http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20090226#p1
不幸にもまた目撃したあるブログでの話だが、原田さんたちの新刊『世界経済同時危機―グローバル不況の実態と行方』の内容が間違って紹介されていた。
世界経済同時危機の背景には、新興国や日本とかの過剰貯蓄を、米国が吸収したというグローバル・インバランスの存在がある(とそのブログでは書いてあるが)、なんてことは原田さんの主張には基本的に関係ない。むしろグローバル・インバランスが危機の原因の説明としては正しくない、というのが原田さんの主張であり、まさにまったく正反対!
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/1b94f612486b80ee6bfc0d14a7d63364
補足 (池田信夫)
2009-02-26 17:14:37
田中秀臣氏は、日本語が読めないのかな。p.20に「世界[的]貯蓄過剰が生み出すアメリカの低金利」という見出しがあるんだけど。
しいて原田氏とわれわれの違いをいうと、彼は「グローバル・インバランスは必ずしも悪くない」という立場です。これはわれわれも、原則論としては同意します。インバランスが永遠に維持可能であれば、そのぶん世界のGDPが嵩上げされるので、結構なことです。しかし今回の危機は、それが維持可能じゃないことを示したのだから、原田氏の原則論はちょっとおかしいし、後半の「日本は内需主導に」という話とも辻褄が合わない。
もう一つは、世界的な低金利の原因は貯蓄過剰ではなくインフレ率の低下で、実質金利はそれほど下がっていないという話です。これはなるほどと思うけど、原田氏も認めるように中央銀行も含めて名目金利を見て取引しているので、単なる偶然の一致かもしれない。さらにいえば、世界的なインフレ率の低下の原因は新興国の台頭による相対価格の変化なので、「新興国によるグローバル化が低金利の原因だ」という結論は間違っていない。
また「日銀はもっと果敢に金融緩和せよ」という話も随所に出てくるけど、FRBが「果敢」にやった金融緩和がこういう悲惨な結果をもたらしたことを原田氏がきびしく指弾しているのと比較すると、ダブルスタンダードの印象はまぬがれない。
小国:労働者一人当たりでワイン2単位、または毛織物4単位生産できるとする。
大国:労働者一人当たりでワイン10単位、または毛織物30単位生産できるとする。
小国はどちらの商品生産においても大国より生産性が低いということになる。いいかえれば、大国は小国よりも毛織物およびワインの生産性が高いため絶対優位となる。では小国は大国に対してどちらも競争力がないのであろうか。答えはノーである。小国はワイン生産において比較優位なのである。なぜかというと、小国ではワイン1単位と毛織物2単位が等価、大国はワイン1単位と毛織物3単位が等価であるからだ。つまり、小国のほうがワインを割安に作れるのである。
比較優位とは、国内における他の財との生産費の比によるものであり、「他国との差」ではない。よく使われるたとえでいえば「アインシュタインが秘書よりタイピングがうまくても、彼がタイプしてはいけない」のだ。輸出競争力を決めるのは、(藤本氏の混同している)絶対優位ではなく比較優位だから、中国のように生産性の低い国が日本に輸出できるわけだ。
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/266531b9b5a85f5bac001c2a96fff300
日本経済新聞 2009.2.11 大機小機
米国を震源とする金融経済危機が急速に世界のあらゆる国々を襲っている。
最初は米国のサブプライムローン証券化商品の値下がりによる金融機関の巨額損失問題として軽く考えていたが、欧米の金融機関の自己資本不足から急激な信用収縮が起こり、金融市場の機能が麻痺して深刻な経済危機へと発展したのである。
米国が膨大な物資を輸入し、貿易赤字を垂れ流して世界経済を引っ張ってきた二十世紀型の成長モデルは見直さざるを得ないであろう。一方、基軸通貨の米国は冷戦構造の崩壊による資本主義経済の爆発的広がりを受けて始まったグローバルな経済成長に対し巨額な経常収支の赤字を通じて成長通貨ドルを世界に供給してきた。
結果的に米国は世界の中央銀行としての役割を果たしてきたわけで、冷戦終了後の旧共産圏の国々やそれに続く発展途上国の経済が順調に離陸し、再び共産主義や全体主義に戻る国がほとんど出なかったことにつながった。そうでなければ、世界中に北朝鮮やキューバのような国が今も多く存在していたかもしれないのである。
