2024-04-22

歴史的な収蔵物の保存と、若者文化の発展はバーターだということを忘れてはいけない

収蔵物が博物館キャパティを超えて保存され、その扱いに困っているという新聞社Web記事を見ていて、改めてそう思った。

昔、「正しい日本語」という概念流行り、それが何なのかという議論が多数交わされたが、それらは結局のところ、世代対立に過ぎなかった。

そして、この収蔵物もそうなのだと思う。

若者でない世代が、自分たち大事だと感じる資料を、「歴史的」というあたか価値のありそうな形容詞で装飾して、

キャパティ無視してでも、それに親しむものよりは若者だろう管理者に、たくさん押しつけようとした結果に見える。

どちらかいえば老人世代に近い自分だが、個人的には、キャパティを超えた分はすっぱりと処分すべきに思う。

若者もきっと、歴史的呼称した老人世代の未練に興味はないのだ。私たち世代のもの私たち世代で諦めるしかない。

そもそも、収蔵物の保存にはコストがかかるので、若者文化の発展はその分遅れてしまうし、

歴史的事物の保存という行為自体も、若者文化の発展には抑圧的に働くので、収蔵物の保存というのは若者たちに本質的に好まれない。

そして、誰も明言しないが、歴史的資料は「古いものは尊ぶべきだ」という価値観を無言で内包している。

歴史的資料は「文化『財』」という名称で、あたか自然財産然としているが、その実は若者にとってコストというか、若者文化を発露する際の重荷でしかない。

そして、歴史的資料は「歴史」という教科となって、あたかも覚えるべき知識であるかのように振る舞い、若者キャパティまで削ってしまう。

個人的には、若者認知未来に向かって注がれるべきと思われ、合理的でも道徳的でもない偶然の連なりである歴史」などに充てられるべきではないように感じる。

そもそもなんで、偶然でしかない、未来に決して通用することもない老人たちの教訓を、若者たちに記憶させないといけないのか。

そういった保守的歴史のがんじがらめが、地元流れる人間関係の重さと相まって、若者たちを都心部に押し出す格好になっている気がする。

すると文化財は、その費用からもその思想からも、若者たちを都市部に押し出すのを助けてしまっているとさえ思えてしまう。

掘れば遺跡が出てしまい、その保存で開発が全く進まない「文化財」だらけの地方自治体に、どんな若者が残り続けたいと思うのか。

思春期の子供が両親に反抗するように、若者たちはきっと、古い文化象徴である歴史的資料など捨てたい、

その保存コストを、古い文化の代わりに自分たち享受したいと思っているはずなのだ

まりは、歴史的資料は非明示的ながら、そしておそらく無意図的ながら、古い者たちの権力となってしまっていると思うのだ。

から一部の人たちにとっては無意識的に、歴史的資料コストをかけてでも博物館占有していないといけないのだろう。

でも、歴史的資料をとるか、若者主体文化としていくかは択一であり、どちらが本当に重要かってことを、今一度考えてほしいと、この老いぼれはひそかに思う。

偉い学者が、日本人口回復のためには、面倒みるべき親を早く捨てろと言ったらしく、それは耳が痛いことでもあるが、

同様に、若者文化の隆盛のためには、キャパティを越えてまでも保存され続ける「歴史」は捨てるべきではないのかと、

老いたる人々には若者未来のために考えてほしいと思う。若者迷惑をかけないでおきたく思う。

  • 維新のように文化を大切にしない若者が増えた

  • なんか発想が貧乏くさいな 日本は本当に貧しい国になったんだな 経済的にという以上に精神的に貧しい

  • 元記事は、博物館側に同意するコメントが多かったな。 いくら歴史が重要とはいっても、無い袖は振れまい。

  • 親を敬う必要はない、地元にとどまる必要はない、日本の伝統とかどうでもいいし国が嫌なら出て行っていい そういう思想をまき散らすとこまでは結構なんだけど 「ブンカのニオイのす...

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