はてなキーワード: 「恋」とは
いちゲーオタ中年男性のハートのど真ん中の最奥部に抜けないほど深く突き刺さった「テン年代ゲーム」10本をランキング形式で挙げていきます。お付き合いください。
のっけから「特別賞」から始めることをお許しあれ。ランキング発表後だと、1位よりもスペッシャルな空気を醸し出してしまいそうで。それを避けたかった。
でも、本作がとくべつな1本であるには違いない。だから悩んだ挙句の……「特別賞」。まんまでごめん。
個人的には『ノベルゲー」って昔からあんまやらないんです。ノベルゲーやる時間あったら小説を読むほうが(たいてい)有益だろう、という長年の思いこみ集積のせい。でも、『Doki Doki Liteature Club』は例外。ゲームらしいインタラクティブな要素があるわけじゃないのだけど、小説でもマンガでもアニメでもこの表現は絶対不可能。
本作の凄さについてはもはや語り尽くされている感があるし、強く深い思い入れを持っている方が世界中にいらっしゃることも存じておりますし、まだプレイしていない方のためにも、内容については何も言いたくない。
でも、これだけは言わせてほしい。
本作は「神は存在を愛している」ってことをギャルゲー/ノベルゲーのガワで見事に顕してみせた一大叙事詩である。ここには生があって、性があって、詩があって、死があって……愛がある。さらには現象学的「彼方」をも開示してみせる。
その(一見)破天荒、かつ強烈な内容に憤怒するかもしれない。ショックのあまりマウスを壁に叩きつけるかもしれない。号泣するかもしれない。戦慄するかもしれない。でも最後にはきっと宇宙大の愛に包まれる……絶対。
ああ、すっきり。
では、こっから心置きなく2010年代・心のベスト10を発表させて頂きます。
「……なんか妙に懐かしいな。子供の頃、お前と行った鵠沼海岸をまざまざと思い出したわ」
ゲームと本の山でとっ散らかった僕の部屋にやってきて、このゲームをしばらく遊んだ君は、いかにも重たいPSVRヘッドギアをつけたまま、そう呟いた。
僕はかなり潔癖症だから、君が顔じゅうに汗をたっぷりかいてることがひどく気になって、除菌ティッシュ片手にそれどころじゃなかった。
けどさ、あの頃君と一緒に見つめた空と海の青さに、まさかVRの新規アクションゲームの中で出会えるとは夢にも思わなかったよ。
ハタチん時、『スーパーマリオ64』を初めてプレイした時の驚きと、海辺で自分の子と君の子が一緒に遊んでいるのをぼんやり眺めてるような、そのうちに自分たちも同じくらい小さな子供に戻って、一緒に無邪気に冒険してるような……切なくて温くて微笑ましい気持ちがじわじわこみあげてきた。そのことに、僕は本当に心底驚いたんだよ。またいつでもやりに来てくれ。
「あー、なんかシャベル持ったナイトのやつでしょ。古き良きアクションゲームへのオマージュに溢れる良質なインディーゲーって感じだよね、え、あれってまだアップデートとかやってんの? なんかsteamセールん時に買って積んでんだけど、ま、そんな面白いならそのうちやるわー」
あなたが『ショベルナイト』をその程度のゲームだと思っているのなら、それは大きな大きな間違いだ。
プレイ済みの方はとっくにご承知と思うが、本作はレトロゲーもオマージュゲーもとっくに越えた、誰も登れない山頂に到達した類い稀な作品である。アイロニーと切り張りだけで作られた、この10年で数えきれないほど溢れ返った凡百のレトロ風ゲームとは、かけ離れた聖域に屹立してゐる。
そして3つの追加アプデ(大胆なアイデアに溢れた全く新規追加シナリオ。今月でようやく完結)によって、本作は10年代下半期にリリースされた『Celeste』や『ホロウナイト』の先駆けとなる、傑作2Dアクションとしてここに完成したのだった。さあ、ショベルを手に彼の地へ赴け。
このゲームの印象を喩えて言うなら、
久し振りに会って酒でも飲もうものなら、いちいち熱くてしつっこい口論になってしまう、共感と嫉妬と軽蔑と相いれなさのような感情を腑分けするのが難しいくらい綯い交ぜになっている面倒きわまりない幼なじみ、みたいな。
正直、ランキングにはあまり入れたくなかった。が、初プレイ時の衝撃をまざまざと思い出してみると、やっぱり入れないわけにはいかぬと悟った。
もし未プレイだったら、このゲームはできればPC(steam)でやってみてほしいとせつに願う。当方バリバリのコンシューマー勢なので、ゲームでPC版を薦めることは滅多にない。だが、コンシューマー機ではこのゲームの持つ「鋭利なナイフ」のような「最後の一撃」が半減してしまうだろう。
作者トビー・フォックス氏は、かつての堀井雄二や糸井重里の系譜に連なる倭人的王道シナリオ(コピー)ライターと感じる。
確認のために本作の或るルートを進めていた時、初期ドラクエと『MOTHER』と『moon』が携えていた「あの空気」が30年ぶりに匂い立ってくるのを感じて眩暈がした。会えば会うほど凄みを増す狂人のような作品だ。
2020年内に出る(であろう)2作め『DELTARUNE』において、トビー氏は堀井/糸井が書け(書か)なかった領域に確信犯的に踏み込んでくるにちがいない。それが半分楽しみで、半分怖くて仕方がない。
その山の森の奥には古い洋館があった。
庭は川と繋がっていて、澄んだ水が静かに流れていた。
君は川沿いにしゃがみこんで1輪の花を流していた。
俺は黙って君を見つめていた。
君は俺に気づかない。
俺は木に上ったり、柱の影から君を見守ったり、触れられない手で君の髪を撫でたりしているうちに……君の可愛がってたシェパード犬がこちらにひょこひょこやってきて、ワン、と小さく吠えた。
ああ、なんだかこのゲームやってると批評的目線がどんどんぼやけていくのを感じる。まるで透明な死者になってしまったような、奇妙で懐かしい感覚に否応なしに包みこまれるような……。
本作は「VRで描かれた古典的AVG(アドベンチャーゲーム)」であると言われている。個人的には、そんな持って回ったような言い回しはしたくない。
VRでしか描けない世界と情緒に対して、あまりに意識的な本作。その手腕はあざといくらいなんだけど、実際に本作をやってみるとあざといどころじゃない。泣くわ。胸の内に熱いものがこみあげてくるわ。
『Deracine』はプレイヤーの原風景をまざまざと蘇らせる。かつて失ってしまった友人を、失ってしまった動物を、失ってしまった思い出を、「ほら」とばかりに目の前に差し出してくる。そのやり口はほとんど暴力的でさえある。
もしVR対応しなかったら、知る人ぞ知る良作(怪作)止まりだったであろう本作。
かくいう俺もPS Storeで見つけて何となく買った時は、まさか2010年代ベストに入れることになるとは思わなかった。怪しい仮面被ったバレリナ少女がサイケ空間を飛び回ってんなあ……製作者はドラッグでもやってんのか?くらいの。
しかしPSVR対応した本作を再度プレイして驚愕した。怪作がまごうことなき傑作に生まれ変わっていたのだ。あるいはコンテンポラリーアート作品としての本質を露にしたとも言える。ああ、VRというハードではこんな事態が起こり得るのか……。
画を作っているサンタモニカ・スタジオ(ゴッド・オブ・ウォー、風ノ旅ビト他)の仕事はいつだって凄まじいクオリティでため息が漏れるのだが、VRとの相性は抜群だ。とりわけ今作での仕事は白眉と言える。
とにかく、思わず自分と少女の頬をつねりたくなるほど美しい。少女が、景色が、色彩が、確実に「もうひとつの世界」(夢、とは言いたくない)を現出させている。
そして本作は本質的な意味で——究極の恋愛ゲーでもある。誰も認めなくても、俺はそう強く感じる。あの少女と過ごした時間を、あの少女が内に秘めていた闇の部屋を、あの少女が戦っていた怪物を、そしてこの狂気と色彩にみちみちた世界を日常生活の中で思い出す時、この胸に去来するのは——それは「恋」としか言い様のない儚い感情だ。
書き始めるまで、本作がここまで自分内上位に食い込むとは思わなかった。
が、確認のために軽くプレイしてみたら、やっぱりとんでもなかった。
実験施設内部に、そして自分の内側(Inside)に展開するめくるめく不穏な景色。ディストピアの先にある、吐き気をもよおさせると同時に、穏やかな安寧に包まれるような、唯一無二のビジョン——を完璧に描ききった本作。
終盤の怒濤の展開と比類なき生命体描写のインパクトに心奪われるが、本作の真骨頂は木々や空や雲や雨、海などの自然情景(それが何者かによって造型されたものであれ)の美しさだと思う。荒んだ世界の中、思わず立ち止まって、天に祈りを捧げたくなるような敬虔な心持ちを強く喚起させる。
俺にとって『INSIDE』とは、自己の内面に深く潜るための潜水艦、あるいは哲学書のページを繰っても繰っても掴めない、自分と世界との乖離を自覚するための尖った注射針であり、神なき世界の宗教である。
灰色にけぶった空の下、雨降るトウモロコシ畑で無心で佇んでいた時のあの安寧と絶望感に、これから先もずっとつきまとわれるだろう。
人の生には「もっとも幸福な時期」というものがたしかに存在するようだ。そして、それは必ずしも幼少期だったり青年期だったりする必要はない。
俺にとっては、傍らに愛猫がいてくれて、WiiUと3DSが現役ハードで、仕事から帰ってくると毎日のように今作にあけくれていたこの頃が——生涯でもっとも幸福な時期だったと言いきってしまいたい。なぜなら、幼少期や青年期と違って、その記憶ははっきりと想起できるから。
そして後から振り返ってみて、その時期がどれほどありがたいものだったかを確認し、やるせない気持ちに包まれるのだ。「ああ、やっぱり」と。
総プレイ時間は生涯最長となったし、この作品を通じて(自分にしては珍しく)老若男女多くの「オンラインフレンズ」ができた。
が、続編『スプラトゥーン2』は発売日に購入したものの、ろくすっぽプレイしなかった(できなかった)。
その理由は(おおざっぱに書くと)3つ。
ひとつは『2』発売時、先に述べた、俺にとってもっとも幸福だった時代が過ぎ去っていたこと(ごく個人的な理由だ)。
ふたつめは、初代スプラトゥーンが持っていた、俺を夢中にさせるサムシングが『2』には欠けているように感じられたこと(批評記事ではないので、それについてここでは掘り下げない)。
3つめは、次に挙げる同じく任天堂開発の対戦ゲームの登場である。
それは35年前に夢見た未来の『パンチアウト!!』だった。そして20年前に夢みた『バーチャロン』と『カスタムロボ』の奇跡的融合であり、同時にそれらとは全く別次元に昇華された「理想的格ゲー」であった。
『スプラトゥーン』で「共闘」の愉しさを味わった俺に、本作は「見知らぬ相手とサシで戦う」ことの妙味と厳しさをばっちり思い出させてくれた。
そして画面内のキャラをこの手で操る——そんなあまりにも原初的な「ゲーム」の喜びが本作には隅々までみちていた。こればかりは「Just do it」(やるっきゃない)。
やがて俺は日々のオンライン対戦では飽き足らず、リアルの大会にまで足を運んだ(あっさり敗退してしまったが……)。そんなゲームは、おそらく生涯最初で最後だろう。
余談だが、Joy-con特性を生かした「いいね!持ち」による操作こそが本作の革新性であると信じているのだが、革新性よりも「合理性」と「勝率」を求める猛者たちには殆ど浸透しなかった。
「いいね!持ち」メリットをうまく調整できてさえいれば、本作は『e-sports』ゲーム初の従来型コントローラーから離れた(両腕全体を用いた)操作形態を実現していたはずで、それについては至極残念だが、現在開発中であろう『ARMS2』に期待したい。
2010年代下半期は、俺にとっては「VRに初めて触れた年代」としていつまでも記憶されることになるだろう。
2017年冬、とにかく『Rez infinite』をプレイしなければならない——そんな義務感でPSVRを勇んで購入した。配線がややこしい機器をPS4に繋げ、想像していたよりもさらに重たいヘッドセットを被り、本作をプレイすると——すぐに「ここには未来がある」と思った。いや、正確じゃないな。「未来に至る——今の時間と自分」をばっちり感じたと言うべきか。現在は可視化され、360度方位に顕在し、俺をユニバーサルに包みこんだ。
AreaXを初めてプレイした時の、重たい身体感覚から自由になり、魂だけが全宇宙に放りこまれたような未曾有の感覚は、ゲームなるものと関わってから過去30数年を振り返ってみても、5歳の時に生まれて初めて電子ゲームに触れた時の体験と並ぶ、あるいはそれを越えかねない、空前絶後の体験だった。
これだけ長いこと「ゲーム」なるものを続けてきて、ゲームからそのような感覚を初めて得られたことに深く感動し、ラストではほとんど泣いていたことがつい昨日のように思い出せる。
そして『Rez infinite』の「次の体験」を今か今かと待っている。
『Rez infinite』からのまさかの……自分に驚き、何度も自身に問うた。
あれだけ昔から『どうぶつの森』嫌いだったお前が。とび森を。テン年代1位に。据えるつもりか?