もちろん、本来、住宅を買う能力のない人にまで持ち家を買わせるサブプライムローンや、値上がりした住宅を担保に追加貸し出しを行って過剰消費をさせるホームエクイティローンなど、バブルをあおるような金融機関の経営は変わらざるを得ない。当然、米国人のライフスタイルも収入以上に消費する貯蓄率マイナスの生活から、収入の範囲で消費する貯蓄率プラスの生活へと変わるであろう。
そうなると、米国の経常収支の赤字は大きく減少するが、同時に世界経済の成長は大きく減速し、日本や中国をはじめ、対米輸出依存度の大きい国の経済は大きな打撃をうける。世界の総需要はいったん縮小したら、経済危機を克服した後も危機前の水準へすんなり戻るのは難しい。企業経営者も劇的に落ちた需要が元に戻ることを前提に経営する事は出来ない。
米ドル以外に世界通貨としての役割を果たすことのできる通貨が見当たらないなか、米国が節度ある国際収支国になったら一体誰が世界経済の成長のために成長通貨を供給するかと言う深刻な問題も頭に入れておくべきである。
数年たったら猛烈なドル不足時代を迎えてドル高が進んでいるという可能性もあるのである。
(枯山水)
クルーグマンが金融政策がきかないといっているとしている。しかしソース読めばわかるようにと80年代にやったような金融政策はゼロ金利なので無効っていってるだけ。スティグリッツの話もインフレが「輸入」されているから、インフレ管理としてのインフレターゲットには意味がないといっているだけ。どちらも景気対策としてのインタゲについては言及していない。
インフレターゲットは導入すべきでない
多くの国の中央銀行が導入しているインフレターゲットを日本も導入するべきだという声が一部にはある。
中央銀行制度は宗教のようなものだ。ほとんどの国の中央銀行が熱烈に報じているいくつかの信条があり、
彼らはそれを確信を持って唱え、その論理の進め方にはまるで判で押したような画一化が見られる。
しかもこれらの信条には往々にして、それを裏付ける科学的証拠がほとんどないのである。そのため、
彼らのご託宣はえてして間違っており、彼らの政策は予想された結果や望ましい結果をもたらさないことが多い。
クルーグマン「良い経済学 悪い経済学」p53(日経ビジネス人文庫)
経済の概念に対する誤解がいくつもある。たとえば、世界市場で競争している産業の生産性は、貿易の対象にならないサービス産業の生産性よりはるかに重要だとプレストウィッツは主張している。輸出産業の賃金によって、経済全体の賃金水準が決まるのがその理由だという。たとえば、アメリカは第三世界に比べて、製造業労働者の生産性がはるかに高いので、アメリカの理容師も、生産性の面でそこまで優位に立ってるわけではないが、高賃金を得られるという。
先進国の床屋が途上国の床屋より何倍も稼ぐのは、先進国の世界市場で競争してる製造業が生産性を大幅に押し上げ、それがさほど生産的でもない床屋に、ずっと高い賃金水準をもたらす、と言うのは誤解か。
この誤解って、一向になくならないよな。
マクロ経済学って、難しいね。
しかし、プレストウィッツは、逆の関係も成り立つことに気が付いていない。サービス業の生産性は、製造業労働者の実質賃金に影響をあたえているのだ。アメリカの製造業の生産性は高いが、理髪業の生産性はそれほど高くないため、高賃金の理容師がはたらくアメリカの理髪店では、第三世界の理髪店に比べて、散髪代がはるかに高くなっている。この結果アメリカの製造業労働者の実質賃金(つまり散髪も含めて、どれだけの財とサービスを購入できるかという基準で見た賃金)はアメリカの理髪業の生産性がもっと高かった場合より低く抑えられる。注意深く考えていけば、実質賃金は経済全体の生産性によって決まることが分かるはずだ。製造業の生産性、あるいは貿易の対象になる産業全体の生産性を特別に扱って、他の産業の生産性以上に注目すべきだとも、支援策をとるべきだとも言えないはずである。
持つ投資家がすべて間違っているというに等しい
バブルとわかってても参加するよ。ババを引きさえしなきゃ大儲けだもん。
ああ、そうか、そう考えればいいのか
それぞれの投資家はそう考えるよなあ
経済が成長しているさなかに、どこまでが「生産性の向上」で、どこからが「バブル」なのか、見極めるのは難しい。効果的なバブル予防策を説く経済理論も確立されておらず、FRB流の「後始末論」には、依然として根強い支持がある。
だが、山口や白川に共通するのは、バブルの判定がなかなか難しいことは承知で「何かできることを模索すべき」という考え方だ。バブルが起きていると確信したら早めに金利を引き上げる、危険な兆候の段階でも記者会見などで世論に注意を促す、といったことも含まれる。
