2024-05-16

例えば今私がここへ立ってむずかしい顔をして諸君を眼下に見て何か話をしている最中に何かの拍子で、卑陋な御話ではあるが、大きな放屁をするとする。

そうすると諸君は笑うだろうか、怒るだろうか。

そこが問題なのである。と云うといかにも人を馬鹿にしたような申し分であるが、私は諸君が笑うか怒るかでこの事件二様解釈できると思う。

まず私の考では相手諸君のごとき日本人なら笑うだろうと思う。

もっとも実際やってみなければ分らない話だからどっちでも構わんようなものだけれども、どうも諸君なら笑いそうである

これに反して相手西洋人だと怒りそうである

どうしてこう云う結果の相違を来すかというと、それは同じ行為に対する見方が違うからだと言わなければならない。

すなわち西洋人相手場合には私の卑陋のふるまいを一図に徳義的に解釈して不徳義――何も不徳義と云うほどの事もないでしょうが

とにかく礼を失していると見て、その方面から怒るかも知れません。

ところが日本人だと存外単純に見做して、徳義的の批判を下す前にまず滑稽を感じて噴き出すだろうと思うのです。

のしかつめらしい態度と堂々たる演題とに心を傾けて、ある程度まで厳粛の気分を未来に延長しようという予期のある矢先へ、

突然人前では憚るべき異な音を立てられたのでその矛盾の刺激に堪えないからです。

この笑う刹那には倫理上の観念は毫も頭を擡げる余地見出し得ない訳ですから

たとい道徳的批判を下すべき分子が混入してくる事件についても、これを徳義的に解釈しないで、

徳義とはまるで関係のない滑稽とのみ見る事もできるものだと云う例証になります

文芸道徳 夏目漱石

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