お前はそんなにぶつ森好きだったのか? ありがちな中年男性みたいに「しずえ萌え」になったのか? それとも親子くらい歳の離れたフレンドと時々会えるからか? おいおい、かあいこぶってんじゃねーぞ、と。
だが本作を1位にした決定的な理由——それは、テン年代初頭に放たれた今作から「仮想世界」における、人間存在の理想的な在り方の萌芽をひしと感じたからだ。
一発で脳内に凄まじいヴィジョンを注入した『Rez infinite』と比べると、まるでアリが餌塚に砂糖を運ぶようなゆったりとした足取りだが、本作は確実に世界中のゲームファンに「もうひとつの世界」をキュートな顔つきと口調(しずえ嬢のような……)でじわじわと浸透させ、人々の無意識をしれっと変容させ、もうひとつの生活を愉しませ、ネット接続により文字通り「飛び出させた」。
『どうぶつの森』は今年3月に発売する次作『あつまれ どうぶつの森』においてさらなる大きな広がりと変化を見せてくれるだろう。
が、俺は本作をとくべつに、個人的に、偏執的に、限定的に愛しているのだ。
それは故岩田社長が生み出した『3DS』というハードへの偏愛と、ゲーム機では3DSだけが備えた「裸眼立体視」——ARとVRを折り合いし、先取りした——唯一無二の機能によって『どうぶつの森』というクローズドな世界をまるで飛び出す絵本のごとく彩り、「夢の中で他者の森を訪ねる」という奇妙かつ魅惑的な通信世界を生み出し——
要は、全シリーズを振り返っても今作『とびだせ どうぶつの森』だけが持ち得た、この奇妙で牧歌的で神秘的なアトモスフィアに由るものだ。
カフカ『城』や村上春樹『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』主人公のように、俺はある時、この森の中に、夢の中に、村の中に、これからも留まり続けることを選んでいた。
そういうわけで、本作を迷わずにテン年代1位に据えたいと思う。
※※※※※※※※※※
長々とお付き合いくださって本当にありがとうございました。
余談ですが、最初は「順不同」にしようと考えていたのです。これほど自分にとって大切なゲームたちに順位なんてつけるのは相当失礼な気がして。
でも、敢えてつけてみた。並べてみたら、なんとなく自分内重要度みたいなものがぼんやり浮かび上がってきたので。
異論提言はもちろん、よかったらあなたのテン年代ベスト(5本でも20本でも1本でも)教えて頂けると、いちゲームファンとしてめっぽう嬉しいです。
どうしても心が落ち着かなくて、精神的にもかなりギリギリのところにいるので、書くことにした。
正直にハッキリ言えることも多くないため曖昧な表現になることで、何が言いたいのか分からない文章になるだろう。
つまり、ただのはけ口であることを前提に、長文を垂れ流すつもりだ。
気が付けばもう40を超えて、「人生80年」と言われてた時代を考えれば、折り返し地点である。
しかし現在「人生100年時代」との声があり、自身の祖母も102歳でこの世を去った。
確信めいたものはないが、私もよほどのことがなければ長生きする気がするほど、健康だ。
人付き合いは変化したなとは思うが、それは周囲の人がそれこそ、結婚・出産・転勤・転職等で生活環境を変えたことが要因だと言える。
さて「何も変わらない」と言われる私であるが、実際自分でもそう思っていたのだが、それは違った。
環境などと分かりやすい面ではなく、『感情』という部分が大いに変化していた。
例えば、であるが、私は非常に泣き虫であった。人目をはばからず涙を流す恥ずかしい子であった。
割と思うがままに感情を表に出していた気がした。
感情の起伏はさほど激しくはないが、笑って泣いて怒ってを繰り返して、ある意味「分かりやすい人」だったと言える。
でもこの数年で、それを失っていた事に気づいてしまった。
怒りも悲しみも寂しさや煩わしさ、楽しいとか嬉しいとかどこかへ捨て置いてきてしまったようだった。
人はそれを「平穏」というのかもしれないけど、私に至っては「無機」という言葉で表現したい。
若い頃、勝手気ままに自由にはちゃめちゃに生きていた私が、年を取ることによって、落ち着いてきたと言えば聞こえはいいかもしれない。
でも多分そうではない。「幸せ」とか「安定」とか「平穏」という周囲の言葉に惑わされて
「何もしちゃダメなんだ、深く考えちゃダメなんだ、変化を求めてはいけないんだ・・・・しなくていいんだ」
そしてその無気力状態を作り出したのを、敢えて人のせいにしようと思う。
もちろんそこに甘んじて維持し続けた私が一番の罪であることは、頭の片隅に置いておこう。
年数は省略させてもらうが、私には長付き合っている恋人がいる。
それゆえ、「結婚しないの?」という外野からの声は数えきれないほど聞いている。私が一貫して返す言葉は「しない」の一言だった。
少子化時代を騒がせる昨今、私は曰く非生産的な存在であり、政治家たちにとっては国家に貢献しない存在であるのだろう。
…話が逸れたので戻そう。
彼は真面目な人である。聞いている限りでは育ちが良さそうで、家族に愛され家族を愛してきた男である。人当たりがよく、女性に対しても丁寧で優しい人だと思っていた。長年浮気の気配もなかった。
そんな男に好意を告白されたときは「何を血迷ってるんだ?」と思い躊躇したものの、結果的に押しに負けてお付き合いをすることにした。
私は当時、非常に流されやすい女であった。
恋愛感情はなかったけど、彼の人となりと、そして周囲の猛烈な後押しで私は川の流れのように流されたのだ。
そんな私に一生懸命に接してくる彼に、徐々に好意を抱き始めた。
彼との付き合いは、最初はとても楽だった。
彼は束縛をしない男だった。
私は、彼と付き合っても人間関係が特別変化することもなく、友人とも大いに遊んだ。私が普段何をしているのかもしつこく聞いてくることもなかった。メールや電話を強要することもなかった。
いつも私の意見を尊重してくれている、理解ある男を存分に発揮していた。
一度だけ、私はある問題に対して彼にお願いをしたことがある。後にも先にも彼に要求を突き付けたのはそれ一度きりである。
「分かった」という言葉は消え、時間がたつにつれて要求は破棄された。
この頃から私の中で「諦め」が生まれてきた。何を言っても無駄。
時は過ぎ、その放置度合いはさらに拡大していったが、いつしかそれが「おかしなこと」と思わなくなっていた。
そう、完全に麻痺してきたのだ。
不満は消えた。怒りもない。寂しいとか悲しいとかもない。楽しい嬉しいと思うことも減った。
彼自身には諦めを持ち続けながらも、波風立たせることなく付き合い続けた。
彼の愛情が冷めることはなかったが、私の愛情の温度は「常温」まで下がっていた。
束縛をされず私の時間を自由に使え、煩く言ってこない存在は「恋人」という肩書を持っていても邪魔にならなかったのだ。
尚且つ、自身がさほど恋愛体質ではない上に、趣味もあって友人もいて毎日に不自由を感じなかった。
そして既に何年も付き合い続けてきた結果、彼はそれを「安定・平穏」だと思い、周囲からも諭され続け、考える能力を失うまでに至った。『感情』が消えた。
そんな私が一度だけ、常温の恋人との関係を考えたことがあったらしい。
「らしい」というのは、数か月前「他に好きな人がいないから」というような事を記してあったのを見つけたからだ。
おそらく「別れる選択をしない理由」を探し、そこに行きついたのであろう。
なぜ?と考えたときに、
というマイナスにしかならない理由に勝てる、他の理由を探した結果だと思う。もちろん、そのあと何か行動を起こしたことはない。
そう「他に好きな人」どころの話ではない。失っていた全ての『感情』という感情が一気に動き出したのだった。
長年憧れ続けた人のたった1言で、今まで抑えられていた想いが、一瞬にして溢れるように噴き出したのだった。
「憧れ」というものが変化した瞬間だった。
40歳にもなって何を恥ずかしいことをと思われるかもしれないが、私にしてみれば多分人生で初めてかもしれない感情が生まれたのだ。
あまりに遅咲き過ぎる「恋」に私の感情のタガが外れたと同時に、頭のネジもどっかに飛んで行ってしまったのか、私はその直後に、人生で史上最悪な事をしでかしてしまうのであった。
人生史上最高に後悔している。死にたくなるほど後悔している。精神的にギリギリなのはこのせいである。
私は今の恋人と別れたいのだろうか?
理由を探して別れてこなかったとはいえ、別れたいと本当に思っていたのだろうか?
それはいまだに私への愛情を見せる常温の恋人との、この長年の付き合いを捨ててまですることなのだろうか?
実は正直、史上最悪な出来事が表に漏れないのは、常温の恋人のおかげでもあるのは否定できないのだ。
それに新たに生まれたこの「恋」が一過性のものではないとハッキリ言えるのか?
可能性がゼロではないにしろ、それを自分は本当に手に入れることができるのか?
万が一全てを失ったとき、後悔しないと言えるのか? 耐えられるのか?
動き出した感情が、困惑、切なさ、嬉しさ、不安、後悔・・・さらなる要素をプラスして一日中動き回っている。独り言が増えて夜が眠れない(朝辛い)。
40年間、それなりに付き合ってきた人はいたのだがいずれも好意を受けての付き合いだった。好かれてなんぼのイヤな奴だった。だから、自ら好きになった人と付き合ったこともなかった。
私は、今までまともに「恋」をしてこなかったのだ。
この年になってその結果がこの体たらくかと思うと、情けなくて涙が出るし、みっともなくて誰にも言えない。
書き連ねたところであんまり解決にはならんが、でもまずは頭のネジを詰めなおす必要があることだけは理解した。
--------------------------------------------------------------------
<追記>
気が付いたらなかなかの反応に、正直少しビビっています。色々どうも。
いくつか書かれていますが、「恋」の人は既婚者じゃないです。不倫だけはしません。これは絶対に。
人生史上最悪な出来事は、何とか自力で方向修正しました(多分)。少しだけ気が楽になったという自己満。
常温の恋人は、急にああしようこうしよう言い出して(まだ行動はされてないけど)、何か私の変化に気が付いているのか。
新しい恋の人には、関係が先に進むことへの行く先を不安視され、足踏み中。でも、別れてまでという話がでないってことは、そういうことだと思う。
ただ、こうやって人の言葉を聞いて整理していくと、常温の恋人とはどんどん温度が下がっていくような気がする。でもずるくてビビりなので、決心がつかない。
あ、あとネジは詰めなおす、ではなく、締めなおす、ですね。
揚げ足とりのようで恐縮だが、それは「恋」(または恋している自分)に落ちるのであって、私自身に落ちるわけではないということだよね。
ちょうど最近同じような経験をして発見をしたのだけど、言葉の定義を考えると面白い事を知った。
恋や好きや愛なんかは人の体験によって培われる(しかもみんな違う!)ので、このトーク談義を始めると何時間でも何杯でも美味しくビールを飲める!
