2024-04-15

死刑効果

ニュースを見て。

昔は執行するよって前日に告知してたら死刑囚自殺されたそうで、

その反省から今は1~2時間前に告知するようになっているらしいです。

へー、人間ってそういう感じなんですね。

そして今、1~2時間前の告知は「不必要残酷」だからもっと前に告知すべしという訴訟が起こされてるのだとか。

でも逆に、事前告知が自ら死を選ぶほどの恐怖を与えたと考えたら、

ある意味死刑のものよりも前日に告知するほうがシビアなのでは?

という気もしないでもないんですが。

恐怖を与えるというより、恐怖を醸成する時間を与える、というか。

なにをもって人道的とするか、ですよね。

死刑囚毎日のように執行の恐怖に怯えているとはいえど、

それが何日も何年も続けばやがて日常になり、

執行はとりあえず今ではない。まだ先のことだ」と思い込むようになることで

自我を保てている部分もあるんじゃないでしょうか?

から執行は直前に告知されるものだとあらかじめ知らされていたほうが、

ある種のあきらめによって執行までの日々を「比較的人道的」に過ごせるのでは?

しろそんな精神状態から「1日」も死に向き合うのは単純にキツそうじゃありませんか?

などと思ってみたり。

たとえば、「毎日0.01%くらいの確率執行するかどうかの判定が自動で行われる」とか、

ランダム要素を事前告知してたらどうなるんでしょう?

実質的には現行の死刑制度も同じようなものですが。

その判定を機械やらせて、当たり(?)が出たらゴハン24時間後くらいに効果が出て、瞬時に死ぬような薬が入るようになるだとかしたら?

死刑囚ゴハンを食べなくなって死にますかね?

それとも飢餓に耐えかねて、毒入りかもしれないゴハンを恐る恐る食べて、やがてそれが日常になるんでしょうか?

日常を生きて、ある日パタリと死ぬ

そっちのほうがいいという死刑囚もいるのではないでしょうか?

そもそも宗教者による最後説教をうけて絞首台にのぼりボタンを押されて死ぬというような

からさまなクライマックスを用意するのがなぜか当然とされています

もともとレールを外れた死刑囚に、さらに「更生ののぞみが皆無だから死刑」なんて処遇を与えておいて、

なぜかその人に自分と向き合い人道的見地を取り戻すようなことをさせる。

というのはとても矛盾だと思うんですが?

死刑囚でなくても、死に向き合うよりも「なんだかよくわからないけど気付いたら死んでいた」ほうがいいという人は多いのでは?

自分に向き合うようなことが苦手だからこそ死刑になるような行為に手を染めた人間なのだ

しかも、反省は結局無理でした。

から死刑になったのに、この期に及んでなぜ人間らしさを求めるのか。

もう死ぬんだからいいでしょ?これ以上面倒なことはしたくないよ……というのが

そういう死刑囚本音だったりしそうじゃないですか?

そういうやり方を選べるオプションがあったら、

果たしてそれを選ぶ死刑囚はいるのか?

そのやり方は人道的だといえるか?

人道を外れていることを理由に死を与えられる人間に、人道に戻る義務を負わせるのが果たして人道的なのか?

などが気になりますね。

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