親戚中に借金をしてなんとか卒業にまでもっていくありさま。
連絡先も住まいも教えず、家を出て数年。
何をしたかといえば、車がびゅんびゅん通る車道に自分の車をとめて、何か叫び散らしながらコンビニに行き、公衆電話(当時は設置されていた)で110番したのだそうだ。
「命を狙われている」
完全に統合失調症の症状だった。
警察官がかけつけた時、兄は電源のきれた携帯に向かって必死に何かをしゃべっていたそうだ。
そうして留置場でも「殺される!」と叫び散らし、強制入院となった。
この時、初めて家族は、兄の数年の有様を知ることができたのである。
数百万の借金をして、ほうぼうから督促の電話がかかり、仕事にはろくにいかず、家はごみため状態。
そもそも実家にいる時から、家事掃除などは一切できなかったが、一人暮らししてもしなかったらしい。
玄関にカップラーメンの汁が飛び散り、土足で入らなければならないほどの床のよごれよう。
家賃滞納。
入院後、見舞いの時は両親に対して「少し調子が悪かったんだ。病院に入院するほどじゃない」などと気丈に言っていた。
兄は母親には八つ当たりするが、父親には決して逆らわなかった。
「早く退院してがんばれ」という父親に、兄は「うん」とうなずいただけだった。
そうして退院した兄は、自己破産をして一から医師をやり直した。
薬のせいで数十キロふえた兄は大学生のころの面影はなく、老けて五十代のようにも見えた。
そうしてまた兄は失踪した。
それが数年前。
そうして今年。
「俺、障害者施設に入ることにしたよ」と電話がかかってきたのだ。
躁鬱病の薬を飲みながらつとめていた病院は辞め、今は働いておらず家にじっとしているのだという。
「どうして」と母親は言った。「大事に守り育ててきたはずなのに」そう言って泣き崩れた。
彼女には虐待の感覚はなかったんだろう。父親の行為はしつけなのだと思っていたんだろう。
でも今ならわかる。あれは虐待だったのだ。
死ぬ寸前とかあざだらけとか、そういうものは保護され表沙汰になりやすいが、たとえば私の家のように、数ヶ月に1〜2回だったらどうだろうか?
虐待は恒常的に行われるものと、間欠的に行われるものがあることを知ってほしい。
そして間欠的に行われるものは死ぬこともなく保護されることもなく、深い傷をもって子供は成長し大人になるのだ。
ゲームをぶっ壊しただけでは精神に支障をきたすことはないかもしれない。
が、子供の大切に思ってるものをぶっ壊す、ような行為をするその家庭の教育の「方針」は、あらゆるところで子供の心を深く傷つけているんではないだろうか。
そうしてその心の傷は、数十年後、兄のように四十代に近くなってからあらわれることもあるのだ。
子供の頃、優しく活発で明るかった兄のことを思い出して泣いている。泣きながらこの日記を書いている。
言葉が溢れて止まらないという表現があるが、こんなに絶望し失望し悲しい時に出るものなのだと初めて知った。
子供をもつ親が、子供の大事にしているものをぶっ壊すような教育方針でありませんように、世界のすべての親が、そうでありますように。
そう祈ることしかできない。
ちゃんと掃除と洗濯、ゴミ出しをやって、料理もする主婦は本当に偉い。
共働きしたい人はすればいいけど、家事をすべて請け負う主婦は本当に偉いと思う。
今の時代、共働きしない女性がまるで古いとか自分がないみたいな空気があるから
なおさら言いたい。
毎日、手の混んだ、あったかい、おいしい料理があることは、とてもありがたいことだなと最近よく思う。
母は料理が好きで、上手だった。
新鮮な魚をさばいて刺し身を作ったり、餃子やしゅうまいや春巻きを手作りしてくれた母が誇らしい。
そして、その美味しい料理を毎日食べられたことが、とても貴重な体験だったのだなと思えるようになった。
お金じゃ買えないものをもらったことを、そのうち理解してくれる。