増田は「そのまま雑談が続いたとき、失恋したなこれはと直感的に思った。」と書いていて、フラれたことor恋がかなわないことの状態を「失恋」と表現してるけど、自分の体験ではフラれることによって自分のなかで整理ができて「恋」という感情がなくなってしまう瞬間があって、それを「失恋」と呼ぶと思っている。昔の人すごい、だから「失」が付いて失恋なんだと気付いた。なので、ここではまだまだ恋愛中なんだと思いますよ。
最近思うのは、好きと恋は切って切れない感情と思ってたけど、そうじゃないのかもしれないと考えるようになった。どういうことかと言うと、好きという土台があって恋が生まれるものと思ってたけど、好きがなくて恋が生まれることもあるのかもしれない、好きと恋は全然別の感情なのではないかと悩まされている。うん、わからない。勉強中です。
「会いたくて 会いたくて」西野カナ
「365日のラブストーリー。」Sonar Pocket
「R.Y.U.S.E.I.」三代目 J Soul Brothers from EXILE TRIBE
「私以外私じゃないの」ゲスの極み乙女。
「シュガーソングとビターステップ」UNISON SQUARE GARDEN
「シャルル」バルーン
「U.S.A.」DA PUMP
「Lemon」米津玄師
小学生の時にとある女の子に恋をして、想い続けてそろそろ12年が経ちそうで自分で若干引いてます。干支1周しそうだけど。したけど。
んでその子に告白して見事に玉砕してそろそろ6年経ちます。振られても尚その子に対しての好意が一切消えることも無く燃え続けてそろそろ嫌になってきたので匿名で書き殴っています。
上の文見るとその子(以下A)は幼馴染か何かと勘違いされそうなので言っておくとそんなことは無いです。小中高は一緒だったけどな。小四の頃にAがいる小学校に私が転校して出会いました。んで一目惚れです。たかが小学生の一目惚れと侮るなかれ、それを12年引き摺ってんだこっちは。
色々ありましたが仲は良好だったと思います。相手に恋愛的な好意はなかったにしろ良い友人関係は保ててたと思う。
高校1年の終わりに、文理が別れる都合上何があってもクラスが分かれるので最悪振られても気まずくなんなくて済む、ここが好機やと告白。見事「友達だから…」パターンで玉砕。そっから疎遠になり進学して今に至る。一応TwitterやらLINEやらでは繋がっているのでお互い生きてるってのは把握してる 簡単に馴れ初めと現状を語るとそんな感じです。
たかが1回振られた程度で当時6年間燃やし続けた好意が消えるはずが無いんですよね。今もそうで、現状私はAのことが相も変わらず好きなんです。自分でも引くレベルで大好きなんです。未だにあの日のことを思い出しては1クールに1回位はメンがヘラりかける程度には恋の炎がガッツリ燃えています。
その弊害か何か知りませんがあの日以来全くもって他人に対して恋をしていません。振られたのが高校1年なのでそっから6年、大学に進学して周りの人間も一新されているのにも関わらず0。確かに可愛いと思う女性とは何人も出会ったしウマが合う人もいました。しかしあの日感じた「恋」という感情を感じることは1度もなく。これはいよいよAに対する感情をどうにかしないと人間として色々終わるなと思ってきた次第。
なんなんでしょうね、これ。恋愛したい願望はあるんですけど、Aへの思いは変わることなく。
今のところ私が救われる可能性はもうAのことを忘れられるくらいの恋をするくらいしかないのですが前述の理由よりその可能性はほぼ潰えているので詰みです。誰か助けてくれ。俺はいつまでこの呪いと付き合えばいい。
「恋は麻薬と同じだ」って、たまに聞くフレーズだけれど、今までは、そういうもんなんだなあという認識で済ませていた。
常に恋愛のことが頭にあって、暇さえあれば恋人を募集しているような人のことを、内心、ちょっと軽蔑していたかもしれない。
どうしてそこまで、「恋」にこだわるんだろう、って。
想いが通じなかったら辛いだけだろうし、想いが通じたら通じたで、解決しないといけない現実が立ち塞がってくる。人間がふたりいる以上、どこかで妥協は避けられない。
特に、「ビッチ」とか「ヤリチン」とかって言われるような、出会ってまもない人とセックスしちゃうような人のことは、本当にわけがわからなかった。
愛してもないような人とセックスしたって、そんなに気持ちよくもなければ、幸せでもないだらうに、って。
でも、気が変わった。というか、気付いた。
ああいう人たちは、「恋」がしたいだけなんだ。「恋」の麻薬にはまってしまって、どうにかして、またあの気持ちを得ようと、必死になっているだけにすぎないんだ、とわかった。
* * *
今までそれが理解できていなかったのは、俺が「恋」をしたことがなかったから。
ただ、それだけだった。
2017年の11月。俺は、ある女性に恋をした。正真正銘の、初恋だった。それまでは、自分が誰かに恋をするということさら、信じていなかった。
12月。気付いたら、告白していた。あんなに大好きになっちゃうなんて、思っていなかった。ほんと俺チョロすぎ。
それから、しばらくお付き合いをして。それはそれは幸せだった。
恋人を持つ、というのは、本当にかけがえのないことなんだと思う。自分を、自分だけを、褒めてくれて、励ましてくれる相手がいるというのは、それだけで素晴らしいことだ。相手が自分に注いでくれた以上の愛情を返そうとするから、そのふたりの関係は、ふたりだけの「やさしい世界」になる。
くだらないことを言いあって、それだけでちょっと幸せになって。楽しいことは2倍楽しくて、辛さも分け合って半分にする。オンゲの課金アイテムもびっくりのブースト率だ。
ちょっとお互い思うところがあって、しばらく距離を置くことにした。
別に、お互い嫌いになったわけじゃない(と信じてる)。ともかく、一旦、ただの友人関係に戻ったわけだ。
しばらくは、大丈夫だった。
結構な頻度で通話をしていたからだと思う。くだらないこと、なんでもないことを話せる相手というのは、やっぱり得難いものだ。
* * *
ところが、最近。
彼女の方が忙しいらしく、なかなか通話の相手をしてくれなくなった。まあ、仕方ないんだけだね。
そうしたら、俺の方に異変が起きた。
なんというか、端的に言ってしまえば、彼女に対する色々な欲求、要求が、常に体の中から溢れ出してくるのだ。
たぶん、今まではある程度ずつ発散できていたから気にならなかったんだろうけど、それが行き場を失ってしまったんだろう。
「自分はこんなに彼女を好きだったのか」と改めて思うと同時に、自分にドン引きした。
いくらなんでも、彼女に依存しすぎだろうって。執着しすぎだろうって。
思ったところで、この想いが止まるはずもないんだけど。
* * *
彼女の顔が見たい。
彼女の声が聞きたい。
彼女のにおいを感じたい。
彼女といっしょに歩きたい。
そんななんでもないような思いが、たくさん湧き出てくるのだ。
彼女と会って、だらだらして、思う存分話したい。
彼女と真面目な話がしたい。
彼女とどうでもいいような話がしたい。
恋という麻薬の、幸せの中に、ずっとずっと、浸っていたくなってしまう。
恋は、麻薬だ。
* * *
俺の場合は、フラれたわけではないから、まだこうして冷静(?)な分析をする余裕があるけれど。
もし仮に、一度はとっても幸せな関係を築くことができた相手からフラれてしまうようなことがあったら。そういう人が、世の中にいたら。
その相手にまたアタックするわけにもいかないし、でも、きっとまた、その人は「恋」の麻薬を求めてしまうのだろう。
世の中の、恋人をとっかえひっかえするような人は、結局、「恋」という麻薬を追いかけているのだと思う。
一度幸せになれた記憶が忘れられずに、もう一度だけ、あの幸せが欲しくて、残滓でも、かけらでも、なんでも追い求めてしまうのだろう。
俺も、そうならない保証は、どこにもない。
普通の人は、どこで、どれくらいの年齢で、何をきっかけに、この「恋」という麻薬の存在を知るのだろうか。俺は、成人してから、やっと知ったわけだけど。
それを追いかけて、追いかけ続けて、それでもそれを捕まえられなかった人は、どんな人生を歩んでいくのだろう。
こんなに大きすぎる幸せを、一生知らないままならよかったのに。
そうしたら、それ以外の、趣味とか、仕事とか、そういう中でのささやかな幸せだけを追って生きていけたかもしれないのに。
こんな幸せを知ってしまったら、もう、追いかけずにはいられない。
* * *
真夜中に、ふと思い立って、こんなことを勢いのまま書いてきた。
妄想の中で、俺は彼女に、長い長いキスをする。彼女をぎゅーっと抱きしめて、舌をたくさん絡ませる。
しばらくしてから唇を離すと、ぷはっと熱い吐息が漏れる。彼女は耳まで真っ赤になっていて、潤んだ瞳でこちらを睨みつけて、小さく「いじわる…」と言うのだった。
しあわせが、ほしい。
しあわせに、なりたい。
* * *
『ゼロの使い魔』で、アルビオン戦の後、サイトを失ったルイズの様子を思い出した。
あれを読んだときには、死ぬほど誰かを愛せるのはフィクションの中だけだ、なんてことをぼんやり思っていたけれど。
ずっと、幸せな夢に浸っていられるとしたら。
それはどんなに幸福なことだろうか。
名前だって如何にも女の子らしいものだ(男性にもわたしと同じ名前の人はいるかも知れないが、何年もずっと人気な名前ランキングなるものに自分と同じ名前が入っているくらいだし、世間的にはこれは「女の子らしい」名前なのだと思う)。
女性として生きているからには、多くの人が男性に恋をするのだろう。
もちろん恋愛対象が同性であったり、異性も同性もどちらもであったりする人も少なくはないだろう。
そう長いものではないこの人生の中でも、わたしには男性の恋人が居たことがある。
告白したり付き合ったりにはならないまでも、同級の男子に恐らく恋と思われる気持ちを抱いたこともある。
そして、ただとても仲が良い友達であるだけのはずの女の子に彼氏が出来て、ひどくショックを受けたこともある。
おかしな話だ。
仲の良い友人に、彼氏が出来た。
それは、わたしにとってその彼氏が余程憎い人間であるだとか、彼女本人がそれを辛いことだと思っているのが見て取れるだとか、そういった特殊な場合以外は、祝えて当然とも言える出来事なのではないだろうか。
「今まで通りには遊べなくなるかなぁ」と少し寂しく感じることはあっても、何故だか少しもめでたい事だと思えなくて涙が出そうになるなんてことがあるのだろうか。
わたしは友人の彼氏の事を憎いと感じたことは無かったし、彼氏が出来たんだ、とわたしに報告してくる彼女は本当に嬉しそうだったし、なんであんなにもショックを受けたのか、全く分からなかった。
わたしはもしかして、彼女に恋をしていたのだろうか。あの涙が出そうなくらいの大きなショックは、失恋だったのだろうか。
人に対してどんな想いを抱いたら、それを「恋」と呼べるのだろうか。
一緒に話していて楽しいな、と思った。
くじ引きで行われた席替えで隣の席になったことが、ひどく嬉しかった。
わたしがこれは「恋」なんだろうなと思ってきた気持ちはそんなものばかりだった。
「恋」には付き物であろうそういう気持ちは、一度も抱いたことがないことに気が付いた。
では、わたしが今まで「恋」だと思ってきた気持ちはなんだったのだろう。
友人に彼氏が出来た時に感じたあの絶望感は、なんだったのだろう。
わたしは今までの人生で、「恋」をしたことがないのではないか。
そう思った瞬間、ひどく恐ろしく思った。
わたしがこれまで「恋」だと思ってきた気持ちが、本当に「恋」だったとしたら。
わたしはきっと恋愛対象が同性だけでも異性だけでもない、両性愛者、バイセクシュアルとされる存在なのだろう。
それならそれで、まあ、いい。
わたしがこれまで「恋」だと思ってきた気持ちが、本当は「恋」ではなかったとしたら。
こんな文章を長々と書くにあたって、何も調べなかったわけではない。
「恋」がわからないのが、まだ「恋」をしたことがないからなのか、そもそもわたしに「恋」という感情が備わっていないからなのか、全然わからない!
