2024-05-06

持っていないものを「奪われた」と感じる。

この世界は公正であるべきだ

善い行いをすれば良いことがあり、悪い行いをすればバチが当たる。

努力をするだけ結果に繋がる。

そういった考えを「公正世界仮説」、それに準じることを「公正世界信念」などといったりするらしい。

しかし、実際のところ、世界は公正ではない。

善い行いをし続けた者が理不尽に死んだり、悪い行いした人が悠々と生きていることも珍しくない。

努力が結果に繋がるとは限らない。

実際、そんなことくらい分かっている。

しかし、そんなことを承知の上で、漠然と「公正世界であってほしい」とも思っている。

まり広義的な「ゆる~い公正世界への信仰」に覆われている状態なわけだ。

なぜ自分は持っていないのか

問題は、これが「あいつは持っているのに、なぜ自分は持っていない」といった感覚を生みやすいこと。

相対的剥奪感なんていうらしいが、社会学を語りたいわけではないので名称はどうでもいい)

さて、先ほど、世界は公正ではないものの「ゆる~い公正世界への信仰」があると書いた。

この信仰によって「あいつが持っているのだから自分も持っているべきだ」と考えが出てくる。

或いは「自分が持っていないのだからあいつも持っているべきではない」と。

しか実態はそうじゃないから「奪われた」と感じるわけだ。

実際に奪われたわけではないし、もとから自分の物というわけでもないのに。

どう咀嚼していくか

では、どうやってこの妄執を解消していくか。

ひとつは、何とかして自分もそれを手に入れる。

一見すると穏当だが、この手段が極度に達すると本当に「他人から奪うことで手に入れる」ことになる。

そもそも自分も持っているべきだ」という前提があるため、必要以上の、特別措置をとりたくないわけだ。

ふたつめは、それを持っている人から取り上げること。

これも実質的に「他人から奪った」形にはなっているが、自分がそれを手に入れるかは重要ではない。

あくまで「自分が持っていないのだからあいつも持っているべきではない」という考えのもと取り上げるからだ。

みっつめは、「何らかの真っ当な要因によって自分は持っていない(あいつは持っている)」と脳内保管することだ。

自己完結的な方法なので、最も穏当な方法ではある。

しかし、これは公正世界の非現実性、そのギャップを埋めるためにやっている時点で破綻している。

まり、この脳内補完も現実に則していないため、どこかで無理が生じやすい。

その“無理”が積み重なって自分一人で処理しきれなくなると、今度は“外”に干渉することによって解消しようとする。

前提を変える

そもそも世界は公正じゃないのに「世界は公正であってほしい」と思うことがバグの原因だ。

しかも、この「公正世界」は自分ミクロ的な視点、つまるところ「小規模な世界」に押し込められているのが実情である

公正な世界なんてものが実現可能であったとして、それが「自分の望む世界」かは別の話、ということだ。

ならば「世界は公正であってほしい」という考えそのものを変えるしかない。

それが不服なら世界を変えるしかないが、そこまでして自分を公正公明だと思い込むのは難しい。

  • アンタだけの思い込みをさも相互理解ができている常識みたいにいうのはやめな

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