もう一度書く。
主婦は偉い。
先日、声優さんのトークショーで、ゲストにアニメのプロデューサーが登場した。
俺と同じくらいの年齢のおっさんで、容姿も、俺と似たり寄ったりのさえない感じ(失礼)だった。
しかし、そのプロデューサーの話を聞く声優さん達の表情は真剣で、イベント上の流れとは言え、質問もしていた。
それを見て感じた。
一方は件のプロデューサーのように声優さんに仕事を与えたり、仕事上で指導をしたりする立場の人。
もう一方は自分のような、声優さんのイベントを見に行くオタク。
こういった人たちは声優さんに必死に話をし、声優さんはそれを内心気持ち悪いと感じながら、仕事なので表面には出さず、チープトークをするのだろう。
同じおっさんとして、収入は違うかもしれないけど、容姿は大して変わらない。
アニメ業界とは全く関係ないけど、そこそこの給料を得つつ、まじめに仕事をしている。
それでも、両者には厳然とした違いがあり、俺のようなおっさんはお金を払って応援のために声優さんに会いに行っても、気持ち悪がられるだけだ。
なんかそんなことを考えていたら、声優オタクをやっていることがとても虚しく感じた。
まだ声優オタクをやめられていないけど、こういった思いを積み重ねていけば、いつかきっと声優オタクをやめられるかもしれない。
そんな気がした。
ダメな私です。
辞めた会社はどんなところだったのかと言うと、某事業会社のシステム子会社でした。
数年前までは事業会社にシステム部門があって、新卒入社時は私もその事業会社の方に入社をしたのですが、システム部門に配属となり、
そしていつの日にかそのシステム部門が丸ごと子会社化され、システム子会社に転籍する形となり、もう2度と事業会社の方に戻ることはできなくなってしまいました。
元々SE志望でもなく、超文系の私でしたが、システム部門に配属され、多くの失敗をして、色んな人に迷惑をかけて、10年間なんとか働いてきました。
その1:仕事が出来なさすぎた
コーディングしてもバグだらけ、ドキュメントを作ってもミスだらけ、人前で話させても要点が纏まってなくて何を言ってるのか分からないと言うレベルで仕事ができません。
病的なくらい仕事ができませんでした…これでよくクビにならなかったと思います。
全然仕事ができないので、チームの成果に全くコミットできず、自分の存在が申し訳なく感じるようになり、会社を辞めようと思いました。
こんなにも仕事ができないのに、何の成果も出していないのに、年功序列で幹部になれと言われたことも理由の一つです。
同じ部署のメンバーの年齢構成が、50代ばかりで、30代、40代のミドルクラスのメンバーが私しかいないため、どうしても幹部にさせないとダメと言う背景があったようです(みんな定年でいなくなっちゃうから)。
普通10年も働けば、それなりに実績も出して、自信を持って仕事をしている人もいるだろうけど、私は違いました。
会社に行けば行くほど、「人」の視線が怖かった、自信を持つことが、どうしてもできませんでした。
出世する気もないのに、会社にいてもいいのか、否良くないと判断し、会社を辞めようと思いました。
その他、細かなことは色々あるのですが、大きくはこの2つです。
こんなダメな私ですが、10年間も働かせてくれた会社には感謝しかありません。
ただ、何の役にも立てずに、何もコミットできずに、去ってしまってごめんなさい。
ダメなのに10年もいたんだから、そのまま居座ればよかったのに。
辞める時、多くの人にそう言われました。
でも、ダメなやつがこの先もずっと会社にい続けられるか、そんな甘い世界などあるわけなく、いつかきっと壁にぶち当たると思います。
そして、こんな気持ちのまま、これ以上この会社に居続けることが、私には無理でした。
さて、次の再就職先ですが、転職サイトに登録し、転職エージェントとどんな仕事を探しているかなどの話を先週あたりからしています。