そうだとしたら、わたしはいつになったら「恋」が出来るのだろう。
恋がしたいわけではないけど、この気持ちへの答えは欲しい。
わたしは一体なんなんだろう。
きっと私は誰かの一番はなれないし、私も誰かを一番に選ぶことなんてないんだろう。
私は誰かを好きになることもなく生きてきた。恋をすることなく生きてきた。
学生時代には友人の恋バナを聞いて、会社に入ってからは同僚や先輩たちの恋人の愚痴を聞いて生きてきた。いつかは自分もこうなるんだろうか、なんて考えながら。
小学生の頃、○○ちゃんは○○くんのことが好きだとかそういう噂話をよく聞いた。小学生の頃の「好き」は何だかおままごとみたいというか、噂する方もあまり真剣みがないというか、子供らしい遊びの一種というか、とにかくなんとなく「軽かった」。
中学生になってからは、そういう話は仲の良い子達だけでひっそりと語るようになった気がする。小学生の頃よりはそういった話題に慎重になった感じがするのだ。彼氏、彼女という言葉に現実味が出てきた。
テスト期間中、少し早く登校したときに、教室で同級生が仲睦まじくしているのに少し驚いた。邪魔をしてしまったなと思いながらも私は席についてテスト勉強をし始めた。
高校生。私の周りだけかもしれないが、恋人がいる、交際をしている……という子は少なかったような気もする。それでも中学生の頃よりは恋人がいる子が増えた。彼氏、彼女持ちは鞄にお揃いのディズニーのマスコットをつけていた記憶がある。一緒にディズニーに行ったんだろうな~。そんなことを考えていた。
高校生になる前はうすぼんやりと「高校生になったら私にも恋人が出来るんだろう」と思っていた。雪が溶けたら春が来るだろう、くらいの何の根拠もない漠然とした話だ。当然、私には彼氏も彼女もできなかった。
私は大学にはいかずに専門学校へいった。ちょっと特殊な学校で、私の在籍した科には十人ほどしか人がいなかった。男女比は極端に片寄っており、でもそれに何らかの不満も抱くことはなかった。ここでも恋人は出来なかった。けれど周りを見渡せば、恋人がいない方が珍しかった。バイト先や高校で知り合った人と交際しているのだ、という話に私は「すごいね」と笑った。自分には何だか現実的でない話のように思えたから、本当に他人事だった。
恋人が欲しかったか、と言われると返答に困る。人の話を聞くといたら素敵だろうな、お休みの日に出掛けたりしたら楽しいのかな、などと思えるけれど、女の子達の「彼氏とずっとラインしてる」や「三日もラインに既読がつかない」なんて話を聞くたびに正直『めんどくせぇな』と思った。そんなにこまめに連絡を取る几帳面さは私にはなかったし、そんなにたくさん話すことがあるものなのか、と驚いた。
でも、クリスマスになると男女問わず恋人に何をプレゼントしよう、どこでデートしよう……なんて頭を悩ませているのが素敵に見えた。恋人がいない身ながらも、プレゼントはこんなのがいいんじゃないかとか、こんなところでデートできたら素敵だとか、友人の相談にほんの少し乗ったこともある。
会社に入ってからも、私は恋人を作ろうとはしなかった。多分心のどこかで突然できるものだと思っていたのだろう。望まなくともそのうちなるようになるんじゃないか。今は恋人より仕事の方が大事だし。そんな風に考えて、結局ここまで来てしまった。
かつての同級生も結婚や出産をし始めている。二十三才の頃に「このままじゃいけないんじゃないか」と焦って婚カツをしてみたりもした。そこで私は気づくのだ。「私は恋が出来ない人間なんじゃないか」と。
そこまでの経緯は省くが、婚カツをしていてなんとなくいい雰囲気になった人がいた。何回か一緒に出掛けたりして、ランチしたりショッピングもしてみたりした。何しろ恋愛経験がないから男女が二人で連れ立って何をするものかもわからない。それでも何となくそれらしいように振る舞った。そのくせ、ショッピングしている間も食事をしている間も、私の頭の中には「何をしているんだろう」という疑問がずっとあった。
知らない人とご飯を食べて、買い物して、それで私は何をしたいんだろう?どうなりたいんだろう?
デートのような何かを終えて、別れ際に相手の人が笑顔で「またね」と手を振ってくれた。
本来ならこれはとても良いことなのだろうし、私に好意を向けてくれたのは本当にありがたいことのはずなのだ。けれど私は「ええ、また」と微笑む一方で「馴れ馴れしいな」と思ってしまった。
馴れ馴れしいな。そう思ってしまった瞬間に、私は「恋が出来ない人間なんじゃないか」とふとひらめいてしまった。
厳密に言えば私がしていたのは婚カツだし、婚カツとは結婚相手を探す活動だ。だからもしかしたらそこに「恋」を求めるのはお門違いなのだろう。
ともかく、好意を向けてくれたのであろう相手に「馴れ馴れしいな」と思ってしまった自分の最低さを恥じながら、私はその半月後には婚カツをやめていた。
恋人ってなんだろう、と思春期のような問いをずっと抱え続けている。婚カツをしている間にドライブに誘ってくれた異性も、夜の食事に誘ってくれた異性もいる。けれど、最終的には「面倒くさい」「ちょっと気持ち悪い」というような、本当に失礼な気持ちを抱くに至ってしまった。
ドライブといえば車の中でふたりきりなのだろうし、夜の食事といわれるとどうしても身構える部分がある。
「用心深すぎる」「隙がない」。知人友人によくそう指摘される私は、ここでも用心してしまった。
車で二人きりになって、そのまま知らないところへつれていかれたらどうしよう。食事で席をはずしたときに飲み物に変なものを混ぜられたらどうしよう。
書き出していて思ったが、これは都合のいい自分への言い訳なんだろうな。用心深く相手を見るということは、つまりは相手を信用していないというわけで、きっと私は端から相手のことを信用しようだなんて思っていなかったのだろう。でもそんな自分を正当化したくて「用心深い」なんて話を引っ張ってきたんだろう。
人を好きになるということは、その人を尊敬するのと似ているように私は思う。尊敬できる部分があるから好きになれるんだろうと思う。一緒にいて心が楽になるとか、楽しいとか、そういうメリットがある人間を人は「好き」になるんだと思う。自分にとってデメリットばかりの人間を好きになるひとがいるとはちょっと思えない。
私も友人や家族のことは好きだ。尊敬できる部分があるから。でもそれは「恋」じゃない。
恋をしてみたかった。
自分の中の何かを決定的に塗り替えてしまうような、その人のことしか考えられなくなるような、一言言葉を交わすだけで胸がドキドキするような、そんな経験をしてみたかった。
けれど、自分がそういうものを望めない人間だというのを何となくだがさとってしまった。
きっと恋をすれば、恋人になれば、手を繋ぐ以上のこと、キス以上のことにもなれていかなくちゃいけないだろう。しなくちゃいけないんだろう。私にはどうもそれが出来ない。
手を繋げるのはおそらく家族と友人の範囲までだろう。他人の体温は生ぬるく、どうも落ち着けそうにない。キスも同じだ。映画、ドラマ、アニメ、漫画。物語の中で交わされるそれはドラマチックだけれど、自分がすることを考えると鳥肌が立つ。
一人でいるのは気が楽だ。自分のことは自分で決めて、自分以外の何者にも振り回されないというのがすごく楽だ。
誰かの一番にはなれそうもないし、誰かを一番に思うこともなさそうだ。でも自分が一番楽ならそれでいいや。最近はそう思いながら、恋人がいないことに悩む二十代のふりをしている。
https://twitter.com/nhk_nehorin/status/951099083074056202
最後の腐女子用語辞典【解釈違い】キャラの受け取り方が自分と違うこと。イライラすることもある。例)「番組に出てた腐女子の話に納得いかない。完全に解釈違い!でもしょうがないよね、100人いたら100通りの腐女子がいるんだから・・・」ご視聴ありがとうございました🐽 #ねほりんぱほりん https://t.co/1sVh0dQNWf
マッッジで。
「男って~~だよね」「女には~~な傾向があるから」みたいな語り口で腐女子を語ろうものなら大炎上が約束される。
誰もが(この言い方も怖い)、「あなたはそうでも私は違う」を持っている。例え他者から見れば誤差の範囲だろうが、一人一人自分の腐女子としての輪郭をはっきりと持っていて、その差違をないがしろにされることを嫌う。
なんでだろうな、「男」「女」なんてカテゴリよりずっと狭いのに。
でも、もしかしたら、本来人をカテゴリで語るなんてのはこんくらいめんどくさくて然るべきなのかもしれないが。
なんで男同士に萌えるの?
と問われたとき、私にとって一番原点に近い表現をしてるのは下記の動画だ。
ここで言われているのは、端的に言って、
ホモが嫌いな女子なんていません!という平成も浅い頃の暴言があるが、
少なくとも女子の多くは、おっさん同士が無邪気になかよしだとわけもなく嬉しい。と、思う。
ヒロエさんは男性なので男性にもある程度は通じる感覚なのかもしれない。
でもまあ、人と人が仲良くしているな、と見てとれるとき、その多くは喜ばしい。
にこにこと仲良く戯れていたら、やっぱり微笑ましいしなんだかうれしい。
でも男女だと、そこに性の香りが漂うと、感想の種類はぐっとかわる。
終電前の改札前でいちゃいちゃしてる男女はまあまあ見苦しい。優しい気持ちにはならない。
でも、たとえおっさんのいちゃいちゃに喜ぶ人が世の中の何割であろうと、みんなが腐なわけではもちろんない。
だってみんなチームナックスを見ても彼らのセックスを連想しない。
(腐女子が全員セックスを連想しているかというとそうも言い切れないが…ここはややこしいがとりあえず話を進める)
そもそも前述の通り、人と人が仲良くしてるのは微笑ましくても、性的な要素は多くの人にとって微笑ましくない。
腐女子は微笑ましいものにわざわざ性の要素を見いだそうとする。
ようやくねほりんぱほりんの話をするが、あの30分間で一番私の心に刺さったのはこの言葉だった。
この、能天気な、使い古されたみたいな言い回しは、けれども「腐」というものの一面をとらえてるんじゃないかと私は思う。
そうなのだ。腐の世界は、すべての感情を、行動を、あるいは状態を、愛によるものだと意図的に読み違えることで成り立っているのだ。
だから、友情にもコンビにも兄弟にも愛を見いだすし、天井と壁にも愛を見いだす。
(ここでいう「愛」は「恋」である必要はないのだが、その辺は後述する)
そして、ここが重要なのだが、性欲とは愛に対して従であると、腐は思っている。
終電前の改札でいちゃいちゃしているカップルはあんまり微笑ましくないと書いた。
見知らぬ人たちが、泊まるか泊まらないかやるかやらないかの駆け引きをしているのを見るのは、何ならちょっと不快だ。
でも、それは、通りすがりの私の目には彼らの性欲しか見えないからだ。
彼らが「心から愛し合っているのだ」と認識したとき、その感想は変わる。
「逃げ恥」のじれじれしたベッド回りのあれこれを見たとき、あれを不愉快に思う人は多くなかったのではないか。
そこに愛を認識できれば、他者のものであっても性欲は不快なものではなくなる。
私もそう思う。
腐の妄想世界のなかでは、人は酸素を吸うように愛を吸っている。
話すのも食べるのも、笑うのも泣くのも、生きるのも、死ぬのも、すべて愛のためだ。
もちろん現実はそんなわきゃない。人は嫌うし憎むし見下すし嫉む。
でも、妄想世界のなかで、それらもみんな愛だと誤認する。意図的にする。
そこまでしてはじめて、恋について語れるし、性欲について語れる。
恋と性が大好きなわけではない。むしろ恋も性も汚い側面を有していることをよく知っている。
だからこそ、「この世のすべての感情は愛」な妄想世界にトリップしてやっとようやく、恋と性について語れるのではないか。
なんでだろうね。
天井と床の間に、唐揚げとレモンの間に、電車と駅の間に愛を見いだすとして、
どうして男女でもなく女同士でもなく男同士にたとえてしまうんだろう。
少なくとも私は、腐以外でこの手の「愛を見いだす遊び」をしている人たちを知らない。
「私とは違うなにか」でありかつ「同質に並び立つ二人(ふたつ)」が重要なのかもしれない。
私という現実の人間は愛じゃなくて酸素吸って生きてるので私に近い要素は必要なく、
彼岸の愛の世界で生きている人たちは同じ愛を吸う同じ種類の生き物だと思うのかもしれない。
やっぱ苦しいな。単にちんこすきなだけ!っていう清々しい腐のみなさんが一定数いることは書き添えておく。
ねほりんぱほりんでは、一人の出演者が男性にしつこく付きまとわれた過去を話した。
それがマジとか嘘とかマウンティングとか違うとかはどーーでもよいのだが、
ただ、そうなのだ。腐という趣味はその人の性的経験としばしば関連付けて語られる。
本人も、「私はなぜ腐女子なのか」と考えるとき、自身と男性との関係性について考えてしまう。
では、愛でくるまなければ恋も性も語れないというこの増田は、一体男性にどんなトラウマがあるというのか…!????
