名前を隠して楽しく日記。
男は女を力づくでレイプできる
愛子が生まれた時なんか日本中が「なんだ女か」ってすごいがっかりムードに包まれてテレビでずっと「いかに女に価値はなく跡継ぎにふさわしくないか」を識者たちが語っていたものだ
俺もブクマコメントはしないし、スター集めるために毎度毎度コメントしてるブクマカは見下してる。
読み切り漫画を強い口調でこき下ろしてるやつとかマジで醜悪だと思う。何が楽しいんだろうね。
そのくせ、「俺たちはXの連中や5ちゃんの連中よりはマシ」とか思ってるらしいのがマジで謎。
一番衝撃だったのは「はてなブックマークでどや顔でコメントしてる連中って気持ち悪いよね」みたいな記事が上がって来たときにそこのコメント欄でも噴きあがってた時。
私はあの「ジェンダーリビール」という、胎児の性別を、風船やらケーキやらでお披露目する文化が苦手だ。それに、ジェンダーリビールでピンクや水色の紙吹雪がふわふわと舞っているのをみると「この時代にまだジェンダーステレオタイプの再生産をやるのか」とげんなりする。私は子どもを産んだことがないのでここからは想像になるが、きっと親たちは生まれてくる子供のことならなんでも知りたい。
どんな瞳なのか、どんな声で泣くのか、どんな顔で笑うのか。それは出産するまではまだわからない。出産前に知れる数少ない情報のなかに"性別"があるだけ。
だから性別がわかったときに「これから仲間になる家族の大切な情報だ」と嬉しい気持ちになるのだろう。その嬉しい気持ちを増幅させるためにサプライズという仕掛けを挟むのもわかる。
だけど"◯◯=男の子、◯◯=女の子"のイコールの部分をぶっ壊してやろう!という気概が足りないこの世の中で、性別の発表に心を躍らせるというのは、やはり"その性別ならでは"の期待をかけて育てたいということなんじゃないかと思ってしまう。
最近では「性別にとらわれずに自由に生きればいい」といったようなメッセージが溢れているけど、案外そういうメッセージを発信する側は、ジェンダーステレオタイプを否定しない。たとえば青色や車のおもちゃが好きな女児がいたとして、その女児に「あなたは青色や車のおもちゃが好きなのね!ってことは男の子になりたいのね!男の子として生きてもいいわよ!」というのは、男の子=青色・車のおもちゃという価値観の刷り込みにしかならない。
私が望む多様性というのは「青色は素敵だし、車のおもちゃは楽しいもんね」と女児の感性をそのままに受け止めることだ。
もちろん身体的な性差はあるし、子育てしている人の体験談を読むと、男児と女児で発達に差があるという声も多い。何から何まで「性別なんて関係ない」と叫ぶつもりはない。
だって、成長につれて嫌でも性別というものを自覚させられる。第二次性徴では自分ではコントロールできないままに体は変化していく。
社会人になってからもジェンダー規範を押し付けられて苦しい瞬間がきっとある。
そんななか、自分の両親が、自分が生まれたときに、自分の性別がどちらなんだとワクワクしていたという事実が、写真やビデオとして残るのはけっこう酷だなと思う。
アフリカ旅で周ってたことあるけど、どんな国行っても英語が通じないなんてことない
それがお前らよりも圧倒的に英語話せる
お前ら大学まで出ておきながら、英語の初歩の初歩にブクマ付けて喜んでるだけ