先週あたりから転職エージェントに履歴書と職務経歴書を送り、求人を紹介してもらっています。
働いていた時は全然仕事ができないなと思っていたのですが、いざ職務経歴書を作ってみると、様々プロジェクトに携わっていたことに気がつきます。
今はそれらの経験したプロジェクトを羅列して、どんなことをしたのかを羅列しただけなのですが、
深掘りしていくと、きっとうまく行ったこと、行かなかったこと色々あるかと思います。
そう言ったことを掘り下げて行って、私はどんなことが得意だったんだっけ、何が苦手なんだっけ、と言うのを今整理しているところです。
得意なところが見つかったと思いきや、別の場面ではそれが苦手なところに変わってしまったり、一貫性がなくて、自分でも苦しいところがあります。
コロナで各社採用を渋っているようですし、就職先が見つかったらラッキー、
見つからなかったら失業保険と生活保護のお世話になるか、実家に帰ることも視野に入れて、のんびりと仕事を探そうと思ってます。
よく退職エントリーとか見ていると、みんな華々しい経歴で、目を見張るような成果がありますよね。
私のような、ダメな人の退職ブログってあまり見かけることがなく、今回ブログにしたためてみました。
こんな時に会社を辞める無計画な私のブログを読んでいただきありがとうございました。
以上
自分には何もない
生きていくのが辛い
今年30になるのに何一つ自分の中には胸を張れるような事がない
ずっとひとりぼっち
従兄弟がよく遊びに来ていたけど明らかに祖母や伯父の対応が自分や母親と違うのが子供心に苦しかった。
小中学校ではいじめにあって、でも黙ってやられるもんかと喧嘩ばかりの毎日だった
今思えばもうこの頃には人間不信だったんだなって
親しい友達なんてできるわけない
高校時代は自分の容姿がコンプレックスでただただ早く終わってほしいと思っていた記憶しかない
大学生になって自分のやりたいように生きようと思った矢先に病気にかかって本当に何もない大学生活だった
なんとか社会人になったけど、残業続きで遊ぶ暇もない朝仕事に行って帰ったら寝て、土日は寝て過ごすそんな生活の繰り返し
ようやく病気にひと段落ついたと思ったら親の家のローンがほとんど全く返せていなかった事がわかってそれに貯金もつぎ込んでなくなった
気がついたらもう30
まわりの同年代は幸せな家庭を築いてるのに私はまだ誰かに愛された事もだれかに恋したこともない
そんな余裕一度もなかった
頑張ればいつかきっといいことあると信じて諦めずにここまで来たけど結局いいことなんて一度もなかった
ようやくいろんなしがらみから解放されたけどもうなにかを頑張る気力が残ってない
そのどっちが早いか
3時間にしたら案外あっと言う間でした。
二時三時問題勃発する中、
いやいや3時間は、
永遠と書いて永いと読ませたいほど永いわよ!と構えつつ終電間際の際までだと翌日しんどいわ。
なんだか付き合わされちゃったけど、
そんなわけで朝からシャキッと行きたいところなんだけど、
これはいよいよ閉店間際の今際の大バーゲンなのかしら?と思いつつ、
プール帰りに食べるおでんはとてもおいしいでお馴染みの夏おでん。
それに加えて秋おでん始めましたって準備のためのおでん温め器のいよいよ登板でスタメン入りしてるのかと思ったら、
まさかのおでん温め器がセール対象品になってて笑っちゃうけど、
いや本当にこれマジで閉店しちゃうの?真向かいに同じコンビニできちゃったから閉店なの?と、
いや正式に言うと負けてあげるという甥っ子への優しいオセロのようで、
700円分もいつも買ってないのにキャンペーンクジ引を当たるまで引かせてくれるからそうなっちゃったの?とも、
ちょっと罪悪感。
私のせいじゃないからね!と思うわ。
でもさ、