私は、そんなの聞かれなくていいし考えなくていいと思っている。
なぜ好きなのか?を考えて、趣味と過去の経験を結びつける必要はないのだ。ましてネガティブなものとなんてぜんぜんいらない。
何が好きなのか、どんなところが好きなのか、そんなことを考える方がずっといい。
でもなーーしちゃうんだよな!なんでだろうな!!
ねほりんぱほりんの三人の腐女子たちが自分はどんな人間かを語っているとき、私にとって目新しい言葉はひとつもなかった。
彼女たちの自己分析は、ネットに転がっている腐女子「たち」の語りの集大成のようだった。
どっかで見たことばっかだった。
腐女子は、「100人いれば100通り」であるにも関わらず、どこかで「私たち腐女子」という自意識を持っている気がする。
誰かの自己分析は私の自己分析で、自分について語る言葉は際限もなく膨れ上がる。
「私たち」は常に語らなければならないと思っている。
養老孟司が「いわゆるオカマの人は頭をよく使う」ということを言っていた。
マツコは「そうかもしれない」と応じた。「だってアタシ、トイレ入るときだって、自分はどっちなのか考えるもの。」
「私は何者なのか?」を考えてしまうのがマイノリティなんだと思う。
人はじぶんがマイノリティの側であると思ったとき、「私はなぜこうであるのか?」を考えずにはいられない。
腐女子もそうなんだと思う。「私はなぜこうであるのか?」それを語るために、「私たち」は「私たち」を語る言葉を溜めていく。
100人いれば100通りのはずの私たちは、似たような言葉を使って自分を語り、共感し、それでいていっしょくたにされることを嫌う。
私は何者であるのか。
私について私が語るとき、私は自分が女であることより、30代であることより、会社員であることより、腐女子であることを語るだろう。
「私たち」は問われ続けるし語りつづける。でもいつか、自分のネガティブな経験と腐を繋げて語る人がいなくなるかもしれない、と思う。
彼女のことが好きすぎる。
* * *
これまでお付き合いとかしたことなかったし、片想いすらしたことなかった僕が抱える、はじめての気持ちだった。
去年の11月。文化祭期間、ひょんなことから、キャンパスの近くのファミレスで、ふたりで夕食を一緒に食べた。
女性と1対1でご飯を食べるのも、はじめてに近かったかもしれない。
でも、想像したより「恥ずかしさ」みたいなものはやってこなくて、ただひたすらに、楽しかった。
いつの間にか、話は哲学的なところまで行っていて、人生を生きていく方法の話とか、何かを記憶する時の方法の話とか、恋愛とは、結婚とは何か、とか、そういうことをずーっと語り合っていた。
一度だけ、めちゃくちゃ僕が興奮して(互いの価値観の一致に)、握手をしたことだけ覚えている(後で彼女に、隣のテーブルの人にめっちゃ見られてたよ、と言われた)。
トイレに行くどころか、水を取りに行くことすら忘れて、語り合った。
気がついたら閉店の時間で、店員さんにやんわりと出て行けと言われてしまった。全然、話し足りなかった。無限に話していたかった。
人と話すのがこんなに楽しいことだなんて、20年くらい生きてきて、はじめて知った。
彼女に対して、これまでの人生で抱いたことのない、まったく新しい感情を抱いた。
うまく言語化はできなかったし、今ではちょっと変質してしまったような気がするけれど、あれは、紛れもなく、僕の「初恋」だったと思う。
* * *
同性の友人とたまに議論になることはあるんだけれど、異性とあんなにラインを使ったのもはじめてだった。
緊張とか、恥ずかしさとか、そういうものはあまりなくて(「あまり」と言ったのは、多少はあったからだ)、ひたすら、楽しかった。
色々なことを話した。
互いの考えていることを何とか伝えようとして、たくさんの表現を考えて、小さな画面を見つめ続けた。翌日が休日の時、一度だけ、朝になるまでラインが続いた。
議論がすれ違いそうになるたびに、お互いそれを何とか察知して、歩み寄って、互いの考えていることが何なのか、ちゃんと伝えようとした。汲み取ろうとした。
彼女は僕に、僕は彼女に、いつしか全幅の信頼を寄せるようになっていた。それが、たまらなく、嬉しかった。
で、ですね。
議論が行き違ったというか、これは完全に僕の勘違いだったんだけど、とっくに僕が彼女を恋愛的な意味で「好き」だとバレてると思っていて。
でも実際は彼女が考えているのは別のことで。互いの思ったこと、考えていることは恥ずかしがらずに伝えることになっていたから、これも伝えないわけにはいかなくて。
結局、朝4時に彼女と通話をして、自分が彼女に好意を抱いていることは伝えた。でも、別に、彼女を恋人にしたいという希望は(当時は)薄くて、これまで通りに色々お話できたらいいな、と伝えた。
彼女の方は全く想定外だったようで、こっちは恥ずかしくてそれどころじゃなかったんだけど、伝えた瞬間フリーズしていたことを覚えている。「え? わたし?」的な。
このタイミングで、敬語が取れた(先輩だったからね)。向こうからの提案だった。
敬語じゃなくなると、それだけで距離が縮まった気がして、嬉しかった。
* * *
それから、色々あった。
はじめて、彼女を下の名前で呼んだ時。恥ずかしくて声は震えてたと思うし、彼女から下の名前で呼ばれるだけで嬉しさが心の底から溢れてきた。
「恋」と「愛」を定義して、ふたりの間にあるのはどっちだろうって話した時。少なくとも「愛」はぜったいあるって結論になって、「愛してる」と言うたびに、言われるたびに、心が震えた。幸せだった。
こんなのただのバカップルだねって、ふたりで笑った時。お付き合いしてないのにねって。お互い、そういう作品を摂取するのも好きみたいで、夢みたいだねって言い合った。楽しかった。
そして、クリスマス。
意図したわけではないけれど、一緒に晩ご飯を食べた。いつの間にか、手を繋いだり、頭を撫でたり、そういうことをする関係になっていた。
ふたりともめんどくさい人間なので、ふたりの関係を定義したくなった。間違っても、ただの先輩後輩の関係ではおおよそない。ふたりの関係に、名前をつけたくなった。
色々あったんだけど、とにかく。
彼女と、正式に(?)、仮契約を結ぶことにした。お互いがお互いを、自らの恋人にする、そういう契約を。
* * *
それからというもの(それ以前からだけど)、毎晩のように通話を繋いで、深夜に朝に、「大好き」と言い合う怠惰で幸せな生活を送っている。
大好きな人に「大好き」って言われるのは当然嬉しいし、「大好き」って言うのも心の奥がじーんとして、とってもしあわせなんだな、と。そんなことすら、知らなかった。
彼女は色々な方面での自己評価が高くない(スペックは高いのに……)。
だから、僕が「かわいい」って褒めると、すぐに「かわいくない」って照れるし、その様子がまた最強にかわいい。
「だいすき」って言うと、タイミングによっては1秒くらい固まったあとうぅ~って唸ってばたばたして、「不意打ちずるい」とか言ってくるのがめっちゃかわいくて、だからつい「かわいい」とか声が漏れるとまた悶えて「もうしらない……」とか言うの、最強すぎるでしょ。マジで愛してる。
通話じゃなくてリアルに会うと、お互いがお互いの頭を撫でるの好き過ぎるの。
彼女は僕が頭を撫でるととっても優しい幸せそうな顔になって目を閉じて、ほっぺまで手が降りてくるとそこに顔を擦り付けてくるのがほんとかわいい。
僕は僕で、彼女が慈愛に満ちた目つきで僕を見て頭に手を置いてくれるだけで幸福感が溢れてきて、そこから髪の毛の流れに沿って彼女が手を動かすと幸せで溶けちゃいそうになる。
手をつなぐのもとってもいい。
体のどこかが触れ合ってるってだけで幸せを感じるし(オキシトシン~~)、手をつなぐのなら街角でやってても一応許されるし。
恋人繋ぎってのやったのはじめてだった。接触面積が多くて幸せ。
まだ、抱きしめたことは数えるほどしかないんだけど、彼女がそばにいる実感が湧いてきて、これもとっても幸せ。
もっとぎゅーってしたいし、してあげたい。
というか、全部が幸せ。
あ、一応書き添えておきますとそれ以上のことはしてないです。それ以上は結婚してから。僕はロマンチストなので。
# # #
「はじめて」に、特別感を覚えすぎているだけかもしれない。
これからの人生で、いくらでも、とは言わないけれど、こういうことは何度か起こりうるのかもしれない。
それでも。
それでも、僕は。今、彼女に対して抱いているこの気持ちを、多少の変質はあるにしろ、消えることなく、ずっと持ち続けられたらいいな、と。
そう、願っている。
そう在れると、信じている。
だいすき。
以前36話までの段階で、クッソ長文の直虎考察を書いた増田です。
さてこの前の38話で直虎の恋愛話は終わり(多分)
37、38話は思ったよりハードな展開ではなかった。というか直虎がちゃんと仕事してたのでハードにならなかったと言うべきか。信玄の死因は笑ったw
龍雲丸も死亡退場じゃなくて良かったけど、ある意味死亡退場より重かった…
そしてまた長文を書いてしまい、発表する場所がないので(ブログとかやってないんで)増田に投下する。
誰かに読んでいただけたら嬉しい。
最近のハードな展開で忘れ去られ気味だけど、少なくとも城主になってから気賀ゲットまでの13話~27話は、
(時々「今川に命狙われるけど武力で敵うわけないので知略で何とかする」と言う戦国大河らしい展開も挟んでいたものの)
「親や親戚の急死で実家の零細企業を知識も経験もゼロで継ぐ羽目になった女社長、
いざ会社の内情を見てみたら超人材不足だわ借金まみれだわ社員(家臣)には女の癖にと反発されるわ
親会社(今川)はいちいち邪魔してくるわ、さあどうする!?」的な。
結局は、それを色々努力して解決したのに戦で全部ぶち壊し、と言う戦国大河らしい展開になった(史実です)訳だけど。
んでまあ、女のお仕事ドラマと言ったらよくある要素が「恋と仕事の両立」。
(「恋」は結婚とか出産とか家庭とかと置き換えてもいいし、「仕事」は夢とかやりたい事とかと置き換えてもいい)
現代物の作品なら最近は「最初から都合よく両立出来るor困難があっても何だかんだで最後は両方手に入れてハッピーエンド」が大多数、
あと「恋は叶わなかった(或いは最初から興味なしだ)けど仕事では実績出したよ!」があるくらいだけれど、
時は戦国、史実で主人公は一生独身かつ城主としての実績も大した事ないと決まっているこのドラマでそんな都合の良い終わり方は無理だろう。
でも番宣では恋愛はやるらしい、んじゃその辺はどう片付けるのか、と思ってたわけですよ。
んでどうだったか。
まず、直虎と深く関わる第一の男・直親について。