しかし、バブルが起こるのは、人々が過剰なまでの自信を持つからにほかならない。バブルの結末は悲惨でも、その渦中にある人はバブルを謳歌しがちだ。中央銀行が、世論に逆らってでも行動する覚悟がないと、結局、バブルは防げない。
「パーティーが盛り上がっている時に、パンチボールを片付けるのがFRBの仕事」と言ったのは、元FRB議長のウィリアム・マーチンだった。
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20090103-OYT1T00071.htm
一方、バーナンキ議長の率いる米連邦準備制度理事会(FRB)は、慣例にとらわれない融資や資産買い取りを進め、08年12月にはゼロ金利政策に踏み切った。私はこれを支持するし、FRBは現実を正しく認識していると思う。
つまり、米国は1998年当時の日本と同じ状況、金利を上下させる通常の金融政策が効かない「流動性の罠(わな)」に陥っているのだ。
私は98年、日本銀行に対して、政策目標とする物価上昇率を示す「インフレ目標」政策を採用すべきだと指摘したが、この議論も再び活発になってきた。
達成できると、国民に信じてもらうのは難しいが、現在の米国で実際に効果を発揮させるには「向こう10年間、物価を年4%ずつ上昇させる」くらいのインフレ目標が必要だ。
インフレターゲットは導入すべきでない
多くの国の中央銀行が導入しているインフレターゲットを日本も導入するべきだという声が一部にはある。
中央銀行制度は宗教のようなものだ。ほとんどの国の中央銀行が熱烈に報じているいくつかの信条があり、
彼らはそれを確信を持って唱え、その論理の進め方にはまるで判で押したような画一化が見られる。
しかもこれらの信条には往々にして、それを裏付ける科学的証拠がほとんどないのである。そのため、
彼らのご託宣はえてして間違っており、彼らの政策は予想された結果や望ましい結果をもたらさないことが多い。
私はマクロ経済問題、貿易、国際金融、産業政策、独禁政策、公共部門のスト権の問題等々、応用経済学の様々な分野に関心を持ってきた。器用貧乏と揶揄された事もある。
金融政策も私が長年にわたって関心を持ち続けた問題のひとつである。私は日銀のエコノミストたちと真っ向から対立して論争した事が何回かあった。
1回目は1960年代前半の吉野俊彦氏との論争である。当時の私はマクロ経済と国際金融関係は万事ケインズ的に考えていた。他方、吉野氏は金本位制主義だった。J・M・ケインズにとって、金本位制は「大嫌いなもの(bête norie)」だったが、吉野氏にとりケインズとケインズ経済学は”bête norie”だった。生意気な若造であった私を相手に議論に応じてくれた吉野氏に、私は深く感謝している。しかし、基本的な経済哲学が違っていた。
2回目は「73-74年の大インフレーションは日銀が起こした」と言う趣旨の76年の論文で金融政策を厳しく批判した。当時の日銀幹部が田中角栄首相の「日本列島改造論」に遠慮して金融引き締めが遅れ、マネーサプライが膨張して石油危機以前に大インフレが始まったと私は論じた。
3回目は77年以降の私に対する外山茂理事(当時)の厳しい批判と、私の反論である。「日銀派」を代表する外山氏は欧米の標準的な金融理論以前の古い考え方で、手品のように恒等式から様々な結論を導くが、私にはその論理がわからなかった。
80年代後半から90年代初めにかけての「バブル」現象についても、日米経済摩擦の下で日本の黒字をさらに増やす恐れのある金融引き締めを日銀がためらった事が一因であると私は考えた。
しかし政治・行政からの独立性を大幅に強化した新日銀法が98年に施行された後の日銀の金融政策は、「100点満点に近い」と私は述べた。
これに対し、今度はかなりの人数の経済学者が反発した。要するに「もっと早くゼロ金利にしろ」とか「為替介入の効果を『不胎化政策』で減殺するな」という主張だ。私が大学院で指導し共著もある岩田規久男さんや、かつての東大の同僚の浜田宏一さんが一番厳しかった。ゼミOBの山本幸三衆議院議員も日銀叩きで名を馳せてきた。
私はあまりにも「日銀バッシング」がひどいと感じ、白川方明さん(当時日銀企画室審議役)と相談して八代尚弘さん(同日本経済研究センター理事長)にお願いして、討論の場を設定してもらった。論争は「金融政策論議の争点」という本になった。同書には小宮ゼミ仲間が日銀批判と反論の両方に何人も登場した。
日銀の政策委員会や支店長会議の写真で、小宮OBの白川総裁と大学院で教え「現代国際金融論」の共著者でもある須田美矢子委員の二人のお姿並んでいるのを見ると、私は不思議な気持ちになる。