閉店セール開催中のコンビニの向かいに出来た同じ系列のコンビニの前は別系列のコンビニがもともとあって、
なんだかややこしいけど、
その新店舗の道を挟んだ向こう側の昔からあるセブンイレブンが閉店セールで惜しまれながらの、
もうこれはコンビニ上上下下剋上だわ!と乱立するコンビニに何かを申したくなるわ。
コンビニの看板の色が変わると街並みの色も変わるような気がするけど
夜も煌々と明かりを灯し向かいの閉店するコンビニも照らすのがなんとも皮肉で、
なにか上手にものの例えを言いたいようで言えないような、
そんな切なさを感じつつ。
少なくとも私は閉店するまでそこで朝シャッキリドリンクを買うんだわって
心にそう決めて閉店セールに足繁く通いたいわ。
うふふ。
コンビニと言っておきながら、
朝から肉!って行きたいけどさっぱりサラダ系がお腹にも優しそうな印象。
一度本格的にスパイスを使ったホッツをやってみたいけど、
例えばクミンシードとブラックペッパーとかカルダモンを入れるんだもん!と
それらをホールスパイスでのホッツスパイスウォーラーとかやってみたいわね。
とりあえず
早く使い切っちゃわないとという感じだわ。
またホッツスパイスやってみたら書くわね!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
お前らが浴びせた言葉の暴力が他人の心を壊したんだよ!お前たちが精神を奪ったんだ。お前も!お前も!今まで散々正義感を振りかざしてきたくせに、分が悪くなった途端に子どものように責任転嫁を始める。自分を正当化するのに必死だな、つまんねえ生き方するなよ、見苦しいんだよ、ふざけてるのはお前だよ、お前ら一度だって真剣になったことあるのか?逃げてんじゃねえぞ!
自分の親や友だちに面と向かって言えないことを見ず知らずの他人にぶつけるなよ。お前のストレスの発散で他人の心をえぐるなよ、分かるだろ、俺の言いたいこと、お前らそこまで馬鹿じゃないだろ!
良いか、増田は誰もが気軽に繋がれる便利なツールだ。気の合う友だちを見つけていつでもどこでもコミュニケーションがとれる、人によっては心の拠り所になるだろう、それも大切だ、否定はしない。けど、その一方で、恐ろしい暴力装置にもなり得る。だから刻んでほしいんだよ!右に習って吐いた何気ない一言が、相手を深く傷つけるかもしれない、1人よがりに偏った正義感が束になることでいとも簡単に人の命を奪えるかもしれないってことを。そこにいる君に、これを見ているあなたに!一人ひとりの胸に刻んで欲しいんだよ。他人に同調するより、他人をけなすより、まずは自分を律して磨いて作っていくことの方が大切なんじゃないのか?てかそっちの方が楽しいだろ!?
その目も口も手も!誰かを傷つけるためにあるわけじゃない!誰かと喜びを分かち合うために、誰かと幸せを噛みしめるためにあるんじゃないのか!?そうだろ!もっと人に優しくなろうぜ!もっと自分を大事にしようぜ!
俺の言葉がどれだけ届いているか、きっとほとんどの人間には痛くも痒くもないだろう、でも誰か一人に、君一人でいい、感情に任せた言葉が、景山澪奈のような犠牲者を作るかもしれない、そう思って踏みとどまってくれたら今俺がここに立っている意味がある。そしていつかきっと、その1人が10になって100になって1000人になっていく。俺はそう信じてる!だからどうか、だからどうか、あなたに届いて欲しい。聞いてくれて、ありがとう。」
「お前らが浴びせた言葉の暴力が彼女の心を壊したんだよ!お前たちが景山の命を奪ったんだ。お前も!お前も!今まで散々正義感を振りかざしてきたくせに、分が悪くなった途端に子どものように責任転嫁を始める。自分を正当化するのに必死だな、つまんねえ生き方するなよ、見苦しいんだよ、ふざけてるのはお前だよ、お前ら一度だって真剣になったことあるのか?逃げてんじゃねえぞ!