幼馴染の許婚であり、幼くして親の今川への謀反のかどで井伊谷から逃げざるを得なかった悲劇の美少年であり、
大人になって戻って来たら皆の期待を集める唯一の井伊の男の跡継ぎであり、キラッキラの爽やかイケメンであり、
主人公とは家の事情で結ばれず他の女と結婚したものの、内心では永遠に主人公を愛し続ける悲恋要員であり…
「よくよく考えるとこいつ性格悪くね?」と視聴者に思わせる言動
(隠し里の責任をさらっと政次に押し付けたり、子供がなかなか出来ずノイローゼで不妊様状態な妻・しのを
気遣う事もなくまるで他人事だったり)を取って
ネットでサイコパスイケメンとか爽やかクズとか散々に言われつつ(でも直虎は気付かない)
最後は史実通り、今川に殺されるという悲劇のヒーローとしての結末を迎え、
直虎に「直親の遺志を継いで自分が女だてらに井伊家を継ぐ!」と言う思い切った行動を取らせる理由となった。
…はずだったが、後に逃亡先で現地の女との間に作っていた隠し子の存在と
直虎に言っていたクソ甘い口説き台詞の数々と同じ事をしのにも言っていた事実が発覚し、
直虎にとっての彼の評価は「死しても永遠の恋人たるキラキラ王子様」→「ただのスケコマシ」と大暴落を遂げる。
その直親は、直虎に「今川の命で出家させられ還俗出来ない=結婚出来ないなら、
一旦死んだ事にして今川誤魔化して、こっそり俺と結婚して子供産んでくれ」と言う。
これはつまり、直虎はそれまでの人生とか社会的地位とか将来とか全部失うけどどーでもいいよ、
ただ俺の妻になって子供さえ産んでくれれば、と言う発想だ。
他人の人生をそこまで蔑ろにして平気なのも、彼が視聴者の多くにサイコパスと言われた理由の一つでもある。
直虎は散々迷った挙句にそれを断る(そして直親は家の存続の為に宛がわれたしのと結婚する)が、
もし断っていなかったら、直虎は「直親の妻」と言う立場以外全てを失った状態で
彼のスケコマシな本性を知る事になっていたわけだ。
現代的に言えば、「僕と結婚して専業主婦になってよ!」と言う男と恋愛脳に浮かれて結婚したら
そいつは妻の人生や色々な苦悩など何も考えないサイコパスな上に浮気性だった、ってな感じの話だ。
次は第二の男・政次。
彼に関しては、以前(https://anond.hatelabo.jp/20170911183646)やたら長文を書いたのでここでは短く済ませるが、
直親と同じく直虎の幼馴染であり、幼い頃は直親しか見てない直虎に横恋慕する三角関係要員であり、
(直親の死後も龍雲丸がそのポジションに入る為、相変わらず三角関係要員である)
大人になってからは「直虎や井伊家と対立する裏切り者の今川派の家老」を演じつつ、
実際は直虎や井伊家を守る為に行動する事になる(直虎には途中でバレるが、その後も表面的には対立関係を演じつづける)
直虎にとっては幼馴染であり、政次の行動の真意を理解してからは
(城主としての)仕事上は誰よりも信頼している大切なパートナーとなって行ったが恋愛感情はない。
政次の方は直虎に恋愛感情を持っていたが、最終的には「殿をしている殿(直虎)が好き」だからと
直虎に自分の妻になる事より「殿」であることを望み、自分はそんな直虎を仕事上で支えつつ
他の、今まで自分のプライベートを支えてくれていた女・なつと結婚する道を選ぶ。
現代的に言えば、キャリアウーマンを好きになったが、相手は自分の事を恋愛対象として見そうにないし、
自分もあくまで相手の仕事をしている姿が好きなのであって、相手が仕事を辞めて自分と結婚して平凡な主婦になる事は望まない、
だから結婚は他の「家庭的な」女とするが、キャリアウーマンな相手とは一緒に仕事を続けていきたいという仕事仲間の男、ってな所か。
そしてその直後に敵の罠にかかって反逆者として処刑される。
そして第三の男・龍雲丸。
武家の子だが幼い時に戦で親や周囲の人間全てを失い、盗賊に拾われて盗賊業で食って来た、
今は似たような境遇の流れ者や孤児を集めた盗賊団の頭、というオリキャラ。
直虎は最初こそ彼に直親を重ね合わせていたが、やがてそれとは別に、家に縛られた自分にはない彼の自由さに惹かれていく。
また龍雲丸の方も、直虎が他の武家とは違って底辺アウトローである自分や仲間たちをちゃんと人として扱い信頼しようとする姿に共鳴し、
直虎から持ち掛けられた木材泥棒スキルを生かした木材伐採の仕事を請け負う事で
直虎にとっては超人材不足の解消、龍雲丸にとってはカタギの仕事で稼げるというwinwinな関係を築く。
そしてそれをきっかけに龍雲丸は流れの盗賊業から足を洗い、仲間とともに井伊谷の近くの商人の街・気賀に定住して
よろず請け負い、という言わば人材派遣会社社長として生きるようになる。
だが、この辺りを支配していた今川が弱体化して徳川(や武田)との戦乱の世となって行く中で、
気賀は徳川軍による民衆多数を巻き添えにした大量虐殺(史実上の「堀川城のなで斬り」)の舞台となり、
龍雲丸も自分以外全ての仲間を失う事となる。
ここで瀕死の状態で直虎に助けられた龍雲丸は、同じようにやはり徳川と今川の戦いに巻き込まれて
城も領土も勿論城主としての地位も、更に政次も失って意気消沈して井伊家の再興を諦めた直虎と
「全てを失って自分だけ残ってしまった者同士」の繋がり、悪く言えば傷の舐め合い的な恋愛関係に発展し、
直虎は龍雲丸と共にただの一農婦として生きようとする。
井伊谷の民から元城主として愛され頼られ、彼らと共に生きようとする直虎と違い、
元々井伊谷には何の思い入れもない上に、農作業は行わず一人で炭を焼くだけの生活で
他の農民との繋がりも作れていない龍雲丸は退屈な生活に次第に嫌気が差し、
知り合いの商人から来た、大都市・堺に来て一緒に商売しないかという誘いに乗り気になる。
直虎も迷った末に一緒に堺に行こうとするが、領主時代に井伊谷を豊かにしようと努力して盛り立てようとした結果が
やっと実を結ぼうとしている中で井伊谷から離れる事など出来ない、
家も城も失っても井伊谷の城主である事を捨てる事など出来ない、と言う(恐らく自分では認識し切れていない)本音を
理解していた龍雲丸に井伊谷に残るべきだと説得され、堺に行く事を選んだ龍雲丸と別れる事となる。
ってな展開だったのが最新話の38話。
現代的に言うなら、お互い愛し合ってはいるがお互いキャリア志向もあり、同居ではやりたい事が果たせない、
そしてお互い恋愛の為に仕事を諦められるほど恋愛脳でもないし、相手にそうなる事も望まない故に別れを選ぶカップル、という所か。
因みにこの直虎と龍雲丸の結婚生活、どこか男女逆転した夫婦に見えた。
外で働いて村の実質的なリーダーとして周りから頼られ活躍する妻と、家で働いている引き籠り気味夫、というのが。
(龍雲丸が食事の用意をしている所で直虎が帰ってきた辺り、家事も龍雲丸がしているっぽい。家にいるから当然か?)
そして龍雲丸は、盗賊団の頭をやったり気賀で商売していた頃よりだいぶ鬱屈した姿で描かれている。
それがまるで「夫の馴染みの土地に嫁入りしたはいいが、夫が楽しそうに生活しているのとは対照的に
今までやっていた自分に合う・やりがいある仕事には戻れずつまらない仕事を押し付けられ、
地元民とも馴染めず鬱屈している嫁」に見える。男だし、婿入りした訳でもないけど。
それでも愛する配偶者の為に我慢してる、ってのも「嫁」っぽい。
だから龍雲丸が最終的に直虎の為に井伊谷に残るという選択を取らない(取りたくない)のも、そりゃそうだよな、と思えるし、
直虎が堺に行けば今度は直虎がそういう生活になるだけだろう、と言う予測もついて
この二人が別れるのは致し方ないという気分にさせられる。
愛さえあれば一緒に幸せに生きていけるわけではないよね、と言う嫌なリアリティがここにもある。
現代日本でも、片や日本片や海外で仕事したいとか、相手が転勤族だけど仕事辞めてついて行きたくないとかで
別れるカップルというのは多いんじゃなかろうか。
或いはその時に相手に合わせて自分の仕事ややりたい事を諦めて、鬱屈した人生歩んでる人も。
まとめると、
・女の人生の事など考えず、これまでの人生捨てて俺と結婚して子供産んでよとか言い出す男は要注意
・女が仕事(キャリア)を優先しようとすると結婚できない、男が結婚したい女は「家庭的な女」である
・結婚しても夫も妻も両方とも自分がやりたい仕事優先だと結婚生活は続けられない
・妻がやりたい事やって夫がそれに合わせる、という生活は夫の方が鬱屈生活になる
9か月かけて女主人公と仕事、更に三人の男との関わりを書いて結論がこれかよ!という。
勿論これは時代劇であって現代日本とは置かれている前提が違うんだけど、明らかに現代にも通じるように描いてる。
直虎が、キャリア至上主義で男も結婚も要らない!と言うキャラでもなければ
そこまで仕事が出来るキャラでもない(これで城主としての能力は超優秀ってならともかく、実績はそこそこ成果は挙げてるもののそこまでではない)
かと言って仕事なんかどうでもいいだろどうせ出来ないんだしレベルな無能でもなければ
恋愛至上主義で愛さえあれば仕事なんかどうでもいいの!というキャラでもない、って所もリアルだ。
恋も仕事も両方欲しくても、実際に女が両方手に入れるのはどれだけ大変な事か。
(今後井伊家が再興され徳川家の重臣まで上り詰めるのは、あくまで直虎の子供ポジの直政の実績であって直虎の実績じゃないし、
これまでの現実的な描き方から言って「直政が成功したのはぜーんぶ直虎のおかげ」と言う都合良い展開にはならなそう。
というか今更そんな展開になったら萎えるわ)って所で落ち着くであろう事も史実が物語っている。
うん、大多数の女の人生ってそんなもんだよね。
井伊谷を豊かにしたってのだけでも、史実からしたら盛ってるんだろうし。
こういう所もスイーツ大河ではなくハバネロ大河と言われる所以なんだろうな、と思いつつ、
そりゃ視聴率上がらんわ、明らかに女性向けに描かれてるのに日曜8時にこんな嫌な現実見たくない女性も多いだろ、とも。
最近流行るドラマって、半沢直樹とかドクターXのような正義の主人公が俺TUEEEEEでスカッと系か、
逃げ恥のような明るく楽しいラブコメで仕事も結婚もゲット!か、だし。
俺はまったく強くなく支配国のご機嫌伺いしながらの地味展開と人死にまくりの鬱展開の繰り返しで、女主人公は恋も手に入らず仕事も微妙…
どこが面白いんだよと言われそうだけど、面白いんだよ。別に恋愛だけ描いてるわけでもないし(そちらの比重は割と少なめ)
なので見てない人いたら(見てないのにこんな長文読んでる有り難い人がいたらだけど)NHKオンデマンドで見てー。
月額972円で最新2話分以外は全部見放題だからさー。それで他の大河も朝ドラもNHKスペシャルもその他NHK番組も色々見れるよ!