私はいつも始まりは「少数派」であり、今もその気持ちは変わらない。しかし、しばらく前にマル経の若い人に「小宮さんこそ多数派でしょう」と言われて驚いた。「多数派」と言われるという事は、もうあまり斬新な意見を述べる舞台には登場しないと言う事で、現役ではなくなったわけであろう。(日本学士院会員)
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/a66f95a179f2ecd32030aa8e51a401ac
金利というのはお金の値段だから、金利がゼロということは、通貨供給が需要を絶対的に超過していることを示す。(中略)日銀が「通貨を拡張」しても、もはや供給が制約条件ではないので、民間に流通する資金量は変わらず、供給された通貨は「ブタ積み」になるだけだ。
制約条件は民間の資金需要(投資需要)なので、それを増やすには投資機会を増やす必要がある。これは日銀の仕事ではなく、中川氏のような政治家の仕事だ。つまり金利が下がりきった現状ではもう日銀の出番はなく、「思い切った改革加速」によって将来の見通しを明るくするしかないのである。
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/87c9f18f491b31cc06e697cba4d87073
デフレの状態で中央銀行がインフレ目標を掲げて「インフレにするぞ」と宣言し、通貨を過剰に供給すればデフレを脱却できるというクルーグマンの提案は、日本の経験では効果がなかった。クルーグマンも明示的に撤回し、バーナンキも実施しない。かつて人為的インフレを「世界標準だ」と称して日銀を罵倒した岩田規久男氏の一派は、過去の言説に責任をとれ。
付録:「あと0.1下げろ」などという批判は、金融実務を理解していない。政策金利は、かつての公定歩合と違って誘導目標なので、実際の金利は0.1%以下になっています。これはFRBが「0??0.25%」としたのと同じことで、要するに「存在する金利の最低限」です。金利が存在するのとしないのでは大きな違いがあり、ゼロ金利の期間にインターバンク市場が消滅したことが、日本の金融システムの機能をそこなった、と山口副総裁は総括しています。
付録:「金利は下がったが通貨供給は増やせる」などという批判も、金融理論を知らない。金利は通貨の価格だから、それがゼロに近づいたということは通貨供給が絶対的に需要を上回ったということであり、それ以上増やしても銀行の日銀口座に「ブタ積み」になるだけ。こういう政策は、金融政策の効果に疑問をもたせて弊害が大きかったというのが、白川総裁の反省です。
白川 方明 (著) ¥ 6,300
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/6ee8453127a32a36c7722e79bcc294f1
「リフレ派の立場は、世界の学界レベルではすでに十分すぎるほどの合意を得られたものなのであって、完全に決着済みなのである」(野口旭)などと称して日銀総裁を罵倒するのは、目に余りました。経済学に「決着済み」の真理なんてない。そんなものがあると思っているのは、昔の学説を受け売りする学説史屋だけです。
補足:念のためいうと、インフレ(抑制)目標は正統的な金融政策です。しかし、これについても資産価格など他の政策目標も見るべきだという批判があり、「完全に決着済み」どころか、日銀もFRBもECBも採用していない。採用しているのは、変動相場制の中でペッグを守りたい小国が多い。
しかしクルーグマンのいうように人為的にインフレを起すのは非正統的な政策で、これは彼自身が認めたように、理論的にも経験的にも破綻した。こんなナンセンスな話をかつぎまわった自称エコノミスト、翻訳家、『経済セミナー』を初めとするB級経済誌は反省してほしいものです。
ドルを印刷するだけでインフレになるのなら、アメリカのデフレはとっくに終わっているだろう。シニョレッジについては、たとえば高橋洋一氏はこう書く
貨幣部門の超過供給は、広義の政府部門(政府と日銀)の通貨発行益(シニョレッジ)を生み、それが非貨幣部門の超過需要となっています。
これが普通の理解だ。シニョレッジは別に基軸通貨に固有のものではなく、すべての通貨に発生する。したがって、この誤解をもとに展開される「ドル覇権の終焉」についてのありがちな話も、すべてナンセンスである。ドルの価値と「覇権」には何の関係もない。むしろドルが下がれば、アメリカ企業の国際競争力が強まって成長率は上がるのだ。
「総裁、私は量的緩和を拡大すべきではないと思います。効果が見込めません」