自分の親や友だちに面と向かって言えないことを見ず知らずの他人にぶつけるなよ。お前のストレスの発散で他人の心をえぐるなよ、分かるだろ、俺の言いたいこと、お前らそこまで馬鹿じゃないだろ!
良いか、マインドボイスは誰もが気軽に繋がれる便利なツールだ。気の合う友だちを見つけていつでもどこでもコミュニケーションがとれる、人によっては心の拠り所になるだろう、それも大切だ、否定はしない。けど、その一方で、恐ろしい暴力装置にもなり得る。だから刻んでほしいんだよ!右に習って吐いた何気ない一言が、相手を深く傷つけるかもしれない、1人よがりに偏った正義感が束になることでいとも簡単に人の命を奪えるかもしれないってことを。そこにいる君に、これを見ているあなたに!一人ひとりの胸に刻んで欲しいんだよ。他人に同調するより、他人をけなすより、まずは自分を律して磨いて作っていくことの方が大切なんじゃないのか?てかそっちの方が楽しいだろ!?
その目も口も手も!誰かを傷つけるためにあるわけじゃない!誰かと喜びを分かち合うために、誰かと幸せを噛みしめるためにあるんじゃないのか!?そうだろ!もっと人に優しくなろうぜ!もっと自分を大事にしようぜ!
俺の言葉がどれだけ届いているか、きっとほとんどの人間には痛くも痒くもないだろう、でも誰か一人に、君一人でいい、感情に任せた言葉が、景山澪奈のような犠牲者を作るかもしれない、そう思って踏みとどまってくれたら今俺がここに立っている意味がある。そしていつかきっと、その1人が10になって100になって1000人になっていく。俺はそう信じてる!だからどうか、だからどうか、あなたに届いて欲しい。聞いてくれて、ありがとう。Let's think.」
タイトル通りの話
至って平凡で弱い人間がいろいろがんばったけどがんばった方向性が違った話。
前提 : ステータス
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内向型について少し補足したい(最後らへんは定義から離れているかもしれない)
内向型とは下記性質を持っている
ぽしゃった話
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凄く無理があった。チャレンジはしたけど結果、無駄な時間を費やしてしまった。ただ辛かった。もう体験したくない。
小さい頃から内向型の性質は顕著に出ていて、遊びも外で友人と遊ぶよりも1人でおりがみで遊ぶような子供だった。
大学に入る頃あたりに、ふと自分のこの性質やいままでの行動を省みた。
「このまま内向型で1人でいることを好んで、人とのコミュニケーションが少ないままだと社会人になれない」という考えに至った。
その考えの元は色々あったと思うが大きくは家族の影響が大きかった。
社会人として生きていくには"みんな"と同じような大学生活をしたらこの内向性はましになって
社会に適応する力が養えるのではないかと思った。内向型という特質は社会では受け入れられないとその当時も思っていた。
内向型は俊敏な判断に欠ける。その場で考え発言することが苦手。チームでの共同作業が苦手。
社会のなかで価値あるものとされていることに関してコミットすることが内向型は難しい。
社会では劣等生だと思った。変わらなければならないと思った。
みんなと同じ大学生活(=社会に適応できるようになる行動や在り方)は下に思う
- バイトやサークル、ボランティアに積極的に参加する → 共同作業の苦手意識払拭
- リーダー職を経験する → 発言する苦手意識払拭、俊敏な判断力向上
- 空気を読む、協調性を大事する → 共同作業の苦手意識払拭
自分には上記のうち上二つはやる前から苦手意識があった。自分には向いてないという自覚があった。なんとか変えたいと思った。