今後は直虎と直政の(義理の)親子関係が主軸なようだけど、やはりリアリティ溢れる反抗期の息子の子育ての悩み路線になるんだろうか。
「“恋ダンス”動画削除を」 星野源が所属するレコード会社が要請、9月以降は削除手続き
一世を風靡したドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」のEDテーマ「恋」を使用した恋ダンス動画が削除されるらしい。
日本人のみならずアメリカ大使館職員も動画投稿する程流行っていて、正に大ブーム!という感じだったけれども、どうやらドラマ放映期間だけビクターが「見逃して」いてくれただけで、ドラマが終わって約1年経った今、著作権を理由に動画の削除要請を行っていくとの事。
今回の騒動を見て、私が学生時代に感じた海外における日本ドラマ・アジアドラマ(特に韓国)の普及の仕方と著作権の問題についてちょっと述べさせてほしい。
小学3年生~高校卒業まで某東南アジアのインターナショナルスクールに通っていた。
住んでいたのはいわゆる発展途上国だったけれども、インターという事で生徒のほとんどが先進国出身、または発展途上国のエリート一家だった。(物価が安かったのでそこまで裕福でなくても先進国出身ならなんとかインターに通えた)一歩外に出ると発展途上国の一般的な人が通う市場なんかにも足を運べる環境。大学3年生でアメリカに交換留学もして、まあインター通っていたので英語は特に問題もなく現地の友達もでき、友達の国籍のばらつきとか考えて多分(欧米とかアジアだけに偏りすぎてはない目で)日本ドラマ愛好家について少しは語れると思う。
ただ、私はエンタメ関係の仕事をしている訳でもないし、著作権の専門家でもない。
インターに通っていたのだって10年程前。アメリカも4年前で今とは事情も違うかもしれないし、あくまで「学生だった頃の私」が感じた「海外から見たクールジャパンおよびアジアエンタメ」でしかない事は了承してほしい。あとネットでお隣の国の話題だすと荒れそうだけど、どっちが優れてる・劣ってるじゃなくて、お互い見習うとこあるよねって感じだって事を先に言っておきたいし、人種差別的なコメントをする人に対しては一切反応しません。(実際、韓国エンタメも面白いしね。最近だとコクソンよかったよ)
海外で日本のドラマを観る人って私から見ると3種類タイプがいて
①漫画・アニメが好きなのでその延長線で日本のドラマも観る
②アジア系なので、流行っている海外ドラマ(=欧米ドラマ)にイマイチ親近感を覚えられず同じアジア系のドラマとして日本ドラマに行きつく
③母国・海外問わず色んなドラマを観る
ここから見てわかる通り、入り口がアニメでもない限り海外の日本ドラマ愛好家って韓国ドラマのファン層と被っている。(詳しくない人以外だと東アジアひとくくり。日本人が白人を見て「アメリカ人!」っていうのと同じような感じ。)
そして、こういう人達がどこからアジア系ドラマに接触するかって言うとほとんどが違法DL、または違法DVD屋さん。
私の家の近くには違法DVDを売っている屋台があって、様々な国のドラマ・映画DVDが売っていた。特に買っていたわけでもないけれども近所のスーパーに向かう近道沿いだったのでたまに近くを通る。
某国に行ったすぐの頃はまだ日本のエンタメ産業に力があったので、面白いアジア系ドラマ=ジャパニーズみたいな認識だった。東アジア系ルックスである私達家族が屋台を通ると必ず「Japanese Dorama!」(日本人にもわかりやすいようにドラマを日本語発音してくれる笑)と声がかかる。
慣れてる店員さんだと日本人韓国人見分けて韓国人にはコリアンを勧めていたけれども基本はジャパニーズ。中韓のお客さんも日本のドラマが嫌いな人は少なかったし(少なくとも海外に出て来れるような教育レベルだと反日の人は少ない)、面白いから勧めておいて損はないだろ、的な感じ。この頃の日本ドラマだとフードファイトとかごくせんとか人気だったかな。あと古いけど中国系に東京ラブストーリーは鉄板だった。
(中華系は見分けるの難しかったみたいだったけど。そもそも北京語・広東語聞き分けるのが素人には難しいし、北京語話してたからと中国ドラマを勧めてみたら台湾人で機嫌を概してしまったとか、そもそも現地に馴染んだ華僑なので中華系ドラマに興味がないって人もいたので)
ところが一時期からこうしたお店でJapanese Doramaを勧められる事が一切なくなってしまう。時期としては多分冬のソナタがでてきた数年後くらいだったと思う。
別にその頃から急に日本ドラマの質が下がったとかじゃない。(冬のソナタ以降韓国ドラマの質が上がったっていうのはあると思うけど)
理由は明快で、その頃から日本のドラマのDVDの規制が激しくなって、DVDに焼くのが難しくなったから。
結果DVD屋さんのメイン商材は韓国ドラマ中心となっていった。
アジア系ドラマ観てみたいけど何から観ればいいのかわからないって人は、そういったDVD屋さんに行って店員さんにお勧めを聞くんだよね。
店員さんも商売なので持っている商品の中から勧めるしかない。ドラマを気にいってくれた人がいたらじゃあ同じ俳優さんがでてるこのドラマは…とか同じ雰囲気のドラマだったらこんなのもあるよって。
あるもの勝負なので売れるのは韓国ドラマ。人間やっぱり長く観てると愛着が湧いたりなじんできたリする訳で、普段から韓国ドラマを観てる人間はやっぱり日本のドラマよりもそっちを選んじゃう傾向がある。こうした人達が周りの友人に勧めて口コミで広がる。日本のドラマが売っていないので日本人及び純粋な日本ドラマファンはこうした屋台に行かなくなってさらに韓国ドラマが増えていく、というループ。
アジア系ドラマ専門の人以外も例えばハリウッド映画のDVDを探しに行ったらたまたま面白そうだったし(違法なので)安いからという理由で日本ドラマを観る機会がなくなっていく。
で、これって同じ現象がインターネットの違法DLでも起きていて。同時期から日本のドラマを追いかけるにはものすごい苦労をして違法UPされた動画に辿りつかなきゃいけなくなっていたらしい。私は運よく親戚がDVD録画したものを日本から送ってきたりしてくれていたが、そういうツテがなく、日本語ができない人は日本で放送された直後にファンが字幕を付け、数時間でそれが消される前に観るしかない。
そこまでして日本のドラマを観るか?ってなるとじゃあ韓国ドラマでいいやってなってしまう。特にさっき言った日本ドラマを観ている人間のタイプのうち②の人なんかは日本ドラマが好き!という訳でもなくアジア系ドラマで面白いのを探しているだけなので、探しやすい韓国のを…となる。
著作権的にどうなんだ?!って声がかかるのもわかるし、個人的に今オタクをやっていてブルーレイとか買っている私から見ても違法視聴は許されないと思う。
ただ実際、口コミでってマニアから始まるので、例え違法であっても露出が多いのって確かに有利だ。
こんな話がある。
私が学生の頃、涼宮ハルヒの憂鬱がインターのオタク仲間の間で流行っていた。確かその頃京都アニメーションかどこかの人が「海外でも受け入れられるとは思っていなかった」という旨の発言をしていたのを覚えている。萌えアニメが海外で流行った事はあまりなかったし、そもそも話の順を入れ替えて放送するっていうのも最初から原作ファンのみを狙い撃ちしていたかららしい。それが爆発的にヒットしたのは、その頃台頭してきたYoutubeでEDダンスが拡散され、オタク達がそれを真似た動画やパロった自作MADが話題になったから。(恋ダンスみたいだね!)今や海外のアニメファンの間でもKyo-aniって言えば通じる程のブランド力を持っているけれども、結局入口は(少なくとも私の周りでは)ネットでの違法視聴だったと思う。
今回の恋ダンス削除騒動を受けて高校までのインター生活+大学でのアメリカ留学で感じた「とにかく露出を増やす!」っていう点がやっぱり日本は遅れてるのかもしれないなって思ってしまった。The Melancholy of Suzumiya Haruhiみたいに恋ダンス経由で逃げ恥を知って、日本のドラマを観始める人だっているのになって。ビクターの言い分もわかるんだけど。
もちろん日本のエンタメ産業の人だってただ手をこまねいていただけではない。今はCrunchyrollで合法にアニメ配信をしたり民放も一週間以内だったらネットで番組が視聴できるようにしてたりする。でも結局その波に乗るのは韓国の方が上手かったかなって感じ。
アニメ除くと民法ドラマ・バラエティに英語字幕はついていないし、民放のネット配信って海外からだとアクセスできない事も多い。(韓国はArirangっていう英語字幕つきのケーブル番組とかある)
因みにアイドルとかでも同じ現象が起こっていて、アメリカで出会ったK-POPファンの友達は「昔はJ-POPを聞いていたけれどもYoutubeでフルであげてくれるとこが少なくてK-POPに移った。」と言っていた。今ほとんどの韓国アイドルが新曲をフルでネットにあげてるんだね…確認すると日本だとハロプロくらいかな…?LDHは日本の事務所の中ではかなり海外に目を向けてる感じはするけれどもやっぱりShort ver.しか上げていないし、坂道はMV集出してからShort ver.のみ。ジャニーズは基本的に全てアウト。例外的にAKBはフルで上げてるのもあるけど、あれは握手会ありきなのでカウントはしない方がいいのかもしれない。
あと、先に行っておくけどネットとか特にツイッターとかだと絵師の間で「欧米では文化にお金を払う土壌ができている!」みたいな事聞くけど、正直一般の人は正直そんな事全然ないよ。ちょっと前にイタリアのケーキ屋が「インスタで宣伝してやるからケーキを無料でよこせ!って客には何もだしません!」って表明して話題になってたの覚えてる方もいると思う。
個人レベルでも某アニメのDVDボックス欲しいっていうのに「え?ネットでただで観れるのに?」って返してきたの何人も欧米人いるからね。
実際にそれを仕事にしている人や趣味で漫画を描くような人だとその感覚理解してくれるけど、趣味で絵を描く(例えば同人誌を描くとか)ってのが割とアジア系に多いので日本人の他だと確率的に台湾・韓国人が多いかなって気はするけど。
何度も言うけど別に日本のエンタメコンテンツが弱いわけではない。「逃げ恥」始め今だって素晴らしいドラマ・映画が生み出され続けている。
中国人の友人は「日本ドラマ・映画の静かな感じはなかなか他の国ではだせない」と言ってるし、国内外問わず一番好きな映画は「桐島、部活やめるってよ」
アメリカ人の友人は「おくりびと」を絶賛していたし、フィリピン人の友人は「ホタルノヒカリ」の大ファンで一番好きな日本語は「ブチョー」。
でもこの人達って日本のエンタメ産業が強かった頃の日本のドラマを観て育っているからJapanese Doramaを観るという習慣ができている人々。上述した日本ドラマをよく見る外国人の中で②③の内、日本ドラマは面白いと知っているから、その中から自発的に面白いものお探してみようとした人々だ。で、入り口は違法視聴でもファンになった人達はきちんと公式のDVDなりサントラなりをネット販売を通じて買っている。
日本エンタメの露出が減っている中で、これから次の世代の日本ドラマファンをどう増やしていくのかってのはすごく問題になっていくと思う。この人達の何割かは母国のテレビ業界に入ってアジア系ドラマのバイヤーをするかもしれないし、Japanese Doramaを見ていた人なら放映権を買ってくれるかもしれない。
じゃあ①のアニメから入って日本ドラマも観るようになった人は?それはしばらく安泰なのではってなるけれども、冬のソナタ~今の韓国ドラマのレベルの上がり方を見てると、正直漫画なんかも追いつかれるんじゃないかなって思ってるんだよね。特に「紙の」漫画がどうしても重宝されがちな日本に対して、韓国漫画はWEBで攻めているという話も聞いた事あるし、割と面白いのもある。欧米人ってオタクとかエンタメ産業の人以外ネットで言われてる程文化にお金払わない。そうするとやっぱりただで読めるWEB漫画は強い。日本の漫画も最近はWEBで配信してるけど、それが「公式で」英語に訳されているか…もしないのならば非公式で訳されたものが黙認されているかってのはある。
どっちがいい悪いじゃなくて、お互い見習うところがあると思う。ただ、よく言われている事だけれども日本って宣伝が弱すぎるし、COOL JAPANとかいう前に、正直もう少しネットとかでの宣伝方法とか考えた方がいいんじゃないのかな。
終わり。
ちょっと聞きたいんだけど、みんなは「恋」と「性欲」って分けて考えてる? それとも同じものだと思ってる?
