はてなキーワード: 「能」とは
ちなみにit関連のお仕事してるってことで自分のライフハック紹介してみるけど、スマホのショートカットで以下のコードを登録してる
var result = [];
// ページ内のすべてのリンクを取得
document.querySelectorAll(".hide_list_abst_area").forEach(element => element.classList.remove('hide'));
// completionを呼び出して終了
completion(result);
これはBookLiveでキーワード検索をしたときの検索結果にある作品ごとの「あらすじを読む」を一括で展開するコードだ。
なんでこんなのを登録してるかというと
たとえば
というのは「じんた」で検索した結果だが、私は大正時代サーカスとかで使われてた「じんた」に関するマンガがあるのかどうか確認したいのだが、実際キーワード検索すると「じんた」と読む部分が入ってる熟語が含まれた紹介文を持った漫画が多数混ざってるんだよね。
でも一個一個紹介文を展開して確認するのは面倒だから、そこでSafariでのこのショートカットの実行とページ内検索を併用することでとりあえずひらがなで「じんた」と書かれている紹介文の漫画を探すのに視認性、効率が飛躍的に上がる。
「能」なんかも伝統芸能の能の漫画えい検索したいのにどうせ能力とかで多数引っかかるから極めて有効だと思う。
いずれBookLiveじゃなくてレンタでも同様のことできるコード書こうと思ってるが、何が言いたいかっていうとこれってわざわざ他人に嬉々として紹介するのも恥ずかしいぐらい低次元なコード、ライフハックなのかな?ってちょっと心配で。
https://anond.hatelabo.jp/20210726190351
何でそれを間違えてしまうのか。
選手が悪いしテメーらも悪い。
何故お前達がスポーツで盛り上がるかというと、それは自分は何者でもないのに選手に感情移入()して
スポーツ選手が金メダル取って、自分が偉いみたいな勘違いをするやつ。
選手はお前ではない。やつらが活躍することとお前らの生活には何の関わりもない。
そもそもさあ、100m早く走れたり玉転がして籠に入れたりして偉いって理屈が全くわからないんだが?
お前達が必死こいて国に献上した税金がノータリンのスポーツ選手どもの酒代に消えていって悔しくねえのか?
俺は悔しいぞ。
悔しくないって人間は騙されている。
調子こいたヤツらに騙されたくなければ、スポーツを観るな話すな楽しむな。
そもそもスポーツ観戦が楽しいものだってこと自体が勘違いというか、
同じ国の人間が速く走れたり玉遊びが上手いと嬉しいって感覚が洗脳によって生まれたものなんだよ。
てかさ、クソゴミナショナリズム拗らせてるやつ、切腹アホアホナショナリストの三島由紀夫すらオリンピック批判してたのに恥ずかしくないんか?
ちったあ歴史を学べよ。
スポーツ=善
やつら、それをわかってるから、なるべく爽やかな人間のフリをしてんだよ。
騙されるな。
人生のほとんどを自分の肉体と競技に捧げて他人を蹴落とす快感を覚えて生きてきたやつらが、マトモな人間なわけねーだろ。
なにかにつけて相手を「低能」と呼んでいたから「低能先生」と呼ばれた。
これが、どれだけ叩かれてもネットリンチをやめることがなく、俺と議論しておのれらの正当性を示すこともなく(まあネットリンチの正当化なんて無理だけどな)
この箇所は「低能先生が相手だからと言って議論もせず通報して封殺すること」への恨みを述べている。
「低能先生」と呼ばれたことそのものを恨んでいるとは読み取れない。
増田での低能先生は、相手が反応するかぎり延々と反論を続けるタイプであり、
煽られて怒るどころか、喜々として煽り返してくるタイプでもあった。
なんだかんだ言ってはてなというか増田が俺をネット弁慶のままで食い止めていた面もあるしなあ
逆に言うと散々ガス抜きさせてもらった恩がある
以上から分かるように、
大した絡みがないのになぜHagexを恨んだのかというのは、
むしろ大した絡みもなく通報するから恨んだのだと言えるだろう。
低能先生は「批判されること」よりも「発言の場を奪われること」を恐れていた。
仮にHagexが通報を煽らず、低能先生を批判しまくっていたら、
追記。絡みがないというのは、長期的に二人でやりとりを続けたり、通報祭り以前に特別に因縁があったわけではない、といった意味です。もちろん界隈の重鎮としてHagexのことは個体認識していたでしょうけど。
https://anond.hatelabo.jp/20180625190045
それな。
https://anond.hatelabo.jp/20180625215452
具体的な経緯はこっちの記事の方が詳しいな。
本当にそれが原因なの?ってブコメで言われてるけど、
増田で弱音を吐くくらい追い詰められている感じだった。
能を見ておかしいと思ったことはないだろうか? 演劇としてあまりに狂っていると。
なぜ老人を演じるときは背筋を伸ばし、かくしゃくとして演じよと言うのか?
古典演劇と思われている能であるが、その思想は非常に先鋭的であり未来的である。
ここではその具体例を2つほど見てみよう。
演劇や映画では役者の顔が目の前に見えるので、その役者特定のイメージがついてしまう。だからこの役にこの役者はイメージが合わない、この役者の演技は役と合っていないという観客も出てくる。
しかし小説なら文字で人物の描写はあれど、人物の絵面は読者各人の想像力で自由に描けるので演劇や映画のような役と役者のイメージの齟齬という問題はなくなる。
能がなぜわざわざ面をつけるのかといえば、面という匿名の顔によって観客の想像力を阻害しないように配慮しているのである。つまり小説と同じように記号だけ提示して(笑顔とか悲しみの顔とかを大まかに提示して)、読み取りは観客任せなのだ。
(小説で言うと「彼は小さく微笑んだ」という文章があったとして、最終的にどの程度の笑みなのか想像するのは読者である。それと同様、能は表情すらも観客の想像力に任せているのだ)
思うに近代西洋演劇はあまりに観客という存在を忘れすぎた。反対に能は強烈に観客の存在を意識し、観客に対し作り手としての参加を要請しているのだ。
近代演劇というのは、当たり前であるが「リアリティ」というものを重視する。
老人を演じるなら、よぼよぼで背中を曲げて、耳が遠いよう演じなければいけない。
これは確かに老人のように見える。実に合理的な演技だ。
しかし、それは本物の老人といえるのだろうか?
つまり老人を演じるなら、背筋を伸ばし、かくしゃくとして演じよ、というのである。
これはなぜかと言えば、老人とは「常に若くありたい」と願う存在だからである。
老人と見られることは弱者、無力な者と見られることである。だから老人は老人と見られることを嫌い、自分はまだまだ若いと思う。
その心情を表現してこその演技であるから、老人らしい見た目にこだわるなど愚の骨頂。老人の心境とは遠くかけ離れた「リアリティのかけらもない演技」と能は捉えるのである。
低能と高能が合体して「能」になったということか