何も予定のないOFFの日は大変な時で2ヶ月に1日位しかないくらい忙しい生活をしていた。充実感を感じてはいた。けど大変な時期を通り過ぎて少し時間が空く期間になったときに徐々に色々なコミュニティに行こうとする度に心の中に黒いもやもやがで始めた。漠然としているけど言語化するなら「嫌」という一言になると思うが、当時は「困難に目をそらしてはいけない、現実をみて立ち向かう、いつかきっと良い結果になる」と思って頑張っていた。
ベッドから起き上がれなくなった。
心療内科にかかり、自律神経失調症と診断された。サークルとバイトは行くことが困難になり休みを経て辞めた。まともに学校に行くことができなかった。1週間の授業の半分以上は欠席した。
このときはかなり辛かった。
朝起きようとして、指を動かそうとしてもピクリとも動かなくて、普通のことができなくて、弱い自分が情けなくて、惨めで、泣いた。泣くのはできるのかよ、と思って余計に泣いた。
実家ぐらしのため、家族にも申し訳ない気持ちと、 おそらく家族からみて「つらいことに直面して何もできない、弱い人間」と思われているのだろうと勝手に思い、これまた辛かった。自分で自分を追い込んでいた。
ベッドから起きれて学校に行こうと、外にもでて、電車に乗ったところで過呼吸と動悸と漠然とした不安と焦りで半泣きになって引き返したときもあった。
机の前に向かってなにかしようと思ってもなにも考えることができなくて焦って不安で時間だけが過ぎた。
バイトとサークルを辞めてから少しずつ回復はしていって、幸いにも半年くらいで服薬はなくなり、徐々に起き上がることは普通に出来るようになった。ほとんど寝たきりではあったのでリハビリがてら先ずは散歩から始め、徐々になにかに集中しようとして、ちゃんと集中できるようになった。
というのを経てぽしゃってから2年位で立ち直った。
以上が私のぽしゃった話である。
振り返る
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私がみて普通の人たちの大学生活は私にとっては苦痛の記憶が色濃く残った。
ただこうなったきっかけはもちろん私の「社会で生きるために内向型を外向型にシフトしたい」という判断による、つまりは自分せいだ。
きっかけは他者であったり、周りの環境からだが、当たり前ではあるが選んだのは私自身だった。
得たかった、社会に溶け込むワザは多少身についた。人当たりよい振る舞いもできるようになったし、
初対面の人でも奥せず話しかけたり、他愛のない話をすることができるようになった。今でも役に立つところはある。
が、それは本当の私が求めているものなのか。
という疑問を、大学生活の終わりごろから抱くようになった。気づくのが遅かった。
思い返すとたびたび大事な友人からは「もっと自由に生きていい」と言葉をくれていたけれど、
周りに流されて...周りの人の価値観を自分の価値観として生きていくのは、かなりリスキーだとぽしゃって知った。
自分の意見や意志を周りの人に否定されないか、それで独りにならないかという恐れから、
この生き方だとその場は安心できるし、考える必要もないから楽だ。
外向型社会であるとは今でも思うしそうだと思うが、それでも自分の幸せのために
自分の内向型を受け入れて、内向型らしく生きていこうと思うようになった。
今
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というので、自分と向きあって自分の特性を認めるように少しずつしていっている、現在進行系で。前より自信はついてきているが、それでも不安になり立ち戻ることも多い。
人と関わるのが嫌いなわけではないし、色々他のひとの考えを共有したいという思いがあるが、人と一緒にいるだけでどっと疲れるので、誘いは断ることが多い(次の日が仕事だとなおさら)。人付き合い悪いし嫌な奴と思われるかもしれない。が、あのぽっしゃったときには戻りたくないので、交友範囲であったり、人に会う頻度は自分でコントロールするようにしている。
なるべく休日は予定を入れないようにしている。