2003年秋、日銀総裁室。金融製作担当理事の白川方明が、総裁の福井俊彦にそう直言すると、居合わせた数人の幹部に緊張が走った。「量的緩和に一定の効果はある」。福井は首を縦に振らなかった。
量的緩和政策は、01年、福井の前任の総裁速水優の時代に導入された。金利を目標に政策を行うのではなく、民間銀行が日銀の当座預金に置いている「資金量」を目標にする政策に切り替えたのだ。
(中略)
白川も量的緩和に全く効果がないと思っていたわけではない。市場に潤沢に資金が供給されることで、市場に安心感は広がる。しばらく金利引き上げがないと言う判断から長期金利が下がる効果も見込んでいた。
ただ、01年以降の結果を分析したところ、量的緩和の拡大が直接、株価を上昇させたり、経済の需要を増したりする効果は乏しいと判断した。
「福井総裁は『多少でも効果がるなら、あるといって続けたほうが経済にとってよい』と言う考え。白川理事は『効果が大して期待できないなら、効果があると言い張るのはごまかしに近い』と思う。2人の哲学の違いだった」
http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2006/03/4_0a85.html
クルーグマンが提案したのが、中央銀行が民間に「今は何も出来ないけど、放っといてもいつか景気が回復して金利がゼロで無くなる日が来る。だから、そのときに必要の無い利下げをやってインフレを起こすよ。」と約束すべきだ、というものだ。もしこの約束を民間が信じるなら、将来のインフレを予想した民間は期待インフレ率を引き上げる。そして、期待インフレ率の上昇は今の「実際の」インフレ率の上昇に繋がり、見事デフレから脱出できるはず、というわけだ。
約束するのは簡単でもそれを信じてもらうことは百倍難しい。
いざその「将来」が来たところで、日銀には積極的に約束を果たす動機は全く無い。むしろ、とりあえず今約束だけしておいて、民間が信じたところで(期待インフレ率上昇→デフレ脱出)約束を反故にするのが一番いいということになる。
そして、民間は当然のことながらこんな日銀の約束を信じない。信じられない約束が期待インフレ率に影響を与えることも無い。結局、この日銀の空手形は完全に不発に終わることになる。ちなみに、クルーグマン自身も当然そのことは認識しており、論文では民間が日銀を信じない可能性(=日銀がコミットメントできない)についても何度か言及されている。ただ、筆者の知る限りこの部分の記述は都合よく、かつ丁重に無視されることが多かったように思うが。
「だったら日銀が約束を守らざるを得ないような仕組みを作ればいいじゃん」と思った方もおられるだろう。
(中略)
誰でも約束を守りたくなるくらい罰則を厳しくすればいい、と思う人もいるかもしれない。まぁ、ターゲットを守れなければ打ち首、だったら皆必死で約束を守ろうとするだろう。ただし、処罰が厳しくなると今度は総裁を引き受ける人間がいなくなる。それなりに有能な人間を雇うことが出来、その人間に約束を守らせることが出来るような絶妙な処罰メカニズムが存在する可能性はかなり低い。だからこそ、インフレターゲットの処罰メカニズムの大家であるカール・ウォルシュ(カリフォルニア大教授)自身が、処罰メカニズムは”useful fiction”に過ぎないと書いているのだ。
一番現実味があるのが「日銀総裁をインフレOKな人間にすげ替えてしまう」こと。例えば、今日銀は「日本のインフレ率は1%が適正」と信じていたとする。彼らが「将来3%までインフレ率を高めます」と言ったところで、その約束には全く信頼性が無い。しかし、ここで「インフレ率は3%くらいが適正だ!」と信じる総裁が着任したら、日銀は放っておいても嬉々として3%のインフレ率を達成しようとするはずだ。これならば日銀の約束は民間に受け入れられる。
この方法の問題は、候補者が信じる「適正インフレ率」は本人にしか分からないということ。福井総裁にしたって当初はこれほどのインフレ馬鹿だとは思われていなかったわけだし。
http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2006/03/3_f611.html
インフレターゲットは「中央銀行が失業率を改善させるために、物価抑制をないがしろにするのでは?」
では、この逆、デフレバイアスとでも呼ぶべき疑心暗鬼は存在するのだろうか?
これはありえない。昨今の日銀の言動は好意的な解釈がほとんど不可能な代物だが、
その結果デフレが進行してもしょうがないと思っている」
などと民間が信じるほどにトチ狂っているわけでもあるまい。
残念ながらこの信頼性はネガティブな代物なのだが