日本を代表する世界的指揮者の小澤征爾さんが死去された。ご冥福をお祈りしたい。
だがよく分からないのは、なぜ小澤征爾が世界的に評価されたのか?である。
長年にわたってアメリカの名門オーケストラであるボストン交響楽団のシェフを務め、後に世界三大歌劇場の一つであるヴィーン国立歌劇場の音楽監督に任命されたのだから、欧米で高く評価されていたのは事実だ。
だが小澤征爾の演奏を聴いてもそこには指揮技術の巧みさは感じるが、音楽表現に個性が感じられないのである。音色的に白色に近い透明で、蒸留水のような無味無臭な感じがする。
例えば、クラシック音楽のオーケストラのメイン・レパートリーはまず第一にモーツァルト・ベートーヴェン、ブラームス、ブルックナーといったドイツ・オーストリアの交響曲であり、そこにやや邪道のマーラー(オーストリア)とRシュトラウス(ドイツ)が加わり、その周辺にチャイコフスキー・ムソルグスキー・プロコフィエフ・ショスタコーヴィチなどロシア・ソ連音楽、スメタナ・ドヴォジャークといったチェコ東欧音楽、グリーグ、シベリウスなど北欧音楽、ドビュッシー、ラヴェルなどフランス近代音楽で構成されている。
で、その最もメインのモーツァルト・ベートーヴェン、ブラームス、ブルックナーの交響曲を聴くとき、その素晴らしさを味わうならばワルター、フルトヴェングラー、ベーム、カラヤン、アッバード、ラトルといった指揮者で聴くのが普通だ。日本人指揮者で聴くなら、朝比奈隆や小林研一郎を聴くというのも分かる。
ベートーヴェンやブラームスの交響曲のような最も王道の曲目で、あえて小澤征爾の指揮した音源を聴くという人は、どこがどう良いのかを自分の言葉で説明して欲しい。
「ボストン交響楽団やヴィーン国立歌劇場のシェフに任命されたんだから欧米では高く評価されているんだよ。だから素晴らしいのは間違いない」みたいなのは一切禁止な。それは自分の耳で素晴らしさを認識したんじゃなくて権威の意をかる狐だから。
自分はどんな人にも優しくにこやかに接して、友達のいない人にはあなたが友達になってあげて、人を孤独にしないで、気持ち悪がったり嫌ったり属性を差別してはいけないと小さい頃から教えられてきた。
その結果はどうかというと、幼稚園の頃からクラスにいる障害児のお世話係にさせられ、障害とまではいかないけどヤバい同級生の男に小学校〜大学までストーキングされ(今は私が姿をくらましているが、彼のTwitterには今日も私への思いが綴られている)、近所の誰からも理解を得られない可哀想な女装おじさんには影に連れ込まれそうになったりと散々だった。
さすがに高校卒業する頃には誰にでもにこやかにやさしく接するのは自分の身に危険が及ぶ、まずい、と認識し塩対応を学んだため以降はやばい人間が寄ることはなくなった。
がしかし、親の教育は人間の在り方として間違っているかと言うとそうでは無いとも思う。
子供にはみんな仲良く、人を嫌ったりそういう属性の人だから避けるなどといった差別はいけないよ、と教えるのは正しいだろう。
身体障害ある妹がいること知って「ゴミやんけ!w」と言ってきた職場の先輩。
時間差でやっちまった。
その先輩の結婚式参加して感謝の涙流して、嫁さんも号泣してるの見てもうヤバいってなった。
金取られたのに俺だけ二次会呼ばないとかいう平常運転のことやられたから完全に腹括って、後日先輩の家のゴールデンレトリバーをゴルフクラブで滅多打ちにして殺して普通に逮捕された。
その先輩、未だに全く復讐に来ない。
Reduxか?
表紙に土は付いていたが、中身は無事だった
(まるで大根みたいだろ?)
1人で使うのもあれだし友達と二人で読むことにした。読んでいる内に僕ら、血が海綿体に染まってきちゃってさ、気づいたら棒を擦っていた
出した精液で1ページに雪が積もった
それから数十年たち、背も伸びて伝えたいことも
増えてったある日、エロ書店屋であのエロ本を発見した。すぐさま購入して、中身を見たよ
スタイルはいいが、乗っていた女はみんなブサイク、広告は詐欺ばかり
何もする気が起きない。増田と好き嫌い.comを行ったり来たりする毎日になってきている。
一応カテゴリ上はフリーランスなので仕事しないという選択肢も取れるのだが、放置してると月に2万程度しか入ってこないのよなあ。
飯野賢治は、ゲームクリエイターとして表舞台に積極的に立ってきた人なんだわ。
分裂したら面白いのに
ある程度規模が大きくなってきたゲームは一人で作るのが難しいからどうしても集団制作になる
集団になると関わり合う一人一人の個性は薄れて一人のクリエイターの作品という印象は薄くなる
今時は宮崎作品、庵野作品という意識で大衆は作品を見ているが、
平成の初期ごろまではアニメ監督の名前なんて誰も知らなかったし意識していなかった