こんな引きこもりでこれから私生きていく力身につけられるの?というもう一人の自分の言葉がでてくることがしょっちゅうだが、なんとかやっていけると信じていくしかない。
今は今で職場のオープンさだったり、やっている仕事のカラーとして自分に合っていないのだが、それについては...またの機会に書こうかと思う。
内向型らしく生きていきたい。
一度書いて、消したのだけど、
行ってきた。
恐いね、、、
何か指当たってない?と思った頃にはパンツの壁越えてました。
上っ面をなでる程度だったけど、普通にアウトでしょ。
気持ち悪かったら言ってくださいね、っつわれたけど、悪いのか良いのかよく分からなくなって、結果好奇心が勝った。
ただまぁ、当方の力不足で、結構しつこく足はしていただいたけど、耳に息吹かれたりしたけど、あんまよく分からなかった。
マッサージは思いの外上手で、リラックスできるんだけど、その流れでしれっと踏み込んでくるのも上手。
熟練の技。
自分の中に性欲があるのは理解してたけど、そこは大和撫子、表現しないと思ってたのに。
経験値がなさすぎて、どう振る舞ったらいいか分からなかったけど、もっともっと!と、とにかくもどかしかった。
終わった後も、起きあがれない。
物足りない。
「蛇の生殺し」
ちゃんと経験のある女性が、この状態で店を出られるはずがないよな、と思った。
私が、一度書いて、すぐ削除したこのブログを再度書こうと思ったのは、多少私にも責任が生じてるかもしれないと危惧してのこと。
実は、迷ってたこのお店に行くのを後押ししたのは匿名はてなで読んだ出張ホストに最後まで致してもらった処女のブログがあったから。
私が死ぬほど悩んで出した結論で、これがその時の最善だったはず。
だけど、これから行こうと思ってる人が居たら、私は伝える必要があると思った。
これ、ハマります。
下手したら、行き着くとこまで行くかもしれない。
私は初めての感覚にヒューズ飛んで、また行くかも、と最初は思ってた。
恐いと思ったのは、ドハマリして
(未来の彼氏、とか、両親に申し訳ないとかでないのが何ともね(苦笑)
でも実際、交通費だけでも諭吉飛ぶし、60分では正直足りないと初回から思った。
慎ましく生きてるので、そんな余裕はもちろんない。
いつかきっとむなしくなる。
一度なら、体験ですんだかもしれない。
でも二度目からは、たぶんもう戻れない。
施術中は。
でも、いつかその嘘に縋る日が来るかもしれない。
あったの?】
思いあまって相談したカウンセラーにビシッと言われて目が覚めた。
こんな事のために、私は恋愛も色んなことも諦めて夢追いかけてきたわけじゃない!と。
夢を叶えて、やっと他のことにも目を向けられるようになった矢先に、ハマるのが
これじゃああまりにも私がかわいそうだと思った。
それに、やっぱり多少おもった。
「自分、汚れた」
って。
今更という気もあるけど、自己責任だけど、大好きな海を見たらちょっと涙でた。
これは、麻薬。
快楽という泥沼に沈められる。
女の業を餌に、沼は深まるばかり。
恐いです。
私は、ちゃんとダイエット成功させようと思います。あと7キロくらい。
どうしても、向き合えなかった。
でも、どんなデブでも仕事だから彼らは相手してくれるんだよな、と今更気づいた。
30年来のコンプレックスと本気で向き合うきっかけになったことは良かったと思う。
私、体がコンプレックスすぎて、恋愛からずっと逃げてきた。夢を追いかけるという理由で。
こんだけ痛い思いして、得た教訓。
ただの後悔で終わらせるわけには行かない。
ちゃんと自分と向き合って、恋愛から逃げない自分になって、今度こそ、好きな人と体を重ねたい。
その時は、蛇の生殺しでは終わらせないよ(笑)
処女がコンプレックスなのではなく、体が嫌で仕方なくて、お金払ってでも受け止めて欲しかったんだ。
本当のコンプレックスは見えにくい。
処女には違いないけど、そこに私はあまり重きを置いてない。重いのは体重だけ。
ちゃんと自分と向き合うためにも、処女という肩書きを一旦おいていこうと思う。
読んでくださってありがとうございました。