俺は30代既婚だが、会社に少し気になる女性がいる。仲が良いとか、遊びに行くとかそういうものじゃなく、普通に仕事上やりとりするだけの関係だ。不適切なことは何一つない。
例えば10代の頃だったらこの感情を「恋」だと思っていたと思う。あの子のことを思うと切なくて苦しい感情。
だけどこの年になると、この感情が単なる性欲に根差す感情で、切なさや苦しさも「自分は相手を欲しいと思っているのに、相手はそうは思っていない」という非対称性に苦しさを覚えているだけのこと、と分析できてしまう。俺ももう大人だから「性欲」を発散すること自体は難しいわけじゃない。
こんな風に考えると、この世に美しい「恋」なんてないよな。
まぁ別に不倫したいわけじゃないし、そこまでモテもしないから心配いらないんだけどさ。自分のことですらこんな風に考えてしまうから、テレビで垂れ流されてる愛だ恋だのドラマなんて下らなくてしょうがないし、経験の足りないキッズならともかく、いい年して愛だ恋だ言ってる奴はバカとしか思えない。
「愛」はわかるよ。配偶者を大切に思う気持ちや守りたいと思う気持ち。でもそれは性欲に根差す「恋」とは別の感情で、基本的にその二つは無関係だと思うんだよね。「恋」が続いて「愛」に変化することはあると思うけど、別に「恋」を経ない「愛」もたくさんあると思うし、「愛」にならない「恋」だってたくさんある。
誰かわかる奴がいたら教えてくれないか。「性欲」という言葉では説明できない種類の「恋」という素晴らしい感情や関係性が、この世にはあるのだろうか。
今日はちゃんと外に出た。恐らく36度あまりの炎天下の中、一時間ほど歩いてきた。
正直ちょっとだけきつかった。階段をのぼると、少しだけ筋肉痛になっていて、日ごろの運動不足が深刻な度合いに達しているような気がした。
スクワット、腕立て、背筋、できれば腹筋を鍛えるトレーニングをしたい。
一時間ほど炎天下の中を歩いた後は、適当にテレビを見て、その後は久々にギターを弾いた。
星野源の「恋」のコードもかなり覚えてきた。イントロ、Aメロ、サビが手元を見なくてもほぼ完ぺきに弾けるようになってきた。
ギターを弾いた後は、夕ご飯を食べ、自作小説を数行ほど書いた。
その後、入浴を間に挟みながら民俗学の本を読んだ。今回は地名の本と遠野地方のわらべ歌の本をそれぞれ30ページずつ読んだ。
メンタルの方も、徐々に復調しつつある気がする。明後日は心療内科だ。
就職の方も気になるが、とにかく何とか前向きに生きられるようになることを祈るばかり。
今日はちゃんと外に出た。恐らく36度あまりの炎天下の中、一時間ほど歩いてきた。
正直ちょっとだけきつかった。階段をのぼると、少しだけ筋肉痛になっていて、日ごろの運動不足が深刻な度合いに達しているような気がした。
スクワット、腕立て、背筋、できれば腹筋を鍛えるトレーニングをしたい。
一時間ほど炎天下の中を歩いた後は、適当にテレビを見て、その後は久々にギターを弾いた。
星野源の「恋」のコードもかなり覚えてきた。イントロ、Aメロ、サビが手元を見なくてもほぼ完ぺきに弾けるようになってきた。
ギターを弾いた後は、夕ご飯を食べ、自作小説を数行ほど書いた。
その後、入浴を間に挟みながら民俗学の本を読んだ。今回は地名の本と遠野地方のわらべ歌の本をそれぞれ30ページずつ読んだ。
メンタルの方も、徐々に復調しつつある気がする。明後日は心療内科だ。
就職の方も気になるが、とにかく何とか前向きに生きられるようになることを祈るばかり。
今日はちゃんと外に出た。恐らく36度あまりの炎天下の中、一時間ほど歩いてきた。
正直ちょっとだけきつかった。階段をのぼると、少しだけ筋肉痛になっていて、日ごろの運動不足が深刻な度合いに達しているような気がした。
スクワット、腕立て、背筋、できれば腹筋を鍛えるトレーニングをしたい。
一時間ほど炎天下の中を歩いた後は、適当にテレビを見て、その後は久々にギターを弾いた。
星野源の「恋」のコードもかなり覚えてきた。イントロ、Aメロ、サビが手元を見なくてもほぼ完ぺきに弾けるようになってきた。
ギターを弾いた後は、夕ご飯を食べ、自作小説を数行ほど書いた。
その後、入浴を間に挟みながら民俗学の本を読んだ。今回は地名の本と遠野地方のわらべ歌の本をそれぞれ30ページずつ読んだ。
メンタルの方も、徐々に復調しつつある気がする。明後日は心療内科だ。
就職の方も気になるが、とにかく何とか前向きに生きられるようになることを祈るばかり。
ほぼひきこもりのような身分の俺氏、今日も無為に過ごしてしまう。
ただこのままだと本当に何もしないまま一日を終えてしまいそうなので、今日だけは匿名ダイアリーで日記を書いておくことにする。
今日食事とうたた寝以外でやったことといえば、ゲームとギターを弾くの二つだけ。ああ、でもサッカーもテレビで観たな。
あ、でも布団も干したっけな。
●ゲームの話
ゲームはウイイレを少々。一回やると数時間はやってしまうのがこのウイイレの悪いところ。
でも、ゴールするのが正直楽しすぎて、中毒になってしまっている自分がいる。ほんと、ウイイレは楽しい。でも中毒性が高すぎるっぴ!
●ギターの話
で、さすがに今日もゲーム三昧っていうのはまずいだろうと思ったから、今日はギターを弾いてみたわけ。
星野源の「恋」のコードを弾いてみた。だいぶ前からちょこちょこ合間をぬって練習してるからかなりコードも覚えたけれど、あともう少し。
というか「恋」も弾けるにつれてそろそろ飽きてきたので、また他の課題になりそうな難易度の曲を探してこないといけないなぁと。
●サッカーの話
テレビでのサッカー観戦は、浦和レッズと大宮アルディージャの試合を観た。
シルバーコレクターとなり幾度もリーグタイトルを逃してきた事と今期の不調もあいまって、遂にペドロヴィッチ監督が解任され、
レッズのチーム内のコーチが監督に内部昇格し、新体制を築いている浦和レッズ。
その浦和レッズをホームで向かえ撃つのは、現在残留争い中の大宮アルディージャ。
浦和レッズと大宮アルディージャの試合は、浦和と大宮という二つのホームタウンの関係性から、「さいたまダービー」と言われてるらしい。
(ダービーと言われるほど殺伐としているかどうかは別として…)
それでまあ、テレビをつけていたらなんとなく浦和レッズと大宮アルディージャの試合が放送されていたので、
(ちなみに浦和レッズも大宮アルディージャも俺の応援しているチームじゃない。俺が応援しているチームはガンバ大阪だ)
それで試合を観てみた。試合展開としては、まさかの浦和優勢ときた。
「浦和レッズ、正直もう駄目だろうな…来期はJ2だな…」と思いながら浦和レッズをみていた俺としては、正直驚いた。
今日の試合を通してみても、ペドロヴィッチ監督の時代に培われたポゼッションサッカーは鳴りを潜め、
浦和レッズは「守備硬め&カウンター重視&上手い選手でゴリ押し」というほんとーーーによくあるJ1のチームに変貌していた。
あれだけ補強を繰り返しておきながら、そしてあれだけの選手層を持っていながらそれらの強みを何ら活かすことが
できていなかったペドロヴィッチ監督時代とはうってかわってのサッカースタイルに変化した浦和レッズ。
関根や菊池、武藤といったアタッカー、そしてなんといってもあの恐ろしいズラタンというストライカーが躍動しつつあった
今日の浦和レッズのサッカーは、その精度を高めれば恐らく余裕でJ1を連覇していてもおかしくないほどだ。
はっきり言って、浦和レッズが普通のJ1のチームのサッカーをやっていると、本当に最強だと思う。勝てるチームがないと思う。
そして後半スタート。後半、アルディージャに1点返されるも、すぐに得点を奪い、スコアを2-1と盤石なものにした浦和レッズ。
試合運びも堅実そのもので、1点差を守り切ったうえで、GK西川の正確なロングフィードという飛び道具を上手く使いながら
あわよくば3点目を狙いにいくという指針を浦和レッズは後半の半ばあたりから打ち出した。
手堅い、手堅いぜ。あのあたふたしていた浦和レッズはどうしちゃったんだよ。完全に横綱相撲やっちゃってるじゃねーかよ、と。
どうすんだよ、手堅い浦和レッズという恐ろしいことになっちゃう片鱗を今日の試合を見せちゃってるよ…と戦々恐々だったが、
それも杞憂に終わった。杞憂というよりは、今回ばかりは不運であったということか。
残留争いに追われている大宮アルディージャが、後半フィジカルゴリゴリサッカーに切り替えた結果、
やっぱり残留争いに巻き込まれているチームは、気合が違うらしい。
気合と運で2-2。2-2のままでゲームは終了し、浦和レッズとしては痛恨のドローとなった。
なにせ相手は残留がかかる相手で、かつ大宮だ。その大宮に新監督の体制のもと勝利するというのは、
いささかハードなミッションであったと思う。なので遂行できなくて仕方がない部分もあると思う。
レッズは、これからも今日のようなサッカーを続けていけば、きっと今シーズンもJリーグの優勝争いに
絡んでくる可能性は十分あると思う。
それとレッズ、ポルトガルの1部リーグからスタメンだったセンターバックを補強してくるんだっけ?
なんじゃそりゃ、強すぎんだろーと。どこまで強くなるつもりなんだ、浦和レッズよ。
ただ、やっぱり気持ちの面で少し甘いところがあったのかなと思うので、その部分は次回に向けて要修正だと思いましたね、
今日はこの後小説ちょろっと書いて布団をしいたら1時30分過ぎまでには寝ようと思う。
(合計2180字)
おっさんが女を装って書いた文は大抵、
●おっさんが女に言わせたい言葉(おっぱい、下着等主にエロを匂わせるネタ)
●おっさん特有のステロタイプな女のライフスタイル・自意識(東京の地名、ルミネ、パック等、というかこの文全体がそれなのだが)
●おっさん臭い言葉(「恋」「肥やし」「妙齢」「気分は花が咲き」等)
ですぐ分かる。
(「ルミネのエスカレーターを何往復も上下しながら、」の気持ち悪さ理解できるかな…)
まあ今回はわざとらしすぎるのであえて隠してないのだろうけど。
感覚的に難しいのだけど、この辺直せばもう少し自然に読んで気持ち悪くない作文ができると思うのでがんばってください。
あとこれ東京じゃなくて船橋とか宇都宮とか適当な都市にしとけば地名のリアリティと内容のわざとらしいおっさん臭さがスパークしてかなり面白かった気もする。